今日の若松部屋
平成12年7月1日
元関脇岩風について質問をいただきました。岩風は“潜航艇”の異名をとり“褐色の弾丸”房錦と同時期に関脇をはり、横綱大関を大いに苦しめた名力士である。江戸っ子気質の房関に対し、寡黙でインタビューなどでは新聞記者泣かせの昔気質の力士だったようで、引退後はすぐ相撲界を離れたようである。手元に資料がないので確かでないが、平成元年頃ひっそりと亡くなったようで、房錦の3代目若松も新聞か相撲雑誌でその事を知ったほどであった。ちょうど名古屋場所の頃であった記憶がある。房錦がこの世を去ったのも平成5年名古屋場所後である。
平成12年7月3日
元房錦の3代目若松は、酒が強かった。自分が入門した頃は、まだ50前で、一緒に飲みに連れて行かれると、「相撲取りは、酒はこうやって飲むものだ」と、日本酒にしろ水割りにしろ殆ど2口で飲み干した。現役時代は巡業宿で、宿にある徳利を一人で全部飲みきったこともあったそうである。50の声を聞いてから、持病の糖尿病に加え、肝臓、高血圧、胃潰瘍などの病を併発し、平成2年現在の親方に若松を譲った。
平成12年7月4日
元房錦の先代は、部屋を譲った後栃木県の鹿沼に別荘を建て、療養生活を送っていた。現若松4代目へと引き継がれた弟子7人。しばらくは、鹿沼へと足を運んでいたが、病状が悪化して弱った姿を見せたくないという気持ちと、新しい親方の元でしっかりやってくれという気持ちがあったようで、鹿沼へ弟子が来るのを禁じた。
平成5年7月、胃潰瘍からの出血多量で息をひきとった。
平成12年7月5日
現立行司29代木村庄之助親方は、房錦の父、式守錦太夫(きんだゆう)の養子であり、先代若松とは兄弟にあたる。房錦の葬儀は、本人の強い希望もあり密葬で行なわれたが、相撲関係者で参列したのは庄之助親方と床義さんだけであった。病に苦しんだとはとても思えない、穏やかな顔だったそうである。
伊藤光博氏から正確な情報を提供いただきました。岩風さんが亡くなったのは 昭和63年4月30日だそうです。ありがとうございました。
平成12年7月7日
昨日行なわれた激励会。キャッスルホテルにて300名を超す盛会となる。
平成12年7月8日
初日前の土曜日とあって、見物客も大勢土俵の周りを取り囲んでいる。稽古終了後、毎年恒例となっている、宿舎龍照院の「十一面観音」に無事と必勝を祈願。816年前に彫られた観音様で、重要文化財である。祈祷のあとご住職に、「願う事は大切ですが、願った事に対して努力することがもっと大切なことです」との言葉をいただき、明日からの本場所に向け誓いを新たにする。
午後2時、触れ太鼓が明日からの取組を触れに来る
平成12年7月9日
先場所、肘の怪我で十両陥落を余儀なくされた朝乃翔、弱り目にたたり目状態で、名古屋へ入る1週間ほど前から腰の調子をおかしくしてしまった。いろんな所で治療に努めたが、思うように回復せず、今朝になっても相撲を取れる状態でなく、無念の休場となった。
全休すると十両からも落ちてしまう為、中途出場の心づもりだが、力士生命をかける2週間の日々となる。
平成12年7月10日
幕下2枚目の朝青龍今日が初日。相手は、先場所唯一の黒星を喫した力士との再戦。相撲内容には不満だったそうだが、まずは白星発進。三段目に昇進した朝赤龍も勝って、今場所もモンゴルの青と赤の龍が土俵上で大いに暴れてくれそうである。
平成12年7月11日
蟹江の部屋から愛知県体育館まではJR蟹江駅から名古屋へ出て、名古屋駅から地下鉄、またはタクシーで場所入りする。部屋から蟹江駅までは自転車で6,7分の距離だが、朝乃若の付人の朝菊地、帰りは関取のタクシーで一緒に帰ってくる為、駅まで歩いていく。ところが今日は出掛けに用事が入り、出るのが遅れてしまった。
電車を1本乗り過ごすと、次は30分後の為、駅まで必死に走り、駅に着いた時は浴衣が汗でビショビショであった。それがいい準備運動になったのか、長い相撲もねばって自己最高位での初日。入門して20Kg 近く痩せてしまっていたが、2年目に入り生活にも慣れてきたようで、ようやく入門時の体重にもどりつつある。
平成12年7月12日
宮城県石巻出身の朝花田、いかにも東北人らしい純朴な少年である。慣れない生活に失敗も多く、体重もこの春から10Kgほど減ってしまっている。おまけに場所前に肩を怪我して1週間ほど稽古を休んだ。不安なうちに迎えた名古屋場所だったはずだが、2連勝と結果を出している。
今日の相手は、先場所朝松本も対戦した195cm200kgのロシア人力士大露羅(おおろら)である。舞の海ばりの猫だましから、横に食いつき、土俵際下手ひねりの勝利で、思わずガッツポーズがでた。
集中すると、我を忘れるタイプで、土俵下審判から注意を受けてしまったが、目指すは舞の海2世である。
平成12年7月13日
地方場所はプレハブ建てのため、トイレも汲取り式の仮設トイレである。ここ連日の真夏日で、日中このトイレに入るのは、かなり心してかからねばならないが、10日前に汲取って貰ったのがそろそろ満員御礼状態になってきた。ただ、部屋のある蟹江近辺はまだ水洗トイレがそんなに普及してなく、一般家庭も汲取り式が多い。
汲取り依頼の電話をした朝ノ土佐、「いま2日後まで予約がいっぱいですので、2,3日あとになります。それまで何とか頑張ってください」との返答をもらった。「なにを頑張れっていうんですかね」と不思議がっていた朝ノ土佐、3連勝と今場所も好調である。
平成12年7月14日
朝青龍、初めて十両の土俵に上がり、琴岩国を破って4連勝の勝越し。これで来場所の十両昇進がかなり濃厚になってきた。ちょうど故郷のモンゴルではナーダムの祭典中で、モンゴル相撲の大関の次兄、今年はベスト8で敗れてしまったそうだが、朝青龍の活躍に、少し体調を悪くしているお母さんも電話口で涙して喜んでくれたそうである。
平成12年7月15日
序ノ口の朝花田と序二段の朝ノ土佐、揃って4連勝とストレートの勝越し。逆に朝ノ霧、今日の相撲も取り直しの末敗れて、4連敗と早々の負越し。場所前に肩を怪我したり、初日の相撲では勇み足で負け(日刊スポーツでは“もろ出しの次は足出し”と出ていた)と先場所の騒動から未だ抜け出せないでいる。来場所は序二段落ちである。
平成12年7月18日
途中出場に向けて、各所で治療にあたり、夕方もまわしを締めて四股を踏み、再起を期していた朝乃翔だが、苦渋の選択の末、今場所の全休を決意した。来場所は幕下からの再起となるが、中途半端で出て悔いを残すよりも、落ちるところまで落ちても体を完全に戻し、もう一度三役に挑戦する、というハラを括っての決断である。力士生命に関わる怪我により、自分の体や相撲に対する気持ちが今までとは比べ物にならないくらい変わってきたようで、災い転じて福となすことを願うのみである。
その朝乃翔の付人の朝ノ霧、先場所の騒動以来8連敗を続けていたが、ようやく久々の白星。あまりに久しぶりで、今日も勝ち名乗りを受けるのを忘れて、礼をしたらすぐ土俵を下りかけてしまったそうである。
平成12年7月20日
15才の朝松本昨日の一番で2場所連続の勝越し。5連勝だった朝花田と朝ノ土佐に土がつくが、朝青龍は6連勝と勢い衰えず、明日の一番にすでに決定的となっている十両昇進に華をそえる幕下全勝優勝をかける。
三段目の朝迅風は5勝1敗で、最後の一番に幕下昇進をかける。
福井県敦賀市から、夏休みを利用して高校3年生が今日から体験入門。相撲が好きで先生に相談したところ、若松部屋HPを見ていた先生から連絡が入り体験入門となった。伸長体重ともに少々足りないが、入門が叶えば初のIT関連力士の誕生となる。
平成12年7月21日
梅雨明け以来、町全体が熔けてしまうような暑さがつづく名古屋だが、今日も夜明けと共に暑い一日となった。
その暑さも吹き飛ばすように、朝青龍期待通りの幕下優勝。そして幕内では、横綱曙が3年2ヶ月ぶりの優勝。最近稽古や合宿等でともに過ごしてきただけに、若松部屋力士一同にとっても最高にうれしい優勝であった。朝青龍が優勝できたのも、横綱に稽古をつけてもらった賜物である。
平成12年7月22日
国技館や他の地方場所は、支度部屋が完全に東西に分かれて、そこに風呂もついているが、名古屋場所だけは、支度部屋は板で仕切られているだけで出入り口は一緒で、風呂も資格者用と若者用とに分けられているので、対戦相手同士が風呂場で殆ど一緒になる。最後の一番は3勝3敗 同士の対戦も多く、勝越し負越しと明暗を分け、風呂場でも表情は様々である。ただ一様に、今場所も今日で終わったという安堵感だけはどの顔にもある。
今日、今場所最後の一番を3勝3敗で迎えた朝ノ浜、横浜からお父さんが応援に駆けつけていたが、残念ながら負越してしまった。取組後、食堂で一緒に飯を食いながら、「頑張れ」とだけいって横浜へ戻っていった。
平成12年7月27日
昨日、秋場所の番付編成会議が行われ、朝青龍の十両昇進が正式に決定。午後1時より、千秋楽打上パーティーを行った尾張温泉にて親方同席での記者会見。魁皇の大関昇進で少し扱いが小さくなったが、入門10場所目史上5位のスピード昇進は、報道陣も多数集まり、若松部屋というより、相撲協会全体の期待の星誕生というムードである。
平成12年7月28日
土日わんぱく相撲で部屋に選手が宿泊するため、3力士と呼び出し邦夫帰京。残りは日曜日の新幹線で帰るが、今日午前で荷造りをして、午後いちで東京へ荷物を送る。トラック一杯117個の荷物である。先に帰った力士が、到着した荷物を片づけるが、玄関いっぱいに溢れて、地下から4階の関取の部屋まで荷物をふりわけ、運び終わるのは半日がかりの仕事である。
平成12年7月30日
新弟子にとって初めての地方場所は、地理もわからず何かと不慣れである。宿舎の寺をでてすぐ左に、お茶屋があるが、そこで宅急便も扱っている。ところが、その100m程先にも「出逢茶屋」という大きな看板の出たカラオケ喫茶がある。宅急便を頼まれた朝ノ土佐、「あ、お茶屋わかりますよ。」といって荷物を持って、「出逢茶屋」の二重扉を開けて入っていった。「すいませーん。宅急便お願いしたいのですが」中では、おじぃとおばぁが、歌っていたらしい。「えー」「なぁにー」「えー」大音響の中、3度の問答の末、ようやくここは宅急便屋ではないと気付いた。「だまされた」と思いつつ、帰りがけ、小さな看板のお茶屋をようやく見つけた。
午後1時28分発。ひかりの4車両を満杯にして、名古屋から全力士帰京。
平成12年7月31日
十両昇進の決まった朝青龍、8月6日から12日までモンゴルに凱旋帰国することになり、パスポートの手続きや大使館への挨拶と多忙である。昨日は、博多から小川屋さんが来て、化粧まわしや締込み、紋付き袴、夏大島の着流し、帯、・・・、関取としての一式を揃える為の打ち合わせ。化粧まわしは今の所、母校明徳と青森の後援者からの2本だが、もう2本くらい増えそうである。
平成12年8月1日
今日から青森五所川原合宿。一ノ矢、朝天山、朝青龍、朝ノ浜、朝赤龍、朝ノ土佐の6力士に、高知ろう学校の高校1年生も加わり7人。この生徒は、障害を持ちながらも小学校の時から相撲をやり、昨年度は高知県の中学校大会で準優勝もはたしたそうである。普段は高知高校に出稽古に行っているそうだが、夏休みで稽古相手がいなくなるため、若松部屋合宿に一夏参加することとなった。
平成12年8月2日
昨日の乗り込みの日は、東京と変わらぬ暑さだったが、今日は暑いなりにも風が吹き抜け、さわやかさを感じる一日となった。宿舎にしている江良産業は、生コンやガソリンスタンドを経営している会社で、千坪ほどの敷地内に相撲道場や温泉(ぬるいが)まである。五所川原市といっても隣りの金木町との境で、2階の窓を開けると、涼しい風と共に、津軽平野の青田が視界いっぱいに飛び込んでくる。数日後、朝青龍と一緒にモンゴルに里帰りする朝赤龍、「モンゴルの草原みたいね」と、すでに心は故郷にとんでいる。
平成12年8月3日
手形を押してサインを書けるのは十両からである。来場所から十両に上がる朝青龍、番付発表後に昇進祝もあるため、サインの練習もしなければならない。この後、8月21日の番付発表まで、モンゴル帰国や合宿で予定がいっぱいな為、とりあえず 200枚の手形を作ることになった。今日慰問した老人ホームの事務長さんに崩し字でサインを考えて貰い、それをマネつつ3時間かけて 200枚のサイン手形を完成。初めてにしてはなかなかの出来である。
平成12年8月4日
午後から青森のねぶた祭りに参加。ねぶたの先導を行く、青森後援会の藤本建設さんの“出世大太鼓”の上にのって、市内を一周。約3時間の道のりだが、終わり頃にはビールをかけあったりと、すっかり青森人である。
平成12年8月6日
隣り町の中里町芦野のお祭りで、午前中ちびっこ相撲教室とちゃんこ大会をやり、夜、土俵を囲んでの盆踊り大会。夜店も出て、高校生の時焼鳥屋でバイトをやったことがあるという朝ノ浜、ねじり鉢巻きで焼鳥屋のおやじに変身。うちわで炭を扇ぎながら焼鳥を焼く姿は、絵になっていた。明日、明後日は五所川原の立ねぶたに参加の予定である。
平成12年8月7日
五所川原市の立ねぶたに参加。市の資料によると、立ねぶたは、明治中期から大正初期まで行なわれていたそうで、その後電気の普及により電線が邪魔になって小さくしていたものを、平成8年、約1世紀ぶりに復活させた、ということである。高さ20m強、重さ16tの立ねぶたが3台、市内を練り歩くさまは、まさに勇壮である。
お世話になっている江良産業から贈られる朝青龍の化粧まわしの絵柄も、立ねぶた「鬼がきた」である。
平成12年8月8日
五所川原“立ねぶた”最終日。先導のねぶたの中には、大関清水川のねぶたもある。その清水川の化粧まわしが、今年制作の立ねぶた「軍配」の前をゆく。上手投げの名人清水川の名は知っていたが、五所川原出身だとは知らなかった。他に五所川原出身の関取は、江戸時代の大関柏戸など5人もいるそうである。
平成12年8月10日
大関清水川は波瀾万丈たる相撲人生を送った力士である。大正5年二十山部屋に入門。鶴のように細身の体ながらとんとん拍子に小結まで昇進、横綱大関を得意の上手投げで破る人気力士であった。ところが、人気におぼれ酒乱、放蕩のかぎりをつくし、本場所をさぼったあげく協会を除名、永久追放となってしまった。
絶望した父が、協会へ遺書を送り、自害して幕下から復帰。名前を父の名「元吉」に改め、闘志あふれる相撲で昭和7年関脇昇進、8戦全勝で初優勝を飾る。5月には大関に昇進して引退まで3度の優勝を数えている。
作家尾崎士郎が「人生劇場」を書くきっかけとなったそうである。昭和42年膵臓炎にて逝去とある。
平成12年8月11日
青森の夏はねぶたとともに終わるようで、ここ数日は朝夕、津軽平野を吹き抜ける風に蜻蛉がゆらぎ、蝉の鳴声も儚げで、秋が感じられなくもない。10日間の青森合宿を終え、午前9時五所川原を出発。盛岡から新幹線で午後3時半に上野着。上野駅の改札を出ると、ムッとした熱気が体を包み、相変わらず真夏の東京に帰ってきた。
平成12年8月12日
モンゴルへ行っていた親方家族と朝青龍、朝赤龍、帰国。十両昇進を決めての帰国だけに、さすがに熱烈歓迎だったようで、ハードスケジュールに疲れきったようすである。明日からまた、来場所へむけてのスタートである。
平成12年8月13日
今日から平塚合宿。力士8人と高校生1人、滋賀県からの中学生2人で計11人の参加。後援会組織が少し変わった為、装いを新たにしての合宿である。稽古は、明日朝7時半から、16日朝までの3日間、平塚市総合公園相撲場にて行なわれる。
平成12年8月14日
後援会の方のご近所で、タレントの山瀬まみさんのご両親が経営する店にいく。平塚駅から徒歩3分のところで、”Fifty's” という名のアメリカンスタイルのBARである。ちょうどお盆やすみで、本人も帰っていて店に出ていて、記念撮影してもらった。あらゆる種類の酒がおいてあり、つまみのチーズとかも豊富でおいしくて、おしゃれなお店である。開店10年だそうである。
平成12年8月15日
平塚合宿も今年で7年目である。市民にもだいぶ覚えてもらったようで、街を歩いていると、「あ、今年も若松部屋がきたんだ」と声をかけてもらえるようになった。吉野平塚市長も、年々熱を入れてくれて、忙しい公務の合間をぬって、合宿所に顔を出してくれる。今回は夏巡業に出ている為不参加だが、合宿所のすぐ近くに実家がある朝迅風の中学校の先輩であり、四股名の名付け親である。
平成12年8月16日
平塚最終日。稽古とちゃんこを終え、お昼すぎバスにて東京へと向かう。当初の予定としては、このあと長野合宿にいくはずだったが、中止になった為まっすぐ東京へ向かう。これで、夏合宿全日程を終了。来週月曜日には9月場所番付発表である。
帰国したモンゴルでの写真が一部できてきて、朝赤龍がうれしそうに眺めている。本物は7月末に終わっているが、歓迎のミニナーダムも行ったらしく、馬が帰ってくるまでの間にモンゴル相撲もやり、ドルジ(朝青龍)とダシ(朝赤龍)がモンゴル相撲の衣装に身を包んで闘っている写真や(決勝で対戦しドルジが勝ったそうである、モンゴル相撲の勇士たち(ドルジの父や兄)と親方が、草原で並ぶ姿は誠に美しい。
平成12年8月18日
8月1日から夏休みを利用して合宿等、生活を共にしている高知ろう学校の1年生池田君。障害を感じさせないほど明るく、すっかり部屋の生活になじんでいる。趣味はカメラ(使い捨てだが)とカラオケで、一緒に歌いに行くと「もうええ・・」という程歌いまくる。演歌から広末涼子までレパートリーも幅広い。伴奏があまり聞こえないから何でも歌えるんですよ、という輩もいるが、みんなそんな池田君のファンである。
地元高知では、昨年TVに出たりもして、けっこう有名人だそうである。20日間で写真を100枚以上撮り、明日高知へ帰る。
平成12年8月19日
あす土俵築のため、土俵を掘り起こす。5月場所後、名古屋場所、合宿と続き土俵を殆ど使っていない為、土俵は乾ききって土もくたびれた感じだが、掘り返して水を撒き、細かくつぶしていくと生気が蘇ってくる。
夜8時半。巡業組(朝乃若、朝迅風、朝菊地)3人札幌から飛行機で帰京。さすがに疲れきった顔である。
平成12年8月20日
明日の番付発表から晴れて一人前の関取となる朝青龍、付人も決まり、明日から2Fの大部屋をでて、4Fの個室が与えられる。羽織袴なども出来てきて、身辺が慌ただしく様変わりしている。29日には、日本での地元高知で昇進披露パーティも行なわれる。
逆に、関取から幕下へ陥落する朝乃翔、4Fの個室を出て、明日からは大部屋暮らしとなる。
平成12年8月21日
9月場所番付発表。十両昇進の朝青龍、7枚目まで躍進。今日から関取としての待遇になり、ちゃんこの時も座布団がひけて、自分のお膳に専用の箸や茶碗もつく。午後2時から昇進記者会見。
朝乃翔は、幕下5枚目まで陥落。最低6勝はしないと復帰できない位置である。
平成12年8月23日
東関部屋から横綱曙と幕内高見盛、友綱から新大関魁皇、伊勢ノ海から幕内土佐ノ海と十両大碇、と出稽古に集まり、若松部屋幕内朝乃若と新十両朝青龍を加え、豪華な申し合いが繰り広げられる。熱気溢れる稽古場となった。
平成12年8月24日
昨年初場所に引退した朝鷲、引退後、家業のちゃんこ屋を継ぐべく都内で板前修行をしばらくやっていたが、子供の頃からの夢を捨て切れずに、プロレス修行の道へすすんでいた。今月初めに部屋に挨拶に来て、今日、後楽園ホールで所属団体「闘竜門JAPAN」の練習生として、リングサイドで動き回っていた。
あすメキシコへ旅立ち、9月上旬、メキシコのマットでプロレスラー伊藤透(リングネームはまだ未定だが)としてデビューするそうである。
平成12年8月25日
相撲雑誌には、ベースボールマガジン社の「相撲」と、読売新聞社の「大相撲」と2誌ある。その「大相撲」の方に、元出羽の海部屋の力士で、演芸作家の小島貞二氏が、“20世紀と大相撲-力士生活の変遷”という記事を書いており、力士の衣・食・住の移り変りを昔の写真入りで紹介している。ちゃんこは明治中期から・・戦前の巡業は大半の関取が洋服姿・・などなど、興味深い話、エピソードが満載である。
平成12年8月26日
風邪で体調を崩したらしく、昨日は稽古場に顔をみせなかった横綱が、今日は、まだ本調子ではないようだが土俵にあがりいい汗をかいている。最近自分の稽古もそうだが、後進の指導にも熱心で、若い衆の稽古にも常に声をかけて、稽古場の雰囲気を高めている。当然といえば当然だが、当然な事を毎日続けるのは至難である。心身の充実感がないとできないことである。
見学に来てそんな横綱の姿を間近に見た、来日している「スパイダーマン」の原作者(名前は聞き忘れたが、かなりの著名人らしくTVカメラもくっ付いてきた)も、感動しきりであった。
平成12年8月27日
朝青龍の締込みが出来上がってきて、付人頭の朝ノ霧が中心になって折る。色の表現が難しいが、ちょっと青に近いというか、淡い紺色である。長さ約10m、幅75,5cmの絹のシュス織りで、物差しで計り、チョークで印をつけて、まず3つ折りにし、更に2つ折りにする。型をつけるため、何日間かは重しをのせて押さえておく。
おとといは新品の開荷も届き、塗りたての塗料の匂いが新十両を感じさせている。
平成12年8月28日
NHKの朝の番組の生中継が東関部屋から行なわれ、東関部屋での稽古。稽古場がちょっと狭いので、友綱部屋も加わると、土俵まわりが相撲取りで埋まってしまい、暑いことこのうえない。ぶつかった順に外へ出して、外で四股を踏ませる。今日から4日間中継はつづくそうで、明日は友綱部屋からだそうである。
中継は8時少し前頃だが、場所が変わるだけで、やっているメンバーは明日も同じである。
平成12年8月30日
今場所幕下の6枚目から再起をかける朝乃翔、8月上旬にレーザーによる腰の手術をして、その後懸命にリハビリ、筋トレに励んできた。その甲斐あって、ようやく相撲を取れる状態にまで回復してきた。まだ、序の口・序二段相手のアンマだけだが、得意の突っ張りの腕の伸びも出てくるようになった。前半戦(特に初日)をうまく乗り切れれば、見通しは明るいのだが。
平成12年8月31日
四股はいつの頃から踏まれるようになったのであろうか。四股という字は当て字で、元来は醜(しこ)であるらしい。辞書によると、「敵から 憎まれるほど強い者」の意で、四股名も元来、醜名と書いたらしい。
最近はあまり聞かれなくなったが、一昔前は、「四股十両、鉄砲三役」と といって、四股を極めれば、申し合い稽古をしなくても十両まで上がれるという格言もあった。
平成12年9月1日
四股は深い。入門してから今まで、一日に最低2~300、多い時には500とか1000回踏むこともあったから、入門以前アマチュアの時も入れると20数年、数えきれないほど踏んできたが、正直なところ未だにわからない。若い頃は我慢して踏んでいた。筋力トレーニング の一環として行っていたような感がある。
ここ数年ようやく面白さがわかってきた。踏んでいるとだんだん無駄な力が抜け、無我の境地とまでは至らないが快適になってくる。最近思うのは、筋トレ的な意味もなくはないが、それよりも身体の使い方、意識(例えば丹田をつくる)の鍛練だ、ということである。他の色々なトレーニングが対症療法的なものであるのに対し、全く次元の違う根本的な運動であるということである。世界中を捜してもあまり類のない運動ではなかろうか。
平成12年9月2日
初日前、触れ太鼓の音と、呼出しさんの触れの声を聞くと、気分も高まってくる。初日、朝乃若は海鵬、新十両の 朝青龍は五城楼との対戦。
平成12年9月4日
取組を終えて部屋に帰ってきた朝ノ浜、以前付人をやっていた朝乃翔のところにやってきて、「おかげさんで勝ちました」といつもより元気良く挨拶してきた。よっぽど快心の相撲だったのかと思い、「どうやって勝った?」と聞くと、ニコニコしながら「不戦勝でーす」という返事。初の、しかも初日からの不戦勝にご機嫌であった。
関東龍は、1場所2回を含め通算5回も不戦勝があるが、一ノ矢は、17年間土俵に上がりながら、いまだかつて一度もない。
平成12年9月5日
“双葉山”という名前は、相撲人にとっては神様に等しい響きを持っているが、一般人にとっては、名前は聞いたことがあるが・・程度の認識しかないかもしれない。ベースボールマガジン社の「相撲」で連載している「人間の貫禄というもの-大双葉伝説26」で、運動科学研究所所長の高岡英夫氏が、身体の使い方、身体意識(丹田など)の立場からの双葉山像を解明している。そのレベルは、人類史上かなり高い所まで到達しているそうである。
平成12年9月6日
上野に"サンプレイ"というトレーニングジムがある。ボディビルで、元ミスター日本になったこともある宮畑豊氏(奄美大島出身)のジムである。腰のリハビリの為、ここ何ヶ月かお世話になっている朝乃翔、宮畑会長自らメニューを組んでくれて、場所中も連日通っている。帰ってくると疲労困憊、といった感じのハードメニューだそうだが、59才の宮畑会長、同じメニューを楽々とこなしているそうで、まさに鉄人である。そんな鉄人の後押しもあり、順調な回復具合で、2連勝と幸先よいスタートの朝乃翔である。
朝菊地、初日の相撲で膝を痛め、今日から休場。
平成12年9月7日
最近はあまり聞かれなくなったが、「四股は羽目板の前で踏め」、ということわざがある。体を前傾させずに直立させろ、という言葉である。相撲を取る時には突っ立つのは悪いことで、前傾姿勢にならなければならないのに、基本の四股は、なぜ体を立てなければならないのか、長い間疑問であった。その答えが、前述の高岡英夫氏の文の中にある。「相撲」9月号P110-「現代人、あるいは現代の相撲取りを見ると、腿の前面の大腿四頭筋を使う傾向が強い。・・・(中略)・・・それに対し双葉山は、腿の裏側の大腿二頭筋によって前方力(前へ押す力)を生み出していた。・・・(後略)」。
自分でやってみるとわかると思うが、前傾姿勢で四股を踏むと、主に使われる筋肉は太腿の前(大腿四頭筋)である。体を直立させて踏むと、より裏側・体の中(二頭筋や股関節・腸腰筋、大殿筋等)を使わなければならない。
オリンピックが近づいてきて、最新トレーニング情報が伝わってくるが、陸上などでここ数年ようやくたどりついた感のある、「裏側の筋肉で体を前に進める」という理論を、大相撲では、江戸・ 明治の頃から確立していたのである。
平成12年9月8日
三段目11枚目自己最高位の朝迅風、2連敗の滑り出しだったが、持ち前の馬力相撲で元幕下上位経験者を一蹴。勝越せば初の幕下昇進が見えてくる。45枚目の朝赤龍、3連勝。こちらもあと3つ勝って6勝すれば幕下入りの可能性もある。
平成12年9月9日
「家賃が高い」という言葉がある。自分の実力以上の地位に番付が上がって勝てないときに使う。
今年春場所入門して、2場所続けての勝越しで 序二段二桁まで番付を上げてきた朝松本、今場所はさすがに家賃が高かったようで4連敗で負越し。掲示板での地元からの応援メッセージにもある通り、“今場所は勉強”である。
朝赤龍4連勝で勝越し。こちらは、まだまだ高い家賃も払えそうである。
平成12年9月10日
例年なら中日を迎える頃にはすっかり"秋"場所なのだが、今年は始まりが1週間早いせいもあり、いまだに名古屋場所を思い出させる毎日である。中日を終えて29勝33敗。勝越し1人、負越し2人という成績である。
平成12年9月11日
今場所番付が一番下の朝天山、奮起して朝赤龍につづき2人目の勝越しを決める。雨上がりの夜道を自転車で走っていたら、うれしさにペダルをこぐ脚にも力がはいり、スピードを増し、「・・俺は風になった・・」、と思った瞬間にこけてしまったそうで、「いた・た・た・」と、脚を引きずりながら帰ってきた。
135kgのデブを風にしてしまうほど、勝越しとは嬉しいものである。
平成12年9月12日
新十両の朝青龍、今日は思い切りの良さが裏目に出て、強引な投げにいったところ足をかけられて負けてしまったが、10日目を終えて6勝4敗。場所前、稽古をつけてもらった横綱に飯を食いに連れていってもらい、長丁場の15日間を「5日間づつ3つに分け、3勝2敗づつでいけ」と、関取として15日間毎日取る心構えを教えて貰ったそうで、ここまでは順調である。残り5日間、3勝2敗でいければ9勝6敗となるのだが。
平成12年9月13日
序二段の朝天山から始まり、幕内朝乃若まで、出場全力士が黒星という、さんざんな一日となった。7人も取組があると、間違ってでも1人くらい勝つものだが、あまり記憶にない珍しい結果である。勝率5割まであと3勝と徐々に盛り返していたが、今日で負けが10も上回ってしまった。明日は8人の取組がある。どれだけ挽回できるか、である。
平成12年9月14日
朝赤龍、昨日の稽古でちょっと腰を痛め心配されたが、全勝が痛みも忘れさせてくれるようで、苦しい体勢ながらも長い相撲を我慢しての6連勝。三段目には全勝が3人残っているので、明日の取組に勝つと優勝が決まる、という可能性もある。朝ノ土佐4人目の勝越し。朝花田負越し。
平成12年9月15日
朝青龍、新十両うれしい勝越し。あすモンゴルからお母さんと妹が日本に来るそうで、お母さんへの最高のお土産となるであろう。シドニーオリンピックの開会式、モンゴル選手団の中に兄(レスリング代表)の顔もあったようである。朝赤龍、立合いの失敗で三段目優勝を逃す。朝松本と関東龍、全敗が心配されたが、最後の最後でようやく目が開く。
平成12年9月19日
17日に行なわれた千秋楽打上パーティ。会場を新たにして、勝率は5割に届かなかったものの、朝青龍のお母さんと妹と共に、フレルバートルモンゴル大使も馬頭琴奏者と一緒に出席し、「20年前外交官として初めて日本に来た時、TVの大相撲中継を見るのが大好きで、中でも大関朝潮関の大ファンだったのですが、縁あってモンゴルの若者が親方の部屋に入門して、関取まで出世して好成績で勝越して、本当に感慨深いものがあります」とのご挨拶をいただき、満場割れんばかりの拍手で盛り上がる。
平成12年9月24日
女子マラソンでの高橋尚子選手の金メダルなど、シドニーオリンピックでの日本選手団の活躍がめざましいが、相撲(SUMO)もオリンピック競技めざしての活動が盛んである。日大相撲部の田中監督が旗頭となって、毎年世界選手権を開き、加盟国は既に85カ国にものぼっているそうである。新相撲(女子)もその活動の一環である。2008年の開催地が大阪に誘致されれば可能性は高いようである。
平成12年9月25日
明治神宮奉納相撲。午前中、参拝と奉納土俵入りが行なわれ、午後から国技館にて全日本力士選手権。十両トーナメントに出場の朝青龍、決勝戦まで勝ち残る。優勝賞金30万円だと聞き、「30万円入ったら秋葉原で買物して、うまいもの食って・・・」 と、意気込んで土俵に上がったそうだが、対戦相手の玉力道もそれ以上に気合入っていたようで、惜しくも敗れ計画は全て消えてしまった。あさっては、福祉大相撲でトーナメントがある。
平成12年9月27日
相撲マンガも数あるが、大相撲の世界に身をおいている立場からすると、いちばん納得できて、現実感があって、楽しめるのは、ちばてつやの「のたり松太郎」である。松太郎の破天荒な性格、対照的な田中君、バクチ好きの西尾のじっちゃん。個性溢れるキャラクターに、実際に春日野部屋で取材した細かい描写。とくに始めの頃の、蔵前国技館の相撲教習所へ通う辺りは、大好きなところである。
そういえば、蔵前の土俵を知っている力士も数えるほどに減ってしまった今日この頃である。
平成12年9月29日
昨28日、秋巡業へ出発。巡業へ出るのは関取とその付人(幕内2人、十両1人)で、行司や呼出し床山まで入れると約300人近い一行である。朝乃若には朝迅風と朝天山、朝青龍には朝ノ霧が付いて出ている。
行司勝次郎は、すでに1週間ほど前から 巡業の先発として出ている。
平成12年9月30日
どこの部屋も巡業にでて残っている人数が少ないため、合同稽古となる。今回は、友綱部屋から3人、武隈部屋から1人、東関部屋から1人と、若松部屋へ集まっての合同稽古。序二段下位力士が多く、朝花田、朝松本にはいい稽古相手である。