過去の日記

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平成22年1月3日
あけましておめでとうございます
平成31年稽古はじめ。今日は、新年の挨拶を交わし、四股とぶつかり稽古のみで上り、先々代と先代のお墓参りへ。先々代5代目(元横綱朝潮)は現師匠と頭(元伊予櫻)、床弓さんにとっての師匠であり、先代6代目(元富士錦)は、呼出し利樹之丞と大子錦、神山の入門時の師匠であるが、関取はじめ他の若い力士にとっては、直接には知らない存在。それでも毎年お墓に詣でることによって、綿々と続く高砂部屋の歴史と伝統の重みを肌で感じることになるであろう。
平成31年1月4日
“平成最後の”という形容詞は使われ過ぎた感もあるが、初場所は平成最後の両国国技館での本場所。振り返れば、昭和の最後は63年9月、11月と横綱千代の富士が制し、平成元年初場所は横綱北勝海が優勝。11月場所で貴花田が新十両に昇進し、翌2年3月場所で曙、若花田が新十両と平成のスターが次々と登場して世代交代がすすんでいった。平成最後の国技館を制するのは、新しい時代のヒーローはいつ出てくるのか、興味は尽きない。今日から本格的な稽古はじめ。朝乃山、玉木は九重部屋への出稽古。
平成31年1月6日
昭和最後の大横綱千代の富士は平成3年5月場所で引退。現理事長の横綱北勝海も翌4年3月場所引退。二人の後を引き継ぐように5年3月場所で曙が横綱昇進。7年1月貴乃花が横綱昇進。兄若乃花の横綱は10年7月と、若貴時代が始まっていった。その若貴から時代を引き継いだのが朝青龍、白鵬等のモンゴル勢。日本の流れと時を同じくするように大相撲界にもグローバル化がすすんでいった。さらに、その反動であり世界的潮流ともいえる自国ファーストのなか、平成最後の横綱としての稀勢の里の存在があるのかも。
平成31年1月7日
平成元年初場所は、東の正横綱が千代の富士で西が大乃国、張出に北勝海。大関は旭富士、北天佑、小錦、朝潮と、3横綱4大関の豪華版。横綱北勝海と大関2場所目の旭富士が共に14勝1敗の成績で優勝決定戦。北勝海が勝って4度目の幕内最高優勝。幕内で一番若いのが21歳の安芸乃島。十両に琴錦や益荒雄の四股名がある。現師匠の大関朝潮は、この場所8勝7敗の成績で、翌3月場所で引退し年寄山響を襲名。翌2年の3月から若松部屋師匠となった。一般非公開での横審総見稽古。朝乃山と玉木が参加。
平成31年1月8日
今場所から力士の給与ならびに場所手当てが増額となるようで、力士にとっては嬉しいニュース。 新しい給与(月額)は、横綱が300万円(現在は282)、大関250(234,7)、三役180(169,3)、幕内140(130,9)、十両110(103,6)万円となり、幕下以下の場所手当て(場所毎2か月に1回)は10%増で、幕下16,5万円(現在15)、三段目11(10)、序二段8,8(8)、序ノ口・前相撲7,7万円(7)となる。平成13年以来18年ぶりの改定。
平成31年1月10日
1月7日の東京新聞で、「平成を伝える」と題して、平成30年間の大相撲の変遷が取り上げられている。平成元年初場所幕内力士38人のうち外国出身は大関小錦一人だったのに対し、平成31年初場所では42人中横綱2人を含む9人。学生出身は、平成元年が4人だったのに対し、今年31年は14人。紙面では尾車親方の「学生とプロの差がなくなった」「学生出身には負けられないという意識がなくなった」という談話や10代の力士を育てる難しさも語られている。高砂部屋は現在、19名中4人が学生出身力士。
平成31年1月11日
学生相撲出身力士の第一号は戦前の関脇笠置山(中退も含めると昭和初期の関西大学関脇山錦がいるが)。もっとも笠置山は、奈良県郡山中学時代にスカウトされて出羽海部屋へ入門。部屋から早稲田中学、早稲田大学へと通い、早大相撲部全国優勝の原動力となり、卒業後にプロ転向の予定だったが、昭和7年1月の春秋園事件で急きょ幕下付出しで初土俵となった。取組編成会議。朝乃山は魁聖、貴景勝に正代、白鵬は妙義龍、結びは稀勢の里に御嶽海。
平成31年1月12日
笠置山は現役時代から相撲評論、随筆等を執筆し、のちに小説も書いている。双葉山69連勝中は、出羽海部屋の打倒双葉の作戦参謀として、当時谷崎潤一郎や志賀直哉も連載していた雑誌『改造』(昭和13年6月号)に「横綱双葉山論」という論文を寄稿したこともある。引退後は秀ノ山理事として時津風理事長(双葉山)を支え、『相撲のとり方』『相撲範典』『名人栃錦 絶妙の技』等の著書も数多い。触れ太鼓が稽古場に鳴り響き、明日の取組の呼び上げ。高砂部屋幕下以下の取組です。村田は休場、前相撲寺沢は3日目から、序ノ口大子錦も3日目から。
平成31年1月13日
平成31年初場所初日。お客さんにとってもそうであろうが、力士にとっても、初場所初日は特別な「ハレの日」感がある。早朝は雲におおわれていた空も、お昼前から青空が広がり、お正月らしい澄み切った空気が心地よい。午前8時35分取組開始。序二段朝阪神が白星スタートで幸先よいかと思われたが、一進一退の星で、最後朝乃山が黒星となり、4勝5敗と曇天の初日。朝乃山、明日2日目は遠藤戦。仕切り直しといきたいところ。
平成31年1月15日
幕下以下の取組は、初日と2日目は基本的に東西の同じ番付同士で当てて、3日目以降は番付の近い相星(1勝同士、1敗同士)との対戦となる。ただ、休場者が出ると前後にずれ、力士数が奇数となると、幕下上位か序ノ口で数合わせをする。序ノ口最下位の大子錦、数合わせのため初日、2日目と休み、今日3日目からの出場。休場続きで1年ぶりの土俵は、今日が尾上親方の息子との対戦で、明日は服部桜との対戦と、相変わらず話題を提供してくれる。前相撲寺沢が、昨年5月場所以来の白星。
平成31年1月16日
平成31年初場所4日目。ちょうど80年前、昭和14年1月場所(当時は春場所)4日目は、横綱双葉山70連勝成ならざるの日。前述の笠置山は控え力士として土俵下でこの一番を見て、のちに観戦記を残している。-無敵を誇る双葉関が七十連勝ついに空しく、わが門の新鋭安芸ノ海のために破られてしまったのだ。激しい衝動と興奮が鉄傘下いっぱいに充満して、ほうはいたる喚声の潮が果てしなく昇降して、夢のような情景である。静かに、あの世紀の驚異とまで言われた安芸ノ海殊勲の土俵を想起すると、同門の人々が“双葉山の堅塁”を抜かんとして、血と汗ではげんだ臥薪嘗胆が胸に迫って感慨ひとしお深きものがあるー 朝乃山4連敗。横綱稀勢の里引退を発表。
平成31年1月23日
朝弁慶、6連勝。三段目15枚目だから幕下復帰はもちろん確実で、各段優勝の可能性も大きくなってきた。27年9月、新十両を決めた場所で、6勝1敗8人での幕下優勝決定戦に出たことがあるが優勝した千代翔馬に敗れたそう(貴景勝も出場)。初の優勝を飾り幕下へ戻り、さらに関取復帰へと弾みをつけたい。朝阪神、3人目の勝越し。朝乃山、5勝目。あと一つで五分の星。
平成31年1月25日
朝弁慶、三段目優勝。痛めた膝の具合は、まだまだ十分とはいえないが、元十両力士としての意地と貫禄をみせての7戦全勝優勝。入門以来初めての優勝で、関取り復帰へ向け気持ちも上向いたことであろう。朝興貴、元幕内の北播磨を破っての勝越し。朝天舞は平成27年1月場所以来4年ぶりの幕下での勝越し。立派の一言。朝乃土佐、神山、5勝目。全体でも5割を上回ってきた。
平成31年2月4日
年2回の健康診断。夏は身長の計測があるが、今回は体重のみで、血液検査やレントゲン、血圧、検尿に心電図検査等。今日から3日間かけて全力士と35歳未満の行司、呼出し、床山の健康診断が行われる。35歳以上の裏方さんは6月に検査。午後2時からは全協会員が集まっての研修会。研修会は、明日からも関取や裏方、親方衆とそれぞれにも個別に行われる。2月は巡業はないが、何かと忙しい。
平成31年2月5日
昨日の健康診断、高砂部屋最重量は朝弁慶の199kg。本人曰く、関取のときは205~6Kgあったそう。自己最高値をぐんぐん更新していた朝虎牙は意外と増えてなく166kg。成長期もようやく落ち着いてきたよう。ある部屋の某元関取、すこし小さくなったような気がしたので聞いてみたら40kgやせたというそう。で、何キロになったのと尋ねると、180kgだという。200kgを超えると40kgやせても、さほど変化がない。おそらく一般人の2~3kgほどの違いではなかろうか。げに恐ろしき200kg超の世界。
平成31年2月6日
同郷(奄美)の尾上部屋元前頭里山引退佐ノ山襲名披露大相撲が9月28日(土)に行われることになった。里山は中学相撲の名門赤木名中学から鹿児島商業、日大と相撲部で活躍し平成16年3月場所入門。奄美特有の潜る相撲で、一本背負いや伝え反り等の手取り力士として奮戦し、最高位は前頭12枚目。横綱、大関との対戦も見たかったが、首や足のケガで叶わなかった。今後は年寄佐ノ山として後進の指導にあたる。奥さんも日大相撲部出身でアジアチャンピオン。
平成31年2月7日
尾上部屋里山が襲名した佐ノ山は、江戸時代からつづく名跡で、ウィキペディアによると今回の里山で22代目になるという。入門したころ(昭和58年)は高砂部屋の年寄名で、元小結國登が長らく名乗っていた。その佐ノ山親方は、審判を務めていたときに序二段取組で物言いがついたのにもかかわらず泥酔状態で土俵に上がれなかったという豪快なエピソードを残している。その後も、小錦、朝乃翔、闘牙、千代大海と高砂一門の力士達が継いでいた。落語の「佐野山」は、寛政の大力士谷風の人情相撲話。
平成31年2月8日
相撲も落語も江戸時代からつづく文化だけに、落語の中には相撲を題材にした噺も多い。「佐野山」の他にも、「半分垢」、「阿武松」、「千両幟」、「相撲場風景」、「相撲狂」、「大安売り」、「鍬潟」、「提灯屋相撲」ともいわれる「花筏」などなど。落語の花筏は大関の四股名だが、実際「花筏」の四股名を名乗った力士が十両にいた。山形県鶴岡市出身の立浪部屋の力士で、昭和41年3月場所花筏の名で新十両。相撲雑誌には、「落語好きには定評があり、仲の良い柳家小団治という、小さん門下の新進落語家がすすめたに違いない」とある。引退後、地元鶴岡でちゃんこ『花筏』を開店、1階は相撲資料館になっているそう。『相撲甚句物語』『こぼればな史』という著書もある。
平成31年2月9日
毎年2月に恒例となっているJFAアカデミー福島(サッカー選手を中高6年間のエリート教育で育てるシステム)の中学生3人が体験入門。昨日の夕方に部屋に来て、ちゃんこ作りや掃除、後片付け等、新弟子と同様の生活をする2泊3日の体験入門。協会が用意してくれたマワシを締め、四股やすり足、ぶつかり稽古にも汗を流す。これから世界で戦える選手に育ってくれれば嬉しい。サッカーは、脚をよく使う競技で、接触プレーも多いので、相撲との共通性も少なからずあるように思うが、サッカー出身の力士は、まだあまり聞いたことがない。
平成31年2月11日
他の競技から大相撲への転向というと、初代大関貴ノ花や大関増位山の水泳が有名だった。また元放駒理事長の大関魁傑は、日大柔道部からの転向。現理事長の横綱北勝海や横綱大乃国も中学時代柔道部で活躍してからの角界入り。稀勢の里や高安は野球部からの入門。現役にも元野球部という力士はたまにいるか、昭和47年7月場所新十両の佐賀ノ海(のちに土師)は佐賀工業卒業後2年間投手として近鉄バッファーローズに所属(一軍登板はなし)した変わり種。退団後井筒部屋に入門。10年間土俵に上がり、十両を通算2場所務めた。
平成31年2月17日
先発隊大阪谷町久成寺(くじょうじ)入り。出発間際にヘルペスやインフルエンザに罹患した力士が出てメンバーを変更しての先発隊。かれこれ30年近く続いている風物詩であるが、師匠の大学の後輩である嶋川さんや勝田弟さんに新大阪まで迎えに来ていただき、今日から1ヶ月半に亘る大阪での生活がはじまる。ゴザを敷いて、荷物を入れ、寝る体制を整え、晩飯は、これまた恒例のちゃんこ朝潮鴫野店。
平成31年2月20日
先発隊4日目。各部屋のゴザを敷き、本堂の御本尊のまわりを長く大きなカーテンで囲み、その周りが若い衆の寝床。粗方生活基盤が出来上がる。月曜日から大阪入りしている呼出し利樹之丞と邦夫、錦戸部屋鶴太郎が来て、土俵築。46代横綱朝潮や大関前の山、大関朝潮・小錦、水戸泉、横綱朝青龍が汗を流し、羽目板にぶつかった稽古場の土俵がよみがえる。土を入れ替えることはないから、この土に、過去の横綱・大関や、志半ばで去っていった力士達の血と汗と涙と、思いが、埋まっている。混ざっている。
平成31年2月26日
昨日25日が3月大阪場所番付発表。先場所前頭西8枚目だった朝乃山、半枚だけ上がって東8枚目。朝弁慶、先場所三段目15枚目の全勝優勝で幕下13枚目まで復帰。玉木が12枚目。こちら二人は通常より上り幅が大きく、朝乃山とは逆に番付運に恵まれたといえるであろう。朝興貴が22枚目、朝天舞が49枚目。昨年7月場所西幕下筆頭で膝をケガして3場所連続全休した村田、序二段33枚目。三段目附出しでの初土俵だったから初序二段の番付。春場所からの復帰に向け準備をすすめている。
平成31年2月28日
稽古開始3日目。稽古初日は、ほぼ1週間ぶりの稽古なので、すぐ息が上り体が思うように動かない感じだが、2日もたつと、体がスタミナや動きを思い出してくれるようで、かなりいい稽古ができるようになってくる。相撲は一瞬で決まることも多いからスタミナはあまり関係ないように思われるかもしれないが、集中した激しい稽古を何十番もくり返すスタミナが出来てこないと、鋭く流れるような動きや技は生まれてこない。初日まであと10日。
平成31年3月2日
3月大阪場所新弟子検査が行われ、高砂部屋からも一人受検して合格。愛知県一宮出身の前川翔次君で、平成15年4月生まれの15歳。愛知県一宮市立一宮南部中学3年生で、柔道部に所属し、市の相撲大会にも出場したところを若松親方のお父さんが目を付けスカウトに至った。176cm120kgとがっしりした体格で力強く、新弟子が苦労する股割の楽にこなす。将来が楽しみな逸材。
平成31年3月5日
入門丸4年となる朝虎牙、実家が部屋からほど近い阿倍野区にあり、叔父さんも甥(朝虎牙)の激励に差し入れをたくさん抱えて来てくれる。面倒見のいい叔父さんで、他の力士達も食事に連れていってくれ、力士たちともすっかり顔なじみの仲。その叔父さんの期待に応えるべく、今日のぶつかり稽古では朝弁慶が朝虎牙に胸を出し、朝虎牙は、ゴロンゴロン、泥ン泥ン。「今日はいい稽古をした。叔父さんに毎日来てもらおう」という声に、「もう来んといて~」。帰り際にはみんなからのリクエストに応え叔父さんからの闘魂注入。この掛け合いは大阪場所の風物詩になりつつある。
平成31年3月7日
新弟子検査に合格した前川君、中学校の卒業式のために一宮に帰っていたが、卒業式を無事終え部屋に戻ってきて稽古再開。学校では、同級生や先生方にずいぶん励まされ送り出されたもよう。四股名は、お父さんの意向で“朝翔”(あさはばたき)に決定。初場所2日目から行われる前相撲で初土俵を踏む。
平成31年3月8日
大阪には、『大阪日日新聞』という地方紙がある。地方紙だけに、地元の情報を詳細に伝える「ワイドおおさか」という特集面があり、3月7日付の同紙面に3月2日に行われた高砂部屋激励会の模様が写真入りで大きく掲載されている。写真は、日本盛の酒樽を壇上で鏡開きする師匠と桂文枝さん等の姿。西日本学生相撲連盟北村光雄会長の激励の言葉と共に、「65歳の定年までにぜひもう一人大関横綱を育てたい」という師匠の挨拶も紹介され、約1000人のお客様が高砂部屋力士の活躍を期待して賑わったと、紹介されている。
平成31年3月9日
初日を明日に控え、会場となるエディオンアリーナ大阪で土俵祭が行われ、各部屋や大阪府下の贔屓筋に触れ太鼓が回り、乾いた音が高らかにリズムよく鳴り響く。相撲ファンにとっては待ちに待った興奮がより高まる響きであろうし、力士にとっても期待と緊張に胸膨らむ響きである。高砂部屋一同、寺沢が序ノ口で先陣を切り、序二段では村田が久しぶりの土俵。三段目は一人もなく、幕下勢が全員登場。十両土俵入り前に朝弁慶、玉木とつづく。朝乃山は幕内前半戦最後から一番前で宝富士との対戦。玉鷲に錦木、貴景勝に妙義龍、遠藤に豪栄道、御嶽海に鶴竜、結びが白鵬に北勝富士の取組。
平成31年3月10日
朝から雨の大阪春場所初日。序二段33枚目の村田、昨年7月場所以来の本場所の土俵。デビューが三段目附出しだったので、序二段で土俵に上がるのは初めての経験。久しぶりの土俵と初序二段ということも重なったからなのか、かなり緊張したそうだが、相手の変化に動じず序二段初白星。序二段優勝間違いなしかと思っていたが、元大関照ノ富士も再起の序二段で、先場所序ノ口優勝の高校横綱狼雅、元十両天風もいてと、今場所の序二段優勝争いはレベルが高そう。幕下勢4戦全勝のあと朝乃山が攻めの相撲で初日を飾り、幸先よい春場所初日。
平成31年3月11日
午前中の雨が上り、お昼過ぎからは晴れ間ものぞいた春場所2日目。今日の大相撲中継解説は元大関朝潮の現師匠。しばらく観察副委員長であったが、この度の職務分掌で指導普及部副部長に異動したため久しぶりの正面解説席となった。口調滑らかで、わかりやすいと評判の解説は、今後機会が増えるのでは。その師匠解説の目の前で朝乃山2連勝とし、全体でも初日につづき7勝3敗と好調なスタート。
平成31年3月14日
NHKTVの大相撲中継がはじまったのは昭和28年5月場所から。その場所から解説を務めたのが元関脇の神風正一さん。歯切れよい解説と独特な味のある語り口で人気を博し、少し遅れて加わった玉の海梅吉さんの辛口で時折ユーモアを交えた解説は絶妙なコンビであった。その後、元小結若瀬川忠男さんや放送中に突然川柳を読みだすおとぼけ口調の出羽錦忠雄さん。誠実な語り口の緒方昇さん。そして現在の北の富士さんと、多士済々な顔ぶれの解説者揃い。序二段から復帰だった村田、昨日の相撲で再び膝を痛めてしまい、今日から休場。ただ前回のケガほどひどくはないので、再起への道が一歩後退しただけで、またこれから前に向かって歩みをすすめるのは一緒のこと。
平成31年3月16日
今場所初土俵の愛知県一宮市出身朝翔(あさはばたき)、今日勝って2勝目を上げ、9日目に行われる二番出世披露を決める。部屋に帰ってきて、「お蔭さんで勝ちました」と喜ぶ顔を見ると、額に擦り傷。「どうしたその傷」と尋ねると、相手に頭から当たられ、擦りむけたそう。痛かったので、「イテェー コノヤロー」と思って、差した右手から投げたら、相手がひっくり返ったという。決まり手は、“すくい投げ”。痛みを瞬時に闘争心に変えられるところは力士向き。
平成31年3月21日
幕下以下は2日に1回、7日間の取組だから、今日で全員6番取り終え、明日からの3日間で最後の一番に臨む。現時点で、勝越し6人、負越し6人、途中休場1人、3勝3敗5人という成績。怪我から復帰の序ノ口寺沢、序ノ口優勝をかけて明日最後の一番。お彼岸中日で、宿舎久成寺でも法要が営まれるので、普段本堂に寝泊まりしている力士達は、荷物や寝床を軒下や稽古場に運び出し、法要の設営をお手伝い。朝小雨そぼ降るも、暑さ寒さも彼岸までの言葉通り、温かな一日。春場所も残り3日。
平成31年3月22日
序ノ口寺沢、7戦全勝での序ノ口優勝。東洋大学時代の実績からすれば当然ではあるが、昨年3月の入門前に椎間板ヘルニアと診断され、入門後も一切稽古が出来ず、昨年6月に手術してと、苦しい一年間だっただけに感慨ひとしおなものがある。新潟県は佐渡の生まれで、中学生から金沢の相撲部で活躍し、金沢市工、東洋大学と全国のトップレベルで戦ってきた。千秋楽の土俵で表彰式と賞金授与。朝鬼神7人目の勝越し。朝乃山勝越しならず。
平成31年3月28日
大阪春場所が終わると春巡業。巡業組(朝乃山と朝鬼神、木村朝之助と朝大門、神山(横綱鶴竜の付人)は、明後日土曜日に近鉄上本町駅から伊勢神宮へ出発。3月31日(日)伊勢神宮奉納相撲を皮きりに、近畿、東海、関東近辺をまわって4月29日(月)の水戸場所まで、約一ヵ月間の長丁場。春巡業恒例の靖国神社奉納相撲は、4月15日(月)。巡業本体ではないが、呼出し利樹之丞と邦夫は巡業の先発土俵築として巡業地を先乗りしてまわる。大阪の桜もようやく咲き始め。
平成31年3月31日
昨30日(土)、巡業組は伊勢神宮へ、帰京組は相撲列車(新幹線)にて1ヶ月半ぶりの東京へ戻る。大阪から送られてきた大量の荷物を片づけ、土俵に水を撒き、明日から始まる稽古の準備。桜が咲き始めた大阪に比べると、満開を少し過ぎた東京の桜だが、十二分目を楽しませ春を感じさせてくれる。3月場所入門の前川改め朝翔(あさはばたき)は、明日から相撲教習所通い。早朝、下駄をカランコロン鳴らして国技館まで向かうと、江戸博沿いの桜並木が桜吹雪で出迎えてくれるであろう。
平成31年4月1日
桜(櫻)の文字は、四股名にけっこう使われている印象があったが、現役関取の中には見当たらなくなった。幕下に鏡桜がいるくらいか。三段目以下には何人かいるもようだが。横綱では、第53代横綱琴櫻、関脇富士櫻、現式秀親方の北桜、弟の豊桜。若貴と同期生で後プロレスに転向した力櫻、現高砂部屋若者頭の伊予櫻、押尾川部屋恵那櫻、相撲甚句の栃桜、戦前だと双葉山から金星を挙げた櫻錦等の四股名が思い浮かぶ。近頃有名な服部桜もいる。
平成31年4月3日
関脇富士櫻は山梨県甲府市の出身。昭和38年3月場所に15歳で初土俵を踏み、素質、体格共に恵まれなかったものの、猛稽古と丼飯7,8杯食べ体をつくり、徹底的な突き押し相撲で関脇まで昇進した。よく稽古し、よく飲み、まさに力士の鑑であった。昭和50年5月場所中日天覧相撲での麒麟児戦は、両者100発以上の突っ張り合いで館内を沸かせ、昭和天皇も身を乗り出すほどの大熱戦で今でも語り草になる名勝負。引退した昭和60年3月場所で、現師匠の大関朝潮が初優勝を飾り、優勝パレードの旗手を務めた。引退後中村部屋を創設。平成25年2月に停年。
平成31年4月7日
昭和59年11月場所で,富士櫻関の付人を務めさせてもらったことがあった。当時は若松部屋所属だったが、付人の仕事を覚えるため、本家高砂部屋の関取に本場所のみ出向しての付人修業であった。入門丸一年の新弟子だったから、仕事は準備運動中の水持ちと風呂上がりの足ふきだったが、風呂の出口で待っていると、中で「チクショー!」と大声で叫びながら洗面器を壁にぶつける音が響き、緊張した。土俵にかける闘志は引退前でも少しも衰えていなかった。
平成31年4月8日
第53代横綱琴櫻は、鳥取県倉吉市の出身。中高と柔道で鳴らしていたところを元琴錦の先々代佐渡ケ嶽にスカウトされ入門。「猛牛」と異名をとった激しいぶちかましからの押し相撲で、大関在位32場所の後、32歳という年齢での横綱昇進は「遅咲きの桜」と話題になった。優勝5回、引退後佐渡ケ嶽部屋を継承し、スカウトと指導の熱心さで、大関琴風、琴欧州、琴光喜、琴奨菊や現佐渡ケ嶽の関脇琴ノ若や琴錦等数多くの関取を育てた。倉吉市には横綱琴櫻記念館がある。
平成31年4月18日
今年の春巡業は夏並みに長期で、15日の靖国神社を前に一度部屋に帰ってきたものの、再び旅立っている。今日が足立区の東京武道館、明日が埼玉県行田市、その後千葉県柏市、群馬県高崎市、栃木県佐野市とまわり22日に一旦帰京。その後、25日から再び埼玉県日高市、青梅市、横浜、町田市とつづき、最終29日(月)が茨城県水戸市。翌日30日が番付発表。間に一旦帰京があるのは巡業に出ている若い衆にとっては、あまり嬉しくないこと。巷で話題の10連休は、相撲界には全く無縁のこと。令和元年夏場所は12日が初日。
平成31年4月20日
平成も残すところあと10日。大相撲界にとって、部屋(若松~高砂)にとって、平成はどういう時代だったのか振り返ってみたい。平成元年1月場所は、千代の富士、大乃国、北勝海の3横綱と小錦、旭富士、北天佑、朝潮の4大関の上位陣、前年(昭和63)3月場所入門の若花田が幕下、貴花田と曙は三段目に昇進したばかり。まだ世代交代の兆しが芽生えだしたところでしかない。若松部屋の師匠は元関脇房錦で、本家高砂部屋は元小結富士錦の6代目。元年3月場所で大関朝潮が引退して山響襲名、1年後の2年3月場所から若松部屋を継承することになる。
平成31年4月21日
平成3年5月場所初日、前頭筆頭に上がった18歳の貴花田が横綱千代の富士に初挑戦。視聴率44,4%に達したという新旧ヒーローの対決は寄り切りで貴花田が初金星を上げる。この場所3日目の相撲を最後に昭和の大横綱千代の富士が引退。貴花田は翌4年1月場所で初優勝。曙、若花田も三賞を受賞して日本中が若貴フィーバーに沸きたつ。元大関朝潮が師匠となった若松部屋では、5年1月場所に朝乃涛と朝乃若が十両昇進。翌3月場所朝相洋(後に朝乃翔)が十両昇進。
平成31年4月22日
若貴人気で満員御礼がつづき、新弟子希望者が増え、平成4年は223人、5年は211人もの入門者がいた。若松部屋にも毎年10人近くの入門者がいて総勢25人の大所帯となった。入場券にプレミアがつき相撲界全体がバブルであった。7年1月に貴乃花、10年7月若乃花が横綱に昇進、史上初の兄弟横綱誕生に沸いた。9年3月場所で朝乃翔が横綱曙を破る金星を上げ、朝乃若と共に幕内上位で活躍。ただ、10~11年頃から若貴にも陰りが見えだし相撲人気も下降線をたどる。12年3月若乃花、13年1月曙が引退。入門者数も100人前後に落ち着いた。666日つづいた満員御礼は9年5月2日目に途切れた。
平成31年4月23日
喉元過ぎれば何とやらで、相撲人気がつづくと切符が売れなかった頃のことをつい忘れてしまう。若貴がいた頃はずっと好景気だったように思っていたが、平成9年にはすでに切符が売れ残るようになっていた。このホームページを開設したのも売れなくなった切符の販路を少しでも広げようとしたのが動機であった。バブルの反動は長くつづき、暴行死事件や八百長問題で更に客足は遠のいた。部屋の切符を売りさばくのに毎場所苦労した。その後、協会のSNSでの情報発信やファンサービス、遠藤人気やスー女、外国人客等新たなファン層が広がり現在の人気につながっている。
平成31年4月24日
平成11年1月場所朝青龍が初土俵。翌12年1月には後を追うように朝赤龍が入門。出世の階段を駆け上り、15年1月場所後に横綱昇進。その後、白鵬、日馬富士、鶴竜、把瑠都、琴欧洲等が相次いで横綱、大関へと昇進し、グローバル化が進んだ。平成元年1月場所の外国出身力士は大関小錦一人だったのが、31年1月には2横綱を含め42人中9人を数えるまでに増加。若貴バブルが去った後の大相撲界を支えた。部屋は、14年2月に若松と高砂が合併、7代目高砂部屋として新たなスタート。合併時は関脇朝青龍を筆頭に関取4人、幕下以下29人合計33人となった。
平成31年4月25日
学生相撲出身力士が増えたのも平成時代の特徴といえるであろう。元年1月場所では幕内に4人だったのが、31年1月には14人に激増。高校相撲出身者も8人に上り、昭和で圧倒的に多かった中学卒の“たたき上げ”は少数派となった。一般社会での生活が長くなった分、意識や生活、服装も変わってきた。相撲用語を使う頻度が減り、花札やサイコロが消えゲームやSNSが当たり前になり、靴を履く力士が増えた。プロテインやサプリメントが常識になり、酒を飲む力士や大食い自慢の力士も減った。ちなみに現高砂部屋では大学相撲4人、大卒・社会人3人、高卒7人、中卒6人。酒は朝乃丈、大食いは朝弁慶に朝虎牙というところか。
平成31年4月27日
力士の大型化は、平成の30年でさらに加速した。幕内力士の身長・体重の平均は、平成元年1月場所で184,1cm、147,4kgだったのが、31年1月場所では身長は184c台と殆ど変わりないのに、体重が166,2kgと20kg近くも増えている。ちなみに年6場所制が始まった昭和33年(栃若時代幕開けの頃)の幕内の平均は176,6cm、114,3kgだったそうで、この60年で50kg余りも増えたことになる。「大きいことはいいことだ」を掲げる大相撲だが、明らかに太り過ぎである。
平成31年4月28日
平成15年1月場所で横綱貴乃花が引退。その場所で連続優勝を決めた朝青龍が横綱に昇進して大相撲人気を支えていった。その後19年7月場所に白鵬が横綱昇進。2人が優勝を交互にくり返し、2人とも不調だと琴欧洲、日馬富士、把瑠都といった面々が優勝を飾る。日本人力士の優勝は、18年1月の栃東以来、28年1月の琴奨菊まで10年を要した。そして29年3月場所で稀勢の里が待望の横綱昇進、日本国中が沸いた。高砂部屋は、合併以来20人を超えていた力士数が18年7月場所19人となり、以後年々減少。22年1月に朝青龍が引退すると、関取1人(朝赤龍)と若い衆10~12人という寂しい状況が続くが、27年に4人入門、11月に朝弁慶新十両昇進。翌28年には現朝乃山等4人が入門して再び活気を取り戻してきた。
平成31年4月29日
明治11年5月場所に始まった高砂部屋の歴史は、現在まで140年あまりつづく。その間、明治11年5月場所の幕内響矢(後に高見山ー2代目高砂)から平成28年11月場所の朝赤龍まで138年間常に関取を抱え、横綱6人、大関5人を輩出。1場所だけ関取不在となったものの、29年3月場所から朝乃山が伝統を引き継ぎ、新しい時代へとつなげていく。明日令和元年5月場所番付発表。明後日5月1日から稽古はじめ。
平成31年4月30日
5月場所新番付発表。番付中央には、相撲字で令和元年と記されている。番付は、江戸中期から現在の形になったそうだが、いくつ元号を記してきたのであろうか。そして、これからも引き継いでいかなければならない。先場所負越しの朝乃山、半枚下がって西8枚目と番付運がいい。幕下は、玉木が5枚目、朝興貴17枚目、朝弁慶18枚目。三段目では、朝虎牙が自己最高位を更新しての40枚目。先場所序ノ口優勝の寺沢が序二段14枚目。朝翔、初めて四股名を令和初番付にのせる。
令和元年5月2日
元特等床山の床寿こと日向端隆寿さんが4月30日に亡くなられた。床寿さんは青森県出身で昭和34年に入門。横綱前田山の4代目から現師匠の7代目まで4人の師匠の元で床山として活躍。横綱千代の富士に大関小錦、横綱朝青龍と大銀杏を結い、その技術は名人と讃えられた。享年75歳。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
令和元年5月6日
本日、床寿こと日向端隆寿さん告別式。床寿さんは相撲甚句の名人でもあった。もともと郷里の青森にいる頃から民謡を習い、のどには自信があったといい、床山として腕を磨きながら喉にも磨きをかけ相撲甚句のレコードやCDも出すプロであった。式場には本人の甚句が流れ、娘さんの挨拶では、番付に床山の名前を載せるために奔走し成し遂げた喜びを語ってくれた話も紹介された。相撲甚句会の先生として数多くの弟子も育て、出棺の際には、弟子たちによる「当地興行」で見送られ旅立った。
令和元年5月7日
日本相撲協会機関誌であるベースボール・マガジン社発行の月刊『相撲』誌元編集長である下家義久氏は、相撲甚句の作詞を数多く手がけ、以前相撲協会のHPで『柔剛適意』という相撲コラムも書いていた。実父が元幕内鶴ヶ嶺の10代井筒親方で、相撲部屋に生まれ、根っからの相撲人として相撲に対する深い愛情と造詣をもっておられる。甚句つながりで、床寿さんとも親交があり、旅立ちにあたって『“人生横綱”床寿一代』を手向けてくれた。井筒部屋は現在時津風一門だが、7代井筒は横綱初代西ノ海が高砂部屋から独立して興した部屋だから、元をたどれば高砂部屋とも縁がある。
令和元年5月9日
初日まであと3日。番付発表後、朝乃山は時津風部屋へ、幕下玉木は九重部屋へ出稽古に通っていたが、そろそろ調整に入り部屋で体をほぐす。部屋での稽古は、7時から四股やすり足等の基礎運動を1時間ほど行い、その後申し合い稽古。はじめに朝翔が朝乃丈に胸を借り、当たる稽古。つづいて朝童子と朝東の三番稽古。しばらくして朝阪神や朝心誠が加わり、朝童子と朝東がぶつかり稽古で上がった後、朝阪神、朝心誠に朝鬼神、朝大門が加わっての申し合い。朝翔が入ったことで、朝阪神、朝童子、朝東が力をつけた。
令和元年5月10日
取組編成会議が行われ、初日と2日目の割り(取組)が決定。朝乃山は、前半戦最後から一番前で魁聖との対戦。初日は8時30分取組開始で、4番目に朝翔が登場。幕下は朝弁慶と朝興貴が十両土俵入り前に続けて登場。2日目序二段で、朝ノ島、朝阪神、朝心誠と3人続けて西から登場。幕下上位五番の4番目で玉木が豊昇龍(朝青龍の甥)との対戦。お見逃しなく。村田は休場。
令和元年5月11日
令和元年五月場所の無事安全と繁栄を祈願しての土俵祭。土俵祭には理事長はじめ審判部親方、三役以上の力士並びに相撲教習所生徒も参加して行司が祭主となり執り行われる。教習所生徒は夏の正装である浴衣だが、関取衆は夏用の着物に羽織を着用。一月場所と三月場所の優勝力士は、土俵祭終了後に優勝額贈呈式があるため、黒紋付袴に大銀杏を結って出席することになっている。一月玉鷲、三月白鵬だが、白鵬は今場所休場のため玉鷲のみか。初夏の日差しの元、触れ太鼓が五月の青空に響きわたる。明日から初日。
令和元年5月12日
爽やかな風が力士幟をはためかせ満員札止めの令和元年五月場所初日。前売り券は15日間全席売り切れで、毎朝当日券が300~400枚発売される。朝、部屋に来たお客さんによると、5時40分に両国駅に着いて国技館に向かうとすでに200人余りの行列。切符の販売は8時前からだが、前もって整理券が配られ6時過ぎには予定枚数が終了したとのこと。熱心なお客さんに負けない熱い相撲をみせなければいけない。先場所序ノ口優勝の寺沢が序二段でも白星スタート、朝弁慶、朝乃山もいい内容での白星。
令和元年5月13日
朝乃山、今日2日目の対戦は尾車部屋友風。同じ学生相撲出身で、一年後輩。大相撲の世界では、先場所13日目に初めて対戦して上手投げで敗れてしまった。絶対負けたくない相手だっただけにショックが大きく、その日の支度部屋では報道陣に背を向けてしまったほどであったという。その友風に、リベンジの豪快な上手投げでの2連勝。場所後6月12、13日と北日本新聞社創刊135周年記念事業として射水市グリーンパークだいもん相撲場での富山合宿が行われることになっており、地元富山での凱旋合宿に向け、好調な滑り出し。
令和元年5月14日
朝乃山、今日もいい内容での3連勝。序二段朝東、三段目朝大門、朝鬼神は2連勝。全体でも5割超えの成績。
令和元年5月16日
序二段102枚目朝東3連勝。今日も双差しになって、どんどん前に攻めての3勝目。もともと双差しになるのは得意だが、その後の攻めが遅く白星につながらなかったが、今場所は一味違う。入門1年半、昨年は2回勝越したものの、今年はまだ勝ち越しなし。令和初の本場所で勝越して、そろそろ番付を上げていきたい。朝乃山、苦手だった輝に前に出る相撲で5連勝。玉木、朝天舞にも初日。明日から中盤戦。
令和元年5月17日
午前8時過ぎ、稽古場に新聞記者が一人来訪。部屋に記者が取材に来るのは久しぶりだなと思っていたら、それから次々と各社の記者が勢ぞろいして上り座敷は相撲記者でいっぱい。稽古後、囲みのインタビューを受け、朝乃山への注目度と期待度の高さが一気に高まっていることを実感。本人もいきなりの取材の多さを意識したのか、攻めの相撲が出せずに今場所初黒星。これから番付が上がっていくにつれ、こういうことにも慣れていかなければならない。日々のリズムを崩さず淡々と鍛錬していく。四股、テッポウは、そのためであるのだろう。寺沢、朝鬼神、三連勝。
令和元年6月1日
未だ夢のような感じさえする朝乃山初優勝。ちょうど1週間前の5月25日(土)14日目が優勝決定の日となった。優勝すると、様々な関連行事が行われる。前もって準備しておかなければならないことや当日の流れに従ってのもの等、さまざま。高砂部屋としての優勝は、平成22年1月場所の朝青龍以来。9年前のことだけに、当時横綱の付人だった神山や朝天舞、舞台裏の準備を行っていた大子錦や朝乃土佐等が、まだ現役でいるのである程度の流れはわかっている。そんな優勝の舞台裏を振り返ってみたい。
令和元年6月3日
優勝決定が千秋楽の前、13日目や14日目だと鯛を用意しなければならない。11日目単独トップに立った時はまだ半信半疑だった。12日目に敗れたものの、2敗で並んでいた栃ノ心が敗れ横綱鶴竜との争い。ひょっとするとと思い、お昼ごろから鯛の手配をして、千秋楽部屋の前で使う樽酒を千秋楽の朝には届けてもらうよう日本盛にお願いする。13日目栃ノ心戦を物言いのつく一番でものにして、横綱が高安に敗れたことで再び単独トップ。いよいよ初優勝への気運が高まってきた。
令和元年6月4日
14日目に優勝決定の可能性もあるので、関係者に「優勝が決まると部屋で鯛をもってお祝いの記念撮影を行いますのでお越し下さい」と連絡。優勝すると、千秋楽は一旦部屋にもどり師匠から樽酒で出迎えてもらうので、交通整理を本所警察に依頼。9年前までは年に何回も通った本所警察だが、現在は場所も職員も変わり、「今回もいつも通りに」という訳にはいかない。しかもトランプ大統領の警備に忙しく人数はあまり割けないという。午後4時過ぎ、稽古場上り座敷にテーブルを出しシーツをかけ記念撮影の設営開始。5時半過ぎ、後援会の方も何人か来て朝乃山の一番を見守った。
令和元年6月5日
14日目の優勝決定で報道陣が部屋に押しかけ溢れんばかり。朝乃山が部屋に戻ってきて鯛を前に座り、師匠と女将さんが隣に、関係者が周りを囲み、「優勝おめでとう!」で乾杯。「優勝って簡単にできるもんだなぁ。俺なんか何回失敗したことか」という師匠の言葉に報道陣がドッと沸く。明日の一番を残しているので、万歳やインタビューは無しで記念撮影のみ。万歳は千秋楽表彰式後の支度部屋にて天皇賜杯を抱いた朝乃山を囲んで行う。通常なら優勝力士の関係者は結びの一番の後支度部屋に入れるが、トランプ大統領警備で、6時前まで両国駅に近い南門外で足止め。SPや警備関係者が全員出た後6時過ぎになってようやく国技館内へ。
令和元年6月7日
日本盛からの優勝祝いの樽酒が千秋楽午前中に届き、ビールケース2箱にシーツをかけ台座をつくり樽酒をバールと金槌で開け、優勝パレードを部屋で迎える準備。担当は大子錦。両国国技館正面玄関から出発したオープンカーによる優勝パレードは回向院のある京葉道路までだから、その後の部屋、そして祝賀会会場までの車の手配は神山が担当。他の力士達も優勝賞品を運ぶために国技館へ。パーティー会場の受付は朝弁慶が担当。みなそれぞれ役割分担しての優勝祝賀会。今日から茨城県下妻市大宝八幡宮での合宿。夜はゑびすやにて朝乃山優勝祝賀会。
令和元年6月8日
大宝八幡宮合宿初日。心配された雨には降られずに観客席の内外には例年を上回る人垣。朝乃山が白マワシ姿で登場すると盛大な拍手喝采。昨年も白マワシの関取ではあったが、お客さんの眼差し、熱気、歓喜、昨年までとは明らかに違った雰囲気に土俵周りが包まれる。今まで知っていた力士が幕内最高優勝を飾って凱旋してくることは、人々の喜びも格別なものがある。幕内最高優勝は、本人はもちろんだが、関わりのあった全ての人々に幸せをもたらしてくれる。
令和元年6月11日
今日から富山合宿へ出発。上野駅12:30分発のはくたか563号で、師匠と朝乃山はじめ相撲教習所通いの朝翔以外の全力士等、総勢23名が新高岡で下り、合宿先の射水市グリーンパークだいもん相撲場内の射水相撲場入り。射水相撲場は、地元のアイシン軽金属相撲部が、選手強化とわんぱく相撲等の地域貢献を目指し、昨年3月末落成した真新しい相撲道場で、土俵開きには朝乃山も参加している。隣接する観覧席付きのだいもん相撲場での合宿稽古が、明日から2日間行われる。
令和元年6月12日
富山合宿稽古初日。稽古開始は午前7時半からだが、5時半に外に出てみると入り口付近に長蛇の列。6時過ぎ、新聞を買いに近くのコンビニに自転車で行くと、車や人が相撲場にぞくぞくと向かってくる。入り口で溢れ出したので6時半には入場してもらうと、相撲場は7割方埋まってしまった。7時前、土俵に朝天舞が入っていくと大きな拍手が巻き起こり、力士入場の度に拍手喝采。8時前、朝乃山登場に2000人余りの観客席から大歓声と拍手の嵐。かくして朝乃山フィーバーの一日がはじまった。
令和元年6月13日
富山合宿稽古2日目。2日間の合宿だから最終日でもある。今日も早朝から長蛇の列で、開場と同時に観覧席が埋まり満員御礼のだいもん相撲場。8時前、朝乃山登場に今日も大きな拍手と歓声の嵐。「朝乃山~こっち向いて~」「一周回って~」・・・四方から大きな声援が響く。「稽古中ですのでお静かに応援してくだい」という場内アナウンスにも場内がどっと沸く。稽古終了後、昨日に引き続き、後援会長、師匠、朝乃山とマイクでご挨拶。その後、ちゃんこ400人分が振舞われ、2日間の合宿稽古終了。富山の方々には“朝乃山祭り“となった2日間であった。午後2時10分新高岡発のはくたかにて帰京。
令和元年6月18日
16日(日)に先発隊が名古屋場所宿舎となる蟹江龍照院入り。毎年のことながら、鈴木まさる氏の出迎えの車でワイワイギャーギャー叫びつつの一年ぶりの名古屋。この日から、まさる氏とお相撲さんとの一ヶ月半に亘る濃密な日々がはじまる。朝乃山は16日に富山で、本日18日は大阪近畿大学での優勝パレード。まだまだ幕内最高優勝のイベントはつづく。
令和元年6月24日
7月場所番付発表。朝乃山は新三役ならず東前頭筆頭。今朝、龍照院客殿をお借りしての記者会見。「今場所は厳しいと思うが、前に出る自分の相撲を取り切りたい」と力強く決意。幕下玉木は東3枚目。ご当所で夢を叶えたい。三段目朝虎牙、自己最高位の西25枚目。半枚上東25枚目に朝大門。「絶対抜かれると思っていたげど俺の方が上だった」と喜んでいる。序二段朝東、自己再高位大きく更新する23枚目。寺沢初三段目、村田初序ノ口。
令和元年6月25日
名古屋場所に向けての稽古はじめ。午前8時半、土俵中央に砂を集め御幣を立て、四方から塩を撒き、十両格行司木村朝之助による土俵祭。朝之助が朗々と口上する故実言上である方屋開口を聞くと、相撲の神様を感じ、天地自然の理を感じ、心身ともに清められる。
令和元年6月28日
ちょうど1年前の名古屋場所で幕下筆頭だった村田、5日目の三番相撲で膝を怪我して休場。その後、9月、11月、1月と全休して3月場所序二段で復帰したものの、再び膝を痛め休場。2年前の3月場所、三段目附出しでのデビューだっただけに初序二段だった。そして先場所5月の全休により序ノ口まで番付を下げ、もちろん今場所が初序ノ口。名古屋入りしてようやく土俵の中での申し合いにも参加できるよになってきた。ただ、まだ日によっては不安定なときもあるようで、これからの膝の具合と相談しながらの出場なるか、というところ。
令和元年6月29日
三段目51枚目の寺沢は、東洋大学相撲部出身で村田の一年後輩。二人でレギュラーとして全国学生相撲選手権の団体優勝を勝ち取った。体格にはさほど恵まれない寺沢、琴錦や鷲羽山を彷彿させるようなスピード相撲が身上で学生時代全国大会での個人優勝も2度ある。あまりのスピードに身体組織がついていけなかったのか、入門前に椎間板ヘルニアが発覚して昨年6月に手術、丸一年を棒に振った。手術後のリハビリと四股一日千回が効を奏し、ようやく復活。まだ半分恐る恐るだが申し合い稽古もできるようになってきた。
令和元年6月30日
昨日は近鉄駅前の蟹江小学校で800人分のちゃんこの振舞い。今日は、毎年恒例龍照院境内でのちゃんこ会。境内にテントを張り、切った食材を運び込み、炊き出し用の大鍋2つでちゃんこをつくる。どんどん具を入れていき、シメジを入れようとしたら段ボールに入っていたシメジが見当たらない。「確かにこのテーブルの上に置いてあった」目撃証言は多数出るものの、どこを探しても見当たらない。「シメジどろぼう?」「買ってこようか?」「部屋にも少しあったはず」「何故???」みんなが訝るなか、横の神社から声が・・・「あった~!」 ちゃんこ鍋のとなりで搗いていたお餅と間違えて神社に奉納されていたらしい。奉納シメジを入れ、最後にキャベツとニラを入れて完成。時折激しく雨が降る悪天候にもかかわらず用意した500食のちゃんこが完食。

編集中

令和元年7月1日
朝乃山、豊田市に宿舎を構える横綱白鵬の宮城野部屋へ出稽古。豊田市までは蟹江からだと1時間近くかかるようだが、初めての横綱との三番稽古に臨む。臆することなく右四つ前に出る相撲を挑み、転がされ、あしらわれながらも、最初と最後の一番前の相撲では自分の相撲を取りきり、横綱を一気に土俵の外へ。これが横綱に火をつけたのか、最後は強烈な張り差しから上手投げで豪快に転がされ、しばらく意識朦朧としたとのこと。これからもどんどん胸を借り、横綱の強さを肌で感じ、全身に沁み込ませていってもらいたい。横綱も感じるものがあったのではなかろうか。
令和元年7月2日
昨年5月場所で、一年と4場所ぶりの十両復帰を果たした朝弁慶、取組で膝を痛め三段目まで番付を落とし再復帰を目指しての苦しい土俵がつづく。先場所は、本場所中ふくらはぎの肉離れを起こし歩くのもままならないなか強行出場し、1勝3敗から3連勝して勝越した。大阪場所で通った治療院が最近の体質に合うようで、大阪通いをつづけ、状態もかなり良くなってきたよう。ここ2,3日玉木と三番稽古を行い、重戦車相撲を見せている。弁慶の三番稽古が見られるのは久しぶりのこと。
令和元年7月4日
場所前恒例の高砂部屋激励会。朝乃山優勝効果であろう、例年より多くのお客様にお越しいただき、会場溢れんばかりの熱気。激励会の会場は、名古屋場所開催の愛知県体育館に程近いナゴヤキャッスルホテル。おそらく現師匠が若松親方となった平成2年の7月場所から激励会を行っているはずだから、若松部屋時代も含めると30年にもなる。そのナゴヤキャッスルホテルも築50有余年となり、来年の9月で閉館(改築のため)になるそうで、来年が最後の名古屋場所となる師匠(来年12月で定年)とちょうど歩調を合わせるような不思議な縁を感じる。
令和元年7月6日
場所前、宮城野、尾車、時津風と出稽古に通った朝乃山、昨日から部屋で調整。今日は、朝虎牙相手に立合いの踏み込みと右差し左上手で前に出る相撲を確認するよう十数番。稽古終了後、宿舎龍照院の御本尊十一面観音菩薩(重要文化財)をご開帳頂き、今場所の無事と必勝祈願。多少の疲れはあるものの気負いなく初日を迎えられそう。初日は大関豪栄道,2日目に横綱白鵬との対戦。明日の取組開始は8時30分。初口の土俵に朝翔が上がり、結び3番前に朝乃山・豪栄道戦、次が白鵬・阿炎で、結びが鶴竜・竜電。
令和元年7月7日
令和元年名古屋場所初日。注目の朝乃山、会心の内容で大関を破っての初日。今場所も大いに期待できそう。幕下3枚目玉木も白星スタート。名古屋場所のまっさらな土俵で相撲を取ったご当所一宮出身の朝翔も白星発進。部屋に帰ってきて、「突っ張りました!」と破顔の報告。稽古場では突っ張りを見せたこともないが、本番に強いタイプかもしれない。
令和元年7月11日
宿舎龍照院の横には蟹江川が流れ、境内を出てすぐ右の天王橋を渡ると、左に黒壁のモダンな2階建の建物がある。“祭人”(さいと)という蟹江町観光交流センターで、2階がユネスコ文化遺産に登録された「須成祭」ミュージアムで1階がカフェや蟹江町特産品の物販スペースになっている。その“祭人”が、朝乃山応援ボードをつくり、中央の朝乃山のサインと足型の周りに書き込まれたお客様からの応援メッセージを届けてくれた。蟹江の方はもちろん、富山からの応援メッセージもある。そんな応援を背に朝乃山2勝目。朝興貴、朝天舞、寺沢、朝童子と3連勝。
令和元年7月13日
序ノ口5枚目朝童子、4連勝での勝越し。令和元年7月場所高砂部屋勝越し力士第1号となった。四股名の通り顔はまだ童子だが、入門5年目中堅力士に足を踏み入れつつある。 そうはいっても誕生日が3月31日と早生まれなので、入門時はまだ14歳で、いまだ未成年。20歳を迎えるまでにはもう少し番付を上げたい。朝鬼神、寺沢と共に朝乃山の付人を務めている。幕下38枚目朝興貴も4連勝で、4度目の各段優勝へ向け突っ張っている。
令和元年7月15日
東洋大学相撲部時全国大会で2度個人優勝経験がある寺沢、押して引いて寄って投げてとスピード感あふれる相撲が身上だが、その超高速が自分の体を痛めてしまい、1年間稽古を出来ない憂き目を味わった。今場所前、ようやく三段目申し合いに加われるようになり、まだまだ全開とはいかないだろうが、身上のスピード相撲も垣間見えるようになってきた。4連勝同士で迎えた今日の相手は、先場所序二段優勝がかかる一番で敗れた高校相撲出身力士。先場所の鬱憤を晴らすかのような2本差しからの寄りで完勝。同じ三段目の朝天舞も5連勝で二人の優勝決定戦が期待できそう。朝心誠が勝越しを決め、三段目復帰濃厚。4連勝だった朝童子、朝興貴に土。
令和元年7月16日
三段目4枚目の朝鬼神、勝越して幕下復帰を確実なものとした。入門5年目の朝鬼神、入門前は大阪のジムでインストラクターをやりながらボディビルの世界でもそこそこ名が売れた選手であった。現在朝乃山の付人を務め、時々朝乃山のトレーニングパートナーとして相談にのることもある。名古屋入りしてからも、二人で市内のジムに行ったそうで、そのジムに後日行った若松親方にメンバーの方が声をかけてきたという。「何日か前、朝鬼神関が若いお相撲さんと二人で来ましたよ」おかしいなと思いつつ朝鬼神に確認してみると、朝乃山としか行ってないという。ボディビル界では、優勝力士朝乃山より朝鬼神の方がまだ有名なよう・・・。
令和元年7月17日
もともと朝型ではあるが、齢60も近くなると朝型が加速し5時半前には目が覚める。場所中の稽古は8時開始なので、時間がたっぷりあり、6時前から稽古場横で朝刊に目を通していると、すでに土俵横の椅子の前にスリッパが残されている。しばらくすると、短パンに運動靴を履いた朝天舞が早朝ランニングから戻ってくる。入門して丸20年、好調の時も不調の時も朝夕のトレーニングを欠かさず、ひたむきにつづけてきた朝天舞が、6連勝。マワシを締めて土俵に下りてくるのが一番早い寺沢も6連勝で、朝一番を競い合う二人の三段目優勝決定戦がいよいよ現実味を帯びてきた。朝乃丈も勝越し。
令和元年7月19日
三段目の朝天舞と寺沢、ともに勝って7戦全勝。千秋楽の土俵で、三段目優勝決定戦同部屋対決が実現する。若松部屋時代から合併後の高砂部屋を通じて記憶にないが、いつ以来の高砂部屋同部屋対決になるのであろうか?どちらにせよ今場所の三段目優勝は高砂部屋に決定で、これで今年に入り、1月三段目朝弁慶、3月序ノ口寺沢、5月幕内朝乃山につづき、7月場所も高砂部屋からの優勝力士輩出となる。幕下3枚目で3勝3敗の玉木、明日14日目に豊昇龍との対戦。勝った方が関取昇進の可能性大。朝乃山8敗目。
令和元年7月24日
7月場所の成績を基に9月場所の番付を決める番付編成会議が審判部で行われ、幕下東3枚目の玉木の新十両昇進が決定。十両昇進に伴い、四股名を朝玉勢(あさぎょくせい)と改名することも発表。午後12時半から宿舎龍照院の客殿をお借りして、師匠と並んでの記者会見。会見後、かわいい小学生の兄弟から花束贈呈。2,3年前から家族ぐるみで応援してくれている地元の後援会のご家族で、喜びもひとしお。花束贈呈のとき、フラッシュを焚かれちょっと緊張気味だったが、宿題の「夏休みの思い出」で出せる!と大喜び。友達や先生にうらやましがられることであろう。
令和元年8月12日
パソコンの不具合で長らく更新ができませんでしたが、ようやく再開できそうです。猛暑がつづくなか、巡業組は、今日12日が後山形県村山市での巡業。この後、青森市、板柳町(青森)から北海道へ渡り、16日は函館、17日18日と札幌で行い、19日に釧路を最後に帰京。毎夏恒例の平塚合宿は22日(木)乗り込みで稽古は23日(金)~25日(」日)までだから、今年は巡業組も前半参加できる。25日(日)は最近恒例となっている東京駅丸の内のKITTE場所。翌26日(月)が9月場所番付発表。
令和元年8月14日
来る9月場所での新十両昇進が決まった玉木改め朝玉勢(あさぎょくせい)は、三重県伊勢市の出身。父親も近畿大学相撲部出身で、物心ついたときには、すでにマワシを締めていたという。幼少のころから三重県志摩市にある志友館相撲道場で相撲を習い、中学生のときには親元を離れ、道場の近くに下宿して稽古に励んだ。下宿先には年の近い兄弟もいて、3兄弟のようにして育てられたそうで、朝玉勢の四股名は、その下宿先の育ての親が考えてくれた。8月26日の番付発表の日から関取となるので、まだ大部屋暮らし。枕を並べる朝乃丈と仲良く毎日のように口げんかをしている。
令和元年8月15日
終戦記念日。74年前の昭和20年8月15日正午、ラジオから流れる昭和天皇の玉音放送で終戦が知らされた。元出羽海部屋の力士で作家の小島貞二氏は南方のセレベス島で玉音放送を聞いたと著書『本日晴天興行なり』で記している。力士たちはほとんど疎開していて出羽海一門だけが30名ほど両国に残っていたという。力士たちは、部屋と路地を隔てた前の家のラジオで聞いた。当時の出羽海部屋は両国橋のたもとにあった。「道で相撲取りたちが、直立不動できいた。何とも空しい絶望感が流れたのを覚えているね」と小島氏の同期生だった小高が証言してくれた、とある。
令和元年8月17日
終戦を迎え連合国軍の占領下となり、軍事色を一掃するため武道は全面禁止となった。大相撲の存亡も、GHQ次第である。協会に残る藤島理事長(元横綱常ノ花)、春日野取締(元横綱栃木山)、楯山(元幡瀬川)、武蔵川(元出羽の花)の中でも思案がつづく。「しばらく様子を見たほうがいいのでは・・・」「こういう時だからこそ、一日も早く本場所を開催しなければ・・・」。文部省に訊いてもGHQの意向ははっきりしない。そんな折、ある会に親日家の米人牧師が招待されるという。相撲が平和的スポーツであることをマッカーサーに伝えてもらうべく、横綱安芸ノ海と関脇笠置山が協会を代表して訪問することになった。
令和元年8月18日
協会を代表しての訪問だから、正装でいかなければならない。笠置山は疎開先から紋付袴を取り寄せ、久しぶりに着てみたら驚いた。食糧難で30kg近く痩せ、袖が落ち、身幅が余り後ろまで回りそう。タオルを幾重にも巻き、何とか体裁を整えた。安芸ノ海もさかんに腕をまくり扇子で煽ぐので聞くと、やはり巻いてきたという。終戦間もない9月10日のこと、汗だくになりながら、相撲の歴史や美学、体験を語り、プロボクシングやプロレス同様、大衆が熱狂する観賞用格闘技だと説いた。2人の熱弁が功を奏したのか、9月23日に「マッカーサー司令官も観戦を希望している」という添書と共に本場所開催の許可が警視庁から下りた。
令和元年8月20日
許可が下り、本場所開催へ向け準備にとりかかる。焼け焦げて穴だらけになった国技館を直さなければならないが金がない。残っている理事長以下4人で手分けして金策に走り回り、ようやく応急工事を始めることができた。220本分の稽古マワシ用帆布を商工省に申請し、番付の準備もはじめる。和紙がないのでザラ紙に印刷、戦時下で新弟子がいなく番付に序ノ口がない。序二段、三段目もスカスカ。11月5日番付発表で、11月16日から10日間の開催。西張出横綱に双葉山の名があるが初日から休場して千秋楽に引退発表。翌21年11月19日に国技館で断髪式。
令和元年8月22日
今日から平塚合宿。若松部屋時代から数えると今年で26年目を迎えるようで、四半世紀を過ぎつづいていて、更にまた歴史を積み重ねていく。26年前からお世話になっている方、最近親しくなった方、時代を超え世代を超え、この平塚合宿を支えてくれている。まことにありがたい限り。稽古は、市の総合運動公園内土俵にて午前7時半~10時頃まで。愛知県の中学生3人も体験入門として合宿に参加している。
令和元年8月26日
9月場所番付発表。朝乃山は、1枚半落ちて西前頭2枚目。新十両の玉木改め朝玉勢(あさぎょくせい)は東十両14枚目。今日から正式に関取となる訳で、4階に個室も出来たが、相変わらず2階の大部屋で朝乃丈と口ゲンカしている。幕下は、朝弁慶が7枚目、先場所全勝の二人朝天舞が14枚目、寺沢が30枚目、朝興貴35枚目、朝鬼神48枚目。関取2人と幕下5人という陣容は久しぶりに番付の重みを感じさせる。朝翔初序二段。
令和元年8月27日
稽古始め。7時稽古開始だが、7時15分過ぎには玉木改め朝玉勢が稽古場に上がってきて(地下でマワシを締める)、白マワシ姿を初披露。おととい日曜日の平塚合宿の稽古では黒マワシ姿で、急に大きくなるわけもないのだが、白マワシになると、不思議と大きく輝いて見える。稽古後、力士会に初参加。新十両力士は歌わされることもたまにあるそうで心配していたが、今日は自己紹介のみで終わったようで胸をなでおろしていた。昨日は大部屋で昼寝していたが、今日は自分の個室で昼寝したもよう。日一日と関取らしさが身についてくる。
令和元年8月31日
十両に上がるとすべてが一変する。横綱・大関に上がった力士でも新十両の時が一番うれしかったと語る。付人がついて身の回りの世話をしてくれるようになるし、本場所では締め込みを締め、化粧まわしでの土俵入りもある。服装も正装は紋付袴となり、着物も夏冬用何着も仕立てなければならない。それぞれ高価な品なので、後援会や贔屓筋のご支援ご協力を仰がなければならない。玉木改め朝玉勢、本日地元伊勢での新十両昇進祝賀会。
令和元年9月1日
防災の日。大正12年(1923)9月1日午前11時58分に地震が発生。ちょうどお昼時で、ガス、かまど、七輪からの出火で火事が起こり、折からの強風にあおられ瞬く間に東京市中を焼き尽くす大火災となった。特に本所(現墨田区)・深川方面は火災が多く、本所区横網町の陸軍被服廠跡地(現墨田区横網町公園や日大一中高、両国中)には3万数千人の避難民が押し寄せた。午後4時過ぎ、火が広場の周囲にも広がり、猛烈な火災旋風が起こり、避難民が運び込んだ家財道具に燃え移り、荷車も家財も人も火の塊となって宙に舞い飛ぶ地獄と化した。広場での焼死者3万2千人余り、生存者はわずか200人ばかりであったという。関東大震災全体での死者は10万5千人を超える。
令和元年9月3日
震災による火災で、国技館も部屋もすべて焼けてしまったが、力士たちは巡業中だったのが幸いして難を逃れた。読売新聞社『大相撲』に連載されていた「二十二代庄之助一代記」に当時の様子が記されている「巡業で満州から内地に戻り、長野に入ったところでグラグラっと揺れた。東京へたどりつくと、辺り一面焼け野原。部屋(出羽海)は全焼し、国技館は鉄傘だけの無残な姿。部屋の蔵だけが焼け残っていて、親方と持参した米と塩サケを食べ三日間蔵で過ごすと、他の親方衆や行司も集まってきて蔵の中の荷物をトラックで稲毛海岸の常陸山の別荘へ運び、すぐ巡業にでた。その後二年ほどはバラックを建てて生活した」朝玉勢、九重部屋への出稽古。体調を崩していた朝乃山、今日から再始動。
令和元年9月6日
初日まであと二日。朝乃山、朝玉勢の二人は四股やすり足でしっかり汗をかき初日に向けて調整。朝玉勢の白マワシ姿もだいぶ板についてきた。新品の締め込みを締めて四股を踏み体に馴染ませ、なかなかインパクトのある絵柄の化粧まわしも試着してと、初めての15日間に向け準備万端。付人はベテラン朝ノ島と朝東が務める。今場所序ノ口から再起をかける村田は、三段目力士相手に稽古。膝の回復は順調なようで、地力の違いをみせている。今場所は休場者なし。
令和元年9月8日
蒸し風呂のような暑さとなった9月場所初日。台風接近とあって力士幟や北門と両国駅の間の相撲グッズ売店のテントが仕舞われ、少し寂しい国技館前。3日目から復活とのこと。名古屋場所は暑いものだという心構えがあるが、秋場所と名がつくだけに9月場所の暑さはより不快に感じてしまう。朝乃山、会心の相撲で御嶽海に初白星。明日は栃ノ心戦。新十両朝玉勢、初日を飾れず。幕下7枚目朝弁慶、豪快に極め出して白星スタート。
令和元年9月9日
台風上陸で深夜から早朝にかけて暴風雨となり、開始時間を30分遅らせ9時10分開始。 昨夕協会から電話やメールで、開始時間と取組みに遅れそうな場合は若者頭に連絡するよう通達が来る。序二段64枚目の朝東、出番が近づいて花道を土俵下に入ろうとしたら、若者頭に止められた。相手が電車が遅れてまだ来ていないという。支度部屋に戻り待機すること一時間余り。対戦相手が到着して土俵に上がったのは三段目の取組みに入った後。待ちくたびれたのか、実力通りだったのか、黒星スタート。朝乃山、今日も会心の相撲で2連勝。
令和元年9月10日
朝玉勢の幟を出してくれたのは浅草橋の手帳屋さん。朝乃山に幟を出してくれた蔵前のお寿司屋さんの常連さんで2年ほど前から玉木を熱烈に応援してくれている。東京場所の時には必ず1日か2日観戦にいくそうだが、今まで玉木の相撲にあたったことがなかったという(幕下以下は2日に1回の取組)。関取昇進の暁には幟を出すと言い出して2年、ようやく念願が叶った初日の観戦日。台風で幟が下ろされ生で見ることはできなかった。初生観戦となった取組みも黒星。しかし今日3日目、十両土俵での初白星。国技館前に掲げられた“吉澤晃文堂”の幟も、喜びいっぱいはためいているであろう。
令和元年9月11日
部屋に稽古見学に来たお客さんが、「あのお相撲さんはよく稽古するね」と口にするのが朝心誠。 熱心な稽古で入門2年で三段目中位まで番付を上げたが、なかなか三段目に定着できずに、今場所三回目となる三段目昇進。今日は元幕内力士に勝っての2連勝。この勝ち星を自信にして三段目に定着したい。朝玉勢、2勝2敗と星を五分にして、中入りの時間にNHKで新十両紹介インタビュー。
令和元年9月13日
朝乃山、昨日の横綱鶴竜に勝っての金星につづき、今日は大関豪栄道を上手投げで下して4勝2敗の成績。“金星”は平幕が横綱を破ることで、場所ごとに貰う報奨金が10円加算される。実際の支給額は4000倍なので、4万円。報奨金は関取でいる間は引退するまで毎場所支給されるので、金星は名誉であるとともに収入にも大きくかかわってくる。大関を倒した場合は、金星にちなんで銀星というが、こちらは加算金は一切ない。また、三役が横綱を倒しても金星はつかない。
令和元年9月14日
報奨金は、月給と別に場所毎に支給される。別名“持ち給金”といい、入門すると3円の給金がつき、勝越し1点(4勝3敗が1点勝ち越し、5勝2敗は3点勝越し)につき50銭加算されていく。 そのため勝ち越した時に「おかげさんで給金直しました」と挨拶する。支払われるのは関取のみで、地位によって、十両40円、幕内60円、大関100円、横綱150円と最低支給標準額が決まっている。今場所新十両の朝玉勢は、40円に届いていなかったはずだが、引き上げられて支給(4000倍だから16万円)される。ちなみに横綱白鵬は2055円だから4000倍すると822万円。序ノ口村田4連勝で勝ち越し第1号。
令和元年9月15日
三段目16枚目の朝乃丈、4連勝での勝越し。過去2連敗と合口の悪い相手だったそうだが、引かず頭を上げず我慢して押し出しての白星。普段は「もう勝てないっす」「だめっす」とネガティブな発言が多いが、今日はまんざらでもなさそう。あと1勝すると、33歳にして初の幕下昇進の可能性も高まってくる。朝玉勢、3連敗から脱出の白星で3勝目。朝乃山も今日も前に出る相撲で勝って6勝目。今場所初めて両関取揃っての白星。明日から後半戦。
令和元年9月16日
”太刀山は 四十五日で 今日も勝ち”とは、横綱太刀山の強豪ぶりを表した川柳。一突き半で相手を土俵の外に吹っ飛ばすから四十五日(ひと月半)。序ノ口で勝ちっぱなしの村田、同じく4連勝の相手を一突きで土俵下まで吹っ飛ばし5勝目。上の川柳になぞらえば、“序ノ口は 三十日で 村田勝ち”・・・幕下朝興貴、得意の回転のいい突きで勝ち越し。朝乃丈、5勝目ならず。朝乃山、驚異的な粘りと反応の良さで阿炎の猛攻をしのいで7勝目。
令和元年9月18日
三段目16枚目の朝乃丈、5勝目を上げて来場所での新幕下昇進を濃厚にした。33歳での昇進は快挙であり記録かと思ったら、36歳での昇進記録があろらしい(朝乃丈談)。幕下に上がると、博多帯が締められ(高砂部屋では2場所目から)、外套を着ることができる。番傘やマフラーが許されるのも幕下から。何より場所毎の手当てが11万円から16万5千円へとアップする。ボーナスもアップする。朝乃山優勝争いから一歩後退の3敗目。村田6勝
令和元年9月20日
膝のケガから復帰の村田、7戦全勝で序ノ口優勝。これで、今年に入って1月三段目で朝弁慶、3月序ノ口寺沢、5月幕内朝乃山、7月三段目寺沢につづき、5場所連続での各段優勝。来場所も大いに可能性があるので1年を通じての優勝力士も夢ではない。朝乃山9勝目。朝玉勢は残念な負け越し。あと2番、勝っておきたい。
令和元年9月23日
昨日9月場所千秋楽。前頭2枚目の朝乃山、最後の一番を飾れず10勝5敗。新聞の予想番付によると新三役昇進は難しそう。もともと番付運は悪くないほうだが、三役に向けては壁が厚い。力をつけているのは間違いないから、さらに上へと駆け上がる準備期間なのであろう。朝玉勢は5勝10敗に終わり、幕下からの出直し。勝越し組も最後の一番を白星で締めることができず、70勝86敗と久しぶりの勝率4割台前半。今週いっぱい場所休みで、来週から稽古再開。10月恒例の高知合宿は、10日(木)高知入りして11日(金)~14日(月)まで高知市総合運動場相撲場にての稽古。11日(金)夕方は相撲健康体操教室行います。
令和元年9月30日
28日(土)里山引退佐ノ山襲名披露、29日(日)稀勢の里引退荒磯襲名披露、今日30日(月)は全日本力士選士権大会と花相撲つづき。本場所や巡業以外の相撲を花相撲というが、今日の花相撲は正式には「天皇陛下御即位 明治神宮例祭奉祝 奉納第78回全日本力士選士権大会」という名称。第1回大会は大正14年に開催され優勝者は引退したばかりの横綱栃木山。今の稀勢の里がトーナメント大会に出て優勝するようなもの。驚くべきことに栃木山は、引退6年後の大会でも年寄春日野として現役の玉錦や天竜を破り優勝している。

編集中

令和元年10月1日
栃木山は、大正13年1月、5月と連続優勝し、14年1月も10勝1分けの成績で3連覇を果たしていた。突然の引退発表は不可解だと騒がれたが、「別にわけがあってのことではありませんが、ただ、この頃、頭の毛が薄くなって、お客から禿、禿といわれるのがいやなのです」と笑って答えたという。おそらくこれは自虐ネタで、横綱としての引き際の美学を貫いたものであろう。その証拠に、弟子の栃錦が横綱に昇進した時にまず、「横綱というものは、引くべきときに引かなければならないんだよ」と諭したという。
令和元年10月4日
栃木山の春日野親方は無類の酒好きで、毎晩ビール半ダースと酒一升を晩酌にしたという。昭和36年中央公論社刊の『栃錦一代』によると、付人に給仕させながら時計を前において、ゆっくり時間をかけて必ず10時半まで飲んだという。そして飲みながら、今日の稽古はここがよかった、あそこを直さなければいけないと、技術や日々の生活、心構え等細かく教えてくれたという。その毎晩の相撲講座が技能派力士栃錦を生み、名人横綱として栃若時代を築き、春日野理事長として人望を集めた。今日から巡業組出発。明日は石川県七尾市。
令和元年10月5日
晩酌をしながら語る話は、すべて相撲の話だった。歩き方から寝方、洗面所で顔を洗う時の足のかまえまで、行住坐臥すべてに及んだ。「歩くときはつま先立ちですり足で歩かなければならない」「下駄は前歯がガクンとへるようでなければだめだ」「脇の甘さをなおすためにはいつも肘をからだにくっつけて歩け」「夏はいくら暑くても寝巻を着て寝ろ」「寝るときは小さくなって寝ろ、飯を食うときは大きくなって食え。相撲をとるときもいっしょだ」「自分のからだにあった相撲をあみ出せ、人真似ばかりではだめ、自分のからだと力に相応した相撲をつくりだせ」・・・。
令和元年10月6日
昭和36年3月中央公論社刊行の『栃錦一代』は、内容もさることながら装幀も素晴らしい。外箱と扉に、「栃錦一代 春日野清隆」の文字と画が棟方志功の板画によって躍っている。年表をみると、昭和35、6年は、棟方志功の名が世界的になっている頃で、志功は栃錦の相撲人生に感ずるものがあり栃錦ファンとして装幀を引き受けたのではないかと想像したくなってしまう。巻末には、「人間栃錦」と題した和歌森太郎のあとがき。12ページに及ぶ長文で栃錦の人となりや出版に至る経緯等も紹介され興味深い。
令和元年10月7日
栃錦が入門したのは昭和13年9月、13歳のとき。『栃錦一代』には当時の相撲界の様子が細かく語られている。体重が規定の19貫(71,3kg)に足りず水を飲んで新弟子検査に受かった。初土俵は14年1月双葉山70連勝ならざるの場所。当時の前相撲は午前2時から行われ、2連勝して白星一つ。白星を三つとってはじめて“本中”に出世。本中でも白星三つとって初めて“新序”、翌場所から序ノ口として番付に名前を載せることができる。当時双葉山人気で前相撲に100人ほどいて7連敗してしまうが、千秋楽にようやく三つ目の白星をとって本中に出世できた。
令和元年10月9日
新弟子時の稽古は、元十両の栃ノ峯という30過ぎの兄弟子が指導してくれた。四股、テッポウを徹底的にやらされ、しばらくするとぶつかって押す稽古。ただひたすら当たって押させる。存分に押させて、右に左に巻き落とす。押していって土俵際の足の運び、重心の移動が悪いと巻かれてしまう。それをひたすら繰り返す。苦しくなって四つになると、“この野郎、四つになりやがった”と、一本のっけられる(腰投げ)か、足で蹴飛ばされた。「いま勝ってもしょうがない。五年後の稽古をやれ!五年後に勝つのが本当の稽古だ」と怒られた。
令和元年10月10日
高知合宿へ出発。例年より遅い便しか空きがなく、午後6時20分着で辺りは真っ暗。毎年のことながら室戸から師匠のお父さんとご近所の方々が魚やお米を差し入れしつつのお出迎え。お父さんは今年米寿を迎えるが、まだまだお元気な様子。差し入れの魚やお米を、これまた毎年お世話になる明徳義塾のバスに積み替え市営相撲場の合宿所へ。一年ぶりに来ると、餃子の王将がラーメン屋に変わり、近くのコンビニがすき家になっている。明日11日から14日までの稽古。明日夕方5時から小中学生対象の相撲健康体操教室。
令和元年10月11日
高知合宿稽古初日。地元のTV局や新聞各社が取材に来て、稽古終了後に高知市の歓迎セレモニー。市長からカツオと新高梨が贈呈され、師匠が謝辞を述べ、セレモニー終了後にインタビュー。高知合宿は平成24年から再開されたから、今年で8年目にもなる(一昨年はイベントと重なり来れなかったが)。夕方5時から恒例の相撲健康体操。1歳から参加している子が今年から小学1年生になったそうで、こちらも歴史を感じる。いつの日か参加者の中から力士が誕生してくれる日も来るかもしれない。
令和元年10月13日
“江戸の大関より地元の三段目”という言葉がある通り、高知に帰ってくると高知出身力士に期待が高まる。今日の地元紙高知新聞のスポーツ欄を開くと、大きなカラー写真で朝乃丈が仕切る姿。「33歳朝乃丈(安芸市出身)幕下昇進へ」の見出しで、今年の春場所から4場所連続で勝ち越しを決め、史上2位の年長記録での新幕下昇進を濃厚にした記事がたっぷり。22日の安芸巡業にも参加予定と紹介され、その後に小結遠藤結婚の記事が僅かばかり。夕方市内のホテルにて師匠のお父さんの米寿祝い。
令和元年10月20日
昨日19日に先発隊が福岡唐人町宿舎成道寺入り。本堂にゴザを敷き、カーテンを張って寝る体制を整え、恒例のわらすぼへ。今日は朝から大牟田の倉庫へ家財道具一式を運びに。毎年の事ながら、ゴーヤーマンがレンタカーで力士を運び、早良区の板倉さんが2トントラックを出してくれ、大牟田の倉庫で待っている4トントラックと2台に山盛りの荷物を運びこむ。板倉さんは、もともと師匠のファンだった方のお友達のお父さんで、本来高砂部屋とは縁もゆかりもない方だが、袖振り合うも何やらのご縁で毎年引っ越しのお手伝いをしてくれている。誠に奇特でありがたい。晩は、唐人町商店街の中にある奄美料理の店でラグビーと野球観戦しながらの食事。
令和元年10月22日
先発隊福岡乗り込み4日目。日中は暑いほどの好天続きで作業が順調にすすむ。ちゃんこ場のプレハブが完成して電気・水道の設備も完了したので洗い物を済ませ冷蔵庫を設置して差し入れの肉やアイスクリームをしまう。土俵も、あとは俵を入れるだけまで進み、明日午前中早い時間には完成しそう。今日の巡業は高知県安芸市。九州場所で新幕下昇進が確実な安芸市出身の朝乃丈、勧進元に招待を受けての特別参加。申し合い稽古や取組で土俵に上がると、大きな拍手喝采を浴びたそう。
令和元年10月24日
終日雨の福岡。部屋のなかの荷物等の片づけをのんびり行なう。お昼はお寺さんに差し入れいただいたピザとコーンスープ。足りない力士はプラス弁当。こういう食事も先発ならではのこと。ガスの配管も終わったので、明日あたりからちゃんこも作れそう。
令和元年10月27日
巡業組と東京残り番、福岡入り。先発中は広く感じられた宿舎成道寺の本堂も、いつもの広さに戻ってしまう。明日朝、番付発表。と同時に、大相撲カレンダーの配送も明日朝6時半らしく、あすはてんやわんやの忙しさになりそう。稽古は、明後日29日(火)からで、途中午前8時半から土俵祭。いよいよ九州場所の一か月間が始まる。
令和元年10月28日
一年納めの九州場所番付発表。朝乃山は西の張出小結に昇進して初めての三役。午後2時より宿舎成道寺本堂において師匠と共に昇進記者会見。富山からのTVカメラも何社も来ていてカメラ6台、記者溢れんばかりの注目度。富山からは、琴ヶ梅以来34年(?)ぶりの三役力士誕生だそう。朝玉勢は幕下に落ちたが、朝乃丈が新幕下昇進を決めたので、幕下力士7人という期待感あふれる番付。
令和元年10月30日
九州場所に向けての稽古開始2日目。初日は四股やすり足等で体をほぐしただけでだった朝乃山、今日は土俵の中に入っての稽古も開始。稽古場にはNHKが海外向けに発信しているニュース情報番組NHKワールドが朝乃山の取材。稽古の様子やインタビュー、唐人町商店にある大好物のフレンチトーストを食べにいく場面等、撮影した模様。
令和元年11月3日
朝夕は冷えるものの、日中は暑いほどの小春日和がつづいた福岡だが、今日は少し肌寒さも感じるほどの曇天。それでも相変わらずおすもうさんは裸でゴロゴロしている。稽古中も、四股やすり足、お寺の参道ダッシュ等の準備運動で、かなりいい汗をかく。以前の寒風吹きすさび体の芯から底冷えする稽古場だった九州場所が夢のよう。朝乃山は連日の出稽古で、時津風部屋(?)通い。
令和元年11月4日
九州入りしてからの稽古は、1時間余り基礎運動で汗を流した後、朝童子、朝東、朝翔の三人による三番稽古で始まる。朝東は双差し狙いで、朝童子は前みつ狙い。朝翔は押しと、三者三様。初めのうちは朝東が勝ち続けることが多いが、番数を重ねるごとに朝童子の動きが良くなってきて形勢が逆転する。ただ本場所は一日一番だから、その差が二人の番付にも表れているのであろう。その中で、朝翔はなかなかめが出ない(勝てない)が、時折目の覚めたような一気の押しでいい相撲を取る。毎日同じ相手とやることによって、その日の体調や力のつき具合が実感できるし、一つの技(双差し、前みつ、押し)を徹底して磨くことができる。
令和元年11月5日
3人が仕上げのぶつかり稽古で上がると、朝阪神、朝心誠、朝虎牙、朝大門による申し合い稽古。3人だと順番通りに回ってくるが、4人になると少しランダムになって積極性や体調によって番数に差が出てくるので申し合い(勝ち抜き)稽古といえるように思う。最初は、ここに朝鬼神も加わっていたが脚を痛め2,3日戦列を離れている。少し前までは朝童子や朝東と同チームだった朝阪神、ワンランク上げて稽古できるようになった。そこそこめも出ている。そろそろ三段目も近くなってきたかも・・・。
令和元年11月6日
朝大門等4人の三段目申し合い(朝阪神は序二段だが)が終わると、幕下力士による申し合い。朝玉勢、朝興貴、寺沢に新幕下朝乃丈も加わっての申し合い。1年前の九州場所は番付外まで落ちて休場中だった寺沢、幕下で申し合いに参加できるまでに回復した。30日には、学生時代以来何年かぶりに朝乃山の胸も借り、朝乃山に「幕下で負越した力士と思えない」と言わしめたそう。
令和元年11月9日
一昨日7日(木)が毎年場所前恒例の高砂部屋激励会。朝乃山効果であろうが、昨年より多くのお客様にお越し頂き、九州場所での高砂部屋力士の活躍を期す。明日から初日で触れ太鼓が初日の顔触れ(取組)を秋空高く呼び上げる。豪栄道には遠藤、白鵬に北勝富士、結びが鶴竜に朝乃山。
令和元年11月10日
秋晴れの初日。割り(取組)が珍しい偏り方で、序二段以下は全員2日目で、初日の今日最初の取組は三段目の朝乃土佐。三段目4力士が2勝2敗とした後、幕下も下位3力士が明日で、上4人の取組が続き2勝2敗。最後に登場の新小結朝乃山は横綱戦不戦勝の白星。
令和元年11月11日
札幌に月下相撲同好会というハートの熱い方たちの集まりがあり、縁あって高砂部屋を応援してくれている。その月下主催で、今年の夏に北海道安平町の早来(はやきた)神社で相撲教室が行われ、赤ん坊から小中学生、大人まで男女共にマワシを締めて相撲体操や力士(朝乃丈、朝ノ島)とのぶつかり稽古で汗を流し大いに楽しんだ。以来、月下は二人の大ファンになり九州場所にもはるばる雪の札幌から飛んできてくれた。熱い応援を背に新幕下の朝乃丈、幕下としての初白星。今宵はわらずぼで祝杯中。新小結朝乃山も大関を破っての2戦勝ちっぱなし。明日横綱白鵬戦。
令和元年11月12日
九州場所3日目。11月も半ばになろうかというのに、朝夕の冷え込みは少しあるものの日中は相変わらずの小夏(?)日和。おすもうさんは未だに上半身裸かTシャツもしくはタンクトップで、季節感なし。部屋近くの散歩コースである大濠公園のコスモスも最近ようやく花がひらき始めた。稽古場でも、準備運動でみんないい汗をかいている。朝乃山に土がつくものの、関取復帰を目指す朝玉勢は2連勝。朝童子も2連勝。朝興貴、朝天舞、朝阪神、朝翔に初日。
令和元年11月13日
何度か紹介してきたと思うが、今年に入って高砂部屋から毎場所優勝力士を輩出している。1月三段目朝弁慶、3月序ノ口寺沢、5月幕内朝乃山、7月三段目寺沢、9月序ノ口村田。この九州場所で優勝力士がでると、年間制覇を実現できる。各段優勝では珍しい記録になるのではと思う。可能性があるのが、幕下の朝玉勢、朝弁慶、寺沢。序二段の村田、朝童子もまだある。朝乃山も大いにある。という楽しみが千秋楽まで続いてくれると期待したい。
令和元年11月14日
愛知県北名古屋市にある宝寿司さんは、先代の頃から高砂部屋を応援してくれ、最近朝弁慶も随分お世話になっている。女将さんは定休日を利用して他の場所にも来てくれ、今日は成道寺へ来た時の話。女将さんが、東京の部屋を午後訪ねたときに玄関に出たのが電話番の朝翔。「弁慶に名古屋のお寿司屋さんが来たと伝えて」と言づけると、2階へ行き下りてきた朝翔、「弁慶さん今下りてきます。お寿司の出前取ったんすか?」と言われずっこけたと大笑い。各場所で初めて出会うたくさんのお客さんの顔は覚えられるわけもないが、今日の話で宝寿司さんを忘れないであろう。女将さんも店でネタとしてよく披露しているとのこと。その朝弁慶、3連勝。朝乃山も会心の相撲で4勝目。
令和元年11月16日
幕下38枚目寺沢、4連勝での勝越し第一号。先場所こそ負越したものの、今年に入って3月大阪序ノ口で7戦全勝、7月名古屋三段目で7戦全勝、そして11月九州4連勝と地方場所では負け知らず18連勝中。スピード感溢れ縦横無尽な動きが身上の寺沢。明治時代の大関荒岩亀之助は、機敏で激しい千変万化の取り口から「摩利支天の再来」と云われたそうだが、荒岩の相撲を彷彿させるのではないか(荒岩の相撲は見たことないが・・・)。朝弁慶4連勝ならず。朝乃山5勝目。
令和元年11月18日
序二段村田5連勝。先場所の序ノ口優勝につづいての連続優勝が近づいてきた。ただ今場所は、序二段下位で元幕内宇良が同じく5連勝としているので、千秋楽両者による決定戦となりそうで楽しみ。幕下2枚目朝玉勢3勝目。今日が通算100勝目だそう。今場所で通算成績を102勝に積み上げて水曜日の番付編成会議を待ちたい。解説の北の富士さんから横綱宣言が出た朝乃山7勝目。寺沢に土がつき、朝東負け越し決定。
令和元年11月19日
朝乃山、今日の対戦は明生。稽古熱心で進境著しい期待の若手ホープで、先場所千秋楽に敗れて悔しい思いをした相手。お互い攻める相撲が持ち味で注目された一番は、朝乃山しっかり踏み込んで明生の激しい当たりをもろともせずすぐ左上手を引き、右を差しこんで万全の寄り切りでの勝越し決定。年間最多勝獲得にまた一歩大きく近づき、優勝争いで1敗の白鵬を1差でただ一人追う展開。部屋に戻ってきて「おかげさんで」と挨拶する表情もいつも通りで、新三役での勝越しも通過点に過ぎない感。幕下の朝弁慶、朝天舞勝越し。序二段朝童子も勝越し。
令和元年11月20日
東幕下2枚目の朝玉勢、あと一番残しての勝越し決定。残り4日間での十両下位の力士の成績次第だが、あと一番勝つと再十両がかなり濃厚になってくる。4勝のままでも可能性はあるので、最後の一番思い切り挑んでほしいが、最近そういう余裕も感じられる。朝乃山、今日も安定感抜群の力強い取り口で9勝目。いよいよ本物感が高まってきた。明日、御嶽海戦。序二段村田6勝目。対抗の大本命宇良が敗れたため、先場所に続いての連続優勝が近づいてきた。幕下寺沢、元小結を破っての5勝目。序二段朝阪神、序ノ口朝翔、嬉しい勝越し。
令和元年11月22日
朝玉勢、大銀杏を結い十両の土俵で明瀬山との対戦。突っ張っていなし突っ張っていなし、張り手も交え激しく動き回ったあと左マワシを取って頭をつけ膠着状態。十両14枚目の明瀬山も負ければ負越しで幕下陥落必至なので、お互い譲れない攻防。熱戦に館内から拍手が沸き起こり、一呼吸おいて朝玉勢が出し投げを打ち後ろ向きにさせるが、勢い余って自分も飛び出してしまう。一瞬ヒヤリとしたが明瀬山の足が出ており朝玉勢5勝目。本人曰く、足が出たのは見えたそう。十両力士を引きずりおろし再十両昇進を濃厚なものにした。朝乃山、2ケタ10勝目。朝乃土佐、11人目の勝越し。序二段村田7連勝で千秋楽に優勝決定戦。
令和元年11月30日
場所休みも終わり、今日から巡業へ出発。今日直方へ乗り込み、明日1日(日)の巡業。3日(火)下関市、4日(水)熊本県人吉市、5日(木)福岡県うきは市、6日(金)大分市。その後、熊本県小国町、鹿児島市、諫早市、佐賀市と回って、沖縄県うるま市で2日間興行して15日(日)に帰京。前回までは、朝乃山に付人一人だったが、三役に上がったので、朝鬼神と初巡業朝東の2人が付人として参加。十両格行司木村朝之助には朝大門が付人として参加。その朝大門、今日家財道具一式を大牟田の倉庫まで引っ越し作業だったが、トラックの荷台に自転車10数台を山高く積み込むのが上手く、さすが“チャリ門(カド)”と、褒め讃えられていた。残り番明日帰京。
令和元年12月4日
2019年も大相撲界にとっては激動の一年でした。一月場所横綱稀勢の里が4日目に引退発表。横綱鶴竜、白鵬が途中休場して優勝を飾ったのは関脇玉鷲。西前頭8枚目の朝乃山は、初日から5連敗するも中盤以降立て直して8勝7敗の成績。膝の怪我のため番付を三段目まで落とした朝弁慶が三段目優勝を飾り、腰のケガで一年を棒に振った寺沢が前相撲から再起の新年初場所となりました。高砂部屋全体では67勝60敗と勝越し。
令和元年12月5日
平成最後の場所となった3月大阪場所は横綱白鵬が全勝優勝で復活。栃ノ心が大関から陥落して貴景勝が昇進と入れ替わり。東前頭8枚目の朝乃山は、10日目まで7勝3敗と好調だったのに生ガキにあたり、まさかの5連敗で負け越し。師匠に不養生を叱責される。椎間板ヘルニアの手術から復帰の寺沢が序ノ口優勝。愛知県一宮しから15歳の朝翔が入門。力士数が久しぶりに20人になった。
令和元年12月7日
令和初の本場所かつトランプ米大統領観戦という異例の場所となった5月場所。西前頭8枚目朝乃山が12勝3敗で初優勝を飾る快挙達成。高砂部屋からの幕内最高優勝は、平成22年1月場所の朝青龍以来。朝青龍引退以来、複数の記者が部屋に来ることはなかったが、5月場所6日目以降恒例となった。千秋楽や場所後の会見等、久しぶりの忙しさを味わった。6月の茨城下妻や富山射水での合宿も朝乃山フィーバーがつづく。お米や宮崎牛、ビール、野菜、・・・数々の副賞の恩恵もおよそ10年ぶりのことだった。
令和元年12月12日
7月名古屋場所、5月場所の優勝で三役昇進が期待された朝乃山だったが、東前頭筆頭止まり。場所前宮城野部屋に出向き横綱白鵬の胸を借り、大関2人を破る活躍をみせるものの7勝8敗と負け越し。幕下3枚目の玉木、最後の一番に勝って勝越し。新十両昇進を決め、朝玉勢に改名を場所後に発表。三段目で朝天舞と寺沢が7戦全勝同士で同部屋対決。寺沢が勝って三段目優勝を決めた。訃報。昨晩、元潮丸の東関親方が亡くなりました。41歳という若さでした。ご冥福をお祈りいたします。
令和元年12月25日
昨日、新年初場所の新番付発表。朝乃山、東の新関脇に昇進。午前10時より師匠同席で記者会見が行われ、稽古場上がり座敷溢れんばかりの報道陣。注目度の高さが伝わってくる。再十両朝玉勢は東12枚目。少し余裕を持って取れそう。幕下は、朝弁慶6枚目、寺沢15枚目と上位に二人。22枚目に朝興貴、25枚目朝天舞とつづき、朝鬼神は49枚目。三段目は、幕下から落ちた朝乃丈18枚目、序二段から戻った村田21枚目。序二段朝童子49枚目、朝翔73枚目と自己最高位を更新。
令和元年12月26日
師走は行事や雑務に追われ、しばらく日記に空白ができてしまいました。今さらですが、振り返ってみたいと思います。16日(月)はホテルニューオータニにて高砂部屋激励会&クリスマスパーティー、朝乃山人気で例年より大勢のお客様にお越しいただきました。18日(水)19日(木)と東関親方の葬儀が高砂一門葬として行われ部屋一同も参列とお手伝い。あまりにも若すぎる旅立ちでした。20日(金)は東京富山県人会連合会を母体とした東京朝乃山後援会の発会式。22日(日)には部屋でおもちつき。24日(火)が番付発表で、新関脇昇進の記者会見。今日は2月に行われますフジテレビ大相撲トーナメントのパンフレット用の写真撮影とインタビュー。29日に稽古収めで新年の稽古始は3日より。今年も残すところあと5日となりました。
令和元年12月27日
2019年の大相撲、9月秋場所は両横綱の相次ぐ休場と大関陣の不振で大混戦。御嶽海が決定戦で貴景勝を下して2回目の優勝。後半戦まで優勝争いに加わった前頭2枚目朝乃山は10勝5敗で2回目の殊勲賞受賞。横綱鶴竜から初金星獲得。怪我から復帰の村田が序ノ口優勝を決め、高砂部屋は今年に入って5場所連続での各段優勝。新十両朝玉勢は5勝10敗の成績で幕下陥落決定。三段目16枚目の朝乃丈が5勝を上げ翌11月場所で新幕下昇進。33歳での昇進は史上2位のスロー出世記録。
令和元年12月28日
2019年は、1月玉鷲、3月白鵬、5月朝乃山、7月鶴竜、9月御嶽海と毎場所優勝力士が替わる一年であったが、納めの九州場所は白鵬が3月に続いて今年2度目の賜杯。新小結朝乃山は11勝を上げて初技能賞。朝玉勢が幕下2枚目で5勝2敗の成績を上げ、一場所での十両復帰決定。高砂部屋勢は1月三段目朝弁慶、3月序ノ口寺沢、5月幕内朝乃山、7月三段目寺沢、9月序ノ口村田と各段優勝が続き、11月も序二段村田が優勝決定戦に出場し年間グランドスラム達成かと期待されたが、敗れて成らず。
令和元年12月30日
昨日29日が稽古収め。稽古終了後、手締めを行っておかみさんからお年玉を頂き、ちゃんこと掃除を終えて解散。解散の前に、幕下以下力士の年間最多勝の表彰が若者会からあり、上位3名の優秀力士に金一封が贈呈される。2019年の年間最多勝は寺沢で29勝6敗。前相撲はカウントしないから5場所での成績で、勝率8割3分の高率。序ノ口からの再起だから実績からすれば当然ともいえるが1年前前相撲で稽古も出来なかったのに、1年たって幕下15枚目まで番付を上げてきた。そして現在は、朝玉勢と共に朝乃山の稽古相手になり連日胸を借りるまでに回復している。2020年は勝負の年になるであろう。
令和元年12月31日
幕下以下年間最多勝2位は27勝15敗の朝弁慶。昨年5月場所で1年半ぶりの再十両となったものの膝を怪我して二場所全休、三段目まで番付を落としていた。回復が長引き、歩くのもままならない状況だった昨年11月場所、強行出場して4勝3敗と勝越し。これで気分的に吹っ切れたようで膝が悪いなりの相撲を取り切って1月場所三段目優勝。その後も膝の状態は一進一退だが、幕下6枚目まで番付を戻してきた。年齢的にも30を超え、寺沢とは違った意味での勝負の年になる。大晦日。今年も一年お世話になりました。佳いお年をお迎えください。
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