過去の日記

平成12年<平成11年  平成13年>

過去の日記一覧へ
今日の若松部屋
平成12年1月3日
あけましておめでとうございます。2000年もよろしくお願い申し上げます。
昨晩、正月を迎えた実家から集合して、今日から稽古始め。稽古終了後、親方から「昨年は、若松部屋にとっていい年であったので、今年は更にいい年になるよう力を合わせて頑張っていこう」との年頭の言葉で稽古を締める。午後、浅草にある若松部屋代々のお墓に墓参り。初場所初日まで、残すところ6日である。
平成12年1月5日
東京場所前恒例の横綱審議委員会の稽古総見が、国技館教習所土俵で行われ、朝乃若と朝青龍も参加。総見は、幕内上位と幕下上位力士が一同に会して、横審面々や理事長の前で行う稽古で、東京場所の前には必ず行われている。初参加の朝青龍、張り切って稽古したそうで、横審や協会の理事達にも顔を覚えてもらったことであろう。
平成12年1月8日
今場所前相撲デビューの二人の四股名が決まる。モンゴル出身ダシニャムは、朝青龍の向うをはって、朝赤龍(あさせきりゅう)。高知県土佐市出身の久保は、出身地から朝ノ土佐(あさのとさ)。三日目からの前相撲が初土俵となる。触れ太鼓が稽古場に響き渡り、明日からの初日を告げる。
平成12年1月9日
2000年初場所初日。若松部屋のトップを切って朝天山が、白星スタートとなるが、あとが続かず、2勝4敗の滑り出し。幕下上位へ上がった朝青龍、慣れない塩まきの動作で緊張が高まってしまったようで、立合い失敗して黒星発進。
平成12年1月10日
早朝の雨が街を洗い、すっきりとお正月晴れとなった東京。成人の日の2日目の土俵である。横浜出身の朝松尾、休日を利用してお父さんが国技館に応援に駆けつけた。前日からわかっていたようで、「親父がみにくると、あんまし勝ったためしがないんだよなぁー」と言っていたが、案の定の黒星で、がっくりであった。
平成12年1月11日
今日から前相撲。朝赤龍と朝ノ土佐、文字どおりの初土俵を踏み、順当に白星スタート。前相撲は、3勝するまで毎日続けられる。3月春場所以外は新弟子の数も少ないので、成績にかかわらず全員一番出世で、晴れて来場所から番付表に名前が載ることになる。
平成12年1月12日
今場所から幕下格に昇進した行司の勝次郎、先場所三段目格だった時には、一日8番ほど裁いていたが、今場所から一日5番になった。一度四股名を忘れて、控えの行司さんに教えてもらったそうだが、差し違えもなく順調な軍配さばきのようである。
今場所の取組表で見ると、序の口格の行司さんは一日13番、序二段格が10番、三段目格が8番、幕下格が5番、十両格・幕内格・三役格が 一日2番、立行司木村庄之助が結びの1番のみである。
平成12年1月13日
前相撲の朝赤龍と朝ノ土佐、今日も勝って3連勝で1番出世を決める。来場所は、序ノ口で二人の優勝決定戦が見れる可能性は高い。中日8日目に関取の化粧まわしを借りて、出世披露が行われる。
平成12年1月14日
若い衆にとって、場所手当て(給金)の出る12日目までの期間は、本場所へ通う交通費やら取組のある日の昼食代(付人は取組の後、部屋へ戻らず場所近辺で昼食をとる)などで出費もかさみ、経済的に一番苦しい時である。
そんな中嬉しいのが、本場所が始まると協会から支給される 交通費である。若松部屋の場合だと部屋から国技館までのバス代往復400円の15日間分6000円が支給されることになる。
久々にまとまった金を手にした朝天寿、部屋の近くのラーメン屋に行き、いつもは270円のラーメンを注文するところ、今日は430円の味噌ラーメンを思い切って食ったそうである。おまけに、餃子まで注文しようかと思ったそうだが、今場所の給金が出るまでの日にちを数え、悩んだ挙げ句断念したらしい。
ある取的(下っ端の力士)の、慎ましやかな、貧乏なお話でした。
平成12年1月15日
朝乃若の上位対戦での苦戦もあって、毎日負け数の方が多くて、5割への道は遠い前半戦の土俵である。
しかしながら期待の朝青龍は今場所も好調で、初日こそ不覚をとったものの、その後3連勝であと1勝で勝越しとなった。衛星放送でやっている、「若者頭が選ぶ2000年幕下以下有望力士」の、いの一番には必ず朝青龍の名前が挙がる。入門以来の成績からすれば当然といえば当然だが、21世紀若松部屋期待の星というより、日本相撲協会期待の星になってきている。
平成12年1月16日
三段目取組途中で出世披露が行われ、若松部屋の朝赤龍と朝ノ土佐も関取の化粧まわしを借りて土俵に上がる。中日の日曜日とあって、観客の出足も早く、盛大な拍手を受け感激したとのことである。
久しぶりの天覧相撲のため、早朝から警備の制服警官やSPなどの姿が目立ち、いつもと少々雰囲気の違う国技館内であった。
平成12年1月17日
1勝3敗で今日の相撲に臨んだ朝天寿、控えに入って対戦相手を見ると朝菊地が入ってきた。一瞬、朝菊地と対戦するのかと思ったそうだが、対戦相手が休場して次の取組の朝菊地が入ってきたのであった。入門以来2度目のうれしい不戦勝で2勝3敗と生き残る。
しかしながら三段目の土俵で1勝3敗だった朝泉、朝大牙、朝迅風、揃っていってしまう。(負け越し) 序二段で一ノ矢が今場所第1号の勝越し。朝松尾、関東龍は3勝目。
平成12年1月20日
朝乃若、長かったトンネルをようやく抜け出しうれしい初白星。負けがつづくと何をやってもうまくいかず、 全く勝てる気がしなくなってくるものだが、さすがにほっとした顔で帰ってきた。
12日目を終わって、残すところ3日しかないが、勝越し力士がまだ一人だけという散々な成績の場所となった。6勝6敗の朝乃翔と3勝3敗の力士が6人、残りの相撲に勝越しをかける。
平成12年1月21日
相変わらず勝越し力士が出ない。昨年1年間で3敗しかしていない朝青龍、今場所4敗目を喫して初の負け越し。もう一人、3勝3敗で序二段の土俵に上がった朝天山、やはり勝越しならず負け越し。土俵を下りて、花道を戻ろうとしたところ審判に呼び止められて、「もみあげ剃れ」と注意を受けたそうで、二重の落胆であった。明日は、3勝3敗の力士が3人勝越しをかけて土俵に上がる。
平成12年1月22日
3勝3敗の3力士。朝天寿は負け越すが、朝菊地と関東龍が勝越しを決め、ようやく勝越し力士3人となる。
朝乃翔も7敗から踏みとどまり、あす千秋楽に勝越しをかける。
平成12年1月23日
千秋楽。3勝3敗で迎えた朝松尾、朝の稽古で額を切り、国技館内診療所で3ハリ縫ってもらい相撲を取る。縫いキズもなんのその、頭からぶちかまして、土俵下審判だった親方から「今場所一番いい相撲だった」と誉められるほどの快心の相撲でうれしい勝越し。朝乃翔は、よく攻めながらもあと一歩が出ず負け越し。これで勝率は、3割9分3厘。記憶にあるかぎりでは、最低の成績となってしまった。
成績を反映してか、打上パーティも参加者が少なく、寂しい千秋楽となった。
平成12年1月25日
一昨日の千秋楽打上を終えて、朝天寿と朝大牙が引退することになった。 今場所二人入門して増えた分だけ部屋を去り、結局もとの13人である。部屋の人数を増やしていくというのは難しいものである。
東京場所後恒例の“大ちゃんカップゴルフコンペ”が行われ、小山由紀子プロや歌手の古都清乃さんも参加。
平成12年1月29日
場所後の休みも終わり、今日から稽古再開。ただ、今日明日は花相撲(引退相撲)があるため、四股とぶつかり稽古のみで終わりである。
平成12年2月1日
昨日、日本相撲協会役員改選が行われ、親方が理事に就任。現理事の中では最も若い理事となった。
NHK福祉大相撲が行われ、幕下トーナメントに朝青龍出場。優勝の栄を勝ち取り、賞金と副賞の腕時計を手にする。花相撲とはいえ、今場所負け越したうっぷんを少しは晴らしたことであろう。
平成12年2月2日
理事となった親方、広報部長の役職に就くことになった。かなり重要なポストで、毎日協会に出勤しなければならなく、かなり忙しくなりそうである。
平成12年2月3日
パソコンがヤマいってしまいました(不調)。復旧までしばらくお待ちください。
平成12年2月5日
朝青龍昨年暮れよりパソコンを始めて、電話代の高いモンゴルとの交信に役立てている。
平成12年2月6日
今春入門予定の高校生が今日から部屋で生活することになる。宮城県石巻市出身の花田君で、高校時代は空手部だったが、部屋の青森合宿には毎年参加していて力士ともすでに顔なじみである。
平成12年2月8日
健康診断のため稽古休み。身長体重、握力、血液検査、尿検査、胸部レントゲンと検査を受ける。
帰りがけ、久しぶりに“鳥ラーメン”を食いにいった。両国駅東口(国技館から遠い方)改札すぐ横にある「みやもと」というラーメン屋の 名物ラーメンで、具はネギと豚の脂身のみというシンプルなラーメンである。
塩分濃厚、脂ギトギトだが、うまい。部屋が両国にあった頃はよく食っていたが、遠くなり、午前11時までのモーニングラーメンなので稽古のある時は食えない。熱すぎて、舌をやけどしてしまうほどであるが、うまい。
一杯280円である。
平成12年2月9日
以前若松部屋の床山だった床義さんは、「みやもと」の常連というより身内のようなものであった。朝の散歩とサウナが日課だった床義さんは、散歩の帰りにみやもとでスープのアクを取りながら朝食をとり、夜は2Fのマージャン屋にと、部屋にいる時間よりもみやもとにいる時間の方が長かったかもしれない。いいとこ売りの名人で、よっさんこと床義さんの周りにはいつも笑いがあった。
今日から友綱部屋へ出稽古。ただ、関取衆は大島部屋へ出稽古にいっているとのことで、大島部屋へ行く。
平成12年2月10日
床義さんは、7,8年前に引退して故郷都城に帰っているが、入門の経緯も変わっていた。中学を卒業した後、床屋の見習いをやり、20才で自分の店をひらいたそうだが、その後、生来のいいとこ売りの血が騒ぎ、相撲部屋に転がり込んで30才での入門となった(当時は年齢制限がなかった)。風貌がボクシングのファイティング原田に似ていて、地方巡業のときなど、なりきってサインまでしたことがあるそうである。
平成12年2月11日
いいとこ売りのよっさん。数々の逸話を残して相撲協会を去っていったが、巡業の初っ切りに飛び入り参加したこともあった。力士が初っ切りをやって場内を湧かしている最中に、酔っ払いの客を装って乱入した。酒瓶片手に竹ホーキでおすもうさんをひっぱたいたりして、事情を知らない一般客は固唾を飲んで見守っていたそうだが、関取衆や親方衆まで花道にわざわざ見物にきて、大受けだったそうである。
平成12年2月12日
初っ切りや弓取りを行う力士はどうやって選ばれるのか?という質問をいただきました。人選は、若者頭が決め、いいとこ売りは初っ切り、歌のうまいのは相撲甚句と、適材適所をえらんでいきます。
若松部屋では数年前に引退した房乃龍が相撲甚句をやっていて、房風が巡業では何度か弓取りをやっていましたが、本場所では行うことなく引退してしまいました。
平成12年2月13日
昨日から行われている大相撲トーナメント。今日は、部屋別対抗団体戦も行われる。5人戦の点数制で、先鋒は序二段で1点、二陣が三段目で 2点、中堅・副将が幕下で3点づつ、大将が十両で4点というシステムである。したがって、3人続けて負けても、最後の二人が勝てば7対6で勝ちになる。
若松部屋は東関・九重との連合チ-ムで、幕下朝青龍が出場。もう一人の幕下、東関部屋の 潮丸(うしおまる)と揃って4戦全勝だったそうで、見事優勝。賞金をガッポリ手にしてニコニコであった。
平成12年2月14日
バレンタインデー。おかみさんから全員にチョコレートが配られる。ほか、個人的に送られてきたものが数個。数年前は、もっと宅急便や郵パックが多かったような気がしたが・・・そういうタイプのおすもうさんが減ってしまったようである。
平成12年2月16日
今日も友綱部屋出稽古。今日から東関部屋もやってきて、いつも来ている武隈部屋を合わせると、4部屋合同の稽古。土俵も賑やかである。今春入門予定で、宮城県から来ている花田君。横綱を間近に見て、その大きさに驚きと感動で言葉を失っていた。
平成12年2月17日
弓取りについて質問をいただきました。元来弓取り式は、千秋楽結びの一番に勝った力士に授けられる弓を受け取る作法だそうで、昔は勝ち力士本人がやっていたそうです。15日間毎日やるようになったのは、昭和27年5月場所以降だそうで、勝ち力士に代わって行うので結びの一番をつとめる横綱のいる部屋の幕下力士が行うのが一般的なようですが、10年ほど前の高砂部屋の六甲山(部屋には横綱はいなく、地位は三段目)のような場合もあるようです。
平成12年2月24日
昨23日、先発隊5人(一ノ矢、朝泉、朝青龍、朝松尾、朝菊地)新幹線にて大阪入り。1年ぶりに戸を開ける宿舎は、ほこりだらけでまずは寝床の大掃除からである。晩、おかみさんのお父さんの店、スーパーコノミヤの“ちゃんこ朝潮”にて夕食をごちそうになる。
きょう24日は、土俵作りと大掃除。夕方、スーパーコノミヤにちゃんこの材料を車満杯仕入れにいく。
平成12年2月25日
宿舎にしている建物のある所は、近大の本学キャンパスと記念会館の間にあり“Eキャンパス”と呼ばれている。昔は職業訓練校の寮だった建物で、平成3年に宿舎として借りるようになった時には、まわりに苗木が植えられたばかりで、まわりの風景も殺伐としたものであった。9年目を迎え、苗木が立派な成木に育ち、いかにもキャンパスらしく様変わりしてきた。おかげで幟を立てるのに木が邪魔して、場所選びに一苦労するほどである。
平成12年2月27日
東京残り番だった力士、午後4時相撲列車(新幹線だが)にて大阪入り。浪速の町におすもうさん勢揃いである。そのまま“ちゃんこ朝潮” に直行して夕食。岡山から中学3年生の新弟子、松本君も合流。15才にして、178cm135kgの体格である。ちゃんこをつつきながら、「おとうさん何歳?」と聞くと、「一ノ矢さんと同じ年です」という返事がかえってきた。お母さんはひとつ下だそうである。
平成12年2月28日
春場所新番付の発表。
平成12年3月1日
今年は寒さがきびしい。宿舎から稽古場の近畿大学クラブセンターまで200mほどあるが、早朝7時前に歩くと、冷気が肌を刺すような冷え込みである。おまけに宿舎は、一応鉄筋3階建てのビルだが、築50年にはなりそうなオバケ屋敷状態で、すきま風も吹き込み、体を芯から冷やしてくれる。朝起き抜けのあいさつが、「さむー」と口々に出てしまう。今日は晴れて、外を歩くと春の匂いをかすかに感ずるほどであったが、部屋に入ると相変わらず真冬である。おすもうさんも、寒さは感じるのである。
平成12年3月2日
卒業式で高知に帰っていた朝赤龍と朝ノ土佐が、昨日の卒業式を終え帰ってくる。春場所入門予定の花田君も、同様に宮城県より飛行機で大阪入り。宮城県石巻からは初のおすもうさん誕生だそうで、地元のTVや新聞等も、盛大にとりあげてくれたそうである。通例でいくと四股名は、“朝花田”となるので、地元でも「四股名はすでに横綱級」と、なかなかの盛り上がりようだそうである。
平成12年3月5日
昨日行なわれた春場所新弟子検査で、身長体重などの一次検査に合格した花田君と松本君、血液検査の結果も異常なく、晴れて正式に合格の通知がきた。朝花田と朝松本の誕生である。
昨夜の若松部屋激励会。1000人を超す人々に参加いただき、春場所へ向け決意を新たにする。ゲストとして、元世界チャンピオンの六車卓也氏と 井岡弘樹氏、桂文福師匠、吉本のチャーリー浜さんも出席。宴に華をそえる。
平成12年3月6日
マスコミを賑わした太田大阪府知事が土俵に上がる問題も、太田知事がおれてとりあえずは決着をみたが、過去、巡業でのことだが土俵に上がった女性が一人だけいたそうである。
昭和30年代であろうか、愛媛では土地柄女相撲も盛んで、かなり本格的に稽古もやっていたそうである。当時の高砂親方だった元横綱前田山が愛媛出身だったこともあって、高砂一門が巡業に行くと、実際にプロの力士に胸を借りたりして、それは真剣な組織だったようである。その女相撲一行の横綱に“若みどり”という四股名の力士がいて、その若みどりさんが勧進元になって高砂一門の巡業の興行を開いたそうである。
巡業では、勧進元挨拶というのがあって、主催者が土俵上から御礼を述べるのがしきたりになっているが、勧進元が女の人なので、かなり論議を呼び、もめたそうである。
しかしながら最終的に一行の責任者である高砂親方が、「おかん(若みどりさん)は女やない、すもうとりやからええんや」という一声で一件落着して、土俵に上がって勧進元挨拶をつとめたという話である。
平成12年3月7日
“若みどり”という名前は、現在は愛媛県北条市駅前にあるちゃんこ屋さんの屋号として残っている。若みどりさんの息子さんが経営するお店である。一門ということで、先代若松の房錦関もお世話になったそうで、そういう縁もあり大将の紹介で、2人ほど若松部屋にも入門して一時は、後援会組織もあった。
若みどりさんの生涯をまとめて、世に出す計画もすすんでいるようである。
平成12年3月8日
明日朝のNHK「おはよう日本」という番組で、午前7時半頃から若松部屋稽古場の生中継が入るようです。
ご覧になってください。
平成12年3月10日
後援会から30kgのカルビ・タン・ミノ・ホルモンが差入れあり、七輪を引っ張り出して焼き肉ちゃんこ。部屋の中で七輪を3つ、炭をおこして肉を焼くのだから、宿舎中が煙と焼き肉の匂いでモウモウである。夜になってもいまだに部屋の中が焼き肉くさい。さすがに東京の部屋ではできない、地方場所ならではの風景である。
平成12年3月11日
場所前最後の土曜とあって、お客さん多数。忙しさに追い討ちをかけるように、一階のトイレが詰まり、汚水があふれだし、雨は降るしでてんやわんやの一日となった。明日から春場所初日である。
平成12年3月12日
昨日まで冬に逆戻りの感があったが、春場所がまた春を少し呼びもどしてくれたようで、おだやかな晴れ間ののぞく初日となった大阪。前売りの売れ行きが芳しくなく心配されたが、若乃花の出場で話題を呼んでいるようで、買い出しにいく八百屋の奥でも、閉店間際七輪のおでんを囲んでコップ酒をあおりながら若乃花談義でもちきりであった。500円の買い物で、日本酒3杯とおでん2皿、豚キムチ1皿をごちそうになり、部屋に帰りつくと酒がだいぶまわってきた。若松部屋は3勝4敗のスタートとなった。
平成12年3月13日
大阪は町の中にお笑いがある。昨日書いた八百屋の大将は、顔からしゃべくりから漫才の中田カウスに似ているし、奥さんはまじめな顔をして「ミネラルウオーターのんでや」といって日本酒をもってくるし、「今日はジュースのんで」といって缶ビールをもってくる。
学校の先生も、授業中1回は笑いをとらないと生徒が納得しないらしい。さすがに吉本の町である。
芋縄会長が溜席で応援をおくり、5勝3敗の好成績で通算8勝7敗と勝ちが先行する。芋縄会長が見に来た時は、かなり勝率が高い若松部屋である。
平成12年3月15日
夕方、いつもの八百屋に行くと今日も奥へと招かれる。今日は大阪名物たこやきをあてにコップ酒である。まだ日はあり、お客さんも多い。奥に座っていっぱいやりながら、おかみさんと客とのやりとりを見ていると、まあ、露天漫才である。おもしろくて、つい長居してしまい次の店に行く頃には顔が真っ赤っかになってしまった。
キャンパスの桜の木も花をちらほら咲かせ、春近し大阪である。きょうも好調4勝1敗の若松部屋であった。
平成12年3月19日
序の口の朝赤龍と朝ノ土佐、予想通り順調に白星を重ね、揃って4連勝 で勝越しを決める。朝赤龍、明日は怪我で落ちてきている元幕下力士との対戦。あすの一番に勝てば2人で優勝決定戦の公算がかなり高まる。
平成12年3月20日
三段目取組途中で二番出世披露が行われ、朝花田と朝松本も関取の化粧まわしを借りて土俵にあがる。
朝赤龍ついに敗れる。風邪気味の体に初黒星が追い討ちをかけたようで、さすがに元気なく帰ってきた。
優勝戦線に加わっている朝乃若、全勝の貴闘力に敗れて2敗となるも、今日も5勝3敗の好成績で、勝率6割を超える。昨年名古屋場所以来の好調さである。
平成12年3月21日
残すところ5日間となり今場所の成績も大方決まってきて、支度部屋でも表情にかなり差がでてきている。
朝迅風今場所3人目の勝越し。逆に、一ノ矢、朝泉は負越し決定。今日は、2勝5敗とちょっと中休みとなった。
平成12年3月23日
朝青龍、朝ノ霧勝越し。
平成12年3月25日
平成3年春入門の朝泉、明日の1番を最後に土俵に別れを告げることになり、明日が9年間の締めくくりの土俵となる。明日の千秋楽打上パーティにて断髪式を行う。
平成12年3月30日
26日に行なわれた千秋楽打上パーティ。いつも通りのオープニングの後、大銀杏姿の朝泉がステージ上に現われ9年間のチョンマゲにお別れを告げる断髪式を行う。九州から、「やっさん」も駆けつけハサミを入れる。一般客に引き続き、力士、両関取 ご両親とハサミを入れていき、最後に親方の止バサミで断髪式が完了。
元若松部屋床山見習いで、現在京都で床屋勤めの馬医君の整髪で頭を直し、付人だった朝乃若関に買ってもらったスーツに身を包んだ元朝泉こと太秦大輔、ステージに戻って力士生活の御礼と第二の人生への決意を述べる。 上背があるので(194cm)スーツ姿が良く似合う。
今日の若松部屋
平成12年4月1日
大阪場所の片づけを終え相撲列車にて帰京。巡業組は春巡業のスタート地伊勢神宮へと向かう。
相撲列車である新幹線、約3両ほどおすもうさんで 満杯である。乗るなり弁当をかきこみ寝るが、車内の温度はどんどん上がっていき暑いことこのうえない。座席目一杯にデブ同士が座るものだから、通路側の力士は脚を通路に投げ出さざるをえず、台車を押してジュースを売りに来る売り子のお姉さんも、間を通り抜けるのに四苦八苦している。午後4時東京駅着。東京に帰ってくると何となく落ち着くものである。
平成12年4月2日
島根県松江市から高校生が一人、春休みを利用して体験入門。入門がかなえれば、珍しい島根県出身力士の誕生となるが、いかんせん体が小さく新弟子の合格基準に程遠い為むずかしいかもしれない。残り番の力士、今日から友綱部屋へ出稽古。
平成12年4月6日
東京23区のゴミの出し方が2月末より変わったようで、墨田区の本所清掃事務所から担当者に部屋まで来てもらい、ゴミの出し方講習会を開いてもらう。何でもありの大阪から帰ってくると、つい大阪でのクセがでてしまって毎年この時期は何かとトラブルがあったので、いい機会となった。
平成12年4月8日
部屋の隣に「純」という喫茶店がある。ここ3,4年コーヒーが好きになり、日本全国行く度に喫茶店でコーヒーを飲むが、いままで飲んだ中で日本一おいしいコーヒーである。日替わりコーヒーが350円であるが、キリマンジャロとかブルーマウンテンとかのメジャーな銘柄でない、エクアドルナチュラレッサとかスマトラマンデリンとか、ちょっとマイナーな豆を挽いてくれる。マスターに言わせると、メジャーなコーヒーは、大量生産しすぎて本来の味が失われているそうで、ちょっとマイナーなコーヒーにほどいいのがあるそうである。
マスターの作る定食や卵トースト、ホットドッグも絶品である。一度試食あれ。
平成12年4月11日
相変わらず友綱部屋通いの毎日である。友綱部屋までは自転車で5,6分で、マワシにドロ着(浴衣)をはおって自転車をこいでいくが、今朝は風が強く、道に桜吹雪が舞い、冷え込みがきつかった。花冷えというそうである。
今年は花見にもいけそうにないが、部屋から友綱部屋までの道すがらには満開の桜の木が数あり、目を楽しませてくれている。
平成12年4月12日
大阪から帰ってきてから、右翼団体の街宣車が部屋の周りを騒がしている。週刊誌での騒動以来、いろんな相撲部屋を回っているようだが、親方が理事で広報部長ということもあり、昼間2,3度怒鳴り散らしては去っていく。昼寝をしかけるとやってきて、昼寝どころではない。近所の人もかなり迷惑なことであろう。
平成12年4月16日
最近、部屋にネズミがよく出没する。食料の豊富な1階ちゃんこ場と地下によく出るので、薬をまいて、強力チュークリン3なる粘着シートを何ヶ所かにセットしてある。昨日、ようやく薬を食ったネズミが1匹、ちゃんこ場で死んでいた。さすがに相撲部屋で暮らしているだけあって 見事なアンコであった。
粘着シートの方にはなかなかひっかからなかったが、今朝まわしを締める為に地下に降りると、粘着シートが一つなくなっている。「お、ネズミがかかったか」と思ったら、「あのー、間違えてまわしをネズミ捕りの上においてしまいました」と新弟子がやってきた。かかったのはネズミではなく朝花田であった。
平成12年4月17日
巡業組、今日は移動日で興行がないため、昨晩久しぶりに部屋に戻る。今日午後より再び、次の巡業地茨城鹿嶋市へと向かう。このあと、茨城県ひたちなか市、福島県いわき市とまわり、21日(金)は、靖国神社で奉納相撲となる。靖国神社は、入場無料。
土日に成田、横浜アリーナとやって春巡業の全日程終了である。翌24日が夏場所番付発表となる。
平成12年4月19日
怪我の為治療中だった魁皇が昨日から稽古場に現れ、同じく肘の怪我の為、部屋でトレーニングと調整をやっていた朝乃翔も今日から友綱部屋の出稽古に加わる。白マワシが二人も揃うと、稽古場の雰囲気が一気に華やぐ。
平成12年4月21日
どこかで聞いたことのあるような改名ですが、平塚若松部屋を愛する会が組織を新たにして湘南若松部屋後援会としてスタートすることになりました。以前より入会しやすくなっています。近辺の方いかがでしょうか。
今年は、8月13日~16日の期間、平塚運動公園土俵にて合宿の予定です。
平成12年4月22日
朝から久しぶりの快晴で、目に青葉・・・という句が思い浮かぶようなほど新緑の鮮やかさが清々しく、薫る風が浴衣に心地よい。雨の日や寒い日には足が重い出稽古も、こういう日は気持ちがいい。
先場所自己最高位で勝越した朝松尾、友綱部屋でも連日いい汗をかいている。はっきりいって高校相撲出身にしては相撲は強くもないし、うまくもないが、入門以来一日も稽古を休んだことがない一生懸命さは、部屋中の誰もが認める所である。
平成12年4月24日
夏場所新番付発表。先場所8枚目で8勝7敗と勝ち越した朝乃若、番付運がよく自己最高位の西前頭筆頭まで躍進。朝青龍は待望の一ケタ9枚目。朝松尾、今場所から改名して朝ノ浜。勝次郎の命名である。三段目を狙える自己最高位の43枚目まで番付を上げてきた。朝ノ霧、朝天山も自己最高位
平成12年4月25日
今日から2週間後の夏場所に向け本格的な稽古再開。稽古をはじめて8時過ぎ、関取衆が稽古場に上がってくると、しばらくして横綱曙、十両の高見盛、友綱部屋の戦闘竜とやってきて賑やかな稽古場となる。朝青龍、横綱の指導を受け、十両の両関取を相手にいい稽古をみせた。しばらく3部屋合同稽古となりそうである。
平成12年4月26日
横綱曙、十両の高見盛と朝青龍をつかまえてアンマ。初めて横綱の胸を借りた朝青龍、はめ板までふっとばされて下窓の木枠が壊れてしまったが、いい経験になったことであろう。
平成12年4月27日
今日も東関部屋との合同稽古。横綱が土俵に上がると、やはり迫力が違う。その横綱、稽古後今日は若松部屋で風呂に入り、ちゃんこを食べていく。巡業の話になり、「やっぱり、こうやって一緒にちゃんこを食っていた頃がいいなー」と昔話に花が咲く。
(昔の巡業では、一門ごとに ちゃんこをやっていた。-現在は全力士バイキング料理)
平成12年4月29日
ご案内が遅れましたが、明日30日国技館土俵において、横綱審議委員会総見の稽古が行なわれます。今までは、相撲教習所土俵にて関係者のみの中で行なわれてきましたが、今回からは一般公開されます。午前7時入場で7時半から11時まで。入場無料です。
また、初日の前日5月6日(土)に行なわれる土俵祭りも一般公開とのことです。こちらは、午前10時開始ですが、入場は9時40分までとのことです。同じく入場無料です。
平成12年5月2日
昨日から伊勢ノ海部屋の土佐ノ海と大碇も出稽古に来る。横綱(曙)に東西の小結(魁皇と土佐ノ海)、幕内二人(朝乃若と朝乃翔)、十両二人 (高見盛と戦闘龍)と豪華な顔触れが揃う。場所前とあって、新聞記者やNHKのアナウンサーなども上がり座敷に顔をみせ、若松部屋はじまって以来あまりなかったであろう雰囲気の稽古場である。
平成12年5月5日
3月6日の日記で紹介した女相撲の大関“若みどり”さんの生涯が講談になりました。
神田陽子さんの新作講談で、題して「女相撲 大関 若みどり」。4月29日に国立演芸場で初披露して以来好評で、お江戸日本橋亭や上野、浅草でも舞台をを重ね、日本テレビ「知ってる つもり」でも取り上げようかという話もでているそうである。
平成12年5月6日
明日から夏場所初日。相撲を見るのには一番いい季節だが、横綱武蔵丸、新大関武双山ら関取8人が休場とのことで盛り上がりに欠け、明日初日の切符もかなり売れ残っているそうである。前頭筆頭の朝乃若は大関千代大海、朝乃翔は新入幕栃乃花との対戦。
平成12年5月8日
足袋についての質問をいただきました。本場所の土俵で足袋を履くのに特に許可はいりませんが、関取は白足袋、幕下以下は黒足袋と色分けは あります。ただし、足袋を履けるのはどちらか片方の足のみで、両足袋はだめです。
平成12年5月10日
序の口の朝松本、相撲経験はないが、柔道の岡山県中学チャンピオンである。今日の相手は、先場所話題となった同期入門のロシア出身力士「大露羅(おおろら)」。195cm、200kgの巨漢である。
体力では負けているが、剃り込みのはいった顔では十分勝っており、相撲も勝負強さを発揮して勝ちの2連勝。
15才にしては、なかなか迫力のある顔をしている朝松本だが、まだ声変わりしていなく、喋るとまだまだ子供なのである。
平成12年5月12日
朝ノ土佐、物言いのついた一番だったが勝って順当に3連勝。昨日勝って3連勝とした 朝赤龍と共に、先場所序の口で果たせなかった、二人で優勝決定戦の実現に向かって近づいていっている。
幕下以下はまずまずの成績だが、両関取が連日苦しい土俵で、勝率5割からは遠のくばかりである。特に朝乃翔は、番付あとがないだけに心配 である。
平成12年5月13日
三段目取組途中、まわしの股を通している前ぶくろが大きくゆるみ、土俵下審判から局部がはっきりと確認された為、勝負規定第16条により 反則負けという“チン事”いや、珍事があった。
衛星放送中継直後で、全国にも放映され、画面ではお尻の割れ目しか見えなかったが、どうも見たことのあるお尻だと思ったら若松部屋朝ノ霧であった。大正時代以来、80何年かぶりの事だそうである。支度部屋では大勢の報道陣に囲まれ、関取衆からは握手を求められ、一躍“時の人”となってしまった。
さすがに本人にとってはショックは大きかったようで、帰りがけ協会事務所でまわしを新しく購入し、部屋に帰るなり黙々と折っていた。部屋では「でも、出したのが部屋で一番でかいフクちゃんだったから良かったよな」と変に納得していた。
平成12年5月14日
朝、稽古前に日刊スポーツを手にとっておどろいた。なんと!朝ノ霧が一面トップではないか。最近相撲の記事がスポーツ紙の一面を飾る事はほとんどなかったが、久しぶりの一面記事である。しかも、朝ノ霧である。記事によるとロイター外電により世界中にもこのニュースは流れたそうである。
支度部屋でも今日もこの話題でもちきりで、よその部屋の力士の中には、恥ずかしくてすかしてしまうんじゃないか、と心配するむきもあったらしいが、心配御無用。あのくらいで滅入る朝ノ霧ではない。
なんせ、日ごろから出し慣れているし(露出狂なわけではない)、なんといっても自信があるのだから・・・
朝ノ土佐と朝赤龍4連勝の勝越し。
平成12年5月15日
全勝だった朝ノ土佐に土がつく。朝ノ浜と朝ノ霧負越し決定。一躍有名人となってしまった朝ノ霧、土俵に上がるとあちこちからフラッシュを浴び、相撲どころではなかったようで、二丁投げを思いっきり食らって、踏んだり蹴ったりの一日となってしまった。皆さん、土俵上くらいは温かく見守ってあげて、相撲に集中させてください。
平成12年5月17日
朝乃翔、待望の待望の初白星。帰ってきた顔には安堵感と喜びがあふれでていた。経験したものしかわからない心持ちである。明日から全く違った気持ちで土俵に上がれることであろう。
朝赤龍6連勝。あと一番勝って千秋楽の序二段優勝決定戦出場である。夕、後援会筋の関係で、女優の杉田かおるさんが部屋に来る。元来鳥は大好きだそうで、ソップ炊きちゃんこにおいしいと喜んでくれる。
平成12年5月18日
関東龍と一ノ矢勝越し。これで勝越し6人、負越し6人となった。残る序の口の2人が14日目最後の一番に勝越しをかける。
平成12年5月19日
朝赤龍七戦全勝。千秋楽に優勝決定戦である。相手も同期生で、同じく高校相撲埼玉栄高校出身の力士。
一昨日のお昼のことであるが、イスラエルのモチさんという方が2年ぶりに来日して部屋を訪ねてきた。朝ノ霧事件はイスラエルの新聞でも1面トップだったそうで、2年前にも部屋に来ているモチさんは、「イスラエルで朝ノ霧に会ったことがあるのは私だけ」と大いに自慢したそうである。
平成12年5月20日
序の口の取組。相次いで土俵に上がった朝花田と朝松本、揃って3勝3敗で今場所最後の1番を迎えた。結果は朝花田負越し、朝松本勝越しと明暗を分けた。初めて体験する負け越しのくやしさ、勝越しのうれしさだが、この思いをしっかり胸に刻みこんで、来場所からの稽古に取り組んでいって貰いたい。
なにせまだ相撲人生は始まったばかり、-まだまだ序の口 -なのであるから。
あす千秋楽の土俵に上がるのは6力士。5勝1敗なら勝率5割到達である。
平成12年5月21日
魁皇の劇的な初優勝で幕を閉じた夏場所、国技館前には久しぶりにダフ屋まででていた。その千秋楽の土俵、幕内取組途中で序二段優勝決定戦に出た朝赤龍、快心の相撲で優勝を飾り、千秋楽祝賀会に華をそえる。
ちょっとはにかみ屋の朝赤龍、優勝インタビューはものすごく緊張したようで、ちょっと失敗したそうである。
千秋楽パーティには、モンゴル大使もお祝いに駆けつけ、 青と赤の活躍に目をほそめていた。
平成12年5月22日
午前9時前、一場所分の朝寝を楽しむかのように、部屋中からいびきが鳴りひびいている。午前9時全員起床で、今場所の反省を兼ねた若者会。引き続き大掃除。午後2時過ぎ大掃除を終え、晴れて自由の身となる。
勝越した朝松本、気分もウキウキで 新幹線に飛び乗り実家の岡山へ帰省。負越し力士は里帰りできないので、朝花田は部屋で寂しく留守番である。
平成12年5月26日
休みを利用して母校琉球大学相撲部を訪れ稽古した一ノ矢。2年前に復活した琉球大学相撲部の二人いた部員も3年生になったが、そのうち一人が交通事故に遭い休部中で、新入部員の勧誘も進まず、6月4日に大阪で行なわれる西日本学生選手権にはサッカー部とテニス部から助っ人を借りて、3人で参加する。(団体戦は5人制だが3人いれば出場できる)来年までに新入部員が入らないとまた廃部、という“絶滅寸前のトキ”状態である。
平成12年5月27日
舞の海の引退相撲に旭鷲山の結婚式と、関取衆にとっては忙しい一日となった。今日から稽古始め。初日の為、四股とぶつかり稽古のみにてあがり。休みはあっという間に過ぎ、また名古屋場所に向けての毎日である。
平成12年5月28日
徳之島出身力士は現在6人。隣の奄美大島や沖永良部島などの大島郡全体では14人にもなります。(他に喜界島、 与論島)
5つの島を合わせて総人口10万人を少し超える程度だと思いますが、人口比率からいうとかなり高い数字でありましょう。 先代高砂の46代横綱朝潮、現衆議院議員の旭道山も徳之島出身です。
平成12年5月29日
巡業のない夏場所後と初場所後は、行司や呼出しにとって習字や太鼓の稽古の時期である。やぐらの上で叩くやぐら太鼓には、開場時にたたく一番太鼓、相撲打ち出し(終了)と同時にたたくはね太鼓、その他に寄せ太鼓と二番太鼓の4種類ある。
人にもよるだろうが、様になるまでは2,3年はかかるそうである。
平成12年5月30日
そもそも太鼓は、力士にとってはどんな意味があったのであろう。現代の力士にとっては、初日の前日に部屋に来る触れ太鼓と、巡業のお好みで聞くやぐら太鼓実演しか聞く機会はまずないが、昔、両国回向院(えこういん)境内に国技館があった頃は、相撲部屋の殆どは半径1km以内にあったであろうし、部屋で国技館から鳴り響く太鼓の音を聞いていたであろう。太鼓が時を知らせ、相撲の進行を知らせてくれる身近な音であったろうと思われる。
平成12年6月1日
太鼓は国技館の外に向かって鳴るが、館内で進行を知らせるのが柝(き)である。柝の音は今でも力士にとっても身近な音で、支度部屋や土俵入りのとき、また巡業中の一番柝、二番柝など響き渡る柝の音で進行状況を知ることができる。
平成12年6月3日
年3回東京場所後発行の若松部屋新聞取材のため、両国緑町交差点三和銀行となりの足袋のオーダーメイドの店“喜久や足袋”に行ってきた。力士の足袋を作りつづけて80余年、現店主は双葉山の足袋も作ったことがある2代目宮内梅治さん(70)である。両国界隈では有名な店で、マスコミの取材も 多々あるそうだが、相撲取りが取材にきたのは初めてだといって喜んでもらい、お土産に足袋までもらってしまった。
話を聞けば、娘さんは元房錦の先代若松親方の息子と幼稚園の同級だったそうで、その頃たいへん仲が良く、昔の木造建ての若松部屋にもよく遊びに行ったらしく、昔話に花が咲いた。古き良き下町の店である。
店内には、雷電から双葉山、曙、さらにはジャイアント馬場までの足型も展示されており、さながら町の博物館である。好角家必見の店である。
平成12年6月4日
今日から、福島県白河で毎年合宿をはっている東関部屋の合宿に同行。市内から車で20分ほどの白河関ノ森にある白河相撲道場にて8日までの合同合宿である。
平成12年6月9日
携帯電波の入らない地での合宿のため、しばらく更新をお休みしました。
平成12年6月10日
今日あすと花相撲(大相撲勝抜優勝戦)のため、四股とぶつかりのみの稽古。
平成12年6月11日
白河の関は2ヶ所あって、どちらが古関跡なのか今でも論争があるそうだが、合宿地から少し離れたもう1ヶ所の関所あと「境の明神」は、二所ノ関部屋の由来の神社だそうである。司馬遼太郎の「街道をゆく33-白河・会津のみち」によると、境の明神(玉津島神社)には、玉津島明神と住吉明神が対になって奉られているので二所の関と呼び、江戸中期、それを四股名にとった所からきているのだそうである。
平成12年6月12日
関の話で気付いたが、関のつく年寄名は多い。三保ヶ関、東関、関ノ戸、二所ノ関と4つもある。勝手な想像だが、関という字には、しきり・ へだてという意味があるので、特別な存在ということでの・・関であり、関取りであるのであろう。その最たる存在が大関ということになり、それに次ぐものが関脇なのであろう。
平成12年6月13日
白河で東関親方と同席させてもらった時に、東関と高見山の歴代一覧表をいただいた。それによると、東関は江戸天明3年(1783年)が初代で、現親方で12代目である。7代目東関は大正時代の無敵横綱太刀山である。
面白いのは、初代、2代は最高位が序二段、4代目は幕下と幕下以下力士も親方になっていることである。高見山は14代目、これも江戸時代から続く名跡である。
平成12年6月14日
新潮文庫から「大相撲支度部屋-床山の見た横綱たち」(小林照幸)という本が出ている。昭和61年に引退した出羽海部屋の床山・床清さんの物語の本だが、その中に、昔はびんつけ油が関取用と幕下以下用と区別されていた、ということが書いてある。全く知らなかったが、部屋に来ている九重部屋の床岳(とこたけ)さんに聞いてみたところ、今でもあるにはあるらしいが、かなり固いのでくせ毛のきつい人の時しか使わないそうである。普通のびんつけより、かなりいい香りはするそうである。
平成12年6月15日
「大相撲支度部屋」を読んだ方から、床山さんの仕事にはちょん髷を結う他に、親方のひげを剃る仕事もあるのですか?という質問をいただき ました。床山さんも最初の頃はちょん髷を結うだけが仕事ですが、年数がたってくるとひげ剃りとか整髪の仕事もやるようになってきます。以前若松部屋にいた床義さんは、前職が床屋だったので重宝がられて、審判室の親方の整髪係でした。
平成12年6月16日
“よっさん”こと床義さんは、整髪やひげ剃りはうまかったが、髷結いはお世辞にもうまいとはいえなかった。郷里で経営していた散髪屋を任せて、床山になったのが30才と、入門も遅かった。大銀杏を覚えたての頃、郷里で巡業があり、現中村親方の富士桜関をモデルに髪結い実演をやることになったそうである。
大銀杏は、髷棒(長さ30cm程の畳針をとがらしたもの)で「びん出し」といって、耳の後ろから後頭部にかけて髪を張り出していく所が一番難しいらしいが、なにせ大勢の見物客の前で、しかも地元とあって緊張のあまり富士桜関の頭を2度ほど髷棒で突いてしまったらしい。一度目は我慢していた富士桜関も、二度目は「いてぇー」と叫び、「よっさん、今度刺したもう土俵を下りる」と言われたそうだが、何とか演り終えたそうである。
平成12年6月17日
いいとこうりのよっさんは、協会の中ではかなりの有名人だったが、あまりにいいとこばかりうるので、相撲取りの中には、よっさんは大銀杏が結えないと本気で思っているのもいたほどである。
巡業中は一門ごとに頭をやるが、稽古嫌いな力士には特に人気があり、一門外でもわざわざよっさんにやってもらいたがったらしい。(うまい人にやってもらうと元結いがゆるまないが、よっさんにやってもらうと、ちょっとやっただけでちょん髷が乱れ、すごく稽古をやったように見えるから)
しかしながらよっさん本人はそんなことは全く意に介さず、悠々自適とした床山生活を送り、定年をかなり前にして相撲界を去って郷里へ戻っていった。先代の頃の若松部屋はよっさんで持っていたようなものであった。
平成12年6月18日
入門した頃部屋に宮坂さんという世話人の方がいた。現役時代高瀬山という四股名で十両まで上がって将来を嘱望されていたそうだが、糖尿病を患って大成できず世話人になっていた。風貌やしゃべり方がジャイアント馬場に似ていて、いかにも昔のおすもうさんという雰囲気の人だったが、この人の飯の食い方はすごかった。
ドンブリに大盛りの飯をつぐと、それを箸で十文字に切り、四等分された飯をパクリとひとのみ、丼飯が四口で終わるのである。いいとこ抜きの話である。昭和60年、名古屋の場所中にこの世を去った。享年54才であった。
平成12年6月19日
現在若松部屋は本所にあるが、10年前までは両国2丁目にあった。両国回向院(えこういん)横の、細い砂利道を入っていった突き当たり右の木造建ての部屋であった。1階が稽古場と風呂場、ちゃんこ場があり、昔のしきたりで稽古場の上には建物がなく、稽古場以外のスペースの上に2階が建ち、若い衆の部屋になっていた。
稽古場の上が空間になっていたのは、当時の若松部屋と立浪部屋が最後であった。
平成12年6月20日
両国の元若松部屋跡は、砂利道もなくなり、近代的なビルになっているが、先々代のおかみさんの家だけはまだそこにある。先々代おかみさんは、初代若松(昭和2年再興後-若松名は江戸時代からある)元小結射水川の娘で、元前頭鯱ノ里が婿養子となり2代目若松を継いだ。現在も8番お茶屋“上州家”の大おかみとして、場所中は国技館で、元気な姿で座っている。
平成12年6月21日
ホテルニューオータニの創業者の大谷氏は、富山県出身の幕下力士であった。現役中から酒屋など色々と商売に才を発揮したらしく、相撲茶屋まで買ったらしい。クニモンであった初代若松の射水川が、昭和2年高砂部屋から独立するときに、お祝いに相撲茶屋をプレゼントしたのが現在の上州家だそうである。
そういう縁もあって、相撲関係者のパーティはニューオータニを利用することが多い。先発隊5人(一ノ矢、朝天山、朝青龍、朝ノ浜、朝菊地)蟹江にはいる。地元の方々にお帰りなさいと迎えてもらう。
平成12年6月22日
“お茶屋”“相撲茶屋”について質問をいただきました。現在正式には、全体で「国技館サービス株式会社」という株式会社になっており、その中に1番から20番までの案内所、「上州家」(8番)とか「高砂家」(1番)とかいう茶屋があります。仕事は、相撲の入場券の販売業で、入場券にお土産とか弁当・焼鳥・酒などをセットにして販売します。相撲協会から売り出される入場券の7,8割方はお茶屋さんに引き取って貰い、それ以外が一般に売り出されることになります。その為、桝席等は一般には入手しにくくなっていますが、不況の時にはお茶屋さんに助けて貰っているという事は大いにあります。最近は、お茶屋さんの方でも協会からの切符を売り捌くのが大変で、一般売りも始めているようです。
平成12年6月23日
川のつく四股名について質問をいただきました。ラジオ番組で、「昔は怒涛のごとく流れる川、という事でゲンのいい四股名だったのが、最近はダム等でせき止められるからいい名前でなくなった」、という話がでていたそうです。ダム・・・のせいかどうかはわかりませんが、確かに戦後急速に減った四股名で、日本の河川事情と関連はあるような気がします。
調べてみると、戦前は横綱で、綾川、小野川、境川、男女ノ川と 4人いますし、清水川、幡瀬川、若瀬川といった名力士の名も浮かびます。更に昔の四股名である年寄名には、武蔵川、高田川、安治川・・・ 等など15も残っています。
平成12年6月24日
先発隊の仕事は、主に掃除、土俵作り、幟立てなどであるが、昨日土俵作りを行い、今日は幟立て。16本の幟を蟹江町内に立てる。今年初場所後に引退して、地元多治見で就職している元朝天寿も、休みを利用して手伝いにくる。いまは67kgしかなく、おすもうさんだったとは絶対に見えない。先発には毎年来ていたので、幟立てなど慣れたものである。
平成12年6月25日
名古屋からこだまで30分の豊橋市で若松部屋激励会が行われる。豊橋後援会は今年で10年を迎える草創期からの後援会で、今年も200人を超す方が集まり、盛大に挙行される。
全力士名古屋へ乗り込み。明日が番付発表である。
平成12年6月27日
昨日発表になった名古屋場所新番付。先場所6勝1敗の朝青龍は、幕下西2枚目。関取昇進へは5勝で濃厚、十両の星次第では4勝3敗でも可能性あり、という地位である。十両5枚目まで陥落の朝乃翔、一から出直しとの気持ちで、名前を本名の一(はじめ)に戻す。
平成12年6月28日
久しぶりの梅雨の晴れ間。蟹江は、田舎とはいえ名古屋市に隣接し、高速道が走り、先日合宿に行った白河ほどの静寂も澄みきった空気もないが、雨後の空はあくまで青く深い。田んぼの稲も緑を増し、雨の中少しおとなしくしていた蚊も元気一杯とびまわり、みんな刺されまくっている。特に免疫のない新弟子は症状がてき面で、“きんかん”を塗りまくっている。
平成12年6月29日
朝乃若と朝青龍、東関部屋へ出稽古。東関部屋は、名古屋の北、一宮市の手前の稲沢市にあり、今日は友綱部屋の魁皇や伊勢ノ海部屋の土佐の海らも集まり、報道陣も多く、賑やかな稽古場だったそうである。
東関、友綱、伊勢ノ海は、最近一門の枠を超えて場所前常に合同で稽古しており、その中に若松部屋も加わる事になるようである。
平成12年6月30日
愛知県一宮市出身の朝乃若、ご当所なだけに毎日忙しい。今日は昼間、中日新聞社に挨拶に出向き、晩、名古屋ドームで行なわれた中日-ヤクルト戦の始球式。朝乃若カラーの蛍光イエローの着物に紺の袴をはき、マウンドに上る。試合もドラゴンズが勝ち、大満足の一日であったようである。
今日の若松部屋
平成12年7月1日
元関脇岩風について質問をいただきました。岩風は“潜航艇”の異名をとり“褐色の弾丸”房錦と同時期に関脇をはり、横綱大関を大いに苦しめた名力士である。江戸っ子気質の房関に対し、寡黙でインタビューなどでは新聞記者泣かせの昔気質の力士だったようで、引退後はすぐ相撲界を離れたようである。手元に資料がないので確かでないが、平成元年頃ひっそりと亡くなったようで、房錦の3代目若松も新聞か相撲雑誌でその事を知ったほどであった。ちょうど名古屋場所の頃であった記憶がある。房錦がこの世を去ったのも平成5年名古屋場所後である。
平成12年7月3日
元房錦の3代目若松は、酒が強かった。自分が入門した頃は、まだ50前で、一緒に飲みに連れて行かれると、「相撲取りは、酒はこうやって飲むものだ」と、日本酒にしろ水割りにしろ殆ど2口で飲み干した。現役時代は巡業宿で、宿にある徳利を一人で全部飲みきったこともあったそうである。50の声を聞いてから、持病の糖尿病に加え、肝臓、高血圧、胃潰瘍などの病を併発し、平成2年現在の親方に若松を譲った。
平成12年7月4日
元房錦の先代は、部屋を譲った後栃木県の鹿沼に別荘を建て、療養生活を送っていた。現若松4代目へと引き継がれた弟子7人。しばらくは、鹿沼へと足を運んでいたが、病状が悪化して弱った姿を見せたくないという気持ちと、新しい親方の元でしっかりやってくれという気持ちがあったようで、鹿沼へ弟子が来るのを禁じた。
平成5年7月、胃潰瘍からの出血多量で息をひきとった。
平成12年7月5日
現立行司29代木村庄之助親方は、房錦の父、式守錦太夫(きんだゆう)の養子であり、先代若松とは兄弟にあたる。房錦の葬儀は、本人の強い希望もあり密葬で行なわれたが、相撲関係者で参列したのは庄之助親方と床義さんだけであった。病に苦しんだとはとても思えない、穏やかな顔だったそうである。
伊藤光博氏から正確な情報を提供いただきました。岩風さんが亡くなったのは 昭和63年4月30日だそうです。ありがとうございました。
平成12年7月7日
昨日行なわれた激励会。キャッスルホテルにて300名を超す盛会となる。
平成12年7月8日
初日前の土曜日とあって、見物客も大勢土俵の周りを取り囲んでいる。稽古終了後、毎年恒例となっている、宿舎龍照院の「十一面観音」に無事と必勝を祈願。816年前に彫られた観音様で、重要文化財である。祈祷のあとご住職に、「願う事は大切ですが、願った事に対して努力することがもっと大切なことです」との言葉をいただき、明日からの本場所に向け誓いを新たにする。
午後2時、触れ太鼓が明日からの取組を触れに来る
平成12年7月9日
先場所、肘の怪我で十両陥落を余儀なくされた朝乃翔、弱り目にたたり目状態で、名古屋へ入る1週間ほど前から腰の調子をおかしくしてしまった。いろんな所で治療に努めたが、思うように回復せず、今朝になっても相撲を取れる状態でなく、無念の休場となった。
全休すると十両からも落ちてしまう為、中途出場の心づもりだが、力士生命をかける2週間の日々となる。
平成12年7月10日
幕下2枚目の朝青龍今日が初日。相手は、先場所唯一の黒星を喫した力士との再戦。相撲内容には不満だったそうだが、まずは白星発進。三段目に昇進した朝赤龍も勝って、今場所もモンゴルの青と赤の龍が土俵上で大いに暴れてくれそうである。
平成12年7月11日
蟹江の部屋から愛知県体育館まではJR蟹江駅から名古屋へ出て、名古屋駅から地下鉄、またはタクシーで場所入りする。部屋から蟹江駅までは自転車で6,7分の距離だが、朝乃若の付人の朝菊地、帰りは関取のタクシーで一緒に帰ってくる為、駅まで歩いていく。ところが今日は出掛けに用事が入り、出るのが遅れてしまった。
電車を1本乗り過ごすと、次は30分後の為、駅まで必死に走り、駅に着いた時は浴衣が汗でビショビショであった。それがいい準備運動になったのか、長い相撲もねばって自己最高位での初日。入門して20Kg 近く痩せてしまっていたが、2年目に入り生活にも慣れてきたようで、ようやく入門時の体重にもどりつつある。
平成12年7月12日
宮城県石巻出身の朝花田、いかにも東北人らしい純朴な少年である。慣れない生活に失敗も多く、体重もこの春から10Kgほど減ってしまっている。おまけに場所前に肩を怪我して1週間ほど稽古を休んだ。不安なうちに迎えた名古屋場所だったはずだが、2連勝と結果を出している。
今日の相手は、先場所朝松本も対戦した195cm200kgのロシア人力士大露羅(おおろら)である。舞の海ばりの猫だましから、横に食いつき、土俵際下手ひねりの勝利で、思わずガッツポーズがでた。
集中すると、我を忘れるタイプで、土俵下審判から注意を受けてしまったが、目指すは舞の海2世である。
平成12年7月13日
地方場所はプレハブ建てのため、トイレも汲取り式の仮設トイレである。ここ連日の真夏日で、日中このトイレに入るのは、かなり心してかからねばならないが、10日前に汲取って貰ったのがそろそろ満員御礼状態になってきた。ただ、部屋のある蟹江近辺はまだ水洗トイレがそんなに普及してなく、一般家庭も汲取り式が多い。
汲取り依頼の電話をした朝ノ土佐、「いま2日後まで予約がいっぱいですので、2,3日あとになります。それまで何とか頑張ってください」との返答をもらった。「なにを頑張れっていうんですかね」と不思議がっていた朝ノ土佐、3連勝と今場所も好調である。
平成12年7月14日
朝青龍、初めて十両の土俵に上がり、琴岩国を破って4連勝の勝越し。これで来場所の十両昇進がかなり濃厚になってきた。ちょうど故郷のモンゴルではナーダムの祭典中で、モンゴル相撲の大関の次兄、今年はベスト8で敗れてしまったそうだが、朝青龍の活躍に、少し体調を悪くしているお母さんも電話口で涙して喜んでくれたそうである。
平成12年7月15日
序ノ口の朝花田と序二段の朝ノ土佐、揃って4連勝とストレートの勝越し。逆に朝ノ霧、今日の相撲も取り直しの末敗れて、4連敗と早々の負越し。場所前に肩を怪我したり、初日の相撲では勇み足で負け(日刊スポーツでは“もろ出しの次は足出し”と出ていた)と先場所の騒動から未だ抜け出せないでいる。来場所は序二段落ちである。
平成12年7月18日
途中出場に向けて、各所で治療にあたり、夕方もまわしを締めて四股を踏み、再起を期していた朝乃翔だが、苦渋の選択の末、今場所の全休を決意した。来場所は幕下からの再起となるが、中途半端で出て悔いを残すよりも、落ちるところまで落ちても体を完全に戻し、もう一度三役に挑戦する、というハラを括っての決断である。力士生命に関わる怪我により、自分の体や相撲に対する気持ちが今までとは比べ物にならないくらい変わってきたようで、災い転じて福となすことを願うのみである。
その朝乃翔の付人の朝ノ霧、先場所の騒動以来8連敗を続けていたが、ようやく久々の白星。あまりに久しぶりで、今日も勝ち名乗りを受けるのを忘れて、礼をしたらすぐ土俵を下りかけてしまったそうである。
平成12年7月20日
15才の朝松本昨日の一番で2場所連続の勝越し。5連勝だった朝花田と朝ノ土佐に土がつくが、朝青龍は6連勝と勢い衰えず、明日の一番にすでに決定的となっている十両昇進に華をそえる幕下全勝優勝をかける。
三段目の朝迅風は5勝1敗で、最後の一番に幕下昇進をかける。
福井県敦賀市から、夏休みを利用して高校3年生が今日から体験入門。相撲が好きで先生に相談したところ、若松部屋HPを見ていた先生から連絡が入り体験入門となった。伸長体重ともに少々足りないが、入門が叶えば初のIT関連力士の誕生となる。
平成12年7月21日
梅雨明け以来、町全体が熔けてしまうような暑さがつづく名古屋だが、今日も夜明けと共に暑い一日となった。
その暑さも吹き飛ばすように、朝青龍期待通りの幕下優勝。そして幕内では、横綱曙が3年2ヶ月ぶりの優勝。最近稽古や合宿等でともに過ごしてきただけに、若松部屋力士一同にとっても最高にうれしい優勝であった。朝青龍が優勝できたのも、横綱に稽古をつけてもらった賜物である。
平成12年7月22日
国技館や他の地方場所は、支度部屋が完全に東西に分かれて、そこに風呂もついているが、名古屋場所だけは、支度部屋は板で仕切られているだけで出入り口は一緒で、風呂も資格者用と若者用とに分けられているので、対戦相手同士が風呂場で殆ど一緒になる。最後の一番は3勝3敗 同士の対戦も多く、勝越し負越しと明暗を分け、風呂場でも表情は様々である。ただ一様に、今場所も今日で終わったという安堵感だけはどの顔にもある。
今日、今場所最後の一番を3勝3敗で迎えた朝ノ浜、横浜からお父さんが応援に駆けつけていたが、残念ながら負越してしまった。取組後、食堂で一緒に飯を食いながら、「頑張れ」とだけいって横浜へ戻っていった。
平成12年7月27日
昨日、秋場所の番付編成会議が行われ、朝青龍の十両昇進が正式に決定。午後1時より、千秋楽打上パーティーを行った尾張温泉にて親方同席での記者会見。魁皇の大関昇進で少し扱いが小さくなったが、入門10場所目史上5位のスピード昇進は、報道陣も多数集まり、若松部屋というより、相撲協会全体の期待の星誕生というムードである。
平成12年7月28日
土日わんぱく相撲で部屋に選手が宿泊するため、3力士と呼び出し邦夫帰京。残りは日曜日の新幹線で帰るが、今日午前で荷造りをして、午後いちで東京へ荷物を送る。トラック一杯117個の荷物である。先に帰った力士が、到着した荷物を片づけるが、玄関いっぱいに溢れて、地下から4階の関取の部屋まで荷物をふりわけ、運び終わるのは半日がかりの仕事である。
平成12年7月30日
新弟子にとって初めての地方場所は、地理もわからず何かと不慣れである。宿舎の寺をでてすぐ左に、お茶屋があるが、そこで宅急便も扱っている。ところが、その100m程先にも「出逢茶屋」という大きな看板の出たカラオケ喫茶がある。宅急便を頼まれた朝ノ土佐、「あ、お茶屋わかりますよ。」といって荷物を持って、「出逢茶屋」の二重扉を開けて入っていった。「すいませーん。宅急便お願いしたいのですが」中では、おじぃとおばぁが、歌っていたらしい。「えー」「なぁにー」「えー」大音響の中、3度の問答の末、ようやくここは宅急便屋ではないと気付いた。「だまされた」と思いつつ、帰りがけ、小さな看板のお茶屋をようやく見つけた。
午後1時28分発。ひかりの4車両を満杯にして、名古屋から全力士帰京。
平成12年7月31日
十両昇進の決まった朝青龍、8月6日から12日までモンゴルに凱旋帰国することになり、パスポートの手続きや大使館への挨拶と多忙である。昨日は、博多から小川屋さんが来て、化粧まわしや締込み、紋付き袴、夏大島の着流し、帯、・・・、関取としての一式を揃える為の打ち合わせ。化粧まわしは今の所、母校明徳と青森の後援者からの2本だが、もう2本くらい増えそうである。
平成12年8月1日
今日から青森五所川原合宿。一ノ矢、朝天山、朝青龍、朝ノ浜、朝赤龍、朝ノ土佐の6力士に、高知ろう学校の高校1年生も加わり7人。この生徒は、障害を持ちながらも小学校の時から相撲をやり、昨年度は高知県の中学校大会で準優勝もはたしたそうである。普段は高知高校に出稽古に行っているそうだが、夏休みで稽古相手がいなくなるため、若松部屋合宿に一夏参加することとなった。
平成12年8月2日
昨日の乗り込みの日は、東京と変わらぬ暑さだったが、今日は暑いなりにも風が吹き抜け、さわやかさを感じる一日となった。宿舎にしている江良産業は、生コンやガソリンスタンドを経営している会社で、千坪ほどの敷地内に相撲道場や温泉(ぬるいが)まである。五所川原市といっても隣りの金木町との境で、2階の窓を開けると、涼しい風と共に、津軽平野の青田が視界いっぱいに飛び込んでくる。数日後、朝青龍と一緒にモンゴルに里帰りする朝赤龍、「モンゴルの草原みたいね」と、すでに心は故郷にとんでいる。
平成12年8月3日
手形を押してサインを書けるのは十両からである。来場所から十両に上がる朝青龍、番付発表後に昇進祝もあるため、サインの練習もしなければならない。この後、8月21日の番付発表まで、モンゴル帰国や合宿で予定がいっぱいな為、とりあえず 200枚の手形を作ることになった。今日慰問した老人ホームの事務長さんに崩し字でサインを考えて貰い、それをマネつつ3時間かけて 200枚のサイン手形を完成。初めてにしてはなかなかの出来である。
平成12年8月4日
午後から青森のねぶた祭りに参加。ねぶたの先導を行く、青森後援会の藤本建設さんの“出世大太鼓”の上にのって、市内を一周。約3時間の道のりだが、終わり頃にはビールをかけあったりと、すっかり青森人である。
平成12年8月6日
隣り町の中里町芦野のお祭りで、午前中ちびっこ相撲教室とちゃんこ大会をやり、夜、土俵を囲んでの盆踊り大会。夜店も出て、高校生の時焼鳥屋でバイトをやったことがあるという朝ノ浜、ねじり鉢巻きで焼鳥屋のおやじに変身。うちわで炭を扇ぎながら焼鳥を焼く姿は、絵になっていた。明日、明後日は五所川原の立ねぶたに参加の予定である。
平成12年8月7日
五所川原市の立ねぶたに参加。市の資料によると、立ねぶたは、明治中期から大正初期まで行なわれていたそうで、その後電気の普及により電線が邪魔になって小さくしていたものを、平成8年、約1世紀ぶりに復活させた、ということである。高さ20m強、重さ16tの立ねぶたが3台、市内を練り歩くさまは、まさに勇壮である。
お世話になっている江良産業から贈られる朝青龍の化粧まわしの絵柄も、立ねぶた「鬼がきた」である。
平成12年8月8日
五所川原“立ねぶた”最終日。先導のねぶたの中には、大関清水川のねぶたもある。その清水川の化粧まわしが、今年制作の立ねぶた「軍配」の前をゆく。上手投げの名人清水川の名は知っていたが、五所川原出身だとは知らなかった。他に五所川原出身の関取は、江戸時代の大関柏戸など5人もいるそうである。
平成12年8月10日
大関清水川は波瀾万丈たる相撲人生を送った力士である。大正5年二十山部屋に入門。鶴のように細身の体ながらとんとん拍子に小結まで昇進、横綱大関を得意の上手投げで破る人気力士であった。ところが、人気におぼれ酒乱、放蕩のかぎりをつくし、本場所をさぼったあげく協会を除名、永久追放となってしまった。
絶望した父が、協会へ遺書を送り、自害して幕下から復帰。名前を父の名「元吉」に改め、闘志あふれる相撲で昭和7年関脇昇進、8戦全勝で初優勝を飾る。5月には大関に昇進して引退まで3度の優勝を数えている。
作家尾崎士郎が「人生劇場」を書くきっかけとなったそうである。昭和42年膵臓炎にて逝去とある。
平成12年8月11日
青森の夏はねぶたとともに終わるようで、ここ数日は朝夕、津軽平野を吹き抜ける風に蜻蛉がゆらぎ、蝉の鳴声も儚げで、秋が感じられなくもない。10日間の青森合宿を終え、午前9時五所川原を出発。盛岡から新幹線で午後3時半に上野着。上野駅の改札を出ると、ムッとした熱気が体を包み、相変わらず真夏の東京に帰ってきた。
平成12年8月12日
モンゴルへ行っていた親方家族と朝青龍、朝赤龍、帰国。十両昇進を決めての帰国だけに、さすがに熱烈歓迎だったようで、ハードスケジュールに疲れきったようすである。明日からまた、来場所へむけてのスタートである。
平成12年8月13日
今日から平塚合宿。力士8人と高校生1人、滋賀県からの中学生2人で計11人の参加。後援会組織が少し変わった為、装いを新たにしての合宿である。稽古は、明日朝7時半から、16日朝までの3日間、平塚市総合公園相撲場にて行なわれる。
平成12年8月14日
後援会の方のご近所で、タレントの山瀬まみさんのご両親が経営する店にいく。平塚駅から徒歩3分のところで、”Fifty's” という名のアメリカンスタイルのBARである。ちょうどお盆やすみで、本人も帰っていて店に出ていて、記念撮影してもらった。あらゆる種類の酒がおいてあり、つまみのチーズとかも豊富でおいしくて、おしゃれなお店である。開店10年だそうである。
平成12年8月15日
平塚合宿も今年で7年目である。市民にもだいぶ覚えてもらったようで、街を歩いていると、「あ、今年も若松部屋がきたんだ」と声をかけてもらえるようになった。吉野平塚市長も、年々熱を入れてくれて、忙しい公務の合間をぬって、合宿所に顔を出してくれる。今回は夏巡業に出ている為不参加だが、合宿所のすぐ近くに実家がある朝迅風の中学校の先輩であり、四股名の名付け親である。
平成12年8月16日
平塚最終日。稽古とちゃんこを終え、お昼すぎバスにて東京へと向かう。当初の予定としては、このあと長野合宿にいくはずだったが、中止になった為まっすぐ東京へ向かう。これで、夏合宿全日程を終了。来週月曜日には9月場所番付発表である。
帰国したモンゴルでの写真が一部できてきて、朝赤龍がうれしそうに眺めている。本物は7月末に終わっているが、歓迎のミニナーダムも行ったらしく、馬が帰ってくるまでの間にモンゴル相撲もやり、ドルジ(朝青龍)とダシ(朝赤龍)がモンゴル相撲の衣装に身を包んで闘っている写真や(決勝で対戦しドルジが勝ったそうである、モンゴル相撲の勇士たち(ドルジの父や兄)と親方が、草原で並ぶ姿は誠に美しい。
平成12年8月18日
8月1日から夏休みを利用して合宿等、生活を共にしている高知ろう学校の1年生池田君。障害を感じさせないほど明るく、すっかり部屋の生活になじんでいる。趣味はカメラ(使い捨てだが)とカラオケで、一緒に歌いに行くと「もうええ・・」という程歌いまくる。演歌から広末涼子までレパートリーも幅広い。伴奏があまり聞こえないから何でも歌えるんですよ、という輩もいるが、みんなそんな池田君のファンである。
地元高知では、昨年TVに出たりもして、けっこう有名人だそうである。20日間で写真を100枚以上撮り、明日高知へ帰る。
平成12年8月19日
あす土俵築のため、土俵を掘り起こす。5月場所後、名古屋場所、合宿と続き土俵を殆ど使っていない為、土俵は乾ききって土もくたびれた感じだが、掘り返して水を撒き、細かくつぶしていくと生気が蘇ってくる。
夜8時半。巡業組(朝乃若、朝迅風、朝菊地)3人札幌から飛行機で帰京。さすがに疲れきった顔である。
平成12年8月20日
明日の番付発表から晴れて一人前の関取となる朝青龍、付人も決まり、明日から2Fの大部屋をでて、4Fの個室が与えられる。羽織袴なども出来てきて、身辺が慌ただしく様変わりしている。29日には、日本での地元高知で昇進披露パーティも行なわれる。
逆に、関取から幕下へ陥落する朝乃翔、4Fの個室を出て、明日からは大部屋暮らしとなる。
平成12年8月21日
9月場所番付発表。十両昇進の朝青龍、7枚目まで躍進。今日から関取としての待遇になり、ちゃんこの時も座布団がひけて、自分のお膳に専用の箸や茶碗もつく。午後2時から昇進記者会見。
朝乃翔は、幕下5枚目まで陥落。最低6勝はしないと復帰できない位置である。
平成12年8月23日
東関部屋から横綱曙と幕内高見盛、友綱から新大関魁皇、伊勢ノ海から幕内土佐ノ海と十両大碇、と出稽古に集まり、若松部屋幕内朝乃若と新十両朝青龍を加え、豪華な申し合いが繰り広げられる。熱気溢れる稽古場となった。
平成12年8月24日
昨年初場所に引退した朝鷲、引退後、家業のちゃんこ屋を継ぐべく都内で板前修行をしばらくやっていたが、子供の頃からの夢を捨て切れずに、プロレス修行の道へすすんでいた。今月初めに部屋に挨拶に来て、今日、後楽園ホールで所属団体「闘竜門JAPAN」の練習生として、リングサイドで動き回っていた。
あすメキシコへ旅立ち、9月上旬、メキシコのマットでプロレスラー伊藤透(リングネームはまだ未定だが)としてデビューするそうである。
平成12年8月25日
相撲雑誌には、ベースボールマガジン社の「相撲」と、読売新聞社の「大相撲」と2誌ある。その「大相撲」の方に、元出羽の海部屋の力士で、演芸作家の小島貞二氏が、“20世紀と大相撲-力士生活の変遷”という記事を書いており、力士の衣・食・住の移り変りを昔の写真入りで紹介している。ちゃんこは明治中期から・・戦前の巡業は大半の関取が洋服姿・・などなど、興味深い話、エピソードが満載である。
平成12年8月26日
風邪で体調を崩したらしく、昨日は稽古場に顔をみせなかった横綱が、今日は、まだ本調子ではないようだが土俵にあがりいい汗をかいている。最近自分の稽古もそうだが、後進の指導にも熱心で、若い衆の稽古にも常に声をかけて、稽古場の雰囲気を高めている。当然といえば当然だが、当然な事を毎日続けるのは至難である。心身の充実感がないとできないことである。
見学に来てそんな横綱の姿を間近に見た、来日している「スパイダーマン」の原作者(名前は聞き忘れたが、かなりの著名人らしくTVカメラもくっ付いてきた)も、感動しきりであった。
平成12年8月27日
朝青龍の締込みが出来上がってきて、付人頭の朝ノ霧が中心になって折る。色の表現が難しいが、ちょっと青に近いというか、淡い紺色である。長さ約10m、幅75,5cmの絹のシュス織りで、物差しで計り、チョークで印をつけて、まず3つ折りにし、更に2つ折りにする。型をつけるため、何日間かは重しをのせて押さえておく。
おとといは新品の開荷も届き、塗りたての塗料の匂いが新十両を感じさせている。
平成12年8月28日
NHKの朝の番組の生中継が東関部屋から行なわれ、東関部屋での稽古。稽古場がちょっと狭いので、友綱部屋も加わると、土俵まわりが相撲取りで埋まってしまい、暑いことこのうえない。ぶつかった順に外へ出して、外で四股を踏ませる。今日から4日間中継はつづくそうで、明日は友綱部屋からだそうである。
中継は8時少し前頃だが、場所が変わるだけで、やっているメンバーは明日も同じである。
平成12年8月30日
今場所幕下の6枚目から再起をかける朝乃翔、8月上旬にレーザーによる腰の手術をして、その後懸命にリハビリ、筋トレに励んできた。その甲斐あって、ようやく相撲を取れる状態にまで回復してきた。まだ、序の口・序二段相手のアンマだけだが、得意の突っ張りの腕の伸びも出てくるようになった。前半戦(特に初日)をうまく乗り切れれば、見通しは明るいのだが。
平成12年8月31日
四股はいつの頃から踏まれるようになったのであろうか。四股という字は当て字で、元来は醜(しこ)であるらしい。辞書によると、「敵から 憎まれるほど強い者」の意で、四股名も元来、醜名と書いたらしい。
最近はあまり聞かれなくなったが、一昔前は、「四股十両、鉄砲三役」と といって、四股を極めれば、申し合い稽古をしなくても十両まで上がれるという格言もあった。
平成12年9月1日
四股は深い。入門してから今まで、一日に最低2~300、多い時には500とか1000回踏むこともあったから、入門以前アマチュアの時も入れると20数年、数えきれないほど踏んできたが、正直なところ未だにわからない。若い頃は我慢して踏んでいた。筋力トレーニング の一環として行っていたような感がある。
ここ数年ようやく面白さがわかってきた。踏んでいるとだんだん無駄な力が抜け、無我の境地とまでは至らないが快適になってくる。最近思うのは、筋トレ的な意味もなくはないが、それよりも身体の使い方、意識(例えば丹田をつくる)の鍛練だ、ということである。他の色々なトレーニングが対症療法的なものであるのに対し、全く次元の違う根本的な運動であるということである。世界中を捜してもあまり類のない運動ではなかろうか。
平成12年9月2日
初日前、触れ太鼓の音と、呼出しさんの触れの声を聞くと、気分も高まってくる。初日、朝乃若は海鵬、新十両の 朝青龍は五城楼との対戦。
平成12年9月4日
取組を終えて部屋に帰ってきた朝ノ浜、以前付人をやっていた朝乃翔のところにやってきて、「おかげさんで勝ちました」といつもより元気良く挨拶してきた。よっぽど快心の相撲だったのかと思い、「どうやって勝った?」と聞くと、ニコニコしながら「不戦勝でーす」という返事。初の、しかも初日からの不戦勝にご機嫌であった。
関東龍は、1場所2回を含め通算5回も不戦勝があるが、一ノ矢は、17年間土俵に上がりながら、いまだかつて一度もない。
平成12年9月5日
“双葉山”という名前は、相撲人にとっては神様に等しい響きを持っているが、一般人にとっては、名前は聞いたことがあるが・・程度の認識しかないかもしれない。ベースボールマガジン社の「相撲」で連載している「人間の貫禄というもの-大双葉伝説26」で、運動科学研究所所長の高岡英夫氏が、身体の使い方、身体意識(丹田など)の立場からの双葉山像を解明している。そのレベルは、人類史上かなり高い所まで到達しているそうである。
平成12年9月6日
上野に"サンプレイ"というトレーニングジムがある。ボディビルで、元ミスター日本になったこともある宮畑豊氏(奄美大島出身)のジムである。腰のリハビリの為、ここ何ヶ月かお世話になっている朝乃翔、宮畑会長自らメニューを組んでくれて、場所中も連日通っている。帰ってくると疲労困憊、といった感じのハードメニューだそうだが、59才の宮畑会長、同じメニューを楽々とこなしているそうで、まさに鉄人である。そんな鉄人の後押しもあり、順調な回復具合で、2連勝と幸先よいスタートの朝乃翔である。
朝菊地、初日の相撲で膝を痛め、今日から休場。
平成12年9月7日
最近はあまり聞かれなくなったが、「四股は羽目板の前で踏め」、ということわざがある。体を前傾させずに直立させろ、という言葉である。相撲を取る時には突っ立つのは悪いことで、前傾姿勢にならなければならないのに、基本の四股は、なぜ体を立てなければならないのか、長い間疑問であった。その答えが、前述の高岡英夫氏の文の中にある。「相撲」9月号P110-「現代人、あるいは現代の相撲取りを見ると、腿の前面の大腿四頭筋を使う傾向が強い。・・・(中略)・・・それに対し双葉山は、腿の裏側の大腿二頭筋によって前方力(前へ押す力)を生み出していた。・・・(後略)」。
自分でやってみるとわかると思うが、前傾姿勢で四股を踏むと、主に使われる筋肉は太腿の前(大腿四頭筋)である。体を直立させて踏むと、より裏側・体の中(二頭筋や股関節・腸腰筋、大殿筋等)を使わなければならない。
オリンピックが近づいてきて、最新トレーニング情報が伝わってくるが、陸上などでここ数年ようやくたどりついた感のある、「裏側の筋肉で体を前に進める」という理論を、大相撲では、江戸・ 明治の頃から確立していたのである。
平成12年9月8日
三段目11枚目自己最高位の朝迅風、2連敗の滑り出しだったが、持ち前の馬力相撲で元幕下上位経験者を一蹴。勝越せば初の幕下昇進が見えてくる。45枚目の朝赤龍、3連勝。こちらもあと3つ勝って6勝すれば幕下入りの可能性もある。
平成12年9月9日
「家賃が高い」という言葉がある。自分の実力以上の地位に番付が上がって勝てないときに使う。
今年春場所入門して、2場所続けての勝越しで 序二段二桁まで番付を上げてきた朝松本、今場所はさすがに家賃が高かったようで4連敗で負越し。掲示板での地元からの応援メッセージにもある通り、“今場所は勉強”である。
朝赤龍4連勝で勝越し。こちらは、まだまだ高い家賃も払えそうである。
平成12年9月10日
例年なら中日を迎える頃にはすっかり"秋"場所なのだが、今年は始まりが1週間早いせいもあり、いまだに名古屋場所を思い出させる毎日である。中日を終えて29勝33敗。勝越し1人、負越し2人という成績である。
平成12年9月11日
今場所番付が一番下の朝天山、奮起して朝赤龍につづき2人目の勝越しを決める。雨上がりの夜道を自転車で走っていたら、うれしさにペダルをこぐ脚にも力がはいり、スピードを増し、「・・俺は風になった・・」、と思った瞬間にこけてしまったそうで、「いた・た・た・」と、脚を引きずりながら帰ってきた。
135kgのデブを風にしてしまうほど、勝越しとは嬉しいものである。
平成12年9月12日
新十両の朝青龍、今日は思い切りの良さが裏目に出て、強引な投げにいったところ足をかけられて負けてしまったが、10日目を終えて6勝4敗。場所前、稽古をつけてもらった横綱に飯を食いに連れていってもらい、長丁場の15日間を「5日間づつ3つに分け、3勝2敗づつでいけ」と、関取として15日間毎日取る心構えを教えて貰ったそうで、ここまでは順調である。残り5日間、3勝2敗でいければ9勝6敗となるのだが。
平成12年9月13日
序二段の朝天山から始まり、幕内朝乃若まで、出場全力士が黒星という、さんざんな一日となった。7人も取組があると、間違ってでも1人くらい勝つものだが、あまり記憶にない珍しい結果である。勝率5割まであと3勝と徐々に盛り返していたが、今日で負けが10も上回ってしまった。明日は8人の取組がある。どれだけ挽回できるか、である。
平成12年9月14日
朝赤龍、昨日の稽古でちょっと腰を痛め心配されたが、全勝が痛みも忘れさせてくれるようで、苦しい体勢ながらも長い相撲を我慢しての6連勝。三段目には全勝が3人残っているので、明日の取組に勝つと優勝が決まる、という可能性もある。朝ノ土佐4人目の勝越し。朝花田負越し。
平成12年9月15日
朝青龍、新十両うれしい勝越し。あすモンゴルからお母さんと妹が日本に来るそうで、お母さんへの最高のお土産となるであろう。シドニーオリンピックの開会式、モンゴル選手団の中に兄(レスリング代表)の顔もあったようである。朝赤龍、立合いの失敗で三段目優勝を逃す。朝松本と関東龍、全敗が心配されたが、最後の最後でようやく目が開く。
平成12年9月19日
17日に行なわれた千秋楽打上パーティ。会場を新たにして、勝率は5割に届かなかったものの、朝青龍のお母さんと妹と共に、フレルバートルモンゴル大使も馬頭琴奏者と一緒に出席し、「20年前外交官として初めて日本に来た時、TVの大相撲中継を見るのが大好きで、中でも大関朝潮関の大ファンだったのですが、縁あってモンゴルの若者が親方の部屋に入門して、関取まで出世して好成績で勝越して、本当に感慨深いものがあります」とのご挨拶をいただき、満場割れんばかりの拍手で盛り上がる。
平成12年9月24日
女子マラソンでの高橋尚子選手の金メダルなど、シドニーオリンピックでの日本選手団の活躍がめざましいが、相撲(SUMO)もオリンピック競技めざしての活動が盛んである。日大相撲部の田中監督が旗頭となって、毎年世界選手権を開き、加盟国は既に85カ国にものぼっているそうである。新相撲(女子)もその活動の一環である。2008年の開催地が大阪に誘致されれば可能性は高いようである。
平成12年9月25日
明治神宮奉納相撲。午前中、参拝と奉納土俵入りが行なわれ、午後から国技館にて全日本力士選手権。十両トーナメントに出場の朝青龍、決勝戦まで勝ち残る。優勝賞金30万円だと聞き、「30万円入ったら秋葉原で買物して、うまいもの食って・・・」 と、意気込んで土俵に上がったそうだが、対戦相手の玉力道もそれ以上に気合入っていたようで、惜しくも敗れ計画は全て消えてしまった。あさっては、福祉大相撲でトーナメントがある。
平成12年9月27日
相撲マンガも数あるが、大相撲の世界に身をおいている立場からすると、いちばん納得できて、現実感があって、楽しめるのは、ちばてつやの「のたり松太郎」である。松太郎の破天荒な性格、対照的な田中君、バクチ好きの西尾のじっちゃん。個性溢れるキャラクターに、実際に春日野部屋で取材した細かい描写。とくに始めの頃の、蔵前国技館の相撲教習所へ通う辺りは、大好きなところである。
そういえば、蔵前の土俵を知っている力士も数えるほどに減ってしまった今日この頃である。
平成12年9月29日
昨28日、秋巡業へ出発。巡業へ出るのは関取とその付人(幕内2人、十両1人)で、行司や呼出し床山まで入れると約300人近い一行である。朝乃若には朝迅風と朝天山、朝青龍には朝ノ霧が付いて出ている。
行司勝次郎は、すでに1週間ほど前から 巡業の先発として出ている。
平成12年9月30日
どこの部屋も巡業にでて残っている人数が少ないため、合同稽古となる。今回は、友綱部屋から3人、武隈部屋から1人、東関部屋から1人と、若松部屋へ集まっての合同稽古。序二段下位力士が多く、朝花田、朝松本にはいい稽古相手である。
今日の若松部屋
平成12年10月1日
10年ほど前になるか、週刊漫画ゴラク(だったと思うが)で連載していた「達磨」は、もろ親方がモデルであった。そのうち作者の木村えいじ先生も部屋のパーティとかにも顔を出すようになり、案内状やグッズのキャラクターを書いてもらっている。
そういえばむかし、「わいはアサシオや」という4コマまんがもあったっけ。
平成12年10月3日
親方が現役の頃、「アサシオ」という名前の猫がCMに出ていた。引退してすぐの頃(まだちょん髷はついていた)、何かのポスターの撮影に付いていった時に、猫の「アサシオ」を見た憶えがある。何代目かの「アサシオ」とのことだった。朝潮とアサシオ共演のポスターだったが、あれは何のポスターだったのだろう。
昔、親方は“アルギンZ”のCMにも出ていて、その頃高砂部屋に行くとアルギンZがゴロゴロあった。
平成12年10月5日
“朝潮太郎”という四股名は、高砂部屋伝統の由緒ある名で、今の親方は5代目朝潮である。4代目は先代の高砂親方-第46代横綱朝潮である。4代目朝潮は徳之島井之川出身で、一ノ矢の両親と同じ小学校(当時は国民学校か)であった。昭和4年生まれだから、親父の2つ下、お袋の1つ上で、小学生の頃から人並みはずれて大きく、運動会の時には大太鼓を胸に抱えて叩く役だったそうである。初土俵は昭和23年だが、その当時徳之島はまだ米軍統治下で(昭和28年復帰)、小船で密航しての入門だったそうで、当初は神戸出身となっており、復帰になって初めて徳之島出身に変えた。当時密航を手助けした人間は、まだ徳之島で存命である。
平成12年10月6日
4代目朝潮の高砂親方は、いかにも南方系の風貌で、眉濃く、胸から腕、手の甲まで毛濃く、手を見て「毛ガニ」というあだ名がついていたほどで、骨格、特に顔や耳も巨大で、子供の頃田舎ではじめてみた時は、驚いた記憶がある。本人は巨人症的に見られるのを嫌がっていたようで、晩年 巡業先とかでタクシーに乗ると、たまに大内山に間違えられることがあり、とても機嫌悪かったそうである。昭和28年奄美復帰の頃は関脇をはっており、郷土の期待を一身に受けた英雄であった。
平成12年10月7日
先代高砂親方の実家は、徳之島の太平洋側、井之川という村の海辺にある。20年ほど前のことだが、実家と海の間に合宿所と土俵を作って、夏巡業の間、残り番の力士が2,3週間合宿をはっていた。
大学生だった当時、夏休みで帰省して、毎朝スーパーカブ(原付)に乗って 7,8kmの道を通った想い出がある。当時水戸泉関は17,8才で三段目あたりだったが、途中からいなくなったので、どうしたのかと聞くと、盲腸にかかりヘリコプターで鹿児島の病院まで運ばれて危うく命を落とす所だった。当時は徳州会病院もなく、大きな水戸泉関を手術できるような病院が島にはなかった。
平成12年10月8日
徳州会というのは徳之島の郷友会のことである。島の人間同士の繋がりは深く、各地に関東徳州会、沖縄徳州会、等など必ずある。自由連合代表の徳田虎雄氏は徳之島出身で、そこから名前をとって病院名とし、全国に病院を広げている。 高校1年生の時だから1976年頃か、徳之島高校に講演に来たことがある。
当時大阪に病院を1つ建てたばかりで、数年のうちに全都道府県に病院を建て、将来的には世界中に病院を建てると、熱く語っていたのと、2浪で阪大医学部に合格した猛烈受験勉強話が印象に残っている。強烈な個性から、島の中でも好嫌激しく、激戦選挙に一層火を注いでいるが、若者への影響力、僻地医療への貢献は確かである。
平成12年10月9日
徳之島の選挙は激しい。特に町長選挙になると数票差で決まることもあり、苛烈きわまる。元々奄美の他の島々と違って血の気の多い人間が 多く、公営ギャンブルもないから、その熱い血が選挙と闘牛に向けられることもしばしばである。大体の票筋はわかっているから、数少ない浮動票をいかにつかむかが闘いとなり、親兄弟で争うこともたまにあり、仁義なき戦いの場となる。その熱き血が、柔道の徳三宝を生み、徳田虎雄を育て、横綱朝潮や旭道山を出す土壌となっているのであろう。
平成12年10月10日
残り番力士による平凡な稽古がつづく毎日である。しばらく徳之島ばなしを続けたいと思う。
TVは、高校3年生の時までNHKしか写らなかった。もちろん塾もゲームもないから、遊びは野や山や川である。徳之島にはカブトムシはいなくクワガタばかりなので、もっぱらクワガタ捕りに山に入った。また、ガジュマルの木の上に家を作って遊ぶのは大好きであった。いま思うと不思議なのは、子供心にもハブの怖さは十分わかっていたはずなのに、山へ入る時はちっともハブの怖さを感じなかった。
平成12年10月11日
奄美群島の中で、奄美大島と徳之島にはハブがいる。ほんとかどうか知らないが、一説には徳之島には人口(約3万人)の3倍ハブがいるという。小学生の頃、祖母の家へ泊りにいったら、朝、大騒ぎになったことがあった。天井から落ちてきたハブがおばあちゃんの頭を噛んだらしく、幸い頭の皮膚は血管も細いので、病院で血清を打って大丈夫だったが。ただこういう話は稀な例で、特に舗装やコンクリートの増えた最近の町中ではまず見られなくなった。島の産業であるさとうきび畑には、エサのネズミを求めてけっこういるが。小学校高学年から畑仕事を手伝って高校を卒業するまで、畑で3匹ほどハブを殺したことはある。
ハブは保健所やハブ業者(ハブ粉、ハブ皮製品)が買い取ってくれる為、ハブ捕りを仕事にしている人もいる。(1匹5千円ほど)そんなハブ話を昨年の冬巡業で関取相手にしていたら、最近仲間内では、「おばあちゃんはハブに噛まれて死んだとか、一ノ矢はハブ捕り名人でハブを食っている」などと話が大きくなっているらしい。
平成12年10月14日
小学生の頃、島には信号がなかった。車は走っているので自動車学校はあり、小学校4年生になると、社会科の時間に自動車学校で信号の渡り方の実習の授業があった。エレベーターができたのがやっぱり4年生の頃で、エスカレーターは中学生の時だった気がする。早速友達と乗りに行って、興奮したのを覚えている。もちろん電車もないから、いまだに電車に乗るとワクワクする。新聞は鹿児島から来るので、朝刊が夕方配達される。今日のTV欄の番組は、すでに殆ど終わっているのである。
平成12年10月15日
「出身は徳之島です。」というと、何人かに一人は「ああ、四国の」、と言われる。「それは、徳島だ!」「鹿児島県の奄美の・・」で、やっと理解してもらえる。最近では金メダリスト高橋尚子選手の合宿地として有名になり、島には“尚子ロード”なるものもできているらしい。
鹿児島から沖縄まで連なる南西諸島のやや沖縄寄りに位置し、1週約80kmの島である。1609年薩摩藩に攻め取られるまでは、琉球王国の圏内で、文化的には琉球文化である。いまは鹿児島からジェット機で1時間だが、昔は船しかなく、鹿児島から12,3時間、しかも小学生の頃はまだ接岸できず、はしけであった。沖縄までは沖永良部島、与論島を経て約8時間である。大学4年の冬休みを終え、相撲界入門を密かに決意して沖縄に戻る時、船上から見る島影が、だんだん小さくなっていった光景はいまだによく覚えている。
平成12年10月16日
枕草子の「春はあけぼの・・・」に続くくだりで、「冬はつとめて・・」、という。“つとめて”は、早朝の意で、徳之島の方言でも朝のことを“しぃとぅみぃてぃ” という。少しなまっているだけで同じ言葉である。琉球方言である徳之島の言葉には、このような万葉言葉が数多く残っていて、平安の世の匂いが微かながらも残っている。
しかし、以前は学校で方言を喋ると罰せられた為、最近の若い世代は聞くことはできても、殆ど喋れなくなってしまった。憂いべき、文化の喪失である。
平成12年10月17日
徳之島も冬はやっぱり寒い。ただ、気温が10度を切って吐く息が白くなるのは、一冬を通して数えるほどしかない。だから、寒いという感覚はあっても冷たいという感覚はない。受験で鹿児島に出て初めて、“空気の冷たさ”という感覚を知り、「ヤマトゥ(大和)に来た」ことを膚で感じた。
アラレは何年かにいっぺん降ることがある。小学生の頃、授業中だったがアラレが降ったので、傘を裏返しにして全員で外へ飛び出したことがあった。雪は降らない。10数年前、島の最高峰井之川岳(645m)の頂上で、観測史上初めて確認されたそうだが、その年世界一の長寿者泉重千代翁がこの世を去った。
平成12年10月18日
「やっさんたい!」で始まる九州場所に先発隊5人(一ノ矢、朝菊地、朝ノ浜、朝ノ土佐、朝花田)乗り込み。福岡空港にはやっさん夫婦と、今年からお世話になる柳川の建設会社社長に出迎えて貰う。到着して空港レストランに昼食に向かうと、ばったりポール牧さんと出会う。正午、二日市の宿舎に入り、やっさん夫婦や社長ともども大掃除。夜、社長の地元柳川で、ウナギやムツゴロウをご馳走になる。やっぱり九州はよかばい。
平成12年10月21日
土俵築。新弟子は慣れない土方仕事で、手が血豆だらけである。先発隊は、忙しい反面、朝稽古はなく人数も少ない分のんびりした雰囲気はある。やっさんも非番の日は朝から先発隊の仕事を手伝っているし、小学校2年生になった息子“けんと”は、「ただいまー」と部屋に帰ってきて、宿題をやって日記をつけている。
「きょうは、すもうべやであそんで、あすもうさんとごはんをたべました。」これから1ヶ月間、似たような日記がつづくのであろう。
平成12年10月22日
巡業組、最終地山口市での巡業を今日終え、山口から博多乗り込み。東京の残り番も来て、全力士福岡入り。
巡業は、いろんな部屋から力士が 参加するので、時に同期生会もやるらしい。今回はなかったそうだが、平成4年入門の朝ノ霧の年の同期生会は、会の名前が「朝ノ霧会」というそうである。命名は、朝ノ霧が世界的有名人になる前からのことらしい。本人に聞いても「なぜだかわからないっす」とのことであった。
平成12年10月23日
11月5日初日の九州場所番付発表。
平成12年10月24日
稽古始め。序二段申し合いの途中、地元のお宮さんから神主さんに来てもらって土俵祭り。今場所の無事を祈願する。先場所途中休場の朝菊地、久しぶりに申し合いに参加。怪我をしている間に10kgほど大きくなった朝菊池、怪我をして休んでいる間に太るのは、他のスポーツでは最も避けるべきことだが、相撲ではそうでもなく、入院中に太って化けた例が数ある。前後左右の区別がつかなくなるほど丸々としてきた。
平成12年10月26日
朝乃若、柳川の老人ホームを訪問。夜、市内で歓迎会も盛大に行われる。九州人は全般に宴会好きで、歌や踊りに盛り上がる。宴半ば、女子高生によるパラパラもでて、関取はじめ力士も全員参加。やっぱり朝乃若が一番うまかった。 途中、隣りの大和町にある「雲龍の館」を訪ねる。大和町出身第十代横綱雲龍久吉の資料館で、雲龍直筆の手紙や歴代横綱の写真など充実した展示物が飾られている。資料館の前庭には雲龍ドームと呼ばれるドーム型屋根付きの立派な土俵もあり、毎年11月には相撲大会も行われている。
平成12年10月27日
25日から八角部屋へ出稽古に行っていた両関取、今日から伊勢ノ海部屋への出稽古。横綱はじめ一門の関取衆も集まって活気ある稽古場だそうである。
平成12年10月28日
朝ノ土佐、初めてちょんまげを結う。はじめてちょんまげを結うと、兄弟子に「おかげさんでちょんまげ結えました」と挨拶する。そうすると兄弟子からコンパチ(でこぴん)をしてもらい、油銭(あぶらせん)といって小遣いを貰える。痛いけど嬉しいものである。最初は頭が重く感じるものである。
平成12年10月30日
福岡乗り込み以来、雨と、温かいというより日中は暑い日が続いていたが、ここ数日ようやく朝夕の冷え込みと秋晴れが少し顔をのぞかせるようになってきた。宿舎のある二日市は、博多市内より2,3度気温が下がるようだが、それでも今年は稽古場のストーブもしまったままである。朝迅風などは、夜冷え込んできてもTシャツに短パン姿でうろうろしている。
平成12年11月2日
ニューオータニ博多にて若松部屋激励会が盛大に行われ、九州場所での活躍を誓う。司会は、毎年おなじみの“あべやすみ”さん。あべやすみさんは、親方が現役時代からの友人で、ここ数年ラジオのRKB毎日放送で、火~金まで「歌謡曲ヒット情報」という番組ももっていて、福岡ではかなりメジャーになっている。
平成12年11月3日
お世話になっている“やっさん”の舎弟に“むなちゃん”という青年がいる。そのむなちゃんは、寮生活ながらもやっさんの家にいりびたっていて、やっさんに付いて部屋にも時々顔を見せる。世の中には、自分に似た人が3人はいる、というが、むなちゃんは喋り方といい、仕種といい、朝ノ霧にそっくり、うりふたつである。そんな話のなか、朝ノ霧の携帯の着メロが鳴った。「キン、コン、カーン」 という始業の鐘の音の、変わった着メロだが、その音までまったく一緒の二人だった。(全くの偶然である)
平成12年11月5日
20世紀最後の本場所九州場所初日。にもかかわらず、お客さんの入りはいま一つで、すこし寂しい幕開け。
若松部屋は、序ノ口の朝花田からスタートしたが、序二段一ノ矢まで4連敗。三段目朝ノ土佐と十両朝青龍は白星を飾り、通算2勝5敗の滑り出し。朝青龍は、秋巡業の稽古でも、幕内力士を相手に互角以上の稽古をこなしてきたようで、自信をもって土俵に上がっている。
平成12年11月6日
幕下17枚目まで落ちた朝乃翔、復活目指して、熊本まで腰の治療に通い、リハビリに努め、今朝まで出るつもりで調整に励んできたが、相撲を取れる状態まで回復せず、今朝、無念の休場届を提出。不戦敗となった。
ただ、腰の具合はいい方向に向かっていることは確かなようで、落ちるところまで落ちても、完全に直して再起をはかる腹づもりである。
平成12年11月7日
今場所初のアラの差入れがありアラ鍋ちゃんこ。九州場所ならではの楽しみである。アラを食べて元気よく、といくはずだったが、今日も初っ口から4連敗。おわってみれば2勝6敗、通算でも8勝16敗と5割からどんどん遠のいていく。脂の良くのった魚なので明日からの取組にじわりじわりと効いてくれることであろう。
平成12年11月8日
地方場所はプレハブ建てに簡易トイレなので、東京での生活では考えられないことが起こる。今年は暖冬で、いまだに蚊も多いが、ハエも多数発生してトイレの中にも飛び回っている。おすもうさんの栄養満点の便を食料にしているせいか、丸々と太ってブンブン飛んでいる。あまりに多いので、ハエ取り紙をトイレの中にも下げた。
またたく間に成果はでたが、おまけで、人の頭までくっつけてしまう。朝、眠気眼でトイレに 入って、頭にハエ取り紙とハエがついてしまった邦夫、朝からついてない、とぼやくことしきりであった。
平成12年11月9日
今年61才になる久留米在住の、元若松部屋OBが部屋を訪ねてきた。現役時代、やっぱりヘルニアで力士生命を絶たれたようで、朝乃翔に親身になって体験談を語ってくれた。朝乃翔も真摯に聞き、復活への心意気を高めたようである。初めて、5勝2敗と大きく勝ち越す。
平成12年11月10日
岡山県出身の朝松本、ときおり実家から“きびだんご”を送ってくる。特産品だけあって、けっこううまいが、今日、親方の後援会筋の岡山の人から部屋宛てに“きびだんご”が届いた。いつも朝松本に送ってくる物とは別会社のきびだんごである。それを見た朝松本、「これより、家から送ってくるきびだんごの方が、元祖じゃけんうまいですよ」と、真剣になっている。確かに、実家から送ってくるきびだんごには“元祖きびだんご”とかいてある。
7勝1敗と大きく勝越し。ようやく勝率5割を超える。
平成12年11月11日
どの部屋にも、必ず一人は「ブー」と呼ばれる力士がいる。現在の若松部屋では朝天山が「ブー」である。そんな中、元祖「ブー」が登場した。5,6年前に引退した元小桜こと岡元克己氏である。現在は、地元宮崎県都城に帰って仕事をしているが、年に1回九州場所には顔を見せてくれる。いまでもよかたにしてはかなり「ブー」だが、現役時代全盛期には 185kgあり、200k力士のいなかった当時としては角界でも3本の指に入る正真正銘の「ブー」であった。
平成12年11月14日
序ノ口の朝花田、今場所若松部屋第1号の勝越し。十両3枚目の朝青龍、10日目での勝越し。気が付けば十両優勝争いトップの成績である。十両優勝を土産にしての来場所新入幕へ大きく前進している。朝青龍の高校の1年後輩で、付け人をやっている朝ノ土佐、今年初場所入門以来勝越し続きで三段目中位まで上がってきたが、初の負越し決定。
平成12年11月17日
最後の1番を前にして朝ノ浜と朝菊地の同期生、そろって勝越し。特に朝ノ浜は、改名してから半年間3場所負越し続きだっただけに、改名後初の勝越しとなる。命名者の勝次郎もさすがに気になっていたようで、自分のことのように胸をなでおろしていた。
平成12年11月18日
朝赤龍、初幕下で3勝3敗からの勝越し。かなり緊張したようで、安堵の笑顔があった。先輩の朝青龍ほどではないが、順調にスピード出世の階段を歩んでいる。その朝青龍、激しい張り手を交えながら智ノ花を破り11勝目。ほぼ決定的となっている新入幕に加え、明日の取組に十両優勝をかける。
平成12年11月20日
きのうの千秋楽、横綱曙の優勝が決まると、一門の関取衆が勢揃いして万歳をするのが慣例である。その時は黒紋付での参加となる。取組が終わると紋付袴に着替えて優勝の瞬間を支度部屋で待つことになるが、用意する時になって、羽織の前につけるボンボンを東京に忘れてきたことに気付いた。「さぁ困った」となった時に頼りになるのがスーパーウーマンやっさんの奥さんである。さっそく筑紫野市にある結婚式場の主任に電話して、貸衣装においてあるものを借りて事無きを得た。そんな奥さんだけにやっさんも頭があがらない。
平成12年11月23日
あくまでも酒の席での一般論である。酒を飲むと女の話になるが、本場所で、東京、大阪、名古屋、福岡と4都市をまわって、一番いい女がいるのは福岡だ、という意見が多い。確かに、街を歩いていると「ハッ」とするような美人を目にすることは多いように思う。ファッションセンスもかなり高い気がする。反対に、いちばんがっかりすることの多いのは名古屋である。あくまでも一般論であり、例外は多々ある。
平成12年11月26日
午前9時半博多駅集合の為、7時起床で、畳を上げ最後の大掃除。博多駅では、部屋ごとに新幹線の指定席と弁当銭3千円を貰い、10時49分発のひかりで博多を後にする。数年前は、雪の中を帰京した憶えもあるが、窓から見える風景は少しばかりの紅葉と柔らかな日差しで、冬まだ遠しという感じである。
途中富士山が空に浮かび、朝赤龍「はじめてみた。きれいね。」と感激しきりである。午後4時40分東京駅着。もうすっかり夕暮れである。
平成12年11月27日
地方場所は色々あって面白いのだが、やっぱり東京の部屋に帰ってくると落ち着く。特にトイレは地方場所の場合、殆ど仮設和式トイレなので、膝や腰に障害のある力士や痔のある力士にとってはかなりの苦痛で、東京の部屋のウオッシュレットは快適このうえない。また、地方のトイレは汲取り式なので臭いも強烈で、あまり長いこと入っておれないが、東京の洋式水洗トイレは、若い力士にとっての貴重なプライベートな空間でもある。
平成12年11月28日
朝青龍の次兄が来日、12月2日からブラジルで行なわれる世界相撲選手権の選手たちと共に部屋に宿泊。一緒にきた選手は、一昨年の同大会では今をときめく琴光喜に勝った猛者である。明日部屋で稽古して、ブラジルへと向かう。
平成12年11月29日
読売の「大相撲」12月号に出身地別力士数がでている。多い順にいくと東京54人、愛知50人、大阪48人だが、力士が一人もいない県もある。鳥取県である。1人の県が富山と香川、2人だけが秋田、山梨、徳島。
戦前の大関能代潟、横綱照国、名大関清国を生んだ秋田県が序二段2人だけというのは意外な感である。前にも書いたが、徳之島は6人の現役力士がいる。またモンゴルは、九州場所の新弟子3人を加えると14人という大勢力である。
平成12年11月30日
「大相撲」誌に“金星見つけた!”というコーナーが、15日間の取組を紹介する熱戦グラフというカラー写真の頁の片隅にある。今月号九州場所総決算号の5日目を飾っているのは若松部屋関係者である。旦那さんは若関や翔関の近大の先輩で、親方やおかみさんとも家族ぐるみの付き合いがある22才の主婦である。今夏、大阪から東京へ引っ越してきて秋場所国技館へ見にいったところ写真を撮られて、親戚・友達に電話しまくったそうだが、先月号では誌面に載せてもらえずがっかりしていた。が、1場所遅れでようやく日の目をみることになった。
おすもうさんもけっこう楽しみにしているコーナーである。
平成12年12月1日
「大相撲」で連載を続けていた小坂秀二氏が、今月号を最後に筆をおくようである。小坂秀二氏は、元々は歯科医で、その後NHK・TBSと アナウンサーを経て相撲評論等の執筆活動を行っていた。相撲の本質を最もよく見ていた人で、毎月号の連載を楽しみにしていたのに残念である。著書には「わが回想の双葉山定次」「大相撲ちょっといい話」など多数ある。
平成12年12月3日
巡業組が1週間の九州巡業を終え、空路帰京。1週間ぶりの顔合わせだが、朝菊地、また一段と丸まるとしてきたようである。
平成12年12月4日
渋谷にあるモンゴル大使館にて板橋区長と会食。1997年10月というから、今から3年前、朝青龍が来日して1ヶ月-明徳義塾に入学してすぐの頃、モンゴルと友好関係にある板橋区に兄ともども招待されて小学校などを訪ねたことがあるらしい。当時17才で体重も80kgそこそこしかなかったので、その少年が現在の朝青龍だとはなかなか気付かなかったそうだが、最近ようやくわかり、モンゴル大使を通じての再会が実現した。
この3年で50kg大きくなった朝青龍に驚きの区長さんであった。
平成12年12月5日
友綱部屋へ出稽古。この時期の出稽古は朝の凍てつくような冷たさがつらい。
長野朝日放送がちゃんこの取材で、友綱部屋での稽古から部屋に戻ってのちゃんこまでを収録。土曜夕方の番組だそうだが、この後長野県内の高校相撲部に体験入部したり、佐久の“ちゃんこ大鷲”へも取材へいくそうである。ちゃんこ大鷲には、若松部屋OBである元房乃龍と元朝泉が働いている。放映は12月23日午後5時からとのこと。ただし、長野県のみである。
平成12年12月7日
来年1月下旬頃の予定だそうだが、ベースボールマガジン社「相撲」編集部編による“20世紀大相撲人物大事典”なる本が刊行されるそうである。江戸から現代までの幕内力士1500人を一挙にまとめ、その略歴、エピソード、図版・写真等を紹介。その他、江戸からの番付一覧、ミニ知識、行司一覧など内容も盛りだくさんで、愛好家や資料研究には必携の書となりそうである。
平成12年12月8日
朝青龍に3本目の化粧まわしが贈られることになった。毎年夏、青森合宿の時にねぶた祭りで世話になっている藤本建設よりの贈呈で、青森ねぶた祭りの先導をゆく「出世大太鼓」の絵柄となる。スピード出世に更に勢いをつける化粧まわしになることであろう。
平成12年12月9日
今日は若松部屋にての稽古。友綱部屋と東関部屋もきての3部屋合同での稽古。それに加えて、明日国技館にて行なわれる全日本相撲選手権に出場する明徳義塾高校の高校生2人も参加。2人とも、今年の国体や宇佐大会などでの優勝の実績が認められての堂々の参加である。大学生や社会人を相手にどこまで頑張れるか楽しみである。
平成12年12月10日
アマチュア日本一を決める全日本選手権、アマチュア横綱の栄冠を勝ち取ったのは、日本大学2年生の内田水(いずみ)選手である。内田選手は熊本文徳高校の出身で、朝青龍と同級生になる。インターハイの準決勝で対戦して内田が勝って決勝まで進み、朝青龍は3位の成績だった。 国技館に観戦に行った朝青龍、内田選手と久しぶりに会い、「もう勝てなくなったなぁ(内田が朝青龍に)」と声をかけられたそうだが、3,4年後には幕内の土俵で再び熱戦を繰り広げることになるであろう2人である。
平成12年12月13日
朝青龍、先日の次兄と入れ違いに三男の兄(朝青龍は四男)が来日しているが、このほどプロレスの“バトラーツ”入りが濃厚となり、今日団体の代表兼社長の石川雄規氏が部屋に来た。バトラーツは埼玉の越谷駅前に道場があり、一般人向けのトレーニングジムもあり賑わっているようである。年内は大阪と東京で1試合づつあるようで、正式にはその試合がすんでからの入門となるようである。
平成12年12月14日
きのう今日と東関部屋での稽古。横綱の指導のもと稽古が行なわれている。立合いに難のある朝ノ浜、横綱から「仕切線から下がりすぎだ。もっと相手に近づいて当たれ」としつこく指導を受け、当たりが見違えるようによくなる。序二段申し合いでは面白いように芽が出て、三段目相手にもいい稽古を続け、いい汗をかいた。
平成12年12月16日
立合いは、いつの頃から現在のような形になったのだろう。窪寺紘一氏の「日本相撲大鑑」-新人物往来社-によると、最初は「手合い」といって立ったまま相撲をとったそうで、手を下ろして立合うようになったのは、江戸中期からだそうである。昨年暮れにNHKBSで放映された「名力士名勝負100年」を見ると明治から戦後しばらくまでは、しっかり両手をついて立合っていたことがよくわかる。昭和後期の十数年のみ手をつかない、中腰の立合いの時期があった。
平成12年12月17日
立合いは難しい。物理学の基本法則でいうと、F=mαであるから、単純に考えると体重(m)が大きい方、スピード(α)のある方が当たった威力(F)が大きく有利である。ところがこの式は、固体における式なので、動きながら形が変わったり、方向を変えたり、更に新しい力が加わったりする人間の身体には、そう単純にいかない面もでてくる。そこに人間の意識が加わるから余計に難しくなってくる。そこが相撲の面白さでもあり深さでもある。
平成12年12月18日
仕切線の間隔は70cmである。スポーツライター山田ゆかりさんの「スポーツの謎77を科学する」-朝日ソノラマ-によると、手をついてからぶつかるまでの平均時間は0.47秒だそうである。コンマ何秒の世界の事だから、相手より先に反応して、先に一歩目を踏み込んだ方が圧倒的に有利である。“立合いに7分の利あり”ともいう。ところが、双葉山の立合いをみてみると殆ど踏み込まない。軽く右足を一歩出すか、その場で受けてしまうかである。相撲の神様といわれる所以である。
平成12年12月20日
初場所新番付発表。注目の朝青龍は前頭12枚目。
夜、ホテルニューオータニにて忘年会が行なわれ、盛況のうち20世紀を締めくくる。
平成12年12月21日
立合いを考えるにあたって、ビクターから出ているビデオ“昭和の名力士第1巻 横綱双葉山”を繰り返し見ている。繰り返し見れば見るほどその深さに驚かされる。常識的に考えると、相手の当たりを受け止めるには、いかに下半身に力を入れ踏ん張れるかということになるが、足がまるで土俵の上を滑るかのごとく小刻みに動き、殆ど踏ん張ることがない。それゆえ、少し押し込まれることがあっても腰は全く崩れること無く、身体の力みも無く、押し込んだ相手の方が崩れてしまっている。
平成12年12月23日
学校が冬休みに入り、来春入門予定の中学生3人、高校生2人が部屋に体験入門。中学生の中には、スポーツ紙等で話題になった今年の中学横綱 “角界のキムタク”こと木村拓也君もいる。すでに昨年から何度も部屋で合宿しているので、部屋の生活にも慣れていて、5人のリーダー的存在である。15才にして152kg、迫力満点のその風貌は、出稽古に来た東関部屋のマネージャーが実業団力士と間違えたほどである。
平成12年12月24日
年末恒例のもちつき大会。朝6時起床で用意を始め、8時過ぎからつきだす。途中、杵が1本折れてしまったが順調に進行し11時半には180kgのもちをつき終える。
平成12年12月27日
再び双葉山談義である。その相撲を見て驚かされるのは、身体の脱力、全く力みのないリラクゼーションである。相手の突っ張りを受けるにしても、上体、特に肩から腕にかけてがゆるゆるぶらぶらである。何かにぶつかる時のことを考えるとわかると思うが、人間の本能として歯を食いしばって、全身に力を入れてぶつかる。
その為、相手とのスピード×重さの衝撃力比べになるが、脱力されると、クッションにぶつかるように力は吸収されてしまう。対戦した力士は、力が吸い取られるようだと言っている。
平成12年12月28日
東関部屋での合同稽古。膝を怪我して休場中の高見盛が、久しぶりにまわしを締めて稽古場にあらわれた。
まだ、土の感覚を確かめるように四股やすり足などの準備運動をやれるだけだが、入門以来、朝青龍と激しい稽古を続けて、お互い出世してきただけに、完全復帰が待ち望まれる。1月は公傷がきくので、3月復帰を目指しての始動である。
平成12年12月29日
ベースボールマガジン社「相撲」新年1月号に2000年度の記録がでている。勝率60%以上の力士として20人の名前があがっているが、その第3位が朝青龍の勝率70.7%である。ちなみに1位は曙の84.4%。
また参考記録として5場所在籍のベスト3がでているが、その1位が朝赤龍80.0%で2位が朝ノ土佐71.4%である。部屋別の通算成績では、316勝329敗32休で勝率49.0%、54部屋中36位である。
平成12年12月30日
午前8時より四股を踏み、大掃除してお飾り。終了後、全員1階稽古場上り座敷に集まり、親方の締めの言葉で3本締め。それぞれ親方よりお年玉を貰い解散となる。半数以上は実家に帰り、夕方になると部屋はひと気がなくなりさびしい。新年1月2日に新たに全員集合となる。
過去の日記一覧へ