今日の若松部屋
平成10年1月1日
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
朝10時より、部屋2階の大広間にて新年会。親方より年頭挨拶があり、その後関取から順番におとそを受ける。若い衆にはおかみさんからお年玉もつく。関取以外はいくつになっても”若い衆”なので、いい年になってもお年玉を貰うことができる。
30才を過ぎてもお年玉を貰っているのはおすもうさんぐらいのものであろう。まあ、いくつになってもうれしいものだが・・
少し酒のまわったところでカラオケ大会。勝次郎、朝闘山、朝ノ霧の3人が、優秀歌唱賞、でなくてお笑い賞として金一封を獲得。
平成10年1月2日
「フクちゃん」の愛称で親しまれている朝ノ霧。朝乃翔の付人として頑張っていて、関取の信頼も厚いのだが、お正月になると毎年話題になることがある。
それは、入門して6回目のお正月を迎えるのだが、年賀状が毎年決まって2枚しか来ないということである。それも1枚は名古屋の宿舎のお寺さんからで、もう1枚は接骨院と判で押したように決まっている。今年も期待どおりで、話題の中心であった。
すでにやめてしまった力士にも3、4枚来ているのにである。だれか「フクちゃん」に年賀状をおくってくれ~~~。今日から稽古始め。
平成10年1月3日
「フクちゃん」ばなし続編。年賀状の来ないフクちゃん、真面目な好青年だが少し人見知りするので、電話も殆どかかってこない。こちらも年賀状と一緒で、かかってくる先は2件のみである。1件は、朝乃翔関からで「4階に上がってこい」(関取の個室は4階。)というもので、もう1件は名古屋の柳川さんという関取の知り合いからのみである。そんな話をしていたら、珍しくフクちゃんに電話がかかってきた。相手はやはり朝乃翔関からで、そのあまりのタイミングのよさに大笑いであった。
平成10年1月4日
新弟子にとって電話の応対は、慣れるまで難しい仕事である。そんなお話を少し。
3、4年前まで朝長内という力士がいた。彼が電話番をしているところへ脇原マネージャーから電話がかかってきた。
脇原マネージャー「もしもし、脇原だけど」朝長内「はい、脇さんですね。少々お待ち下さい」
しばらくして電話口から聞こえてきたのは、「わきさん~でんわですよ~」と朝長内が叫ぶ声。
ふたたび受話器を取った朝長内「もしもし、脇原マネージャーはいないようですけど」
脇原マネージャー「アホ!俺が脇原だ!」 朝長内「なーんだ、脇さんだったんすか」、といって用件も聞かずに電話を切ってしまった。
電話をかけ直した脇原マネージャー「頼むからだれか別のやつに代わってくれ」とバカマケ(あきれはてる)であった。
朝乃若、朝乃翔の両関取、今日から三保ヶ関部屋へ出稽古。怪我が心配の朝乃翔も関取衆との申し合いを精力的にこなしたようで、初場所に向け順調。
平成10年1月5日
電話の話のついでにもうひとつ。これもすでに引退した力士だが、朝金川という力士がいた。
関取宛ての電話を取り次いで、「し、し、七福神の コ、コ、コンペについて、と電話がかかってきてますけど」(彼はどもるクセがあった。)と言ってきた。なんじゃそれは???と関取が電話に出てみると、その実態は「福娘とのコンパについて」という電話であった。
一応、福とコンだけは正確に伝えることができた朝金川であった。その朝金川、体重を半分に減らして(140Kgあった)実家の食堂を手伝っているらしい。
平成10年1月6日
初場所の新弟子検査が行われる。若松部屋からも一人受験、合格する。(正式には内臓検査の結果待ちだが、体格検査はパスする。) 本名住吉慎一、22才。親方や関取と同じ近畿大学相撲部出身である。
本来なら先場所デビューの予定であったが、書類のミスで今場所の合格となり、本人も一安心の顔で帰ってきた。
初日が近づいてきて、初場所用のさがりをはり直す。友綱部屋が出稽古に来る。
平成10年1月8日
体の故障の為、朝西春が初場所限りで引退することとなり、若者会による送別会を御徒町の飲み屋で開く。
久しぶりの大雪に見舞われた東京、飲んでいるときは良かったが、帰りが大変であった。もともとあまり飲めない朝藤墳、一次会で討死にして 御徒町の雪の中を裸足で叫びながら房風に連れられて、なんとか帰路につく。
朝西春、断髪式は千秋楽打上げパーティにて行う予定。
平成10年1月9日
行司の木村勝次郎、相撲の決まり手の資料を見ているので、どうしたのか尋ねてみると、今場所から部署変えで本場所の場内放送の見習いをやるらしい。(場内放送は行司さんの仕事なのである。)
今場所は下の方で少しやるだけらしいが、何年か後にはTVで勝次郎の美声(?)が聞けるかもしれない。
今日から調整の稽古に入り、稽古の開始時間も30分遅くなる。取組み編成会議があり、初日と2日目の取組が決まる。
平成10年1月10日
お昼過ぎ、触れ太鼓が若松部屋にもまわってくる。毎場所のことであるが、触れ太鼓をきくと「本場所が始まるぞ」という実感が湧いてくる。特に初場所は、乾燥した空気のせいか太鼓の音や呼出しの声もいつもより響き渡るようで、やっぱり相撲は初場所だと感じた。
明日の初日、若松部屋の先陣を飾るのは朝関野。その後朝鷲、朝泉、朝闘山、関東龍、朝太田と続いて、朝乃翔は旭天鵬と、朝乃若は琴龍との対戦。ちなみに曙は旭豊、貴乃花は魁皇。平成10年大相撲の幕開けである。
平成10年1月11日
横綱が二人とも転がされるという波乱の幕開けとなった初場所初日。若松部屋も、3勝5敗と昨年の不調をひきずったような滑り出し
墨田区在住の中学1年生がマワシ持参で稽古にやってくる。13才ながら180cm120kgの立派な体。少し下半身が硬いが、馬力はかなりあり、楽しみな逸材。まだ入門が決まったわけではないが、本人も親もかなりその気なので、見込み十分である。相撲部屋にとって何よりありがたいのは新弟子である。
平成10年1月12日
朝乃翔、昨年9月場所9日目以来の白星。おすもうさんにとって、怪我や病気に対する何よりの薬は土俵の上の白星である。
特に休場明けの場所で初日に負けると、このまま勝てないのではないかという不安を抱くものである。それだけに今日の一勝は価値ある白星で、いかにもホッとしたいい顔で帰ってきた。
全体でも5勝4敗という久しぶりの勝越し。この調子でいきたいものである。
平成10年1月13日
今日も5勝2敗と好調の若松部屋。通算成績も13勝11敗と勝越す。勝率が5割を超すというのは毎場所の一大目標である。元若松部屋の幕内力士大鷲の長男の朝鷲 、自己最高位で2連勝。朝西春と房風も2連勝。
平成10年1月14日
昨日に引き続き好調の若松部屋。今日も8勝2敗と大きく勝越す。序二段上位で自己最高位の朝小畑、今日も勝って2連勝で、昨年5月場所からの連続勝越しをまた伸ばしそうである。勝越せばもちろん初の三段目昇進である。
三段目に上がると、それまでの下駄履きから雪駄がはけるようになる。力士にとってかなり大きな目標である。
朝辻野が怪我をしてしまった。今日の取組で寄り倒されたときに膝を痛め、靭帯が2本切れるという 大怪我である。そのまま病院に運ばれて入院。今場所はもちろん、来場所も絶望的である。強くなってきていた時だけに残念である。
平成10年1月15日
大雪の成人の日。若松部屋でも朝藤墳が成人式を迎えた。めでたい日に取組で勝って華を・・、といきたいところであったが、浴びせ倒しで負けた際に肩を脱臼。散々な成人式となった。しかしながら帰ってきて「これでまた、横綱が一歩遠くなった」とうそぶくあたり、全然めげていない序の口力士朝藤墳である。朝辻野に続き明日から休場。
朝住吉、前相撲3連勝で1番出世を決める。(今場所は新弟子の数が11人と少ないので全員1番出世だが)
これで晴れて来場所から番付に名前がのる。出世披露は中日8日目。
平成10年1月16日
房風、得意の首投げで3連勝。首投げが出るときの房風は調子がいい。房風の投げ技は切れ味よく、昔、曙が関脇の頃、東関部屋に出稽古に行って曙を2番続けて投げて曙を本気にさせたこともある。
平成10年1月17日
新弟子が一人入門してきた。熊本県出身の中澤尚史君17才である。最近では珍しい志願兵であった。
ただ体重が10kg足りない。 大相撲に入門するのには、身長と体重の基準をクリアすれば誰でもなれるから、門は広い。
だから、体が大きいと本人はあまりなりたくないのに 入門させられてしまうケースも多々ある。逆になりたくてたまらない奴は体が小さい。ところが、なりたくてしょうがなくて入門する奴が長持ちするかというとそうでもない。
なりたくてしょうがない奴は、ある種あこがれで入ってくるので、TVにでない裏のつらい部分を見るとすぐにやめてしまうこともある。逆にいやいや入った奴は、周りから盛大に送られて入ってきているから、やめたくてもやめられなく、我慢できてしまったりすることもある。
平成10年1月18日
朝住吉、本日三段目の取組の途中で新序出世披露を行う。関取から化粧マワシを借りて、土俵の上で一人 一人紹介してもらい、その後、理事長室や役員室、審判室などを自己紹介してまわるのが恒例である。大概化粧マワシをつけるのは「今日が 最初で最後なのだからナ」と冷やかされるのだが・・・
3連勝で今日が給金相撲(勝越しがかかった一番)だった朝鷲、長い相撲の末負けた。勝負が終わり、ショックが大きかったのか、まず勝ち名乗り を受けようとして間違え-ここで更に動転したのだろう-今度は帰る方向を間違え、途中で気づいて反対側から降りると、そこは向正面( 審判と行司が座っている、花道とは全然別の方向)で審判の親方に注意されるというNG3連発を土俵の上でやってしまった。
それを呼出し邦夫と行司の勝次郎がちょうど見ていて大笑いだったらしい。
平成10年1月19日
朝小畑、今日勝って若松部屋第1号の勝越し。これで昨年の5月場所から5場所連続の勝越しで、来場所の三段目昇進をほぼ確実にした。2年足らずでの三段目昇進はかなり早いペースである。房風も勝越し。
朝泉、いつも一緒に稽古をしている友綱部屋の魁ノ華との対戦。今場所で3場所連続の対戦である。今まで1勝1敗の対戦成績であったが、今日はがっぷり四つの力相撲の末朝泉が寄り倒しで勝つ。ところが最後に寄ったときに、膝を捻ってしまい 明日からの土俵が心配である。
平成10年1月20日
晩、フランスからのお客様が50人チャンコを食べに来る。出版業界のパーテイのからみで、相撲観戦&チャンコツアーとなったもの。駐日フランス大使もご夫妻でおみえになる。
玄関で出迎えた朝闘山、はじめて見るフランス人に圧倒されていたが、「ボンソワール」(?) と挨拶してくるので、意を決して、最後から来た見事な白髪の紳士に-朝闘山曰く、いかにもフランス人ぽかったらしい-「ボンソワール」と 挨拶すると「あ、私は日本人だよ」と言われて、がっくりしていた。
団子入りソップ炊きチャンコに赤ワインで皆さん満足そうであった。日本酒もけっこうウマイと飲んでいた。
朝西春、最後の場所で早々の勝越しを決める。朝太田も勝越し。これで 勝越しが4人となった。まだ負け越し力士は一人もいないのにである。好調である。
平成10年1月21日
高知で漁師をやっている親方のお父さんからマンボウ(魚である)が送られてくる。白身の身をゆがいてほぐし、ネギと一緒に味噌と肝でからめて食う。マンボウのチャンコが食えるのは相撲部屋数あれど、若松部屋くらいのものであろう。
関東龍、今日負けて負け越し。今場所初の負け越し力士である。
平成10年1月22日
総武線で人身事故があったそうで、電車が一時不通となり、電車で通っている力士が何人か取組に遅れる。こういう電車事故等の場合は、不戦敗とはならず、取組を後にまわしてくれる。今日も何番か取組を遅らせて、無事に進行する。
ところがたまに寝坊して不戦敗になってしまう力士がいる。(まぁ、何年かに1度、あるかないかのことではあるが)
現に若松部屋にも昔いた。朝稽古が終わり取組まで時間があったので、一眠りしたところ、目覚めたときには取組の数番前で必死で走っていったが間に合わなかった。この時も一応場内放送は「・・病気休場の為・・の不戦勝です」となるが、遅れた力士は、理事長室や役員室を謝りにまわらなければならない。これは、かなりきついらしい。
朝乃翔早々と勝越しを決める。朝西春、房風5勝目。一ノ矢、朝闘山負け越し。朝鷲3連勝の後3連敗で明日勝越しをかける。
平成10年1月23日
混戦の初場所、横綱の貴乃花が今日から休場。昨日勝越しを決めた朝乃翔、気がつけば2敗の武蔵丸を追いかける優勝争い集団の仲間入り。今日惜しくも負けて、脱落するが、なかなかの快挙である。
朝太田、稽古中にふくらはぎの肉離れを起こし、今日の最後の一番休場で、不戦敗。これで、昨日の朝泉に続き、今場所4人目の休場者。最悪の事態である。
房風が6勝目。朝鷲3連勝4連敗(はまったという)かと心配されたが、踏ん張って勝越し。さすがにホッとした顔で帰ってくる。
平成10年1月25日
朝から千秋楽の準備で大忙しの若松部屋。お昼過ぎ、打上げパーティに使うチャンコの材料やビール、看板などをいっぱい積んで、おかみさんの運転で、「さぁ出発だ」、のはずだったのだが、車のエンジンがかからない。
目の前は車屋さんなのだが、あいにく日曜日で誰もいない。結局押しがけをやろうということになり、力士3人で押すのだが、おかみさんもミッションの車は乗りなれなくてうまくいかない。普段押すのは慣れている力士もさすがにへばってきた頃、ちょうどタクシーが来たので、運転手さんに聞いたところ、「サードにいれてクラッチを踏みながら押してクラッチを離せばいい」と教えてもらい、うまくいく。ところが、エンジンがかかってからもおかみさんが止まってくれなくて、力士は後を追いかけて更に走り、息も絶え絶えであった。
朝乃若、立合いの変化に敗れ惜しくも負け越し。朝関野自己最高位で見事に勝越し。全成績は星取表にて。
千秋楽打上げパーティにて朝西春の断髪式を行う。
平成10年1月26日
今日から金曜日までは朝稽古も完全にお休み。午前9時より全員で大掃除する。力士の頭数が減ってくると、こういうときに大変である。
掃除の途中で懸賞の副賞“もち吉の水”が届く。2勝分なので、その量、実に600Kg。場所中に来たのと合わせると、まあ何と1.2tである。ご近所にも配るが、なかなか減らない。当分断水になっても大丈夫である。
平成10年1月27日
東京の場所後火曜日恒例の後援会主催による「大ちゃんカップゴルフコンペ」。後援会の有志を中心にした10組程のコンペ。親方もここ2、3年100を切るようになってきて、気合いが入っている。今日は親方夫妻の結婚記念日でもあり、晩、家族で食事に出かける。
今場所から火曜日から木曜日までは、付人の仕事も完全にフリーにして、勝越した力士は自由に家に帰れることになった為、勝越し力士が殆ど帰省して、ガランとした部屋の中だった。負け越し力士は寂しく留守番である。
平成10年1月28日
番付編成会議が行われ、審判委員の親方も参加。今日の会議で来場所(3月大阪)の番付が決まるが、公式に発表になるのは、初日の2週間前の月曜日の番付発表の日で、それまでは極秘情報である。ただ、十両昇進と横綱・大関の昇進だけは準備の都合もあるので、この日に発表になる。
平成10年1月29日
相撲教習所の入所式が行われる。今場所新弟子検査合格の朝住吉も出席。力士として入門すると、場所後に3、4週間づつ3場所(半年間)相撲教習所に通う。
午前6時半頃に集合して、7時から9時頃まで相撲の実技。その後、1時間ほど講義がある。講義内容は、「相撲史」「習字」「一般社会」 「運動生理学」「運動医学」「詩吟」-去年詩吟の先生が亡くなったので教科が変わったらしいが、情報がない。(教習所に通っていた のはかなり前のことなので、講義内容を確かめようと1年半前まで行っていた朝小畑に聞いてみたが、殆ど寝てたので何をやってたか覚えてないとのことだった。)まあ、予想はしていたが・・・
授業の後、掃除をして風呂に入り、飯を食って帰る。教習所で一緒になった力士同士は、同年代ということもあり、部屋の垣根を越えて絆があり、同期生会などもたまに開いたりする。
平成10年1月30日
呼出し邦夫がノートパソコンを購入した。近々インターネットも始めるようで、相撲界にも大分パソコンの波が押し寄せてきた。
実家に帰っていた力士が戻ってきて、元の賑やかさを取り戻す。
朝関野、膝の手術のため今日から入院。元から悪かったところが、少し悪化してきたので、場所の間を利用しての入院だが、2週間ほどで退院できる見込みで大阪場所には間に合いそう。もう少し筋トレ等に真剣に取組まなければならない。
平成10年1月31日
休日が終わり、今日から稽古始め。午後からはフジTVの大相撲トーナメント。親方も久しぶりにマワシを締めて、OB戦に出場と、少し忙しい花相撲(本場所以外の相撲)のある平凡な一日のはずだったのだが、大相撲にとって、歴史的な一日となった。
新聞、TV等でお聞きだとは思うが、大相撲史上初の理事選挙が行われ、現職の理事が一人落選。元横綱北の富士の陣幕親方が退職するという驚くべき事態となった。
平成10年2月1日
昨日の理事選挙の影響で、新しく理事となった高田川親方が、高砂一門から破門というショッキングなできごとがあった。(若松部屋も高砂一門である)
理事長には時津風親方が就任。同時に部署替えも行われたが、親方は、審判委員と変わらず、一安心であった。
今年も波乱の年となりそうな 相撲界である。
平成10年2月2日
退職した陣幕親方。週に4、5回若松部屋にトレーニングに来ていた。最近10日間ほど顔を見せなかったので、珍しいなと思っていたら、ああいう騒動になってしまって驚いた。それが昨日ひょっこり現れたらしい。
陣幕親方がトレーニングをするときはいつも、朝藤墳がお茶を出したり、付人をしていたのだが、昨日いつものようにお茶を持っていくと、「もう俺は協会員じゃないのだから気をつかわなくていいよ」と笑っていたらしく、着替え類も部屋に置いてあったのを全部持って帰り、腹筋器具だけが寂しく残っていた。とりあえずは故郷の北海道に帰るとのことである。
年に2回ある定期健康診断が行われた。
3月場所で初土俵を踏む中学3年生の小田原出身竹内君が今日から部屋に正式に入門。心配だった身長も少し伸びたよう。
平成10年12月3日
節分の日。餅つき同様に豆まきも、おすもうさんにとっては年中行事である。今日も親方が鎌倉の長谷寺、朝乃翔が成田山、朝乃若が地元一宮の真清田神社へと豆まきにかりだされた。
部屋でも毎年、晩のチャンコが終わったあと、豆まきをするのだが、そんな、3、4年前の出来事。
豆まきをやるというので、親方の子供達、しげきとゆきこも下に降りてきて、最初はおすもうさんを鬼にして、かわいく豆をまいていたのだが、そのうち、しげきとゆきこと、二人のライバルである房風とのぶつけ合いになった。お互いにエキサイトしたものだから、豆がおかみさんにもぶつかり(狙って投げたといううわさもあったが)おかみさんが、「あんた、私にまでなげるの」と出てきて、ようやく収まった。あれほど大笑いした豆まきは初めてであった。
常に笑いを提供してくれる大阪人房風である。
平成10年2月4日
横綱が若松部屋の稽古場に現れた。もちろん、一門の横綱、曙である。久しぶりに間近に見ると、やはりデカイ。
四股を踏んで、若い衆にアンマ(下のものに胸を出して稽古つけること)して、いい汗をかいていた。
朝鷲、朝ノ霧も初めて横綱の胸を借り、「いい当りだ」と横綱に声をかけてもらって、いい経験をした。稽古が終わって、ぶつかり稽古になり、親方に「曙、ぶつかれよ」と言われて、一瞬躊躇したが、入門当初から親方に可愛がってもらっている横綱、朝乃翔の胸でぶつかり稽古。(普通、横綱になるとあまりぶつからない。)
終わったあと、「3年ぶりにぶつかったよ」と清々しい顔をしていた。
千代の富士、北勝海の両横綱がいるころは、栄華を誇った高砂一門も、すっかり寂しい状況なので、何とかもう一度、復活してもらいたいものである。
平成10年2月5日
朝乃若、朝乃翔の両関取と、付人の朝ノ霧、朝小畑、オリンピックの開会式の為、2班に別れて新宿駅より長野へと向かう。
今日、明日とリハーサルをやって、あさってが本番。ちなみに先導するのは朝乃若がマケドニア(あまり、ゲンのいい国じゃないなと渋い顔をしていたが・・)朝乃翔がイラン。入場行進の順番の関係で、横綱曙の土俵入りの太刀持ち、露払いからは外れて、寺尾と北勝鬨が行う模様。
平成10年2月6日
稽古場が寂しくなった。新弟子は教習所、二人入院中で、怪我で三人稽古できなく、オリンピックに四人行って、という具合で、稽古が出来るのが四人しかいない。
残っているのも、ベテラン力士と半病人で、いつもより遅く7時から稽古を開始するのだが、9時過ぎには終わってしまう。
楽といえば楽なのだが、寂しい限りである。入門以来15年間で最低の状況である。今年は試練の年となりそうである。
平成10年2月7日
午後3時過ぎ、世界の祭典、オリンピックの開会式を終えて、オリンピック組が帰ってきた。そんなに忙しくはなかったそうだが、支度部屋がボイラー室だったのが、けっこう辛かったらしい。
付人でついていった朝小畑、帰ってきて「どうだった」と聞くと、「宿舎が周りになんもないところだったから暇だったすけど、旭鷲山関はスキー板を担いで行ってたから、スキーをやったみたいですよ」というから「アホ!あれは、モンゴルの選手にプレゼントするのじゃ」といったら、「なーんだ、そうだったんですか」と、相変わらず、全く訳が分かっていなかった。
平成10年2月9日
チャンコに関して「○人前というのは、一般の人の数かおすもうさんの数か、というのと、小人数でつくる場合のおいしく作るコツを教えて下さい」という質問がありましたので、お答えします。
○人前というのは、おすもうさんの数です。ただ、おすもうさんがチャンコを食べる場合は、鍋の他にオカズ(例えば、目玉焼きやトンカツや サラダ等)もご飯と一緒に食べますので、鍋自体を食べる量はそんなに大差がないと思います。
また、鍋の種類によって、人気度がかなり違いますので、同じ15人前でも余ったり、足りなかったりします。まあ、アバウトというか丼勘定の世界です。作る鍋の大きさで、量を適当に調整してもらえればと思います。この適当さこそが鍋の良さです。
チャンコ鍋の決め手は何といってもダシです。ですから、大きな鍋でやると、ダシが適当でも沢山の具からダシがしみでて、おいしくなりますが、小さい鍋だと具の量が限られますので、ダシがでにくく、難しくなります。小さい鍋でやるときほど、ダシをしっかりとることです。
平成10年2月10日
大阪在住の新聞記者さんから、親方の現役時代のエピソードをお聞きしましたので、掲載させていただきます。
”大関時代の朝潮関は当意即妙な受け答えと、ユーモアあふれるコメントで、支度部屋で記者の人気者でした。印象に残っているのは小錦関が何度目かの大関昇進挑戦に失敗した場所です。口数が少なくなっていた弟弟子に代わって、朝潮関はプレーイング解説者として、連日自分のことはそっちのけで小錦関のことばかり聞く報道陣に、いやな顔一つせず答えてくれていました。
場所後半になって小錦関が連敗して昇進が絶望になった時も「うーん、ここが踏ん張り時なんだけどな…」と、残念そうにしながらも、いろいろと話してくれました。しかし、最後に調子をおろしたある記者が「あきらめの早いのは部屋の伝統ですかね」と冗談めかして言うと 「伝統なんかじゃねえよ!」と怒鳴られました。さすがにまずいと思った報道陣は沈黙。緊張した空気が一瞬流れましたが、一拍おくと朝潮関は「そういう人が、集まっているだけの話だ」。息を呑んで見守っていた私たちは、思わずずっこけてしまいました。
平成10年2月11日
一ノ矢の高校(徳之島)の後輩が部屋を訪ねてきた。方言でしゃべるものだから、まわりの人間は、何を言っているかさっぱりわからない。それでも、部屋の力士達は慣れているが、九重部屋から出張できている床山の床九(とこきゅう)は、最初、中国人かと思ったらしく、「一ノ矢さんて中国語もわかるのかと感心しました。」と言っていたが、あとで事情を聞いて納得。
「それにしてもあんな言葉初めて聞きました」と東京出身の床九、びっくりしていた。
平成10年2月12日
長野オリンピックで大活躍の日本選手団。注目のスピードスケートを見るたび今年の新年会を思い出す。
新年会では毎年、体をはった芸を見せてくれる朝ノ霧、今年もこのかっこうで大受けであった。
その名も”かっぺいマン”と異名をとり、この姿で歌って踊り、おまけにローソンに買い物までいった。
平成10年2月14日
平塚若松部屋を愛する会主催の激励会が、大磯のホテルにて行われる。初場所で、三段目昇進を決めたご当所力士朝小畑が、大拍手を浴びる。
平成10年2月16日
東関部屋に出稽古に行く。出稽古に出るのは久しぶりのことで、よその部屋の稽古場というのは、また空気が違っていて、新鮮なものである。
親方が元高見山の東関部屋、さすがにお客さんも外人が多い。友綱部屋からも来ていて、3部屋合同の稽古。
友綱部屋には春場所幕下付出しデビューの日大の斎藤、西野、中大の田中の3力士が入門している。特に日大の斎藤は、一昨年のアマチュア横綱で、アマ相撲界では実力No.1の注目力士である。幕下申し合いで顔を合わせた房風、斎藤が双差し から出るところを豪快に首投げで投げ飛ばし、その後もすそ払いや上手投げで、曲者ぶりを存分に発揮して互角に渡り合い、プロの意地を見せていた。横綱曙は、魁皇と朝乃若をつかまえての三番稽古。
平成10年2月18日
一ノ矢、房風、関東龍、朝泉、朝藤墳の5力士、先発隊として大阪へ乗り込み。
大阪場所の宿舎は、親方や関取の母校、近畿大学の中にある。昔、職業訓練校の寮として使っていた3階建ての建物が残っていて、その建物を借りて宿舎にしている。寮の跡なので部屋数が多くいいのだが、 築50年はなろうかという建物で、普段は使用していないため1年ぶりにくるとお化け屋敷状態である。おまけに所々ガラスが割れていたり、窓がはずれていたりで、風通しがよく、寒いことこのうえない。
平成10年2月19日
午前中、冷蔵庫やらチャンコ道具を引っ張り出してセッティング。冷蔵庫や鍋、食器等は地方場所ごとに置きっぱなしである。
コップや丼は割れたり無くなったりするので、最近購入したものが多いが、鍋やチャンコを食べるテーブル(板だが)は、先代の時から引き継いだもので、部屋で一番古い一ノ矢よりも兄弟子である。そういえば昨年、若松部屋OBが十数年ぶりに部屋を訪ねてきて、「まだ、この板使っているのかー」と懐かしがっていた。
大阪地方、明日から大雨になるとの天気予報だったので、午後から掃除を中止して、幟立てを行う。
平成10年2月21日
大阪場所では、チャンコの買い出しに殆ど行かなくて済む。それは、おかみさんのお父さんが「コノミヤ」というスーパーをやっていて、そこから差し入れとして材料が届くからである。まさに“売るほど”あるので、この日も野菜や調味料、肉がワゴン車にいっぱい運ばれてきた。まさに、コノミヤ様々である。
平成10年2月22日
相撲列車(新幹線)にて東京残り番の力士達が全員大阪へ乗り込んでくる。若松部屋の力士達は、新大阪駅から直接“ちゃんこ朝潮”鴫野店へと 向かい、先発組、親方と合流。揃っての夕食となる。
ちょうどTVの取材の打ち合わせで、元阪神タイガースの仲田幸司投手が親方に会いに来て、部屋で唯一のトラキチの朝闘山、握手をしてもらい「カッコええわー」と感激していた。
平成10年2月23日
大阪場所の番付発表。先場所9勝の朝乃翔は11枚目、朝乃若は15枚目。朝小畑が自己最高位を大きく更新して三段目77枚目まで躍進。朝鷲、朝関野も自己最高位。
親方の番付、小包30本と封筒1500枚を郵便局まで出しに行った朝鷲と朝住吉、いつもなら30分で帰ってくるのに、3時間近くかかってしまった。別納のはんこ押しから、枚数、小包の計算と、チェックが厳しかった模様。名古屋(蟹江)や福岡(二日市)の郵便局なら、もっていくだけで、あとは全部やってくれるのに。おすもうさんにとって、都会の郵便局は厳しい。
平成10年2月24日
春場所に向けての本格的な稽古を再開。大阪の稽古場は、近畿大学のクラブセンター内にある相撲部道場。近畿大学の相撲部との合同稽古である。一時低迷していた近大相撲部も最近充実してきて、昨年の学生選手権では3位。レギュラークラスには、幕下の房風もタジタジである。
晩、上六(上本町6丁目)にて“学生相撲出身力士を励ます会”が行われ、若松部屋からも親方、朝乃若、朝乃翔、一ノ矢、朝住吉の5人が出席。部屋別で言うと一番多かった。現在、学生出身力士は、関取が21人、幕下以下が21人、合計42人いるとのことである。
平成10年2月25日
先日打ち合わせにきた元阪神の仲田幸司氏が、MBS毎日放送の取材で、早朝6時半より部屋にくる。稽古やチャンコを取材。
夕方のニュース番組らしいが、放映日は聞き逃してしまった。思い出したら見てください。ただし、関西方面の方のみです。
平成10年2月26日
4年ほど前、床山見習いとして部屋にいた馬医(ばい)君が京都から遊びにきた。彼は金沢の高校を卒業して、どうしても床山になりたくて入門したが、床山の空きが出ず、年齢制限で失格となり涙を飲んでしまった。(当時は18才以下で、定員が空き次第という規定があった。)現在は規定が改定されて、力士が12人以上いて床山のいない部屋は、即採用ということになったので、「なんで今ごろ」とこぼしている。
今は、京都の床屋で修行中である。1年に1回の大阪場所の時には、必ず遊びに来てくれるので、うれしいものである。
平成10年2月27日
今場所の新弟子検査を受ける、三重県鈴鹿市出身の長沼君。身長は180cmと十分なのだが、体重が69kgしかない。
部屋に入門して1週間、チャンコは頑張ってよく食べているのだが、慣れない生活で気苦労もあるのだろう、体重が一向に増えない。新弟子検査の合格基準は75kgだから、6kgも足りない。
今日の晩飯は丼飯を5杯食わせて、明日の検査前に飲む水を2L用意して、検査に備える。2年前にやはり体重が足りなくて、ハカリに乗る直前まで水を飲みつづけた朝藤墳、他人事と思えないのであろう、いろいろと作戦を伝授していた。
平成10年2月28日
大阪場所の新弟子検査。昨日紹介した長沼君、体重が足りないため、水を4L持参して検査に臨む。その熱意が通じたのか、だいぶオマケしてもらって、めでたく合格。親方も、半ば諦めていただけに、合格の報に驚く。
3月春場所は卒業シーズンと重なるため、毎年100名を超える新弟子が入門するが、今年は全体で62人しかいない。相撲人気の低落の象徴であろう。まあ、そのお陰で検査では、大目に見てもらったようだが。
晩、上六の都ホテルにて、1500人近くの人が集まり、大阪場所の若松部屋激励会が盛大に挙行される。
平成10年3月1日
昨日から元横綱旭富士の安治川親方率いる安治川部屋の力士が出稽古にくる。安治川親方も近畿大学出身である。まだ関取はいないが、親方の親戚である兄弟力士、安壮富士、安美錦を頭に、幕下に生きの良い若手が上がってきていて、勢いがある。
稽古が始まって最初の日曜日。昨日まで、今年はお客さんが少ないなとおもっていたら、今日は約100人。オマケに餅つきも重なり、ただでさえ少ない力士が更に減り、忙しさで戦争のようなチャンコ場であった。
平成10年3月2日
おすもうさんにとって大阪場所というのは人気の高い場所である。そもそも「タニマチ」という言葉の語源は、谷町という大阪の地名から来ているくらい力士を応援しようという雰囲気が街中にしみ込んでいるし、歩いていると「あ、おすもうさんや」と声をかけてくれるし、お好み焼きは美味いし-東京で食うお好みと,どうしてこんなに味が違うのだろうと不思議である-うどんはうまいし、ゴミはいまだに無分別で、黒いゴミ袋もOKと、まことに生活しやすいところである。
ところでゴミと言えば、一番分別が細かくうるさいのは名古屋だし、東京と福岡は同レベルだが、東京で燃えないゴミであるペットボトル類が、福岡では燃えるゴミなのは何故だろう。
平成10年3月3日
新弟子検査に合格した長沼君、整形外科的な問題で再検査となる。MRIという精密検査まで行うが、問題なしということで一安心。これで正式に合格である。
正式に合格すると、2日目から序の口の取組の前にある前相撲というのに出る。今場所の新弟子同士で相撲を取っていき、2勝したものから出世していく。であるから、2戦2勝で取組を終えるのもいるし、勝てないと幕内力士並みに2勝13敗とか、中には結局最後まで1番も勝てないのもいる。一日おきに取り、5日目までに2勝したものが1番出世、8日目までが2番出世。残りが12日目に3番出世となる。 一応全員序の口に上がって、来場所から番付に名前がのることになるが、その順番が前相撲で決まる。
平成10年3月4日
新弟子、長沼改め朝長沼の紹介です。その朝長沼、腰まわりが細いため、おすもうさん用のバスタオルが 余ってしまってしっかり巻けない。風呂からあがると、みんながチャンコを食べてる所にいって、「おつかれさんでございます」と挨拶するのがしきたりになっているが、あいさつをしてかがんだ瞬間にバスタオルがパラリと落ちて、だしてしまった。ちょうど力士のマッサージに接骨院の助手の女の子が来ていて目を丸くしていた。
ところで、本場所の取組中にマワシがはずれて、なにが出てしまったら反則負けである。その場合の決まり手は、”もろだし”、と言うそうだが 真偽のほどは定かでない。
平成10年3月6日
審判部による取組編成会議が行われ、親方も早朝から府立体育館へと出向く。今日の会議で初日と2日目の取組が決まる。取組が決まるといよいよ本場所が始まるという実感が湧いてくる。
話は変わるが、ここ大阪では、稽古のあとに接骨院から出張マッサージが毎日来てくれるからありがたい。昔、房風が働いていた甲斐接骨院の先生が大阪後援会の会員で-先代の親方の時からそうなのだが-弟子を派遣してくれている。
甲斐接骨院は現在、本拠地が西成区天下茶屋のボクシングの世界チャンピオン井岡で有名な、グリーンツダジムのビルの1階にあり、井岡 選手の専属トレーナーもやっており、整体の技術は驚くほどである。怪我がつきものの力士にとっては、怪我の回復や体調の維持は死活問題 なので、全国いろんな所をまわるが、甲斐先生の腕はトップレベルである。腰痛などで苦しんでいる方は、ぜひ一度訪ねてみると良いだろう。友綱部屋の魁皇もかなり世話になっている。
平成10年3月7日
初日の前日で、府立体育館にて土俵祭りが行われ、触れ太鼓がなにわの街へ繰り出していく。若松部屋にも12時半頃来て、部屋の中に太鼓と呼出しさんの声がひびきわたる。ちゃんこを食べに来ていたお客さんも、直に迫力のある響を聞けて、大喜びであった。
昨日紹介した接骨院の甲斐先生、新弟子のスカウトにも熱心な先生である。少し前、接骨院の前を大きな中学生が通学していたので、後を追いかけて何度も勧誘したら、そのうちストーカーに間違えられたのか、通学路を変えられてしまったらしい。失敗談だがうれしい話である。
平成10年3月8日
荒れる春場所の通りに波乱の幕開けとなった初日の土俵。武蔵丸に続き両横綱も敗れる。若松部屋は4勝2敗と、まずまずの滑り出し。詳しくは星取表にて。朝泉、朝辻野、朝藤墳の3力士は、先場所の怪我のため公傷休場。
平成10年3月9日
序の口の朝住吉、初めての序の口の土俵に上がる。近畿大学相撲部出身としては、つい半年前まで生活していた場所で、知り合いも多いし、序の口では勝って当たり前なので、「むちゃむちゃ緊張しました」と、初白星に胸をなでおろしていた。
勝てそうにもない相手に勝つのも難しいが、勝って当たり前の状況で勝つのも非常に大変なことである。
平成10年3月10日
訃報。高田川部屋の剣晃関が亡くなった。昨年来入院生活を送っていて、もう現役復活は無理だという話は聞いていたが、まさかこんな風になるとは・・・驚きである。無敵だった頃の貴乃花を下手投げでひっくり返した相撲を、ついこの間のように思い出すが、まだまだこれからという時だっただけに、さぞや本人も無念のことと思う。
武勇伝も数ある、男気のある、昔かたぎの力士であった。ご冥福を祈る。合掌。
平成10年3月11日
昔、若松部屋に愛媛県出身で鹿島という力士がいた。昭和59年11月場所初土俵で、剣晃と同期生である。現在は、広島で独立してそこそこ成功している。力士として在籍したのは1年ほどだったが、剣晃とは手が合い、やめてからも巡業で広島にきた時には、家族ぐるみで付き合い、小学5年生の子供が、大きくなったら剣晃の弟子になると、なついていたほどらしい。
突然の訃報に、昨夜はさすがに涙が止まらなかったそうで、今日のお通夜に広島から駆けつけてきた。教習所時代の思い出を語ってくれたが、遺影の凛々しい化粧回し姿を見ると、亡くなったことが未だに信じられない。
平成10年3月12日
前相撲で記念すべき1勝をあげた朝長沼、場所で会うと「おかげさんで勝ちました」と、嬉しそうに挨拶してきたが、ふと見ると一張羅の着物が破れてボロボロになっている。朝、駅へ向かう途中、自転車で転んで着物がからまって、朝住吉と二人、まだ薄暗い中を自転車から着物をはずすのに、5分ほど格闘したらしい。「電車1本乗り遅れて、びびりましたよ」と朝住吉、こぼしていた。何かと話題の尽きない朝長沼である。その朝住吉と一ノ矢、3連勝。全体的にも先場所に引き続き好調である。
平成10年3月13日
朝小畑、今日の対戦は、元十両の鳥海龍(ちょうかいりゅう)。確か昭和55年3月場所が初土俵のはずだから、昭和56年1月生まれの朝小畑が生まれる前から相撲を取っているベテラン力士である。その鳥海龍を相手に、会心の押し相撲で2勝目。去年の5月場所から連続5場所勝越し中の朝小畑、今場所も楽しみである。
平成10年3月14日
序の口の優勝候補朝住吉、ストレートの勝越し。まずは順調である。残りあと3番。
前に、前相撲の出世披露、5日目が1番出世・・・・と書いたが、今年は新弟子が少ないため、例年と違って、今日7日目が1番出世披露。 朝長沼、今日の1番に勝てば1番出世であったが、惜しくも負けて、2番出世以降にまわる。
今晩のチャンコは親方の一声で、七輪で炭をおこして、焼き肉。部屋の中が煙と焼き肉の匂いでモウモウとなり、いまだに部屋中に匂いが残っている。
平成10年3月15日
幕下の房風が今場所限りで引退する事になった。関取まであと一歩のところまでいった房風であったが、年齢的なものによる体力、気力の限界を感じ、引退を決意。一度は幕内の土俵で取らせてみたかった、個性的な力士であったが残念である。
千秋楽打上パーティにて断髪式を行う。
中日の日曜日、大阪後援会の特別会員のチャンコ会や、神戸からも団体のお客さんが来て、まさに目の回るような忙しさ。こういう日は、取組のある力士はチャンコ番をしなくて済むが、今場所休場の朝泉と朝藤墳、連日のチャンコ番でさすがに疲れたという顔をしている。
平成10年3月16日
前相撲の朝長沼、今日は1日で2番取らしてもらって、最初負けるも、次の1番で勝ち、2番出世を決める。
今場所は新弟子の人数が少ないため、3番出世はなく今日で前相撲が全部終了。2番出世披露は12日目に行われる予定。
朝鷲、自己最高位で家賃が高かったのか、部屋第1号の負越し。
平成10年3月18日
3勝2敗の朝小畑と朝ノ霧、負けて3勝3敗。2勝3敗の朝太田と朝闘山、勝って3勝3敗。最後の1番に、それぞれ勝越しをかける。房風負けて2勝4敗と負越し、最後の場所を飾れず。晩、その房風の送別会を部屋近くのスナックにて行う。
宴もたけて、房風に送る歌を唄っていった中で、朝藤墳、「贈る言葉」を歌い、間奏でいったセリフ。「房風さん、ご苦労様でした。一緒に生活したのは2年間でしたが、房風さんの相撲をBSで見るのが楽しみでした。昼も夜も首投げが得意だったのですね。」・・・大受けであった。
平成10年3月19日
朝住吉、6勝目。明日、九重部屋の元幕下、黄金富士(こがねふじ)と序の口優勝をかけて闘う。
一ノ矢勝越し。関東龍負越し。三段目取組途中で、春場所2番出世披露が行われる。朝乃翔の化粧まわしを借りて晴れ舞台に臨んだ朝長沼、緊張のあまりトイレが近くなって、締めた化粧まわしを締め直すハプニングもあったがなんとか無事にこなす。
平成10年3月20日
序の口優勝決定戦の朝住吉、攻め込むも、土俵際で逆転の掬い投げ食い、優勝を逃す。朝ノ霧、先場所に引き続き3勝3敗からの給金相撲を勝ち取って、見事勝越し。これでまた来場所は、自己最高位の更新である。
その朝ノ霧と一ノ矢、取組が終わって、体育館内の食堂に昼飯を食べにいく。丼物とうどんを頼むが、この食堂には、おでんコーナーが あり、壁にメニューが貼ってあって、大概100円から150円と書いてある。飯がくるまでのツマミにと、あまり深く考えずに「スジとコロ2人前づつ」と注文する。出てきた物を見て、「しょっぱいなぁ、まぁ150円だからこんなもんか」、と文句を言いつつ食い、丼とうどんを平らげてレジへと向かった。だいたいの計算で3千円少しだろうと、財布に手をやると、6280円だといわれた。「え!おねえちゃん、計算間違いしてるよ」というが、コロが1本1500円だという。「そんなばかな、メニューにはたしか・・」と 思って、振り返って壁のメニューを確かめてみると、隣の”スジ150円“と150までは同じなのだが、下に小さく“o”と書いてある。 まぁ考えてみれば、貴重なクジラが150円で食えるわけもないが、「もうちょっと、わかるように書いてくれよ」と、しぶしぶ払った。
「あー、もう少し味わって食えばよかったな」「負越したような気分スね」と肩を落としながら食堂をあとにした二人であった。
平成10年3月22日
朝乃若、旭鷲山を押し出して、ようやく8勝7敗で勝越しを決める。朝小畑、朝太田勝って勝越し。朝小畑はこれで、昨年5月場所から連続6場所、1年間の勝越し続きである。ちょっとすごいことである。
晩6時半より帝国ホテルにて千秋楽打ち上げパーティが開かれる。昨日まで負けの数の方が多かったが、今日の6勝1敗という好成績で、勝率を何とかちょうど5割に戻すことができた。パーティの中で、房風の断髪式が行われる。途中会場に大歓声が起こり、ちょうど同じホテルで打上げパーティをやっていた横綱曙も会場へ現れ、房風の髷にハサミを入れる。房風は横綱と同期生である。
平成10年3月23日
朝9時起床して、大掃除、幟の片づけ等を行う。巡業組は、巡業行きの荷造りもはじめる。終わったら終わったでけっこう忙しい。
平成10年3月24日
大阪後援会主催によるゴルフコンペが行われる。晩、近大OBの郵政関係の集まりである”若梅会”に親方家族と力士一同招待してもらう。この会は、親方が十両に昇進した昭和53年から毎年大阪場所にあわせて開かれている会で、今年でじつに20年目である。
親方が学生時代の近大相撲部の監督であった祷(いのり)氏もゲストとして、ご夫妻でおみえになる。最近病を患い、車イス生活の祷監督、親方が学生時代によく歌ってたという「津軽海峡冬景色」を聴き、「おかげさんで、部屋をもち、弟子を育て、ここまでくることができました」という言葉に、涙をながして喜んでいた。
平成10年3月27日
午前9時より最終的な大掃除。東京へ送る荷物が玄関に山のように積まれていく。年中引越しをしているようなものなので、荷造りはお手の物である。
ここ大阪では、親方の後援者の運送会社がトラックを東京まで出してくれるので、運賃はタダである。タダが好きなおすもうさん、今年はタダでないという噂が一時流れたが、タダとわかると急に送る荷物が増えてしまった。
平成10年3月28日
お昼前、一月あまり住み慣れた大阪の宿舎をあとにして、巡業組は上本町から近鉄電車で伊勢神宮へ向かい、帰京組は新大阪駅から新幹線にて東京へと向かう。東京へ帰れる嬉しさ反面、大阪をはなれる寂しさもあって、けっこうほろ苦い思いである。
相撲甚句”当地興行”のはやし言葉が浮かんでくる。♪「はぁ、せっかくなじんだみなさまと、今日でおわかれせにゃならぬ、いつまたどこで会えるやら それともこのまま会えぬやら、 おもえば なみだが パラーリ パラーリと」・・・。
巡業組はこの後四国、東海、関東近辺とまわり、東京に戻るのは4月17日の予定。朝乃翔、場所前から痛めた膝の怪我の悪化のため、巡業を休み。逆に朝藤墳、本場所を休場したが、怪我の具合もかなり良くなってきたので、親方の付人として巡業に初参加。
平成10年3月30日
力士数が減って、巡業に出たりで、東京の部屋に残っているのは6人しかいない。そのうち2人は教習所なので、4人しか残らなく、友綱部屋へ出稽古に出向く。できたばかりの稽古場なので気持ちがいい。
平成10年3月31日
大阪はお客さんが多いため、チャンコも大根3本、にんじん10本、白菜2個、とダイナミックに材料を切っていたが、帰ってきて昼のチャンコを食うのが4人しかいないため、大根1/3本、にんじん1本、白菜1/4と寂しい。
それでも昼では食いきれず、晩までいけてしまう。「非力だなー」といいつつ、チャンコはやっぱり大勢で食うものだとしみじみ感じた。