過去の日記

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今日の若松部屋
平成11年1月2日
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
正月休みが終わり三々五々部屋に戻ってくる。お正月を故郷で過ごすのは久しぶりのことなので、みんなすっきりした、満足そうな顔をして 帰ってきた。明日からまた10日からの初場所に向け稽古再開である。
平成11年1月3日
平成11年稽古始め。正月帰る前に、親方から「3日からの稽古始めで、体調が悪いとかいって、稽古できない奴がいたら、正月に田舎に帰すのを考え直す」という言葉があったので、みんな休み明け初日の稽古にしては、かなり気合の入ったいい稽古であった。初日まで1週間である。
平成11年1月4日
稽古2日目。東関部屋が出稽古に来る。宮城野部屋の新十両光法もきて、賑やかな稽古場となる。
モンゴルからの新弟子朝青龍ことドルジ君、新弟子検査の書類を今日やっと提出できて、明日の新弟子検査を受けられることになる。12月上旬一度提出するが、親の直筆のサインが必要という事で、書類をモンゴルまで郵送したら、冬場のモンゴルへは1週間に一便しか飛行機が飛んでいないらしく、往復で3週間近くもかかってしまい間に合うか心配したが、年末にようやく届き、明日の新弟子検査に間に合った。
平成11年1月5日
初場所の新弟子検査が行われる。11人検査を受け、大学相撲から2人、二世力士や高校相撲となかなかの顔触れだったが、体力測定でもドルジ君、握力76kg背筋力180kgとNO.1の力を見せ、たくさんの新聞記者に囲まれていた。明日のスポーツ紙を飾ることになろう。
帰る道すがら、部屋についたら親方や関取、兄弟子たちに「おかげさんで、ごうかくしました」と挨拶するんだよと教えるが、どうも苦手な言い回しのようで、覚えるのに苦労していた。
平成11年1月7日
電車に乗っていたら隣に座った人に、「おすもうさんのびんつけ油はいい匂いですね。部屋によって匂いは違うのですか。」という質問をうけた。現在びんつけ油に使っているのは、商品名が“オーミすき油”という油で、どの部屋も同じ油である。 原料はハゼ蝋らしいが、最近ハゼの木が少なく、作るのに苦労しているという話しを数年前に聞いた事がある。1缶63g入りで15年前は確か450円だったが、現在では1000円近くになっている。1缶で10日程はもつ。
平成11年1月9日
朝鷲が、初場所を限りに引退することになった。3、4年程前に膝の靭帯を切り、3回手術をして、だましだまし相撲を取ってきたが、膝の方も限界にきたようで決意したようである。
昨日、その朝鷲の送別会を力士一同でおこなう。最近送別会ばかりだが、その度に酔っ払って泣いている朝天寿(あさてんじゅ-元朝藤墳)、親方の付人を3年近く一緒にやってきただけに、いつにも増しての大泣きであった。千秋楽に断髪式の予定。
平成11年1月10日
1999年初場所の幕開け。若松部屋最初の土俵は心機一転改名して臨んだ朝天寿だったが、黒星スタート。その後も調子が出ず、両関取は勝ったものの3勝5敗の滑り出し。
平成11年1月11日
今場所を限りに引退の朝鷲、取組みを前にした昨晩、縫い物をしている。見ると、膝にまくサポーターである。膝の怪我との付合いも3年近くなる為、サポーターがボロボロになって、これまでの朝鷲の相撲人生を物語っている。おまけに、マワシを包んでいく風呂敷までもが、変色して裂けて、四角いものがヒトデみたいになっている。やめると決心してから一週間で5kgも体重が落ちてしまった。最後の場所、悔いの残らぬ土俵を期待したい。
平成11年1月12日
今日から前相撲が始まる。注目の朝青龍と、今場所前相撲からの再出発朝天山、共に勝って初日をかざる。
平成11年1月13日
高砂部屋の呼出し三平さんの息子さんである伊藤光博氏が、高砂一門の力士の成績のデータをまとめてくれて、若松部屋の分をいただいた。朝鷲のお父さん大鷲関から朝住吉まで94名の全成績、50数ページにも及ぶ見事な資料である。データもこれだけ積み重なり整理されると、物語になってしまう。「ああ、こんなやつもいたな」とか、「こういう相撲人生をおくっていたんだ」とか、飽きることなく見入ってしまった。
平成11年1月14日
前相撲のドルジこと朝青龍、今日の対戦相手は明治大学相撲部主将。見事にすくい投げで勝ち、3連勝で1番出世を決める。前相撲は3勝するとおわりである。出世披露は、中日8日目、三段目取組み途中(1時過ぎ-衛星放送だと見られる)に行われる。関東龍、元気よく3連勝。
平成11年1月15日
序の口で全休すると番付から名前が消えてしまう。昨年一年、膝の怪我で休場続きだった朝天山も、改名したとたんに番付から名前が消えて、今場所朝青龍と一緒に前相撲をとっている。朝青龍は3連勝で昨日前相撲を取り終えたが、昨日まで2勝1敗の朝天山、今日も前相撲である。最初の1番に負け、その後も負け続けて、ようやく4番目に勝って3勝目をあげ出世を決める。
ここ半年、全く稽古をしたことがなかったので、続けて4番も相撲を取らされて、息も絶え絶えで、膝もガクガクだったらしい。普通、幕下以下の力士は2日に1番で、関取でも1日1番だが、1日に4番も取るなんて、横綱以上である。
平成11年1月17日
部屋で風邪が大はやりである。毎朝裸になるし、場所中で付人の仕事もあるので、厚着をして安静というわけにもいかず、つらいところである。あと1週間、気力でのりきるしかない。
朝青龍、関取の化粧まわしを借りて出世披露。早く自前の化粧まわしを締めれるようになって欲しいものである。
平成11年1月18日
関東龍、朝1番に病院で治療を受けるも、症状が改善せず、今日の取組みをやむなく休場。不戦敗となる。
朝泉、初日に勝ったあと4連敗で負け越し。第1号の負け越しである。稽古場ではけっこう調子良かっただけに残念である。
平成11年1月19日
朝鷲、今日勝って序の口からの通産成績が99勝102敗。あと1勝で通算100勝である。
前の相撲で古傷の膝を痛め、風邪で体調が最悪で、立合いの変化からの白星だったらしい。対戦相手が同門の兄弟子だったので、支度部屋で「わかったよー、 今場所でやめる相撲取りが立合い変わるなよー」と、いやみを言われたらしいが、明日やめるにしても、土俵に上がると勝ちたいものである。
ましてや、あと1勝で100勝となるとなおさらである。ちなみに、お父さんの大鷲関は、通算成績488勝500敗である。 朝ノ霧、平成9年九州場所以来の負け越し。
平成11年1月21日
朝乃若勝越し。幕内からの陥落組とのかねあいもあるが、まず来場所の幕内復帰は間違いないことであろう。
一方朝乃翔、勝って5勝7敗と土俵際踏みとどまる。残り3日間が勝負である。
12日目を終え、幕下以下の力士、ことごとく負け越しが決まり、ただひとり朝天寿のみが勝越しとなった。入門丸3年にして3度目の勝越しの朝天寿、みんなから「おまえが珍しく勝越すものだから、みんな負け越したじゃないか」と冷やかされていた。
平成11年1月22日
朝乃翔、負け越してしまう。ただ、今日旭豊が引退を発表したため、あと2勝して7勝8敗でとめておくと、 幕内に残れる可能性も少しはある。風邪で体調はかなり悪そうだが、頑張ってもらいたいものである。
幕下以下の力士に場所手当てが支給される。先場所まで、幕下15万円、三段目10万円、序二段以下7万円と額面そっくり貰えていたのだが、今場所から幕下以下の場所手当てにも税金がかかるようになり、1~2万円源泉徴収されて支給された。いうなれば2ヶ月に1度もらえる給料が、15%減俸になったようなもので、若い衆にとってはかなりの痛手である。
平成11年1月23日
明日の一番を最後に引退の朝鷲、明日の断髪式後部屋を出るため、荷造りに忙しい。断髪式後の整髪は、部屋の隣の床屋さんにお願いして、スーツは今場所付いている朝乃若関が買ってくれ、ワイシャツ、ネクタイ、くつなどは、おかみさんが揃えてくれ、あすの準備はだいたいできたようである。
明日の断髪式には、お父さんの関係で、プロレスの天竜さんをはじめ有名人も多数出席するようで、過去に例をみないほど賑やかなパーティになりそうである。
平成11年1月27日
千代大海の大関昇進で、最近、どうでもいいような暗い話題ばっかりだった大相撲にも、久しぶりの元気のいい明るい話題の一日だった。
休日3日目だが、初場所のあまりの成績の悪さに、負け越し力士外出禁止令がでて、部屋でみんなゴロゴロと大きな体をもてあましている。反省の念をこめて、昨日からみんなで朝、四股を踏んでいる。
平成11年1月31日
渋谷にあるモンゴル大使館で、餅つきをやるということで招待を受け、朝青龍と親方家族、一ノ矢の6人、モンゴル大使館を訪問。大使は、親方が現役時代からの大ファンだったらしく大喜びで、庭では餅つきにバーベキュー、館内では大使館の奥様方手作りのモンゴル料理(ボーズというモンゴルシュウマイがうまかった。)を味わいながら、モンゴルウオッカと楽しいひとときを過ごす。
朝青龍も、久しぶりにおもいきりモンゴル語をしゃべれて満足そうであった。
平成11年2月1日
2月9日(火)午前10時より、力士会主催の運動会が開かれることになった。横綱から序ノ口まで、約800名の全力士が参加して、千駄ヶ谷の東京体育館にて行われる。
平成11年2月2日
7、8年前にも東京ドームで運動会をやった。そのとき騎馬戦に出場した一ノ矢、土台の馬の前が小錦、後ろが曙と水戸泉というメンバーの上に乗った。恐がって誰も近づいてくるものがいなく、ただのっているだけで優勝であった。その他、俵投げ、大玉転がしリレー、綱引き、仮装行列などが行われる予定。前の運動会で一番速かったのは現議員の旭道山であった。
平成11年2月3日
2月3日節分会。鬼退治にはいいのだろうか、おすもうさんは引っ張りだこである。
親方は、鎌倉長谷寺と茨城下妻の大宝八幡宮、朝乃翔は 成田山新勝寺、朝乃若は地元一宮の真清田神社と、それぞれ毎年行く場所が決まっている。
部屋でも、おかみさんが鬼の面と(かぶらなくても地顔でいけるのもいるが・・)、豆を用意して,「鬼は外」とやる。今年の鬼は、今日電話番で1階にいた、朝天山だった。毛布をかぶりながら逃げ回っている。新弟子にとっては痛い一日である。
平成11年2月4日
運動会の種目と出場メンバーが発表になった。100mには朝乃若、2階建てパン食い競争には朝乃翔、リレーには邦夫と勝次郎という具合である。二人三脚もあって、a組現役力士夫妻、b組親方夫妻、c組現役独身力士と女性ファンなどとなっている。当日は部屋からお弁当をつくっていく。
平成11年2月5日
以前東京ドームでやった運動会の途中、新弟子がひとり行方不明になってしまったことがある。運動会終了後ドームを手分けして捜したが見つからず、警備員に「もし見つかったら電話下さい」といって部屋へ戻った。その数時間後、夜の8時半頃に電話がかかってきた。「こちら浅草下谷警察です。お宅のおすもうさんを保護していますので引き取りにきてください。」
警察に行って話を聴くと、夜道を運動会のユニフォーム姿で無灯火の自転車をこいでいる。少し怪しいなと思い、止めて、「どこまでいくの」ときいたら「宮城県まで帰る」といったそうで、御用となってしまった。
親方と一緒に迎えに行くと、柱に隠れていた。「自転車はどうしたんだ」と聞くと、「ドームの近くで拾った」という。殆どパンク状態のボロボロの自転車である。一応宮城県の方を向いて走ってはいたが・・・
その後も何度かすかし、半年ほどで帰らぬひととなった。
平成11年2月6日
春場所入門予定の神奈川県立向の岡工業高校相撲部主将の松尾君、3学期に入って自主登校になったとかで、昨日部屋にきて今日から一緒に稽古を始める。久しぶりの稽古で、息はかなり上がっていたが、真面目に取組んでいた。ただ、いいいびきをかきすぎるのが難である。
平成11年2月7日
モンゴル出身の朝青龍、日常会話は殆ど大丈夫だが、細かい言い回しでたまに間違う。朝太田に向かって、「太田さん、顔わるいね。」と言ったものだから、まわりがびっくりした。なかなかのチャレンジャーだなと一瞬思ったが、「顔色わるいね」と言いたかったようで安心した。
その朝青龍、指導員の朝太田と一緒に、毎日相撲教習所通いである。
平成11年2月9日
力士会運動会。朝6時半から弁当を作り、千駄ヶ谷の東京体育館へと出発。午前10時より、玉入れ、100m走、二人三脚と競技が進む。今年の力士NO.1の健脚は、大島部屋の幕下モンゴル出身、旭天山。アンコ型、押し相撲タイプの多い高砂一門は、こういう運動会などとなると、からっきしだめで、前半戦を終えて5一門中ビリ。午後からの仮装行列(セーラームーンで高得点)、俵投げなどで二所一門を抜いてようやく4位。
優勝は、魁皇や旭鷲山が活躍した立浪・伊勢が浜連合チーム。終了した午後4時過ぎの千駄ヶ谷駅は、すもうとりでごった返していた。
平成11年2月11日
祭日とあって70人の稽古見学&チャンコのお客さん。力士数がへって怪我人も何人かいるため、稽古できる人数が少なく、時間をもたすのが大変である。そこで日頃交流のある東関部屋や友綱部屋へ出稽古に来てくれるよう頼むが、両部屋ともやはり団体のお客さんが入っているらしく、部屋だけの稽古。ちょうど、親方がいま通っている接骨院の先生が都内の相撲道場で相撲をやっていて、一緒に稽古したいというので3人きて少し頭数が増える。プロ野球と違い、アマプロの交流が自由なのは相撲界のいいところである。
平成11年2月13日
大相撲トーナメント初日。部屋別対抗団体戦が行われる。5人戦のポイント制で、先鋒が序二段で1点、二陣が三段目で2点、中堅、副将が幕下で3点、大将が十両で4点という点数がついている。だから、三人負けても最後二人が勝てば、7対6で勝ちである。
若松部屋は、高砂部屋との連合チームで、序二段代表に朝泉、三段目には朝迅風 、大将の十両に朝乃若が出場。(幕下二人は高砂部屋)
1回戦、2回戦と勝ち進み、準決勝に進出。破れるも、4位の賞金18万円をゲット。通例で十両の関取は、賞金をとらないため、若い衆で山分け。いい小遣い稼ぎになる。ただ、朝小畑は3連敗と振るわなかったため、取り分を減らされたそうである。
平成11年2月15日
昨日のバレンタインデー。おかみさんが、心を込めて手作りチョコをたくさんつくってくれた。ところが、少し失敗したようで、かなり固い。みんなの手が伸びなく、今日になっても皿に山となっている。外から帰ってきてその山を目にしたおかみさん、「クッキーだと思って食べてよ」と、寂しそうであった。
朝泉は、「昔駄菓子屋にあったくろんぼみたいですね」などといいながら、結局2個目は食わなかった。
昨日今日と食卓の話題の中心となったチョコレートであった。
平成11年2月16日
初場所の惨敗の反省をふまえて、今まで午後のトレーニングは自主練だったのだが、昨日から全員の必修にする。4時からの掃除が終わったあと 1時間ほど汗を流す。みんなでやるとけっこう楽しくできるものである。
人数が減ったことや、怪我人が多かったこともあって、稽古の開始時間が7時半からと遅くなっていたが、怪我人もかなり復帰してきて、今日から稽古時間を30分早めて、久しぶりに7時開始とする。
これで大阪場所に向かって全員で気合を入れて、というはずだったが、朝起きたら一人すかしていた。ちょっと暗い雰囲気の稽古場であった。
平成11年2月18日
全力士、全裏方、職員による献血。ただし。糖尿や肝臓に異常のある力士は献血できない。おすもうさんは、体の大きい奴ほど注射が苦手という力士が多くけっこういやがっている。
夕方、大磯にて、平塚若松部屋を愛する会主催の激励会が行われる。夏の合宿と同様、恒例となって300人ものお客さんに集まっていただき、盛会となる。
平成11年2月20日
まわしの前につける“さがり”は、なんのためにつけているのか?という質問をいただきました。
ものの本の記憶によると、たしか化粧まわしの代わりにつけている、というのを読んだ覚えがある。相撲協会のHPにも「昔は、化粧まわしをつけたまま相撲をとっていた」と、あるからそうなのであろう。化粧まわしの簡略化、形だけでも前を隠すという意味があるのだろうと思う。
さがりをつけるのは、序の口の取組みからで、前相撲ではつけない。関取のなると、締込み(関取が本場所で締める絹のまわし)を織った絹糸をのりづけしてさがりを作る。さがりはりは、毎場所場所前に行う。
平成11年2月21日
さがりは、毎場所作り直し、その度に先を揃えて切るのでだんだんと細く短くなっていく。だから、なりたての関取とベテラン関取ではさがりの長さがかなり違う。幕内で今一番短いのは貴闘力のさがりであろう。動きやすいように、わざと短くしているのかもしれないが、 びっくりするほど短い。今度、TVで注目してみてください。
さがりの本数は、腹の大きさでマチマチであるが、必ず奇数本にはなっている。
大阪入り前の最後の日曜日、久しぶりの完全休養日となった。小田原にて、朝乃翔を励ます会が行われる。
平成11年2月24日
先発隊大阪乗り込み。いままでは、5人先発というのが恒例であったが、人数が減ったせいもあり、一ノ矢、朝泉、朝迅風、朝天山、4人での先発隊となる。近畿大学のキャンパスの中にある宿舎は、元職業訓練校の寮だった建物で普段は使われていないため、埃やらクモの巣、ゴミ、とお化け屋敷状態である。掃除して、家財道具をひっぱりだし、とりあえず寝れる状態にするまでが一仕事である。
夜、おかみさんのお父さんが経営している“ちゃんこ朝潮”で、大盛りちゃんこをごちそうになる。
平成11年2月25日
今日も朝から大掃除。昨晩は、部屋の近くのちゃんこ朝潮弥刀(みと)店でごちそうになったが、今日は、鴫野(しぎの)店にて、焼き肉。えびすこをきめる。
平成11年2月26日
午前中掃除のあと、午後から幟立て。8年前宿舎を借りた当初は、宿舎のまわりの木々も苗木であったが、8年の歳月が苗木を成木に変え、枝が伸び葉が生い茂り6mある幟が隠れてしまう、目立つ場所を探すのに一苦労である。
晩、ちゃんこ朝潮徳庵店にて食事。帰り、おかみさんの弟さんであるコノミヤ社長自らが運転する車に、野菜、調味料、その他ちゃんこ用品を満杯に詰め込み部屋までおくってもらう。当分買い出しに行かなくてすみそうである。
平成11年2月27日
稽古場となる近畿大学の土俵を作り直す。大学の稽古場は、プロの稽古場よりも広く、土俵が二面とれるほどの広さがある。普通の丸土俵と、ぶつかり稽古用に両端に俵をまっすぐ埋め込んだ土俵があり、鉄砲柱も2本立っている。この土俵から親方をはじめ、朝乃翔、朝乃若らが育ち大相撲へと入門してきた。
近畿大学相撲部は、プロレスの吉村道明さんや親方など学生横綱を過去4人輩出し、最近は日大など関東勢に押され気味ではあるが、関西一の名門相撲部である。
平成11年2月28日
全力士が大阪へ乗り込んでくる。先発組と関取以外の全力士の移動のため、本日午後4時過ぎの新大阪駅は、下駄や雪駄の音でさぞや、やかましかったことであろう。大阪堺からの高校生と宮城県からの中学生も部屋に合流。
明日朝は春場所番付発表が行われ、いよいよ 大阪場所が始動する。
平成11年3月1日
大阪場所の番付発表。
朝乃若先場所の勝越しで、幕内への返り咲き。13枚目で6勝9敗と負越して、普通なら100%十両落ちのはずだった朝乃翔、西14枚目に辛うじて残る。この幸運を春場所に生かして欲しい。朝天寿最高位。
平成11年3月2日
学生相撲出身力士を励ます会が開かれる。若松部屋からは、親方、朝乃若、朝乃翔、一ノ矢、朝住吉の5人が出席。部屋別でいうと、片男波の7人、武蔵川の6人に次いで3番目の多さだが、両部屋とも部屋の行事と重なったのか、一人も出席していなかったので、参加の中では、一大勢力であった。最後に親方の歌で閉会となる。
現在大相撲全体で46人の学生出身力士がおり、うち23人が関取に昇進している。関取三人に一人は学生出身力士である。
平成11年3月3日
大阪というのは面白い町である。年に一回ということもあるが、街全体にお相撲さんを歓迎するムードがある。
今日も、駅の近くを歩いていたら二十歳前後の女の子が、向こうから携帯電話で話しながら歩いてきていたが、姿をみるなり、「あ、おすもうさんや」と、でかい声で叫んだ。電話で話しながらである。東京だとこんなこととはまずないし、同じ年一回の名古屋や九州でも叫びはしない。
大阪では、お相撲さんが来ると春がくる。と、いうことがよく言われる。事実ここ数日、小春日和が続き、春場所間近という雰囲気いっぱいである。
平成11年3月4日
今場所も出場が微妙な横綱曙。再起へ向けて頑張っているようだが、トレーニングにいった朝青龍、トレーニングルームで一緒になって、声をかけてもらったそうである。帰ってきて、「横綱いいひとね!」と感激していた。何とかいまいちど、復活してもらいたいものである。
その朝青龍、大事には至らなかったが、少し首を痛めて稽古を早上がり。稽古が好きなだけにくやしそうである。
平成11年3月6日
春場所新弟子検査が行われる。若松部屋からも、3人が受験。一人体重が少し足りなかったが、朝から水を飲み続け、途中一度ガマンできずに小便に出してしまったらしいが、そのあと2L飲み、努力のかいあって無事合格。
晩、上六の都ホテルにて、1000人余りの人に参加いただいて、盛大に激励会を挙行する。
平成11年3月7日
場所前の日曜日とあって、100名近くのお客さんがおみえになる。地元四条畷と枚方の相撲連盟から、チビッコ力士が稽古に参加。相撲をやっているだけあって、みんなよく食べる。
いつかこの中から、若松部屋力士も誕生することであろう。
平成11年3月10日
初日もあと数日に迫ってきて、今日辺りが稽古のピーク。疲れもかなりたまってきて、明日あたりからだんだんと調整に入る。
東京の部屋には、地下にトレーニングルームがあり、夕方が筋トレの時間となっているが、地方場所は設備がないため、あまりできない。そこで、朝乃翔、付人と一緒に夕方一階の大広間で腕立て伏せのトレーニングを続けている。すぐに結果はでないであろうが、その心意気やよし、である。新弟子検査を受けた3人、内臓検査の結果も良好で、合格との電話が協会からはいる。
平成11年3月11日
地方場所に来ると差入れが多い。昨日も尾頭付きの(羽をむしっただけの丸ごとの)鶏が10羽差入れできた。おすもうさんも現代っ子なので、スーパーで売っている切身になっている鶏肉しか見たことがなく、丸ごとの鶏を見ると驚いてしまう。
兄弟子に捌き方を教えてもらってその日のチャンコ番が捌く。その日のチャンコ番は大当たりである。昨年までは、先場所引退した朝鷲が必ずといっていいほど当たっていたが、朝鷲なき後を引き継いだのは、朝天山であった。
平成11年3月13日
大阪は親方の準地元であるので、お客さんが多い。土日ともなると、50人100人はざらである。力士数が減った現状では、人手が足りずにてんてこ舞いである。そこで、親方の大学時代の後輩の方々が応援に駆けつけてくれる。今日も、先日掲示板に投稿いただいた中西さんや、 萩原さんという方が応援に来てくれ、稽古場にお客さんが何人ほど来ているとか逐一情報を連絡くれ、お客さんの給仕まで仕切ってくれて大助かりであった。
明日から初日。
平成11年3月14日
ちゃんこの材料は殆どが差入れでまかなえるが、足りないものを買い出しに行く。近所のなじみの露天の八百屋に閉店間際にいったら、「毎度おおきに。一杯飲んでいってや」とテントの奥に招かれた。奥では、近所の店主らが4人で七輪の鍋を囲み、一杯やっている。魚の鍋に自家漬けキムチと日本酒をごちそうになった。
明日のポテトサラダ用のキュウリ3本だけを買う予定だったが、キュウリ6本とニラ2束を買ってしまった。それでもたったの300円である。東京に比べるとかなり安い。おまけに帰りにキムチとお寿司までお土産に貰ってしまった。明日は番付でも持っていこう。
初日の幕開けと共に春満開となった大阪であった。2勝3敗の滑り出し。
平成11年3月15日
他のプロスポーツでは考えられないことだが、新弟子には今まで相撲経験の全くない子も入門する。そういう子はもちろん、いきなり相撲を取れるはずもなく、四股や腕立て伏せなどの準備運動から始める。そして、投げられても怪我のない様に、転ぶ稽古をする。
今場所の新弟子3人のうち2人は、相撲、柔道の経験があるので転ぶことに抵抗がないが、1人は全くの素人のため、まずは畳の上での受け身の稽古である。畳の上では転べるが、土俵の固い土の上にいくと、恐怖感が高まるのであろう、まるで飛び降り自殺でもするように顔がこわばってしまう。恐がるから余計に体が固まって、土俵に背中や肩を打ちつけてしまい、今にも泣き出しそうである。
土俵の上で転びだして4日目、今日ようやく慣れてきた。明日から前相撲本番である。
平成11年3月16日
序の口の優勝候補だった朝青龍(あさしょうりゅう)、先場所も前相撲で対戦した玉ノ井部屋の元明治大学相撲部主将と対戦。先場所は掬い投げで勝ったが、今場所は突き出されて完敗。さすがに肩を落としていた。
前相撲に若松部屋3力士も登場。全員陸奥部屋と対戦。朝松尾、朝菊地が勝って、朝千葉は敗れる。
平成11年3月17日
入門8年の行司勝次郎。行司の仕事である相撲字もかなり上達してきて、今場所の体育館の正面玄関に飾る板番付の担当になったそうである。3人がかりの仕事だそうだが、1番下の若い行司さんが、枠取りの時に間違えて序二段の枠を3名分多く取ってしまったらしい。上を書き終えた後なので、書き直す訳にもいかず、仕方なく誰かの名前を入れようという事になり、担当行司3人の本名を入れてごまかしたそうな。
府立体育館正面の板番付には、勝次郎の本名石田勝也なる四股名がのっているはずである。
平成11年3月18日
前相撲の朝松尾と朝菊地、今日も勝って2連勝で一番出世を決める。特に朝菊地は、地元大阪の出身のため、両親や高校の柔道の先生も応援に来ていて、先生や両親の前でのうれしい晴れ姿となった。
初日の朝稽古で足首を捻挫してしまった朝泉、元気なく3連敗。部屋に貼ってある星取表に黒丸がきれいに3つ並び、今はやりの“だんご3兄弟”状態である。後半戦の踏ん張りを期待したい。
平成11年3月21日
中日を終えて、朝迅風が4連勝と昨年の九州場所を思い出させる快進撃。3勝1敗も3人と、まずまずは 好調な前半戦。ただ、両関取は今場所も苦しい展開で、これからの7日間が正念場である。
平成11年3月22日
呼出し邦夫、今場所は土俵下での仕事をはなれ、先発事務所付きの担当になっている。
事務所の鍵を管理しているため、朝5時半過ぎに部屋を出て、帰ってくるのは夜8時である。それも、番付発表の翌日から場所後水曜日までの約1ヶ月間休みなしである。それが終わると木曜日から巡業である。
呼出しや行司の仕事は、土俵の上でやる仕事は、氷山の一角にすぎないのである。朝迅風5連勝。
平成11年3月23日
宿舎に野良猫がまぎれこんできている。朝迅風(本名小畑)が、たまにエサをやっているらしく、他のすもうとりを見ると逃げるが、小畑には えらくなついている。そのうち“おばねこ”という名前がついた。
休場中の関東龍が、おばねこが隣の部屋でないてうるさいというので、小畑が出動したが、泣き方と毛の色が微妙に違う別のネコだということである。ほんとうだろうか。そう言えば、ネコを鍋にすると、ちゃんこ鍋といわずに、にゃんこ鍋というそうである。もちろん、食したことはないが・・・
朝青龍勝越し。逆に朝天寿は、今場所第1号の負越し決定。
平成11年3月24日
先場所途中休場の関東龍、いまだまわしを締められる状態でないため、今場所も休場している。そのおかげで、お客さんの多い大阪場所の場所中のチャンコも何とか時間どおりにできあがっている。
昨日のおばねこではないけれど、猫の手も借りたいほどに 毎日忙しい大阪場所である。朝青龍5勝目。朝迅風、惜しくも5連勝でストップ。
平成11年3月25日
星取表にはドラマがある。前半3連勝と好調だった朝住吉、3連敗とはまってしまった。逆に足首の怪我で3連敗スタートだった朝泉、3連勝と持ち直して、足首の具合もよくなってきて気合十分である。
あと1番を残して、勝率ちょうど5割。勝越し2人。負越し2人。3勝3敗(朝乃翔は6勝6敗)7人。と、大事な大事な3日間になった。
平成11年3月28日
今日の一番に勝越しと幕内残留をかけた朝乃翔、気合十分の相撲で嬉しい勝越し。
じつは、10日目の琴龍戦で掌と中指を激しく痛めて、思うように突っ張れず苦しい土俵を続けていた。それだけに、喜びもひとしおのかちこしであった。
最後、朝乃若が白星で締めて、47勝46敗と辛うじて勝率5割を超える。晩、梅田のウエスティンホテルにて打上げ。400人余りのお客様で賑わう。
今日の若松部屋
平成11年4月1日
今場所、先発事務所詰めだった呼出し邦夫。昨日まで事務所の片づけに追われ、ようやく終わったと思ったら今日から巡業の先発である。ここ2ヶ月は一日の休みもない。
今場所は横綱大関が相次いで休場したため、協会への苦情の電話も多かったそうである。「入場券払い戻せ」とか「それでも国技か」とか。そういう電話の応対も邦夫の仕事である。呼出しも日々是闘いである。
平成11年4月2日
朝から大掃除を済ませ、巡業組みは巡業へと出発。朝乃翔は、手の怪我のため巡業を休んで治療にあたる。
平成11年4月3日
巡業組は今日から大阪城ホールにて巡業開始。今回は春巡業にしては長く、3週間近くの日程である。朝乃若の付人として巡業初参加の朝住吉、緊張感いっぱいで巡業に出発したが、うまく仕事をこなしていることであろうか。
残り番の力士は、新幹線にて帰京。東京の部屋に帰ると、やはり落ち着く。
平成11年4月5日
5月場所へ向けての稽古再開。といっても巡業に3人、教習所に5人、治療に2人と、残っているのは5人だけである。そのうち2人は怪我で、稽古できるのは3人だけという寂しい状況。巡業先発で親方不在の友綱部屋から出稽古に来たので何とか稽古になる。
再起を賭ける曙が巡業に出ているため、教習所生徒だけの東関部屋からも、昨年のアマ横綱、春場所幕下付出しで6勝1敗だった日大出身加藤がマネージャーと2人で出稽古に来る。学生相撲出身力士らしからぬキャラクターの持ち主である
平成11年4月6日
東関部屋のマネージャー狩俣さんは、元高砂部屋の幕下力士で、親方の兄弟子である。相撲界に長く、怪我の治療や指圧にも詳しい。
先場所最後の相撲で足首の靭帯を痛めて稽古を休んでいる朝小畑をつかまえて、治療をしてくれた。元力士で、いまだに力は強いので、ツボを押された朝小畑、喜んでいるようにしか聞こえない悲鳴をあげている。まわりでは、「絶対あいつはマゾの気がある。」とのもっぱらの噂だった。
平成11年4月8日
大相撲の入場券は高いというイメージが強いと思うが、元々の切符の値段は、一番高い席で、一人¥13、500である。プロレスや ボクシングだと、リングサイドはその何倍もしたりするから決して高くはないと思う。
ただ、相撲の切符は、原則的に4人1組(1桝)で、そこにお弁当、酒、土産等がつくから1マス10数万になってしまい、高い感じがするが、4人で割って、更に時間で割ると(相撲は 午前9時からやっている)、考え様によってはかなり安いとおもうのだが。如何。
平成11年4月10日
5月場所の前売り券が発売になる。数年前までは、イスA席(イス席にもA・B・Cとある)を前売りで買うことは、至難の技であったが、現在は土日以外なら簡単に買える。(土日でもB券C券なら買えるはずである)国技館の正面玄関右にある切符売場には、まだかなりの切符が余っていた。2日目、3日目あたりだとイスAの3列目の席も残っていた。
平成11年4月11日
日曜日で、稽古は四股だけ踏んで終わる。中学生になった親方の長男しげき君も、久しぶりにマワシを締めて土俵に下りる。最近、腹回りは親方に似てきた。
午後から、おかみさんの車で、親方、関取はじめ選挙権のあるもの6名、都知事選の投票に揃って出かける。
平成11年4月12日
呼出しについての質問がありました。呼出しのたっつけ袴の後ろに力士名が入っているのは、その力士から贈呈されたものだからです。 確か、横綱、大関に昇進する時は、行司や呼出しに装束を贈るのが習しになっていると思います。
行司・呼出し・床山などの裏方さんは、入門する時、必ず部屋に所属してから入門検査を受けることになります。ですから、給料は協会から貰いますが、所属はあくまでも部屋単位です。土俵作りなどの仕事は一門単位でやります。
呼出しにも位があって、行司と同じように、一番上が立呼出し、次いで副立呼出し、三役格、幕内格、十両格と続いていきます。若松部屋の呼出し邦夫は、現在三段目格です。土俵下で時間前にタオルを渡すのは中堅どこの呼出しの仕事で、ローテーションですから同じ一門の力士を選んで渡すなどということはありません。
邦夫へ!以上の説明で、間違っていることがあったらメールか、掲示板へかきこんでくれ。(呼出し邦夫は、現在巡業中だが、ノートパソコンを持ち歩いて、若松部屋HPも毎日見ているはずである。)
平成11年4月13日
岐阜から訃報が届いた。若松部屋名古屋後援会会長の金神徹三(こんじんてつぞう)氏が昨晩亡くなられた。
金神氏は、会社会長を務めるかたわら写真家としても高名で、親方が入門のときから力士朝潮を撮り続け、昭和62年には学研から写真集『朝潮太郎-その土俵人生-』を出版、また平成元年には、北白川書房から「勝ってもアサシオ 負けてもアサシオ」という本をも出している。
親方にとっては、二人目のお父さんのような存在の方だった。ご冥福を祈ります。
平成11年4月14日
親方が鎌倉巡業の先発に出発し、ちょうど入れ違いで友綱親方が巡業を終えて帰ってきたため、昨日から友綱部屋へ出稽古。東関、宮城野からも2人づつやってきて、そこそこの頭数がそろう。よその部屋で稽古するのは、けっこう新鮮なものである。
平成11年4月15日
行司の勝次郎、巡業の先発の仕事がようやく終わり、帰ってくる。今場所から巡業先発の担当になった勝次郎、宿舎の割振りや移動の交渉など事務仕事を巡業先を先乗りしてこなしていく。約2ヶ月ぶりの帰京である。
平成11年4月16日
四股名の改名についての質問がありました。おすもうさんの改名には、昇進を機に、怪我や病気などのげん直し、伸び悩みのときの気分転換等色々な理由がある。
先代の親方(元関脇房錦)は、四股名をつけるのが大好きであった。虎鮫龍(こさめりゅう)、房風(ふさかぜ)などは先代の力作である。
平成11年4月17日
元関脇房錦の先代は、最初小櫻という四股名で土俵に上がっている。1年半後に房錦に改名。本人から直接聞いた話だが、本当は総錦で届けを出したらしい。ところが、何かの手違いで番付を見たら房錦になっていたそうである。伊藤光博氏提供の資料を見ると、1年半程で一度総錦に改名し直している。しかし、房錦の時は、5勝3敗が1年間4場所続いていたが、総錦では2場所4勝4敗である。(当時は、年4場所幕下以下8日間)
そこで、もう一度房錦に戻して、そこから3場所連続勝越しして新十両昇進である。初土俵から丸4年、負け越したのは新三段目の一場所のみ。見事な出世である。
平成11年4月18日
“褐色の弾丸”の異名をとった房錦は、相撲っぷりもきっぷのいい取り口で、かなりの人気があり、お父さんが幕内格行司の式守錦太夫 (きんだゆう)で、お父さんの軍配で相撲を取ったことで話題となり、映画にもなったそうである。一度見たいものであるが未だ果たせない。
たまに“黒い弾丸”と言う人もいたが、黒いといわれるのはけっこう嫌がっていて、褐色の弾丸といってもらう方が機嫌がよかった。
平成11年4月19日
昨日掘り起こした土俵をつき固め、新しく土俵を作りなおす。土俵がいきかえった。
巡業組、鎌倉鶴岡八幡宮での巡業を終え、部屋に帰ってくる。久しぶりに全員揃った。巡業はこの後、土曜日に藤沢、日曜日に靖国神社での奉納相撲でおわりである。
平成11年4月20日
岐阜出身の朝天寿と、少年時代を名古屋で過ごした呼出し邦夫は、ドラゴンズファンである。開幕絶好調のドラゴンズが神宮でのヤクルト戦ということで、二人で応援に行くことになった。野球観戦も何かと金がかかるので、その資金稼ぎにとパチンコにいった朝天寿であったが、うなだれて帰ってきて駅までタクシーでいくところを歩いていった。
一方邦夫は、得意の平和島へと勝負に行き、神宮で合流とのことだったが、どうであっただろう?試合は、延長の末勝ったようであるから、パチンコの負けを忘れさせてくれたことであろう。
平成11年4月21日
よくある事件だが、便座が割れてしまった。数日前からヒビが入っていて(ヒビがはいると、時々お尻の肉がはさまってかなり痛い)、何か応急処置を-以前、テーピングで巻いたが、ケツにテーピングがついて具合悪い。アロンアルファで固めて便座カバーをするのがよいか・・- などと考えていたら、きれいに真っ二つに割れてしまっていた。
いい機会だからと、若者会(場所ごとの積立て金)で、思い切ってウォシュレットを買った。快適である。
平成11年4月23日
力士幟についての質問をいただきました。力士幟は、基本的に幅90cm長さ540cmの大きさで、地方場所では宿舎のまわりに目印代わりに立てますので、それぞれの地方の後援会の方々にお金をだしてもらって作ります。
大体1本2万5千円程です。雨風に晒されますと、色が落ちたり、破れたりしますが、3、4年は持ちますので地方ごとに保管してあります。
部屋によって違いはあると思いますが、若松部屋では、竹は部屋で用意します。大阪場所は、業者から買いますが、九州場所は裏山に孟宗竹の竹薮がありますので、地主さんの了解を貰ってノコギリ片手に切りに行きます。山の中に分け入っていって、7、8mの真っ直ぐした竹を探し、引っ張り出してくるのはなかなか骨の折れる仕事です。竹も5、6年は持ちます。
平成11年4月25日
春巡業最後の靖国神社奉納相撲が行われる。巡業組み最後のお仕事である。靖国神社は、開荷を置くところが狭いため、付人はいい場所を取るのに早起き勝負である。朝泉と朝住吉、午前4時半起きで出かける。雨の中1時間も待たされてようやく中に入れたそうである。付人稼業のつらいところである。
平成11年4月26日
夏場所番付発表。朝乃翔前頭13枚目、朝乃若は十両3枚目。朝迅風が自己最高位を更新して、三段目25枚目まで躍進。幕下が見えてきた。
平成11年4月27日
5月場所に向けての本格的な稽古開始。教習所組も、約1ヶ月ぶりの部屋での稽古。入門してきた時体が硬くて、股割りをさせると上体が90度より前に倒れなかった朝千葉、何とかおでこがつくようになった。飯もようやく丼3杯食えるようになってきて、体重2kg増えた。
昨日発売のベースボールマガジン社発行「相撲」の力士名鑑に、“なんでもベスト10”という囲みがあり、けっこう面白い内容になっています。(例:朝天寿、軽量力士第4位。ちなみに一ノ矢は2冠です。)興味のある方は、買って読んで下さい。
平成11年4月28日
一週間ほど前、シイタケ菌を植えつけた木が10本ほど届いた。水につけ、地下と2階ベランダに置いていたら見事に育って初収穫となった。シイタケはちゃんこには必需品なので、大変助かる。それに、毎日育つのを見るのは楽しいものである。そのうち、屋上に野菜畑でも作ろうか ・・・などと、話がはずんだ。
平成11年4月29日
巷では、ゴールデンウイーク突入であるが、夏場所を目前にして一番追い込み時期の相撲界にとっては全く関係ない。ただ、いつもよりお客さんは多いが・・・。
親方が治療に通っている接骨院の先生が、町道場で相撲をやっていて、休みを利用して部屋での稽古に参加。親方も何年かぶりで土俵に入り、接骨院の先生と朝千葉相手に相撲を取る。
平成11年5月1日
1週間ほど前から、目を怪我して国技館近くの病院に入院していた朝菊地。回復が早かったのか、予定より1週間早く退院。ただ、初日には間に合いそうになく、途中からの出場になりそう。また、今日の稽古で朝太田も眼を強打。お岩さんのように腫れ上がってしまう。こちらは外傷だけなので本場所には影響はないが。
相撲はぶつかりあいなので、眼の怪我はわりと多く、網膜隔離を患っている力士もけっこういる。
平成11年5月2日
昼のチャンコを食べていると、地下の風呂から大きな歌声が響いてくる。よく聞いてみると朝青龍(あさしょうりゅう)である。モンゴル語なので、意味はわからないが、モンゴルの青空と草原が浮かんできそうな伸びやかな歌である。そういえば、旭鷲山も支度部屋の風呂で、よくモンゴルの歌を大声で歌っているそうである。
平成11年5月3日
帯の結び目についての質問をいただきました。帯の結び目の位置は、真後ろが正式な位置です。ただ、兄弟子になってきたり、関取になると学生服のボタンをはずすのと一緒で、それを粋だと思うのか、結び目を右横や、右前にもってきてしまいます。昨年行われた全力士を集めての立合い研修会でも、理事長から帯の結び目の位置については、きびしく注意がありました。
現代人である力士にとって、“粋”という江戸文化を理解し、守っていくのはむずかしいことです。
平成11年5月4日
行司の勝次郎、行司の仕事がないときは、チャンコ場に入ってチャンコの手伝いをしている。趣味がダジャレの勝次郎、チャンコを作りながらもダジャレを連発するが、まわりの反応は冷ややかである。
その勝次郎、キャベツの千切りを始めて包丁を3回ほど動かしたところで自分の指を千切りしてしまった。普通なら心配される所だが、まわりから「わかったよーかっちゃん、ギャグが受けないものだから、自分の体を切って受けを狙ってぇ」と、久しぶりの大受けであった。お笑いに生きる人間のつらいところである。
平成11年5月5日
連休最後の日とあって、地元の後援会である本所若松会から見学のお客さんが十数人。それに加えて東大相撲部が稽古に参加。賑やかな稽古場となる。東大相撲部は、部員数10名。東日本リーグでは、Bグループに所属していて、国公立の相撲部の中では1番強い。創部20年を超える立派な相撲部である。
一人、体格にもそこそこ恵まれ、相撲も三段目の力のある選手がいて、親方も思わず、「どうだ、若松部屋でやってみないか」と声をかけたが、大学院進学が決まっているらしく実現にはいたらなかった。
平成11年5月8日
初日を明日に控え、稽古も軽めの調整。初日、2日目の割り(取組み)が決まり、触れ太鼓が来てと、だんだんと雰囲気もあがってくる。
今日は天気に恵まれ、5月らしい爽やかな気候である。こういう日は、触れ太鼓で明日の取組みを呼び上げる呼出しさんの声もよく通る。特に九重部屋の十両格呼出しの重夫さんの声は、声量といい、節回しといい、じつに気合ののったいい声である。風薫る五月、夏場所の始まりである。
平成11年5月9日
横綱大関が休場という少し寂しい夏場所だが、初日の土俵。若松部屋で最初に土俵に上がったのは、先場所1番出世で今場所序の口の朝松尾だったが、黒星スタート。朝青龍は勝って、まずは1勝。今場所の序二段の優勝候補である。関取は、二人とも快心の相撲で初日を飾る。全体では3勝4敗の滑り出し。
平成11年5月10日
サインについての質問をいただきました。おすもうさんのサインは誰かに考えてもらうのですか、という質問ですが、中には書の専門家に考えて貰ったりする場合もあるでしょうが、一般的には自作が多いようです。部屋の両関取も自作です。ですから、6年前の新十両の時と現在とではサインがかなり違っています。
ちなみに、サインができるのは十両以上の関取のみです。また、手形を押せるのは現役のみで、親方になるとサインのみで手形は押しません。朝乃翔、朝乃若、今日も勝って共に2連勝。
平成11年5月12日
モンゴルから対外関係大臣(外務大臣)が来日していて、記念レセプションが渋谷のモンゴル大使館で行われる。朝青龍と一ノ矢も参加。政府関係筋のゲストが多かったが、途中から大島部屋の旭鷲山、旭天鵬、旭天山の3力士も出席して、日蒙相撲談議 が花盛りであった。
平成11年5月13日
前半戦5日目を終了、ちょうど5割である。日刊スポーツには、全53部屋の成績が順番にのっている。昨日までは5割3分位で、けっこう上位にいたが、少し順位を落としたようである。人数が少ない部屋ほど変動が激しくて、力士3人の甲山部屋は、昨日4日目にして今場所初の1勝、とかいう話などが出ていてけっこう面白い。
正面玄関横の切符売場をのぞいて見ると、いまだに土日の席(イス席)もけっこう余っている。生の大相撲を観たことのない方、今がチャンスです。
平成11年5月14日
取組みの前にマワシをしめてもらう時は、だいたいが同じ部屋の力士にしめてもらうが、いない時はよその部屋の力士に頼むこともある。マワシを締めようと思って辺りを見回すが誰もいない。ちょうどそこへ、朝日山部屋の顔見知りの力士が新弟子を連れてやってきた。
マワシをひっぱってくれと頼むと、「負けまわしですけど、いいですか」と笑っている。現在3連敗中らしい。3連敗は縁起でもないなと、もう一人の方に聞くと、やっぱり同じく3連敗である。まあ、こっちも2連敗中だから気にするほどもないか、とそのままひっぱってもらう。それがよかったのか、ようやくの初白星である。
序二段で、昨日の関東龍に続き、朝青龍、朝泉と3人3連勝。
平成11年5月15日
突っ張りの力士や、怪我のある力士は、手首や足首に包帯(さらしで作ったもの)を巻くが、その包帯も勝っていると、“勝ち包帯”といって、同じ物を巻いていく。負けると新しいものに変える。
幕下以下の力士は、さがりを貸し借りすることがあるが、借りて勝ったら、自分のさがりがあるにもかかわらず、“勝ちさがり”を借り続ける。ということもある。
序二段の3連勝力士、3人とも土俵に上がるが、朝青龍のみストレートの給金(勝越し)。
平成11年5月16日
昨日今日と星があがらず、ついに5割を切ってしまう。自己最高位の三段目上位で奮闘している朝迅風 (あさはやて)、今日も立合い一気に相手を押し込むが、叩かれて肩を強打。明日から休場となってしまった。
平成11年5月17日
朝住吉、4場所ぶりの勝越しを決める。稽古場での相撲を見ると、この辺でとる力士ではないが本場所にいくと引きグセがあり、消極的な相撲で墓穴を掘ることが多かった。この勝越しを機に、前向きに相撲を取って、番付を上げていって欲しいものである。朝青龍5勝目。先場所序の口で対戦して破れた、優勝候補の本命だった力士が早々と一敗しているため、確率はかなり高くなってきた。
平成11年5月18日
行司に関しての質問をいただきました。「行司が力士を呼び上げるのには何か名前がついているのでしょうか?」ということですが、しいて言えば “名乗りを上げる”と言うようです。勝力士を呼び上げるのは“勝ち名乗り”といいます。
装束については、デザインや色についての決まりは特にはないようですが、“菊とじ”という花びら模様に紫を使えるのは、立行司だけだそうです。 軍配の房の色も同様に紫は立行司のみです。装束の値段は、もちろんピンからキリまであるようですが、幕下以下の行司さんの平均的な所は30万円ほどだそうです。入門して1年したら、支給される補助費などを積立てしていて自分で買うそうです。あと、兄弟子のお古をもらったりして部屋の勝次郎で現在5着もっているそうです。また、力士が横綱大関に昇進した時は、一門の行司さん全員に装束を贈るのがならわしになっているようです。
平成11年5月19日
関東龍勝越し。一ノ矢負け越し。朝太田、3連敗のあとの3連勝で持ち直し、最後の1番に勝越しをかける
平成11年5月21日
朝乃翔先場所に引き続きの勝越し。朝青龍7戦全勝。千秋楽3力士による序二段優勝決定戦に進出。3勝3敗だった朝天山、朝太田勝越し。序の口で休場していた朝菊地、今場所初めて土俵に上がり初白星。
今日は8勝1敗と好成績で、あすあさって残り9番全勝だと、今朝の日刊スポーツ部屋紹介欄に出ていた“夢の勝率6割”が実現するのだが・・・
平成11年5月22日
3勝3敗で最後の一番を迎えた朝松尾と朝泉、共に勝って勝越し。これで今場所3勝3敗力士は、4人とも勝越しである。あす千秋楽、朝千葉が3勝3敗最後の勝越しをかける。
今日の一番に勝てば、半年ぶりの三段目復帰だった朝住吉、ふつうに胸から踏み込めば楽勝の相手だったのに、土俵下審判に親方がいたもの だから、いい所を見せようと思い切り頭からぶちかましていったら、相手に変化されて黒星。親方の審判のときは殆ど勝ったことがないという困ったやつである。
平成11年5月23日
3人での巴戦を制し、朝青龍序二段優勝。千秋楽パーティに華を添える。朝乃翔も得意の突っ張りが今日もでて、価値ある9勝目。全体の勝率も5割5分近くと、久しぶりの好成績な場所であった。恒例の千秋楽打上げパーティが柳橋・東京プラスチック会館にて行われる。
平成11年5月24日
大銀杏について、床山さん一人一人や一門等により結い方の違いはあるのですか、という質問をいただきました。基本的には、結い方に違いはありません。ただ、その床山さんの腕やクセ、力士の髪質、髪の量などは千差万別ですから、どうしても結い上がりは違ってきます。
特に、曙関や武蔵丸関のように天然パーマの入っている髪を大銀杏に結い上げるのは、大変な技術を要します。
平成11年5月27日
行司さんの場内アナウンスについて質問をいただきました。特にアナウンサーとしての発音や発声練習をしているわけではないようですが、兄弟子のアナウンスを横で聞きながら、下の取組みから徐々にやっていくようです。アナウンス係りは、行司の全員がやるわけでなく選ばれた10名ほどのチームで、かわりばんこにやっていっているようです。その中で上のものが、実践で下を指導しながら育っていくようです。
平成11年5月29日
宮城県出身の朝千葉、千秋楽パーティには田舎から両親も応援に来た。まだ15才で、性格的にもおとなしく、すぐ泣いてしまい入門3ヶ月にしてすでに2回のすかしを経験しているが、なんとか踏みとどまって、今場所も勝越しこそならなかったものの3勝をあげた。
今朝、大きな封筒がお父さんから届いている。開けてみると、地元の新聞の星取り表や、朝千葉の記事や写真がカラーコピーできれいにまとめられている。このお父さんの気持ちが、最後の一線で彼を支えているのであろう
平成11年5月30日
全国国公立大学対抗相撲大会が東京で行われ、昨年復部なった一ノ矢の母校、琉球大学も沖縄から参加。団体戦で1勝3敗と予選敗退するも、奮戦。優勝は、決勝で京都大学を破った東京大学。
17年前から行われているこの大会も、最初は参加4校であったが、今年は12校10チーム。熱気溢れる大会となっている。最近下降線の相撲人気だが、こういう底辺ではけっこう盛んになってきている。
今日から稽古再開。
平成11年5月31日
夏場所の勝ち星金(褒賞金)が支給になる。これは、勝ち星1つにつきいくら、勝越し1つにつきいくらと計算されて貰える金で、いわば能力給である。例えば序二段だと、勝ち星ひとつが1500円、勝越しが一点につき3500円である。4勝3敗だと1500×4+3500×1=9500円。6勝1敗だと1500×6+3500×5=26500円となる。
この金を貰ってきて分配するのは勝次郎の仕事だが、配る時に番付代を引いて配ることになっている。今場所序二段で2勝5敗だった朝天寿、2勝分の3000円から番付代100枚分2700円を引かれて、もらった勝ち星金は300円とさびしい封筒であった。(ひとりひとり行司さん手書きの封筒でもらう)
平成11年6月2日
呼出し邦夫、北海道の千代の山・千代の富士記念館の土俵築のため松前郡福島町に行っていたが、土俵を造り終えて帰ってきた。ここは福島町立の記念館で、中には九重部屋の土俵が再現してあり、実際に九重部屋の夏合宿なども行われている。展示物も豊富なので、函館方面へお越しの際は一度足を伸ばしてみてはいかが。
平成11年6月3日
土俵の塩についての質問をいただきました。土俵にまく塩は、あら塩か並塩を使用しています。以前は「伯方の塩」がメーカーから直接贈られて来ていたり、味の素が巡業のスポンサーだった頃は味の素の塩を使っていたようですが、現在は協会が並塩を購入しているそうです。食塩はサラサラしすぎて使えません。巡業などで、食塩しかないときは少し水で湿らせて使うことがあります。
塩は清めの為にまきますが、殺菌作用もあるので、多少は擦り傷などの消毒にもなってはいるのでしょう。稽古場では、傷口に「塩でももんどけ!」といって、直接すり込むこともありますが、飛び上がるほどしみます。
平成11年6月4日
新弟子の朝松尾、いま部屋で最高に寝相が悪い。最初はもちろん普通の姿勢で寝るのだが、気が付くと枕が、枕元に置いてある大きなダンボール箱になっていたり、上体を半分起こしてどう見ても疲れるとしか思えない体勢で熟睡している。
最初からダンボール箱を枕にして寝た方がいいのではないかと思うほどだが、そういうものでもないようである。おまけに片手は手枕状態で、もう一方は股間を隠したポーズである。女の子だとセクシーポーズなのだろうが・・
平成11年6月5日
行司や呼出しが土俵上以外の仕事が多いように、床山さんにも髪結い以外の仕事があるのでしょうかという質問をいただきました。はっきりいって、床山さんには他の仕事はありません。もちろん入門してしばらくは、部屋の掃除、雑用等いろいろとやらなければなりませんが、ある程度年数がたって一人前になってくると、部屋によって多少の違いはあるでしょうが、殆ど髪結いのみです。
ただ、おすもうさんにとって行司や呼出しは部屋にいなくても困りませんが、床山はなくてはならない存在です。
若松部屋には床山がいなくて困っています。どなたかいませんでしょうか。
平成11年6月7日
友綱部屋と武隈部屋から出稽古に来る。友綱部屋の魁心山(元戦闘竜)も久しぶりの白まわし姿で登場。実に27場所ぶりの十両復帰である。お母さんは日本人だが、米国籍のヘンリー(本名)は、筋肉隆々とした体に浅黒い肌で、いっそう白まわしが輝いて見える。怪我で何度も苦労した力士だけに、学生出身力士にだけは絶対負けたくないという、現代日本人力士が忘れてしまった心意気を強く持った力士である。
平成11年6月8日
極真空手の数見選手がまわしを締めて稽古に参加。数見選手は、4年前の世界選手権で、今K-1で活躍中のフィリォを破って決勝まで進んだ実績を持ち、先だって史上何人目かになる100人組み手を達成した猛者である。4年に1度の世界大会が近づいてきたので、体の大きな外人対策用にと相撲部屋への異種稽古、ということらしい。
三段目力士の胸を借りてのぶつかり稽古を行うが、下半身の強さとバランスのよさ、腰の安定感などには目をみはるものがある。
平成11年6月12日
友綱部屋の魁皇の結婚式が行われ、朝乃翔・朝乃若の両関取も出席。新居は若松部屋のある本所3丁目から道一つ隔てたおとなりの町内で、そのうち、地元の後援会である「本所若松会」に入ろうかなという話もでたほどである。新婦は、元女子プロレスで人気レスラーであった西脇充子さん。しっかりした姉さん女房で、魁皇関の大関獲りの支えとなってくれることであろう。
平成11年6月13日
今週から名古屋入りのため朝から大掃除。そろそろ荷造りの準備やら、21日の番付発表の封筒書きやらで、何かと慌ただしい。
行司の勝次郎、今まで部屋住み生活であったが、このほど部屋を出て生活することになった。来年で満10年を迎える若松部屋、初の独立者誕生である。
平成11年6月14日
極真空手の数見選手が再び稽古に参加。さすがに運動能力が高いだけあって、四股もかなりさまになってきた。今日はぶつかるだけでなく、朝乃翔関の突っ張りを実際に受けてもみる。いろいろと工夫をしている。ぜひ世界大会で生かして欲しいものである。
呼出し邦夫、今日から土俵作りの為に名古屋へ出発。今週一週間で、一門の稽古場の土俵を作ってまわる。
平成11年6月16日
先発隊5人(一ノ矢、関東龍、朝迅風、朝天寿、朝住吉)名古屋入り。一年ぶりの蟹江である。今年で12年目となる宿舎、蟹江の龍照院。お寺の隣の家の1才だった女の子が、ことしはもう中学生になっている。近所の人たちともすっかり顔なじみで、故郷に帰ってきたような感さえある。
平成11年6月17日
すっかり「よかた」(一般人)になった元朝西春が先発隊の仕事の手伝いに顔をみせた。1年半前に引退した元朝西春は、現在地元の電設会社に勤めていて、仕事の合間をみて手伝いにきてくれる。まったくありがたいものである。
平成11年6月18日
午前7時半より土俵作り。昼休み、ちゃんこを食いながらテレビを見ていると、タモリの笑っていいともで、女の子が出てきて、彼氏が誰か有名人に似ていて審査員が満場一致で納得するとグアム旅行というコーナーをやっていた。そこで白羽の矢が立ったのが 朝住吉であった。住吉ならこのコーナーにでればグアム旅行に行ける。という、みんなの意見であった。でも紹介してくれる彼女がいないな、ということでケリがついた。ちなみに満場一致の似ている有名人は、赤塚不二雄であるが。
平成11年6月19日
午前中掃除して、午後から幟立て。近所の人にトラックを出してもらって竹を積んでいって、16本の幟を蟹江町内に立てる。おりからの梅雨空で、びしょ濡れになりながらの作業であった。作業を終え、夕方先日亡くなられた岐阜の金神会長の仏前へ焼香に参じる。
平成11年6月20日
以前高砂部屋があった春日町(はるひちょう)から幟立てにやってくる。親方が現役の頃から親交のある人たちが、それぞれ幟を作成し、自分達で部屋のまわりに立ててくれる。昨日の16本と合わせて、26本もの幟が蟹江の町の風をうけ、はためいている。また、商工会やJR駅も幟を上げてくれるので、最終的には40本ほどにもなろうかという壮観さである。新幹線による相撲列車が名古屋到着。全力士が名古屋入りする。
平成11年6月22日
刈谷市で激励会が行われ、親方、関取、付人の計6人が出席。地方場所は年1度なのでこういう催しが多い。土俵祭りを行い稽古開始
平成11年6月23日
宿舎の龍照院の周りは、田畑に囲まれ、裏手には蟹江川という川が流れていて、自然環境はまことに素晴らしいのだが、おかげで蚊や虫にもめぐまれている。裸の生活の多いおすもうさんは、蚊には恰好の食材なのであろう、夕方ともなるとおいしいレストランがお客で溢れるのと一緒で、近隣の蚊が集まってきて、かゆいことこのうえない。いきおい、蚊取り線香を部屋の中が真っ白くなるほど焚いて、蚊よりも人間にも悪いのではないかと思うほどである。
平成11年6月24日
梅雨真っ盛りで、宿舎のプレハブの屋根を雨が激しくたたいている。木綿の厚折りのまわしは、汗を吸いこむと、カチカチに固くなるので稽古後は干すのだが、雨が続くと干せない。固くなったまわしは、痛いし、くさいし、不快このうえない。あまりに湿気るとまわしをコインランドリーに回しにいく。砂や汚れは落として回すが、においは多少残るであろうし、次に回す人はいい迷惑だと思うが、年に一度の名古屋場所、今のところは大目に見てもらっている。
平成11年6月25日
今年3月入門の朝松尾、本人は意識していないのだが、ときおり周りを笑かしてくれる。昼飯どき、朝住吉が、「松尾、おまえ今場所なんまいめだ?」と尋ねると、朝松尾、丼飯をもった手を前に差し出しつつ「まだ、いっぱいめです!」。みんな 一瞬あっけにとられたが、大笑いとなった。本人に言わせると、すこし耳が悪いのだそうだが、その中の問題だろうという一般的評価である。駄洒落を連発する勝次郎よりヒットの確率は高い。ただ、勝次郎の駄洒落でいちばん大笑いするのは朝松尾である。
平成11年6月27日
昨日は蟹江町役場でのちゃんこ教室。大鍋で約500人分のちゃんこをふるまう。今日は、これも7年目となる国際交流。近辺に住む外国人を招待して、稽古見学、決り手紹介、質問コーナー、腕相撲大会、スイカ割と、交流を深める。梅雨どきなので毎年雨模様が多いが、今年は特にどしゃぶりの中でのイベントとなった。そういえば昨晩も、朝ノ霧と一ノ矢は、名古屋の街で国際交流をしてきたそうである。
平成11年6月28日
親方の後輩の子供が稽古にきている。お兄ちゃんは中学3年生で183cm130kg、弟は小6で体はそんなに大きくないもの、全国わんぱく相撲の横綱である。食べ盛りで飯も強く、ちゃんこで丼飯6杯食い、その1時間後にまたハンバーガーをほお張っている。 若貴兄弟を彷彿させるような、将来性溢れんばかりの兄弟である。
平成11年6月30日
場所前恒例の激励会がキャッスルホテルにて行われ、300人あまりの方々の出席で賑わう。開宴に先立って、せんだって亡くなられた金神会長の遺影に黙祷をささげ、名古屋場所での健闘を誓う。
今日の若松部屋
平成11年7月2日
取組編成会議が行われて、初日、2日目の取組が決まる。
平成11年7月3日
初日を明日に控え、毎年恒例となっている、龍照院にある重要文化財十一面観音を住職に開帳してもらい、明日から十五日間の無事と必勝を祈願する。この観音様は鎌倉時代に彫られた木彫りの観音様で、戦前は国宝だったそうである。観音様のお陰か、名古屋場所は優勝力士も何度かでて成績もいい場所が多い。今年もそう願いたいものである。
平成11年7月5日
初日とともに真夏がきた名古屋だが、2日間を終えて10勝7敗とまずまずのスタートを切る。特に、先場所9勝6敗で8枚目まで番付を上げた朝乃翔は、今場所も先場所同様持ち味の突っ張りが全開で、今場所も大いに期待できそうである。
平成11年7月7日
稽古前、朝迅風が「まわしが無い」、と騒いでいる。全員が締め終えて残ったまわしがあり、朝迅風が締めると、普通まわしは4周巻くものだが、2周しかしない。今日朝一番に相撲のある朝千葉が間違えて持っていってしまったようである。
体育館で、取組前にまわしを締めた朝千葉、6周もまわるものだから、ようやく間違えたことに気づいたそうで真っ青になってしまったそうである。でも、そのまわしが良かったのか、今場所の初白星となる。文字どおり“他人のふんどしで相撲 を取る”となった。そのおかげもあったのか、十両の朝乃若まで9連勝。通算成績も24勝10敗となって、勝率7割である。
平成11年7月8日
年に1度というだけでもないようだが、蟹江の人々は本当によくしてくれる。力士がちょっと調子が悪いと知ると病院に連れていってくれ、ちゃんこの材料が少なくなると差入れしてくれ、週に一度は包丁を研ぎにきてくれ、ゴミの分別も親切に教えてくれる。古き良き日本の近所付き合いが今もって残っている。地方場所の楽しさのひとつである。
2連勝だった朝菊池、朝松尾、朝天山、朝住吉、そろって勝って3連勝。中でも朝天山は、力士生活3年間の中で初めての経験で、冷やかされることしきりである。
平成11年7月11日
前半戦の快進撃に、少々ブレーキがかかってきたが、今日又ふたり、勝越しを決める。三段目の朝青龍は、前相撲で勝ち、序の口で敗れた明大相撲部元主将の玉ノ井部屋田代と対戦。序の口での雪辱を果たし4連勝の勝ち越し。先場所に続いての優勝が近づいてきた。
序の口の朝菊地も勝越し。朝菊地は、先場所1勝6休であったから、番付に名前を載せてからまだ負け知らずである。
平成11年7月12日
ここ連日座布団が舞っている愛知県立体育館。土俵下でいろいろと仕事をしている呼出し邦夫、おとといは花道の奥で飛んできた座布団が眼鏡に当たり眼鏡が曲がり、昨日は顔面をかすめて、かなり痛かったそうである。今日も結びの一番で舞ったが、今日は何とかぶじだったようである。みなさん、座布団を投げるのはかなり危険です。気持ちは分かりますが、我慢しましょう。
序二段で、朝住吉と関東龍が5連勝。同部屋決戦の可能性が出てきた。
平成11年7月15日
全勝だった朝菊地と朝住吉に土がつく。朝天山勝越し。来場所自己最高位を更新して、初の序二段2桁台で相撲を取ることになる。元十両の朝太田、復帰目指して頑張っていたが、怪我の回復がままならず今場所を最後に引退することになる。明日の相撲が、土俵生活最後の一番となる。断髪式は8月に地元青森での予定。
平成11年7月16日
朝青龍全勝同士の対決に余裕の相撲で勝ち、先場所に引き続き三段目でも優勝を決める。故郷モンゴルでも、年に1度の祭典ナーダムの相撲大会で、次兄が大関、その下の兄が小結と兄弟揃っての栄冠である。
序の口の朝菊地、今日勝って6勝1敗。全勝力士が敗れた為、千秋楽優勝決定戦に出ることになった。序二段で全勝だった関東龍、惜しくも敗れて 決定戦進出ならず。
平成11年7月17日
朝乃翔、足を怪我して途中6連敗したときは、どうなることかと心配したが、5連勝で嬉しい勝ち越しを決める。来場所は久しぶりの幕内上位である。名古屋場所、出だしから好調であった若松部屋、今日14日目終了時点で、勝率6割を超える。明日、両関取を含めて5人相撲を取るが、3勝2敗以上だと“夢の6割”達成である。
平成11年7月18日
千秋楽。朝千葉、序の口2場所目にしての勝ち越しを決める。立派なものである。その後も白星が続き、通算成績74勝47敗、勝率6割1分2厘。おそらく、若松部屋始まって以来最高の成績である。
晩、地元蟹江の尾張温泉で行われた千秋楽打上パーティも400名近いお客さまが集まり、好成績に花が咲き大いに盛り上がる。
平成11年7月19日
今日から場所休み。9時に起床して、若者会(ミーティング)、大掃除。若者会終了後、協会から若い衆に支給される体育館までの交通費、¥12,600 の端数600円をみんなで寄せ合い、サマージャンボ宝くじ。名前を書いた紙を丸めて半分ずつ捨てていく。最後に残った2枚、場を仕切った一ノ矢が指名したのは勝次郎。勝次郎右を選ぶ。すんなり当たりを開いても面白くないので、最後に外れた左の紙を、みんなで大笑いしてやろうと開いたら、一ノ矢であった。いいだしっぺは何やらである。そして、見事、9千円を引き当てたのは、当の勝次郎であった。ギャンブラーとしての天賦の才があるかもしれない。
平成11年7月24日
宿舎の龍照院の裏には高さ20mもあろうかという大銀杏の大木がある。樹齢400年はなるそうで、枝からこぶが垂れ下がり、古木の神々しさが大地にはっている。この大銀杏は、太閤秀吉が植えたという言い伝えがあるようで、寺の裏には、信長街道と呼ばれる古道もあり、清洲城から信長が馬で駈けていたそうである。
そういう歴史の深さもこのお寺を囲むいい雰囲気をつくっているのであろう、最後の最後まで人の温かさに浸りっぱなしの名古屋場所であった。明日相撲列車にて帰京である。
平成11年7月25日
今日で最後となった蟹江龍照院。近所の人総出で、朝から寺まわりの大掃除である。近所の人とはお互い掃除をしながらのお別れとなった。資料によると、龍照院は鎌倉時代初期、寿永元年(1182年)木曽義仲が七堂伽藍及び十八坊を建立したのに始まるそうで、当時は境内だけで7万2千坪という広大な敷地であったらしい。天正12年(1583年)6月蟹江合戦の時に焼かれて、現在の龍照院1坊のみになったということであるから、信長の頃だろうか?創設から数えて71世目になるのが現在のご住職である。
午後3時半に東京着。殆どの力士がタクシーに分乗して帰るので、東京駅のタクシー乗り場は浴衣で溢れ、一般乗客はさぞや迷惑だろうなといつも思う。
平成11年7月26日
巡業組出発。幕内朝乃翔には朝ノ霧、朝住吉の2人、十両朝乃若には朝泉1人、親方には朝迅風と朝青龍の2人が付人として一緒に付いていく。もちろん朝青龍は巡業初参加。慣れない仕事に戸惑うことも多いだろうが、約1ヶ月の長い夏巡業を経験すると、またひとまわり大きくなって帰ってくることであろう。
明日あさっては、若松部屋の準地元とでもいうべき、平塚で巡業である。
平成11年7月28日
真夏である。四股を踏んでいても汗が滝のように流れ、足元にたまり、滑るので踏み場を変えねばならぬほどである。お昼過ぎ、後援会のバスタオルの大型ダンボール箱が10箱ほど届き、4階まで上げる。主に新弟子の仕事だが、部屋の中ではパンツいっちょうなので、パンツまでびしょびしょでスケスケ状態になってしまう。暑苦しいことこのうえない。1階にはクーラーはないので、飯を食いながらも大汗である。
平成11年8月1日
昨日から押尾川部屋へ出稽古。この時期は、巡業や合宿でどこの部屋も東京に残っている力士が少なく、力士の多く残っている部屋に集まってくる。押尾川部屋は江東区の木場にあり、自転車で15分ほどである。親方は元大関の大麒麟。昭和50年に二所ノ関から独立して、現在十両で相撲甚句の名人大至(だいし)が頑張っている。
隅田川花火大会が行われ、屋上でビールを飲みながら後援会の人たちと花火を楽しむ。
平成11年8月1日
相撲にも段位があるのをご存知だろうか。もちろんアマチュア相撲でのはなしだが。今日、国技館にて段位進級試験が行われ、教習所指導員の関東龍、行司、審判役として参加。同じ段位のもの同士が集まり、試合をしていって、3位以内に入ると昇段できるそうである。柔道では初段以上は黒帯だが、相撲は段位によって、まわしにつける腕章のようなものの色が違ってくる。ちなみに一ノ矢は2段。朝乃若、朝乃翔は4段あたりを持っていると思う。
平成11年8月4日
今日の巡業は埼玉県狭山市。明日は休養日で、明後日道中で明明後日からまた札幌の巡業の為、巡業組一旦帰京。さすがにみんな疲れた顔をしている。
初巡業の朝青龍、最初に張り切って稽古しすぎた為、腰に疲れが出て、ここ数日はペースダウンとのことである。
平成11年8月5日
横綱の代数についての質問がありました。「横綱は代替わりするのでなく、同時に何人もいるのだから、何代目と呼ぶのはおかしく、何人目と呼ぶべきだ」という意見もありましたが、最近は、まあ何代目でいいじゃないかという感じで、相撲協会もNHKも“67代目横綱武蔵丸” と言っています。
また、同時昇進の場合は、先に引退した方を先代とするようになっているようですが、これには引退するまで代数が決まらないのはおかしいという異論もあるようです。
平成11年8月6日
朝青龍の知人の日本人カメラマンの方がモンゴルへ行ってきて、お土産に朝青龍の家自家製の馬乳酒を持ってかえってくれた。ちょっと酸味がきついが、焼酎の牛乳割りのような感じで、けっこういける。朝青龍に言わすと、今年の出来はなかなかのものらしい。巡業組、飛行機3便に分かれて明日からの巡業地、札幌へ向かう。
平成11年8月7日
午後3時8分東京発のやまびこで、青森合宿へと向かう。午後6時35分盛岡着。巡業へ行っていない、一ノ矢、関東龍、朝天山、朝天寿、 朝松尾、朝菊池、朝千葉の7力士である。盛岡からは、マイクロバス。合宿地の五所川原江良産業到着は午後9時となった。
涼を期待してきたが、今年の青森は猛暑続きだそうで、東京と殆ど変わらない。おまけに寝るところのクーラーがほとんど効かなくて、窓もない建物なので大変である。
平成11年8月8日
五所川原のねぶた祭りに参加。昨年より有名となった立ちねぶたを引かせてもらう。高さ22mの立ちねぶたは、五所川原市内のどの建物よりも高く空にそびえている。今年また新たに一台できて、ツインタワーとなって商店街を練り歩く立ちねぶたは、まさに迫力満点である。
2時間ほどひっぱると、いい汗をかいて浴衣がびしょびしょになるが、よく冷えた缶ビールが格別である。
平成11年8月12日
合宿しているところは五所川原市だが、市内からは遠く隣の金木(かなぎ)の方が近い。金木は太宰治の出た町で、最近では吉幾三もこの町の出身で、20分も歩くと“いくぞうハウス”なる記念館らしきものも建っている。津軽平野の真ん中で、田園に囲まれ、夜空には満天の星が降っている。
平成11年8月13日
東京の、歩けばすぐコンビニという生活に慣れた若い力士にとって、歩いても田畑しかない生活はつらいものがある。それでも昨年までは 信号2つ先のところにコンビニがあった。といっても、信号1つが長く、歩いて15分はゆうにかかるが・・・。今年も乗り込んできた日、車でそのコンビニが近づいてきて新弟子に「買い物をするときは、ここまで歩いてくるんだぞ」といって、通り過ぎながら一瞬静まり返ったあと、大騒ぎとなった。あるべきコンビニの場所が更地になっている。聞けば、火事でもえてしまったらしい。
おかげで、今年は買い物に五所川原市内まで出ないといけなく、タクシー代は1500円程かかるので、1時間に1本のバスを利用することもある。夕方6時55分にはもう最終バスである。
平成11年8月14日
明日の巡業は仙台場所で、前日の今日、宮城県出身力士の激励会が仙台で行われる。宮城県本吉郡志津川町出身の朝千葉も五所川原から参加。五所川原から仙台というのは、意外に遠くて、列車を乗り継いでいくと順調にいっても5時間はかかる。そこで、いったん弘前まで出て、弘前からバスで仙台へと向かう。
昔、谷風という大横綱を生んだ宮城県も現在は、幕内力士は間垣部屋の五城楼ひとり。朝千葉にも頑張ってもらいたいものである。現在合宿に同行している石巻の高校生も来年春には入門予定である。
平成11年8月22日
今日より平塚合宿。バスで運動公園内の研修所に入り、夕方6時より平塚若松部屋を愛する会主催の歓迎パーティ。研修所中庭に、出店やステージ、カラオケを引っ張り出してちょっとしたお祭りである。
生ビール片手に、カラオケや抽選会で会の方々と交流を深める。
平成11年8月24日
年に2回ある全力士健康診断のため、昨夕東京の部屋に戻る。今回は体重と血液検査のみ。今年2月の健康診断の時74,5kgで軽量 力士ベスト10の第4位だった朝天寿、夏やせで2kgやせて、72,5kg。
これでベスト3入りかもしれない。その朝天寿、ひとりで歩いていると、「あ、お相撲さんみたいな恰好してる」とか言われるそうで、おすもうさんだと思ってもらえないのが悩みの種である。
平成11年8月25日
平塚合宿最終日。稽古後、ちゃんこ300食を市民にふるまい、荷物をまとめて茅野市の宿舎三万石からの迎えのバスにて午後1時半に出発。5時前に茅野市に到着。東京・平塚に比べると、とにかく涼しい。
茅野市は標高約700mの諏訪湖のほとりに位置し、諏訪に若松部屋後援会があるおかげで、7年前から毎年夏に合宿でお世話になっている。
平成11年8月27日
早朝雨が降り、空気が冷たく、野外の稽古場では風が吹くと寒さを感じるほどである。
宿舎にしている三万石(さんまんごく)は、今年絶好調のダイエー王監督もひいきにしている旅館で、玄関には王監督のサインやユニホームなどが飾られ、王監督専用の部屋「BIG1」という 部屋もあり、合宿中は親方の部屋になっている。社長は少年野球の長野県チームの監督を務めるほど野球好きで、蓼科の王監督の別荘の管理人もやっているほどである。
平成11年8月28日
ちゃんこ終了後、三万石のバスにて帰京。若松部屋諏訪後援会から贈られた、米150kg、キャベツ10箱、その他野菜を積み込み、力士13人が乗り込むとバスも悲鳴をあげている。帰りは下り坂が多いからまだましだが。
平成11年8月30日
12日初日を迎える秋場所の番付発表。朝乃翔、先場所の好成績で前頭2枚目まで躍進。久しぶりの横綱大関と対戦する地位で、ここで勝越せば初の三役昇進がかかる。
2場所連続優勝で半年で幕下に駆け上がった朝青龍、幕下53枚目。朝住吉が朝大牙(あさたいが)と改名。命名者は勝次郎である。
平成11年8月31日
愛知県出身の朝乃若、大のドラゴンズファンである。ジィアンツとの首位決戦を付人朝迅風をつれてドームに応援にでかけた。ただ、朝迅風と一緒のときは、かなり勝率が悪いらしく、行く前から気にしていたが、案の定 8-0の惨敗で、「やっぱり、小畑(朝迅風)のせいだ」と、嘆いていた。
今期は不調だが、主砲山崎選手は高校(愛工大名電)の2年先輩、イチローは、4、5年後輩である。
平成11年9月2日
国際化の進むアマチュア相撲。9月4日に大阪でアジア大会が開催されるようで、モンゴルチームの一員として来日している朝青龍の兄が、昨日の稽古に参加した。相撲は全然取ったことがないそうだが、レスリングのアジア大会銀メダリストで、全身を筋肉とバネでつつみ込んでいる。四股やぶつかり稽古に汗を流し、久しぶりの兄弟再会に顔をほころばせていた。
旭鷲山とは同級生になるそうで、旭鷲山がベスト4に入ったモンゴル相撲のジュニア選手権で優勝を飾ったそうである。
平成11年9月3日
現在床山のいない若松部屋。一門の東関部屋の、床泉という若い床山さんが部屋に出張してきて、やってもらっている。まだ入門して年数の浅い 床泉、大銀杏を結う稽古を始めたばかりで、一日に一人は大銀杏の練習をすることが、ノルマになっているらしい。 若い力士にとっても、関取のシンボルである大銀杏を結うのはめったにない機会なので、けっこうみんな記念写真をとったりして、はしゃいでいる。 ちなみに朝乃翔、朝乃若の大銀杏は、やはり一門の中村部屋と九重部屋の床山さんにやってもらっている。
平成11年9月5日
若松部屋にニューフェイスが一人加わった。といっても、力士ではなく運転手さんである。名古屋場所で親方の臨時運転手をやっていた浜田さんという人が、正式に部屋付きの運転手として先月末から4階の1室に住み込んで働くことになった。30才、独身である。ただ運転があまりうまくないのが心配だが・・・
平成11年9月6日
初日があと1週間に迫ってきて、稽古もピークを迎える。同時に力士の疲労もピークとなり、細かい怪我や、古傷が再発して稽古をリタイアする力士が何人か出てきた。残り1週間の調整で、万全の体調で本場所に臨まなければならない。先月末からすかしている一人以外は、全力士出場の予定。
平成11年9月8日
きのう今日と、群馬県嬬恋村にあるホテル軽井沢から、プロの板前さんがちゃんこ修行にやってきた。ホテルの和食の方で、今冬からメニューにちゃんこ鍋を加えるそうで、後援会の人の紹介で若松部屋訪問となった。相撲部屋でのちゃんこを、そのままホテルで出すというのは難しいかと思うが、ホテル流にアレンジしておもしろいものが出来るのではないかとおもう。
平成11年9月9日
浴衣のデザインについての質問をいただきました。そろそろ季節が終わってしまいそうです。自分の四股名を入れた浴衣地をつくれるのは幕内力士のみですが、昔は既成のデザインに四股名を染め込むだけというのが殆どでした。ただ最近は、イラストを入れたりして自作のオリジナルなものが多くなっています。色も昔は白か紺でしたが、最近はピンクや黄色、ブルーなどとカラフルな傾向にあります。
平成11年9月10日
取組編成会議が行われ、初日、2日目の取組が決まる。4横綱揃い踏みである。注目の朝乃翔は、新大関出島との対戦。朝乃若は、燁司(ようつかさ)。序二段の朝菊地を先陣に、9人が初日の土俵に上がる。
平成11年9月11日
久しぶりにアンコウの差し入れがあった。ちゃんこ場の流しの前にぶら下げてあるアンコウ解体用のハリガネも、長いこと使われたことがなく、仮面ライダー人形が下がっていたが、久々に本来の用途に使われることとなった。
アンコウを捌くのは、これで4度目だが、今までの中で1番の大物であった。吊り下げて、腹を開けると、中からおびただしい数のイワシ、カレイ、キス、貝に混じって大きな石まで出てきた。「まるで小畑(朝迅風)みたいな奴だな」という、もっぱらの評であった。
平成11年9月19日
少々体調不良で、しばらく「今日の若松部屋」をお休みしました。ご容赦ください。やっと復調したようです。
中日を終え、朝泉が4連勝の勝越し。朝青龍が幕下で3勝1敗と期待通りの活躍だが、あとは、まだ負け越しこそいないものの、苦しい星勘定である。後半戦の巻き返しを期待したい。
平成11年9月20日
今春入門の朝松尾、5月、7月と勝越して番付を上げてきたが、今場所は家賃が高かったのか、今日で早々と負け越してしまった。入門以来朝乃翔の付人をやっている朝松尾、今までは、部屋での洗濯とか掃除だけが仕事だったが、今場所から本場所の支度部屋へも付いていっている。本場所中のまわりに横綱、大関がずらりと並ぶ幕内の支度部屋で仕事をするのは、初めはものすごく緊張するものだが、こういう緊迫感を感じ慣れていくのも強くなっていくことに必要なことである。
平成11年9月21日
朝青龍今日も勝って、4勝1敗と勝越し。今年1月の入門以来、まだ2回しか負けたことがなく、まさに出世の階段を駆け登ってきている。その朝青龍は現在、親方の付人で審判委員をしている親方の紋付袴の着付けなどを手伝っている。
平成11年9月22日
自己最高位で相撲を取っている朝住吉改め朝大牙(あさたいが)。2連勝の好スタートのあと3連敗していたが、今日勝って3勝3敗と星を戻す。場所前から、朝青龍といい稽古をしていて、以前から稽古場ではけっこう力があったが、ようやく本場所でも力を出せるようになってきた。今場所十両で優勝争いのトップにいる追風海(はやてうみ)とは、大学で同学年である。
平成11年9月24日
朝青龍、最後の1番も白星で飾って6勝1敗。幕下で全勝だった力士が今日敗れた為、千秋楽6勝1敗の7力士による決定戦となった。3場所連続優勝の可能性がでてきた。
朝乃若、昨日の相撲で嬉しい勝越しを決める。朝乃翔、2勝7敗と追いつめられてから4連勝。あと2日間白星を重ねれば、待望の三役昇進が見えてくる。明日は武双山との対戦。
平成11年9月25日
朝乃翔、武双山を破って7勝7敗までこぎつける。審判として土俵下で見ていた親方も、思わず声を出しそうになったそうで、非常に価値ある1勝である。明日の千秋楽は、勝越し、三役昇進の夢をかけて琴乃若と対戦。
また、幕下では朝青龍が優勝決定戦に出場。ここ数日の追い込みで、勝率もついにちょうど5割までまきかえしてきた。 最後にきて、若松部屋にとって、夢膨らむ秋場所千秋楽を迎えることとなった。
平成11年9月26日
千秋楽。3勝3敗で臨んだ朝大牙と朝迅風、共に自己最高位での勝越しを決める。朝青龍に刺激されて確実に力をつけてきた。その朝青龍、幕下優勝決定戦に出場。1回戦で、来場所の十両復帰がほぼ確実な十文字(立田川部屋)を1直線に突き出す。つづく巴戦で敗れるも、元十両、最終的に優勝を決めた彩豪(さいごう)にも最初の相撲では勝ち、全国の相撲ファンに存在感を十分に見せてくれた。
千秋楽が大一番となった朝乃翔。善戦するも、惜しくも敗れ、勝越しと夢の三役昇進を逃すが、大いに自信となった秋場所だったことであろう。勝率5割に1勝とどかず。
平成11年9月28日
昨日から場所休みに入って、朝の稽古はないが、月曜日は大掃除やら関取の開荷を開いて締込みを干したりと、けっこう忙しく、今日からがほんとうにのんびりできる休日となる。おすもうさんにとっては、ゆっくり朝寝をできるのは、なによりのぜいたくである。
今日の若松部屋
平成11年10月1日
力士は、チョンマゲが結えなくなったら引退しなければならないのか?という質問をいただきました。相撲協会の規定には、そういう規定は一切ありません。ただ、引退の時に断髪式をやるのでもわかる通り、チョンマゲあっての相撲取りという意識はあります。
先々代の春日野、横綱栃木山という力士は、優勝を重ねている最盛期に突如引退して、チョンマゲが結えなくなったので引退したのでは、という噂になったそうで、そういう所からこの話が出ているのでしょう。
平成11年10月2日
旭豊引退立浪襲名披露大相撲が国技館にて行われる。こういう花相撲のときの支度部屋は、本場所のときとは打って変わって、後援会のお客さんたちが記念写真を撮ったり、サインを貰ったり、雑然とのんびりとした雰囲気である。力士の顔つきも全く違う。
今日から稽古再開。幕下で優勝決定戦にまで出た朝青龍、入門以来の好成績で里帰りが認められ、今日モンゴルへ出発。飛行機で4時間、すでに雪が降っているそうである。
平成11年10月3日
夏場所後に引退した元小結大翔鳳関の断髪式が都内のホテルで行われ、若松部屋の両関取もハサミを入れに参加。現在、膵臓ガンで入院治療中であるらしく、大きくおちた紋付の肩が痛々しかったそうである。相撲で培った気力、体力で病魔に打ち勝ち、現役時代の颯爽たる元気な姿に再び戻ってもらいたいものである。
平成11年10月4日
今年3月入門の朝松尾と朝菊地、秋場所後に相撲教習所の卒業式を終えた。教習所に通っている半年間はいわば見習い中で、ちゃんこ番には入らずに後片付けの手伝いや、洗い物をするだけである。
今日から正式に、ちゃんこ番のローテーションの中に加わり、兄弟子に教わりながら米研ぎや包丁を握って野菜を切ったりと、ちゃんこ修行が始まることになる。
平成11年10月6日
番付表について、十両の力士の上にも前頭とかいてあるのはなぜか、序二段あたりの上に書いてある『可』のような文字は何の意味か?という質問をいただきました。
前頭というのは、幕内力士の地位のような使い方もしていますが、本来は“前相撲の頭”という意味で、前相撲を卒業して番付に載った力士は全員前頭になります。それで、十両の力士の上にも前頭と書いてあります。幕下以下も前頭なのですが、省略して、同じくの『同』という文字が書いてあります。三段目以下は、同の文字も更に簡略化されて書いてあります。
平成11年10月7日
友綱部屋と東関部屋がくる。久しぶりに土俵が大人数で活気に溢れている。午前9時、先場所の怪我で巡業を休む横綱曙も稽古場に姿をあらわす。まだ稽古はできないものの、若い衆の指導に精力的である。
巡業組、午後3時、明日からの秋巡業初日の会場となる小田原市へ国技館からバスにて出発。名古屋、四国、中国地方を廻って行って、最終24日の広島場所までけっこう長い旅である。
平成11年10月8日
今日も3部屋合同の稽古。東関には、今場所惜しくも十両昇進を逃した昨年度アマチュア横綱加藤をはじめ3人の幕下力士がいて、友綱にも中央大学出身の田中という幕下力士がいるので、なかなか白熱した申し合いを繰り広げている。その中に、今場所三段目自己最高位で勝越した朝大牙(あさたいが)も加わって、たまにめを出したりしていていい稽古になっている。
平成11年10月9日
東関部屋のちゃんこ長は、高見昇というベテラン力士である。若松部屋の地下にある、大阪のスーパーコノミヤ(おかみさんの実家)から送られてきたいろんな調味料類を見て、「いちいち買わなくていいからいいですね」と、お互いちゃんこの材料には日々苦心がある。かなり余っている物を持ってかえって貰い、明日は東関部屋に大量にあるスパゲッティをもらうことになった。
平成11年10月10日
モンゴルに里帰りをしていた朝青龍、一週間の休暇を終えて帰国。モンゴルでは狼狩りをしたり、馬乳酒を飲んだりと久しぶりの故郷を満喫したようである。ただ食事の方は、ちゃんこに体が慣れてしまっているので、肉ばかりのモンゴル料理には少々辟易したそうである。
平成11年10月11日
東京外語大学に研究生として留学中のモンゴル人の新聞記者が、モンゴルのスポーツ新聞を持って部屋に訪ねてきた。朝青龍がモンゴルに帰国した記事が写真入りでデカデカと載っている。お父さんやお兄さんもモンゴルでは有名人なので期待も大きいようである。
お土産に持って帰ってきた自家製の馬乳酒を飲み交わしながら、モンゴル話に花がさいている。馬乳酒は、秋が一番飲み頃でそれぞれの家庭独特の味があるそうである。
平成11年10月12日
行司や呼出しの昇進について質問をいただきました。行司や呼出しの昇進は、原則的には年功序列です。上の人が定年で辞めていくと、順次昇進していきます。ただ立行司(庄之助や伊之助)への昇格の場合は、順番でなく審査があります。下の方の行司でも年に何回以上とか、差し違いをやりすぎると昇進に影響があるようです。
平成11年10月15日
一昨日、昨日と友綱部屋での合同稽古。今日、明日は東関部屋での稽古となる。東関親方は、ご存知元関脇高見山なので、お客さんにも外人さんが多い。この日も、ハワイアンツアーと称して大型バスで外人さんばかりの団体がハワイから稽古見学にきていた。地下の冷凍庫の中にもハワイアンミートと書いてある、大型ハンバーグなどの差し入れがいっぱいである。
平成11年10月17日
水曜日から先発隊が九州出発のため、今日から夕方の掃除が大掃除となる。4時から7時まで地下と1階を磨く。
九州場所が近づくと思い出す人がいる。故人になってしまったが、阿部さんというタクシーの運転手さんは、いろいろな想い出と伝説を残していった人であった。阿部さんは小柄である。お酒が好きでいつも酔っ払っていた。
最初に若松部屋に登場したのは、東区八田に部屋のあった先代房錦の親方の頃、かれこれ17、8年前になる。先代の親方も阿部さんをすぐに気に入って、晩の部屋のちゃんこに招待した。
阿部さん、焼酎のお湯割りを飲んだ。しこたま飲んだ。歌がでた。阿部さんは酔うと、サブちゃんの兄弟仁義がおはこであった。歌うと踊った。踊りは名取であると自分で言っていた。みんな大受けであった。腹を抱えて笑った。阿部さんが帰ったあと、それまでビールを飲んでいた親方が、「いやー、面白かった なぁー。おれにも焼酎を一杯くれ。」と、焼酎のお湯割りを飲むことになった。そこから、阿部さんの伝説が始まった・・・
平成11年10月19日
焼酎のお湯割りを口にした親方、怪訝そうな顔をしている。「おい、これちょっと飲んでみろ」
差し出されたお湯割りを口に含む。「ん?」 確かに変である。焼酎の香りはしないでもないものの、味がない。ほとんど白湯である。
焼酎のビンを確かめてみた。中味は確かに水であった。鍋に注ぎ足す水を焼酎のビンをよく洗わずに入れてあったものだから、においが残っていて間違えたらしい。水のお湯割りである。「しかし、阿部さん酔っ払っていたよな」「はあ、踊りも出ましたしね」「う~ん・・・」
とても演技をしていたような酔い方ではなかった。「まあいい、あした阿部さんきたらあやっまておけ」・・・
平成11年10月20日
翌朝、阿部さんが部屋に登場した。「阿部さん、昨日はすんませんでした。じつは・・・」、と言いかけると、阿部さんが嬉しそうな顔で 口を開いた。「やっぱ牛乳はよかばいねー」・・・「はあ」阿部さん曰く「昨日は親方と飲むから、部屋に行く前に牛乳を2本飲んできたばい」「おかげであんまり酔っぱらわんかったたい」
さすがにあれは水のお湯割りでしたとは、言えなかった。
若松部屋を心から愛してくれた阿部さん、今年も天国から声援をおくってくれていることであろう。
先発隊5人、博多入り。ご存知やっさんの奥さんとお父さんの迎えの車で、二日市の宿舎へ入る。
平成11年10月22日
阿部さん亡きあと、九州場所に無くてはならない存在となっている、おまわりさんの「やっさん」。今年も家族ぐるみで、なにかと世話を焼いてくれている。昼飯は、やっさんの奥さんの働くほかほか弁当の差入れだし、夜のちゃんこは奥さん特製のキムチ鍋である。
息子の「けんと」 も1年生になったが、一向に大きくならず、ランドセルが歩いているようである。部屋中を走り回って、走りつかれたのか「ふじっちと寝る」といって、朝天寿のふとんに入り込んで寝ている。小兵力士朝天寿も、クラス一小さい「けんと」と並んで寝ると、セミが止まる大木のようなものである。
平成11年10月23日
やっさんは、九州の若松部屋に無くてはならない人だが、やっさんの奥さんはもっと無くてはならない存在である。先発力士の割安航空券の購入から親方の車や運転手の手配、邦夫が腰の調子が悪いと聞くと早速薬屋さんが薬箱を持って登場と、どんな問題でも電話1本であっという間に解決してしまう。まさにスーパーウーマンである。
酔ったときのやっさんに言わせると、「あげまんたい」と、いうことである。
一門の呼出しさんが来て土俵作り 。真新しい土俵が完成。
平成11年10月24日
親方の大学時代の後輩に嶋川さんという人がいる。野球部だったが、ゆうに140kgはあり、ぱっと見た目いかにも相撲関係者である。数年前まで福岡勤務が長く、阿部さんや、やっさんとも旧知である。現在は大阪住まいだが、たまたま九州に来ることになって、新幹線に飛び乗ったらその新幹線が相撲列車で、力士を迎えに来ていたやっさんとばったり会った。先に車に乗り込んでいた勝次郎、遠目に見て芝田山親方がやっさんと一緒に歩いてくるようにみえたらしい。嶋川さんだとわかって更に驚きであった。
親方や巡業中だった関取達も博多入り。いつもは大阪で世話になっている嶋川さんも加わり、全メンバーが博多に出揃う。
平成11年10月27日
ダイエーホークスの日本シリーズで沸き立つ博多の町。西鉄天神駅の街頭テレビの前にも3時頃から陣取っての応援団が溢れている。ダイエーの優勝が決まるまでは相撲どころではないようで、大相撲の切符の売れ行きは芳しくないようである。
平成11年10月28日
九州場所といえば、とんこつラーメンである。元来おすもうさんは、デブが多いので脂っこい物は大好きである。九州にも「九州Walker」なる雑誌があり、その中に「とんこつラーメン」ベスト10なる特集がある。その1位と2位が宿舎の二日市の近辺にもあるので よくいく。東京にも博多ラーメンの店が所々あるが、全然味が違う。東京で消えてしまったもつ鍋屋もしかりである。
流行に流されない、独特の文化を保っている良さがあるのであろう。ダイエーホークスの優勝もあり、元気いっぱいの博多の町である。
平成11年10月31日
宿舎のすぐ横にスーパーダイエーがある。夜の12時まで開いているので、コンビニ感覚でよく利用する。店内には、日本シリーズ前からホークス応援歌が流れつづけていて、買い物に行く度にいやがおうなしに耳に入ってくる。ドラゴンズファンの呼出し邦夫も、福岡入りしてから2週間近くも聞かされつづけ、洗脳状態に陥っているらしく、ふと気づくとホークス応援歌を口ずさんでいる自分に気付き、くやしい思いをしているそうである。
明日まで、優勝感謝セールは続く。
平成11年11月1日
11月4日(木)に“大相撲九州場所前夜祭”が福岡国際センターで行われます。午後3時から午後5時半までで、横綱土俵入りや相撲甚句、力士のど自慢、初っ切りなどがご覧になれます。
平成11年11月3日
九州場所の季節になると、若松部屋一色のやっさん家。若松部屋から歩いて3分の家の庭には、朝乃若、朝乃翔の相撲幟も、やっさんと奥さんのお父さんの連名で2階の屋根を越えてはためいている。
庭に幟が立っているものだから、若松部屋と間違えて訪ねてくる人も多く、今日も朝天山の親戚が、やっさんの家のチャイムを鳴らし、出てきた関東龍に案内されて部屋までたどりついた。相撲取りもしょっちゅう出入りしているので、近所の人でもやっさんの家が若松部屋宿舎と思っている人がいるそうである。代わりにやっさんは昨日から若松部屋泊りである。
平成11年11月7日
1年締めくくりの九州場所初日。横綱二人が揃って敗れる波乱の幕開けとなったが、若松部屋両関取も黒星スタート。1週間前にふくらはぎを肉離れしてしまった朝乃翔、鍼治療の成果もあってかなり状態は良くなったが、場所前の稽古不足は否めなく不安のスタートである。若い衆は2人勝ち、2勝2敗の初日であった。
平成11年11月9日
先場所6勝1敗で優勝決定戦まで出た幕下の朝青龍。秋場所後の東京での稽古の時に、足の親指のつけねを剥離骨折してしまい、稽古を再開したのがようやく1週間前からである。今場所は、27枚目まで番付を上げ、心配されたが、"ものがちがう" ようで、2連勝と勢いはまだまだ止まらない。
朝乃翔、今日の1番で脚を痛め、明日からの土俵が心配である。
平成11年11月10日
本場所の取組に行くのに、二日市から博多まで電車を利用している。二日市にはJRと西鉄の駅があり、駅まで少し距離があるので、自転車を利用する。駅には駐輪場があるにはあるのだが、少し離れていたりいっぱいだったり、自転車を止める場所には毎日苦労している。ただ、JRの駅前には交番があり、去年までやっさんが勤務していたから若松部屋は顔がきいて、JRを利用する場合は交番に自転車を預けて電車に乗れる。駐輪場に止めるよりも安全な場所である。
平成11年11月13日
今年2回目のアラの差入れがある。アラちゃんこは、九州場所の楽しみの一つである。刺し身や鍋もうまいが、脂ののった締まった身は唐揚げでも絶品である。魚は15Kgから20Kgほどもあり、キロ1万円もする高級魚だが、高いだけのことはある。ただ、捌くのにはかなり骨が折れるが・・・ 明日はアラ鍋である。
三段目13枚目と、勝越せば幕下昇進の可能性もある朝迅風、いい相撲で勝って2勝2敗と五分の星。
平成11年11月14日
取組を終えて部屋に戻る朝乃若、小腹の足しにと、たこ焼屋に若い衆を連れて寄っていた所、外から「たこ焼ごっつぁんでーす」と声をかけられたらしい。顔を出すと、5年前に引退して、故郷の宮崎で運転手をしているはずの元小桜の姿があった。休みを利用して、二日市まで遊びに来たところ、偶然にもたこ焼屋に入る朝乃若を発見した、という訳である。現役時代は、185Kgの巨体を誇った元小桜、いまだに食い物には縁が強いようである。
朝泉と朝青龍、4連勝と早くも勝越しを決める。
平成11年11月18日
朝ノ霧、今場所5人目の勝越し。昨日まで、幕下以下では負越し力士がいなかったが、朝菊地が第1号、続いて朝迅風と二人負越しとなる。1年納めの九州場所、今のところ辛うじて5割を超える成績で、若い衆にとっては残り1番となる3日間を残すだけである。
平成11年11月21日
千秋楽。最後は朝乃翔が会心の相撲で最後を締め、56勝51敗と5割を超える成績で、1900年代納めの場所を終える。
晩、二日市温泉大観荘で千秋楽祝賀パーティを行う。みんなの期待を背負ってやっさん、ヒョウがらの衣装に鈴木その子マスクで歌に合わせて舞台に登場。やっさんに始まり、やっさんで終わった九州場所であった。
平成11年11月23日
今日から金曜日までが、力士にとって一番のんびりできる期間である。日ごろできない夜更かしして、思い切り朝寝をして、と時間を気にせずに一日を過ごすことが気分転換のひとつである。この1週間は、夜の中洲におすもうさんがあふれていることであろう。
平成11年11月25日
やっさんの次男、小学1年生の”けんと”。家から学校へ行く途中に若松部屋があるものだから、行き帰りに必ず部屋に寄って「いってきまーす」「ただいま」と挨拶をしていく。一緒にいた同級生の子が、「なんで、ただいまーていうと?」と聞くので、「けんとは若松部屋の子だ」と言うと、「へぇーすごーい」と目を丸くしていた。ちょっと照れて、はにかむ”けんと”であった。
朝から若い衆2組、飯塚と小倉の幼稚園を訪問。巡業行きや東京へ送る荷物をまとめはじめる。
平成11年11月28日
新幹線にて帰京。博多駅までは、やっさんの奥さんの車で送ってもらう。途中、今日は勤務のやっさんの交番に立ち寄りお別れする。制服姿のやっさんを見るのも久しぶりで、さすがにまじめな顔をしていて笑えてしまう。
昨日は、非番だったやっさん、掃除を手伝いながら「寂しくなるなー」を連発していた。やっさんの代わりに、けんとが博多駅まで見送りに来る。車を降りたところで一度さよならしたが、おすもうさんが去った後泣き出したそうで、再び改札まで上ってきた。楽しかった九州場所も、また一年後である。
平成11年11月30日
まわしについての質問をいただきました。関取が土俵入りの時締めているまわしは、“化粧まわし”といって、取組の時に締める“締込み”とは別のものです。素材は両方とも絹織りですが、織り方に多少違いがあるようです。元の形は、両方とも一枚の帯状のものですが、化粧まわしは先端に刺繍などで模様が入っていて、前を垂らして締めます。締める時は六つ折りで締めます。
持っている数は、若松部屋の関取の場合ですと、締込みが2本、化粧まわしが4、5本という所で、幕内力士の平均的なところだと思います。 締込みの数はそんなに変わらないのでしょうが、地位が三役、大関、横綱と上がっていくと、化粧まわしは昇進の度に後援会筋から贈られますので増えていくようです。親方は、引退する時には15、6本あったようです。
平成11年12月3日
朝青龍の活躍に刺激されて、高知明徳義塾高校相撲部から後輩が二人入門することになった。一人は、朝青龍と同じモンゴル出身ダシ君で、今年のインターハイベスト8まで行ったそうである。もう一人は、親方待望のクニモン、高知県土佐市出身の久保君である。共に初場所デビューの予定である。
平成11年12月4日
闘病中だった元小結の大翔鳳親方が亡くなったそうである。残念である。さぞや無念であったろう。
何度か言葉を交わしたことがあるが、礼儀正しく快活で若い衆の面倒見も良く、いい指導者になったであろうに返す返す残念である。ただただ、ご冥福を祈るばかりである・・・合掌。
平成11年12月5日
先日来、東関部屋が出稽古に来ている。殆どの力士は横綱に付いて巡業に出ているが、残り番で4名の力士が来ている。その中に、来場所新十両を決めた日大出身加藤こと高見盛(たかみさかり)もいて、朝青龍と二人で三番稽古をやっているが、まずまず五分に渡り合っている。来場所が楽しみである。
平成11年12月6日
現在巡業は、九州各地をまわっているが、昨日鹿児島での巡業を終え、今朝未明フェーリにて奄美大島に入る。10時間の船旅である。徳之島出身の一ノ矢もご当所力士ということで、空路東京から奄美大島入り2日間だけの巡業参加である。相撲会場となる笠利町は、現親方が部屋を引き継いだ頃、合宿をはったこともある所で、親方の知人もおり、早速若松部屋激励会も行われる。
平成11年12月12日
昨日土俵つくりを行い、2、3日乾かさなければいけない為、稽古休み。明日からは、友綱部屋へ出稽古の予定。本所3丁目町内会のもちつきがあり、助っ人に駆けつける。江戸川の幼稚園にも2人出張。年末はなにかと忙しい。夜9時、沖縄より飛行機で巡業組帰京。
平成11年12月13日
友綱部屋へ出稽古。昨晩帰って来た巡業組は、今日は稽古休みである。
平成11年12月19日
去年まで年末恒例だった野球大会に代わり、ボーリング大会をおこなう。平和島ボウルにて2ゲーム投げたあと、昼食、クアハウスで入浴。その後大森にて、地元後援会とカラオケでの懇親会。ボーリングでは、すっ転んだもの2名、指が穴に入らなくて手にのせて投げたもの1名あり。
平成11年12月20日
九重部屋が出稽古に来て、力士で溢れんばかりの稽古場となる。土俵をずらりと力士が囲むと、熱気にあふれ、稽古にも活気が出てくるものである。
平成11年12月21日
高知明徳義塾高校相撲部が合宿に来る。初場所入門の2人を入れて計7人。久しぶりに2階の50畳の大広間が埋まってしまう。27日まで合宿の予定。朝の稽古、TVカメラが入る。フジTV午後2時からの番組で、坂本イッセイが体験入門という企画で、24日木曜日放映らしいが、詳しいことはあまりわからない。
明日の番付発表の準備で、大忙しの一日であった。
平成11年12月23日
昨日発表になりました2000年初場所番付です。朝乃若は 西前頭2枚目、朝乃翔は西前頭8枚目。注目の朝青龍は幕下12枚目、7戦全勝だと十両に昇進する地位である。
平成11年12月24日
初場所の新弟子検査が行われ、若松部屋からも先日紹介した明徳高校のモンゴル出身ダシニャム君と高知県出身久保君が合格。全体で11人受験したそうだが、二人身長が足りなく不合格だったそうである。四股名はまだ決まっていない。
午後3時、力士会を終え関取が帰ってきた所で、おかみさんがクリスマスプレゼントとケーキを用意して、ささやかにクリスマスを祝う。甘いもの目がない朝天山、ケーキを一気食いしすぎて倒れそうになっていた。
平成11年12月25日
明日は年末恒例のもちつき大会のため、午後からもちつきの用意で大忙しの一日。昨年のもちつき大失敗事件(平成10年12月27日の日記)を教訓に、今年は江戸川からも、もちつき助っ人軍団がやってきて、もち米の点検や下準備をやってくれる。今年こそは準備万端である。ちょうど明徳高校相撲部も合宿に来ているので、つき手も頭数が揃っているし、明日は順調にもちつき大会が進行することであろう。
平成11年12月26日
1999年もちつき大会。午前6時より用意を始め、7時過ぎからもち米をふかし、8時頃よりつきだす。
昔から、段取り8分とは言ったもので、 昨年の大騒動がうそのように快調に進んでいく。後援会のお客さんも9時過ぎから顔を見せ、つきたてのもちと豚味噌ちゃんこに満足そうである。合宿中の明徳相撲部の高校生の活躍もあって、12時半には180Kgのもち米をつきあげ、午後2時には 片づけも全て終了。
今年も残すところあとわずかである。
平成11年12月28日
九重部屋から大関千代大海と千代天山が、ひょっこり出稽古に来る。朝青龍、大関に胸を出してもらい、感激すべき一日となった。稽古終了後の大関、朝天寿をつかまえて、頭上高々とさし上げる。いくら軽量とはいえ、すさまじきパワーである。
平成11年12月30日
稽古納め。稽古終了後、最終的な大掃除、お飾りをかざり、ちゃんこ終了後全員集合して、親方からお年玉をもらい解散となる。 各自お正月は実家で迎え、2日に部屋に戻り、新年3日から稽古始めである。
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