過去の日記

令和2年<平成31年・令和元年       

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令和2年1月1日
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます
令和になって初めて迎えるお正月。令和2年は庚子(かのえね)。ネットによると、庚は植物の成長が止まって新たな形に変化しようとする状態で、子も新しい生命が兆し始める状態とある。大相撲界での世代交代を予感させるが、まだ新たな芽が出てくるまでにはいかないのだろうか。何れにせよ、その変革の先頭に立つのが朝乃山になるであろう。部屋の稽古始は3日から。6日に横審総見稽古(一般公開なし)で、12日(日)が初日。
令和2年1月2日
年間最多勝3位は、ダークホース的存在だった朝乃丈。これまでの最高位は5年半前の三段目11枚目で、1勝しか上げられなく、それ以降三段目中位と下位をうろうろしつつ序二段に落ちたこともあった。1年前の初場所三段目下位で負越したものの3月場所から5勝、4勝、5勝、5勝と4場所連続の勝越しで新幕下昇進を33歳にして果たした。史上二位のスロー出世記録。ネガティブな発言は相変わらずだが、「どうでもいいっすよ」と言いながら本場所では緊張するタイプだったのが、緊張せず地力を発揮をできるようになり昇進につながった。今場所も5勝すれば幕下復帰の可能性があり、博多帯(高砂部屋では博多帯は幕下2場所目から)を締めてヒタチを決められる(格好をつけられる)。
令和2年1月3日
令和2年度稽古始め。といっても今日は、5代目と6代目のお墓参りに行くので、四股とぶつかり稽古のみで上がり、頭を直して大型バスで出発。部屋にもどって全員で記念撮影。朝、おたがいに「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」という挨拶を交わし、明日からは初場所に向けての本格的な稽古始め。2020年度高砂部屋の一年がスタートする。
令和2年1月6日
新関脇朝乃山、昨日は元横綱稀勢の里の荒磯親方から声がかかり田子ノ浦部屋へ出稽古。 「20番近くやったすけど1番しか勝てなかったです」(ネットによると16勝1敗)と完敗だったもよう。現役時代に胸を借りたことがあったが、ケガから再起を図っていた頃で、「のびのび取っていて現役の時より強いかったす」と舌を巻いていた。稀勢の里の“相撲力”(すもうぢから)を膚で感じたことは、これからの相撲人生にとって大きなプラスとなることであろう。今後も機会あるたびに続けていってほしいもの。今日は、一般非公開での横綱審議委員会総見稽古。朝乃山、朝玉勢、寺沢が参加。
令和2年1月7日
最近では耳にする機会がめっきり減ったが、“相撲力”(すもうぢから)とは、文字通り、相撲を取るのに役に立つ力こと。単なる腕力や筋力と違い、技術やメンタル要素も含めた総合的な力で、まさに心技体三位(さんみ)一体の力というとますますわかりにくいが、『相撲大辞典』によると、相撲を取るときに全身の動作によって作り出される全体的、統一的な力のこと、とある。運動科学者の高岡英夫氏は、パワーに粗雑なラフパワーと精制度の高いレフパワーがあるとし、レフパワーの代表的なものとして“相撲力”や合気道の“呼吸力”を挙げている。
令和2年1月8日
横綱双葉山は、当時の幕内力士のなかで自他ともに認める非力の代表格で、腕相撲をやらせたら双葉山より強い力士は数多くいたという。ところが相撲を取ると、みんな簡単に投げ捨てられてしまう。著書の中で双葉山は、「いわゆる『腕の力』と『相撲力』とは違ったものです。力士のなかには、腕力の非常に強いものもあるのですが、ただそれだけでは、自分だけいかに力んでみても、相手にはさほど応えない場合があるのです。『相撲力』というのは、下腹と腰から出てくる力ー要するに体ぜんたいから出てくる力で、訓練により、体力の充実にともなって、備わってくるものです」と、記している。朝乃山、昨日から時津風部屋への出稽古。
令和2年1月9日
近年スポーツ界では科学的トレーニングが進化し、筋力はもちろん心肺能力、乳酸値、・・・さまざまな測定値がデータ化されパフォーマンスの向上に役立てている。そういう観点からすると、“相撲力”は、測定のしようがなく非科学的な代物になってしまう。測定できなく客観的なデータが示されないから非科学的になってしまうが、実は現代の科学水準で及ばないほど複雑で高度な概念だから測定できないのだと感じている。複雑なものを目に見えるように分析するのではなく、複雑なものを複雑なまま扱うのが“相撲力”という概念なのだと思う。朝乃山、今日から部屋で調整。
令和2年1月10日
取組編成会議が行われ、初日と2日目の取組が決まる。新関脇朝乃山は、平幕に落ちた御嶽海との対戦。小結までは、前半戦に横綱大関との対戦が組まれるが、関脇になると前半戦は下位との対戦で、後半戦に上位との対戦となる。今朝は、締め込み(本場所用のマワシ)を締めての調整。白鵬に大栄翔、鶴竜に遠藤。明日朝10時から土俵祭。触れ太鼓が初場所の始まりを告げ令和2年の大相撲がはじまる。~初場所やひかへ力士のくみし腕~久保田万太郎
令和2年1月11日
午前10時より国技館土俵にて土俵祭。三役以上の力士は、羽織袴を着て出席することになっており、朝乃山も先場所に引き続き参加。国技館正面玄関には大きな門松が飾られ、初日の日は「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」と新年の挨拶があちららこちらで交わされ、お客さんも和装の方が多く、華やいだ雰囲気がいっぱいの初場所。一般的には7日までが松の内だが、国技館のお正月はあすからはじまる。~初場所のすまねば松の取れぬ町~石川星水女
令和2年1月12日
太鼓の高い音が響く冬空の初日。よく響く高い声の呼び上げで定評のある呼出し利樹之丞、今場所から幕内呼出しに出世。4年ほど前新聞に68歳の方から次のような投稿があった。「あの“栃若時代”に無類の美声の持ち主“呼出し小鉄”がいた。館内に響き渡る透き通った声。観客はせきひとつしない。その緊張感の中で、両力士は土俵に上がるのだった。(中略)そして半世紀以上を経た今、“小鉄”のごとく透る声の呼び出しさんが現れた。“呼出し利樹之丞”である。(中略)よもや“小鉄”のような呼び声を、二度と聞くことなどないと諦めていたのだが、再来してくれた」~呼び出しの高き聲音や小名月~常盤優
朝乃山、御嶽海を破っての白星スタート。
令和2年1月13日
2日目成人の日。高砂部屋では、序二段朝童子と朝東が成人式を迎える年齢。力士の場合は本場所中であり式典に参加することはできないが、部屋で女将さんから成人祝いのプレゼントをいただく(三段目だと雪駄、序二段は下駄)。朝乃山2連勝、朝玉勢に初日。
令和2年1月14日
大正5年1月場所は14日が初日。前日13日に夏目漱石が推理作家物集芳子宛てに次のような手紙を書いている。「明日から国技館で相撲が始まります。私は友達の桟敷で十日間此春場所の相撲を見せてもらふ約束をしました。みんなが変な顔をしてそんなに好きか と訊きます。相撲ばかりぢやありません。私は大抵のものが好きなんです」漱石が贔屓にしていたのは横綱太刀山だそうだが、この場所は休場で残念がっていたであろう。~相撲取の屈託顔や午(ひる)の雨~漱石
朝乃山、会心の相撲で3連勝。明日は阿炎戦。朝玉勢2勝目。村田2連勝。
令和2年1月15日
昭和14年1月場所は、今年と同じく15日が4日目。この日が相撲史に残る双葉山70連勝成らざるの日。国技館は大鉄傘を揺るがす大興奮に包まれたが、負けた双葉山の態度は平素と変わりなかった。勝ち続けているときも同様で、12年5月玉錦を破った晩に同席した『宮本武蔵』を執筆中の吉川英治は、熱気と喧騒に包まれる中静かに酒を嗜む双葉山の姿に感銘を受け一句したためた。~江戸中で一人さみしき勝相撲~
幕下以下13人も土俵に上がったのに勝ったのは朝ノ島と朝乃土佐の不戦勝の2勝のみ。こういう日もたまにはある。朝玉勢、動きよく3勝目。朝乃山に土。
令和2年1月16日
双葉山70連勝ならずの報は、日本国中を大きく揺るがせ新聞の号外も出た。安芸ノ海の左外掛けが決まったのだが、どの新聞も決まり手を右外掛けと間違えた。双葉山は掛けられた右足を跳ね上げ右から下手投げを打ったため、安芸ノ海の体は大きく飛び、双葉山は左肩からどっと落ちた。落ちた体勢を見ると右外掛けで倒れたように見え、相撲観戦歴数十年のベテラン記者も全員間違えた。それほど驚天動地のことであった。当時はVTRもデジカメもない時代、現像して焼きあがってきた写真を見ると左の外掛けである。記者連中は言葉を失った。その中で相撲記者重鎮の彦山光三が言い放った。~写真必ずしも真ならず~
朝乃山3勝2敗となって明日から中盤戦。
令和2年1月17日
1月場所が初場所と呼ばれるようになったのは昭和28年からで、それ以前は春場所と呼ばれていた。それまで10月頃秋場所として行われていた大阪場所を三月に開催することにして春場所としたため、1月場所が初場所になった。江戸勧進相撲の頃は、1月春場所と10月秋場所が晴天10日間で興行されていたので有名な川柳が生まれた。~一年を二十日で暮らすいい男~
朝乃山、朝玉勢共に勝って4勝目。三段目村田3連勝。
令和2年1月18日
近畿大学相撲部の伊東監督が亡くなられた。朝乃山と朝玉勢の恩師であり、師匠の後輩であり若松親方の先輩にあたり部屋とも付き合いが深く長い監督で、驚きと無念極まりない。監督として大相撲の世界に教え子を大勢送り込んだ指導力はもちろん、小さな体ながらアマチュア横綱を勝ち取った居反りの大技は今でも強烈に印象に残っている。まだ55歳という若さで、これからの朝乃山や朝玉勢の出世を楽しみにしていたであろうに。ご冥福をお祈りいたします。
令和2年1月21日
関取復帰を目指す幕下6枚目の朝弁慶、中日の相撲で勝ったものの足を痛め休場。明日から再出場して勝越し目指す。朝乃山の付人頭を務める幕下49枚目の朝鬼神、高熱のため本日休場不戦敗。3連敗中だった十両朝玉勢はしぶとく粘り、最後は思い切りよくとったりで決め、星を五分に戻す。朝乃山、不覚をとって4敗目。優勝争いから後退。10日目を終え勝越し未だ出ず、負け越し6力士。明日から後半戦、残り5日間。
令和2年1月24日
関脇朝乃山、勝越し。あと2日ともに白星を重ねれば2ケタ10勝に届く。十両12枚目朝玉勢は7敗目と剣ヶ峰、残り2日間に勝負をかける。13日目を終えて、勝越し4人、負け越し11人、勝越し可能性ありの力士5人。
令和2年2月1日
今日から2月。「一月往(い)ぬる 二月逃げる 三月去る」というそうだが、まことに早い。2月は、今日が豪風引退相撲で9日(日)大相撲トーナメント(パンフレットは朝乃山特集)、11日(火・祝)は福祉大相撲と花相撲がつづき、豆まきや健康診断、献血等もあり、またたく間に過ぎてしまう。さらに今年は研修会(4日~7日)もあり、何かと追われるような日々がつづく。という間に、16日(日)には大阪先発隊が出発。ほんとうに逃げるように過ぎてしまいそう。すぐに3月春場所を迎えることになる。
令和2年2月2日
久保田万太郎は、明治22年浅草田原町の生まれで、小説や戯曲、俳人としても高名である。生まれ育った浅草下町の義理と人情を愛し、相撲も好んだ。相撲は秋の季語だが、昭和28年、それまで秋に行われていた大阪場所を3月に春場所として行うことになったため、東京の一月場所を初場所と呼ぶようになり、以来「初場所」は新年・新春を表す季語となった。万太郎がさっそく「ことしより“初場所”というものはじまる 二句」として詠んだのが、~初場所にとゞきし梅のたよりかな~  ~初場所やかの伊之助の白き髭~
令和2年2月3日
19代伊之助(現伊之助は41代)は謹直ながら愛嬌があり、“ひげの伊之助”と人気があった。その名を一躍有名にしたのが、昭和33年9月場所初日の北の洋と横綱栃錦の一番。北の洋が出足よく寄るのを土俵際で栃錦が突き落とし、伊之助の軍配は栃錦に。すぐに物言いがつき行司差し違えの判定。これに対し伊之助は、「北の洋の肘が早かった」と自慢の白ひげを震わせ、激昂して猛抗議。審判長が「いい加減にしろ」と諌めるものの抗議は13分にも及び、伊之助は翌日から出場停止処分。ところが、翌日の新聞写真では確かに北の洋の肘が早く、「伊之助涙の抗議」と同情を集めたという。そのとき万太郎が詠んだのが、~正直にものいひて秋深きかな~
節分会。師匠と朝乃山、朝玉勢は鎌倉長谷寺へ。その後師匠は、下妻大宝八幡宮へも。
令和2年2月4日
酒はよく飲んだものの意外と無趣味だったという万太郎は、相撲見物にはよく足を運んだ。昭和28年は、まだ鎌倉材木座に住んでいた頃だが、東京場所には初場所、夏場所、秋場所と通い、夏場所NHKの大相撲中継がはじまったときにはゲストとして招かれたそう。そのとき詠んだのが、~夏場所や土俵いのちの名寄岩~夏場所やもとよりわざのすくひ投げ~夏場所やけふも溜りに半四郎~夏場所の土俵灯れりすでにして~夏場所とより五月場所風薫る~
令和2年2月5日
昭和21年秋場所は、「メモリアルホール」と改称された国技館で開催された。千秋楽の翌日11月19日双葉山の引退相撲が行われ、本場所以上の超満員の観客が双葉山最後の土俵入りに涙した。その後紋付きに着替え、師匠立浪と並んで土俵上で挨拶したあと、土俵上にゴザが敷かれ正座して断髪式がおこなわれた。東の土俵下からそれを見上げていた万太郎は、色紙と筆を取り、独特の小さな字で一気に書き上げたという。~一生に二度と来ぬ日の小春けふ~
令和2年2月6日
小島貞二著『本日晴天興行なり』によると、国技館の土俵で引退相撲と断髪式を同時に行ったのは双葉山がはじめてだという。明治の角聖常陸山は引退相撲を4日間国技館で行いマゲは出羽海部屋で切り、同じく梅ヶ谷も3日間の引退相撲のあと雷部屋でマゲを切った。引退相撲はファンに対する感謝のイベントで、断髪式は儀式、両立させるべきではないというしきたりがあったという。国技館以外(後楽園球場や靖国神社相撲場)で引退相撲をする場合に限り、土俵上での断髪式が行われたという。豆まきや健康診断があり、今日から稽古始め。取材記者多数。
令和2年2月7日
双葉山引退相撲の翌日昭和21年11月20日、関脇笠置山の断髪式は早稲田大学大隈講堂で行われた。笠置山は、奈良郡山中学で柔道で鳴らし、スカウトされて昭和3年に出羽海部屋入門。部屋から早稲田中学、早大第一高校と通い、早稲田大学でも相撲部で活躍。、卒業後にプロ入りの予定であったが、春秋園事件で7年2月に幕下附出しでデビュー。8年3月大学卒業時には十両力士として大銀杏姿で卒業式に臨んだという。日刊スポーツのちゃんこ鍋特集で富山の食材を使ったちゃんこやおかず。朝乃山の名前が入った大きな蒲鉾や富山の銘酒数々が贈呈される。2月25日の東京版にて掲載予定とのこと。
令和2年2月8日
笠置山断髪式が行われた大隈講堂壇上には土俵がつくられ、栃錦と出羽錦による“初っ切り”も行われた。栃錦が十両筆頭、出羽錦が十両7枚目と幕内を目前にした頃であったが、二人の初っ切りは絶妙のコンビだったらしく、尊敬する兄弟子の為に一肌脱いだ。「二人の最後の初っ切りでした」と出羽錦が語っている。通常ハサミを載せる三方を持つ介添えは行司さんの役目だが、出羽錦は介添えも務めた。断髪式で切り落とされた大銀杏を笠置山は、「マゲはいらない、講堂の窓から散らしてくれ」といい、一句詠んだ。~もとどりの切られる窓に落葉かな~
令和2年2月9日
フジテレビの日本大相撲トーナメント。1977(昭和52)年から開催されている大会で、今年が44回目。第一回目の優勝者は横綱北の湖で、昨年は大関高安が初優勝。大会の模様は16時5分からフジテレビ系列で全国放送(CS放送は14時30分~16時5分)。大会は両国国技館にて行われるが、両国駅西口隣の「江戸NOREN 土俵前エリア」にて富山観光物産展が午前11時から午後7時まで開催されている。富山特産品の販売と併せて『朝乃山コーナー』も設けられているそうです。
令和2年2月10日
関脇笠置山は、引退後年寄秀ノ山として協会の要職に就き、双葉山の時津風理事長の右腕として活躍。決まり手70手の制定や公認相撲規則の条文化も行った。相撲に関する著書も多く、旺文社スポーツ・シリーズ『相撲』、『相撲範典』、『相撲のとり方』、『日本の相撲』等多数ある。以前、大阪高砂部屋宿舎の久成寺のお彼岸法要に来られていた高僧は、奈良郡山中学の後輩だったそうで、中学生の頃から優秀で後輩からも随分慕われていたという話を伺ったこともある。~勝角力両国橋や風かほる~笠置山
令和2年2月11日
訃報。元高稲沢の斉藤悟氏が亡くなりました。愛知県稲沢市の出身で平成9年に入門、平成18年1月場所で引退。引退後は故郷に戻り、介護関係の仕事に従事していた。10年ほど前から体調を崩し透析をつづけながらの生活であったが、名古屋場所の折には時々部屋にも顔を出し、力士を体育館まで送迎してくれたりもしていた。まだ39歳の若さ。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
令和2年2月12日
出羽錦忠雄さんは、引退後NHKの解説者として独特な味のあるユーモア溢れる解説で人気を博したが、現役時代から”いいとこ売り”で有名だった。おなじく“いいとこ売り”の元若松部屋床山のよっさんから、いろいろ,“いいとこ話”を聞かせてもらった。解説中に即興で俳句や川柳も詠んでいたのが懐かしい。~勇退の伯父にはなむけ初賜杯~曙が朝日に変わる九月場所~   毎年2月恒例の力士献血デー。
令和2年2月13日
江戸文政から天保年間に活躍した第7代横綱稲妻雷五郎は人格者として知られ風流も解し佳句を残している。~青柳の風に倒れぬちからかな~あらそわぬ風に柳の相撲かな~ 筋骨逞しく力も強かったそうだが、力に頼らぬ相撲の境地を極めていたことがうかがえる句。雷電と同じ雲州藩お抱えで、~雷電と稲妻雲の抱えなり~という川柳も生まれた。引退後は藩の相撲頭取をつとめ明治10年76歳で没。辞世の句は、~稲妻の去り行く空や秋の風~
令和2年2月14日
小林一茶は信州生まれだが、文化元年(1804)から4年間ほど両国近くの本所相生町(現墨田区緑1丁目)に居を構えていた。あの雷電為右衛門が活躍していた頃(引退が1811年)で、くにもん(同郷)の雷電の取組も目にしたかもしれない。年齢は一茶が4歳上になるのだが交流はなかったのであろうか。その頃に詠んだであろう句が、~うす闇(ぐら)き角力太鼓や角田川~ 草相撲や宮相撲もよく見たようで、~草花をよけて居(すわ)るや勝角力~勝角力虫も踏まずにもどりけり~負角力むりにげたげた笑けり~ 等と、詠んでいる。
令和2年2月15日
雲州松江藩松平不昧公は好角家として知られ、雷電為右衛門や稲妻雷五郎はじめ多くの力士を抱えたが、播州姫路藩の酒井公も相撲好きで知られ、初代高砂浦五郎をお抱えになったお殿様であった。初代高砂は、江戸末期から明治にかけて活躍した千葉県出身の高見山という四股名の力士だったが、ある事件をきっかけに酒井のお殿様から姫路の名所である高砂の浦にあやかった高砂浦五郎という名前を授かった。先発隊大阪入り。
令和2年2月21日
例年より暖かな日がつづき、土俵築やちゃんこ場、部屋のセッティング等も順調にすすみ、先発隊の仕事も一段落。村田、寺沢につづいての入門が決まっていた東洋大学相撲部の深井拓斗(たくと)君が大阪場所宿舎に合流。石川県羽咋(はくい)市出身で昨年の全国学生相撲選手権大会ベスト8の実績があるため三段目附出しデビューとなる。180cm、140kgで突き押し相撲が得意とのこと。
令和2年2月24日
3月大阪場所番付発表。東の関脇2場所目朝乃山への期待は大きく、午後1時からの記者会見には大勢の報道陣。師匠同席で大阪場所へ向けての決意を語る。朝玉勢、東から西への半枚だけ落ちて西十両2枚目。幕下朝弁慶東3枚目、朝興貴17枚目、寺沢32枚目、1年半ぶり幕下復帰の村田は57枚目。序二段朝童子が自己最高位更新の23枚目。
令和2年3月1日
本日の理事会で3月場所の無観客開催が決定いたしました。それに伴いまして、部屋稽古場への報道陣の入場、部屋関係者の稽古見学もご遠慮いただくことになりました(一般の方の稽古見学はもともとご遠慮いただいております)。ご理解とご協力下さります様お願い申し上げます。
令和2年3月5日
無観客開催場所が決定して5日。力士並びに関係者一同、戸惑いはあるが、決められたことにしたがい本場所を務めあげなければならない。2日に行われた師匠会で細かな注意事項が各部屋に伝達され、毎日の体温測定や熱が出た場合の連絡先等が告知されている。土俵祭りは無観客での開催予定、触れ太鼓や本場所中の寄せ太鼓、跳ね太鼓はなし、NHKとAbemaTVの相撲中継はあり、協会ご挨拶、物言いの説明は行い、懸賞もあり。もろもろ明日6日に開催予定の年寄総会と理事会で再確認される。
令和2年3月6日
昭和20年夏場所は、5月23日から明治神宮外苑相撲場で開催予定だったが、空襲で明治神宮も被災し使えなくなった。両国国技館は19年2月に接収され風船爆弾工場になっていたが、3月の大空襲で焼け落ち放置されていたので、幸いにも使えることになり、6月7日国技館で初日となった。とはいっても屋根は穴だらけで晴天7日間、非公開で傷痍軍人のみが招待され、十両以上の取組だけが行われた。幕下以下の取組は役員立合いの元、春日野部屋で行われた。横綱双葉山は初日に出て小結相模川を破り白星。2日目から休場するから、これが現役最後の取組になった。取組編成会議が行われ、初日朝乃山に隠岐の海、貴景勝に高安、大栄翔に鶴竜、白鵬に遠藤。
令和2年3月7日
あす初日を迎える3月大阪場所、無観客開催となりましたが高砂部屋から3人の新弟子が初土俵を踏みます。村田、寺沢につづき東洋大学相撲部から3人目となる深井。石川県羽咋(はくい)市出身で2日目に三段目附出しデビューとなります。前相撲には愛知県一宮市出身の野田改め朝勝令(あさしょうれい)と朝大洞(あさおおぼら)の15歳中学3年生コンビが登場します。
令和2年3月8日
史上初の無観客場所初日。午前8時40分に取り組み開始で序ノ口7番目の取組だった大子錦は普段から観客のほとんどいない土俵で取り慣れているが、「いつもと全然ちがいます」。三段目最後の取組に登場の朝天舞、200kg超の相手を電車道で寄り切り、雄叫びを上げんばかりに体を反らせての気合。こちらは無観客でもいつもと変わらない。取組前は、あまりに「シーン」として違和感があったというが、勝った後は喜びで自分の世界に入り込めるから関係ないとのこと。十両取組途中に行われる初日恒例の協会御挨拶。今回は全幕内力士と審判の親方衆と共に「・・・相撲の持つ力が大地を鎮め、邪悪なものを押さえ込み、人々に感動を与え平安が戻るよう15日間努力する所存・・・」という理事長ご挨拶。まことに千秋楽までの無事を祈るばかり。朝乃山、朝玉勢白星発進。
令和2年3月9日
無観客場所2日目。大阪場所が開催されるエディオンアリーナ大阪(大阪府立体育館)は、他の開催場所よりも狭いのだが、TV画面を通してみてもやけに広く感じられる。初日に比べ館内の静寂と広さに少し慣れた気もするが、寂しさがより増したような気もする。大相撲の面白さは、観客と一体となってつくり出されるのだと改めて痛感する。朝乃山、今日も落ち着いた相撲で2連勝の滑り出し。粛々と自分の相撲をとりきるしかない。三段目附出し深井、初土俵を白星で飾り、前相撲の二人は初白星ならず。
令和2年3月10日
新型コロナウイルス感染症対策として全協会員(力士、親方衆、行司、呼出し等裏方)に起床時と就寝前の体温測定が義務付けられている。3月2日から計測が始まったから今日で9日目だが、意外なのが、思ったより若い力士の体温が低い事である。夏場、近くにいると暑いことこの上ないから平熱が37度を超える力士が多いのではと思っていたが、逆に朝は35度台の力士もいるくらい。行司、呼出しのおじさん連中の方が朝の体温が高めである。最近若い力士に病気やケガが多いのにも関連することかもしれない。無観客3日目。力士達も少5し慣れてきていい相撲が多かったように思える。朝乃山3連勝。
令和2年3月11日
大相撲が興行として行われたのは江戸中期からだから、およそ300年近くにもなる。その間、時代の波に翻弄されるように盛衰を繰り返してきたが、最大の危機だったのが、先の大戦の終戦前後と明治維新の前後だった。時代変革の荒波の中、慶応4年3月勝・西郷による江戸城開城後5月に上野の戦争があったが、6月に回向院で10日間開催。9月8日に明治と改元され榎本武揚が函館五稜郭を占領して政情不安がつづく11月にも回向院で10日間開催している。朝乃山、貫録の4連勝。前相撲の15歳二人に初白星。
令和2年3月12日
“相撲の殿様”として知られる横審初代会長酒井忠正氏の『相撲随筆』には江戸勧進相撲の盛衰について詳しい。江戸で春秋の年2場所が恒例となった宝暦末年頃(1763~4)から慶応4年までの100余年の間、本場所が中止になったのは僅か8回にしかすぎなかった。天明の大飢饉の頃に3回、安政2年の大地震、安政5年の江戸大火の為などの理由による。政情やお上の都合よりも庶民の支持あっての興行だったのであろう。朝乃山、不戦勝での5連勝。明日5連勝同士御嶽海戦。幕下3枚目朝弁慶3連勝。
令和2年3月13日
江戸後期から明治にかけてコレラが大流行して何万人規模での死者を何度か出している。ただし当時は交通網や人の移動が限られていたため、被害はある地域に限定的で、およそ半年くらいで収まりをみせた。そのため、興行差し止めの期間もあったが、年2場所ということもあり、初日をひと月ほど遅らせて開催にこぎつけられた。年6場所且つネットワークが世界的な現代は、より困難な状況になっている。朝乃山に土。三段目朝大門と深井が3連勝。そろって明日給金相撲。前相撲の15歳コンビ朝勝令と朝大洞2勝目を上げ、9日目の2番出世披露が決定。
令和2年3月14日
幕下東3枚目の朝弁慶が4連勝での勝越し。これからの成績次第ではあるが、5枚目以内で勝越し1番乗りで2年ぶりの十両復帰が大いに近づいてきた。体調万全とはいえないが、大きな体を生かした思いきりよく攻める相撲が怪我の予防にもつながっている。三段目附出しの深井、今日も前に出る相撲で4連勝勝越し。朝玉勢も初日以来の白星で2勝目。残り8日間。
令和2年3月15日
師匠にとって大阪は第二の故郷と言える地で、大学生活4年間を過ごし、入門も大関昇進も初優勝も引退も全て大阪場所であった。学生時代から近大相撲部長岡の応援団であった後輩連は、40数年経った今でも学生時代の先輩後輩の関係のまま師匠を部屋を応援してくれている。先発隊や後発隊の新大阪までの車での出迎え、体育館までの送迎、ときに買い出し、食事、・・・師匠はもちろん、力士や裏方まで様々なサポートをしてくれ感謝この上ない。今場所はコロナ騒動でちゃんこの振る舞いも出来ないが、無事15日間務め上げ好成績で応えるしかない。村田、朝鬼神、朝心誠勝、越しまであと一つの3勝目。朝乃山2敗目。
令和2年3月16日
前相撲の朝勝令と朝大洞、二番出世披露。三段目取組途中に土俵上で披露されるから、通常はお客さんもそこそこ入っている中で拍手や「がんばれよ~」という声援に包まれるが、異例の出世披露。もっとも当人達は通常を知らないからよくわからないだろうが・・・。これで来場所から番付に四股名を載せることになる。朝ノ島3人目の勝越しを決めるが、朝乃丈、朝興貴、寺沢と敗れて負越し4人。朝乃山7勝目。
令和2年3月18日
今日から後半戦で残り5日間、ようやくここまで来たという感じ。3月2日以来、朝夕の体温測定が義務付けられ毎日FAXする。報告書は1週間分が1枚になっているから、ようやく最後の3枚目に入り、ゴール間近というところ。体温は起床時と就寝前の一日2回。起床時は稽古場で稽古前に測るから問題ないが、就寝時間はバラバラなので、9時過ぎには既に夢の中の力士も。ただ、そういう力士も上半身裸で寝ているので脇の下に体温計を差し込むと、一瞬びくっとするも相変わらず夢の中。裸族もこういうときには有り難い。朝乃山9勝目。朝弁慶、村田、朝大門5勝目。
令和2年3月19日
朝乃山、2桁10勝目。大関昇進への第一関門突破で、明日からの横綱・大関戦で文句なしの昇進決定といきたいところ。明日が横綱白鵬戦。優勝の可能性も高まってきたので、両方のお祝いの準備をすすめなければならない。異例の無観客場所もいよいよ大詰めで、関取は残り3日間、幕下以下は残り1番。出場20名中、勝越し7名、負越し7名、3勝3敗6名。
令和2年3月20日
今場所最大の見せ場であり最も注目を集めた一番は、横綱白鵬の気迫が上回ったようで3敗目を喫し大関獲りと優勝に向け一休み。これで白鵬戦3連敗だが、かの双葉山が昇進していくときに壁となったのが横綱玉錦で、年2場所時代、初顔から4年間6連敗と全く勝てなかった。それでも正攻法を貫き、7度目の挑戦で初めて玉錦を破り、覇者交代の一番と相撲史に刻まれた。以後は4連勝と一度も負けることなく、玉錦の急死で対戦が終わった。来場所以降も正攻法の挑戦を続け覇者交代を遂げてほしい。
令和2年3月25日
朝乃山の大関昇進が正式に決まり、大阪場所宿舎久成寺(くじょうじ)において大関昇進伝達式。師匠である元大関朝潮が大関昇進の使者迎えたのも全く同じ部屋でのこと。37年の時を経ての再現で、「大関の名に恥じぬよう、相撲を愛し、力士として正義を全うし、一生懸命努力します」と力強く落ち着いて口上を述べた。床の間に飾られた掛け軸は、元横綱朝潮の5代目高砂親方が先代の住職に贈呈した、鏡里、栃錦、若乃花から千代の富士、隆の里、双羽黒まで当時存命していた17名の横綱の貴重な手形。偉大なる先輩横綱達が、「はやくここまで来い」と呼びかけてくれているように思える場面でもあった。
令和2年4月1日
今日から4月。通常なら桜の下での化粧マワシ姿の関取衆が絵になる春巡業やカランコロンと下駄を鳴らして相撲教習所に通う新弟子達が風物詩となる春の訪れだが、春巡業も相撲教習所も中止の為、全員部屋での稽古はじめ。新大関ということで取材も多いが、3月場所同様に代表取材のみの厳戒態勢での稽古がつづく。4月27日(月)が5月場所番付発表の予定だが、日々の感染者拡大のニュースを見るにつけ、状況は厳しさを増すばかり・・・。
令和2年4月3日
緊急理事会が開催され、初日を2週間延期して5月24日(日)からの開催を目指すことが決定。ただし、今後の状況次第で規模縮小や3月場所同様の無観客、更なる悪化では中止の可能性も。協会関係者全員の朝晩の体温測定も本日より再開。7月場所も2週間延期の7月19日(日)初日での開催を目指す。長い辛抱の一年となりそうである。
令和2年4月5日
現在本場所は、基本的に奇数月の第2日曜日が初日で第4日曜日が千秋楽と定まっているが、明治42年6月の国技館開館以前は、屋外での開催であったため、雨で初日が延期になることもあり、10日間が1か月近くに及ぶことも度々であった。明治以降に限っても、休みなしで10日間の場所を終えたのは3場所しかなかったそう。当時の番付表の中央「蒙御免」の下には、必ず「晴天十日之間」という文字が入っていた。それが、明治42年6月からは「晴雨二不関十日間」に変わった。現在は、開催日(令和二年三月八日)より十五日間、とのみ記されている。
令和2年4月6日
電話やSNSはもちろんテレビもラジオもない時代、「相撲が始まります。明日が初日です」というのを知らせる手段は、触れ太鼓しかなかった。初日の前日、触れ太鼓を廻し、晴天つづきだと太鼓はこの一回だけで済んだ。雨で中止になると、翌日の朝、雨が上がっていたら再び明日から(今日ではなく)再開しますと太鼓を廻した。そにため、雨が一日でも中休みは2日間になった。ただ雨上がりが日曜日になると即開場することもあった(風見明『相撲、国技となる』より)。東京に戻っての稽古2週目。先が見えないだけに1週間が長く感じる。
令和2年4月8日
三宅充『大相撲なんでも七傑辞典』には、長くかかった場所が紹介されている。嘉永10年(1798)春場所は芝神明社境内にて3月6日より晴天10日間の予定であったが、雨が続き、初日が3月26日、2日目が4月10日、3日目が5月15日、千秋楽は5月29日と3ヶ月近く要した。西大関雷電為右衛門が8勝1無勝負で優勝したとある。享和3年(1803)春場所は、3月20日より御蔵前八幡宮にての予定だったが、はしか流行で初日が4月6日になり、5日目まで取ったところで力士にもはしかが流行り、6月7日まで中断。8日に触れ太鼓を出し6日目、7日目と行ったが客も来なかったため7日目でしまいとなった。
令和2年4月11日
十両や三役は、番付発表を境に正式な昇進となるが、大関は場所後水曜日の伝達式以降正式に大関と認められるため、それまで「関取」とか「山関(やまぜき)」と呼びかけていたのが、「大関」と呼ぶようになる。江戸時代から明治中期までは、番付の最高位で、明治23年に高砂部屋の初代西ノ海が初めて番付に横綱と記されたが、横綱が大関の上の地位として明文化されたのは明治42年2月のこと。以後、横綱に次ぐ地位となったが、相撲協会の大看板であることには変わりない。
令和2年4月12日
史上初の無観客場所となった令和2年3月場所だったが、番付上でも38年ぶりという珍しい出来事があった。番付は東西を左右に分けて、横綱から順番に記していくが、東は横綱白鵬、大関貴景勝となっているのに対し、西は横綱大関鶴竜と記され横綱鶴竜が大関も兼ねている形。これも大関が番付の最高位だった名残で、横綱は不在(空位)でも構わないが、大関は必ず東西に一人ずついなければならないため、大関が一人しかいない場合は横綱が大関を兼ねる。
令和2年4月13日
関脇までは負け越すと即番付が落ちるが、大関は2場所連続の負け越しでないと番付は下がらない。月給は、関脇時代の180万円が250万円にアップする。国技館への場所入りのときに自家用車で地下駐車場に乗り入れができるのは横綱と大関のみの特権。また、化粧まわしの馬簾(最下部の房)に紫色を使えるのも横綱・大関のみに許されること。支度部屋でも明け荷の前のゴザを大きく広げられ準備運動のスペースも広々とれる。
令和2年4月14日
現在のような縦一枚の番付表が発行されたのは江戸中期の宝暦7年(1757)のことだが、ウィキペディアによると、その番付に載る大関を初代とすると、朝乃山がちょうど250代目になるそう。250人の中には看板大関の60数名も含むから、180数名の中から70名ほどが横綱昇進を果たしていることになる。高砂部屋は、これまでに横綱6人、大関5人を輩出しているから、高砂部屋としての大関昇進は平成14年(2002)の朝青龍以来12人目。富山からは、明治42年(1909)の太刀山以来111年ぶり4人目の大関昇進。
令和2年4月15日
緊急事態宣言から1週間余り。力士も昔ほど出かけなくなっているから日常生活にさほど変化はないが、先の見えない不安にさいなまれる日々がつづく。稽古以外のときは何をしているのですか?とは、普段でもよく聞かれることだが、基本的にゴロゴロしている。ゴロゴロしながらスマホでゲームをしたりユーチューブを見たりするのは今どきの若者と変わらない。もちろん、新弟子の数年間は、ちゃんこのお手伝いや掃除洗濯と追われ、ゴロゴロする時間はあまりないが・・・。
令和2年4月16日
入門した37年前(1983)は、若い衆の暇つぶしは、花札やチンチロリン(サイコロ)、トランプなどが主だった。テレビは大部屋に一台のみでチャンネル権は兄弟子にあった。その後、兄弟子は枕元にテレビを置くようになりテレビを見る時間が増えたが、現代の若い力士はテレビを見るよりもスマホを見る時間が長く、テレビには一切興味を示さない力士も。花札やサイコロは完全に消え、トランプは時々やっている(主に大富豪)。酒を飲みに行く力士は確実に減った。
令和2年4月17日
来月39歳となる花ちゃんこと朝天舞は、トレーニングが趣味といえるほど時間があれば体を動かしている。地下のトレーニングルームで筋トレを行い、近くの公園でランニングし、ストレッチにも熱心に取り組んでいる。ストレッチしながら音楽を聴いたり、歌を口ずさんでもいる(そこそこ熱唱)ので、「お、今日は乗っているね!」と声をかけると、「いや今日はイマイチ伸びと響きがありません」という。 翌日も同じように聞こえるので尋ねると「今日は最高です!」との答え。傍から聞く分には違いが分からないが、余人には計り知れない響きがあるのであろう。
令和2年4月18日
37年前の現師匠の伝達式の写真を見ると、金屏風も赤毛氈もなく、床の間の前にマイクと座布団が置かれているだけである。いつ頃から金屏風や赤毛氈が定型になったのであろう。協会からの使者は元大関清国の伊勢ヶ浜理事と高砂一門から元房錦の若松審判委員。昭和58年3月若松部屋に転がり込んだときの事で、まだ居候の身であったが何となく記憶の片隅に残っている。久成寺の住所表記は、現在は大阪市中央区中寺2丁目だが、当時は大阪市南区中寺町となっている。住所表記にも37年の歳月が感じられる。
令和2年4月19日
伝達式の前日に会場づくり。お祝いムードを高めるため紅白の幕も部屋の壁や廊下に垂らすべく、大阪市で中学校の先生をやっている先輩に聞くと、学校で貸してくれるとのこと。金屏風と赤毛氈はホテルで借りられることになり、ワゴン車でお寺に運び込みセッティングを始めた。準備を始めたところへお寺さんが秘宝の掛け軸を出してくれ、開けてみてビックリ!。17人の横綱の手形が並ぶ超豪華でレアなお宝。その掛け軸をメインにして金屏風を配置することとなった。
令和2年4月20日
伝達式会場の設営を実際に行ったのは、呼出し利樹之丞と邦夫、行司の木村朝之助の3人。金屏風の位置や開き具合、赤毛氈の敷き詰め、床の間の花瓶の位置、乾杯のときのテーブルのセッティング、鯛の手配、後援会の方の控える場所、使者に持たす弁当の手配、・・・それぞれに担当の力士を決め、さらに使者を迎えてからの導線、伝達式のあとの乾杯から記者会見、外での騎馬写真への流れ、何度もシミュレーションを繰り返し当日を迎えた。
令和2年4月21日
当日の朝、掃除して玄関に水をまき、若い衆はちょん髷を結い直して仕着せに着替え、8時過ぎには報道陣も来てカメラのセッティング。通常なら部屋溢れんばかりの混雑になるはずだが、コロナ予防のため代表取材のみで余裕がある。マイクを並べ座る位置を決め、朝乃山は大銀杏を結って紋付袴で使者を待つ。9時ちょっと過ぎ、そろそろ使者が府立体育館を出そうとの連絡が入り、緊張感が走る。若松親方と錦島親方が使者を出迎え、紋付袴姿の出羽海理事と千田川審判委員が入り伝達式が始まった。
令和2年4月22日
記者会見の後、恒例の付人と新大関による騎馬写真。朝鬼神が「俺がセンター!」と張り切っていたのだが、やはりセンターは朝玉勢関にやってもらおうということになり、左右を朝鬼神と寺沢が担当。はじめ本堂の階段を利用して騎馬を試みるが170kg超の新大関は重く、なかなか上がらない。ようやく上がって「よーし!」と喜んだところで、カメラマンから「今のはリハーサルです」との声。「えー!やっと上がったのに・・・」と悲鳴を上げつつも気を取り直して本堂前の平地で組み直す。階段がない分余計に苦労してやっと上がり、3人は鬼の形相。見守る大学OBから「玉木わらえー!」と叱咤され、悲痛な笑顔。後ろの二人は強烈な変顔。かくして騒々しくも喜び溢れる騎馬写真が無事おわった。
令和2年4月23日
伝達式会場の床の間には久成寺秘宝の掛け軸が飾られた。鏡里にはじまって、栃錦、若乃花、朝潮、柏戸、大鵬、栃ノ海、佐田の山、北の富士、琴桜、輪島、北の湖、若乃花(2代目)、三重ノ海、千代の富士、隆の里、双羽黒とつづく17人の横綱の手形。中央には27代庄之助による「無心」の書。まことに豪華で貴重な逸品である。
令和2年4月24日
「無心」の書の27代木村庄之助は。岩手県盛岡市出身で本名熊谷宗吉。昭和11年11歳で立浪部屋に入門し昭和52年51歳で27代庄之助を襲名。定年を迎える平成2年まで実に13年間も庄之助の地位にあった。昭和35年1月からの行司定年制実施以降では最長で今後も破られることはない記録であろう。しかも94歳となった現在もご存命であり、角界関係者の中でも最高齢であろう。
令和2年4月26日
行司の書には、「和」「心」「忍」「寿」等が多いが、「無心」こそ横綱にふさわしい言葉であろう。「無心」で相撲をとるためにひたすら四股を踏み、ひたすらテッポウ柱を叩く。5月場所開催はまだ不透明だが明日が番付発表。明日から朝弁慶が関取に復帰し、朝玉勢は若い衆にもどる。朝弁慶は4階の個室に戻り、朝玉勢は2階の大部屋暮らし。稽古マワシも、朝弁慶が白になり、朝玉勢は黒に戻る。
令和2年4月27日
5月場所番付発表。通常なら朝6時に国技館に取りに行くのだが、今回は各部屋へ宅急便での 配達。午前9時半過ぎに届き、発送作業。西の大関に朝乃山英樹の名。大勢の記者が集まって記者会見とはならず、代表記者による電話取材のみ。写真と協会用のメッセージ動画は村田カメラマンが撮影。朝弁慶、西十両10枚目。朝玉勢、東幕下2枚目。三段目2枚目に朝大門、序ノ口2枚目に神山と二枚目揃いの高砂部屋新番付。
令和2年4月28日
大阪から東京に戻り約1か月。長い1か月であった。例年だと、先週末に土俵を作り直し番付発表を終え、今日から2週間後の初日に向けて気持ちも新たに稽古始めの日だが、先週までと同様の稽古場。その中にあって朝弁慶の白マワシ姿が久しぶりに目に鮮やか。より大きく見える。ちゃんこの時も、朝乃山と並んで座布団に座り御膳を用意して付人(朝興貴、朝大門)がお給仕。状況は厳しそうだが、開催されるとなると初日まであと4週間。これまた長い。
令和2年4月29日
今日は昭和の日。昭和の人間にとっては天皇誕生日という方がわかりやすいであろうが、昭和天皇の相撲好きは語り草となっている。そもそも現在の天皇賜杯が出来たのは、昭和天皇が皇太子だった大正14年4月29日に東宮御所で行われた24歳の誕生日を祝しての台覧相撲による。この日の相撲に対して莫大な金一封が下賜され、そのお金で摂政賜杯を作り優勝力士に授与。天皇に即位後、天皇賜杯となった。賜杯は純銀製で高さ108cm、重さ約30kg。
令和2年4月30日
昭和天皇は学習院初等科の頃、熱心に相撲を取られたそうで、同級生の話によると、本格的な押し相撲であり、なかなかの手取り(業師)でもあったという。そのため技にも詳しく、天覧相撲の折、もつれた勝負に「今のは下手出し投げだね」と説明役の理事長に同意を求め、決まり手係りの行司さんが親方と相談する程難しい決まり手をいち早く言い当てることも度々であったという。天皇としての本場所観戦は昭和30年5月の蔵前国技館が初めてだが、皇孫殿下であった頃、出来たばかりの国技館で弟と一緒に2度台覧している。
令和2年5月2日
5月に入り一足とびに夏がやって来た。通常なら初日を一週間後に控え稽古が熱を帯び、稽古見学のお客さんが連日上がり座敷にいっぱいになりと、力士にとっては稽古後も一番忙しいゴールデンウイーク期間だが、4月同様静かな稽古場。3月場所入門の新弟子3人も、相撲教習所が休みのため、ずっと部屋での四股やすり足の稽古とちゃんこ。例年だと教習所に通っている間は半分お客さん扱いだが、その分早く溶け込んでいるような気もする。
令和2年5月3日
通常だと、番付発表後は千秋楽まで休みなしだが、非常事態宣言中で5月場所の開催もまだ未定のため、稽古休みとなった日曜日。休みの日は9時起きで掃除してあとは自由時間となるが、外出出来ないので、TVを見る者、スマホを見る者、地下でトレーニングをする者と、様々。それでもお昼過ぎ頃になると、ほとんどの力士が眠りについているのは稽古のある日と変わらぬ風景。3時半頃大部屋で歓声が聞こえるので何事かと思ったら天皇賞であった。
令和2年5月4日
相撲部屋の食事は、1日2食。朝飯抜きで稽古を行ない、稽古後午前10時半~12時頃に朝昼兼用の食事を摂り、夕食は午後6時半過ぎ頃。どちらかというと午前中の方がメインで必ず鍋をかけおかずの品数も多い。お昼に比べると夕食は少し軽めでうどんや味噌汁におかず、たまにはカレーやシチューということもある。その分、出かける力士も多かったりするのだが、今回は外食の力士がいないため、いつもより米の減り具合が早いもよう。30kgの袋が3~4日でなくなってしまう。
令和2年5月5日
初日を2週間延期して5月24日(日)からの開催を目指していた5月場所が中止決定。同様に、2週間スライドして7月19日(日)~8月2日(日)開催予定の名古屋場所は、名古屋に行かずに両国国技館での無観客開催を目指すことになった。秋巡業の中止も決定。力士達にとっては、だいたい予想していたことだけに、さほど動揺はないが、終わりが見えないだけに気が重い。時間がたっぷり出来たと思い、自分の相撲や体を見つめ直すいい機会として日々過ごしてほしい。
令和2年5月6日
非常事態宣言以来、稽古見学はもちろん報道陣の取材も一切NGとなり、何かあるときは代表の電話取材のみという状況。カメラマンもNGなので、新大関朝乃山の写真や協会用の動画撮影も部屋で行って送ることになる。担当は、村田。趣味が広く、アンコの割にフットワークが軽く、なんでも器用にこなせる。新大関が玄関前で番付を指さす村田撮影の写真が全国に何度も流れている。その感性の良さを、いつか(はやく!)苦手な四股にも向けてくれることを願いたい。
令和2年5月7日
現在稽古開始は午前7時だが、大関が稽古場に下りてくるのは8時頃。ストレッチで体をほぐし、四股やすり足、テッポウなどで汗を流し、9時半から10時頃に稽古を終えると、稽古場で若い衆としばし談笑。今日は綱引き大会でえらく盛り上がっていた。その後風呂に入り髷を結い直し、ちゃんこ。昼寝して、地下での筋トレや、2階の大部屋でトランプなどと、規則正しくのんびりとした日々を過ごしている。本来なら、毎日大勢の報道陣が稽古場に詰めかけ取材に追われ、午後も挨拶回りや宴席に引っ張りだこと目の回る忙しさのはずだが、体調管理という点では恵まれた環境にある。
令和2年5月8日
2年ぶりに十両復帰の朝弁慶、先場所6勝1敗の大勝ちだったので10枚目まで昇進した。膝の状態は相変わらずで、天気の悪い日は歩くのにも苦労するほどだが、今日はましだったようでいい汗をかいていた。5月場所が中止になり治療期間が延びたと前向きにとらえたい。大きなケガを抱えたまま本場所に上がり続けている分、前に攻めるしかないと開き直れると言い、最近あまり負ける気がしないとも言う。しっかり膝を直して重戦車の馬力を更に上げていきたい。最近太った?と聞かれることが多いが、変わらず199kgらしい。
令和2年5月9日
5月場所中止は残念なことではあるが、ケガをしている力士にとっては治療やリハビリにじっくり取り組めるまたとない機会でもある。3月場所入門の朝大洞、4月に入ってすぐ鎖骨を骨折してしまい手術した。先週あたりからようやく四股を踏めるようになったばかりだから通常通りの5月場所だと休場するしかないが、7月なら間に合いそう。入院して5kg痩せたが、部屋に帰ってくるとすぐ160kgに戻った。15歳のボラ君、布袋様のようなお腹はご利益ありそうで、挨拶代わりによく撫でられている。
令和2年5月10日
今日は風薫る5月場所初日のはずだったが、次の場所の初日まで二か月余りもある母の日の日曜日。稽古は休み。先場所負越して幕下陥落の朝玉勢、4月末から大部屋暮らしがつづいている。陥落したものの2枚目で止まったから勝ち越して早く関取復帰したいところだが、最速9月場所番付発表までお預け状態。長丁場を乗り切るためには地道なことを飽きずに繰り返し行える力が必要だろうが、稽古場でも50kgの砂袋を抱えてのすり足等、寺沢や朝乃丈と共に毎日取り組んでいる。しっかり力を蓄えその日に備えたい。朝乃丈とはトランプもいつも一緒。寝床は離れた。
令和2年5月11日
3月場所入門の朝勝令(本名野田)は一宮市立南部中学柔道部で朝翔の一年後輩。同期入門の朝大洞とは学校は別だが、市の相撲大会で競い合った仲。体にはさほど恵まれないものの何事にも一生懸命取り組んで毎日いい汗を流している。一生懸命なあまり天然ボケも入り、一日に何度かは笑いの神様が舞い降りてくる。「ボラ君」「ノダ君」15歳の凸凹コンビが、平凡な毎日の清涼剤になっている。
令和2年5月12日
非常事態宣言は力士たちにとっても影響が大きい。地方場所から帰ってくると、行きつけの店やお客さんへの挨拶回り等で外食の機会も増え、それが活力になったりもするが、しばらくは叶いそうもない。そんな中、力士生活12年目となる朝興貴はマイペースを貫いている。もともとステイホームなので、非常事態宣言にも動じずいつもと変わらぬ日常を過ごしている。普段の生活とは裏腹な目の覚めるような突っ張りを武器に各段優勝が3回もあり幕下生活も長い。朝弁慶の付人稼業も長く、コンビのような存在でもある。みんながペースを乱す非常事態宣言が朝興貴にとっては吉となるかもしれない。
令和2年5月13日
「ボラ君」「ノダ君」と同期生の「深井君」は石川県羽咋(はくい)市の出身。相撲どころ石川で小学2年生から相撲を始め、金沢市立鳴和中学で中学生横綱、金沢市立工業高を経て東洋大学へと進み、1年生のときに全日本選手権で準優勝と輝かしいアマ相撲での実績を誇る。中学から大学まで(高砂部屋でも)寺沢の2年後輩。高校から大学まで(高砂部屋でも)村田の3年後輩というつながりがある。羽咋からは、幕末初代高砂と共に姫路藩お抱えだった兜山(後の大関雷電震右衛門→雷電為右衛門ではない)がいる。
令和2年5月14日
高田川部屋の勝武士が亡くなったニュースは力士たちにも衝撃を与えている。何年か前に高田川部屋の力士数人で出稽古に来たことがあり、本場所で対戦した力士も何人かいる。とくに朝弁慶は、同期生で一緒にトレーニングをしたこともある仲だそうでショックが大きい。弾丸という四股名を名乗ったこともあり、初っ切りも行っていて若い衆の中でも顔が売れた存在であった。まだ28歳という若さで無念であったろう。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
令和2年5月15日
幕下38枚目の寺沢は新潟県佐渡島の生まれ。小学校を卒業後親元を離れ金沢市内の相撲強豪校鳴和中学へ入学し相撲部で活躍。金沢市立工業高校、東洋大学と相撲の道を歩んできた。四股やテッポウ、すり足等、地道な稽古も厭わず黙々と繰り返す精神力を持つ反面、ときに奇声を発したりトイレで大声で歌ったりする奇抜な面もある。子どもの頃からそういう子だったらしく、病気ではない。個性派ぞろいの朝乃山チーム(他に朝鬼神、朝童子)の一員。
令和2年5月16日
入門24年目となる大ベテラン神山は、横綱鶴竜の付人として顔が売れ、全国的にも知る人ぞ知る存在。本場所や巡業等にも帯同し、部屋にいることよりも横綱といるときの方が長いくらいだが、現在は休業中と寂しい状況が続いている。力士生活が長いだけに、ケガや病気の経験も豊富で老人並みに薬にも詳しい。鎖骨骨折の経験もあるようで、先日朝大洞の鎖骨骨折の時も、手術を勧めたり痛み止めの薬を飲ませたりと、顔に似ず優しいところもある。そういえば寺田寅彦に「鎖骨」という随筆があり、子どもが鎖骨を骨折したのをネタに、鎖骨は折れやすく、折れることにより本体を守る役目もあるとし、建築にも鎖骨のような工法が必要ではと展開している。
令和2年5月17日
コロナ禍は全国的に長期戦だが、力士たちを気にかけていただき、各地からマスクや消毒液等部屋に送ってもらい誠にありがたい。何度か紹介している札幌の月下相撲同好会からも消毒スプレーと石鹸が届いた。両方、手作りで可愛らしく包装して一人一人にと巾着袋に入っている。ただ、ある力士には、その手作り石鹸がクッキーに見えたらしい。夕方小腹が減った頃で、「おっうまそう」とガブリ。今改めて石鹸の包装を見直すと、SWEETと可愛らしくプリントしてある。それでも開けると、匂い、手触り、どうみても石鹸そのものである。口に入れ、「新しいタイプのクッキーか?」と思ったといい、さらにガリガリ何度か試み、ようやく「おかしい?」と気付いた。しばらくして、洗面所で必死に歯磨きをする30代後半某力士の姿が見られた。
令和2年5月18日
チーム朝乃山の一員「朝童子」は、入門6年目となるが、今年ようやく成人式を迎えたばかり。3月31日生まれなので、入門したときはまだ14歳であった。色白で童顔だが、稽古場では乗ってくると人を食ったような大胆不敵な動きを見せることもある。兵庫県三木市の出身で、大阪場所の時は地元三木市のタニマチが来て、「これつまらないものですが」と毎年お土産を渡すことも覚えた。その度に「来年大阪来るときは幕内やで!」と励まされて3年、来年こそは三段目に上がって大阪入りしたい。札幌の月下相撲同好会には、5,6歳になる「嫁童子」という可愛いファンもいる。
令和2年5月19日
個性派ぞろいのチーム朝乃山の中心というか付人頭が、山ちゃんこと朝鬼神。朝童子とは同期生で、大関より一年兄弟子。兵庫県は加西市の出身で、入門時ボディービルダーとして話題になった。現在でも300kg近いバーベルを扱うトレーニングは迫力満点。大関が土俵に入る直前、花道の奥で背中に300kgパワーの気合を両手で注入する。控えに入ってもくっきり残る手形は相撲ファンから「天使の羽」と呼ばれているそう。こう見えて飲むとけっこうはじける。あんまり飲めないけど。
令和2年5月20日
愛知県一宮市出身の朝翔(あさはばたき)、入門して1年余り。元々太かった“ももた”(太もも)がさらに大きくなり、この一年ほどで20kg太り、140kgになった。ちゃんこ場では、歌ったり踊ったり明るくひょうきんな面があるが、稽古場でその明るさが出ずに、少し伸び悩んでいる。お父さんは、二代目キレンジャーで、「明日のジョー」マンモス西の声も務めた“だるま二郎”氏。一宮からの後輩も入ってきているので、そろそろお父さんにあやかって変身したい。変身のための突っ張りを磨く毎日。
令和2年5月21日
高砂部屋の中で数少なくなった関東出身力士の朝大門(埼玉県羽生市)、小事にこだわらないタイプ(雑?)で、付人を務める朝弁慶関(神奈川県)と共にいびきの大きさでは1,2を争う。相撲は決して上手いとはいえないが、小力(こぢから)強く番付を三段目の2枚目まで上げてきた。勝ち越せば新幕下なので本場所開催が待ち遠しい。九州場所の引っ越しのときにトラックの荷台に自転車を積み込むのが上手く「チャリカドさん」と呼ばれ、その時ばかりは存在感を示す。時折、東八郎に似た動きになることがあるが、本人はもちろん若い衆は誰も知らない。
令和2年5月22日
「一ノ矢さん、月下さんから自分宛に荷物が届きました」と、某力士。個人的に荷物を貰うのは初めてなので「何でしょう?」と不思議がっている。「あっ、この間の石鹸の代わりじゃないの」といって開けると、案の定北海道のクッキー。今度は、匂いといい手触りといい食感といい、まがいない。件の某アラフォー力士、瓢箪から駒ならぬ石鹸からクッキーを幸せそうにほお張っていた。誠にありがたい。朝翔、今日稽古後に初めて髷を結う。「おかげさんで、ちょん髷結えました」と挨拶して、コンパチ(デコピン)とお小遣いをもらうのがしきたり。
令和2年5月23日
本日NHKBS1chにて、越中とまやスペシャル「祝!大関昇進 朝乃山 いざ頂点へ」が放送されます。NHK富山で放送された番組で、初土俵から4年で大関昇進を果たした栄光の軌跡を秘伝映像を交えて振り返り、舞の海とデーモン閣下による徹底解説で次なる目標「綱取り」へのカギや今後の道のり展望をするという番組です。今日は、お昼にフジテレビ、夕方AbemaTVでのリモート出演もありました。
令和2年5月24日
本日5月24日は、通常なら5月場所千秋楽、延期開催となっていたら今日から初日という日曜日。しかしながら、ふつうの稽古休みの日曜日。NHKでは「大相撲特別場所」と称して、九重部屋の両横綱千代の富士・北勝海が覇を競った昭和62年と、朝青龍時代といえる平成16年の「大相撲この1年」(花道で朝青龍の前を歩く若き日の神山が映っていた。ちなみに朝大洞、朝勝令は平成16年生まれ)を放送。大関朝乃山は今日もリモート出演。来週、再来週の日曜日もあるようです。
令和2年5月25日
相撲年齢というものがある。相撲を始めてからの年数で、若くても小さいころから相撲を始めていると相撲年齢は高くなるし、逆もある。小さいころからやっている分、基本がしっかりできていたり技術的に幅広い面がある一方、長くやりすぎて相撲に飽きてしまう面もある。大阪は泉大津出身の朝阪神、いまだ未成年だが、小学校2年生から相撲を始め春休みにはお泊りセット持参で部屋に来ていて、朝青龍の現役時代を知る数少ない力士(泣かされたこともあった)。大きな頭を利したいいぶちかましがあるのに、あきらめが早く、なかなか序二段から抜け出せないでいる。来月にはハタチになるので、そろそろエンジンをかけ直さないと、雪駄を履いてヒタチを決められない。
令和2年5月27日
心理学に体型による性格分類がある。肥満型、痩せ形、筋肉質型等に分類するが、お相撲さんも大きく分けてアンコ型とソップ型という区分があり、それぞれ性格に特徴がある。典型的なアンコ型タイプの朝虎牙、大阪人特有のボケキャラでもある。朝大門とは1期違いで同期生のようなもので、ここ1年余りほぼ同じ番付(東西も2場所あり)で三段目内を上下していたが、今場所はずいぶん差がついた(朝大門2枚目、朝虎牙72枚目)。番付が下がると、大阪の武闘派の叔父さんから「お前は虎を名乗る資格がない!朝パンダに改名せい!」と電話でどやされる。
令和2年5月28日
りんご型、バナナ型、いちご型等、体型を果物に例えた性格判断もある。典型的な洋ナシ体型なのが朝東。下半身、とくにお尻が大きく、比べて上半身はそれほどでもない(胸は垂れ気味だが)。 洋ナシ体型は、まじめでがんこで芯が強い性格だそうで、確かにそういうところもある。明徳の相撲部を卒業して3年目、1場所に1回くらい芯の強さを見せる稽古を行なうときがあり、それが週に2,3回出てくるようになれば三段目も近いのだが。得意は二本差しての寄り。2、3日前に足を痛め腕立て伏せを黙々とこなしている。
令和2年5月29日
一昔前のお相撲さんは、酒にまつわる話が多く実際酒豪も多かった。ところが最近は、今どきの若者と変わらず酒飲みの力士もめっきり減り、力士のアスリート化といえる反面、お相撲さんらしさがなくなった寂しさもある。そんな中、未だに昔のお相撲さん気質を残しているのが朝乃丈。飲んでやらかしたこと数知れず、お相撲さんらしいお相撲さんといえる稀種な存在。33歳にして上がった幕下から急降下中だが、そんなお相撲さん気質を愛する方々もいて、蔵前ビストロ「モンペリエ」のマスターを中心とした下町のおじさん連は、お店で幕下復帰祝をやろうと、その日を心待ちにしている。幕下に復帰すると博多帯も締められる。
令和2年5月30日
土曜日の稽古は四股だけだが、四股は、ほんとうにむずかしい。実際に踏むのはもちろんだが、四股の良さを実感すること、伝えることは尚更むずかしい。スポーツ科学的な筋力や筋持久力という数字には表れにくいから効果が見えない。しかし古来から踏み続けられ、双葉山も大鵬もその大切さを説いてきた。効果が見えないから飽きやすく、その分、四股の踏み方に、相撲に対する取り組み方が出やすい。3月場所が終わって2か月余り、次の場所まで2か月近く。自粛疲れも相まって四股も中だるみ気味。相撲の長い伝統を、先人の知恵を、双葉山・大鵬を、ひたすら信じて、踏み続けてほしい。
令和2年5月31日
四股は大地の邪気を祓い、邪悪なものを鎮めるという。反閇(へんばい)からきているといい、さらにさかのぼると禹歩(うほ)からきているともいう。力足を踏むともいう。何れにせよ、本来足で地を踏む動作のことを指し、足を高く上げることではない。踏むことで、大地を揺らし、自分の体を揺らす。揺らすことで、邪気が祓われ、体が斉(ひと)しく均(なら)される。脚の筋肉を鍛えるために踏むのではなく、体を斉しく均すために踏む。双葉山の体は、斉しく均され、強く美しい。無邪気な赤ん坊のようでさえある。
令和2年6月1日
今日から6月。雨で紫陽花がもりもり色づいてきた。通常なら5月場所後の休みが終わり、名古屋場所へ向けての準備を始めるところ。今週末には茨城県下妻市の大宝八幡宮での合宿が予定されていたが、今年は行けなくなってしまった。朝乃山、今日から土俵の中に入っての稽古再開で、幕下相手に15,6番、大関としての初稽古。久しぶりの実戦で、息の上りが早く、歯車がかみ合わないところもあったようだが、次の本場所へ向けてのスタートを切ることができた。
令和2年6月2日
稽古は四股で始まり、腕立て伏せや縄跳び、すり足等の基礎運動を1時間ほど行ってから、土俵の中の稽古に入る。一番土俵に入るのは、新弟子の朝勝令。当たって押す力をつけるため、朝ノ島の胸に何度もぶつかり、転がされる。入門16年目の朝ノ島は、最近はもっぱら新弟子の胸出し担当。胸を出すのも、しっかり当たらせることと同時に、突き放してやったり、巻いてやったり、リズムやテンポも大切になってくるから、自分の稽古にもなる。30歳を過ぎたが、身長が低いこともあり、師匠からは未だに「ちびっ子」と呼ばれている。
令和2年6月3日
7月場所開催に向けて、抗体検査が実施される。部屋住みでない裏方(行司、呼出し等)は自宅待機が続いているが、今日は裏方も全員集合で、久しぶりの家族との再会のような感じ。稽古場の上がり座敷に長机とイスを並べ、はじめにスライドで、コロナや検査、研究、個人情報等についてのガイダンスを受け、血圧、体温測定のあと、採血してという流れ。何人か採血がうまくいかず(血管が出てこず)、8か所も針を刺された可愛そうな力士もいたが、1時間半ほどで全員無事終了。データが有効活用され、平常がもどってくることを願うばかり。
令和2年6月4日
注射というと、何年か前の病院での出来事を思い出す。15歳の新弟子の付き添いで病院に行ったときのこと。診察室に入り、点滴することになり、廊下で待っていたのだが、1時間過ぎても出てこない。「おかしいな?もう終わてもいいころだが・・・」と思っていると、看護師さんが出てきて、「注射を嫌がってまだできないんですよ」と困り果てた表情。中に入り、「こらぁ!お前はお相撲さんなんだぞ!子供じゃなんだぞ!やってもらわんか!」と語気を荒げると、先生から「まだ子供ですから」とたしなめられた。観念して終わったのは2時間後。その新弟子君も大人になり、昨日は悲痛な表情ながらも抗うことなく腕を出していた。
令和2年6月5日
都道府県別で出身力士の一番多いのは東京都の51人(2年3月場所時点)、以下大阪37人、愛知35人とつづく。その後は、兵庫、福岡、神奈川までが30人台、鹿児島、千葉、埼玉と20人台でつづく。高砂部屋で一番多いのが愛知県の4人。以下高知と兵庫が3人、大阪、三重、神奈川が2人。最多を誇る愛知県の長男が朝心誠、次男が朝翔、三男コンビに朝勝令と朝大洞。ここ4年ほどで一大勢力県となった。長男朝心誠、稽古熱心で評判だったが、ケガもあって最近稽古場で影が薄い。研究熱心で、四股を踏みながら仕切ってみたりするが、四股のときは四股に没頭する集中力がほしい。
令和2年6月6日
現役力士を出身高校別に分けると、一大勢力となるのが大関貴景勝を筆頭とする埼玉栄高校。関取以上に限っても10人いて、幕下以下も含めると33人にも上る。次に多いのが、鳥取城北高校と明徳義塾高校。明徳出身の現役力士は、琴奨菊や栃煌山、志摩ノ海等がいるが、一番先輩なのが朝乃土佐。そして一番後輩が朝東。朝東が生まれて半年後には初土俵を踏んでいて力士生活も21年目となる。大相撲界も昔ほど上下関係が厳しくなくなってきたが、部屋でも本場所の支度部屋でもにらみを利かせられる貴重な存在。
令和2年6月7日
稽古休みの日曜日。部屋のすぐ近くに大横川親水公園という公園があり、休日は家族連れでにぎわっている。もともとは大横川という運河であった。江戸時代低湿地だった本所一帯を縦横に開削した運河の一つで、すべて人の手による大土木工事であり、水はけを良くし、土地をかさ上げ、物資の運搬にも役立った。その運河が埋め立てられ水の流れを木々の緑が囲む2km足らずの細長い公園になっている。散歩していると、周りの人よりも明らかに背が高いお相撲さんを遠目に発見。何となく見覚えのある後姿だと思い近づくと、一本下駄を履き1m90cm近くにになった朝天舞(実際は172cm)であった。
令和2年6月8日
本来ならば、昨日今日と茨城県下妻市大宝八幡宮合宿の予定であったが、今年は大宝の皆さまにお会いできず寂しい限り。大宝八幡宮での合宿は、若松部屋時代の平成13年から始まったから今年で20年目。初めは若松部屋・東関部屋との合同合宿で、合併後は高砂部屋単独、その後力士数が減った頃は錦戸部屋との合同、28年からは再び高砂部屋単独と、東日本大震災の年以外は続けられてきた。昨年は朝乃山初優勝後の凱旋合宿。今年は、新大関としての凱旋合宿となるはずだったのだが、来年まで持ち越しとなった。
令和2年6月9日
CSフジテレビ『大相撲いぶし銀列伝』は、やくみつる司会のコアな相撲ファンに人気の番組。2015年4月から放送され、6周年記念スペシャル!第31話は「朝潮篇」で本日夕方高砂部屋にて収録。心に残るベスト10番を見ながら、やくみつるさんとはリモートでのやりとり。その後、ゲストに大関朝乃山が登場して話に加わる展開。
令和2年6月10日
若松部屋と高砂部屋が合併してすぐの平成14年5月場所は、茨城県出身力士が8人もいた(34人中)。その後減っていき、現在残っているのは大子町出身の大子錦のみ。茨城県勢最後の砦大子錦は、入門25年目を迎える最長老42歳。得意技は、土俵際で力を抜き、あきらめたと思わせておいたところを逆転する「死んだふり」(決まり手にはない俗称)だったが、大病を患い本当に死にそうになったので、得意技欄から削除した。ちゃんこの腕前は右に出るものがいないが、残した伝説(相撲以外の秘話)も数知れない。
令和2年6月11日
稽古は、番付が下の者から順番に行われていく。初めに朝勝令が朝ノ島の胸を借りて何回もぶつかり突き放され転がされたあと、そのままぶつかり稽古で仕上げ。次に、朝翔、朝東、朝童子、朝阪神、朝心誠による序二段申し合いとぶつかり稽古。そして朝大門、朝鬼神、朝天舞による三段目申し合いとぶつかり稽古。土俵の砂を均して寺沢、村田、朝興貴、朝玉勢による幕下申し合い。幕下力士がある程度番数をこなしたところへ、大関登場。大関が幕下相手に汗を流したあとぶつかり稽古で仕上げ。ぶつかりが終わった後、四股と腕立て伏せで稽古終了となる。
令和2年6月12日
大関(関取すべて)が土俵に入るときには、箒が入る。周りに出た砂を土俵内へ掃き入れ、土俵にこびりついた砂をはがすため小さな円を描くように箒を回し、最後に大きく半円形に均す。本場所の土俵で箒を入れるのは呼び出しさんの仕事だが、稽古場では若い力士が竹ぼうきで行う。竹ぼうきで行う分ムラができやすく、ある程度兄弟子になって回数をこなさないと、うまく均せない。きれいに掃き清められた土俵へ、大関が塩をまいて入る。稽古場にピンとした厳粛な空気が張りつめる。
令和2年6月13日
本場所の取組のときは仕切り直しの度に塩をまく。これから闘いをくり広げる土俵を浄めるためで、稽古場でも同様に塩をまく。塩は稽古場の隅の塩籠に入っているから、籠から塩を取ってまき土俵に入る。若い衆は、通常稽古の始めに1回まくだけだが、誰かが怪我をしそうになったりしたときにも清めるためにまく。関取が稽古を始めるときには、新弟子が塩籠を持って土俵の縁に立つ。本場所同様、一番取って仕切り直しをする度にまく。塩籠を持つ新弟子は、脇を締め胸の前でしっかり持たなければならない。時につま先立ちを課せられることもある。関取がいる部屋だけの光景。
令和2年6月14日
朝方は小糠雨ふる6月14日日曜日。日中も雨。本来ならば、今日から名古屋先発の日。入門したのが1983(昭和58)年だから、かれこれ40年近く、この時期から7月末までは名古屋に行っていたのに、今年初めて7月を東京で過ごすことになった。宿舎の蟹江のお寺さんも30年以上になり、ご住職やご近所の方々、世話人の方々、いつも迎えにきてくれる鈴木さん家族、年一度の再会が叶わず寂しい限り。国技館開催の7月場所初日まで1か月余り。番付は5月場所のものをスライド、番付発表も行われない。
令和2年6月15日
大関朝乃山は、連日幕下勢(朝玉勢、村田、寺沢)との稽古。まだ番数はさほど多くないものの、一番一番確かめるように集中して稽古している。何より、幕下勢にとっては最高の稽古相手。最近は、巡業と出稽古で胸を借りる機会がほとんどなかったので、久しぶりに大関の胸に思い切りぶつかり、力を出し切る稽古をつづけている。大関の圧力を毎日受け、負けないよう踏み込むことが、本場所での取組に大いに役立つことであろう。
令和2年6月16日
幕下相手の稽古では大関には物足りないのではと思われるかもしれないが、傍から見ている分にはいい稽古になっている。三人とも学生時代からしのぎを削ってきた仲だけに、お互い弱点もわかっており、大関も上手を取るのに苦労したり、双差しになられたりと、苦戦する場面もあり、目が離せない。元TBSアナウンサーで相撲評論家の小坂秀二氏は、初代若乃花が三役から大関、横綱へと上がっていく頃の稽古をよく見た人で、「若乃花は、自分より下の者、弱い者ばかりを相手にして強くなった。上に鍛えてくれる者がいなくては強くなれないというのはウソである」と語っている。
令和2年6月17日
現在発売中のベースボール・マガジン社・月刊『相撲』誌6月号は、「7月場所開催祈念号」という特別号。巻頭カラーのP6~P8にかけて「朝乃山を支えるチーム高砂」と題して、大関朝乃山と高砂部屋の特集。入門時から温かく見守ってきた師匠の言葉や現在の高砂部屋に至る歴史等、若松部屋時代から部屋に深く関わってきた“どす恋花子”こと佐藤祥子氏による高砂部屋愛溢れる3ページにわたる特集です。
令和2年6月18日
以下、小坂秀二『栃若時代』(光人社)より。若乃花は、昭和21年二所ノ関部屋入門し、27年夏場所後大ノ海が独立したことに伴い花籠部屋へ。本家とはケンカ別れだったため、出稽古も一門での連合稽古もなかった。巡業も同様で、花籠部屋単独での小相撲と呼ばれる巡業で、大部屋が行かない田舎町を回るしかなかった。巡業を見に来るお客さんのお目当ては、三役経験のある若乃花一人。土俵を下りるわけにいかず、入れ替わり立ち替わり向かってくる若い衆を相手に稽古をつづけた。そういう環境の中で関脇、大関へと上がっていった。
令和2年6月19日
花籠部屋は日大相撲部の稽古場のとなりにあった。いつも学生が稽古にくるのだが、序二段や三段目では学生に勝てない。学生に負けると若乃花は、容赦なく激しいけいこをつける。若秩父も三段目のころ、どうしても学生に勝てなかった。ところが、一巡業して帰ってきたら、逆に学生は一人として若秩父に勝てなくなっていたという。巡業中に若乃花が鍛え上げ、若い衆相手の稽古で若乃花自身も強くなっていった。7月場所初日まで、あと1か月。
令和2年6月20日
その激しい稽古で、若ノ海も若秩父も若三杉も幕内力士となったが、幕内に上がっても稽古は変わらなかった。まず若ノ海相手に20番から30番、若ノ海がヘトヘトになるとこんどは若秩父。若秩父が疲れ切ると若三杉。その間に若ノ海が回復してくるからまたひっぱり出すという具合で毎日100番を下ることはなかった。ある時は、土俵の俵に足をのせて若い衆に土俵のまん中から勢いをつけてぶつからせた。土俵を割らせたらごほうびが出るが、受け止めて土俵を割らない。そんな稽古も何番もやった。最盛期の花籠部屋は、7人の幕内力士を擁し“七若”と呼ばれた。
令和2年6月21日
正月場所前の厳寒の日の稽古場でのこと。「窓あけい!」若乃花は入ってくるなり窓を全開にさせる。お客さんがいる上がり座敷にも寒風が吹き込んでくる。なぜか?若乃花が稽古場に入ってくると酒のにおいが充満するからである。稽古を始めて、20番、30番、だんだん酒のにおいも消えてきて、さらに40番、50番とつづく。さすがの若乃花も汗をかいてきて、竹べらで汗をしごき取る。途中、小坂氏の元へ来て、「まだにおうかね?」と訊く。「まだにおう」と答えると、「よし!」と応じて、さらに40番、50番とやる。最後の一滴までしぼり出して稽古を終えたという。
令和2年6月22日
夏場の稽古は大汗がしたたり落ちる。そんなときはバスタオルで拭くよりも、竹べらで汗をしごき落とした方が早く気持ちよかった。1cm幅くらいのうすく削いだ竹の両端を持ち、丸まった部分を膚にあてて汗をこそぎ落とす。膚が赤みを帯び、皮膚の奥の汗までしぼり出してくれるようだった。ここ14,5年(20年くらいか?)稽古場から姿を消してしまったが、今でも使っている部屋はあるのだろうか?
令和2年6月23日
関取が稽古するときには、付人がタオル持ちを行う。タオルといっても、ふつうのバスタオルかそれ以上の大きさで稽古場専用なので「稽古ダオル」という。付人は2本の稽古タオルを持ち、一本は関取の顔や胸用で、もう一本は背中用。一本を関取に渡し、もう一本で背中の汗を拭く。拭き方にも手順がある。転んで砂がついた時には、背中用を丸め、丸めた端で砂を払い、タオルに着いた砂をパンパンと手に叩きつけて払い落とし、また関取の砂を払い、パンパンと払い落すことを繰り返す。素早くリズムよくやらねばならない。現在、大関のタオル持ちは朝鬼神が担当。
令和2年6月24日
稽古が終わるとマワシを外し、風呂に入るまでの間、稽古ダオルを腰に巻く。それゆえ、大判のバスタオルでないとまわらない(朝童子は普通サイズで大丈夫だが)。夏場は特に大汗をかくので、幕下以下の力士も稽古タオルを2枚使う。稽古が終わると全員の分を集めて洗濯機で回すが、2~3回に分けないと回し切れない。梅雨時は干せないので、洗濯した山ほどの稽古タオルをコインランドリーで乾かすのは新弟子にとっての一仕事。
令和2年6月25日
本場所で使うタオルは、「場所タオル」といい、ふつうのフェイスタオルの大きさ。若い衆は、タオル一本持っていくだけだが、関取になると、通常、顔用、背中用が2本ずつ、足ふき用に一本の合計5本使う。土俵上で、時間いっぱいになって呼出しから渡されるのが、顔用の場所タオル。ちなみに朝乃山は、通常の顔用に加え、マワシを濡らす為のタオルと帰り専用のタオルもあるらしく、顔用だけで4本使うそう。それぞれ色分けされている。
令和2年6月26日
稽古ダオルと普段使用のタオルの大きさを教えてくださいとの質問をいただきました。特に大きさに決まりはなく、腰に巻ければ大丈夫な大きさです。何枚か測ってみましたが、長さは120cm~180cmくらいまで、幅は70cm~90cmまでと様々です。140cmの長さがあれば、だいたいの力士は巻けるようですが、アンコ型(大子錦、朝虎牙等)は、180cm近くないと苦しいようです。ただ、大子錦、朝虎牙クラスのアンコになると、タオルを腹の下にはさむと落ちないので、長さが足りなくても使えないことはないという特技(?)があります。普段使用のタオルも同じで、稽古場で使うか風呂上りに使うか用途が分かれるだけです。場所タオルは一般のフェイスタオルを使用します。
令和2年6月27日
稽古ダオルは、まとめて洗濯するから、色や柄が違っている方が望ましい。少し前に寺沢が使っていたものは「くまのプーさん」柄。何度か紹介している札幌月下相撲同好会から大量に送られてきた中にあったもので、気に入って使っていた。月下さんは、会員のみなさんから集めたタオルを送ってくれたのだが、部屋へ訪ねてきた会員さんが、くまのプーさんを見てびっくり!「子供が赤ん坊の頃くるんでいたタオルだ!」と。端に名前も書いてある。何枚も提供してくれたので特に意識していなかったようだが、腰に巻いているのを見て思い出したそう。十数年ぶりの再会に興奮気味で、寺沢ファンになった。
令和2年6月28日
稽古ダオルは毎日のように洗濯するので、1,2年するとボロボロになり、そのうち足ふき等に担当が変わり、役目を終えていく。最近寺沢が使用しているタオルは「一ノ矢タオル」。13年前の引退の時に福岡の知人がパーティーを開いてくれ、その時の記念品につくったもの。部屋関係者が、ヤフオクで見つけたらしく持ってきた。似顔絵と一ノ矢の文字が入っている。50kgの砂袋ですり足をするとき上がり座敷の板の間を汚さぬようタオルを敷くが、寺沢はタオルの似顔絵の上に砂袋を落としながら、ニッと、ほくそ笑んでくる。
令和2年6月29日
年内の合宿は中止とするよう相撲協会から通達が出された。高砂部屋でも8月から10月にかけて平塚、富山、高知と合宿予定があったが、残念ながら致し方ない。7月場所初日まで、あと3週間。出稽古はまだNGだが、今週末には久しぶりに土俵築が行われ、来週月曜日には土俵祭も予定されている。3月場所が終わって3ヶ月、ようやく少し進みだしてきた。
令和2年7月1日
合宿は、力士にとっては環境を変えて稽古を行なえることで気分転換になるし、地元の方にとっては稽古を間近で見られ、力士と親しく触れ合える等、利点が多い。さらに新弟子勧誘の機会にもなる。現に、朝弁慶は平塚合宿が縁で入門に至ったし、弁慶以前にも2人いた。朝東は、高知合宿で朝阪神や朝童子と一緒に稽古して自信をつけたのか(?)高砂部屋入りを決心した。力士と間近に接することが、入門への垣根を取り払ってくれる利点もある。
令和2年7月2日
朝弁慶は高校から柔道を始めた。大きな体は目立ち、大学の柔道部からも誘われていたそうだが、山下泰裕氏の講演を聴きに行ったときに、湘南高砂部屋後援会関係者に発見され、高砂部屋へスカウトされた。熱心に口説かれても断り続けていたが、師匠が実家の中華料理店に何度か足を運び、「柔道では飯が食えないぞ、相撲で出世すれば親孝行ができるぞ」という言葉で入門を決意した。あと4,5年は関取として稼いで親孝行したい。
令和2年7月3日
朝弁慶の付人を務める朝興貴も柔道出身。兵庫県高砂市出身ながら、片道2時間余りの電車通学で大阪の興國高まで通い、柔道部で活躍し、大阪私学大会準優勝の実績もある。卒業時に兵庫県警の試験を受けたが不採用になり途方にくれていたところ大阪高砂部屋後援会関係者からスカウトされ、入門に至った。柔道出身者は押し相撲に徹すると成功するという言葉の通り、突っ張りを武器に関取昇進まであと一息だが、相変わらずのマイペース興貴を貫いている。
令和2年7月4日
土俵築。土俵は、毎場所番付発表前につくり直すが、5月場所前には行えなかったので、1月場所前の昨年12月末以来半年ぶり。昨日クワで掘り起し、スコップで細かくした土を呼出しさんが水平に均し、水を撒き、今日は早朝からタコで突き固め、タタキでさらに締めツヤを出す。重いタコを4人がかりで突くのはお相撲さんの仕事、タタキを叩くのは呼出しさんの職人技。土俵が清らかにつくり直されると、気持ちも清らかに改まる。初日まであと2週間。
令和2年7月5日
通常なら名古屋場所初日の日曜日。名古屋場所といえば、地下鉄市役所前駅を地上に出た途端聞こえてくるセミの大合唱と肌を焼き焦がすような強い日差しを思い出すが、そのどえらぁ~暑い名古屋の夏を今年は味わえない。代わりに両国国技館の7月を初めて肌で感じることになる。東京暮らしも4か月目に入り、東京2か月半、地方1か月半という何十年も繰り返してきた生活パターンが崩れ、何となく落ち着かない。家族も同様で、「ご飯作るのにも飽きてきた。そろそろどこかいかないかなぁ」という声が聞こえてきそう。
令和2年7月6日
本来ならば番付発表の月曜日ということで、新大関としての記者会見を、お昼過ぎからリモートにて。画面の向こうには21名の各社記者。これまでの稽古の状態、これから初日へ向けての意気込み、体調や体重の変化、出稽古ができないことについて、関取同士での稽古ができない不安はないか、どのように日常を過ごしているか、最近観た映画は、・・・。記者会見の後は、協会用の写真や動画撮影。土俵の乾きが足りなかったため、明日から稽古始めで8時30分より土俵祭。
令和2年7月7日
土俵祭。土俵祭は柝の音ではじまり、柝の音で終わる。高く響く柝の音は、同じことの繰り返しだった日々から心身を覚醒させてくれる。祭主木村朝之助も久しぶりの祝詞と方屋開口で、いささか緊張気味ではあったが、「天地(あめつち)開け始めてより陰陽に分かれ・・・清く潔きところに土を盛り 俵をもって形をなすは 五穀成就の祭りごとなり・・・」と、江戸時代から綿々と受け継がれてきた口上が朗々と述べられると、いよいよ本場所が始まるという気が湧きあがってくる。
令和2年7月8日
午後、久しぶりの梅雨の晴れ間。梅雨時の晴れ間はマワシが干せるので本当にありがたい。例年だと名古屋場所真っ盛りの頃だが、7月場所初日まで10日余り。7月場所は大体成績が良く、過去を振り合えってみても各段優勝や勝越し力士が多い場所。昨年も三段目で朝天舞対寺沢の同部屋優勝決定戦があり、寺沢が優勝。朝玉勢も新十両昇進を決めた。朝乃山は7勝8敗と負け越したものの初の上位挑戦で自信をつけた場所。その大関、今週に入り連日の電話取材やリモート取材がつづく。
令和2年7月9日
コロナ禍に追い打ちをかけるような豪雨被害が全国的に凄まじく、まことに痛ましい限り。亡くなられた方のご冥福と被災された方々の一日も早い復興をお祈りするばかりだが、今自分たちがやるべきことをしっかりやることが大切であろう。力士たちは、初日に向けあと10日。しっかりと鍛え上げ、7月場所で熱気あふれるいい相撲をお見せすることが、何より被災された方々の力になるであろう。目先の勝ち負けにこだわらない、天地自然の理(ことわり)としての勝負をお見せしなければならない。
令和2年7月11日
相撲の稽古は、スポーツ科学的観点からすると不合理なことが多い。何十人もの力士がいるのに、土俵は一つしかないし、土俵の周りも狭い。そして、周りで稽古を見るだけの力士が何人もいる。柔道やレスリングで行っているように、いくつも土俵をつくり、一人一人の稽古の番数を増やした方がいいように思えるが、不合理にみえることに、強くなるため身体感覚を高めるための叡智が隠されている。脳科学で研究がすすんできたミラーニューロンや俯瞰する力、数値で表せない様々な能力開発メソッドが、江戸時代からつづく稽古法や部屋制度の中に内在されている。四股やテッポウも、その一環としての鍛練法である。
令和2年7月13日
本日理事会と年寄総会が行われ、7月19日~8月2日までの7月場所概要が発表されました。感染予防対策を徹底し、1日約2500人の観客受け入れ。マス席は1マスに1名、イス席は3席飛ばしで入場。開場13時で再入場不可、切符の販売は明日14日からネット販売中心にて。触れ太鼓は中止、寄せ太鼓、ハネ太鼓は実施、お客さんはマスク着用で、体温感知、声援自粛拍手のみ、・・・等。併せて、11月九州場所の国技館での開催を目指すことと、冬巡業の中止も発表されました。
令和2年7月14日
7月場所開催にあたり、力士にもより厳しい感染予防対策が求められる。支度部屋でもマスク着用が義務付けられ、準備運動や髪結い時にも着用のまま。従来の支度部屋は幕内力士のみ使用で、十両力士は相撲教習所を支度部屋として使用することになる。花道へ出る際に初めてマスクを外し、支度部屋へ戻ると新しいマスクを着用。風呂はシャワーのみ。食中毒予防のため3月場所のような弁当持ち込みは不可。代わりに地下食堂で食事を用意(幕下以下は無料)。千秋楽打ち上げパーティーは自粛。
令和2年7月16日
幟は、もともと平安時代に武家が軍容を誇示するために掲げたのが起源だといい、祭りのときに神を迎える招代でもある。本場所になると、国技館の周囲に原色鮮やかな幟が立ち並び壮観だが、今場所は3密を避けるため駅側のみに立つ。本来は新調したものを毎場所立てるが、今場所は急きょ決まったため、以前使用のものを立ててもらった。緊急時ゆえ神様も大目に見てくれるであろう。「朝乃山関へ幸鮓より」「朝弁慶関へ湘南高砂部屋後援会より」明日取組編成会議。
令和2年7月17日
3月場所初土俵の朝勝令と朝大洞、7月場所で初めて序ノ口の土俵に上がる。前相撲はまだ予備試験のようなもので、名前を呼ばれたら土俵中央にすすみ、一度蹲踞するだけで立合いになるが、序ノ口は花道の方へ向かい四股を踏み、二字口で塵手水を切り、土俵中央へすすみ、再び四股を踏みと決められた所作に則って仕切りに入る。新弟子は、相撲教習所でこの所作を教わるのだが、教習所が休みのため昨日から本場所へ向けての稽古。期待通り(?)、朝勝令には笑いの神が下りてきて指導の兄弟子たちも笑いっぱなしであったが、今日は何とかこなしていた。明日土俵祭。
令和2年7月18日
午前10時より土俵祭。本来ならば、三役以上と相撲教習所生徒は参加になるのだが、今回は理事長と部長、審判委員のみで行われた。触れ太鼓も中止なので、部屋での呼び上げもなく静かな初日前日。8時35分取組開始で、序ノ口朝大洞が高砂部屋一番手で土俵に上がる。十両朝弁慶は富士東、大関朝乃山は隆の勝との対戦。2日目は遠藤戦。お客さんへの開場は午後1時より。
令和2年7月19日
久しぶりの晴れ間が出て、五月場所のような爽やかな空気の令和2年7月場所初日。1マスに1人と変則ながらも、初場所以来半年ぶりの観客に囲まれての本場所。声援は自粛がつづくものの、一番毎の大きな拍手が誠にありがたい。今場所注目の新大関朝乃山、踏み込みよく危なげない相撲での大関初白星。十両復帰を目指す朝玉勢白星スタートなるが、十両朝弁慶は黒星。全体では5勝9敗と曇天のスタート。
令和2年7月21日
十両復帰の朝弁慶、膝のケガを抱えながらの土俵がつづく。膝が悪いと天気にも状態が左右され、長引く梅雨空が膝を湿らせ重くしてしまう。2連敗スタートで、膝のケガを心配する声も何件か届いていたが、久しぶりの重戦車相撲で初白星。「白星が一番の薬」というように、膝の具合も良くなってくるであろう。白星が膝の湿り気や痛みを吹き飛ばしてくれる。朝乃山、右差し前に攻める相撲で3連勝。村田、深井、朝翔が2連勝。
令和2年7月22日
今場所の高砂部屋番付は、序ノ口に4力士。朝勝令と朝大洞のフレッシュ新弟子コンビと、大子錦と神山という超ベテラン大御所コンビ。大子錦は膝の具合が思わしくなく、回復次第では途中出場の可能性もあるが大事をとって休場、ちゃんこ長に専念している。残る3力士には未だ白星なし。誰が最初に片目を開けるか。朝弁慶2連勝で五分の星。朝乃山4連勝。
令和2年7月23日
高知県四万十市出身の朝東、相撲経験はなかったものの大きな体を見込まれて明徳義塾高校の相撲部に入部。高砂部屋高知合宿での縁があって相撲界に入門して2年半。決して強いとはいえないが、毎日コツコツと稽古を重ね、最近は朝鬼神コーチの元筋トレににも励み、垂れていた胸も幾分アップしてきた。今日勝って2勝目。名門明徳OBとして今年中には三段目昇進を果たしたい。朝乃山、我慢の相撲の白星で5連勝。明日から中盤戦。
令和2年7月24日
朝乃山、今日も万全の相撲で6連勝。三段目深井、序二段朝翔3連勝。
令和2年7月25日
十両最後の一番を中跳ね(ちゅうばね)といい、行司は両力士の四股名を二回呼び上げ、「この相撲一番にて(柝)中入り(柝、柝)」と口上を触れる。中跳ね(中入り)の触れといい、行司の見せ場の一つである。十両格行司の木村朝之助、幕内格行司に休場者が出たため、5日目、6日目と急きょ初中跳ねの触れ。見事に務め上げ館内から大きな拍手。朝乃山、大学の先輩宝富士を圧倒して7戦全勝。幕下朝興貴、序二段朝東、朝阪神3勝目。三段目朝大門と序ノ口朝勝令は4連敗での負け越し。
令和2年7月26日
序二段109枚目朝翔、4連勝で7月場所高砂部屋第一号の勝ち越し。入門一年半、突き押し相撲を基本に左前みつを取って前に出る相撲を毎日磨いている。稽古場では、まだまだ思うようにいかないが、少しずつ結果が出るようになってきた。何より後輩が入門してきて負けられないという気持ちが大きいであろう。朝乃山、今日も安定感のある大関相撲でストレートの給金。三段目深井も4連勝勝ち越し。朝玉勢、4敗目を喫し関取復帰ならず。
令和2年7月27日
序ノ口で4連敗中だった朝勝令、今日の対戦相手は服部桜。序ノ口の連敗記録保持者で、朝勝令は「負けたら引退する覚悟」で臨んだといい、「じゃあ、緊張しただろう」と聞くと、「そうでもなかったです」とよくわからない返事が返ってきて、無事初白星を飾る。朝乃山、物言い取り直しの一番を制して9勝目。三段目深井5勝目、序二段朝東勝越し。三段目2枚目の朝大門も初白星。9日目にして初めて通算成績が勝越しとなる(56勝55敗)。
令和2年7月28日
幕下32枚目の朝興貴、回転のいい突っ張りが売りだが、今日は突っ張り切れずに大きな相手と組んでしまい万事休す。ところが、あまり記憶にない見事な上手投げで大きな相手を転がした。投げた本人も驚いたように、ステイホーム効果といえるのかもしれない。朝阪神、半年ぶりの勝ち越し。朝乃山に初黒星。朝乃丈、7日目勝った相撲で膝を痛め、今日から休場。
令和2年7月29日
三段目67枚目深井6連勝。東洋大学相撲部出身で3月場所三段目100枚目格附け出しデビューは、朝乃山や村田と同じ。デビュー場所5勝2敗という成績も朝乃山と同じ(村田は6勝1敗)。2場所目、朝乃山は6勝1敗だったので次勝って7勝すると朝乃山超えの成績となる。7戦全勝だと幕下昇進が確実で、三段目優勝の可能性も。朝乃山、10勝目を上げ優勝争いトップタイ。三段目朝虎牙勝越し。朝阪神5勝目。
令和2年7月30日
「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」横綱双葉山の言葉だが、言うは易く行うは難しで、誠に難しい。幕下の寺沢、場所前の稽古では大関をタジタジにさせる鋭い攻めを何度も見せ、今場所はと期待させたが今日で負け越し。腰に爆弾を抱えているという体調の難しさもあるが、残念。双葉山は次のようにも語っている。どうしても勝てない場合も、「つづけて稽古する」「稽古に出でて稽古に帰る」「どんな状況でも一心不乱に稽古つづけてゆくことのできる心の強さ」こそが問題の根本。朝乃山11勝目。明日照ノ富士との一敗対決(白鵬は2敗)。
令和2年7月31日
13日目からは取組開始時間が遅くなる。午前10時50分開始の柝の音と共に土俵に上がるのは、今場所休場中だった大子錦。対するは服部桜。序ノ口生活が長くなった大子錦、服部桜とも2度目の対戦で、今場所も余裕の寄り切り。そして、13日目土俵の最後の一番を締めるのは大関朝乃山。残念ながら、一敗同士の対決に敗れ2敗となる。明日は照強戦で、まだ優勝の可能性はある。三段目深井7戦全勝で千秋楽に優勝決定戦。幕下村田勝越し。序二段朝阪神6勝目。
令和2年8月1日
照ノ富士が敗れ、再び優勝に近づいたかと思った矢先の足取りでの3敗目。しかし、まだ明日の結果次第で優勝決定戦の可能性もあり大混戦の7月場所千秋楽を迎えることとなった。何よりもコロナ禍に巻き込まれずに千秋楽を迎えられた安堵感が大きい。まだまだ先は長いが・・・。序二段67枚目朝東5勝目、来場所自己最高位近くまで番付を戻せそう。14日目を終えて、ちょうど5分の通算成績。明日11人の力士が土俵に上がる。
令和2年8月3日
コロナ禍がつづく中、様々な感染予防対策を施し、観客を4分の1に制限して行われた7月場所。3月の無観客開催同様異例の本場所ではあったが、お客さんの拍手が誠にありがたく、無事千秋楽を迎えられたことが何より一番のこと。最大の注目であった新大関朝乃山は、優勝こそ逃したものの12勝3敗の成績で大関としての責任を十分に果たしたといえるであろう。これから毎場所、責任が重くのしかかってくるが、さらなる高みを目指し登っていくしかない。深井が三段目優勝。千秋楽パーティーは中止のため、部屋でちゃんことお寿司やオードブルでの食事。勝越し力士には、おかみさんからご祝儀。
令和2年8月10日
猛暑日。場所後の休みが終わり、今日から稽古始め。といっても今日は四股のみ。7月場所が始まるまで4か月と長かったが、初日が2週間遅れだったため、9月場所までの期間はいつもより短い。8月31日(月)番付発表なので、番付発表まで3週間。そして、その2週間後9月13日(日)が初日で、番付発表前の金曜、土曜で土俵築の予定。体のリズムはつくりやすいであろう。
令和2年8月11日
3月場所が終わり7月場所までの4か月間は、正直、先が見通せない不安を抱えながらの長い日々であった。体温測定は毎日行い、問題なく来ていたのだが、初日の1週間前になって3人熱を出した。一人は扁桃腺炎であったが、二人は原因不明で、そのうち一人が39、8度の高熱。協会に連絡して朝8時半過ぎに同愛記念病院で検査、2時間後くらいには結果が出るとのことで気を揉んだが、3人共に陰性で安堵。2、3日後には平熱に戻り本場所にも間に合った。
令和2年8月12日
3月につづき異例の本場所であったが、高砂部屋でも異例の事件があった。場所中(確か前半戦)の午後2時過ぎ、部屋の裏道の突き当りにある会社の社長が、裏口にいる力士に興奮気味に話しかけてきた。「さっき軽トラが路地に入ってきて、干してあるマワシを取って急発進していった。どうも様子がおかしかった」 調べてみると、ブロック塀に干してあった寺沢のマワシが無くなっている。おかみさんにお願いして防犯カメラの画像を確認してもらうと、1:53分裏に車が止まり、一瞬の後走り去るのが映っている。110番して被害届を出したが、未だ出てこず。40年近くこの世界にいるが初めてのこと。寺沢は、協会でマワシを新調、マワシ代はおかみさんが出してくれた。
令和2年8月13日
「マワシは洗わない」というと驚かれることが多いが、関取が本場所で締める締め込みは、絹なので、もともと洗えない。汚れた場合は濡れタオル等で汚れを落として陰干しする。というか、一場所終わると、必ず広げて陰干しする。稽古マワシは厚地の木綿なので日干しするが、こちらは汗と汚れがひどくなるとデッキブラシで洗い流して干すこともある。30~40年ほど前は、稽古マワシに関しても「洗っていいのは師匠が亡くなったときだけ」という言い伝えがあったが、当時も汚れがひどくなったら新調するのが一般的ではあった。
令和2年8月15日
マワシ盗難事件は、新聞でも取り上げられ、沢山の方から情報をいただいた。相撲グッズはいろいろ出品されているが、使用済みの黒マワシまであるのには驚いた。本人のものではなかったようだ が、誠にありがたい限り。出品マワシを買うより三福商事(墨田区業平ー相撲協会への納入業者)で購入する方が安いとおもうのだが・・・。稽古マワシは、雲斎木綿や帆布でつくられ、幅は46cm、長さは各自腹の大きさに合わせ6m~8m程。関取は白、幕下以下は黒と定められている。
令和2年8月16日
幕下以下は全員黒マワシだから一緒に干してあると間違えそうなものだが、新しさや使い込み具合、汚れ具合、股の部分の折れ具合、先端のほつれ具合、・・・、それぞれに微妙な違いがあって自分のものはすぐわかる。もっととも最近はテーピングで目印をつけている力士が多い。それでも本場所に行くときに慌てて用意をして間違えて他人のマワシを持っていってしまうことがたまに(数年に一度)ある。支度部屋で締めたときに初めて気付き、文字通り「他人の褌で相撲を取る」ことになるわけで、あまりいい結果に結びつかない。
令和2年8月17日
取組が終わった後、支度部屋に戻り風呂に入るが、時間によっては混み合う時もあり、マワシを取り違えてしまうことが時々(数年に一度)ある。こういう場合は誰が間違えてしまったのかわからず、残ったマワシを持ち帰ることになるが、さすがに誰のかわからないマワシを使う気にもならず新調する場合もある。関取衆の締め込みは、明け荷の中に入れて支度部屋に置いておくので間違うことはありえない。稽古マワシ(白)も前に垂らす部分に墨で四股名を入れるので取り違えることはない。
令和2年8月18日
よく稽古をする力士は1~2年、そうでもない力士は4~5年で稽古マワシを新調するのが一般的であろうか。大ベテランになると10年以上使い込む強者もたまにいる。ベテラン力士がマワシを新調すると、「おいおい、あと何年やるつもりだ」と冷やかされるのが常。新しいマワシは肌触りがよく気持ちよい。関取が本場所で締める繻子つの締め込みは体に馴染ませるのに時間がかかり、稽古場で何日か体に馴らしてから本場所デビューする。健康診断、併せて抗体検査も。
令和2年8月20日
横綱双葉山が稽古マワシで控えに座っている写真がある。一面を使った大きな写真で、「ボロの廻し」と題して、下部には「もう何年使っているのだろうか。ボロボロに擦り切れた大横綱のけいこ廻し(巡業地)」と説明がはいっている。次のページには稽古中の後ろ姿で、こちらにも「後ろも、ごらんのとおりボロボロ。廻しのすり切れるほど内容の濃い、激しいけいこをしてきた双葉山なのだ!」という説明文。昭和17年頃の写真のようで、物資不足の時代にはまだ早く、新調しようと思えばできたはずだが、使い込んだマワシに宿る代えがたいものが何かあったのであろう。
令和2年8月23日
今年3月入門の16歳「ボラ君」こと朝大洞、4月に鎖骨骨折して転ぶ稽古が長らくできなかった。折れた鎖骨もようやくくっつき転ぶ稽古を再開。まずは布団の上で膝をついた姿勢で肩からの入り方、脚の置き方を覚え、次に立った姿勢から、次に布団をどけて畳の上でと段階を踏んで、昨日久しぶりに土俵で転ぶ稽古。怪我をする前よりも上手に転んで立つことができ、思わずみんなから拍手が起こる。転べるようになってはじめて稽古に参加できる。
令和2年8月24日
転ぶことで、ケガをしないための受け身を覚える。柔道の受け身は、腕や脚で畳を叩いて衝撃を分散させる受け身だが、相撲は土俵を叩くと痛いので、丸く転がって立ち上がる受け身になる。スケートボード等の受け身と同じ要領。右から転がるときには右手、右足を前に出して腕、肘、肩、背中、左腰と順番に転んでいく。恐がると手で止めたり肩をぶつけたり逆にケガをしてしまう。前に出す右手(右腕)の腕(かいな)を返すと、自然に丸く転がれる。
令和2年8月25日
右手から入り、右肩、背中、左腰と丸く転がると、背中に右肩から左腰にかけて斜めに砂がつく。転ぶのが下手な力士は背中一面に砂がついてしまう。ところが、横綱栃錦はぶつかり稽古で転んでも背中に全く砂をつけなかったという。クルッと宙で回転して、立ち上り振り向いた時には腰を割ってぶつかる体勢になっていた。背中に砂をつけないぶつかり稽古は横綱になり引退するまで続いたそうで、「まさに芸術品で、あんな転び方をできる力士を他に知らない」と、元鳴門海の竹縄親方が『名人栃錦 絶妙の技』の中で語っている。
令和2年8月26日
土俵で転べるようになった朝大洞、今まではぶつかり稽古の最後に一度転ぶだけだったが、今日からは難易度を上げて2回押したあと1回転ぶように回数を増やし、4~5回転ぶ。何回も転ぶことによって丸く転ぶことを身体が覚え、どんな体勢からでも転べるようになる。腕を返すことも自然と身につき身体が一体化する。転ぶことは、単にケガをしないための受け身というよりも、もっと大切な、相撲の神髄に近づくことのような気がする。現役中は転ぶのを厭わずに自ら何度も転んでもらいたい。
令和2年8月27日
現八角理事長の横綱北勝海は、保志の四股名だった若い頃から横綱千代の富士の胸を借り毎日のように可愛がられていた。北勝海と改名して横綱に上がってからも同様で、二人のぶつかり稽古は、そのスピード、リズム感、激しさ、どれもが素晴らしく迫力満点であった。有望力士ではあったものの誰もが横綱にまで上がると思っていなかった北勝海が横綱に上がったのは、このぶつかり稽古によるものが大きいであろう。横綱に上がってからも何度も転がり砂まみれになっていた。歴代の横綱の中でも、一番多く転んでいるのではなかろうか。
令和2年8月29日
転ぶことと相撲が強くなることは全く関係ないように思える。しかし、相撲が強いということはかなり複雑なことで、筋力やスピードは表面的なものでしかない。腕を返して何度も転ぶことで全身が均一になる。四股やテッポウも全身を均一にするために何百回とおこなう。双葉山の強さは全身の細胞が均一なことによる。9月場所前の土俵築。明日「感染予防に関する講習会」。明後日9月場所番付発表。
令和2年8月31日
9月場所番付発表。朝乃山、東正大関。幕下は、4枚目朝弁慶、10枚目朝玉勢、16枚目村田、17枚目朝興貴とつづき、先場所三段目優勝の深井が41枚目、寺沢42枚目。三段目は18枚目に朝大門、朝鬼神が東西、朝天舞31枚目、朝虎牙52枚目。序二段は、東筆頭に朝乃丈、朝阪神15枚目、朝翔57枚目と2人が自己最高位更新。幕下6人、三段目4人、序二段9人、序ノ口3人の布陣。
令和2年9月3日
9月13日(日)から開催の9月場所は、7月場所同様の開催となります。溜り席は空席にして、マス席に1人ずつ、2階椅子席は3席飛ばしでの観戦となり、マスク常時着用です。入場は午後1時よりで、売店は縮小営業でアルコールの販売はなしです(持ち込みも不可)。7月場所同様に声援自粛で拍手のみの応援になりますが、力士にとっては拍手が大きな励みになります。
令和2年9月4日
相変わらずの厳しい残暑。じっとしてても汗ばむ日がつづいて、お相撲さんにとっては最もつらい季節。体が大きい分、一般人よりも汗かきが多いが、そのなかでも個人差はけっこうある。四股を踏んでいても、流れるような汗をかく力士、じんわり汗を浮き上がらせている力士、わりとサラサラな力士、もちろん四股の踏み方にもよる。四股を何百と踏んでいると、まず額や胸から汗がしたたり落ちてきて、次いで太ももやスネからも汗が流れてくる、しまいには足の裏からも汗がにじみ出てきて踏んでいる場所が水浸しになってくる。そういえば最近、足に水たまりをつくる力士が減った。
令和2年9月6日
9月場所初日まであと1週間。大関2場所目となる朝乃山は、出稽古禁止のため幕下力士との申し合い。朝玉勢、村田、寺沢、深井を相手に、立ち合いの踏み込み、左上手の取り方、一番一番確かめるように稽古を繰り返している。外出自粛がつづく中、おかみさんが気分転換になればと設置してくれた屋上のプールをよく利用してしているので、かなり日焼けしている。先場所前から継続して行っている専属トレーナーによるトレーニングも週3日の割合で行い、調整は順調にすすんでいる模様。
令和2年9月7日
幕下勢も、日々の調子の波はあるものの順調に初日を迎えられそう。三段目勢では、朝鬼神が数日前足首を痛め、初日に向け治療に励んでいる。先場所の取組で膝を怪我した序二段筆頭の朝乃丈、数日前からようやく稽古場に下りられるようになり四股やぶつかり稽古で胸を出して動かせるようになってきた。動かしだすと回復も早い。9月場所出場は、まだ微妙。
令和2年9月9日
序二段で朝阪神と朝翔が自己最高位まで番付を上げた。朝阪神は15枚目なので、勝ち越せば三段目昇進が確実な番付。15歳で入門して5年目。ぶちかまして左おっつけて出る相撲がはまると強みを発揮するが、あきらめが早く、自分から飛び出してしまうことも多々ある。先場所6勝した勢いで今場所も突っ走って、三段目昇進を勝ち取りたい。現在、朝乃丈、朝虎牙と共に師匠の付人を務めている。
令和2年9月10日
入門2年目17歳の朝翔(あさはばたき)は、先場所5勝2敗の成績で、今場所は57枚目と自己最高位まで番付を上げた。突っ張りと左前みつ取っての寄りを磨いているが、まだまだ相撲にも気持ちにも波があり、一進一退の毎日。気持ちが乗ると自分より上の力士をいっぺんに持っていく相撲を見せることもあるが、朝阪神だけには合口が悪い。朝阪神のぶちかましにビビってしまい、他の力士に当たるように当たれなく、いつも電車道で持っていかれる。朝阪神に当たり負けしないようにならないと三段目には上がれない。
令和2年9月11日
今年3月入門の朝勝令と朝大洞、学校は違うものの同じ愛知県一宮市の中学校卒。入門当初は、体が大きい分朝大洞に分があったが、最近の稽古では朝勝令の方が分が良くなってきた。朝大洞が怪我をして稽古を休んでいた時も朝勝令はずっと稽古をつづけてきた差が現れている。怪我が治り、ようやく稽古ができるようになった朝大洞、朝勝令と共に、序ノ口上位(朝勝令10枚目、朝大洞14枚目)で、初の勝ち越しを目指す。取組編成会議。初日高砂部屋の先頭を切って土俵に上がるのは序ノ口朝大洞が谷口との対戦。幕下上位5番で朝弁慶対納谷、結びが東正大関朝乃山に遠藤。
令和2年9月12日
初日を前にして午前10時より土俵祭。通常なら三役以上の力士と相撲教習所生徒が参加して行われるが、力士の参加はなしで理事長や審判員等限られた関係者のみで行われる。その後各部屋や街中へ繰り出される触れ太鼓もなし。朝乃山は、紫の締め込みを締めて土俵で体を動かす。明日初日の取組開始は午前8時50分。お客さんを入れるのは7月場所同様午後1時からだから、それまでは無観客の土俵。これ以上感染が広がることなく無事千秋楽を迎えられることを祈るばかり。
令和2年9月13日
令和2年9月場所初日。今場所も7月場所同様、感染症対策に万全を期しながらの15日間。支度部屋は幕内専用で、十両は相撲教習所を使用。支度部屋でもマスク着用が義務付けられ、取組後のインタビューはリモート。付人は花道でもマスク着用。再入場はできないので、幕下以下の力士には地下食堂で昼食が提供されている。朝乃山、遠藤に敗れ黒星発進。幕下村田、深井は白星発進。
令和2年9月14日
突き押し、左上手、右前みつ、双差し、・・・力士それぞれに得意な形がある。自分の得意な形になるよう日々の稽古に励み、得意技を磨いていく。ところが本場所では、そうそう自分の得意な形になれるものではなく、不得意な形になったときに我慢できるかどうかが番付の差に表れてくる。突き押しと左前みつを磨く朝翔、今日の一番で相手に左四つに組まれ、左半身と苦しい体勢。相手の攻めを凌ぎ、機を見て右からしぼり土俵際残る相手を強引に寄り切った。こういう相撲を白星にとつなげられると大きい。朝乃山連敗、幕下朝玉勢白星スタート。
令和2年9月15日
「勝ち負けは時の運」という言葉があるように、勝てるときには不利な体勢になっても自然に体が動いて勝利に結びつき、負けるときには有利な体勢になったのにあと一歩のところで逆転を許してしまうことが多々ある。ただ、「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」という言葉もあり、負けるときには体の自然な動きよりも頭の意識の方が先走ってしまう場合が多い。それを斉(ととの)えるのが、四股やテッポウをただひたすら繰り返すことなのであろう。幕下村田、寺沢2連勝。
令和2年9月16日
序二段神山の今日の対戦相手は華吹(はなかぜ)。神山は38歳になり入門24年目の大ベテランだが、対する華吹は入門35年目50歳の超特大ベテラン力士。上手投げ得意な相手に上手を引かれ、一瞬「やばい!投げられるかも」と思ったそうだが、左下手から寄って、すんなりと寄り切りの勝ち。88歳対決を制した。最高齢対決かと思ったが、先場所42歳力士との対戦があったようで、92歳対決には及ばなかった。上には上がいるもの。大関朝乃山、幕下朝弁慶に初日。
令和2年9月17日
得意は「突き押し」と一口に言っても、「突き押し」にも様々なタイプがある。回転のいい突っ張り、一発が重い突っ張り、引き技につなげる突っ張り、ぶちかましから一気に出る押し、ネチネチと我慢強い押し、中に入って双ハズでの押し、おっつけての押し、・・・。押しは相手に密着し、突きは相手と間合いを取らなければならない。幕下17枚目朝興貴、今日は得意の突っ張りが出るも、もぐってくる相手に中に入られそうになり、土俵際での突き落としでの今場所初白星。間合いを取りきった。朝乃山、相手の相手の間合いを封じての2勝目。序ノ口朝大洞、初白星。
令和2年9月18日
間合いは、感覚的なものだけに体で覚えるしかない。動きを止めたり後ろに下がったりすると覚えることはできない。前に出る、もしくは出ようとすることによってしか覚えられない。それゆえ「前に出ろ」としか指導しないし、前に出ることによって身につくことは他にも限りない。序二段で自己最高位の朝翔、我慢して前に出て2勝目。朝乃山も我慢して間合いを引き寄せ3勝目五分の星。幕下村田、寺沢3連勝。
令和2年9月19日
大関朝乃山、先場所不覚をとった照強を一蹴して4勝目、白星先行。新幕下深井3勝目。
令和2年9月20日
すっかり秋の気配につつまれた9月場所も中日8日目。本日のNHK大相撲中継中入りの特集『技の神髄』は“ぶちかまし”朝潮。ぶちかましを得意とした師匠の懐かしい映像とインタビューで、足の構えや寝るときの姿勢にまでこだわった大関朝潮のぶちかましの神髄が語られた。朝乃山、不戦勝での5勝目。1敗力士が消え、いつのまにか優勝争いに加わってきた。幕下村田、寺沢元気よく4連勝での勝越し。
令和2年9月23日
幕下寺沢、顔のでかさには定評があるが意外と繊細なところもある。今朝の稽古後のちゃんこの時、「今までの相撲人生の中で一番緊張します」との発言を連発していたものの、取組では張り差しで左を入れ一気の寄りで6連勝。繊細ながら人を食ったような面もあり単なる妄言だったようで、おそらく明後日13日目に6連勝同士での幕下優勝決定戦に臨む。大関朝乃山、3連敗のあとの8連勝での勝越し。序二段朝乃土佐、朝東勝越し。序ノ口朝大洞、うれしい初勝越し。
令和2年9月25日
幕下寺沢、7戦全勝での幕下優勝。対戦相手は同学年で高校生の頃から苦手なタイプだったそうだが、攻め込まれながらも反応よく突き落としての勝ち。この勢いで、来場所の幕下上位、関取昇進へと駆け上がりたい。序ノ口大子錦、最後の一番に出場して白星を飾る。今場所で引退して岐阜県の師匠の知人の会社に就職することになっている。長年、高砂部屋の伝統の味を守ってきたちゃんこ長の引退は寂しいが、第二の人生に幸あれと願いたい。長い間、本当にお疲れ様でした。序二段朝童子勝越し。
令和2年10月5日
場所休みが終わり、今日から11月場所に向けての稽古再開。これまで報道陣の取材も一切NGであったが、今日からは2社のみ代表取材が可能となり、久しぶりに記者がいる稽古場の風景。記者はマスクにフェイスシールド着用でPCR検査を受け陰性証明書を持参しての取材。出稽古もPCR検査等いくつかの条件をクリアすれば一定期間は可能との通知。相変わらずの厳戒態勢が続くが、少しずつできることが増えてきた。11月場所は、11月8日(日)から福岡ではなく国技館にて開催予定。
令和2年10月8日
稽古開始4日目。四股やすり足を行った後、申し合いに入るが、始めは朝大洞、朝勝令の新弟子二人での三番稽古。二人でおよそ20番くらいやってぶつかる(ぶつかり稽古)。次に、朝翔、朝童子、朝東、朝阪神、朝心誠の5人による序二段申し合い。40分くらい行うが、だんだんマンネリ化してくるので、残り10分くらいで「3連勝したものから上がり」とすると、がぜん気合が入って動きがよくなる。今日は朝心誠が一抜けで二番目が朝阪神、3人残ったところで朝東が目の覚めるような2本差し速攻相撲をみせて上り。残った2人での5番勝負は、朝童子が勝越し。いい稽古であった。
令和2年10月14日
4月から休校となっていた相撲教習所が10月7日(水)より再開されている。通常とは違い、実技の方は、すでに部屋で半年以上行い本場所も経験済みなので、水、木、金の午後に学科のみの授業。幕下深井は雪駄で、朝大洞と朝勝令は下駄で部屋から国技館までを往復。番付発表前まで続き、11月場所後、来年1月場所後の3期間通うと卒業となる。
令和2年10月26日
平成2年納めの場所となる11月場所番付発表。例年なら九州での番付発表だが、今年は東京での作業。朝乃山、東から西にまわって西の正大関。東が正大関に貴景勝で、張出し(?)に新大関正代。寺沢が西幕下4枚目、村田12枚目、深井25枚目。朝弁慶26、朝玉勢27と続く。序二段朝東が7枚目、朝翔が30枚目、朝大洞91枚目と自己最高位。
令和2年11月7日
明日から11月場所初日。西大関朝乃山、初日は結び前に霧馬山、2日目は結びで照ノ富士との対戦。両横綱は今場所も休場。今場所も感染症拡大予防対策を十分に施し開催されます。マス席に2人、イス席は1席空け、お客様の入場は午後1時からです。
令和2年11月8日
11月場所初日。11月場所といえば、必ず出てくるのが「一年納めの九州場所」という言葉で、通常なら忘年会的な飲み会も多いし、季節的に魚がうまく、好みのとんこつラーメンや屋台、中洲の賑わい等、楽しみが多く、九州場所が好きな力士は多い。その楽しみは来年まで持ち越しだが、納めの場所に変わりはなく、初場所と似たような特別感はあるような気がする。大関朝乃山、万全の相撲で白星スタート。高砂部屋力士にとっては、現7代目師匠最後の場所という特別な11月場所。
令和2年11月10日
ちゃんこ名人大子錦が去った後のちゃんこの味を守るのは、朝心誠。メインの鍋の味を決め、サラダや一品料理等、朝阪神と朝東の協力の元、毎日のメニューつくりに頭を悩ましている。また、ちゃんこ長相談役としてベテラン神山も毎日ちゃんこ場に入り、手伝いや助言しながら高砂部屋伝統の味を伝えている。ちゃんこの味を守っていくのも相撲部屋ひいては大相撲の伝統を守っていくことになる。朝乃山、初日の取組で肩を痛め今日から休場。幕下4枚目寺沢、初日。
令和2年11月14日
今場所を最後に停年(65歳)を迎える現師匠は、高知県室戸市の出身で近畿大学から昭和53年3月場所幕下附出しでの初土俵。学生横綱とアマ横綱を2年連続で獲得して鳴り物入りでの入門であった。幕下2場所通過で十両昇進、十両も2場所通過して入幕、本名の長岡から朝潮に改名して一躍人気力士となった。昭和58年3月場所後に大関に昇進、60年3月場所で初優勝、平成元年3月場所を最後に引退して山響襲名、一年後の2年3月場所から若松部屋を継承し、14年3月場所から7代目高砂を襲名して現在に至っている。あす「土俵人生を振り返る」と題してNHK大相撲中継の正面解説者として出演します。
令和2年11月19日
朝鬼神、朝大門、朝乃丈勝越し。朝虎牙5勝目。残り1番となって勝越し5人、負越し5人、3勝3敗11人。
令和2年12月31日
代替わりに伴う引継ぎの繁忙に加え、パソコンの不具合もあり、長らく更新を休止させていただきました。新年からは、新たな担当者が、星取表や行事等の情報発信を中心に再スタートいたします。8代目高砂部屋を今後ともよろしくお願い申し上げます。
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