部屋紹介

高砂代々

初代高砂写真
本名 山崎 伊之助
生年月日 天保9年11月20日
没年月日 明治33年4月8日(62歳)
出身地 千葉県東金市
初土俵 文久元年七月場所
最高位 前頭筆頭
四股名歴 東海〜松ヶ枝
 〜高見山〜高砂浦五郎
所属部屋 阿武松〜千賀ノ浦
主な弟子 横綱 西ノ海(初代)・小錦
大関 大達・一ノ矢・朝汐(初代)
義理堅い人柄
姫路藩お抱え力士だったが、明治維新後の版籍奉還などの影響でお抱えを解かれ、他の力士が他藩に鞍替えする中、「旧恩を忘れることなく、後日、他の殿様から招かれても応じるべきではない」とこれを糾弾、同じく姫路藩お抱えを解かれた力士達と誓約した。誓約を破った相生松五郎に強く詰め寄って詫び状を書かせて姫路藩への忠義を示した高見山は、酒井忠邦から「相撲取りながら二君にまみえずとは、武士に劣らぬあっぱれ者」と感激され、姫路藩から改めて年75両扶持で抱えられ、酒井候から姫路藩ゆかり、播磨の名勝・高砂の浦から取った「高砂浦五郎」の四股名を与えられた。
高砂改正組
当時の相撲会所は、筆頭・筆脇の絶大な権力に支配され、本場所や巡業の利益金などの収支は不明瞭、番付編成も実力主義には程遠く、年功序列制度が根強く残っており、明治6年12月、力士の待遇改善を相撲会所に迫ったが、12月場所の番付で反旗をひるがえした高砂以下9名を墨で抹消され除名となった。
除名後、名古屋で同志を集め「高砂改正組」を組織して相撲会所に対抗、大阪・京都相撲とも手を組み興行を続けた。
会所復帰から晩年
東京にも本拠を構えたが、東京では相撲会所のみが興行権を持つため、行き詰まりが見えてきた。
その後、後援者や役人などが調停に入り、明治11年5月に会所と和解して年寄・高砂浦五郎として復帰し高砂部屋を創設。
年寄となって、現役時代に果たせなかった改革を徐々に進めて手腕を発揮、16年5月取締となり、力士に収益を分配する制度を制定するなど実権者として君臨した。
しかし、その後は独裁的となり、明治29年1月幕内力士が本場所をボイコットする「中村楼事件」に発展、また病気がちとなり31年1月に取締から退いた。
弟子育成
横綱 西ノ海(初代)・小錦や、大関 大達・一ノ矢・朝汐(初代)をはじめ、多くの幕内力士を育てた。
明治28年六月には、幕内力士の東方18人中12人が高砂部屋力士となっている。
2代高砂写真
本名 今関 宗次郎
生年月日 寛永4年2月10日
没年月日 大正3年7月4日(63歳)
出身地 千葉県山武郡九十九里町
初土俵 明治9年頃 高砂改正組
明治11年六月場所(幕内付出し)
最終場所 明治22年五月場所
最高位 関脇
四股名歴 響矢〜高見山宗五郎
主な弟子 大関 朝潮(二代)
関脇 浪ノ音・高見山
小結 若湊
高砂改正組から東京相撲へ
初代が相撲会所を脱退して、高砂改正組を組織していた時に入門。明治11年6月に相撲会所と和解と共に、高砂の後押しもあり幕内格で響矢宗五郎と名乗り登場。この場所、現在であれば優勝相当の成績を上げ、師匠の面目を立てた。
明治15年一月場所に小結昇進。17年五月場所8日目には、横綱となったばかりの梅ヶ谷を破る殊勲の星を上げ、18年一月場所に関脇昇進。
高砂襲名
明治21年5月に年寄・阿武松緑之助を襲名して二枚鑑札(現役と年寄を兼任)となる。22年五月場所限りで現役を引退し、初代の参謀役として部屋の後進の指導に尽力した。
病身の初代に代わって取締となり、初代没後の明治33年5月から二代目高砂浦五郎を襲名した。
その後
長年にわたり取締を務め、明治42年6月に開館した両国国技館の建設に尽力。それ以後は、別格年寄として後見の立場となった。
3代高砂写真
本名 薦田→坪井 長吉
生年月日 明治12年4月19日
没年月日 昭和36年4月30日(82歳)
出身地 愛媛県西条市
初土俵 明治34年五月場所
最終場所 大正8年五月場所
最高位 大関
四股名歴 朝嵐〜朝汐太郎〜朝潮(二代)
主な弟子 横綱 前田山
大関 太刀光
関脇 高登
遅咲きでの大関
初代朝潮の内弟子となり、朝嵐の名で入幕、後に朝汐→朝潮と改名。
明治42年一月場所から5場所連続して関脇・小結を務め、その後一時低迷したが、大正3年六月場所で横綱 太刀山と大相撲を演じ、胴体に倒れて預かりとなる。
この場所の成績が評価され、場所後に35歳の遅咲きで大関昇進となった。
三代目襲名争い
二代目没後、人望や土俵実績から17代横綱 小錦の二十山が決定していたが、巡業先の福岡で急死してしまい、後継者候補として、大関 朝潮、幕内 綾川、年寄 振分(元関脇 浪ノ音)が名乗りを上げた。
振分はすぐに降りたが、綾川との跡目争いは、一門の親方衆、力士、行司も含めて部屋を真っ二つに割り、裁判沙汰の大騒動になってしまった。
最終的に朝潮が高砂を襲名し二枚鑑札(現役と年寄を兼務)となった。
衰退からの復活
跡目争いに敗れた綾川と振分が、出羽海一門へ離脱したことから、部屋は一気に衰退へ向かってしまう。
しかし、元横綱 太刀山の東関が役員選挙の落選したことで廃業することになり、東関部屋の力士を譲り受けたことによって再び大部屋へとなった。弟子の中には後の大関 太刀光もいた。
突然の廃業
協会で長く取締や理事を務めていたが、昭和17年に名跡と部屋を部屋頭の前田山の譲り、角界から去った。
4代高砂写真
本名 萩森 金松
生年月日 大正3年5月4日
没年月日 昭和46年8月17日(57歳)
出身地 愛媛県八幡浜市
初土俵 昭和4年一月場所
最終場所 昭和24年十月場所
最高位 横綱
幕内優勝 1回
四股名歴 喜木山〜佐田岬〜前田山英五郎
主な弟子 横綱 東富士・朝潮(四代)
大関 前の山
関脇 高見山・富士櫻
小結 富士錦
気性の荒さ
若い衆の頃から、酒を飲んで暴れるなどの騒動を何度も繰り返し、何度か波紋を言い渡されるほどだったが、周囲の人達が奔走し破門を間逃れた。
大病から前田山へ改名
佐田岬の名で十両に昇進するも、稽古中に怪我を負った右腕が悪性の骨髄炎にかかってしまう。
右腕切断も考えるほどの重症だったが、慶應大学病院の前田和三郎博士の幾度にわたる手術によって、奇跡的に回復。その恩義を感じて、四股名を前田山に改名した。
闘将
昭和12年一月場所に入幕して3場所後の13年五月場所には大関昇進とスピード出世。
張り手を交えた突っ張りが得意で、双葉山に対しては闘志を燃やして立ち向かい「闘将」と言われ、昭和16年一月場所では、横綱 双葉山、大関 羽黒山を破り「張り手旋風」を巻き起こした。
大関時代から横綱、突然の引退
大関は9年、在位18場所と長かったが、昭和22年六月場所後に横綱昇進。(大関在位中に高砂を襲名し二枚鑑札となる)
しかし、横綱昇進後は休場が多くなる。そして、昭和24年十月場所を途中休場した際に、後楽園球場で行われたサンフランシスコ・シールズと巨人の試合を観戦した。その時の様子が新聞に載り、問題視され現役を引退した。
弟子育成と海外
横綱 東富士(横綱昇進後に高砂部屋移籍)・朝潮(四代)、大関 前の山、関脇 若前田・高見山、小結 富士錦など多くの幕内力士を育てた。
また、協会きっての外国通としてアメリカ巡業を行い、相撲を海外に紹介した。ハワイから高見山をスカウトするなど外国人力士入門の道を作った。
5代高砂写真
本名 米川 文敏
生年月日 昭和4年11月13日
没年月日 昭和63年10月23日(58歳)
出身地 鹿児島県大島郡徳之島町
初土俵 昭和23年十月場所
最終場所 昭和37年一月場所
最高位 横綱
幕内優勝 5回
四股名歴 米川〜朝潮太郎〜朝汐〜朝潮
主な弟子 大関 朝潮(五代)・小錦
関脇 水戸泉
スピード出世
昭和23年、神戸で仕事をするために徳之島から貨物船で密航して、その後高砂部屋に入門。仁王様を思わせる巨体で、百年に一人の逸材と言われた。その評判通り、初土俵から所用7場所のスピード出世で入幕を果たす。
大阪太郎
昭和27年五月場所に高砂部屋ゆかりの朝潮に改名。その後しばらく低迷するが、2回目の優勝を果たした32年三月場所後に大関昇進、34年三月場所後に横綱に昇進した。
幕内優勝5回のうち、初優勝、大関昇進を決めた2回目を含む4回が三月場所(大阪)で遂げており、「大阪太郎」の異名をとった。
引退後
昭和37年一月場所2日前に引退を表明。一代年寄 朝潮となったが、後に振分を襲名して振分部屋を創設。その後、部屋を閉鎖し高砂部屋に戻り後進の指導に尽力。
昭和46年8月、先代急死により高砂を襲名し部屋を継承した。大関 朝潮(五代)、大関 小錦、関脇 富士櫻(先代時に入門)、関脇 水戸泉などを育てた。
6代高砂写真
本名 渡辺→一宮 章
生年月日 昭和12年3月18日
没年月日 平成15年12月17日(66歳)
出身地 山梨県甲府市
初土俵 昭和28年三月場所
最終場所 昭和43年十一月場所
最高位 小結
幕内優勝 1回
四股名歴 渡辺〜冨士錦〜富士錦
主な弟子 小結 闘牙
平和ちゃん
小学生の頃に相撲を始め、高校には国体に出場するなどの実績を残し、四代目高砂親方に勧誘され入門。温厚な性格から「平和ちゃん」の愛称で知られた。しかし、相撲の取り口は、立ち合いのぶちかましから、突き押しとしゃにむに出る激しいものだった。
平幕優勝と番付運
昭和39年七月場所、西前頭九枚目で平幕優勝(14勝1敗)を果たす。
また、小結で3回勝ち越ししているが(2回は東小結)、番付運に恵まれず関脇に昇進できなかった記録を持つ。
引退後
幕内を59場所勤め、昭和43年十一月場所限りで引退、西岩を襲名。後に尾上に名跡変更し長く審判委員を務めた。
昭和63年10月、先代急死に伴い高砂を襲名し部屋を継承。理事として名古屋場所担当部長を務めた。
7代高砂写真
本名 長岡 末弘
生年月日 昭和30年12月9日
没年月日 令和5年11月2日(67歳)
出身地 高知県室戸市
初土俵 昭和53年三月場所
最終場所 平成元年三月場所
最高位 大関
幕内優勝 1回
四股名歴 長岡〜朝汐太郎〜朝潮
主な弟子 横綱 朝青龍
大関 朝乃山
関脇 朝赤龍
鳴り物入り
近畿大学時代に、2年連続で学生・アマチュア横綱。幕下付出しで入門し、2場所で十両、5場所で入幕を果たす。
強烈なぶちかましからの押しを得意とし、愛嬌のある風貌で「大ちゃん」の愛称で親しまれた。
三賞常連
昭和54年三月場所、朝汐に改名(後に朝潮)。殊勲賞10回、敢闘賞3回、技能賞1回と三賞を多く獲得。また、横綱 北の湖に強く、5連勝を含め通算13勝7敗と大きく勝ち越している。
大関昇進と初優勝
三賞を多く獲得するも、大関にはあと一歩のところで手が届かなかったが、昭和58年三月場所で12勝3敗の成績を上げ念願の大関に昇進。
優勝も、過去3度優勝決定戦に進出するものの、全て敗れていて中々できなかったが、昭和60年三月場所で悲願の優勝を果たした(13勝2敗)。
若松部屋継承と高砂部屋との合併
平成元年三月場所中に現役を引退し、山響を襲名。平成2年3月に先代若松(元関脇 房錦)が体調不良を理由に退職するため若松を襲名、若松部屋を継承した。
平成14年2月、先代高砂定年に伴い高砂部屋と合併し高砂を襲名した。
弟子育成
横綱 朝青龍、大関 朝乃山、関脇 朝赤龍、幕内 朝乃若・朝乃翔、十両 朝乃涛・朝弁慶・朝玉勢など多くの関取を育てた。