平成31年4月1日
桜(櫻)の文字は、四股名にけっこう使われている印象があったが、現役関取の中には見当たらなくなった。幕下に鏡桜がいるくらいか。三段目以下には何人かいるもようだが。横綱では、第53代横綱琴櫻、関脇富士櫻、現式秀親方の北桜、弟の豊桜。若貴と同期生で後プロレスに転向した力櫻、現高砂部屋若者頭の伊予櫻、押尾川部屋恵那櫻、相撲甚句の栃桜、戦前だと双葉山から金星を挙げた櫻錦等の四股名が思い浮かぶ。近頃有名な服部桜もいる。
平成31年4月3日
関脇富士櫻は山梨県甲府市の出身。昭和38年3月場所に15歳で初土俵を踏み、素質、体格共に恵まれなかったものの、猛稽古と丼飯7,8杯食べ体をつくり、徹底的な突き押し相撲で関脇まで昇進した。よく稽古し、よく飲み、まさに力士の鑑であった。昭和50年5月場所中日天覧相撲での麒麟児戦は、両者100発以上の突っ張り合いで館内を沸かせ、昭和天皇も身を乗り出すほどの大熱戦で今でも語り草になる名勝負。引退した昭和60年3月場所で、現師匠の大関朝潮が初優勝を飾り、優勝パレードの旗手を務めた。引退後中村部屋を創設。平成25年2月に停年。
平成31年4月7日
昭和59年11月場所で,富士櫻関の付人を務めさせてもらったことがあった。当時は若松部屋所属だったが、付人の仕事を覚えるため、本家高砂部屋の関取に本場所のみ出向しての付人修業であった。入門丸一年の新弟子だったから、仕事は準備運動中の水持ちと風呂上がりの足ふきだったが、風呂の出口で待っていると、中で「チクショー!」と大声で叫びながら洗面器を壁にぶつける音が響き、緊張した。土俵にかける闘志は引退前でも少しも衰えていなかった。
平成31年4月8日
第53代横綱琴櫻は、鳥取県倉吉市の出身。中高と柔道で鳴らしていたところを元琴錦の先々代佐渡ケ嶽にスカウトされ入門。「猛牛」と異名をとった激しいぶちかましからの押し相撲で、大関在位32場所の後、32歳という年齢での横綱昇進は「遅咲きの桜」と話題になった。優勝5回、引退後佐渡ケ嶽部屋を継承し、スカウトと指導の熱心さで、大関琴風、琴欧州、琴光喜、琴奨菊や現佐渡ケ嶽の関脇琴ノ若や琴錦等数多くの関取を育てた。倉吉市には横綱琴櫻記念館がある。
平成31年4月18日
今年の春巡業は夏並みに長期で、15日の靖国神社を前に一度部屋に帰ってきたものの、再び旅立っている。今日が足立区の東京武道館、明日が埼玉県行田市、その後千葉県柏市、群馬県高崎市、栃木県佐野市とまわり22日に一旦帰京。その後、25日から再び埼玉県日高市、青梅市、横浜、町田市とつづき、最終29日(月)が茨城県水戸市。翌日30日が番付発表。間に一旦帰京があるのは巡業に出ている若い衆にとっては、あまり嬉しくないこと。巷で話題の10連休は、相撲界には全く無縁のこと。令和元年夏場所は12日が初日。
平成31年4月20日
平成も残すところあと10日。大相撲界にとって、部屋(若松~高砂)にとって、平成はどういう時代だったのか振り返ってみたい。平成元年1月場所は、千代の富士、大乃国、北勝海の3横綱と小錦、旭富士、北天佑、朝潮の4大関の上位陣、前年(昭和63)3月場所入門の若花田が幕下、貴花田と曙は三段目に昇進したばかり。まだ世代交代の兆しが芽生えだしたところでしかない。若松部屋の師匠は元関脇房錦で、本家高砂部屋は元小結富士錦の6代目。元年3月場所で大関朝潮が引退して山響襲名、1年後の2年3月場所から若松部屋を継承することになる。
平成31年4月21日
平成3年5月場所初日、前頭筆頭に上がった18歳の貴花田が横綱千代の富士に初挑戦。視聴率44,4%に達したという新旧ヒーローの対決は寄り切りで貴花田が初金星を上げる。この場所3日目の相撲を最後に昭和の大横綱千代の富士が引退。貴花田は翌4年1月場所で初優勝。曙、若花田も三賞を受賞して日本中が若貴フィーバーに沸きたつ。元大関朝潮が師匠となった若松部屋では、5年1月場所に朝乃涛と朝乃若が十両昇進。翌3月場所朝相洋(後に朝乃翔)が十両昇進。
平成31年4月22日
若貴人気で満員御礼がつづき、新弟子希望者が増え、平成4年は223人、5年は211人もの入門者がいた。若松部屋にも毎年10人近くの入門者がいて総勢25人の大所帯となった。入場券にプレミアがつき相撲界全体がバブルであった。7年1月に貴乃花、10年7月若乃花が横綱に昇進、史上初の兄弟横綱誕生に沸いた。9年3月場所で朝乃翔が横綱曙を破る金星を上げ、朝乃若と共に幕内上位で活躍。ただ、10~11年頃から若貴にも陰りが見えだし相撲人気も下降線をたどる。12年3月若乃花、13年1月曙が引退。入門者数も100人前後に落ち着いた。666日つづいた満員御礼は9年5月2日目に途切れた。
平成31年4月23日
喉元過ぎれば何とやらで、相撲人気がつづくと切符が売れなかった頃のことをつい忘れてしまう。若貴がいた頃はずっと好景気だったように思っていたが、平成9年にはすでに切符が売れ残るようになっていた。このホームページを開設したのも売れなくなった切符の販路を少しでも広げようとしたのが動機であった。バブルの反動は長くつづき、暴行死事件や八百長問題で更に客足は遠のいた。部屋の切符を売りさばくのに毎場所苦労した。その後、協会のSNSでの情報発信やファンサービス、遠藤人気やスー女、外国人客等新たなファン層が広がり現在の人気につながっている。
平成31年4月24日
平成11年1月場所朝青龍が初土俵。翌12年1月には後を追うように朝赤龍が入門。出世の階段を駆け上り、15年1月場所後に横綱昇進。その後、白鵬、日馬富士、鶴竜、把瑠都、琴欧洲等が相次いで横綱、大関へと昇進し、グローバル化が進んだ。平成元年1月場所の外国出身力士は大関小錦一人だったのが、31年1月には2横綱を含め42人中9人を数えるまでに増加。若貴バブルが去った後の大相撲界を支えた。部屋は、14年2月に若松と高砂が合併、7代目高砂部屋として新たなスタート。合併時は関脇朝青龍を筆頭に関取4人、幕下以下29人合計33人となった。
平成31年4月25日
学生相撲出身力士が増えたのも平成時代の特徴といえるであろう。元年1月場所では幕内に4人だったのが、31年1月には14人に激増。高校相撲出身者も8人に上り、昭和で圧倒的に多かった中学卒の“たたき上げ”は少数派となった。一般社会での生活が長くなった分、意識や生活、服装も変わってきた。相撲用語を使う頻度が減り、花札やサイコロが消えゲームやSNSが当たり前になり、靴を履く力士が増えた。プロテインやサプリメントが常識になり、酒を飲む力士や大食い自慢の力士も減った。ちなみに現高砂部屋では大学相撲4人、大卒・社会人3人、高卒7人、中卒6人。酒は朝乃丈、大食いは朝弁慶に朝虎牙というところか。
平成31年4月27日
力士の大型化は、平成の30年でさらに加速した。幕内力士の身長・体重の平均は、平成元年1月場所で184,1cm、147,4kgだったのが、31年1月場所では身長は184c台と殆ど変わりないのに、体重が166,2kgと20kg近くも増えている。ちなみに年6場所制が始まった昭和33年(栃若時代幕開けの頃)の幕内の平均は176,6cm、114,3kgだったそうで、この60年で50kg余りも増えたことになる。「大きいことはいいことだ」を掲げる大相撲だが、明らかに太り過ぎである。
平成31年4月28日
平成15年1月場所で横綱貴乃花が引退。その場所で連続優勝を決めた朝青龍が横綱に昇進して大相撲人気を支えていった。その後19年7月場所に白鵬が横綱昇進。2人が優勝を交互にくり返し、2人とも不調だと琴欧洲、日馬富士、把瑠都といった面々が優勝を飾る。日本人力士の優勝は、18年1月の栃東以来、28年1月の琴奨菊まで10年を要した。そして29年3月場所で稀勢の里が待望の横綱昇進、日本国中が沸いた。高砂部屋は、合併以来20人を超えていた力士数が18年7月場所19人となり、以後年々減少。22年1月に朝青龍が引退すると、関取1人(朝赤龍)と若い衆10~12人という寂しい状況が続くが、27年に4人入門、11月に朝弁慶新十両昇進。翌28年には現朝乃山等4人が入門して再び活気を取り戻してきた。
平成31年4月29日
明治11年5月場所に始まった高砂部屋の歴史は、現在まで140年あまりつづく。その間、明治11年5月場所の幕内響矢(後に高見山ー2代目高砂)から平成28年11月場所の朝赤龍まで138年間常に関取を抱え、横綱6人、大関5人を輩出。1場所だけ関取不在となったものの、29年3月場所から朝乃山が伝統を引き継ぎ、新しい時代へとつなげていく。明日令和元年5月場所番付発表。明後日5月1日から稽古はじめ。
平成31年4月30日
5月場所新番付発表。番付中央には、相撲字で令和元年と記されている。番付は、江戸中期から現在の形になったそうだが、いくつ元号を記してきたのであろうか。そして、これからも引き継いでいかなければならない。先場所負越しの朝乃山、半枚下がって西8枚目と番付運がいい。幕下は、玉木が5枚目、朝興貴17枚目、朝弁慶18枚目。三段目では、朝虎牙が自己最高位を更新しての40枚目。先場所序ノ口優勝の寺沢が序二段14枚目。朝翔、初めて四股名を令和初番付にのせる。
令和元年5月2日
元特等床山の床寿こと日向端隆寿さんが4月30日に亡くなられた。床寿さんは青森県出身で昭和34年に入門。横綱前田山の4代目から現師匠の7代目まで4人の師匠の元で床山として活躍。横綱千代の富士に大関小錦、横綱朝青龍と大銀杏を結い、その技術は名人と讃えられた。享年75歳。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
令和元年5月6日
本日、床寿こと日向端隆寿さん告別式。床寿さんは相撲甚句の名人でもあった。もともと郷里の青森にいる頃から民謡を習い、のどには自信があったといい、床山として腕を磨きながら喉にも磨きをかけ相撲甚句のレコードやCDも出すプロであった。式場には本人の甚句が流れ、娘さんの挨拶では、番付に床山の名前を載せるために奔走し成し遂げた喜びを語ってくれた話も紹介された。相撲甚句会の先生として数多くの弟子も育て、出棺の際には、弟子たちによる「当地興行」で見送られ旅立った。
令和元年5月7日
日本相撲協会機関誌であるベースボール・マガジン社発行の月刊『相撲』誌元編集長である下家義久氏は、相撲甚句の作詞を数多く手がけ、以前相撲協会のHPで『柔剛適意』という相撲コラムも書いていた。実父が元幕内鶴ヶ嶺の10代井筒親方で、相撲部屋に生まれ、根っからの相撲人として相撲に対する深い愛情と造詣をもっておられる。甚句つながりで、床寿さんとも親交があり、旅立ちにあたって『“人生横綱”床寿一代』を手向けてくれた。井筒部屋は現在時津風一門だが、7代井筒は横綱初代西ノ海が高砂部屋から独立して興した部屋だから、元をたどれば高砂部屋とも縁がある。
令和元年5月9日
初日まであと3日。番付発表後、朝乃山は時津風部屋へ、幕下玉木は九重部屋へ出稽古に通っていたが、そろそろ調整に入り部屋で体をほぐす。部屋での稽古は、7時から四股やすり足等の基礎運動を1時間ほど行い、その後申し合い稽古。はじめに朝翔が朝乃丈に胸を借り、当たる稽古。つづいて朝童子と朝東の三番稽古。しばらくして朝阪神や朝心誠が加わり、朝童子と朝東がぶつかり稽古で上がった後、朝阪神、朝心誠に朝鬼神、朝大門が加わっての申し合い。朝翔が入ったことで、朝阪神、朝童子、朝東が力をつけた。
令和元年5月10日
取組編成会議が行われ、初日と2日目の割り(取組)が決定。朝乃山は、前半戦最後から一番前で魁聖との対戦。初日は8時30分取組開始で、4番目に朝翔が登場。幕下は朝弁慶と朝興貴が十両土俵入り前に続けて登場。2日目序二段で、朝ノ島、朝阪神、朝心誠と3人続けて西から登場。幕下上位五番の4番目で玉木が豊昇龍(朝青龍の甥)との対戦。お見逃しなく。村田は休場。
令和元年5月11日
令和元年五月場所の無事安全と繁栄を祈願しての土俵祭。土俵祭には理事長はじめ審判部親方、三役以上の力士並びに相撲教習所生徒も参加して行司が祭主となり執り行われる。教習所生徒は夏の正装である浴衣だが、関取衆は夏用の着物に羽織を着用。一月場所と三月場所の優勝力士は、土俵祭終了後に優勝額贈呈式があるため、黒紋付袴に大銀杏を結って出席することになっている。一月玉鷲、三月白鵬だが、白鵬は今場所休場のため玉鷲のみか。初夏の日差しの元、触れ太鼓が五月の青空に響きわたる。明日から初日。
令和元年5月12日
爽やかな風が力士幟をはためかせ満員札止めの令和元年五月場所初日。前売り券は15日間全席売り切れで、毎朝当日券が300~400枚発売される。朝、部屋に来たお客さんによると、5時40分に両国駅に着いて国技館に向かうとすでに200人余りの行列。切符の販売は8時前からだが、前もって整理券が配られ6時過ぎには予定枚数が終了したとのこと。熱心なお客さんに負けない熱い相撲をみせなければいけない。先場所序ノ口優勝の寺沢が序二段でも白星スタート、朝弁慶、朝乃山もいい内容での白星。
令和元年5月13日
朝乃山、今日2日目の対戦は尾車部屋友風。同じ学生相撲出身で、一年後輩。大相撲の世界では、先場所13日目に初めて対戦して上手投げで敗れてしまった。絶対負けたくない相手だっただけにショックが大きく、その日の支度部屋では報道陣に背を向けてしまったほどであったという。その友風に、リベンジの豪快な上手投げでの2連勝。場所後6月12、13日と北日本新聞社創刊135周年記念事業として射水市グリーンパークだいもん相撲場での富山合宿が行われることになっており、地元富山での凱旋合宿に向け、好調な滑り出し。
令和元年5月14日
朝乃山、今日もいい内容での3連勝。序二段朝東、三段目朝大門、朝鬼神は2連勝。全体でも5割超えの成績。
令和元年5月16日
序二段102枚目朝東3連勝。今日も双差しになって、どんどん前に攻めての3勝目。もともと双差しになるのは得意だが、その後の攻めが遅く白星につながらなかったが、今場所は一味違う。入門1年半、昨年は2回勝越したものの、今年はまだ勝ち越しなし。令和初の本場所で勝越して、そろそろ番付を上げていきたい。朝乃山、苦手だった輝に前に出る相撲で5連勝。玉木、朝天舞にも初日。明日から中盤戦。
令和元年5月17日
午前8時過ぎ、稽古場に新聞記者が一人来訪。部屋に記者が取材に来るのは久しぶりだなと思っていたら、それから次々と各社の記者が勢ぞろいして上り座敷は相撲記者でいっぱい。稽古後、囲みのインタビューを受け、朝乃山への注目度と期待度の高さが一気に高まっていることを実感。本人もいきなりの取材の多さを意識したのか、攻めの相撲が出せずに今場所初黒星。これから番付が上がっていくにつれ、こういうことにも慣れていかなければならない。日々のリズムを崩さず淡々と鍛錬していく。四股、テッポウは、そのためであるのだろう。寺沢、朝鬼神、三連勝。
令和元年6月1日
未だ夢のような感じさえする朝乃山初優勝。ちょうど1週間前の5月25日(土)14日目が優勝決定の日となった。優勝すると、様々な関連行事が行われる。前もって準備しておかなければならないことや当日の流れに従ってのもの等、さまざま。高砂部屋としての優勝は、平成22年1月場所の朝青龍以来。9年前のことだけに、当時横綱の付人だった神山や朝天舞、舞台裏の準備を行っていた大子錦や朝乃土佐等が、まだ現役でいるのである程度の流れはわかっている。そんな優勝の舞台裏を振り返ってみたい。
令和元年6月3日
優勝決定が千秋楽の前、13日目や14日目だと鯛を用意しなければならない。11日目単独トップに立った時はまだ半信半疑だった。12日目に敗れたものの、2敗で並んでいた栃ノ心が敗れ横綱鶴竜との争い。ひょっとするとと思い、お昼ごろから鯛の手配をして、千秋楽部屋の前で使う樽酒を千秋楽の朝には届けてもらうよう日本盛にお願いする。13日目栃ノ心戦を物言いのつく一番でものにして、横綱が高安に敗れたことで再び単独トップ。いよいよ初優勝への気運が高まってきた。
令和元年6月4日
14日目に優勝決定の可能性もあるので、関係者に「優勝が決まると部屋で鯛をもってお祝いの記念撮影を行いますのでお越し下さい」と連絡。優勝すると、千秋楽は一旦部屋にもどり師匠から樽酒で出迎えてもらうので、交通整理を本所警察に依頼。9年前までは年に何回も通った本所警察だが、現在は場所も職員も変わり、「今回もいつも通りに」という訳にはいかない。しかもトランプ大統領の警備に忙しく人数はあまり割けないという。午後4時過ぎ、稽古場上り座敷にテーブルを出しシーツをかけ記念撮影の設営開始。5時半過ぎ、後援会の方も何人か来て朝乃山の一番を見守った。
令和元年6月5日
14日目の優勝決定で報道陣が部屋に押しかけ溢れんばかり。朝乃山が部屋に戻ってきて鯛を前に座り、師匠と女将さんが隣に、関係者が周りを囲み、「優勝おめでとう!」で乾杯。「優勝って簡単にできるもんだなぁ。俺なんか何回失敗したことか」という師匠の言葉に報道陣がドッと沸く。明日の一番を残しているので、万歳やインタビューは無しで記念撮影のみ。万歳は千秋楽表彰式後の支度部屋にて天皇賜杯を抱いた朝乃山を囲んで行う。通常なら優勝力士の関係者は結びの一番の後支度部屋に入れるが、トランプ大統領警備で、6時前まで両国駅に近い南門外で足止め。SPや警備関係者が全員出た後6時過ぎになってようやく国技館内へ。
令和元年6月7日
日本盛からの優勝祝いの樽酒が千秋楽午前中に届き、ビールケース2箱にシーツをかけ台座をつくり樽酒をバールと金槌で開け、優勝パレードを部屋で迎える準備。担当は大子錦。両国国技館正面玄関から出発したオープンカーによる優勝パレードは回向院のある京葉道路までだから、その後の部屋、そして祝賀会会場までの車の手配は神山が担当。他の力士達も優勝賞品を運ぶために国技館へ。パーティー会場の受付は朝弁慶が担当。みなそれぞれ役割分担しての優勝祝賀会。今日から茨城県下妻市大宝八幡宮での合宿。夜はゑびすやにて朝乃山優勝祝賀会。
令和元年6月8日
大宝八幡宮合宿初日。心配された雨には降られずに観客席の内外には例年を上回る人垣。朝乃山が白マワシ姿で登場すると盛大な拍手喝采。昨年も白マワシの関取ではあったが、お客さんの眼差し、熱気、歓喜、昨年までとは明らかに違った雰囲気に土俵周りが包まれる。今まで知っていた力士が幕内最高優勝を飾って凱旋してくることは、人々の喜びも格別なものがある。幕内最高優勝は、本人はもちろんだが、関わりのあった全ての人々に幸せをもたらしてくれる。
令和元年6月11日
今日から富山合宿へ出発。上野駅12:30分発のはくたか563号で、師匠と朝乃山はじめ相撲教習所通いの朝翔以外の全力士等、総勢23名が新高岡で下り、合宿先の射水市グリーンパークだいもん相撲場内の射水相撲場入り。射水相撲場は、地元のアイシン軽金属相撲部が、選手強化とわんぱく相撲等の地域貢献を目指し、昨年3月末落成した真新しい相撲道場で、土俵開きには朝乃山も参加している。隣接する観覧席付きのだいもん相撲場での合宿稽古が、明日から2日間行われる。
令和元年6月12日
富山合宿稽古初日。稽古開始は午前7時半からだが、5時半に外に出てみると入り口付近に長蛇の列。6時過ぎ、新聞を買いに近くのコンビニに自転車で行くと、車や人が相撲場にぞくぞくと向かってくる。入り口で溢れ出したので6時半には入場してもらうと、相撲場は7割方埋まってしまった。7時前、土俵に朝天舞が入っていくと大きな拍手が巻き起こり、力士入場の度に拍手喝采。8時前、朝乃山登場に2000人余りの観客席から大歓声と拍手の嵐。かくして朝乃山フィーバーの一日がはじまった。
令和元年6月13日
富山合宿稽古2日目。2日間の合宿だから最終日でもある。今日も早朝から長蛇の列で、開場と同時に観覧席が埋まり満員御礼のだいもん相撲場。8時前、朝乃山登場に今日も大きな拍手と歓声の嵐。「朝乃山~こっち向いて~」「一周回って~」・・・四方から大きな声援が響く。「稽古中ですのでお静かに応援してくだい」という場内アナウンスにも場内がどっと沸く。稽古終了後、昨日に引き続き、後援会長、師匠、朝乃山とマイクでご挨拶。その後、ちゃんこ400人分が振舞われ、2日間の合宿稽古終了。富山の方々には“朝乃山祭り“となった2日間であった。午後2時10分新高岡発のはくたかにて帰京。
令和元年6月18日
16日(日)に先発隊が名古屋場所宿舎となる蟹江龍照院入り。毎年のことながら、鈴木まさる氏の出迎えの車でワイワイギャーギャー叫びつつの一年ぶりの名古屋。この日から、まさる氏とお相撲さんとの一ヶ月半に亘る濃密な日々がはじまる。朝乃山は16日に富山で、本日18日は大阪近畿大学での優勝パレード。まだまだ幕内最高優勝のイベントはつづく。
令和元年6月24日
7月場所番付発表。朝乃山は新三役ならず東前頭筆頭。今朝、龍照院客殿をお借りしての記者会見。「今場所は厳しいと思うが、前に出る自分の相撲を取り切りたい」と力強く決意。幕下玉木は東3枚目。ご当所で夢を叶えたい。三段目朝虎牙、自己最高位の西25枚目。半枚上東25枚目に朝大門。「絶対抜かれると思っていたげど俺の方が上だった」と喜んでいる。序二段朝東、自己再高位大きく更新する23枚目。寺沢初三段目、村田初序ノ口。
令和元年6月25日
名古屋場所に向けての稽古はじめ。午前8時半、土俵中央に砂を集め御幣を立て、四方から塩を撒き、十両格行司木村朝之助による土俵祭。朝之助が朗々と口上する故実言上である方屋開口を聞くと、相撲の神様を感じ、天地自然の理を感じ、心身ともに清められる。
令和元年6月28日
ちょうど1年前の名古屋場所で幕下筆頭だった村田、5日目の三番相撲で膝を怪我して休場。その後、9月、11月、1月と全休して3月場所序二段で復帰したものの、再び膝を痛め休場。2年前の3月場所、三段目附出しでのデビューだっただけに初序二段だった。そして先場所5月の全休により序ノ口まで番付を下げ、もちろん今場所が初序ノ口。名古屋入りしてようやく土俵の中での申し合いにも参加できるよになってきた。ただ、まだ日によっては不安定なときもあるようで、これからの膝の具合と相談しながらの出場なるか、というところ。
令和元年6月29日
三段目51枚目の寺沢は、東洋大学相撲部出身で村田の一年後輩。二人でレギュラーとして全国学生相撲選手権の団体優勝を勝ち取った。体格にはさほど恵まれない寺沢、琴錦や鷲羽山を彷彿させるようなスピード相撲が身上で学生時代全国大会での個人優勝も2度ある。あまりのスピードに身体組織がついていけなかったのか、入門前に椎間板ヘルニアが発覚して昨年6月に手術、丸一年を棒に振った。手術後のリハビリと四股一日千回が効を奏し、ようやく復活。まだ半分恐る恐るだが申し合い稽古もできるようになってきた。
令和元年6月30日
昨日は近鉄駅前の蟹江小学校で800人分のちゃんこの振舞い。今日は、毎年恒例龍照院境内でのちゃんこ会。境内にテントを張り、切った食材を運び込み、炊き出し用の大鍋2つでちゃんこをつくる。どんどん具を入れていき、シメジを入れようとしたら段ボールに入っていたシメジが見当たらない。「確かにこのテーブルの上に置いてあった」目撃証言は多数出るものの、どこを探しても見当たらない。「シメジどろぼう?」「買ってこようか?」「部屋にも少しあったはず」「何故???」みんなが訝るなか、横の神社から声が・・・「あった~!」 ちゃんこ鍋のとなりで搗いていたお餅と間違えて神社に奉納されていたらしい。奉納シメジを入れ、最後にキャベツとニラを入れて完成。時折激しく雨が降る悪天候にもかかわらず用意した500食のちゃんこが完食。