過去の日記

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今日の若松部屋
平成10年1月1日
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
朝10時より、部屋2階の大広間にて新年会。親方より年頭挨拶があり、その後関取から順番におとそを受ける。若い衆にはおかみさんからお年玉もつく。関取以外はいくつになっても”若い衆”なので、いい年になってもお年玉を貰うことができる。
30才を過ぎてもお年玉を貰っているのはおすもうさんぐらいのものであろう。まあ、いくつになってもうれしいものだが・・
少し酒のまわったところでカラオケ大会。勝次郎、朝闘山、朝ノ霧の3人が、優秀歌唱賞、でなくてお笑い賞として金一封を獲得。
平成10年1月2日
「フクちゃん」の愛称で親しまれている朝ノ霧。朝乃翔の付人として頑張っていて、関取の信頼も厚いのだが、お正月になると毎年話題になることがある。
それは、入門して6回目のお正月を迎えるのだが、年賀状が毎年決まって2枚しか来ないということである。それも1枚は名古屋の宿舎のお寺さんからで、もう1枚は接骨院と判で押したように決まっている。今年も期待どおりで、話題の中心であった。
すでにやめてしまった力士にも3、4枚来ているのにである。だれか「フクちゃん」に年賀状をおくってくれ~~~。今日から稽古始め。
平成10年1月3日
「フクちゃん」ばなし続編。年賀状の来ないフクちゃん、真面目な好青年だが少し人見知りするので、電話も殆どかかってこない。こちらも年賀状と一緒で、かかってくる先は2件のみである。1件は、朝乃翔関からで「4階に上がってこい」(関取の個室は4階。)というもので、もう1件は名古屋の柳川さんという関取の知り合いからのみである。そんな話をしていたら、珍しくフクちゃんに電話がかかってきた。相手はやはり朝乃翔関からで、そのあまりのタイミングのよさに大笑いであった。
平成10年1月4日
新弟子にとって電話の応対は、慣れるまで難しい仕事である。そんなお話を少し。
3、4年前まで朝長内という力士がいた。彼が電話番をしているところへ脇原マネージャーから電話がかかってきた。
脇原マネージャー「もしもし、脇原だけど」朝長内「はい、脇さんですね。少々お待ち下さい」
しばらくして電話口から聞こえてきたのは、「わきさん~でんわですよ~」と朝長内が叫ぶ声。
ふたたび受話器を取った朝長内「もしもし、脇原マネージャーはいないようですけど」
脇原マネージャー「アホ!俺が脇原だ!」 朝長内「なーんだ、脇さんだったんすか」、といって用件も聞かずに電話を切ってしまった。
電話をかけ直した脇原マネージャー「頼むからだれか別のやつに代わってくれ」とバカマケ(あきれはてる)であった。
朝乃若、朝乃翔の両関取、今日から三保ヶ関部屋へ出稽古。怪我が心配の朝乃翔も関取衆との申し合いを精力的にこなしたようで、初場所に向け順調。
平成10年1月5日
電話の話のついでにもうひとつ。これもすでに引退した力士だが、朝金川という力士がいた。
関取宛ての電話を取り次いで、「し、し、七福神の コ、コ、コンペについて、と電話がかかってきてますけど」(彼はどもるクセがあった。)と言ってきた。なんじゃそれは???と関取が電話に出てみると、その実態は「福娘とのコンパについて」という電話であった。
一応、福とコンだけは正確に伝えることができた朝金川であった。その朝金川、体重を半分に減らして(140Kgあった)実家の食堂を手伝っているらしい。
平成10年1月6日
初場所の新弟子検査が行われる。若松部屋からも一人受験、合格する。(正式には内臓検査の結果待ちだが、体格検査はパスする。) 本名住吉慎一、22才。親方や関取と同じ近畿大学相撲部出身である。
本来なら先場所デビューの予定であったが、書類のミスで今場所の合格となり、本人も一安心の顔で帰ってきた。
初日が近づいてきて、初場所用のさがりをはり直す。友綱部屋が出稽古に来る。
平成10年1月8日
体の故障の為、朝西春が初場所限りで引退することとなり、若者会による送別会を御徒町の飲み屋で開く。
久しぶりの大雪に見舞われた東京、飲んでいるときは良かったが、帰りが大変であった。もともとあまり飲めない朝藤墳、一次会で討死にして 御徒町の雪の中を裸足で叫びながら房風に連れられて、なんとか帰路につく。
朝西春、断髪式は千秋楽打上げパーティにて行う予定。
平成10年1月9日
行司の木村勝次郎、相撲の決まり手の資料を見ているので、どうしたのか尋ねてみると、今場所から部署変えで本場所の場内放送の見習いをやるらしい。(場内放送は行司さんの仕事なのである。)
今場所は下の方で少しやるだけらしいが、何年か後にはTVで勝次郎の美声(?)が聞けるかもしれない。
今日から調整の稽古に入り、稽古の開始時間も30分遅くなる。取組み編成会議があり、初日と2日目の取組が決まる。
平成10年1月10日
お昼過ぎ、触れ太鼓が若松部屋にもまわってくる。毎場所のことであるが、触れ太鼓をきくと「本場所が始まるぞ」という実感が湧いてくる。特に初場所は、乾燥した空気のせいか太鼓の音や呼出しの声もいつもより響き渡るようで、やっぱり相撲は初場所だと感じた。
明日の初日、若松部屋の先陣を飾るのは朝関野。その後朝鷲、朝泉、朝闘山、関東龍、朝太田と続いて、朝乃翔は旭天鵬と、朝乃若は琴龍との対戦。ちなみに曙は旭豊、貴乃花は魁皇。平成10年大相撲の幕開けである。
平成10年1月11日
横綱が二人とも転がされるという波乱の幕開けとなった初場所初日。若松部屋も、3勝5敗と昨年の不調をひきずったような滑り出し
墨田区在住の中学1年生がマワシ持参で稽古にやってくる。13才ながら180cm120kgの立派な体。少し下半身が硬いが、馬力はかなりあり、楽しみな逸材。まだ入門が決まったわけではないが、本人も親もかなりその気なので、見込み十分である。相撲部屋にとって何よりありがたいのは新弟子である。
平成10年1月12日
朝乃翔、昨年9月場所9日目以来の白星。おすもうさんにとって、怪我や病気に対する何よりの薬は土俵の上の白星である。
特に休場明けの場所で初日に負けると、このまま勝てないのではないかという不安を抱くものである。それだけに今日の一勝は価値ある白星で、いかにもホッとしたいい顔で帰ってきた。
全体でも5勝4敗という久しぶりの勝越し。この調子でいきたいものである。
平成10年1月13日
今日も5勝2敗と好調の若松部屋。通算成績も13勝11敗と勝越す。勝率が5割を超すというのは毎場所の一大目標である。元若松部屋の幕内力士大鷲の長男の朝鷲 、自己最高位で2連勝。朝西春と房風も2連勝。
平成10年1月14日
昨日に引き続き好調の若松部屋。今日も8勝2敗と大きく勝越す。序二段上位で自己最高位の朝小畑、今日も勝って2連勝で、昨年5月場所からの連続勝越しをまた伸ばしそうである。勝越せばもちろん初の三段目昇進である。
三段目に上がると、それまでの下駄履きから雪駄がはけるようになる。力士にとってかなり大きな目標である。
朝辻野が怪我をしてしまった。今日の取組で寄り倒されたときに膝を痛め、靭帯が2本切れるという 大怪我である。そのまま病院に運ばれて入院。今場所はもちろん、来場所も絶望的である。強くなってきていた時だけに残念である。
平成10年1月15日
大雪の成人の日。若松部屋でも朝藤墳が成人式を迎えた。めでたい日に取組で勝って華を・・、といきたいところであったが、浴びせ倒しで負けた際に肩を脱臼。散々な成人式となった。しかしながら帰ってきて「これでまた、横綱が一歩遠くなった」とうそぶくあたり、全然めげていない序の口力士朝藤墳である。朝辻野に続き明日から休場。
朝住吉、前相撲3連勝で1番出世を決める。(今場所は新弟子の数が11人と少ないので全員1番出世だが)
これで晴れて来場所から番付に名前がのる。出世披露は中日8日目。
平成10年1月16日
房風、得意の首投げで3連勝。首投げが出るときの房風は調子がいい。房風の投げ技は切れ味よく、昔、曙が関脇の頃、東関部屋に出稽古に行って曙を2番続けて投げて曙を本気にさせたこともある。
平成10年1月17日
新弟子が一人入門してきた。熊本県出身の中澤尚史君17才である。最近では珍しい志願兵であった。
ただ体重が10kg足りない。 大相撲に入門するのには、身長と体重の基準をクリアすれば誰でもなれるから、門は広い。
だから、体が大きいと本人はあまりなりたくないのに 入門させられてしまうケースも多々ある。逆になりたくてたまらない奴は体が小さい。ところが、なりたくてしょうがなくて入門する奴が長持ちするかというとそうでもない。
なりたくてしょうがない奴は、ある種あこがれで入ってくるので、TVにでない裏のつらい部分を見るとすぐにやめてしまうこともある。逆にいやいや入った奴は、周りから盛大に送られて入ってきているから、やめたくてもやめられなく、我慢できてしまったりすることもある。
平成10年1月18日
朝住吉、本日三段目の取組の途中で新序出世披露を行う。関取から化粧マワシを借りて、土俵の上で一人 一人紹介してもらい、その後、理事長室や役員室、審判室などを自己紹介してまわるのが恒例である。大概化粧マワシをつけるのは「今日が 最初で最後なのだからナ」と冷やかされるのだが・・・
3連勝で今日が給金相撲(勝越しがかかった一番)だった朝鷲、長い相撲の末負けた。勝負が終わり、ショックが大きかったのか、まず勝ち名乗り を受けようとして間違え-ここで更に動転したのだろう-今度は帰る方向を間違え、途中で気づいて反対側から降りると、そこは向正面( 審判と行司が座っている、花道とは全然別の方向)で審判の親方に注意されるというNG3連発を土俵の上でやってしまった。 それを呼出し邦夫と行司の勝次郎がちょうど見ていて大笑いだったらしい。
平成10年1月19日
朝小畑、今日勝って若松部屋第1号の勝越し。これで昨年の5月場所から5場所連続の勝越しで、来場所の三段目昇進をほぼ確実にした。2年足らずでの三段目昇進はかなり早いペースである。房風も勝越し。
朝泉、いつも一緒に稽古をしている友綱部屋の魁ノ華との対戦。今場所で3場所連続の対戦である。今まで1勝1敗の対戦成績であったが、今日はがっぷり四つの力相撲の末朝泉が寄り倒しで勝つ。ところが最後に寄ったときに、膝を捻ってしまい 明日からの土俵が心配である。
平成10年1月20日
晩、フランスからのお客様が50人チャンコを食べに来る。出版業界のパーテイのからみで、相撲観戦&チャンコツアーとなったもの。駐日フランス大使もご夫妻でおみえになる。
玄関で出迎えた朝闘山、はじめて見るフランス人に圧倒されていたが、「ボンソワール」(?) と挨拶してくるので、意を決して、最後から来た見事な白髪の紳士に-朝闘山曰く、いかにもフランス人ぽかったらしい-「ボンソワール」と 挨拶すると「あ、私は日本人だよ」と言われて、がっくりしていた。
団子入りソップ炊きチャンコに赤ワインで皆さん満足そうであった。日本酒もけっこうウマイと飲んでいた。
朝西春、最後の場所で早々の勝越しを決める。朝太田も勝越し。これで 勝越しが4人となった。まだ負け越し力士は一人もいないのにである。好調である。
平成10年1月21日
高知で漁師をやっている親方のお父さんからマンボウ(魚である)が送られてくる。白身の身をゆがいてほぐし、ネギと一緒に味噌と肝でからめて食う。マンボウのチャンコが食えるのは相撲部屋数あれど、若松部屋くらいのものであろう。
関東龍、今日負けて負け越し。今場所初の負け越し力士である。
平成10年1月22日
総武線で人身事故があったそうで、電車が一時不通となり、電車で通っている力士が何人か取組に遅れる。こういう電車事故等の場合は、不戦敗とはならず、取組を後にまわしてくれる。今日も何番か取組を遅らせて、無事に進行する。
ところがたまに寝坊して不戦敗になってしまう力士がいる。(まぁ、何年かに1度、あるかないかのことではあるが)
現に若松部屋にも昔いた。朝稽古が終わり取組まで時間があったので、一眠りしたところ、目覚めたときには取組の数番前で必死で走っていったが間に合わなかった。この時も一応場内放送は「・・病気休場の為・・の不戦勝です」となるが、遅れた力士は、理事長室や役員室を謝りにまわらなければならない。これは、かなりきついらしい。
朝乃翔早々と勝越しを決める。朝西春、房風5勝目。一ノ矢、朝闘山負け越し。朝鷲3連勝の後3連敗で明日勝越しをかける。
平成10年1月23日
混戦の初場所、横綱の貴乃花が今日から休場。昨日勝越しを決めた朝乃翔、気がつけば2敗の武蔵丸を追いかける優勝争い集団の仲間入り。今日惜しくも負けて、脱落するが、なかなかの快挙である。
朝太田、稽古中にふくらはぎの肉離れを起こし、今日の最後の一番休場で、不戦敗。これで、昨日の朝泉に続き、今場所4人目の休場者。最悪の事態である。
房風が6勝目。朝鷲3連勝4連敗(はまったという)かと心配されたが、踏ん張って勝越し。さすがにホッとした顔で帰ってくる。
平成10年1月25日
朝から千秋楽の準備で大忙しの若松部屋。お昼過ぎ、打上げパーティに使うチャンコの材料やビール、看板などをいっぱい積んで、おかみさんの運転で、「さぁ出発だ」、のはずだったのだが、車のエンジンがかからない。
目の前は車屋さんなのだが、あいにく日曜日で誰もいない。結局押しがけをやろうということになり、力士3人で押すのだが、おかみさんもミッションの車は乗りなれなくてうまくいかない。普段押すのは慣れている力士もさすがにへばってきた頃、ちょうどタクシーが来たので、運転手さんに聞いたところ、「サードにいれてクラッチを踏みながら押してクラッチを離せばいい」と教えてもらい、うまくいく。ところが、エンジンがかかってからもおかみさんが止まってくれなくて、力士は後を追いかけて更に走り、息も絶え絶えであった。
朝乃若、立合いの変化に敗れ惜しくも負け越し。朝関野自己最高位で見事に勝越し。全成績は星取表にて。
千秋楽打上げパーティにて朝西春の断髪式を行う。
平成10年1月26日
今日から金曜日までは朝稽古も完全にお休み。午前9時より全員で大掃除する。力士の頭数が減ってくると、こういうときに大変である。
掃除の途中で懸賞の副賞“もち吉の水”が届く。2勝分なので、その量、実に600Kg。場所中に来たのと合わせると、まあ何と1.2tである。ご近所にも配るが、なかなか減らない。当分断水になっても大丈夫である。
平成10年1月27日
東京の場所後火曜日恒例の後援会主催による「大ちゃんカップゴルフコンペ」。後援会の有志を中心にした10組程のコンペ。親方もここ2、3年100を切るようになってきて、気合いが入っている。今日は親方夫妻の結婚記念日でもあり、晩、家族で食事に出かける。
今場所から火曜日から木曜日までは、付人の仕事も完全にフリーにして、勝越した力士は自由に家に帰れることになった為、勝越し力士が殆ど帰省して、ガランとした部屋の中だった。負け越し力士は寂しく留守番である。
平成10年1月28日
番付編成会議が行われ、審判委員の親方も参加。今日の会議で来場所(3月大阪)の番付が決まるが、公式に発表になるのは、初日の2週間前の月曜日の番付発表の日で、それまでは極秘情報である。ただ、十両昇進と横綱・大関の昇進だけは準備の都合もあるので、この日に発表になる。
平成10年1月29日
相撲教習所の入所式が行われる。今場所新弟子検査合格の朝住吉も出席。力士として入門すると、場所後に3、4週間づつ3場所(半年間)相撲教習所に通う。
午前6時半頃に集合して、7時から9時頃まで相撲の実技。その後、1時間ほど講義がある。講義内容は、「相撲史」「習字」「一般社会」 「運動生理学」「運動医学」「詩吟」-去年詩吟の先生が亡くなったので教科が変わったらしいが、情報がない。(教習所に通っていた のはかなり前のことなので、講義内容を確かめようと1年半前まで行っていた朝小畑に聞いてみたが、殆ど寝てたので何をやってたか覚えてないとのことだった。)まあ、予想はしていたが・・・
授業の後、掃除をして風呂に入り、飯を食って帰る。教習所で一緒になった力士同士は、同年代ということもあり、部屋の垣根を越えて絆があり、同期生会などもたまに開いたりする。
平成10年1月30日
呼出し邦夫がノートパソコンを購入した。近々インターネットも始めるようで、相撲界にも大分パソコンの波が押し寄せてきた。
実家に帰っていた力士が戻ってきて、元の賑やかさを取り戻す。
朝関野、膝の手術のため今日から入院。元から悪かったところが、少し悪化してきたので、場所の間を利用しての入院だが、2週間ほどで退院できる見込みで大阪場所には間に合いそう。もう少し筋トレ等に真剣に取組まなければならない。
平成10年1月31日
休日が終わり、今日から稽古始め。午後からはフジTVの大相撲トーナメント。親方も久しぶりにマワシを締めて、OB戦に出場と、少し忙しい花相撲(本場所以外の相撲)のある平凡な一日のはずだったのだが、大相撲にとって、歴史的な一日となった。
新聞、TV等でお聞きだとは思うが、大相撲史上初の理事選挙が行われ、現職の理事が一人落選。元横綱北の富士の陣幕親方が退職するという驚くべき事態となった。
平成10年2月1日
昨日の理事選挙の影響で、新しく理事となった高田川親方が、高砂一門から破門というショッキングなできごとがあった。(若松部屋も高砂一門である)
理事長には時津風親方が就任。同時に部署替えも行われたが、親方は、審判委員と変わらず、一安心であった。
今年も波乱の年となりそうな 相撲界である。
平成10年2月2日
退職した陣幕親方。週に4、5回若松部屋にトレーニングに来ていた。最近10日間ほど顔を見せなかったので、珍しいなと思っていたら、ああいう騒動になってしまって驚いた。それが昨日ひょっこり現れたらしい。
陣幕親方がトレーニングをするときはいつも、朝藤墳がお茶を出したり、付人をしていたのだが、昨日いつものようにお茶を持っていくと、「もう俺は協会員じゃないのだから気をつかわなくていいよ」と笑っていたらしく、着替え類も部屋に置いてあったのを全部持って帰り、腹筋器具だけが寂しく残っていた。とりあえずは故郷の北海道に帰るとのことである。
年に2回ある定期健康診断が行われた。
3月場所で初土俵を踏む中学3年生の小田原出身竹内君が今日から部屋に正式に入門。心配だった身長も少し伸びたよう。
平成10年12月3日
節分の日。餅つき同様に豆まきも、おすもうさんにとっては年中行事である。今日も親方が鎌倉の長谷寺、朝乃翔が成田山、朝乃若が地元一宮の真清田神社へと豆まきにかりだされた。
部屋でも毎年、晩のチャンコが終わったあと、豆まきをするのだが、そんな、3、4年前の出来事。
豆まきをやるというので、親方の子供達、しげきとゆきこも下に降りてきて、最初はおすもうさんを鬼にして、かわいく豆をまいていたのだが、そのうち、しげきとゆきこと、二人のライバルである房風とのぶつけ合いになった。お互いにエキサイトしたものだから、豆がおかみさんにもぶつかり(狙って投げたといううわさもあったが)おかみさんが、「あんた、私にまでなげるの」と出てきて、ようやく収まった。あれほど大笑いした豆まきは初めてであった。
常に笑いを提供してくれる大阪人房風である。
平成10年2月4日
横綱が若松部屋の稽古場に現れた。もちろん、一門の横綱、曙である。久しぶりに間近に見ると、やはりデカイ。
四股を踏んで、若い衆にアンマ(下のものに胸を出して稽古つけること)して、いい汗をかいていた。
朝鷲、朝ノ霧も初めて横綱の胸を借り、「いい当りだ」と横綱に声をかけてもらって、いい経験をした。稽古が終わって、ぶつかり稽古になり、親方に「曙、ぶつかれよ」と言われて、一瞬躊躇したが、入門当初から親方に可愛がってもらっている横綱、朝乃翔の胸でぶつかり稽古。(普通、横綱になるとあまりぶつからない。)
終わったあと、「3年ぶりにぶつかったよ」と清々しい顔をしていた。
千代の富士、北勝海の両横綱がいるころは、栄華を誇った高砂一門も、すっかり寂しい状況なので、何とかもう一度、復活してもらいたいものである。
平成10年2月5日
朝乃若、朝乃翔の両関取と、付人の朝ノ霧、朝小畑、オリンピックの開会式の為、2班に別れて新宿駅より長野へと向かう。
今日、明日とリハーサルをやって、あさってが本番。ちなみに先導するのは朝乃若がマケドニア(あまり、ゲンのいい国じゃないなと渋い顔をしていたが・・)朝乃翔がイラン。入場行進の順番の関係で、横綱曙の土俵入りの太刀持ち、露払いからは外れて、寺尾と北勝鬨が行う模様。
平成10年2月6日
稽古場が寂しくなった。新弟子は教習所、二人入院中で、怪我で三人稽古できなく、オリンピックに四人行って、という具合で、稽古が出来るのが四人しかいない。
残っているのも、ベテラン力士と半病人で、いつもより遅く7時から稽古を開始するのだが、9時過ぎには終わってしまう。
楽といえば楽なのだが、寂しい限りである。入門以来15年間で最低の状況である。今年は試練の年となりそうである。
平成10年2月7日
午後3時過ぎ、世界の祭典、オリンピックの開会式を終えて、オリンピック組が帰ってきた。そんなに忙しくはなかったそうだが、支度部屋がボイラー室だったのが、けっこう辛かったらしい。
付人でついていった朝小畑、帰ってきて「どうだった」と聞くと、「宿舎が周りになんもないところだったから暇だったすけど、旭鷲山関はスキー板を担いで行ってたから、スキーをやったみたいですよ」というから「アホ!あれは、モンゴルの選手にプレゼントするのじゃ」といったら、「なーんだ、そうだったんですか」と、相変わらず、全く訳が分かっていなかった。
平成10年2月9日
チャンコに関して「○人前というのは、一般の人の数かおすもうさんの数か、というのと、小人数でつくる場合のおいしく作るコツを教えて下さい」という質問がありましたので、お答えします。
○人前というのは、おすもうさんの数です。ただ、おすもうさんがチャンコを食べる場合は、鍋の他にオカズ(例えば、目玉焼きやトンカツや サラダ等)もご飯と一緒に食べますので、鍋自体を食べる量はそんなに大差がないと思います。
また、鍋の種類によって、人気度がかなり違いますので、同じ15人前でも余ったり、足りなかったりします。まあ、アバウトというか丼勘定の世界です。作る鍋の大きさで、量を適当に調整してもらえればと思います。この適当さこそが鍋の良さです。
チャンコ鍋の決め手は何といってもダシです。ですから、大きな鍋でやると、ダシが適当でも沢山の具からダシがしみでて、おいしくなりますが、小さい鍋だと具の量が限られますので、ダシがでにくく、難しくなります。小さい鍋でやるときほど、ダシをしっかりとることです。
平成10年2月10日
大阪在住の新聞記者さんから、親方の現役時代のエピソードをお聞きしましたので、掲載させていただきます。
”大関時代の朝潮関は当意即妙な受け答えと、ユーモアあふれるコメントで、支度部屋で記者の人気者でした。印象に残っているのは小錦関が何度目かの大関昇進挑戦に失敗した場所です。口数が少なくなっていた弟弟子に代わって、朝潮関はプレーイング解説者として、連日自分のことはそっちのけで小錦関のことばかり聞く報道陣に、いやな顔一つせず答えてくれていました。
場所後半になって小錦関が連敗して昇進が絶望になった時も「うーん、ここが踏ん張り時なんだけどな…」と、残念そうにしながらも、いろいろと話してくれました。しかし、最後に調子をおろしたある記者が「あきらめの早いのは部屋の伝統ですかね」と冗談めかして言うと 「伝統なんかじゃねえよ!」と怒鳴られました。さすがにまずいと思った報道陣は沈黙。緊張した空気が一瞬流れましたが、一拍おくと朝潮関は「そういう人が、集まっているだけの話だ」。息を呑んで見守っていた私たちは、思わずずっこけてしまいました。
平成10年2月11日
一ノ矢の高校(徳之島)の後輩が部屋を訪ねてきた。方言でしゃべるものだから、まわりの人間は、何を言っているかさっぱりわからない。それでも、部屋の力士達は慣れているが、九重部屋から出張できている床山の床九(とこきゅう)は、最初、中国人かと思ったらしく、「一ノ矢さんて中国語もわかるのかと感心しました。」と言っていたが、あとで事情を聞いて納得。
「それにしてもあんな言葉初めて聞きました」と東京出身の床九、びっくりしていた。
平成10年2月12日
長野オリンピックで大活躍の日本選手団。注目のスピードスケートを見るたび今年の新年会を思い出す。
新年会では毎年、体をはった芸を見せてくれる朝ノ霧、今年もこのかっこうで大受けであった。
その名も”かっぺいマン”と異名をとり、この姿で歌って踊り、おまけにローソンに買い物までいった。
平成10年2月14日
平塚若松部屋を愛する会主催の激励会が、大磯のホテルにて行われる。初場所で、三段目昇進を決めたご当所力士朝小畑が、大拍手を浴びる。
平成10年2月16日
東関部屋に出稽古に行く。出稽古に出るのは久しぶりのことで、よその部屋の稽古場というのは、また空気が違っていて、新鮮なものである。
親方が元高見山の東関部屋、さすがにお客さんも外人が多い。友綱部屋からも来ていて、3部屋合同の稽古。
友綱部屋には春場所幕下付出しデビューの日大の斎藤、西野、中大の田中の3力士が入門している。特に日大の斎藤は、一昨年のアマチュア横綱で、アマ相撲界では実力No.1の注目力士である。幕下申し合いで顔を合わせた房風、斎藤が双差し から出るところを豪快に首投げで投げ飛ばし、その後もすそ払いや上手投げで、曲者ぶりを存分に発揮して互角に渡り合い、プロの意地を見せていた。横綱曙は、魁皇と朝乃若をつかまえての三番稽古。
平成10年2月18日
一ノ矢、房風、関東龍、朝泉、朝藤墳の5力士、先発隊として大阪へ乗り込み。
大阪場所の宿舎は、親方や関取の母校、近畿大学の中にある。昔、職業訓練校の寮として使っていた3階建ての建物が残っていて、その建物を借りて宿舎にしている。寮の跡なので部屋数が多くいいのだが、 築50年はなろうかという建物で、普段は使用していないため1年ぶりにくるとお化け屋敷状態である。おまけに所々ガラスが割れていたり、窓がはずれていたりで、風通しがよく、寒いことこのうえない。
平成10年2月19日
午前中、冷蔵庫やらチャンコ道具を引っ張り出してセッティング。冷蔵庫や鍋、食器等は地方場所ごとに置きっぱなしである。
コップや丼は割れたり無くなったりするので、最近購入したものが多いが、鍋やチャンコを食べるテーブル(板だが)は、先代の時から引き継いだもので、部屋で一番古い一ノ矢よりも兄弟子である。そういえば昨年、若松部屋OBが十数年ぶりに部屋を訪ねてきて、「まだ、この板使っているのかー」と懐かしがっていた。
大阪地方、明日から大雨になるとの天気予報だったので、午後から掃除を中止して、幟立てを行う。
平成10年2月21日
大阪場所では、チャンコの買い出しに殆ど行かなくて済む。それは、おかみさんのお父さんが「コノミヤ」というスーパーをやっていて、そこから差し入れとして材料が届くからである。まさに“売るほど”あるので、この日も野菜や調味料、肉がワゴン車にいっぱい運ばれてきた。まさに、コノミヤ様々である。
平成10年2月22日
相撲列車(新幹線)にて東京残り番の力士達が全員大阪へ乗り込んでくる。若松部屋の力士達は、新大阪駅から直接“ちゃんこ朝潮”鴫野店へと 向かい、先発組、親方と合流。揃っての夕食となる。
ちょうどTVの取材の打ち合わせで、元阪神タイガースの仲田幸司投手が親方に会いに来て、部屋で唯一のトラキチの朝闘山、握手をしてもらい「カッコええわー」と感激していた。
平成10年2月23日
大阪場所の番付発表。先場所9勝の朝乃翔は11枚目、朝乃若は15枚目。朝小畑が自己最高位を大きく更新して三段目77枚目まで躍進。朝鷲、朝関野も自己最高位。
親方の番付、小包30本と封筒1500枚を郵便局まで出しに行った朝鷲と朝住吉、いつもなら30分で帰ってくるのに、3時間近くかかってしまった。別納のはんこ押しから、枚数、小包の計算と、チェックが厳しかった模様。名古屋(蟹江)や福岡(二日市)の郵便局なら、もっていくだけで、あとは全部やってくれるのに。おすもうさんにとって、都会の郵便局は厳しい。
平成10年2月24日
春場所に向けての本格的な稽古を再開。大阪の稽古場は、近畿大学のクラブセンター内にある相撲部道場。近畿大学の相撲部との合同稽古である。一時低迷していた近大相撲部も最近充実してきて、昨年の学生選手権では3位。レギュラークラスには、幕下の房風もタジタジである。
晩、上六(上本町6丁目)にて“学生相撲出身力士を励ます会”が行われ、若松部屋からも親方、朝乃若、朝乃翔、一ノ矢、朝住吉の5人が出席。部屋別で言うと一番多かった。現在、学生出身力士は、関取が21人、幕下以下が21人、合計42人いるとのことである。
平成10年2月25日
先日打ち合わせにきた元阪神の仲田幸司氏が、MBS毎日放送の取材で、早朝6時半より部屋にくる。稽古やチャンコを取材。
夕方のニュース番組らしいが、放映日は聞き逃してしまった。思い出したら見てください。ただし、関西方面の方のみです。
平成10年2月26日
4年ほど前、床山見習いとして部屋にいた馬医(ばい)君が京都から遊びにきた。彼は金沢の高校を卒業して、どうしても床山になりたくて入門したが、床山の空きが出ず、年齢制限で失格となり涙を飲んでしまった。(当時は18才以下で、定員が空き次第という規定があった。)現在は規定が改定されて、力士が12人以上いて床山のいない部屋は、即採用ということになったので、「なんで今ごろ」とこぼしている。
今は、京都の床屋で修行中である。1年に1回の大阪場所の時には、必ず遊びに来てくれるので、うれしいものである。
平成10年2月27日
今場所の新弟子検査を受ける、三重県鈴鹿市出身の長沼君。身長は180cmと十分なのだが、体重が69kgしかない。
部屋に入門して1週間、チャンコは頑張ってよく食べているのだが、慣れない生活で気苦労もあるのだろう、体重が一向に増えない。新弟子検査の合格基準は75kgだから、6kgも足りない。
今日の晩飯は丼飯を5杯食わせて、明日の検査前に飲む水を2L用意して、検査に備える。2年前にやはり体重が足りなくて、ハカリに乗る直前まで水を飲みつづけた朝藤墳、他人事と思えないのであろう、いろいろと作戦を伝授していた。
平成10年2月28日
大阪場所の新弟子検査。昨日紹介した長沼君、体重が足りないため、水を4L持参して検査に臨む。その熱意が通じたのか、だいぶオマケしてもらって、めでたく合格。親方も、半ば諦めていただけに、合格の報に驚く。
3月春場所は卒業シーズンと重なるため、毎年100名を超える新弟子が入門するが、今年は全体で62人しかいない。相撲人気の低落の象徴であろう。まあ、そのお陰で検査では、大目に見てもらったようだが。
晩、上六の都ホテルにて、1500人近くの人が集まり、大阪場所の若松部屋激励会が盛大に挙行される。
平成10年3月1日
昨日から元横綱旭富士の安治川親方率いる安治川部屋の力士が出稽古にくる。安治川親方も近畿大学出身である。まだ関取はいないが、親方の親戚である兄弟力士、安壮富士、安美錦を頭に、幕下に生きの良い若手が上がってきていて、勢いがある。
稽古が始まって最初の日曜日。昨日まで、今年はお客さんが少ないなとおもっていたら、今日は約100人。オマケに餅つきも重なり、ただでさえ少ない力士が更に減り、忙しさで戦争のようなチャンコ場であった。
平成10年3月2日
おすもうさんにとって大阪場所というのは人気の高い場所である。そもそも「タニマチ」という言葉の語源は、谷町という大阪の地名から来ているくらい力士を応援しようという雰囲気が街中にしみ込んでいるし、歩いていると「あ、おすもうさんや」と声をかけてくれるし、お好み焼きは美味いし-東京で食うお好みと,どうしてこんなに味が違うのだろうと不思議である-うどんはうまいし、ゴミはいまだに無分別で、黒いゴミ袋もOKと、まことに生活しやすいところである。
ところでゴミと言えば、一番分別が細かくうるさいのは名古屋だし、東京と福岡は同レベルだが、東京で燃えないゴミであるペットボトル類が、福岡では燃えるゴミなのは何故だろう。
平成10年3月3日
新弟子検査に合格した長沼君、整形外科的な問題で再検査となる。MRIという精密検査まで行うが、問題なしということで一安心。これで正式に合格である。
正式に合格すると、2日目から序の口の取組の前にある前相撲というのに出る。今場所の新弟子同士で相撲を取っていき、2勝したものから出世していく。であるから、2戦2勝で取組を終えるのもいるし、勝てないと幕内力士並みに2勝13敗とか、中には結局最後まで1番も勝てないのもいる。一日おきに取り、5日目までに2勝したものが1番出世、8日目までが2番出世。残りが12日目に3番出世となる。 一応全員序の口に上がって、来場所から番付に名前がのることになるが、その順番が前相撲で決まる。
平成10年3月4日
新弟子、長沼改め朝長沼の紹介です。その朝長沼、腰まわりが細いため、おすもうさん用のバスタオルが 余ってしまってしっかり巻けない。風呂からあがると、みんながチャンコを食べてる所にいって、「おつかれさんでございます」と挨拶するのがしきたりになっているが、あいさつをしてかがんだ瞬間にバスタオルがパラリと落ちて、だしてしまった。ちょうど力士のマッサージに接骨院の助手の女の子が来ていて目を丸くしていた。
ところで、本場所の取組中にマワシがはずれて、なにが出てしまったら反則負けである。その場合の決まり手は、”もろだし”、と言うそうだが 真偽のほどは定かでない。
平成10年3月6日
審判部による取組編成会議が行われ、親方も早朝から府立体育館へと出向く。今日の会議で初日と2日目の取組が決まる。取組が決まるといよいよ本場所が始まるという実感が湧いてくる。
話は変わるが、ここ大阪では、稽古のあとに接骨院から出張マッサージが毎日来てくれるからありがたい。昔、房風が働いていた甲斐接骨院の先生が大阪後援会の会員で-先代の親方の時からそうなのだが-弟子を派遣してくれている。
甲斐接骨院は現在、本拠地が西成区天下茶屋のボクシングの世界チャンピオン井岡で有名な、グリーンツダジムのビルの1階にあり、井岡 選手の専属トレーナーもやっており、整体の技術は驚くほどである。怪我がつきものの力士にとっては、怪我の回復や体調の維持は死活問題 なので、全国いろんな所をまわるが、甲斐先生の腕はトップレベルである。腰痛などで苦しんでいる方は、ぜひ一度訪ねてみると良いだろう。友綱部屋の魁皇もかなり世話になっている。
平成10年3月7日
初日の前日で、府立体育館にて土俵祭りが行われ、触れ太鼓がなにわの街へ繰り出していく。若松部屋にも12時半頃来て、部屋の中に太鼓と呼出しさんの声がひびきわたる。ちゃんこを食べに来ていたお客さんも、直に迫力のある響を聞けて、大喜びであった。
昨日紹介した接骨院の甲斐先生、新弟子のスカウトにも熱心な先生である。少し前、接骨院の前を大きな中学生が通学していたので、後を追いかけて何度も勧誘したら、そのうちストーカーに間違えられたのか、通学路を変えられてしまったらしい。失敗談だがうれしい話である。
平成10年3月8日
荒れる春場所の通りに波乱の幕開けとなった初日の土俵。武蔵丸に続き両横綱も敗れる。若松部屋は4勝2敗と、まずまずの滑り出し。詳しくは星取表にて。朝泉、朝辻野、朝藤墳の3力士は、先場所の怪我のため公傷休場。
平成10年3月9日
序の口の朝住吉、初めての序の口の土俵に上がる。近畿大学相撲部出身としては、つい半年前まで生活していた場所で、知り合いも多いし、序の口では勝って当たり前なので、「むちゃむちゃ緊張しました」と、初白星に胸をなでおろしていた。
勝てそうにもない相手に勝つのも難しいが、勝って当たり前の状況で勝つのも非常に大変なことである。
平成10年3月10日
訃報。高田川部屋の剣晃関が亡くなった。昨年来入院生活を送っていて、もう現役復活は無理だという話は聞いていたが、まさかこんな風になるとは・・・驚きである。無敵だった頃の貴乃花を下手投げでひっくり返した相撲を、ついこの間のように思い出すが、まだまだこれからという時だっただけに、さぞや本人も無念のことと思う。
武勇伝も数ある、男気のある、昔かたぎの力士であった。ご冥福を祈る。合掌。
平成10年3月11日
昔、若松部屋に愛媛県出身で鹿島という力士がいた。昭和59年11月場所初土俵で、剣晃と同期生である。現在は、広島で独立してそこそこ成功している。力士として在籍したのは1年ほどだったが、剣晃とは手が合い、やめてからも巡業で広島にきた時には、家族ぐるみで付き合い、小学5年生の子供が、大きくなったら剣晃の弟子になると、なついていたほどらしい。
突然の訃報に、昨夜はさすがに涙が止まらなかったそうで、今日のお通夜に広島から駆けつけてきた。教習所時代の思い出を語ってくれたが、遺影の凛々しい化粧回し姿を見ると、亡くなったことが未だに信じられない。
平成10年3月12日
前相撲で記念すべき1勝をあげた朝長沼、場所で会うと「おかげさんで勝ちました」と、嬉しそうに挨拶してきたが、ふと見ると一張羅の着物が破れてボロボロになっている。朝、駅へ向かう途中、自転車で転んで着物がからまって、朝住吉と二人、まだ薄暗い中を自転車から着物をはずすのに、5分ほど格闘したらしい。「電車1本乗り遅れて、びびりましたよ」と朝住吉、こぼしていた。何かと話題の尽きない朝長沼である。その朝住吉と一ノ矢、3連勝。全体的にも先場所に引き続き好調である。
平成10年3月13日
朝小畑、今日の対戦は、元十両の鳥海龍(ちょうかいりゅう)。確か昭和55年3月場所が初土俵のはずだから、昭和56年1月生まれの朝小畑が生まれる前から相撲を取っているベテラン力士である。その鳥海龍を相手に、会心の押し相撲で2勝目。去年の5月場所から連続5場所勝越し中の朝小畑、今場所も楽しみである。
平成10年3月14日
序の口の優勝候補朝住吉、ストレートの勝越し。まずは順調である。残りあと3番。
前に、前相撲の出世披露、5日目が1番出世・・・・と書いたが、今年は新弟子が少ないため、例年と違って、今日7日目が1番出世披露。 朝長沼、今日の1番に勝てば1番出世であったが、惜しくも負けて、2番出世以降にまわる。
今晩のチャンコは親方の一声で、七輪で炭をおこして、焼き肉。部屋の中が煙と焼き肉の匂いでモウモウとなり、いまだに部屋中に匂いが残っている。
平成10年3月15日
幕下の房風が今場所限りで引退する事になった。関取まであと一歩のところまでいった房風であったが、年齢的なものによる体力、気力の限界を感じ、引退を決意。一度は幕内の土俵で取らせてみたかった、個性的な力士であったが残念である。
千秋楽打上パーティにて断髪式を行う。
中日の日曜日、大阪後援会の特別会員のチャンコ会や、神戸からも団体のお客さんが来て、まさに目の回るような忙しさ。こういう日は、取組のある力士はチャンコ番をしなくて済むが、今場所休場の朝泉と朝藤墳、連日のチャンコ番でさすがに疲れたという顔をしている。
平成10年3月16日
前相撲の朝長沼、今日は1日で2番取らしてもらって、最初負けるも、次の1番で勝ち、2番出世を決める。
今場所は新弟子の人数が少ないため、3番出世はなく今日で前相撲が全部終了。2番出世披露は12日目に行われる予定。
朝鷲、自己最高位で家賃が高かったのか、部屋第1号の負越し。
平成10年3月18日
3勝2敗の朝小畑と朝ノ霧、負けて3勝3敗。2勝3敗の朝太田と朝闘山、勝って3勝3敗。最後の1番に、それぞれ勝越しをかける。房風負けて2勝4敗と負越し、最後の場所を飾れず。晩、その房風の送別会を部屋近くのスナックにて行う。
宴もたけて、房風に送る歌を唄っていった中で、朝藤墳、「贈る言葉」を歌い、間奏でいったセリフ。「房風さん、ご苦労様でした。一緒に生活したのは2年間でしたが、房風さんの相撲をBSで見るのが楽しみでした。昼も夜も首投げが得意だったのですね。」・・・大受けであった。
平成10年3月19日
朝住吉、6勝目。明日、九重部屋の元幕下、黄金富士(こがねふじ)と序の口優勝をかけて闘う。
一ノ矢勝越し。関東龍負越し。三段目取組途中で、春場所2番出世披露が行われる。朝乃翔の化粧まわしを借りて晴れ舞台に臨んだ朝長沼、緊張のあまりトイレが近くなって、締めた化粧まわしを締め直すハプニングもあったがなんとか無事にこなす。
平成10年3月20日
序の口優勝決定戦の朝住吉、攻め込むも、土俵際で逆転の掬い投げ食い、優勝を逃す。朝ノ霧、先場所に引き続き3勝3敗からの給金相撲を勝ち取って、見事勝越し。これでまた来場所は、自己最高位の更新である。
その朝ノ霧と一ノ矢、取組が終わって、体育館内の食堂に昼飯を食べにいく。丼物とうどんを頼むが、この食堂には、おでんコーナーが あり、壁にメニューが貼ってあって、大概100円から150円と書いてある。飯がくるまでのツマミにと、あまり深く考えずに「スジとコロ2人前づつ」と注文する。出てきた物を見て、「しょっぱいなぁ、まぁ150円だからこんなもんか」、と文句を言いつつ食い、丼とうどんを平らげてレジへと向かった。だいたいの計算で3千円少しだろうと、財布に手をやると、6280円だといわれた。「え!おねえちゃん、計算間違いしてるよ」というが、コロが1本1500円だという。「そんなばかな、メニューにはたしか・・」と 思って、振り返って壁のメニューを確かめてみると、隣の”スジ150円“と150までは同じなのだが、下に小さく“o”と書いてある。 まぁ考えてみれば、貴重なクジラが150円で食えるわけもないが、「もうちょっと、わかるように書いてくれよ」と、しぶしぶ払った。
「あー、もう少し味わって食えばよかったな」「負越したような気分スね」と肩を落としながら食堂をあとにした二人であった。
平成10年3月22日
朝乃若、旭鷲山を押し出して、ようやく8勝7敗で勝越しを決める。朝小畑、朝太田勝って勝越し。朝小畑はこれで、昨年5月場所から連続6場所、1年間の勝越し続きである。ちょっとすごいことである。
晩6時半より帝国ホテルにて千秋楽打ち上げパーティが開かれる。昨日まで負けの数の方が多かったが、今日の6勝1敗という好成績で、勝率を何とかちょうど5割に戻すことができた。パーティの中で、房風の断髪式が行われる。途中会場に大歓声が起こり、ちょうど同じホテルで打上げパーティをやっていた横綱曙も会場へ現れ、房風の髷にハサミを入れる。房風は横綱と同期生である。
平成10年3月23日
朝9時起床して、大掃除、幟の片づけ等を行う。巡業組は、巡業行きの荷造りもはじめる。終わったら終わったでけっこう忙しい。
平成10年3月24日
大阪後援会主催によるゴルフコンペが行われる。晩、近大OBの郵政関係の集まりである”若梅会”に親方家族と力士一同招待してもらう。この会は、親方が十両に昇進した昭和53年から毎年大阪場所にあわせて開かれている会で、今年でじつに20年目である。
親方が学生時代の近大相撲部の監督であった祷(いのり)氏もゲストとして、ご夫妻でおみえになる。最近病を患い、車イス生活の祷監督、親方が学生時代によく歌ってたという「津軽海峡冬景色」を聴き、「おかげさんで、部屋をもち、弟子を育て、ここまでくることができました」という言葉に、涙をながして喜んでいた。
平成10年3月27日
午前9時より最終的な大掃除。東京へ送る荷物が玄関に山のように積まれていく。年中引越しをしているようなものなので、荷造りはお手の物である。
ここ大阪では、親方の後援者の運送会社がトラックを東京まで出してくれるので、運賃はタダである。タダが好きなおすもうさん、今年はタダでないという噂が一時流れたが、タダとわかると急に送る荷物が増えてしまった。
平成10年3月28日
お昼前、一月あまり住み慣れた大阪の宿舎をあとにして、巡業組は上本町から近鉄電車で伊勢神宮へ向かい、帰京組は新大阪駅から新幹線にて東京へと向かう。東京へ帰れる嬉しさ反面、大阪をはなれる寂しさもあって、けっこうほろ苦い思いである。
相撲甚句”当地興行”のはやし言葉が浮かんでくる。♪「はぁ、せっかくなじんだみなさまと、今日でおわかれせにゃならぬ、いつまたどこで会えるやら それともこのまま会えぬやら、 おもえば なみだが パラーリ パラーリと」・・・。
巡業組はこの後四国、東海、関東近辺とまわり、東京に戻るのは4月17日の予定。朝乃翔、場所前から痛めた膝の怪我の悪化のため、巡業を休み。逆に朝藤墳、本場所を休場したが、怪我の具合もかなり良くなってきたので、親方の付人として巡業に初参加。
平成10年3月30日
力士数が減って、巡業に出たりで、東京の部屋に残っているのは6人しかいない。そのうち2人は教習所なので、4人しか残らなく、友綱部屋へ出稽古に出向く。できたばかりの稽古場なので気持ちがいい。
平成10年3月31日
大阪はお客さんが多いため、チャンコも大根3本、にんじん10本、白菜2個、とダイナミックに材料を切っていたが、帰ってきて昼のチャンコを食うのが4人しかいないため、大根1/3本、にんじん1本、白菜1/4と寂しい。
それでも昼では食いきれず、晩までいけてしまう。「非力だなー」といいつつ、チャンコはやっぱり大勢で食うものだとしみじみ感じた。
今日の若松部屋
平成10年4月1日
友綱部屋への出稽古。友綱親方(元魁輝)が「4人じゃチャンコも作れないだろう」ということで、「うちの部屋で食っていけ」というありがたい言葉をいただいて、昼のチャンコをごちそうになる。
今日のチャンコは豚みそだったが、部屋で作るのとまた微妙に違って、新鮮でおいしい。
平成10年4月2日
友綱部屋の魁青山(かいせいざん)が強くなった。入門して丸4年のこの力士は、もともと稽古場では力はあったが、いつもあと一歩 のところで、三段目に上がれずにいた。それが2、3場所前に初めて三段目に上がってからは勝越し続きで、先場所は三段目中位で5連勝と波に乗っている。今日も、朝太田、駒井、魁嵐山と4人で申し合いをやったが、面白いようにめをだしていた。
友綱親方も、「こりゃぁ、智ノ花か大日ノ出でも連れてこないと、稽古にならんなぁ」と、ごきげんであった。(友綱部屋と立浪部屋 は、同じ一門)現在19才。体も大きくなってきて、来場所三段目上位での相撲が楽しみである。
平成10年4月4日
新弟子で入門すると、6ヶ月間相撲教習所に通う。午前7時より午後1時頃まで実技(稽古)と学科の授業が行われる。
ただ幕下附出しで入門すると実技は免除で、10時からの授業から顔を出せばよい。先場所友綱部屋に入門した学生出身の3力士、日大の西野は前相撲からなので、朝一番の実技から出席しなくてはいけないが、日大・斎藤と中大・田中の二人は、朝、部屋で8時半過ぎまで稽古してから教習所へ向かう。二人とも気合の入ったいい稽古をしているが、斎藤の強さには目を見張るものがある。
元十両の朝太田も十分の右上手をとれば、関取でもそうはいかない、と自負しているところがあるが、斎藤には全く通じなく、あまりの強さに「くやしさも起きない」とお手上げ状態である。立合い、スピード、腰の強さ、技の切れ、出足、相撲勘、どれをとっても一級品で、すでに 十両の力は充分にあるであろう。強いて言えば、少し体の硬いところがあり、怪我が心配といえばいえないこともないが、幕下中堅に上がる来場所も大勝するのは間違いないだろう。これからの出世ぶりが楽しみである。
平成10年4月5日
友綱部屋に合わせて、稽古休み。朝乃翔チーム、リハビリ中だった大阪から帰京。部屋の中が少し賑やかになる。
平成10年4月6日
おすもうさんはパチンコが好きである。特に朝ノ霧などは暇があれば行っているので、最近苦しい生活をしいられているようだが。
そんな話をしながら九重部屋から出張で来ている床九に、頭をやってもらっていたら、いいとこうりの床九、話にのってきた。
「等価交換(玉を買った値段で換金してくれること)て、ずーっと10日交換だと思ってましたよ。みんな、あそこはトウカコウカンだからいい、というと、なんで10日後に換金できるのがいいのだろう、巡業先だったら困るだろうのになぁ、と思ってましたよ。」という言葉に、「九ちゃん、そりゃ、いいとこ(作り話)だろ」と突っ込まれていた。
床山には、伝統的に、いいとこうりが多い。
平成10年4月9日
ここ2、3日ぐずついた天気の東京。雨が続くとマワシを締めるのがつらい。
稽古マワシは、生地は木綿だが、厚織りなので、新しいうちは柔らかいのだが、使い込んできて、汗と泥、その他がしみ込んでくると固くなってくる。特に湿気の多いときは、前日の汗が乾ききらずに、股ずれしそうなほど(慣れてない新弟子は必ず股ずれする)固いし、臭いし、大変である。
ちなみに相撲界では、”師匠が亡くなったとき以外はマワシを洗ってはいけない”という格言があったが、最近は忘れ去られつつある。
平成10年4月10日
久しぶりの快晴で、マワシ干し日和である。部屋の裏のブロック塀に、でかい昆布のような黒マワシが並んでいる。稽古マワシは、日に当てて干すが、関取が本場所で締める締込みは、絹の繻糸(しゅす)織りなので、汚れても濡れタオルで拭くだけだし、干すときも陰干しである。
ちなみに稽古マワシは、1メートル800円だから、1本5千円ほどで買えるが(相撲協会事務所で販売している)、締込みは数十万円する。
平成10年4月11日
「マワシの下には何かつけているのですか」と、よく聞かれるが、マワシの下には何もつけていない。
ただ、関取が化粧マワシをするときは、下にサラシで作ったふんどしを締める。長さは、稽古マワシで6~8m(大体4周まわす)、関取が本場所で締める締込みは、10~12m(5、6周まわす)ある。けっこう重い。
平成10年4月12日
昨日今日と、巡業が横浜なので、親方、家族を横浜に呼んで家族サービス。巡業も残すところあと5日である。
18日は春巡業の最後として、靖国神社で、毎年恒例の奉納相撲が行われる。ここは入場料タダなので、お近くの方はチャンスです。
平成10年4月13日
呼出し邦夫が巡業から帰ってくる。呼出し邦夫は、巡業本隊とは別に、巡業の先乗りとして 土俵を作ってまわっていたため、少し早い帰京となった。
明日から早速高砂一門の部屋の土俵築(作り)らしく、休む間もない。同じ裏方稼業でも、行司は事務系の労働が多いのに対し、呼出しは肉体労働である。
それゆえ、呼出しは相撲を取らせるとけっこう強いし、酒癖の悪いのは行司に多い。
平成10年4月14日
岩手県の金ヶ崎中学というところから修学旅行の自由研修で22人見学に来る。稽古を見たあと質問コーナーや朝乃翔との写真撮影、お土産に若松部屋新聞をもらい、喜んで帰る。一人バレーボールをやっているという、少しガタイのいい子がいたので、相撲取りにならんか、と声をかけたらすごく嫌がっていた。
平成10年4月16日
明日の巡業地は埼玉県の越谷と近場なので、部屋から通いの巡業ということで、巡業組が久しぶりに帰ってくる。
見慣れた顔も3週間ぶりに会うと、懐かしいものである。初巡業の朝藤墳、失敗もなくけっこう順調にいっているようで、体重計に乗ったら76、4Kgあり、2Kg増えたと喜んでいた。ただ、泊まるホテルがビデオ付の個室なので、いろいろと大変らしい。
平成10年4月18日
初場所に部屋を訪れたフランス大使の紹介で、日本にきていたフランス政府の大臣が稽古見学とチャンコを食べに来る。ものすごく気さくな方で、大いに喜んでいた。
平成10年4月19日
食べ放題の店にはおすもうさんもいくのですか?という質問をいただいたので、昔話をひとつ。
4、5年前のことだが、後援会の人が力士を3人ばかり“しゃぶしゃぶ”の食い放題に連れていってくれることになった。ひとりソップ型だが、えびすこの強い力士がいて、おだてるといくらでも食う奴だった。
ちょっと高級な感じの広い店で、一番奥のテーブルに陣取った一行、その力士がひとりでどれくらい食えるかということで、鍋を別にしてひとりで挑戦してもらった。まあ、しゃぶしゃぶは割と食いやすいので、一皿200gの皿があっというまに5、6皿積まれたが、さすがに10皿近くなると苦しそうであった。
「すごいなー」とか「まだいけるの」とかいう外野の声を聞いて、ますます調子にのり、「だいじょうぶっすよ」といいながら頼んだ11皿目を食い終えた瞬間、顔色が変わって、いきなり立ち上がって走り出した。
すぐ横にトイレがあったのに、目に入らなく、みんなの声を振り切って、口を押さえながらものすごいスピードで玄関の方へ駆けていった。席が一番奥なものだから、けっこう距離があり、あまりに勢いよく走ったものだから、玄関の自動ドアが開ききれずに、「ごーん」というでかい音で、玄関のガラスにぶちかましてしまった。すごい音で満席のお客さんが振り返った瞬間、みんなが目にしたのは「オェー」という音とともに玄関のガラスに向かって 吹き出されるしゃぶしゃぶであった。
平成10年4月20日
いっきに夏日となった東京。基本的にデブの集まりであるおすもうさんは、暑がりなので、少し暑くなるとすぐ着物から浴衣に衣更えしてしまう。一般人で和装の人は、少々暑くても4月は夏用の着物で、浴衣は着れないと思うが、おすもうさんは、その点得である。
自分の四股名入りの浴衣地を作れるのは幕内力士からである。夏場所で、作った浴衣を交換し合うのが恒例になっている。だから自分の名前の入った浴衣は着ずに、他人のを着るのが一般的である。
平成10年4月21日
おすもうさんの着る浴衣は全てオーダーである。入門してすぐは、親方が作ってくれるし、背格好が似ている兄弟子のお古を貰ったりするが、大体2年めからは年に1、2着自分で作る。近所の和裁の得意なおばあちゃんに頼むのだが、最近は両国界隈でも縫ってくれる人がめっきりへって、出来上がるまでに時間がかかる。ちなみに一着の仕立て代は、5~8千円位である。
平成10年4月22日
昔は力士の浴衣といえば、白地に紺の一色だったが、最近は大変カラフルである。特に部屋の朝乃若の浴衣は毎年凝っていて、浮世絵あり、ピンクの花びらあり、星条旗ありと大変ユニークで、他の部屋の力士にも人気が高い。2、3年前はそのデザインが あまりに過激すぎて、協会から禁止令が出たほどであった。
今年はどんな浴衣を作ってくれるのか、楽しみである。
平成10年4月25日
浴衣は10年も着れないが、着物は-特にいいものほど-寿命が長い。朝鷲のお父さんは、20数年前に幕内で活躍した若松部屋の大鷲という力士であったが、ある時兄弟子に貰った着物を着て里帰りしたら、親父に 「これは昔俺が着ていた着物だ。」と懐かしがられたらしい。
お父さんが弟弟子にやった着物が、巡り巡って(間に5人くらい入っているようだ)息子の元へ帰ってきたというお話。-もちろん、朝鷲本人は全然知らなかった。
平成10年4月26日
新弟子が入門してきた。大阪出身の耳川直毅君、15才である。15才にして身長186cm、体重105kgの立派な体格である。
相撲部屋の風呂はでかい。若松部屋の風呂も力士4人が楽に入れる程で、湯量は軽く1トンを上回る。今までも一応、お湯の循環機はついていたのだが、家庭用のなので風呂の大きさに対応できず、故障や汚れがひどかった為、業務用の温泉機能付き24時間風呂が今日からはいった。かなり高い買い物だったようだが、「みんなの体にいいのなら」との、おかみさんの決断で実現した。感謝感謝。
平成10年4月27日
夏場所の番付発表が行われる。年6場所だから番付発表も年6回なのだが、前準備や発送にかなり手間がかかるので、しょっちゅうやっているような気がする。朝乃若は前頭13枚目、朝乃翔が14枚目。
去年の夏場所は序二段の103枚目だった朝小畑、6場所連続の勝越しで、1年前からすると280人抜きで三段目61枚目まで番付を上げる。もちろん今場所も自己最高位。朝乃霧も最高位。
朝関野、今場所より四股名を朝ノ秦(あさのしん)と改名。出身地の秦野市からとったもので、命名者は行司の勝次郎だが、改名のことはみんなも今日初めて知って、「これって太秦(うずまさ-朝泉の本名)からとったの」と言われて、お互いに嫌がっていた。
平成10年4月28日
3人ほど雑誌を見て興奮している。何事かとのぞくと、“Hot・Dog5月10日号”に朝鷲が出ていると喜んでいる。
中に番付倶楽部というページがあり、「とにかくいろいろな意味で強そうなシコ名」番付に10名ほど四股名が出ていて、その中に見事(?)朝鷲が選ばれている。選考は女子高生らしい。他には、大殿(だいでん)、威神力、虎伏山、黄金富士、闘牙、鬼丸、玉之光などが選ばれていて、それぞれにコメントがあり、けっこう笑えるが、なめている。興味のある方は、本屋で立ち読みして下さい(絶対買う程のことはない)。
平成10年4月29日
四股名は基本的には親方が付けるが、本人が考えるのも、親方の許可が貰えれば自由である。昔(10数年前だが)松田聖子のファンで“聖光”(せいこう)という力士がいたし、石川秀美のファンで“秀美山”という力士も実際にいた。これ本当の話。
平成10年5月1日
朝辻野が退院してきた。今年1月場所中に膝を怪我して入院していたもので、約3ヶ月ぶりの復帰である。もともと天然パーマなので、後ろでしばってあるだけの頭は爆発状態である。今場所の出場は無理なので、7月名古屋場所で前相撲からの再出発となる。
朝辻野同様、先場所公傷休場の朝泉と朝藤墳(あさふじつか)、怪我の回復具合も順調で、稽古に励んでいる。特に朝藤墳は初巡業を経験して、また下ができたので兄弟子としての自覚もでてきたようで、相撲も強くなった。
今場所、2度目の勝越しは間違いないであろう。
平成10年5月2日
地元本所三丁目の町内会で組織している“本所若松会”というファンクラブ的な後援会があり、稽古見学とチャンコ会を行う。
3年ほど前に結成されたが、年々会員が増え、現在では70名の大きな輪となっている。ありがたいものである。
平成10年5月3日
朝乃若、今日から付人の朝小畑を連れて三保ヶ関部屋へ出稽古。朝乃翔は、まだ膝の具合が完全ではない為、部屋にての稽古を続ける。
部屋によって稽古場の雰囲気にはかなり違いがある為、行きやすい部屋、行きにくい部屋はあるが、やはり勢いのある部屋には多くの力士が集まる。親方が現役の頃の高砂部屋には、横綱の千代の富士、北勝海、それに旭富士等と壮観な顔触れであった。 最近では武蔵川部屋あたりが一番集まるようである。
若松部屋も関取が十両から幕内に駆け上がっていく頃にはいろいろな部屋から出稽古にきたが、最近はめっきり来なくなり、こちらから出向く方が多くなった。
平成10年5月4日
膝の怪我で先場所全休して、今場所に再起をかける朝泉、リハビリのためもあって、最近散歩に取組んでいる。部屋で一番のデブの朝泉、元来歩くのが苦手で、しかもおそい。一人じゃ寂しいので、呼出し邦夫も付合って一緒に歩いているが、朝泉が部屋から亀戸駅まで30分であるけるかどうかという話になり、朝泉が行けるといったものだから、賭けになった。
一般人なら全く問題ない距離だが、170Kgの朝泉にとってはけっこうきびしい所である。結果は一分遅れで邦夫が勝ち、戦利品のジュースをうまそうに飲んでいた。負けた朝泉、「あと1分だったのに」と悔しがっていたが、話が途切れた瞬間に深い眠りにおちていた。
平成10年5月5日
地方場所と違い東京は、差し入れがあまりないので、殆ど毎日買い出しに行く。部屋の近くには2軒のスーパーがあるが、野菜の値段や鮮度、品数などがけっこう違うので、買うものによって使い分けている。たまに鮮度がよくて安い物を見つけたら勝ち誇った気分になるし、町を歩いていても八百屋のネギや白菜の値段が気になる。まったく主婦感覚である。
平成10年5月6日
チャンコのメニューはチャンコ長が決める。若松部屋では鍋の他に付出しのおかずも3品ほど作るので、毎日のメニューを考えるのがけっこう大変である。あるものは使わないといけないし、同じ物だと飽きられるし、頭を悩ます所である。
だから、けっこうTVの料理番組とか真剣に見るし、本やインターネットなどもいい情報源になる。
ちなみに今日の献立は、メインのもつ鍋にマーボナス(鳥胸肉をミンチして味噌、にんにくしょうが、トウバンジャンでナスとからめる)、イカと大根の煮付け、オニオンとキュウリのサラダ、という具合であった。
平成10年5月8日
マネージャーについての質問がありました。最近は殆どの部屋にマネージャーがいます。部屋によって多少違いはあると思いますが、マネージャーの仕事としては、チャンコ、後援会業務、部屋の事務、親方の秘書、運転、力士の指導、力士と親方のパイプ役・・・ と多岐にわたります。だいたいが親方の付人をしていた元力士が務めていますが、今売り出し中の栃東の玉ノ井部屋は、親方の長男(栃東の兄、元力士ではない)がやっているようです。
若松部屋にも、親方の現役時代からの付人を務めていた脇原というマネージャーがいましたが(おかみさんより付合いが長いし 、一緒にいる時間も長い-というのが親方の口グセでした。)、家庭の事情のため昨年末にやめ、現在は一ノ矢がプレイングマネージャーという形でやっています。部屋によっては、おかみさんがマネージャー的なことをしている部屋もあります。
平成10年5月9日
初日を明日に控えた土曜日、稽古見学とチャンコにお客さんが40人ほどつめかける。お客さんが帰って片づけを始めたとき、お客さんが残したビールがあったので、朝住吉に「今日はいい稽古したから一杯飲め」と無理やり飲ませる。(朝住吉は元来下戸の口である。)ちょうどそこへタイミングよく(?)親方があらわれ、「このやろう!片づけも終わらないうちから飲みやがって」と怒鳴られ、腕立て伏せ50回を命じられる。
ちょうど居合わせたおかみさんの号令の元、みんなに冷やかされながら50回をやりとげたバカマケの朝住吉であった。
平成10年5月10日
初日。相撲が終わって12時頃に国技館を後にすると、「当日券があります」とアナウンスしている。日曜日の昼過ぎても切符が余っているとは記憶にないなと思いつつ帰るが、結局満員御礼にならなかったとのこと。実に26年ぶりのことらしい。
そういえば、観戦に来た知人が、9時に来たのにイス席の3列目(A券)が買えたと喜んでいた。相撲の切符は買えないと思っている あなた、チャンスです。
平成10年5月11日
序の口で幸先よく白星スタートの朝長沼、寝相がすさまじく悪い。
朝方トイレにいくとき、ふとんを見ると中に姿が見えない。一瞬「すかしたのか」と思い、ふと隣で寝ている行司の勝次郎を見ると、ふとんの足元から長々と脚が出ている。見た感じ身長2mはありそうである。一晩でこんなに背が伸びるわけないよなと、よくよく見ると朝長沼の脚である。
寝相の悪いのはいっぱいいるが、ちょっと珍しい例である。
平成10年5月13日
朝乃若、ようやく初日。初日が出るとホッとするものである。今日は7勝3敗と昨日の分を取り戻し、成績が5割復帰。
平成10年5月14日
今場所土俵係りの呼出し邦夫、水付けの手伝いと時間いっぱいのタオル渡しが主な仕事だが、時間いっぱいでタオルを差し出すと、大体は「ごっつぁんです」と言ってタオルを貰うらしいが、力士によって反応が様々で、中には反応の全くない力士もいて、そういう力士には「時間です」の声も気合が入らないそうである。
貴乃花と武蔵丸は必ずタオルを断るらしいが、貴乃花が渋い気合の入った顔で断るのに対し、武蔵丸はかるく微笑んで断るらしい。
中でもひときわ目立つのが栃ノ洋らしくて、真面目な性格からか、気合の入った声で「ごっつあんです」と応えてくれるのだそうである。
平成10年5月15日
親方の付人の朝住吉、初めて本場所の審判室での仕事に付く。仕事は、親方の紋付き袴を着替えさせるだけなのだが、拘束時間が長いのでけっこう疲労感がある。おまけに今日の取組で、親方が審判で土俵下から見ている前で、格下の相手に立合い変化して負け、審判室に戻ってからもさんざんだったらしい。
部屋の師匠が審判の時はけっこう取りにくいものである。
平成10年5月17日
カリフォルニア在住の相撲ファンの方が、3代目若松・元関脇房錦のページを開いてくれました。
元房錦の3代目若松は、「褐色の弾丸」の異名をとり、栃若から柏鵬時代にかけて、横綱キラーとして活躍しました。お父さんが式守錦太夫という行司さんで、お父さんの軍配で相撲を取ったという事でも話題になり、「土俵物語」という映画にもなったそうです。現在の木村庄之助とは義理の兄弟にあたります。
力士の中では、一ノ矢と関東龍が、房錦の最後の弟子になります。
平成10年5月18日
朝太田、初日に負けたもののその後4連勝で、今場所第1号の勝越し。逆に朝泉、朝関野は負け越し。
平成10年5月19日
朝住吉、勝越し。関取も揃って勝ち、今日の全成績は5勝1敗。ちょうど5割に復帰。残り5日間が勝負である。
力士が控えている土俵の横っ面には、土俵に上り下りする為の俵が三つ埋め込まれていて、土俵に上がるときは真ん中の俵から上り、下りるときには花道側の俵から下りる。ところが、新序の口の朝長沼、相撲に勝ったうれしさのあまり、塩を置いてある土俵の角から飛び降りてしまった。土俵下の審判もあっけにとられて声も出なかったそうな。序の口ならでは(朝長沼ならでは?)のハプニングであった。
平成10年5月20日
朝ノ霧、自己最高位で勝越しを決める。その朝ノ霧、最近肩の辺りの筋肉が隆々としてきた。TVの前でみんなでくつろいでいる時、関取が「ふくちゃん、いい肩筋してるな。ちょっと出してみろ」というと、なにを勘違いしたのか「え、いいんすか」といいつつ、パンツの横から片金をぽろりと出してしまって、大爆笑であった。純情な青年朝ノ霧である。
朝小畑、負けて負け越し。連続勝越し記録が6場所で終わる。朝太田、幕下復帰を確定づける5勝目。
平成10年5月21日
関東龍勝越し。序二段筆頭なので、来場所の三段目復帰は間違いない。
幕下力士の多い部屋というのは活気がある。ところが、今場所の若松部屋は、幕下なし、三段目2人と寂しい限りである。そういう意味では、朝太田の幕下復帰、関東龍の三段目復帰は明るい一歩である。朝闘山(あさとうざん)もあと一勝で三段目返り咲きである。
平成10年5月22日
朝乃翔勝越し。場所前、膝の調子が今一つで十分な稽古ができなかっただけに心配されたが、うれしい13日目での勝越しである。逆に朝乃若は負け越し。13枚目とあとがないだけに、あと2日間の相撲が大事である。
朝住吉、先場所に続いての6勝目。
行司の勝次郎、昨日より十両取組の場内アナウンスをやっている。自分の声が全国ネットで流れると思うと、けっこう緊張するそうだがなんとか無難にこなしている。
平成10年5月23日
勝越しは何回やってもうれしいものである。特に、あまり勝越したことのない力士にとっては喜びもひとしおで、大声で叫んで 飛び上がりたいような心境である。入門13場所目の朝藤墳(あさふじつか)、2度目の勝越しを決めて、小躍りしながら帰ってきた。何かとまわりから冷やかされるが、今日ばかりは何を言われてもニコニコしている。
明日の千秋楽を残して、55勝54敗の成績。明日5人取組があるので、2勝以上だと5割を超えるのだが。
平成10年5月24日
千秋楽。最後の一番に幕内の座をかけて十両の金開山と対戦した朝乃若、さすがに緊張したそうで、一番前の力士に水をつけて紙を渡すのだが、紙を渡し忘れたほどだったらしい。しかしながら、控えで相撲を見ている間に開き直り、相手充分の体勢になられながらも、ここ一番の底力を見せ7勝目。これで何とか来場所も幕内に残れそうである。一ノ矢勝越し。この2勝でちょうど5割に到達。
千秋楽打上げパーティが行われる。あいにくの雨模様もあり、いつもよりも出席者の少ない、少し寂しい打上げでしたが、HPを見て参加していただいたお客様も2名ありました。感謝、感謝。
平成10年5月26日
毎夏合宿をはっている平塚の運動公園に常設の本格的な土俵ができることになった。呼出し邦夫と一ノ矢、九重部屋の呼出し重夫さんの3人で、午前6時に部屋を出て、現場へ向かう。予定では今日、明日で作るはずだったが、数日来の雨で運んできた土が濡れている。おまけ天気予報では午後から回復するという空が、どんどん雨粒が大きくなってきて、土を固めようとすると、土俵がプリンになってしまう。これ以上やると取り返しのつかないことになるので、形だけつくって作業を中断。2週間後に改めての挑戦である。
親方がらみの仕事の多い九重部屋の重夫さん、ぽつりと、「親方の仕事の時は雨が多いなぁ」
そうなのである、親方はけっこう雨男なのである。
平成10年5月28日
呼出し邦夫、少々尿酸値が高い。尿酸値が高いと痛風になりやすいので心配して、「尿酸値って、いくつ位から危ないのかなぁ」と聞いていた。相撲協会の健康診断表によると“力士用基準値”は-8未満-となっている。
「まあ、8はないけど、これは力士用だから、一般人用はもっと値が低いのだろうな」と口にすると、「いやー邦夫さんは、力士用で大丈夫っすよー」と突っ込まれていた。
朝長沼や朝藤墳よりはるかに重い、呼出し邦夫であった。
平成10年5月30日
一門の小錦関の引退相撲で、朝早くから親方、関取をはじめ殆どの力士が国技館へと出向く。行司の勝次郎と呼出し邦夫も受付け係りで、国技館から新高輪のパーティまで忙しい一日であった。
さすがに元人気大関の引退相撲だけあって、TV中継あり、500円玉入りの大入り袋(ふつう本場所に出る大入りは10円)あり、有名人多数と破格の断髪式であった。
平成10年5月31日
昨日に引き続き今日も花相撲(若翔洋の引退相撲)で、朝四股を踏んであがる。引退相撲も、他の一門の時はのんびりである。あさって出発のカナダ公演に付人としてついていく朝小畑、荷造りで必死である。(海外へは、関取二人に一人の付人がつく)。
平成10年6月2日
朝乃若と朝乃翔、カナダへと飛び立つ。海外公演の場合は、幕内力士二人に一人の割合で付人が付くので、若松部屋からは朝小畑が参加。二人分の仕事をしないといけないので、けっこう大変である。二日間の公演をやって、10日に帰国の予定。
昨日より、夏場所中に出羽ノ海部屋から独立した元両国の中立親方が、弟子を一人連れて稽古に来ている。新しい部屋は、今年末に足立区に建設予定との事であるが、同じ審判部で手が合い、現在は若松部屋の近くで弟子二人と一緒にマンション住まいということで、出稽古となっている。
平成10年6月3日
若松部屋にもクーラーがはいることになった。今まで若い力士が寝る大広間(約50畳)は、扇風機しかなく、地球温暖化の影響をもろに受けていたが(それでも名古屋のプレハブから帰ってくると東京は涼しいと感じることもあった。)、朝ノ秦(あさのしん)の親戚が電気屋さんで、クーラーをタダで取り付けてくれることになった。持つべきものは、お金持ちの親戚である
平成10年6月4日
ここ数日、友綱部屋の魁将龍(親方の息子)と魁ノ若が夜、若松部屋にトレーニングに来ている。二人とも怪我をして、相撲の稽古が十分にできないので、リハビリを兼ねて筋トレに励んでいる。相撲は、筋トレをやったから強くなる、という簡単なものではないが、その心意気や良しである。
地下に立派なトレーニングルームがあるのに、少々宝の持ち腐れ的な所のある若松部屋力士達であるが、二人に刺激されたのか 朝藤墳も真剣に取組みだした。
平成10年6月6日
気がついたら、“今日の若松部屋”も書き出して10ヶ月になりました。
平成10年6月7日
床山のいない若松部屋。現在は、一門の九重部屋の床岳(とこたけ)さんが出張で来ている。この間まで来ていた、同じ部屋の床九もかなりうまいほうだが、床岳さんのうまさはまた格別である。床山さんにも下手な人がいて、そういう人にやってもらうと痛かったり、髪の毛がつったり、ゆるかったりするが、床岳さんクラスになるとちょん髷を結ってもらっていて気持ちがいい。 しかも早いし元結いがきつくて、次の日に稽古しても元結いがなかなかゆるまない。
昔、若松部屋にいた床山さんは、四股を踏んだだけでちょん髷がゆるんでしまうというので有名だった。巡業中あまり稽古をしない力士は、わざわざやってもらいに来ていたほどである。(ちょっと歩き回っただけで、稽古をかなりやったような頭になるから。)
平成10年6月8日
先々週雨で延期となっていた平塚の土俵作りに出直す。何日か晴れた日もあったので、土も乾いただろうと思っていたが、乾いているのは表面だけで、中の土はまだドロドロ状態。タコ(丸太に取っ手をつけた土を固める道具)でつくたびにブヨブヨになってしまう。再び30cmほど掘り返して、少々乾いた土を入れ直してなんとか形を作る。とりあえず今日は、勝負俵(土俵の丸の部分)まで入れて、作業を終える。悪戦苦闘の一日であった。
地元の土木業者が手伝いに来るが、土俵作りは昔ながらの手作業なので、慣れないタコつきに「こりゃあ大変な仕事だぁ」と悲鳴をあげていた。
平成10年6月9日
平塚2日目。心配された雨もなんとか一日持ちこたえ、順調に作業は進む。土俵の中は、相変わらずプリン状なので、タタキで軽く叩き、左官の使うコテで表面を整える。(九重部屋の呼出し重夫さんによると、本場所では仕上げのツヤ出しの為コテを使うが、本場所以外では初めての事だそうである。)
おかげで、見た目は最高の仕上がりの土俵になった。(ただし、土が乾くまで当分使えないが・・・)
7月28日が平塚市主催の土俵開きの予定。それまでに乾いてくれるのを祈るばかりである。
平成10年6月10日
月曜日から高砂部屋が4人、出稽古に来ている。親方が名古屋場所の担当部長で、準備のため早くから名古屋入りしているので、今週の土日の花相撲に出る力士以外は、名古屋へ行ってしまったからである。4人しかいないので、稽古を終えて若松部屋で風呂に入り、チャンコを食べて帰る。
やっぱり、よその部屋のチャンコは微妙に味が違うようで、「うまい、うまい」と言っている。高砂一門の本家、名門高砂部屋も最近は力士数が20名を割って、寂しくなってしまっている。
平成10年6月12日
おとといカナダから帰国した朝乃若、朝乃翔、朝小畑の3力士。公演は2日間のみであったが、その他イベントでかなり忙しかったようで、疲れきった表情で帰ってきた。食べ物もあまり合わなかったようで、久しぶりのチャンコにホッとした様子である。
カウンター40000番目のお客様は、○○様。12日午前5時頃に達成のようです。おめでとうございます。 最近インターネットを始めた呼出し邦夫、密かに40000番目を狙っていたそうだが、はずして残念がっている。
平成10年6月14日
朝闘山(あさとうざん)が引退することになった。家庭の事情で、夏場所後京都の実家に戻っていたが、目の怪我のこともあり、やむなく引退を決意して挨拶の為に久しぶりに部屋に戻ってきた。
御徒町のいつもの店で送別会をやるが、今年に入ってから送別会続きで、以前はL字型に使っていたテーブルがI字型でよくなってしまい、寂しさを感じてしまう。なかなかの役者だった朝闘山、最後に「六甲おろし」を熱唱して東京を後にする。隣で酔っ払った 朝藤墳が、裸になって泣いていた。
平成10年6月15日
魁皇関が突然出稽古にやってきた。魁皇関によると、横綱(曙)が若松部屋に出稽古に行くという話を聞いて来たらしいが、当の横綱は結局現れなかった。朝乃若と朝乃翔と3人で申し合いをやるが、夏場所後、若い衆をつかまえての稽古ばかりだった両関取も、久しぶりに頭から当たれたといい稽古になったようであった。
平成10年6月16日
明日から先発隊が名古屋へ出発するため、荷作り等で忙しい一日となった。とりあえず、名古屋行きの荷物が20個ほどできたが、宅配便を頼んで交渉したら、名古屋まで1個500円でいってくれることになった。こういう時の交渉係は、いつも朝泉である。あの大きな体(194cm170kg)と、あの怒ったような顔(本人に言わせると普通の顔らしいが)で、出てこられると,いやとは言わせないようである。
荷物は宅配便の規格を超えるような大きな荷物ばかりなのに。俺だったらこんな仕事絶対いやだよな、と思う荷物送りであった。 TV東京で一ノ矢の特集が放映されることになり、今日からTVカメラが入る。
平成10年6月17日
先発隊の5人(一ノ矢、関東龍、朝泉、朝辻野、朝藤墳)名古屋へ乗り込み。名古屋場所の宿舎は、海部郡(あまぐん)の蟹江にある龍照院というお寺。木曽義仲、巴御前ゆかりの歴史あるお寺である。
宿舎に到着すると、今年の初場所に引退した朝西春の顔があった。現在は、地元の電設会社で働いているが、わざわざ休みをとって手伝いに来てくれた。もともと大きい方ではなかったので、すっかりよかた体型になって、元おすもうさんだったとは一見わからないが、たまに、「ごっちゃんです」と、つい出てしまうらしい。
平成10年6月18日
一年ぶりに名古屋に来ると、自転車の数が驚くほど多い。考えてみれば一年前の名古屋場所は力士の数が24名だった。この一年で9名やめたことになる。力士の数は減ったが、自転車は元の数だけあるから、異様に多くて寂しさを感じてしまう。土俵の土入れと幟立てを行なう。
平成10年6月19日
朝から雨が降り続く名古屋。昼過ぎ、少し小降りになったので蟹江町内に11本、幟を立てにいく。かなり広範囲に立てるため、近所の人にトラックを出してもらう。幟が立つと今年も大相撲がやってきたと、地元の人に知ってもらえるし、大通りから部屋までの角角に立てるので、部屋までの道標にもなっている。
平成10年6月21日
東京残り番だった力士達も、相撲列車にて名古屋入り。これで、昨日から豊橋後援会の激励会のため名古屋入りしていた親方、関取に加え、全力士が揃う。
今日から若松部屋にニューフェイスが加わることになった。といっても新弟子ではなく、親方の運転手となる鈴木さんである。横綱曙関の運転手の知人ということだが、詳しくはまだ不祥である。
平成10年6月22日
名古屋場所の新番付発表。心配された朝乃若、幕尻の東16枚目にかろうじて残り一安心。今日は朝から後援会への挨拶回りで大忙しであった。朝乃翔は東12枚目。朝太田が幕下復活。朝ノ霧、朝住吉、朝藤墳が自己最高位。逆に朝辻野は、先場所の休場で番付から名前が消え、前相撲からの再スタート(序の口で全休すると前相撲に落ちてしまう)。「今場所は番付を送らない」とすねていた。詳細はこちら
チャンコ番は番付順なので(下から)、番付発表の日に新しいチャンコ番の班の編成をすることになる。番付発表の日は忙しいのでチャンコ番を避けたいのだが、ここ約2年教習所生徒を除くと常に番付が最下位だった朝藤墳、番付発表の日がチャンコ番と決まっていたが、同期生の朝辻野より番付が初めて上になって、ようやく番付発表の日のチャンコ番から逃れることができた。
「番付発表の日にチャンコ番から外れることが夢だったんですよ。」と喜ぶ朝藤墳に、みんな「すさまじく、ささやかな夢だな」と大笑いであった。ところが、やはり今日チャンコ番だった朝泉が関取に付いて出かけないといけなくなった為、泣く泣くチャンコ番を替わらされて、結局今日もチャンコ番をやる運命になってしまった朝藤墳であった。
平成10年6月23日
今日から名古屋場所に向けての本格的な稽古を再開。稽古の途中、今場所の無事を祈願して土俵祭りを行なう。
通常土俵祭りは行司が行なうが、勝次郎はまだ一人前でなく(行司にも格がある)、本家の高砂部屋へ手伝いにいく為、近所の神主さんにやってもらう。土俵祭りではお酒と昆布、米、スルメなどをお供えして、終わったあとお清めで、お供え物を口に入れることになっている。
ところが昨日お供え物を用意し忘れて、かなり遅い時間に買いにいったので、コンビニしか開いてなく、昆布を「都こんぶ」で代用した。普通、昆布などは口に入れるまねをするだけだが、親方も「これ懐かしい味だな。都こんぶだな」とすぐ見破り、「もう少しくれ」とおかわりまでしていた。
平成10年6月25日
地方場所に来ると、トイレが仮設トイレなのでけっこうつらいものがある。仮設だからもちろん汲み取り式だし、タンクが小さいのですぐ満杯になってしまう。そうなると中は、暑い日なぞは、強烈な臭いつきのサウナ状態である。おまけに栄養状態のいい蝿の幼虫が壁を登っていたりして、都会の洋式水洗トイレに慣れた人間には恐ろしい空間になってしまう。
大食漢の多い力士は、便の量も多い。昔、あるアンコ力士のあとに便所に入ったら-完全に下がのぞける汲取り式便所だった-前の人が使ったちり紙の上にのっかったモノが鮮やかに見えた。その量たるや驚くべき物で、ゾウがしたのかと一瞬思ったほどであった。
平成10年6月26日
キュウリの差し入れが重なり、野菜部屋がキュウリだらけである。鍋に使えないので、塩もみにしたりサラダにしたり、今日は酢豚にも使ったが、なかなか減らない。白菜などだと近所に配ったりするのだが、キュウリは近所の家でも殆ど作っているので配れない。おまけに東京のスーパーで売っている物と違って、でかい。3倍から4倍はある。今日買い出しにいったスーパーでは、5本で88円だった。キュウリの欲しい方、若松部屋までくれば差し上げます。
差し入れは非常にありがたいのだが、同じ物が重なることも多く(日持ちするものならいいが)、腐らさないよう使いきるのが、チャンコ番の頭の痛いところである。
平成10年6月27日
稽古を終えた後、毎年恒例になっている蟹江町役場でのチャンコ教室に出向く。チャンコは約500人分だが、町の婦人部が材料は切ってくれるので大鍋に放り込んで、味付けをするだけである。
会場に到着すると相撲甚句が流れている。どこかで聞いた声だなと、耳をすましてみると、2年前に引退した房乃龍の声である。2年前、蟹江町が相撲甚句を作ることになり、できた甚句を宿舎のお寺の本堂で録音したテープである。思いがけずに昔の仲間の声を聞くのは嬉しいものである。
平成10年6月28日
稽古終了後、愛知県に住む外国人の方々との国際交流会。親方のユーモアあふれる解説で相撲技の紹介、質問コーナーや、スイカ割大会、腕相撲大会と国際親善に一役買う。朝泉、クニもんだと思われたのかブラジル人に話しかけられていた。
晩、名古屋キャッスルホテルにて激励会が行なわれる。不景気の影響か、例年より若干出席者が減ったようにも感じられたが、名古屋場所に向けて意気をあげる。朝長沼の御両親も三重県鈴鹿市から駆けつけてくれた。
平成10年6月29日
地方場所は年に一度なので、お客さんが多い。先週の番付発表以来、連日チャンコを食べるお客さんがいたが、今日初めてお客さんゼロの日となった。チャンコ当番としては楽なのだが、いつも来ている客が全く来ないというのも、寂しいものである。
ただ稽古場は360度オープンなので、稽古見学のお客さんは、「仕事に行かなくていいのかよ」というくらい、稽古場の周りの道路を毎日取り囲んでいる。
今日の若松部屋
平成10年7月1日
朝長沼の御両親が稽古見学に来る。息子を相撲部屋に預けるというのは、かなり不安なものだと思うが、息子の稽古する姿を見てひとまずは安心したようであった。朝長沼も、いつにも増して気合が入っていた。
親方と両関取、おかみさんのお父さんである芋縄純市氏が本を出版することになり、出版記念パーティのために大阪へ。芋縄氏は、大阪で一代でスーパーコノミヤを6店舗、ちゃんこ朝潮を3店舗経営する、まさにスーパーマンである。
平成10年7月2日
名古屋場所らしい猛暑の一日となる。宿舎の建物は、天井の低いプレハブなので、昨年までは外気温が33度あっても外へ出た方が涼しく感じる程だった。扇風機を回すと体に当たる風が熱風で、とても昼寝などできる状況ではなく、精神的にはかなり鍛えられた。
今年ようやく宿舎にもクーラーが入り、今日のような真夏日でも快適な昼寝ができるようになった。やっぱり、しっかり休める環境の方がいい稽古ができる。
関取の付人衆、本場所用の明け荷を用意する。中には、締込み、さがり、座布団、テーピング、ティッシュ、爪切り、鬢付け油、等々本場所で使われるものが一式詰め込まれる。明日の朝、協会のトラックが取りに来て支度部屋へ入れてくれる。3,4年前までは初日の朝に付人が担いで運んでいたが、よくぶつけて壁を壊したりしていたので、現在は協会が一括して運ぶことになっている。
平成10年7月3日
初日を明後日に控えて取り組み編成会議が行なわれる。初日は、朝乃若が先場所千秋楽の相手、金開山。朝乃翔は旭鷲山。注目の若乃花は武双山。割紙(取組表)を手にすると、本場所が始まるという実感が湧いてくる。
夕方、選挙権のある親方と力士9名、不在者投票に蟹江町役場へと出向く。朝乃若の後援会長である一宮市長、部屋を訪れる。
平成10年7月4日
明日からの本場所の無事と必勝を祈願して、お世話になっている龍照院の御住職が、国の重要文化財である十一面観音を開帳して、祈祷してくれる。この十一面観音像は1世紀近く前に彫られた1mほどの木彫りの像で、戦前は国宝だったらしく、まことに魂の宿っている面持ちをしており、身が浄められる思いがする。
観音様のお陰か、名古屋場所はかなり成績のいい場所である。今年もあやかりたいものである。
平成10年7月5日
初日の幕開け。先陣をきってでたのは朝藤墳(あさふじつか)だったが、黒星スタート。その後朝ノ秦(あさのしん)、一ノ矢、両関取と勝ち、結局4勝2敗とまずまずの滑り出し。
付人で付いていると、初日というものは、久しぶりに支度部屋や審判室の独特の緊張感を味わうため、ドッと疲れるものである。朝乃若の付人の朝泉、晩のチャンコを食うとすぐ死んだように深い眠りにおちいっている。
平成10年7月6日
2連勝の朝乃翔、立合いが合わずに審判に注意をされたらしい。案の定部屋へ戻ると、協会から明日事務所に罰金10万円を払いにこいとの電話があった。「勝ったから良かったようなもの、負けてたら泣いていたな」と、痛い顔をしていた。今日も5勝3敗と勝越し。順調な2日間である。
平成10年7月8日
前相撲に落ちた朝辻野、昨日から土俵に上がっているが、今日3番とって3勝目をあげ再出世を決める。
前相撲に関して、前相撲からやり直す時は再び新序出世披露をやるのか。相撲は7日間取るのか。という質問をいただきました。 昔は再出世も出世披露をやっていましたが(確か旭豊は出世披露を2,3回やったような記憶があるが、確かではない。) 6,7年前から出世披露はその場所の新弟子のみとなりました。前相撲は3勝するまで取ります。(大阪場所は人数が多いので2勝するまで) 今場所の朝辻野は3勝1敗と4番とりました。
昨日今日と負けが込んで、勝率5割に逆戻り。
平成10年7月9日
幕下の朝太田3連勝。元十両力士だが怪我のため番付を下げ、ここ数年は幕下で勝ち越したことがなかったが、怪我の具合もかなり回復してきたようで、体のはりも多少戻ってきて好成績につながっている。
「ようやく勝ち方を思い出しましたよ」と、自信を取り戻したようである。相撲はメンタルなスポーツである。全体でも6勝1敗と好成績。
平成10年7月10日
名古屋場所で力士が楽しみにしている食い物がある。体育館の外にお茶屋さんの社員食堂のような調理場があって、その横のよしず張りの掘立て小屋に、板とビールケースを置いただけの場所で食わせてくれる鳥丼である。
大盛り丼飯に甘辛に煮付けた鳥に、山椒ともみのりをふりかけただけのシンプルな丼だが、実にうまい。おまけに1杯500円でおかわり自由である。
ただ難点は外なので暑いことである。ここ数日の暑さでは飯をくいながら汗でびしゃびしゃになってしまっていたが、今日は久しぶりに涼しい一日だったので、安心して味わうことができた。
平成10年7月14日
朝住吉今場所第1号の勝越しを決める。部屋唯一の幕下力士、朝太田も勝越し。幕下での勝越しは久しぶりで、復活への大きな自信となったことであろう。
大阪からおかみさんのお父さんである芋縄氏が本場所の応援に来る。土俵下での後押しが効いたようで、朝住吉以後5連勝と好成績であった。
平成10年7月15日
最近支度部屋で若い力士がマワシをひとりで締めている光景をよく目にする。数年前まではあまり目にすることのなかった光景である。マワシは本来二人で締め合うもので、相手に引っ張ってもらいながら、ゆるからず、きつからずハラを締めていくものである。
九重親方が横綱千代の富士の頃は、ウイスキー瓶1本分の霧を吹きながら、付人が汗だくになって、引っ張りながら締めていたものである。それを一人で体に巻き付けただけでは、ハラ(腹ではない、丹田のことである。)を締めて気合を入れるという状態とは程遠いものになってしまって、気合のはいった相撲が取れる訳がない。悪しき風潮である。
悪いことはすぐマネをするもので、若松部屋でも稽古の時一人で締めるのが出てきたので、罰金を取ることにしている。
平成10年7月16日
行司の勝次郎に元気がない。話を聞いてみると今日も差し違えをしてしまって、今場所これで4番目らしい。さらに追い討ちをかけるように、十両の場内アナウンスまで間違えてしまったそうである。行司の仕事は裏方ながら目立つだけに、おすもうさんと同様勝負である。ガンバレ勝次郎!
関東龍、朝泉勝越し。朝住吉5勝目をあげ、三段目昇進を決定的にする。
12日目終了時点で勝越し5人、負越し1人と好調である。残り3日間、両関取と3勝3敗の4力士がすべて勝越すと、部屋始まって以来の好成績になるのだが。
平成10年7月18日
一昨日までの好成績がウソのように昨日今日と大きく崩れ、47勝48敗と負けが先行する。明日の5人の成績に今場所の明暗がかかる。
朝ノ霧、今日の一番に勝てば7年目にして初の三段目昇進という取組だったが、物言いの相撲の末負けて、来場所再挑戦。
平成10年7月20日
昨日の千秋楽、幕内残留をかけて寺尾と対戦した朝乃若、見事な相撲で勝ち越しを決め、胸を撫で下ろす。出場の5力士全員が白星で、大阪から応援に駆けつけたおかみさんのお父さんの芋縄会長も、「ワシが見た相撲は今場所10連勝や」と御満悦であった。
結局出場12力士中8人が勝ち越し、勝率5割2分というまずまずの成績であった。これで今年に入って4場所連続で5割以上の成績をマークしている。残り2場所も続くといいのだが。
晩、地元尾張温泉にて千秋楽打上げパーティが行われる。500名近くの人々が集まり、勝越しを祝い、来年の再会を誓い、盛会のうちに打上げた。
平成10年7月21日
TVの取材で母校の琉球大学を訪れた一ノ矢、とうの昔に相撲部がつぶれて廃墟となっている土俵跡に驚くべき物を発見した。
カビの生えた鉄砲柱にくくりつけられたダンボール紙に、「琉球大学相撲部復活 ’98 6月29日 PM5:10」と書いてあり、 土俵は掘り起こして、青シートをかけてある。
話を聞くと、寮に住む東京生まれの1年生が、まだ名前だけだが人を集め、学生部に登録して相撲部として承認をもらったらしい。当の本人は夏休みで帰省してしまっていて、会えなかったが、感動的な一日となった。
平成10年7月25日
在名古屋も残すところ2日となり最終的なごみ出しと大掃除を行なう。何事も消費量の多い相撲部屋、次から次とゴミが湧いてきてしまう。今日のゴミ出しに間に合わなかったゴミは残ってしまうが、有り難いことに近所の人々が、何かと世話をやいてくれるので、好意に甘えて残りのゴミの始末をお願いする。田舎の良いところである。
平成10年7月27日
明日、平塚市の運動公園の中にできた土俵の土俵開きが行われる為、呼出し邦夫と一ノ矢、土俵の最終的な点検、修繕に平塚へ。作った時にはプリン状で心配された土俵も何とか固まっていて、一安心。
一部俵を埋め直し、土俵の中をタタキ直し、仕切り線をペンキで塗り、生えかけたコケを拭き取り用意万端。明日の土俵開きを待つだけである。午前10時から2時間ほどの予定らしい。東農大相撲部も参加とのこと。
ふつう大相撲の土俵開きは行司さんが神主になって行われるが、ここは市役所の仕事なので、宗教的色合いのあることはできないらしく、神主はもちろん土俵の盛り砂に立てる”御幣”(板に和紙をつけたお祓いする為のもの)も使えないそうである。なんともお役所仕事というのはさびしいものである。
今日から稽古再開。
平成10年7月29日
昨日地元平塚の土俵開きに参加した朝小畑、終了後平塚若松部屋を愛する会の幹部連と市役所を訪ね、市長に挨拶と四股名命名のお願いにあがる。
相撲には大変理解の深い市長さんで、快諾して来年の初場所をメドに決めるとのこと。それまでには、衛星放送に映る地位まで番付を上げておくようにとの注文も出た。
平塚市はベルマーレに代表されるようにスポーツへの取組みが積極的で、来年夏には平塚巡業も運動公園内の体育館で行われることが決定したそうである。
平成10年7月30日
関取とその付人(朝泉、朝小畑、朝ノ霧、朝ノ秦)夏巡業のため長野へ出発。長い夏巡業のはじまりである。
平成10年7月31日
毎年夏休み恒例の小学生向けの部屋開放稽古が九重部屋で行われている。小学生に相撲部屋で実際に稽古を体験してもらうという協会主催の試みで、親方が今年の指導係りになっている為、午前中部屋で稽古を見たあと午後1時半からマワシを締めて九重部屋へと通っている。
親方と一緒に小学校6年生の長男成紀(しげき)君もマワシを締めて稽古に行っている。最近お腹がでてきて、おすもうさん体型に近づいてきた成紀。3年後どうなることか楽しみである。
平成10年8月1日
残り番の力士達(一ノ矢、関東龍、朝太田、朝辻野、朝藤墳、朝住吉)青森合宿へと向かう。三重県鈴鹿からの中学生と宮城県石巻からの高校生も加わり一行8人。
新幹線で盛岡まで行き、盛岡から迎えのバスで五所川原へと向かう。
とにかく涼しい。夜になると寒さを感じる程である。合宿先の江良さんの中庭に去年ボーリングしていた温泉が湧き出て、日本庭園付きの露天風呂ができている。極楽である。
平成10年8月2日
朝から雨が降り続き、寒い一日となった。合宿地は、五所川原市内なのだが、市街地まではタクシーで2千円ほどかかるため外に出るのは大変なことである。一応信号2つ先にコンビニがあるのだが、その信号が長くて、歩いて20分はかかる。
時間の流れが東京にいるときより遅くなっている。飯もうまくて、体を作るのには最高の環境である。
平成10年8月3日
お世話になっている江良さんの家にばっちゃんがいる。ばっちゃんは話好きなのでよく相撲取りに話しかけてくるが、生っ粋の津軽弁なので 何をいっているのか全くわからない。チャンコ番で洗い物をしていた朝住吉、ばっちゃんに話かけられて最初は笑ってごまかしていたらしいが、延々と話が続いて大変だったらしい。そのうち遠くに姿が見えただけで逃げ出すようになってしまった。失礼な奴である。
平成10年8月4日
青森市のねぶた祭りに参加。江良さんの知り合いで後援会会員でもある藤本建設さんが、4年ほど前から直径3mある大太鼓を出しているためそれに乗せてもらっての参加である。
4年も参加しているとすっかり顔なじみになり、大団扇をあおぎながら缶ビール片手にねり歩く。
親方は先導のジープに乗っていて、車が止まるたびに人が集まってきて、記念撮影に忙しい。
平成10年8月5日
朝辻野が骨折してしまった。踏ん張った時に「ボキッ」と音がして、レントゲンの結果、脛骨が足首と膝下で2ヶ所折れていた。ギプスで固めて今夕飛行機にて帰京。また長い入院生活になりそうである。
今日は五所川原市のねぶた祭りに参加。高さ20数mの立ちねぶたが話題になっているが、間近でみると本当にでかい。7階建てのビルほどある。このねぶたの運行のため道路補修と電線撤去で1千万近くかけているそうである。今夏は東京ドームにも出張するとのこと。
平成10年8月6日
隣町の中里町芦野の公民館の土俵に稽古に行く。相撲どころ青森はわんぱく相撲が盛んで、この日も地元の小学生10名が稽古に参加。力士の稽古のあと、親方が直々に胸を出してのサービスに大盛況。稽古のあと一緒に風呂に入り、ちゃんこ鍋を囲む。
子供達や手伝いにきたお母さん方も親方のサインを貰い、記念撮影と大喜びであった。田舎の子供は実に素直でかわいい。参加した小学校2年生に一人体格のいい子がいて、両親も来てたので、親方が「デブであることを誇りに思うように育ててほしい」と話をすると、両親も熱心に聞き入っていた。
平成10年8月7日
強風で木々や電線が泣き、まるで木枯らしが吹き降ろしているようで、とても夏とは思えない一日。
青森水産高校の相撲部が出稽古に来る。朝藤墳、高校生相手にけっこう余裕のある稽古を見せる。仲間内で稽古しているとわかりにくいが、たまにこうして部外者と稽古すると力を付けてきているのがよくわかる。自信になったであろう。早く序の口を卒業して欲しいものである。
SUMOのページを開いているイスラエル人からメールをいただきました。「Oldest Rikisi」のコーナーに一ノ矢の成績も出ています。
平成10年8月9日
青森に来て初めての青空が見え、夏らしい一日となったが、ときおり吹く風はもう秋である。津軽富士と呼ばれる岩木山も今日はきれいに見える。
体験入門に来ていた中学生と高校生が帰り、相撲教習所のため東京に残っていた朝長沼と朝鷲が五所川原入り。
平成10年8月10日
昨日に引き続いての晴天。朝太田の出身地小泊村のビーチへ海水浴に行く。
海水パンツのゴムがゆるかった朝住吉、泳いでいる途中脱げてしまって、捜したが見つからない。フリチンで岸辺までいきバスタオルを巻いて上がるが、普段、裸同然の生活をしているので、裸にあまり羞恥心がない。けっこう海水浴客もいるのに 堂々と出してしまう。公然わいせつ罪である。もっとも遠目には毛しか見えないので、ヘア解禁の当世としてはセーフかもしれない。
海水浴後は、地元の人が用意してくれた獲れたてのイカ・サザエ・ホッケ・メバルなどを焼いての昼食。仕上げは青森名物の中華ザル(ラーメン麺 をソバツユにつけて食う)を詰め込み腹がはちきれそうである。
平成10年8月12日
青森合宿最後の稽古。地元の中学生も2人参加する。2人ともわんぱく相撲から全国で活躍していて、いい当りをする。親方も指導に熱が入り、見学に来ていた両親に夏休み中部屋で預かろうかという話にまでなる。いい素材は早めにつばをつけておかないといけない。
今回の合宿では、親方も新弟子スカウトにかなり熱をいれ、感触もだいぶあったようである。
あす力士は帰京するが、親方は16日まで残り各大会を視察の予定。
平成10年8月13日
五所川原を午前7時半にバスで出発、盛岡から11時3分発の新幹線で帰京。上野駅へ着いたとたんにムッという熱気が肌を襲ってくる。冷夏だとはいえ、青森から帰ってくるとやっぱり東京は暑い。
部屋へ帰ってくると、2階の大部屋にクーラーが入っている。おかみさんがみんなの到着を見計らってクーラーを入れてくれたのだ。誰かが「おいおい、雨でも降るんじゃないか」と言ったとたんに雨が降り出して、笑ってしまった。
平成10年8月15日
青森合宿で骨折してしまった朝辻野、東京に戻り国技館横の病院に入院している。幸い手術はしなくて、ギプス固定だけで直せるようだが、1ヶ月のギプスなので夏場はつらい。
その朝辻野、今年早々大怪我をして入院生活を送ったので、ゲン直しに9月場所から四股名を朝天山(あさてんざん)と改名することになっていた。一応9月場所の番付には朝天山の四股名が載るが、入門するときに世話になった人に命名してもらっただけに、「この四股名で頑張りたいけど、相撲を取る前からこれじゃあいやになりますね」とベットの上で悩んでいる。
平成10年8月17日
宮城野部屋から光法と若相良が出稽古に来た。二人とも幕下の力士である。特に光法は、峯山という本名で取っていた頃から有望力士で幕下上位の生活が長い。性格的にのんびりしていた方なので、なかなか壁を破れずにいたが、ここ数場所かなり欲をだして稽古に取組んでいるようで、今日も朝太田相手にいい稽古をみせてくれた。
上に上がれば人気の出るタイプのおすもうさんなので、ここ1、2年が楽しみである。ご注目。
平成10年8月18日
四股を踏んだあと土俵を掘り返す。東京の土俵は、だいたい東京場所2場所に1回の割合いで作り直す。
地方場所の稽古場は俵を入れるが、東京は俵を入れずに15尺(土俵の直径-4.55m)の円の中を掘り下げ皿土俵で作る。 俵を入れると俵が腐ってしまい1場所しか持たない為である。俵は最近原料のワラが少なくて、一式5万円あまりもする。
友綱部屋、入ったばかりの床山がすかしたようで、何人か部屋に頭をやりにくる。部屋でも相撲取りが一人すかしてしまった。どうも夏場は魔がさしやすい季節のようで、すかすのが毎年多い。思い直して帰ってきてくれ~~。
平成10年8月19日
朝から土俵作りを行う。前述の琉球大学相撲部を復活させた1年生。帰省して東京にいるというので、TV局がセッティングしてくれて、土俵作り見習いの為若松部屋へ来る。一ノ矢とも初対面。
6年浪人したという苦労人で、いまだかつてマワシを締めたこともないそうであるが、ガッツある青年である。
平成10年8月20日
土俵が作りたてで使えないため、宮城野部屋へ出稽古。親方が部屋を継いだ当初、平成3年頃は両国から(当時は両国回向院の隣に部屋があった。)よく出稽古に通っていたが、久しぶりの宮城野部屋である。
ちょうど伊勢ヶ浜部屋も来ていて、3部屋合同での稽古となる。
よその部屋と稽古するのはお互い新鮮で、刺激になっていいものである。
平成10年8月21日
今日も宮城野部屋への出稽古。朝藤墳、宮城野親方(元竹葉山)に目をかけてもらって、ことこまかに指導を受ける。親方も小さい方だったので、小さい力士を見るとほっておけないのであろう。
長い夏巡業を終え、巡業組が帰京。さすがに疲れたようで、とりあえず寝に入っている。巡業も今回から2日間だけだが、チャンコが復活したらしく(現在はホテルのバイキング料理)、少しづつ改革に向かっていっているようである。
平成10年8月22日
巡業組の慰労もかねて、久しぶりに今日明日2日間の完全休養日となる。親方家族も高知より帰京。
すかした力士、戻ってきて、親方とおかみさんの説得のかいあって再出発を誓う。
平成10年8月23日
力士にとっての出身地というのは、同じプロスポーツであるサッカーや野球より意味が重い様に思う。
部屋の朝乃翔は3,4年前から出身地を生まれた横浜から現在実家のある小田原に変更したし、寺尾関なども東京生まれ東京育ちなのに場内アナウンスや番付の出身地はお父さんの本籍のある鹿児島のままである。そもそも番付には部屋名は一切なくて、出身地と四股名だけである。
そういうことに関する話を司馬遼太郎が朝日文芸文庫「街道をゆく41-北のまほろば」の中で書いているのでご紹介したい。
青森県木造町を訪ねたときに、木造出身の横綱旭富士にふれて、「関取は、由来、生国の山河を背負っている。あるいはそれら山河の精霊にまもられているのである。べつの表現でいえば、その山河が他の山河と、めいめいの関取の体を借りて闘うのである。」
平成10年8月24日
午前9時より全力士の定期健康診断が行われ、午後1時に平塚合宿にバスで出発する。
午後6時より運動公園内の宿泊所前の広場にて、平塚若松部屋を愛する会主催による歓迎会が行われる。平塚市長や一般市民も多数参加し、力士とのゲームや抽選会、カラオケ大会と懇親を深める。地元出身の朝小畑が人気である。
平成10年8月25日
新設なった運動公園内の土俵で稽古。朝早くから大勢の見物客がつめかけ賑わう。新しい土俵は気持ちよくていい稽古ができる。稽古後、身障者の施設の方々を招いて綱引きやカラオケで楽しむ。
平成10年8月26日
平塚合宿2日目。稽古場に朝住吉がブタのしっぽのようなちょん髷を結ってでてきた。
早速親方のところに行って、「おかげさんでちょん髷を結えました。」と挨拶する。挨拶すると親方からコンパチ(デコピン)をもらい、かわりに油銭として小遣いを貰える。そんなに大きな金額ではないが、関取衆や兄弟子みんなをまわるとけっこういい金になる。
中には、やった金の元を少しでもとろうと、自分の指が痛くなるほど力を込めてコンパチをやる奴もいるが・・・そういう奴にかぎって、あげてるお金は少ない。ちゃんこ終了後バスにて帰京。
平成10年8月28日
力士から親方、裏方まで全協会員を集めての研修会が午後2時より国技館の土俵を囲んで行われる。
立合いについての講習が主で、三役以上はマワシをしめて実技しながらの研修会となった。また、元千代の富士の九重親方と元北の湖の北の湖親方もマワシをしめて、二人の大横綱が模範の立合いを見せたのは圧巻であった。
最後に時津風理事長が1時間ほど熱弁をふるい、午後5時に終了した。9月場所からは立合いがかなり厳しくなるようである。
平成10年8月29日
一ノ矢の後輩の琉球大学相撲部主将庄司君、若松部屋に稽古に来る。相撲部主将だが、いまだかつてマワシを締めたこともなければ、相撲の稽古などしたことがない。そういうわけで一日体験入門となった。
四股の踏みかたからスリ足、股割りと基本動作をやるが、6年間の浪人生活で体がコチコチで、前途多難を思わせるが一生懸命汗を流した。稽古後関取と一緒にチャンコを食べ、写真をとり、貴重な体験の一日となったことであろう。沖縄に帰ってからの活躍を期待したい。
平成10年8月30日
明日の番付発表後は約1ヶ月休みがないため、今日は稽古が休みで大掃除を行う。
行司の勝次郎、後援会の人に頼まれて、色紙に取組みや寿という字を相撲字で書いている。入門8年目の勝次郎毎日の練習のかいあって、相撲字が本当にうまくなった。最近では板番付なども手がけている。独特の書体の相撲字は、額に入れて飾ると立派なインテリアになるので、結婚式のお祝いや新築祝いなどで、重宝がられている。
こういうことも行司さんの仕事のひとつである。
平成10年8月31日
9月場所の新番付が発表になる。朝乃若、4枚上げて12枚目。朝乃翔、1枚下がって13枚目。今場所も懸賞でもち吉の水が何回か来そうである。朝太田、久しぶりの幕下中堅、今場所は勝負である。朝住吉、初土俵以来6勝、6勝、5勝と勝越して三段目昇進。今場所も5勝は欲しいところである。最近進境著しい朝ノ霧、番付を序二段5枚目まで上げてきて、今場所勝越せば7年目にして初の三段目昇進となる。期待したい。
朝辻野、改名して朝天山(あさてんざん)という新しい四股名で番付にのるが、夏合宿での怪我で入院中の為、今場所は全休。来場所また前相撲へ落ちてしまう。
平成10年9月2日
行司の勝次郎、軍配をだして手入れしている。手にとって見たのは初めてだったが、軍配に先代庄之助の直筆で、道という書があり、木村勝也君へ(入門した時は勝也だった)と書いてある。かなりの値打ちものである。
軍配につける房は自分で買うらしいが、3万円もするらしい。現在の庄之助や伊之助が使っている軍配は漆塗りで、銀箔が付いていたりして 数十万円もする代物だとのことである。
平成10年9月4日
部屋の中に見慣れないツボがある。聞いてみると、ナスの漬物が大好物の朝乃若が、自分でナスのぬか漬けを始めたらしい。記念すべき1作目は、少し塩を入れすぎた様で、しょっぱかったが、ぬか漬けのいい味は出ていた。2作目が楽しみである。場所前の若者会(ミーティング)を行う。
平成10年9月5日
夕方6時半より錦糸町ロッテプラザにて地元の後援会“本所若松会”との懇親会が行われる。親方家族と両関取、朝太田、関東龍、一ノ矢の9名が参加。平成7年に発足したこの会も3年目を迎え、会員数も70名を越し、ご近所同士で歌って、踊ってと楽しいひとときを過ごす。
平成10年9月6日
一門の行司さんが集まって、立合いの研修会を行う。稽古場の土俵に行司さんがはいって相撲を取るのは、入門15年来初めての事である。今場所から立合いの罰金がなくなる代わりに、立合いを徹底しようという時津風理事長の号令の元、各部屋でも行司さんを交えての研修会を行っている。
素人の人にはわかりにくいかと思うが、相撲の立合いにスタートの合図はない。ふつう陸上や水泳だとスターターのピストルでスタートするし、他の格闘技も審判のはじめの声で競技を始める。ところが相撲は、お互いに目と目を合わせ、お互いの呼吸が合ったところで立合う。行司さんは、立合ったあとにハッケヨーイと声をかけるだけである。阿吽の呼吸といわれる所以である。世界に誇るべき文化であろう。
今場所三段目を目前にして、絶好調であった朝ノ霧、肩を怪我。あと一週間で直せればよいが。
平成10年9月8日
ベースボールマガジン社刊の「VANVAN相撲界」が休刊するらしい。今月10月号が最後という事で、いろいろな特集が組まれているが、若松部屋からも朝藤墳(あさふじつか)と朝乃若が出ている。
やくみつる先生の“おチャンコくらぶ”と巻末の“ウリふたつ”コーナーです。思わず笑ってしまいます。
平成10年9月10日
場所を3日後に控え、稽古も調整段階に入ってくる。朝ノ霧、朝泉の怪我が少々気がかりだが、あとは大体順調な仕上がり。明日朝開け荷を取りに来る為、夜、本場所で使う七つ道具を開け荷につめる。だんだんと「ああ本場所が始まるな」という気がしてくる。
平成10年9月11日
初日と二日目の取組み編成会議が行われる。初日の土俵は、若松部屋の朝長沼にはじまり、貴乃花でおわる。
ちなみに初日は若乃花-栃東、曙-魁皇、貴乃花-武双山、と好取り組み続きである。
平成10年9月12日
本所界隈は昨日から牛島神社のお祭り。今日夜は、部屋の前の通りでカラオケ大会が行われる。
若松部屋からもおかみさんと茂紀、力士3人が参加。おかみさんはPuffyの「渚にまつわるエトセトラ」を熱唱。喝采を浴びる。
8月7日に紹介したイスラエル在住で、SUMOのHPを持っているイスラエル人が、30年ぶりに日本に来たとのことで、若松部屋を来訪。30年前は大鵬、柏戸を蔵前国技館によく見に行ったそうで、驚くほど日本語がペラペラなイスラエル人である。チャンコを喜んで食べて帰る。いよいよ明日初日である。
平成10年9月13日
秋場所の新しい土俵に、全力士の中で最初に上がった朝長沼、まだまだ土俵動作に慣れなくて、相手のマネをしながらの土俵である。ところが、今日の対戦相手も入ったばかりの新弟子で、要領がわからず、お互いに相手のマネをしようと土俵上で、しばし見つめ合ってしまった。土俵下の審判にせかされ、ようやく立合う。久しぶりの白星の朝長沼であった。
つづく朝鷲、朝ノ霧、朝小畑、関東龍、朝乃翔と6連勝で、最後の朝乃若が勝てば全勝という快挙であったが、惜しくも負けて6勝1敗。好調な滑り出しである。
平成10年9月14日
幕下中堅どころに復活してきた朝太田、半年前まで関取だった北の湖部屋の金親(かねちか)と対戦。右差しから一気の寄りで、会心の白星発進。年齢的にいっても、ここ1年が勝負の年である。
平成10年9月15日
場所前に肩を怪我した朝ノ霧、いまだに右腕が殆ど使えない状態ながら、左からの投げで2勝目。あと2勝すれば入門7年めにして初の三段目昇進である。入門当時は、体が弱くて3日持たないだろうとみんなに言われていたのがウソのように逞しくなった。なんとか今場所で決めてもらいたいものである。
平成10年9月16日
先場所休場して序の口に落ちている朝鷲、今日の対戦相手は、日頃よく一緒に稽古をしている友綱部屋の魁田中。元魁輝の友綱親方は現役時代、朝鷲のお父さんである大鷲にマージャンを教えてもらったそうで、稽古場では朝鷲を熱心に指導してくれるが、さすがに今日は魁田中に朝鷲の弱点をつく作戦を授けたそうである。が、動ずることなく地力の差を見せて2連勝と好調な滑り出し。
もっとも最高位が序二段60枚目台の朝鷲としては当然の事で、序の口の優勝候補の一人なのだが、今場所は怪我で落ちてきた元三段目とか元序二段上位の力士も4、5人いて、本命というよりは対抗馬的存在である。
平成10年9月17日
力士も人間であるから勝負に喜怒哀楽はつきものである。ただ土俵の上では派手な動作はできないため、支度部屋に戻ってから感情を出す。負けた力士は大体がうなだれてしまうが、納得のいかない勝負だったりして、あまりにくやしいと、風呂場で洗面器を投げつけて「チクショー」と叫んだり、入り口の厚いガラス戸をこぶしで叩き割ったり、などということもある。
今場所初白星の朝藤墳(あさふじつか)も感情を良くだすほうで、先場所3勝3敗から負け越してしまったときは、支度部屋に帰ってくるなり床に仰向けになり、「チクショー、途中まで勝っていたのにー」と駄々っ子のように手足をばたつかせて悔しがっていた。
こういうとき本人は悔しいばっかりだが、周りの同部屋の力士はけっこう恥ずかしいもので、つい他人の振りをしてしまうものである。勝負にかける意気込みの高い朝藤墳、今場所は喜びのパフォーマンスを見たいものである。
平成10年9月18日
幕内後半戦の審判だった親方、武双山-千代大海戦で、負けた千代大海が、土俵下の親方の上に飛び込んできて下敷きになり、擦り傷を負ってしまった。助け起こした土俵係の呼出しが、親方からの伝言を審判室で控えている付人の朝鷲と朝藤墳に伝えに来た。
「終わったらショートケーキを用意しておいてくれ」。それを聞いた朝鷲、親方は今ダイエット中なのにおかしい、もしかしたら終わったあとどこかに挨拶にでも行くのかなと一瞬考えたがやっぱりおかしい。その呼出しに、もう一度確かめさせると案の定「消毒液を用意しておいてくれ」の間違いであった。
結び一番前、朝藤墳が診療所までダッシュしてなんとか間に合った。土俵下の審判委員は危険な仕事である。
平成10年9月20日
昨日の取組みで勝った朝鷲、4連勝で部屋第1号の勝越し。あさって、これまたよく稽古をしている友綱部屋の魁ノ若(序二段上位から怪我で休場して 落ちてきた)と全勝対決である。朝ノ霧、いまだ左腕しか使えないが、伝家の宝刀左下手投げが冴えて3勝。明日の一番に新三段目昇進をかける。
夏期ボーナスが全協会員にでる。給料約1ヶ月分だから、序二段クラスだと約3万円だが力士にとっては大助かりである。また、巡業とトーナメント参加力士には手当てもでる。こちらは日当が序二段千円、三段目千五百円である。夏巡業は一月近くあるのでまとまるといい小遣いになる。
平成10年9月21日
朝泉、今日負けて負け越し第1号。場所前に足首を怪我したのが響いたようである。もう一度下半身を鍛え 直さなくてはいけない。朝ノ霧、三段目昇進ならず。残り2日間にかける。
お隣中国でも大相撲中継はけっこう人気があるようで、北京に住む日本語教師から「相撲の結びの一番の前に、大きな旗を持って土俵を一周するのですが、それはどうしてですか?どんな意味があるのでしょうか?」という質問をいただきました。
これが懸賞で、この旗に懸賞を出すスポンサーの名前が書いてあります。ちなみに今日の結びの一番には「大学受験の名門 両国予備校、クロレラの横綱サンクロレラA、和漢胃腸薬・三光丸、環境貢献企業・株式会社エコ計画」の4社から懸賞がかかっていましたから、4本の旗が土俵を一周したはずです。最近朝乃翔の取組みには、地元の「創業慶応元年 小田原の鈴廣蒲鉾」より毎日懸賞がかかっています。ですから懸賞は、結びの一番に限ったものではありません。幕内の取組みならどれにでもかけることができます。
平成10年9月23日
朝ノ霧、親方が審判で土俵下からみつめる前で、対戦相手のアンコ力士を左上手から豪快に投げ飛ばし4勝目。これで7年目にして初の三段目昇進を決めた。あまり感情を表面に出すタイプではないので、派手な喜びかたはしないが、本当に嬉しかったことであろう。苦節7年地道に努力してきた成果が出てきた。これをきっかけに大きく伸びてもらいたいものである。
平成10年9月25日
朝ノ霧、最後の1番も得意の左からの上手投げで相手を土俵下まで投げ飛ばし5勝目。これでおそらく来場所三段目の60枚台まで上がる。
部屋によっていろいろだが、若松部屋では三段目2場所目になって初めて雪駄を履くことができる。ゆえに、来場所たとえ負け越しても2勝すればたぶん三段目に残れるので、晴れて来年の初場所から雪駄履きが許されるという訳である。
場所前に腰を痛めた朝小畑、早々と負け越してしまったが、今日勝って2勝目。これで来場所もぎりぎりで 三段目に残れそうである。今場所はいまだに勝越しが3人しかいなく寂しい場所になってしまった。
平成10年9月26日
朝ノ秦、3勝3敗で迎えた最後の1番、勝って勝越しを決める。これで今場所ようやく4人目の勝越し。通算成績、今日で54敗目を喫して、初場所から連続3場所5割を超えていたが、明日出る7人全員が勝っても5割に届かない計算になってしまった。
一ノ矢2連敗のあとの5連勝で5勝目。朝乃若負け越し、明日の1番に勝たないと幕内が危ない。朝乃翔は土俵際の逆転で惜しい星を落として 7勝7敗。明日の海鵬との1番に勝越しをかける。
幕内最初の1番に懸賞をかけてくれるもち吉、副賞としてミネラルウオーター約300Kgがつくので助かるが、今場所は2番チャンスが あったのに逃してしまった。今日で名古屋場所でいただいた約1.2tの水を使い切ってしまったので、明日朝乃若が勝ってくれると一石二鳥となるのだが。
平成10年9月27日
朝鷲の6勝目をスタートに、勝越しを決めた朝乃翔まで、出場した7力士全員が白星という有終の美を飾った千秋楽であったが、昨日までの負けが響いて、53勝54敗と星1つ足りなかった。
大阪からおかみさんのお父さんの芋縄会長も応援に来ていて、これで先場所から芋縄会長の見ている前では17連勝とげんがいい。毎日見に来てもらうといいかもしれない。
柳橋・東京プラスチック会館にて千秋楽打上げパーティが行われる。序の口の朝長沼、諸事情により力士生活を続けることができなくなり今場所を最期に引退。新しい人生で頑張ってもらいたい。
平成10年9月28日
今日から木曜日までは稽古休み。午前9時より大掃除を行う。チャンコ場を中心に行うが、ガスコンロの火が不完全燃焼で赤いため、鍋の裏やそこらじゅうについたススが真っ黒で、元の色に戻すのに一苦労である。
夜、珍しく地下のトレーニングルームから音がする。のぞいて見ると今場所負け越した朝藤墳と朝住吉が気合をいれてトレーニングしている。
特に朝住吉は、近大の同級生であった阿武松部屋の古市が、三段目優勝して来場所の幕下昇進を決めたことが 刺激になっているのであろう。三日坊主で終わらぬよう続けていってもらいたいものである。
平成10年9月29日
恒例の若松部屋“大ちゃんカップゴルフコンペ”が行われる。親方体調不良のため、おかみさんが代わりに出場。後援会の方々との親睦を深める。最近怪我の多い朝乃翔、下の名前を一(はじめ)から嚆矢(はじめ)に改名。物事のはじめという意味らしい。11月場所の番付を注目。
今日の若松部屋
平成10年10月2日
テレビ朝日の慈善大相撲が行われる。力士のど自慢に朝乃若出演。「兄弟船」を歌ったとのこと。近日中にTVで放映されるはずである。
その朝乃若、千秋楽幕内最初の一番で勝った取組みの懸賞の副賞として、もち吉の水約300kgが部屋に届く。最近ミネラル ウォーターを買わずに済むので大助かりである。
平成10年10月3日
横綱曙の結婚式が新高輪プリンスホテルで行われる。部屋からも親方、両関取、受付手伝いとして勝次郎が参加。会場溢れんばかりの人、人、人で盛大だったそうである。
一門の関取でお祝いにKinkiKidsの歌を歌ったそうだが、歌う前「この歌あまり知らないんだよなー」と言っていた水戸泉関、歌が始まるやいなや一歩前へでて、完璧に歌いこなしていたらしい。カラオケが大好きな水戸泉関である。
平成10年10月4日
今日も花相撲。大島部屋の旭里の引退相撲がおこなわれる。行司の勝次郎、今日は初っ切りに参加。初っ切りというのは、相撲の禁じ手を面白おかしく紹介していくもので、行司も一丁からんでかなり笑える。けっこういいとこうりの勝次郎、オリジナルのクシャミネタなど披露して受けていたそうである。
親方、九州場所宿舎の正式な契約書を交わす為福岡へ向かう。
平成10年10月5日
今日から本格的な稽古開始。稽古始めは体がきつい。
明治神宮奉納の力士選手権が行われる。昭和初期から続いている最も古いトーナメントである。昔は引退した親方も参加したそうで、第1回目の優勝者は、当時の春日野 元横綱栃木山である。引退して4、5年は経っていたはずだが、現役をなぎ倒して圧倒的な強さを見せたそうである。すごい話である。
ちなみに今年は貴ノ浪が決勝で千代大海を破って優勝。千代大海は、2日前のトーナメントでも優勝したし、絶好調である。九州場所が楽しみである。
九州から戻ってきた親方、宿舎の契約を無事に済ませてきて一安心。今から10月20日の乗り込みに向けて突貫工事である。
平成10年10月6日
今日から巡業組が出発。行司、呼出しを入れると13人寝ている2階の大部屋から一挙に6人もいなくなってしまい、寂しいものである。
巡業に行くため九州用の荷造りをしていた朝泉、いきなりでかい声で叫び出した。何事かと思うと、 ゴキブリがいたらしい。朝ノ秦に捕まえてもらって、安心した顔をしていたが、出会ったゴキブリこそあんなでかい人間を見ると、けっこう恐い思いをしているとおもうのだが・・・
平成10年10月9日
今日から友綱部屋に出稽古。東関部屋からも新弟子が2人来ていて、けっこう賑やかである。友綱部屋にも、魁田中、魁清水という、朝藤墳の同期生である序の口力士がいて、3人ライバルなのだが、今場所は魁田中が5勝、魁清水が3勝して、2勝の朝藤墳は来場所3人の中で番付が1番下になってしまう。
それを意識してか、かなり熱のはいった申し合いとなった。
平成10年10月10日
今日も友綱部屋。相変わらず日大出身の斎藤の強さには目を見張る。稽古した朝太田や朝住吉の感想では、幕内力士の力は十分にあるという。
今場所は幕下7枚目で4勝3敗に終わったが、上がるのは時間の問題であろう。十両に上がれば、そこから先はさらに勢いにのるのではないかと思う。近大出身の同級生朝住吉にも頑張ってもらいたいものである。
平成10年10月12日
若貴兄弟を筆頭に、栃東や小城錦など二世力士の活躍はめざましいが、二世力士がすべて出世している訳ではない。父親の番付を超えて出世している力士はほんの一握りであるし、関取になれずしてこの世界を去る人間の方が数多しである。
そういう力士にとっては父親の栄光は、ある時には重荷になることもあるかと思うが、部屋の朝鷲も、元幕内力士大鷲を父にもつ二世力士の一人である。そんな苦労をわかりあえる二世力士が5、6人集まって、この度「伸び悩む二世力士の会」を結成したらしい。近く第1回目の飲み会をやるとのことである。がんばれ朝鷲!
平成10年10月14日
昨日から、若松部屋での合同稽古。友綱、東関に加え、宮城野も来て、久しぶりに賑やかな稽古場である。
先場所負け越しの朝住吉、昨日は友綱の西野(日大出)、今日は宮城野の幕下上位光法にぶつかり稽古で胸を出してもらい、ヒーヒーいいながら泥まみれになっていい汗をかいている。来場所につながることであろう。
平成10年10月16日
大阪にいるおかみさんのお母さんが体調を崩して入院することになったらしい。おかみさんも、気が気でないが、入院先の国立病院の小林哲郎先生という方が、以前から若松部屋HPのファンだったらしく、若松部屋情報にもびっくりするほど詳しく、何かと親身になってくれて心強いそうである。小林先生、よろしくお願いします。
平成10年10月17日
元若松部屋力士“瀬王錦”(せおにしき)がTV朝日の深夜番組、「純情学園」に出ていましたというメールをいただきました。
瀬王錦は平成元年3月が初土俵で、平成5年7月に引退した力士です。192cmの160kgもある大型力士でしたが、小学校6年生の時に すでに183cmの120kgもあり、そんなデカイ体で、半ズボンにランドセル背負って学校に通っていました。小学生時代のアルバムで友達と一緒に写っている写真はまるでガリバー旅行記でした。後援会の人が、南海電車の窓から小学校の全校朝礼を見て、上半身とびだしているのを発見してスカウトに至ったそうです。飯の強いやつでした。
平成10年10月18日
力士紹介コーナーの成績を見ると、朝ノ霧の今年に入ってからの成長ぶりがよくわかると思います。
来場所勝越せば、実に今年1年すべて勝越しとなる。800人いる力士の中でも年に数人しかいない偉業となるのだが。 その朝ノ霧も含めた巡業組、今日は広島の尾道での巡業である。全員元気、だそうである。
平成10年10月19日
明日から先発隊が福岡入りのため、稽古を少し早めに切り上げて、大掃除と荷造りでバタバタな一日。荷物はみんなの分を合わせると、大きなダンボールや衣装ケースで60個ほどもあるが、新しい宿舎がまだ出来上がっていないため、先発隊の荷物だけ、以前何回か紹介したおまわりさんの “やっさん”の家に送り、残りはプレハブが完成次第ということになった。
もちろんまだ寝ることもできないため、明日から2,3日はやっさんの家にお世話になることになる。まことにありがたいことである。
平成10年10月20日
先発隊5人(一ノ矢、関東龍、朝太田、朝藤墳、朝住吉)が福岡入り。お世話になるやっさんの奥さんが飛行場まで迎えに来てくれる。
二日市に入って、奥さんの知り合いの天ぷら屋で昼食。二日市駅前派出所勤務のやっさんも制服姿で合流。
宿舎はプレハブの外枠はできたが、内装、電気工事等の真っ最中。何とか23日には完成しそうなので、それまではやっさんの家住まいである。
平成10年10月21日
先週の台風による大雨で、宿舎のプレハブの中にある稽古場が水溜まりでドロドロになってしまっている。
午前中バケツで泥を汲み出して、 上に新しい土を入れる。外に山と積まれた16tの土を運び込み、無事に稽古場を作れそうである。
夜勤明けのやっさんも土方仕事を手伝い、昼のチャンコはやっさんの奥さんが勤めている「ほかほか弁当屋さん」から弁当の差入れをいただき、工事中の部屋の前で青空ちゃんこ。宿舎のプレハブの中にも畳が入り、部屋らしくなってくる。あさってあたりからは住めそうである。
平成10年10月22日
二日市を見下ろす天拝山(てんぱいざん)という小高い山がある。標高300mほどで登山口から山頂まで往復1時間程なので、市民の格好のハイキングコースになっている。その昔、菅原道真が山頂で1週間祷りつづけたという霊験豊かな山なので、早朝仕事前に挑戦してみた。
8合目辺りから山頂まで400段ほどの階段があり、そこがなかなかの難所なのだが、子供の頃富士山にも登ったことがあるという朝藤墳は健脚を見せていたが、最近体重の増えてきている朝住吉、くたくたになっていた。
宿舎の方、設備が大体整い、幟も立ち、相撲部屋らしくなってきた。明日電気がつけば完璧である。
平成10年10月23日
午後5時過ぎようやく電気が開通し、部屋で生活できるようになる。今日の晩のちゃんこは、やっさん家族が部屋に来て、やっさんの奥さんの手作りの豚ちりちゃんこ。
呼出しの邦夫、土俵作りのため巡業先から1週間ほど前に福岡入りしていたが、明日は若松部屋の土俵作りのため、今日から部屋に来る。巡業先では、仕事の合間を縫って、趣味の競艇場巡りを4ヶ所ほどこなしたらしい。全国制覇まであと少しだそうである。貸しふとんがまだ届いてないため、今日はやっさんの家泊り。
平成10年10月24日
一門の呼出しさんが来て土俵作り。非番で交番勤務が休みのやっさんも、6才になる息子のけんとを連れて手伝いに来る。幼稚園で番長をはっているけんと、昨年までは天敵房風がいたためおとなしくしていたが、房風がやめていない今年は、部屋の中から外、所狭しと走りまわっている。最初の頃は、「あ、房風が来た」というと、寝たふりをすることもあったが、いないのがわかったのか、その脅しも効かなくなってきた。巡業組が博多入り。
平成10年10月25日
今日東京からの本隊が相撲列車で乗り込み。といっても、先発で5人、巡業が6人なので、東京に残っていて相撲列車に乗ったのは、朝鷲ただ一人という寂しさである。
その寂しさに、さらに追い討ちをかけるように、また一人すかしてしまった。
平成10年10月26日
九州場所の番付発表。朝6時に体育館に取りに行って、折って封筒に入れて発送する。以前は9時過ぎには親方の分を終えていたが、人数が約半分になってしまったため、12時を過ぎても終わらない。朝ノ霧、先場所の好成績で三段目73枚目まで 躍進。若い衆の中では、朝太田に次ぐ2番目の番付となった。
平成10年10月27日
新しく作った土俵での稽古はじめ。ところが、である。土台の濡れている土の上に新しい土を入れたため、下から水分が湧き上がってきて、土俵が柔らかい。昨夜から、土俵の上にトタンをひいてその上で炭を焚いたり、ストーブをつけたりするが、真ん中から奥の方がかなり 柔らかい。稽古が終わると土俵の中がボコボコである。今日はやっさんの奥さんの案で、土俵の上に布団の乾燥機をかけてみた。
平成10年10月29日
土俵がなかなか乾かない。稽古が終わるとボコボコ状態なので、毎日呼出し邦夫がタタキで直し、土俵の上でトタンで炭を焚き乾かす。けっこう大変な仕事だが、それを手伝っていた朝小畑、差入れでもらったサツマイモを、銀ラップで包み炭火の中に 放り込み焼き芋を作って楽しんでいる。若松部屋唯一の10代力士である。
平成10年11月1日
4年前に引退した元小桜こと岡本克己氏が宮崎県都城から遊びに来る。数ヶ月前まで肉屋で働いていたが、そこをやめて現在は、出張チャンコなるものを始めているらしい。天皇賞ですって、今日はやっぱり、やっさんの家泊りだそうである。
平成10年11月2日
10月31日に両国国技館で行われた全国学生相撲選手権に13年ぶりに参加した琉球大学相撲部。Dグループ(A・B・C・D4つのグループ に分かれての5人制の団体戦)で登場して、大正大学相手に4勝1敗で緒戦を見事に飾る。続く2回戦に勝てばCグループ昇進であったが、広島大学に惜しくも2勝3敗で敗れ、Cグループ昇進はならず。予想以上の健闘である。
約200名で行われる個人戦トーナメントでは日大の田宮が3年連続の学生横綱。親方も欲しい逸材である。
平成10年11月3日
現在発売中のベースボールマガジン社刊「相撲」に行司、呼出しの身長、体重番付なるものがのっている。そこに見事に(?)若松部屋から 呼出し邦夫と、行司の勝次郎が上位にランクインしている。
二人とも入門した時は60kgそこそこだったのに、若松部屋の飯がいいのか、約20KgちかくもUPした。そのかわりおすもさんである朝藤墳は一向に太らない。太り方を教えてやって欲しいものである。
平成10年11月4日
おととい飯塚に行ってきた親方が、牛もつをお土産にもらってきて、今日のチャンコはもつ鍋。数年前、東京でもブームになったが、もつ鍋の本場は九州で、東京で食うのより全然美味い。
JR二日市駅前交番勤務のやっさん、若松部屋は管轄の巡回コースのため「異常ないですか」と巡回にきて、チャンコを食って巡回終了。 最近、毒入り事件が多発しているため、毒味までしてくれる。
平成10年11月7日
明日初日を迎える国際センター土俵に於いて土俵祭りが行われ、触れ太鼓が博多の秋空に響きわたる。触れ太鼓は呼出しさんの仕事である。
4,5人づつのグループに分かれ、部屋や贔屓筋の店などをまわり、初日の割り(取組)を呼び上げていく。
いよいよ1年納めの九州場所の幕開けである。
平成10年11月8日
初日の幕開け。であるが、世の中は相撲どころではないようで、地方場所の日曜日なのに満員御礼が出ない。JRの博多駅を歩いていたら、相撲甚句のBGMにのせて、大相撲入場券を販売している。覗いてみると、平日はC券だが桝席まで売っている。1枚どうですかと言われてしまった。
今年初めてのアラ(クエ)が差入れで来て、チャンコはアラ鍋。脂ののった最高の味である。骨や皮までうまい。この高級魚を毎年差入れしてくれるのは”相撲茶屋 大塚”というお店である。元若松部屋OBがやっていたが、ご主人が10年ほど前に亡くなって、おかみさんが切り盛りしている、ちゃんことアラ鍋で有名な店である。博多に来る機会があったらぜひ1度大塚のアラ鍋を食べてみてください。絶品です。
平成10年11月9日
先場所の負越しで序の口下位に落ちた朝藤墳(あさふじつか)、今日の対戦相手は大きな力士のため、昨晩立合いの作戦を練ったらしい。
悩んだ挙げ句、舞の海がよくやる、一度上体を立てて、相手が突いてくるところをかいくぐって中に入り込む戦法だったそうである。しかしながら、フェイントで上体を立てたところに相手の突きがまともに入り、一発で土俵下まで 吹っ飛んでしまった。
「慣れないことは、するもんじゃない」と反省の朝藤墳。-負けて覚える相撲かな-である。
平成10年11月10日
九州に乗り込んで初めて、九州場所らしい冷え込みの朝となった。今年は本当に暖かい日が続いている。
親方、本場所終了後「大関会」。これは、元大関の親方衆と現役大関が一同に会するもので、毎年九州場所の3日目に行われる。ここ数年親方が幹事なので、いろいろと段取りが大変である。
毎年コンパニオンとして参加している女の子に話を聞いたが、つわもの揃いで、独特の雰囲気があるので、ものすごく緊張する。ということだった。
平成10年11月12日
前半戦5日目を終えたが、どうにも星が上がらない若松部屋。その中にあってただ一人、朝小畑だけが3連勝と好調である。非番の「やっさん」がせっかく応援に来たのに、声援むなしく負けの多い一日であった。
懸賞についての質問をいただきました。懸賞は1番につき6万円かかっています。そのうち5千円を協会が手数料として引き、2万5千円は税金対策にプールして、残り3万円が土俵の上の祝儀袋に入っています。本人がすべてもらえます。ただ、かける側は1日だけではだめで、最低5日間はかけなくてはいけません。かける取組は贔屓の力士や、結びの1番などと自分で選べます。
現中村親方の元富士桜関は、懸賞金は全部付人にやっていたようですが、最近は、そんな豪快な話はあまり聞かなくなりました。
平成10年11月13日
行司の勝次郎、今場所初めての差し違えをやってしまったらしい。しかも運悪く、土俵下に審判で親方が入っていて、友綱親方ともども,さんざん冷やかされたらしい。意識するわけでもないが、親方が審判の時は、差し違えが多いそうである。
今日は行司さんにとって厄日だったようで、土俵下で出番を待っていた立行司式守伊之助が、落ちてきた魁皇の下敷きになって手首を骨折してしまったらしい。明日から休場である。
平成10年11月14日
場内アナウンスの係りもやっている勝次郎。十両の場内アナウンスの時に声が裏返ってしまったらしい。それを館内で聞いていた朝鷲、思わず 「あっ、マッチだ」とつぶやいた。
日頃、宴会ではマッチ(近藤真彦)のものまねが得意な勝次郎、声が裏返るとマッチになってしまうのだ。「明日は、としちゃんを期待していますよ」と、リクエストされていた。
平成10年11月15日
朝小畑、一気の押し、電車道の相撲で4連勝。今場所第1号の勝越しである。今日は全体でも6勝2敗と好成績。だいぶ星を戻す。
平成10年11月16日
久しぶりの雨天となった福岡。朝小畑は相変わらず好調で5連勝。夢が膨らむ。逆に朝太田、今日負けて負越し。部屋第1号の負越しとなる。関取も今場所初めて揃って勝ち、9日目にしてようやく5割達成。
平成10年11月18日
審判の親方は、4つの班に分かれていて、交替でやるが、自分の出番のないときには審判室という控え室にいる。たいがいが横になってテレビを見たり雑誌を読んだり、昼寝をしたりしている。国技館の審判室はかなり広々として余裕があるが、地方場所に来ると部屋が狭く、隣の親方との距離が近い。あえて名前は言えないが、ある親方は審判室で常に寝ていて、イビキがものすごい。
その親方の隣にならないようにと、審判室内での場所取りは、付人の重要な仕事のひとつである。
平成10年11月19日
朝小畑6連勝。あと1番勝てば、幕下昇進である。朝ノ霧、2連敗のあと4連勝で、自己最高位での勝越し。これで、今年に入って初場所から九州場所まで6場所連続勝越しの偉業達成である。
幕内の朝乃若、今日負けて負越し。来場所の十両落ちが決定してしまった。朝住吉も負越し。
平成10年11月20日
明日の1番に全勝と幕下昇進をかける朝小畑に、平塚市長から四股名が届いた。朝迅風(あさはやて)という四股名で、市役所の人が命名の 由来を事細かに説明してくれたらしいが、朝小畑いわく「緊張して、よくわかんなかったス」、ということである。
序の口で負越した朝藤墳も心機一転、来場所から朝天寿(あさてんじゅ)と改名することとなった。こちらは、行司の勝次郎の命名。朝藤墳 のお父さんの寿天(としたか)という名前から考えたそうである。
改名の許可を審判室で親方に申し出たら、隣にいた武蔵川親方に「名前を変えるより精神を変えたほうがいいんじゃないの」と言われ、逆隣の友綱親方には「名前変える前に相撲かえなきゃ」と、さんざんだったらしい。タイミングの悪い奴である。一ノ矢5勝目で、来場所は2年半ぶりの三段目復帰。朝乃翔負越し。
平成10年11月23日
昨日、千秋楽打ち上げパーティが二日市温泉大観荘にて行われる。朝小畑や朝ノ霧の活躍はあったものの、関取り二人が共に6勝9敗と 元気なく、親方謝辞の中でも、親方からかなり厳しい檄がとぶ。
本日9時より東京送りの荷物をまとめ、幟を片づける。みんな集まったところで、若い衆に出ていた電車賃の端数3千300円を抽選会。朝泉がゲット、せこいクジには強い朝泉である。
平成10年11月26日
若松部屋にモンゴル人力士が誕生することになった。高知の明徳義塾高校相撲部にモンゴル人高校生がいて、大相撲入りを希望したそうで、同校の相撲部監督が、親方の近畿大学の同級生であるため、若松部屋入門の運びとなった。
平成10年11月28日
水曜日に行われた番付編成会議。以前、日記の中で何度か紹介した友綱部屋斎藤(改め追手風部屋追手海-はやてうみ)と宮城野部屋光法 (こうぼう)が新十両昇進を決めた。特に斎藤は、記者会見の席上、来場所十両優勝を狙うと発言して記者を驚かせたらしいが、かなり確率の高いことだとおもう。
午前9時より最終的な大掃除。午後巡業組は明日からの巡業地北九州へ出発。朝乃翔は、場所中の肩の怪我のため今回の巡業を休むこととなった。
平成10年11月29日
相撲列車(新幹線だが)に乗って帰京。といっても3人しかいないが・・・という寂しい状況。部屋に帰ってみると、先発で帰った力士にまじって、朝天山の懐かしい顔がある。ようやく退院してきた。人数が少なくなってくると一人一人の 存在が大きくなってくる。明日より稽古再開。
平成10年11月30日
久しぶりの明るい話題。新弟子が二人入門してきた。一人は、先日紹介したモンゴルからの新弟子ドルジ君18才。182cm106kgと、筋肉質でいかにも力の強そうな骨格である。昨年9月に来日して、明徳義塾高校で学生生活を送っていたので、日本語も殆ど大丈夫である。今年のインターハイ個人戦3位の実績を持つ。
もう一人は、神奈川県藤沢市出身の荒井君。平塚工業高校で柔道をやっていたらしいが、中退して現在はフリーターとのことである。19才。親方の元に、力士になりたいと電話してきて部屋にきたそうであるが、会ってびっくり、190cm160kgもある。楽しみなふたりである。
平成10年12月2日
呼出し邦夫は、ジャガイモが大の苦手である。昨日のチャンコのオカズでジャガイモを天ぷらにした。作るところを見ていない邦夫、衣が厚めで中身が分かりにくく「これ何の天ぷらですか」と聞いてきたので、「玉ねぎだよ」と言ったら、ぱくりと食ってしまった。
それまで必死に笑いたいのを我慢して、無表情をつくろっていたが、こらえきれずに笑い出すと、気づいて口から出してしまった。「わかったすょー。玉ねぎにしては小さいと思いましたよー。」と、悔しがっていた。久しぶりのいいかましであった。
平成10年12月3日
ドルジ君、初稽古。予想していた以上に強い。馬力はあるし、足腰のばねは強いし、突っ張りあるし、投げ技強いし、前に落ちないしで、言うことなしである。特に、取組む姿勢が素晴らしい。
四股を300回も踏ませると、単調な運動だけに相撲に対する取組みかたが顕著に 現れるが、実に気合の入った四股を最後まで踏みとおす。日本人力士も刺激されて、活気に溢れた稽古場であった。
平成10年12月5日
おすもうさんは風邪をひくのですかという質問をいただきました。ちょうどタイミングよく(?)、モンゴルから来たドルジ君、熱を出して寝込んでしまいました。そうです、おすもうさんも人並みに風邪をひくのです。
毎朝裸になりますし、集団生活だから一人がひくとけっこううつったりします。まあ中には、生まれてこのかた、風邪をひいたことがないという人並み外れた力士もいますが・・・。
平成10年12月6日
国技館で世界相撲選手権が行われ、ドルジ君母国モンゴルチームの応援に行く。残念ながら、今年のモンゴルチームは成績が振るわなかったらしいが、久しぶりにモンゴルの人に会い、嬉しそうであった。ドルジ君の一家はモンゴルでも有名なスポーツ一家だそうで、お父さんはモンゴル相撲の大関、お兄さんはレスリングのオリンピック選手で、今日から始まったアジア大会にも参加しているとのことである。
本人もモンゴル相撲のジュニアチャンピオンだそうで、実績は旭鷲山より上である。そのドルジ君、いとこがモンゴルの大学でコンピューターの先生をやっているとのことで、近況をモンゴルにメールした。本来は、ロシア文字だそうだが、日本語をローマ字で書くように、アルファベットでモンゴル語を書いて送信していた。
平成10年12月7日
巡業組が帰ってきて、久しぶりに稽古場に全員揃う。朝小畑改め朝迅風(あさはやて)、先場所の6連勝が自信になったようで、稽古でも強いところをみせていた。
平成10年12月8日
肩の怪我で申し合い稽古を休んでいた朝乃翔、久しぶりに若い者をつかまえてあんまする。来場所の番付は後がないので、これからどんどん上げていかなくてはならない。
相撲ファンの方から次のようなメールをいただきました。
-最近「相撲」のS.52年7月号で朝鷲くんの記事をみつけましたので紹介します。-
大鷲関の長男 透ちゃん(1才半)-原文のまま-が、おかあさんに抱かれている写 真付きで、 将来について、「いい子に育ってくれれば・・・と願っているだけで、将来の学校と か仕事などについては 関取と何も話していません。」と、インタビューにおかあさんが答えています。
平成10年12月9日
行司体重番付の上位にランクインしている勝次郎、前のスーツが小さくなったので、お正月用に新しいスーツを買いに朝鷲とともにいったらしい。身長のわりにはなで肩で下半身の筋肉が発達している勝次郎、好みのタイプをいうと相撲取り慣れした店のおやじに「その体型じゃムリムリ。」とはっきり言われ、結局大き目のサイズのものを切りきざまれ、朝鷲に「最初と形がだいぶ変わってしまいましたね」と突っ込まれ、「あんな店二度といくもんか」といたくご立腹のご様子であった。
平成10年12月11日
世の中せまいものである。川崎の幼稚園に朝住吉と二人でもちつきにいった一ノ矢、鹿児島県徳之島の出身ですと自己紹介すると、見物に来ていた園児のお母さんにも徳之島出身がいた。
話をすると、なんとなく顔に見覚えがある。名前を聞くと、高校で同じクラスにもなったことのある同級生であった。相手は永らく田舎に帰ってないそうで、一ノ矢が力士になったことすら知らなく、当時は68kgほどしか体重もなかったので、名前をいってもなかなか信じてもらえなかった。奇遇とは楽しいものである。
平成10年12月15日
来場所から晴れて新十両となる宮城野部屋の光法(こうぼう)が昨日から出稽古に来ている。十両に上がると関取と呼ばれ、稽古の時のマワシもそれまでの黒から白色になる。
新十両だけに白マワシが色鮮やかで、体の色つやもよく、幕下時代よりひとまわり大きくみえる。種子島の出身で、田舎の純朴さが体からにじみ出ている好青年だが、相撲の基本である腰の使い方のうまい力士で、ゆくゆくは三役をも狙える才は充分にあるとおもう。ご注目下さい。
平成10年12月16日
クリスマスパーティがホテルニューオータニにて行われる。遠く青森や岐阜、四国からも後援会の方々が集まり、500名を超える盛大な激励会となった。森田健作衆議院議員の挨拶に始まり、歌あり、親方のサンタクロース姿による子供へのプレゼントあり、抽選会ありと大いに盛り上がり、新年へ向けての活力となった。
平成10年12月17日
モンゴルからの新弟子ドルジ君のお兄さん、現在行われているアジア大会のレスリングに出場して、決勝戦まで進出。今晩か明日にイランの選手と金メダルをかけて戦うそうである。90何キロ級かの重いクラスである。
平成10年12月18日
朝乃若の付人をしている朝住吉。先日タニマチのお呼ばれで食事に付いていったら、ジャイアンツの清原が一緒だったらしい。朝乃若も初対面だったそうだが、その清原、朝住吉を見るなり「君は付人?すごい顔をしているねー。」「みこすり半劇場(知ってる人は知ってると思うが、ちょっとHな四コマまんが)にでてきそうだねー。」と真剣に言われたらしい。
失礼といえば失礼だが、かなり的を得たうまい表現である。清原は、みこすり半劇場の愛読者なのかも知れない。
昨日紹介したドルジのお兄さん、惜しくも決勝で負けて銀メダルとのことである。
平成10年12月20日
本日行われた競馬G1レース。大本命1番人気だったタイキシャトルの馬主さんは、若松部屋後援会の理事に名を連ねている。
そういうご縁もあり、タイキシャトルの引退レースということもあって、親方家族、馬主席に招待して貰って、観戦したそうである。 きのう親方に「明日おうまさん見に行くよ」と言われた小学2年生になる娘のゆきちゃん、子供のくせに馬刺しが大好物で、昨日から 「馬刺し、馬刺し」とうるさかった。そのせいでもないだろうが、結局タイキシャトルは3着に終わる。
平成10年12月21日
両国にできた焼肉屋から、OPEN記念の新聞折り込みチラシが来ていた。焼肉食い放題980円である。
「こりゃーやすいなー」と気合を入れてみたら、下の方に囲みで書いてある。
”今なら 60分 大人980円。子供580円。 角界及び相撲部の方3980円。”である。「なめてるなー。4倍は高すぎるよなー。ちょんまげ下ろして洋服着て、食いにいってやろうか。」という声もでていた。相撲の街で商売やるのだから、せめてOPENの時くらいおすもうさんにもサービスしてもいいと思うのだが。
平成10年12月22日
幕下以下の力士の取組みは2日に1回である。取組みがいつになるのかを前もって知る方法はないのかと、質問がありました。残念ながら、前の日にならないとわかりません。
それをいつにするのかを割りふるのは行司さんの仕事なので、昔(10年ほど前)は、裏からこっそり行司さんに頼んで、「何日目、田舎からおふくろが出てくるので、ごっつぁんです」とお願いすることも たまにあったが、そういうことは現在では固く禁止されて、割紙(取組み表)を見るまで全くわからない。
平成10年12月23日
大田区大森の東京ガス野球グラウンドにて野球大会を行う。対戦相手は地元大田区の3チーム。
相手チームは普通の9人制だが、若松ベヤーズは親方自らがエースをつとめ、助っ人選手まで入れて、内野に9人、外野に8人と変則マッチである。これだけ人がいても役に立つのは数名で、ヒットがでるわでるわ。最初はリードするも、後半の守備の乱れから結局3試合とも逆転されて3連敗。
試合終了後、昼食、平和島クアハウスにて入浴、その後平和島大飯店にて懇親会と楽しい一日を過ごす。
平成10年12月24日
新年11年初場所の番付発表が行われる。ふつう番付発表は、2週間前の月曜日と決まっているが、初場所前は年末になってしまうため少し早めに行われる。
先場所6連勝と活躍した朝小畑改め朝迅風(あさはやて)、自己最高位を更新して三段目37枚目 まで躍進。同じく今年6場所勝越しの朝ノ霧56枚目。今年の初場所は序二段の99枚目だったから 1年間で約150枚昇進、300人を追い越したことになる。たいしたもんである。ただ残念なことに、幕下力士が一人もいなくなってしまった。
平成10年12月25日
学校の冬休みを利用して、来年3月入門予定の高校生2人、中学生1人が部屋に体験入門にくる。高校生一人は神奈川県高校相撲部主将で、もう一人は大阪の柔道選手。140kgの立派な体である。中学生は宮城県からで、バレーと陸上をやっていて100m11秒8とのことである。 旭道山なみである。すでに部屋に入っているドルジといい、今年は久しぶりの新弟子の当たり年になりそうである。
平成10年12月26日
今日また3人泊まりに来て、2階の50畳の大広間が久しぶりにフトンでいっぱいになる。何年ぶりであろう。
明日のもちつきの準備で、道具を借りに行ったり、掃除をしたり、米をといだりと大忙しの一日。
明日は6時起きで210Kgのもち米を つきあげる。
平成10年12月27日
もちつき大会。昨夜からもち米をとぎ、お客さん用の湯飲みやコップを洗い、のし餅の台にするダンボールを250枚切り揃え、ちゃんこの下ごしらえと準備万端整え、朝6時起きで掃除、米を蒸すボイラーをセットして、7時過ぎから「さあ、つくぞ」というはずだった。
ところが一向に米が蒸れない。業を煮やしてつきだすが、もちにならない。蒸しかたが足りないのだろうと、蒸す時間を長くするがだめである。
午前9時。お客さんが続々とあつまりだすが、もちが全然できない。あせった。
専門家に見てもらうと、もち米の中に普通の米がかなり混じっているということである。いくらついても、もちにならないはずである。
午前9時半。近所の米屋にもち米を買いに行くが、日曜でしまっている。たたき起こすも、店に置いてないとのこと。近所のスーパーをまわり集めたもち米がやっと9kg。はなしにならない。
午前10時半。ようやく江戸川の米屋さん から130kg調達できて、といだその場からふかしていく。
午前11時。ようやく餅らしい餅がつきあがる。
もちを待っているお客さんには、先にちゃんこを食べてもらう。昨年までだと餅を食べた後のちゃんこだから、そんなに食わないのだが、待たされてよけいに腹が減ったのだろう、おかわりの嵐である。あっという間に2鍋、3鍋となくなっていき、こちらもてんてこ舞いである。
午後4時。ようやく最後の1うすをつきあげ、長かった闘いが終わる。片づけを終えると外は夕闇であった。
平成10年12月28日
今年も残り少なくなってきて、稽古、チャンコと終わったあと、午後3時より大掃除。ふだん午前中の仕事に慣れていて、午後は昼寝という生活リズムなので、午後からの仕事はけっこう疲れる。
モンゴルからの新弟子ドルジの四股名が決まった。高知明徳高校の恩師がつけてくれて、高知にある神社からとったそうで、「朝青龍(あさしょうりゅう)」。名前は母校からとって、「明徳 (あきのり)」。
平成10年12月30日
例年は31日まで稽古して、元旦に部屋で新年会、2日より稽古始めというお正月であったが、今年は31日から正月2日まで完全休暇ということになり、お正月を実家で過ごせることになった。
30日稽古終了後、手打ち式、掃除、飾り付けをすませ解散となる。夕方には殆どの力士が部屋を出て、広々となった部屋でおかみさんが、あと片付け掃除の点検をしながら「さびしいわー」とつぶやいている。さすがにモンゴルから来たドルジ君は里帰りというわけにもいかず、 ひとり残り親方家族とお正月を過ごすことになる。
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