今日の若松部屋
平成14年1月1日
新年あけましておめでとうございます。
おかげさまで、若松部屋HPも6年目を迎えました。若松部屋としては、あと1月ほどで幕を閉じますが、高砂部屋HPとして引き続いていきます。本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
平成14年1月4日
昨1月3日より稽古始め。きのうは部屋だけの稽古であったが、今日は東関部屋全力士(高見盛、潮丸も)と高砂部屋から闘牙に幕下泉州山と皇牙、友綱の戦闘竜、安治川から 安美錦と、白マワシが7人もの活気ある稽古となった。上り座敷にも、師匠はもちろん、曙親方、朝乃翔親方、東関の狩俣マネージャーと土俵を囲み、東関の関係で外人客も多数にTVカメラまで入り、新春にふさわしい賑やかな稽古場であった。明日は、高砂部屋全力士も参加の予定である。
平成14年1月5日
高砂部屋、東関部屋全力士が集まっての合同稽古。力士だけでも40名を超え、さすがに熱気ムンムンである。高砂部屋からは、師匠はじめ大山親方、錦戸親方、頭、世話人、床山と全員が揃った。稽古後、上り座敷で高砂のベテラン床山さん2人と若松部屋の床若も入って3人で髪を結い、あっという間に30人のちょんまげを結い終わる。合併の予行演習的な一日であった。
平成14年1月7日
相撲診療所で力士を診療して30余年の医師、林盈六(はやしえいろく)氏が書いた『力士たちの心・技・体』(法研-平成8年)という本がある。力士や親方を実際に相撲診療所で診察、治療してきて、長年のデータ、付き合い、観察をもとに興味深い話が多々ある。
平成2年8月の体脂肪率のデータが出ているが、入門直後の序の口が26%で、だんだん増えていき、三段目が34,5%で最高値である。その後幕下、十両と番付が上がるにつれ数値は下がっていき、幕内平均は23,5%となっている。
平成14年1月8日
元朝鷲ことプロレスラー大鷲透、1月5日にメキシコから帰国してきたそうで、部屋に挨拶にきた。力士にせがまれ、決め技〝千秋楽固め” を披露。実験台となった朝花田、「痛タタター」と悲鳴をあげていた。
前回の日本初上陸の試合が好評だったため、急遽1月23日(水)にも試合が行なわれることに なった為の帰国だそうである。
平成14年1月9日
『力士たちの心・技・体』にも出ているが、力士の病気というと糖尿病というイメージが強いと思うが、比率からいくとそうでもない。現に若松部屋でも13人中、高血糖値の力士は一人だけである。同じ体重レベル(例えば100kg以上)なら、一般人より全然低いはずである。ただやはり糖尿病は怖い病気で、失明や壊疽(えそ)などの合併症をおこして死に至ることも多い。元房錦の先代親方も、死因の元には糖尿病があった。
平成14年1月10日
糖尿病になるというのは、生活習慣に加えて体質的なものも大きいが、すもうとりは体型的にもわかりやすい。医学的根拠があるのかどうかは知らないが、体型でいうとアンコ型で、下半身特に尻が小さい体型はかかりやすいといわれている。若いうちは、それでもまだ大丈夫な場合もあるが、ベテランになってきて尻から脚裏にかけてスジが入ってくると、まず間違いなく糖尿である。これは、かなり高い確率のある見識である。
平成14年1月12日
あす初場所初日。触れ太鼓が割り(取組み表)を持ってきてくれて、明日あさっての取組がわかる。朝乃若は和歌乃山、朝青龍は玉乃島との対戦で初日を迎える。初場所ということで、昨年平成13年度の優秀力士表彰式も中入り後にあり、朝青龍は、日刊スポーツの年間三賞の敢闘賞と、東京新聞の幕内最優秀新人賞を土俵上で受賞することになっている。つい3年前ほど、平成10年11月26日の日記に初登場するが、約3年ですっかり日本相撲協会を代表する看板力士になった。
平成14年1月13日
初場所初日。理由づけて説明できる訳もないが、年間90日間開催される中で、一番大相撲にふさわしいというか、ちょっと他とは違う雰囲気を感じさせてくれる日である。天覧相撲とも重なり、久しぶりの初日の満員御礼である。
朝青龍、今年1年の活躍を期待させてくれるような快心の相撲での初日スタート。
平成14年1月14日
成人の日。若松部屋からは朝赤龍、朝ノ土佐、朝花田の3人が成人式を迎える。お祝いに、おかみさんから雪駄を贈ってもらう。
その3人、朝ノ土佐は昨日初日を飾り、今日、朝花田は敗れてしまったものの、朝赤龍は物言いのつくきわどい一番をものにしての白星スタートであった。
平成14年1月15日
1月場所というよりも初場所といったほうが、お正月らしさが感じられて響きがいいが、昔、年2場所だったころは1月と5月の開催で、春場所と夏場所であった。1月開催を春場所と呼ぶのは、少々むりがあるような気がしていたが、旧暦の名残なのであろう。旧暦だと、確かに1月から3月までが春である。先日の朝日新聞の夕刊にでていたが、ファッション業界は、冬物、春物などの在庫を旧暦に合わせて仕入れるとロスが殆どないそうだが(旧暦は年によって冬、春などの季節がずれてくる)、相撲も旧暦の方が合っている気がする。
というより、四季折々の日本という国自体が旧暦にあっているのであろう。
平成14年1月16日
惜しくも敗れたものの大相撲の醍醐味を充分に味わせてくれた結びの栃東戦。花道で待っている付人にとっても熱戦だったようである。土俵に上がると、水(力水)をつけるが、水をつけるのは前の取組の勝った力士、前の力士が負けた場合は、次の対戦の控え力士がつけるのが作法となっている。ところが、結びの一番は次の力士がいないため、前の二人が負けて水をつける力士がいなくなると、付人が水をつけることになる。東方、旭鷲山が負けて、つづく魁皇もまさかの敗戦で、付人の出番となった。
はじめ朝菊地が用意していたのだが、やはり幕下力士の方がいいと忠告を受け、朝赤龍に急遽お鉢がまわってきた。片肌を脱いでつけるのが作法のため、花道で着物を着たまま、急ぎ中に着ているシャツとステテコを脱ぎ、水つけに走った。その後、取組途中出血による水入りもあり、ふだんタオルを土俵では使わないため、支度部屋までタオルを取りに走りと、大忙しの花道だったそうである。
平成14年1月17日
昨日の栃東戦、朝青龍の張り手を交えた突っ張りに賛否両論の意見をいただいたが、小坂秀二氏の『わが回想の双葉山定次』(読売新聞社)の中に次のような文がある。
(概略)昭和16年春場所、大関前田山の張り手旋風が吹き荒れた。12日目、大関羽黒山を張り手で一方的に破り、羽黒山は「あれは相撲なんてものじゃないよ」と憤慨し、翌日の新聞も筆をそろえて前田山の張り手を非難した。
翌13日目、横綱双葉山との対戦である。まさか双葉山に対しては張るまいとだれしも思った。ところが案に相違して前日よりも激しい張り手である。満員の観衆が息を飲んだのも当然である。結局、張り手をこらえて組みとめたが土俵際でうっちゃられて前田山が勝った。
-前田山の気性の強さはあらゆる非難にも屈せず、双葉山の名にも臆せず、力いっぱいの相撲で勝ったのである。
相撲のあと前日同様相撲記者は双葉山の周囲に詰めかけ、張り手に関する感想を求めた。
これに対して双葉山は、「張り手も相撲の手の一つだよ」と言って、ひとことも 前田山を非難しなかった。
平成14年1月18日
はなしのついでに双葉山についてである。双葉山は右四つの型を完成させたことで有名だが、『わが回想の双葉山定次』に面白い話がでている。当時の出羽ノ海部屋の大関五ツ島が、「一生懸命組んでいると、途中で、どうしたんだろう、いなくなっちゃったんじゃないだろうか思うことがある」という談話を残している。上体の力を抜いて、腰で相撲を取っていたからこその、相手の感覚である。
朝ノ土佐3連勝。同期生朝赤龍にちょっと差をつけられているが、あと3番勝って、早く同じ幕下で相撲をとりたいものである。
平成14年1月19日
"腰で相撲を取る”とはどういうことなのだろう。それについては、高岡英夫氏の研究や書に詳しいが、腰を中心とした動き、全身心のコントロールで相撲を取るということである。この場合の「腰」は、現代日本人が一般的に考えている腰、例えば腰が痛いとか、筋肉でいう腰背筋ではなく、もちろんそこも含むが、もっと広範囲なものである。ここ数年あらゆる競技でその重要性がいわれている腸腰筋(ちょうようきん)や、仙骨、股関節まわり、横隔膜、昔でいう臍下丹田やハラ、などをすべて含んだ腰である。
朝ノ土佐、4連勝で今場所第1号の勝ち越し。
平成14年1月20日
なぜ腰が大事なのだろう。日本語には昔から腰や腹を使った言葉が多い。「腰を入れる」「腰抜け」「腹をくくる」「腹が立つ」・・・数多い用例があり、腰腹部の大切さを認識していたからこその言葉である。そもそも人間の体の重心は、腰腹部にあり、そこから動き出す。そこが動きの中心になるということは、重心をぶらさない事になる。重心がぶれないことは、あらゆる競技や思考にとって最も重要なことである。幕下12枚目の朝赤龍、4連勝の勝ち越し。幕下15枚目以内で全勝すると十両昇進となる。
平成14年1月21日
「腰で相撲を取る」とは、腰(腰腹部)に意識の中心をおいて、重心を腰でとらえて相撲を取るということである。高岡氏は、そういう意識のことを〝身体意識”と名付け、その構造、機能を解明しているが、双葉山の「身体意識の構造(ディレクト・システム)」は、人類史上でもかなり高いレベルの構造をもっているそうである。4連勝だった二人、朝赤龍は物言いのつく相撲で惜敗するも、朝ノ土佐見事に5連勝。
平成14年1月22日
法隆寺五重塔は7世紀後半に建造されたが、1000年以上数々の地震や台風にも倒壊することなく建っている。専門家の研究によると、各層ごとにゆるゆるにずれるようになっており、衝撃を分散して阪神大震災級の地震でも倒れないそうである。高岡英夫『からだには希望がある』(総合法令)にも詳しい解説があるが、それをヒントに高層ビルなどの近代建築の柔構造工法が生まれたそうである。
高岡氏によると、超一流の人間の身体意識にも同様の構造があり、スライサーとよんでいるが、双葉山は7層、すなわち七重塔になっているそうである。つい50年程前、これほどまでに優れた人間が相撲界にいたことを、我々は誇りに思い、もっと深く知らねばならない。
朝乃若、負け越し決定。一ノ矢、今場所3人目の勝ち越し。
平成14年1月23日
朝菊地勝ち越し。序二段23枚目なので三段目昇進は際どいところだが、あと1番勝って新三段目昇進を確実にしたいものである。
二人とも朝青龍の付人である。今のところ、本名に朝を付けただけの四股名だが、そろそろそれらしい四股名をつけたいという話になって、朝花田が関取にあやかり朝朱雀にしたいと言い出した。(土俵の守護神ー青龍、朱雀、白虎、玄武から)。
じゃあ、朝菊地は朝白虎にするかと誰かが言ったが、イメージ的に合わないと反論がでて、どちらかというと菊地は、朝白豚(あさはくとん)だろう、ということで話がおわった。
平成14年1月24日
序ノ口の朝君塚、若い衆では第1号の負け越し決定。700名余の全力士中、軽量力士第7位の朝君塚、入門以来5場所、いまだ勝ち越しの喜びを知らない。しかしながら毎晩地下でトレーニングをコツコツと続けている。体重も月に500gくらいづつは増えてきている。いつか報われる日がくることを待ちたい。
平成14年1月25日
白豚で思いだしたが、おうもうさんには、英語はちょっと苦手というのを超越した強者もいる。最初、ビーフが何の肉かわからなくて、牛肉だと教えた。「じゃあ、豚肉は英語で何という」と聞くと、「それはわかりますよ」と自信満々な返事であった。その新弟子が大声で得意満面に答えた。「豚肉は英語でいうと〝トン” 」・・・・・今はなき新弟子の話である。
3勝3敗で迎えた4人、朝ノ浜と朝迅風は勝ち越すが、朝佐藤と朝花田の宮城県コンビ 惜しくも負け越す。
平成14年1月26日
初場所を前に引退した朝乃翔、準年寄朝乃翔親方として、ちょんまげにスーツ姿で警備係として毎日国技館に勤務している。早い時 は10時前には国技館入りするため、今まで直接見る機会のなかった部屋の若い衆の相撲も見ることになり、朝の稽古場での指導にも熱がはいる。断髪式は、6月8日(土)に国技館にて行なわれる予定である。
あす千秋楽、7人が土俵に上がるが3人勝てば5割を超えることができる。
平成14年1月28日
きのうの千秋楽、若松部屋の打上げとしてのパーティとなって、いつもよりも多数のお客様に参加していただいての賑やかな宴となった。ゲストとして、昨秋から新しく赴任したモンゴル大使や歌手のかずまりこさん、ロスインディオスの棚橋さん、プロレスラー大鷲、他2名と色とりどりの華をそえた。
平成14年1月31日
場所後の休みでのんびり、といきたいところだが、来月の合併を間近にして、なにかと忙しさに追われる毎日である。合併すると、一挙に人数が倍以上になるためその分スペースを空けなければならない。押入れや納戸、4Fの物置と、いらない荷物を片付け、大掃除してと、裏のごみ置き場は山になってしまった。2月11日に全員引越してくる予定になっている。
平成14年2月1日
2年に1度の日本相撲協会役員改選が行なわれ、新しい理事10人と監事3人が決定。親方の再選も決まり、北の湖新理事長のもと新体制がスタートすることになる。選挙権があるのは、評議員(全年寄、力士会から4名、行司会から2名)で、今回の選挙では108票あったようである。
平成14年2月2日
来週早々にも高砂部屋継承となりそうだが、親方は7代目高砂となることになる。名門高砂の歴史は意外と新しく、最高位前頭筆頭の高見山大五郎が明治4年より高砂浦五郎と改名し、その後「高砂騒動」という脱退騒動を起こし、明治11年に年寄として復帰してからの創設だそうである。若松という年寄名は、昭和2年再興後だと現在が4代目若松だが、それ以前、江戸時代までさかのぼると11代目となるそうである。
平成14年2月3日
節分で各地の豆まきに参加。親方は鎌倉長谷寺と茨城下妻大宝八幡宮、朝青龍は成田山、朝乃若は地元愛知県一宮の真清田神社と例年通りのお寺や神社での豆まきを おこなう。永らく意味もわからずに豆まきしていたが、立春の前日を節分というそうで、旧暦でいうと明日からが新年で、いわば節分は大晦日の邪気払いのようなものだそうである。そういう意味で力士は、節分の豆まきにもってこいなのだろう。
平成14年2月4日
本日、日本相撲協会理事会が行なわれ、若松と高砂の年寄名跡の交換が承認され、明日5日付で正式な高砂襲名となる。これにより、昭和4年(1929年)1月場所より続いた若松部屋の名前は、今日を最後に消えることとなる。
大阪から、大阪後援会会長である塩川正十郎財務大臣書の高砂部屋看板も今朝届き、あす看板をつけかえることになる。
今日の高砂部屋
平成14年2月5日
今日から新生高砂部屋としてのスタート。もっとも旧高砂部屋が引越してくるのは11日なので、とりあえず看板をつけかえただけだが・・・。電話がかかってきても、つい、「はい若松部屋です」と言ってしまう。しかし、「はい高砂部屋です」と出ても、先方が、かけ間違ってしまったと誤解するのではないかという話もでて、「はい、元若松部屋の高砂部屋です」といおうかとか、「今日から高砂部屋の元若松部屋です」とか、「それじゃあ長すぎるとか」盛り上ってしまった。
慣れるまでにはしばらくかかりそうである。
平成14年2月6日
T一門A部屋のT関。66人いる関取の中でもぶっちぎりの個性派力士である。先日、相撲通で知られる漫画化のやくみつる氏の家に朝乃若と二人招かれて、実家がリンゴ園をやっているT関、お土産にりんごを1箱持っていったそうである。やく家について、「これ実家からのお土産です」と渡そうとしたら、その時はじめてえらく重いのに気付いたらしく、何かおかしいなと思って箱を開けると、中からは米が出てきたらしい。部屋に、よそから送られてきたリンゴ箱入りの米を本物のリンゴと間違えてもっていってしまって、当の本人が「うわぁー」と大声を出してびっくりしたとのことである。朝乃若曰く、「最初積み込むときに気づけよ!」。
常におもろい話題を提供してくれる T関である。
平成14年2月8日
合併へ向けての準備が着々と進みつつある。旧高砂部屋から引っ越してくるのは11日だが、祝日にあたるため力士分の貸し布団が今日納入され、午後からは、元高砂親方の経営していた東十条にある「ちゃんこ富士錦」が閉店したため、使える食器や冷蔵庫を貰いに行ったりと、慌しさが増してきた。明日からのフジTV大相撲トーナメント、団体戦が行なわれるが、高砂部屋は中村・高砂(旧高砂)チームと東関・高砂(旧若松)チームの2チームに分かれて参加する。しかも、共に1回戦勝てば2回戦で対戦する組み合わせである。
平成14年2月9日
大阪場所宿舎、去年までの高砂部屋の宿舎であった中央区中寺2丁目の久成寺 (くじょうじ)を引き続きお借りすることになる。昨年までの若松部屋宿舎近畿大学は、タクシーや電車を乗り継いで4,50分、タクシーで直接行くと4千円以上かかる距離だったが、今年からは体育館まで歩いてもいける距離である。ミナミで飲んで帰るのも楽な、ありがたい環境である。
若松部屋からの荷物の引越しもあるため、いつもより1週間ほど早く、来週木曜日14日には先発隊が乗り込む予定である。
平成14年2月10日
引越しを明日に控えて、両部屋(すでにどっちも高砂部屋だが)の資格者と、マネージャーが一同に会して、6代目から7代目への引き継ぎと、懇親のお食事会を師匠主催で開催。家族も帯同での参加のため、総勢35名ほどの大人数である。あす午前、トラックいっぱいの荷物と共に、全員新生高砂部屋に集結する。
平成14年2月11日
午前10時、親方と裏方(行司、呼び出し、床山、若者頭、世話人)の資格者が師匠への挨拶に部屋に集い、11時過ぎ、トラックいっぱいの荷物と若い衆が到着。師匠に挨拶後、全員揃って初の集合写真撮影。その後、荷物を運びいれ、ここ数週間の大掃除ですっきりしていた部屋がまた荷物で溢れかえる。12時半、荷物を運びおわりひとまず飯。6升の飯と、大鍋2杯のちゃんこが、またたく間にきれいにかたづく。2F50畳の大広間、28名が布団を敷き詰めると、ぎっしり足の踏み場もない状態である。
平成14年2月13日
昨日が全員揃っての稽古始め。夜、みんなの歓迎会と今月いっぱいで辞めることになった佐々木マネージャの送別会をおこなう。
平成14年2月15日
作14日、頭(かしら)と力士10人(一ノ矢、豊雲野、大子錦、朝ノ浜、熊郷、朝花田、福島、熊ノ郷、朝佐藤、朝君塚)が先発隊として大阪入り。宿舎は、昨年までも高砂部屋がお世話になっていた中央区中寺の久成寺(くじょうじ)である。
平成14年2月17日
昨年まで若松部屋で使っていた荷物の引越し。2tトラック3台分の荷物だが、いつもより多い10人の先発隊なので、スムーズに作業も運ぶ。夜は、おかみさんのお父さんの店〝スーパーコノミヤ”にある〝ちゃんこ朝潮”で腹いっぱいごちそうになる。帰りには、夜9時まで開いている食品売り場で、ちゃんこの材料の仕入れ。
平成14年2月18日
宿舎の久成寺は、師匠が相撲界に入門する前から高砂部屋が宿舎にしているお寺で、師匠とも縁(ゆかり)の深い寺である。
まず、入門したのが昭和53年3月場所のこのお寺だし、大関昇進を決めて伝達の使者を迎えたのも昭和58年3月、このお寺である。
更に初優勝を飾ったのも昭和60年3月のことだし、引退を発表したのも平成元年3月、このお寺でのことである。
そして平成14年3月、新生高砂部屋のスタートを再びこのお寺で迎えることになる。
平成14年2月19日
実は、この久成寺には個人的にも深い思い出がある。19年前の昭和58年3月、力士志願で最初に門を叩いたのが、この久成寺の高砂部屋であった。当時の新弟子検査基準の身長に少々足りなかったため、入門を断られてしまったが、当時のままの寺である。
門を叩いたときは緊張感も大きかったせいか、先発で寺に久しぶりに来た時も、こんなかんじだったのかなあと、記憶も定かでなかったが、用があって街に出て、帰りに地下鉄谷町線の谷町九丁目駅を上った所で、19年前の記憶が鮮烈によみがえって来た。
出口を上がった角に不動産屋があり、記憶の19年前の映像と重なってしまって、脳が19年前に戻ってしまった。
平成14年2月22日
宿舎の久成寺は、中央区中寺2丁目、谷町九丁目の交差点付近にある。大阪のど真ん中で、ちょっと坂を下ると日本橋、なんばまでも20分もあれば歩いていける距離である。ミナミで飲んでも、歩いて帰って酔い覚ましにちょうどよい。昔はこの付近に相撲部屋が集中していたそうだが、今は高砂部屋と立浪部屋があるのみである。
平成14年2月24日
全力士大阪入り。新大阪到着後、先発隊と本隊2組の計3組に分かれて、3店舗ある〝ちゃんこ朝潮”で夕食。鴫野店には、先日入門発表のあった昨年のアマ横綱近畿大学出身の三好も合流。それに茨城県出身の15歳の新弟子と、川崎出身の17歳の呼出し見習も加わって、さらに大所帯となる。あす朝番付発表があり、あさってから新生高砂部屋の本格的始動である。
平成14年2月26日
毎年春場所前恒例の学生出身力士を励ます会が、20名の学生出身力士、親方が参加して盛大に行なわれる。高砂部屋からも高砂、朝乃翔の両親方、朝乃若、一ノ矢、朝三好の5名が参加。
平成14年2月28日
宿舎の久成寺の稽古場は少々狭いが、高砂部屋力士だけで約30名おり、そこに安治川部屋と東関部屋からも何人か出稽古に来ているため、稽古場は芋を洗うような賑わいである。白マワシも7人もいて、活気溢れる稽古がくり広げられている。
平成14年3月3日
昨日2日(土)、上六都ホテルにて春場所高砂部屋激励会が盛大に挙行される。大阪後援会会長である塩川正十郎財務大臣の挨拶で華やかに幕を開け、新生高砂部屋一同総勢48名が一人づつ壇上で紹介され、新生高砂部屋の公式行事の第1歩を華々しく踏みだした。恒例の近畿相撲甚句会の甚句や、甲南女子大学チアリーディング部による演技などもあり、賑やかに春場所での躍進を誓った。
平成14年3月4日
実質的な合併スタートから1週間が経過した。お互い一門とはいえ、細かい段取り、一日の流れのリズムにはかなり違いがあり戸惑いもあったが、ようやく全体的にお互いのリズムがつかめ軌道にのってきた。うまいことに、力士構成が旧高砂部屋は兄弟子が多く新弟子が少なく、旧若松部屋は新弟子が多く兄弟子が少ないという感じだったので、合併により兄弟子から新弟子まで、番付も関取から序ノ口まで切れ目なくつづき、安定した構成になって物事がスムーズに進んでいる。
平成14年3月6日
以前の若松部屋の時は、ほぼ力士13名だけのちゃんこだったので、昼に飯を3升も炊けば足りていた。合併して総数約45名となり、米の消費量も数倍にあがった。ここ数日間は、お昼に10升の飯を炊いて、それがほぼなくなってしまうペースである。野菜や肉も10kg単位でまたたくまに消費してしまう。幸い大阪場所は差入れも多く、なんといってもおかみさんのお父さんの店、「スーパーコノミヤ」がバックに控えてくれているので助かっている。
平成14年3月9日
初日を明日に控え府立体育館で土俵祭りが行なわれ、触れ太鼓が浪速の街に響き渡る。去年までの若松部屋のときは、宿舎が東大阪だったので、触れ太鼓が部屋にまわってくるのはお昼過ぎだったが、谷町九丁目になって、体育館から一番近いので土俵祭りを終わったその足でまわって来るため、8時半には部屋にくることになる。
触れ太鼓の呼出しさんたちに、若松部屋のときには差入れのジュースを持たすくらいだったが、さすがに伝統ある高砂部屋、玄関にテーブルを用意して、その上にジュースやフルーツを整然と並べ、帰る呼出しさんたちに振る舞うようになっている。
こういう細かい心遣いは、名門ならではのことである。
平成14年3月10日
春場所初日。新生高砂部屋としても初日である。関取衆は朝乃若が勝っただけというスタートとなったが、幕下以下は好調で全体で10勝6敗とまずまずの滑り出し。合併して活気が出て、部屋のいいムードがそのまま反映したような結果である。
平成14年3月12日
ご当所大阪は泉州堺出身の泉州山、その飾らない人柄と相撲に取り組む真摯な姿勢に、ファンも多い。泉州山応援掲示板もあり、後援会筋も熱心な人がおおい。稽古場にも毎日、関取衆の中では真っ先に下りてきて熱心である。体格的に決して恵まれているとはいえないが、合併を機に関取として定着してもらいたいものである。小さい力士のお手本、目標的存在である。
平成14年3月13日
神戸出身の熊郷と熊ノ郷は兄弟力士である。1歳違いで、兄熊郷(くまごう)が入門丸3年、弟熊ノ郷(くまのさと)が入門丸2年である。
兄は今場所序二段5枚目で2連勝と好調で、初の三段目昇進を狙っている。また弟は、ナナハンライダーの異名を持つ(バイクに乗っているわけではない)、いかにも関西人らしいノリのおもろい兄弟である。
平成14年3月14日
幕下36枚目の輝面龍は、旧高砂部屋力士の中では一番古く17年目を迎えている。もちろん、現師匠が大関だった頃からのおすもうさんで、そもそも入門のきっかけが、平成11年4月13日に他界された、前若松部屋岐阜名古屋後援会会長の金神徹三氏の紹介という縁もある。年のわりにはえびすこがつよいともっぱらのうわさで、相撲も元気よく3連勝である。
平成14年3月16日
東京から遠路珍客が来訪した。東京の部屋のすぐそばに本所電器という電器屋さんがあり、東京では日常的にお世話になっているが、この週末を利用して大阪に遊びにきたらしく、今晩10時に部屋に到着した。ついでといっては何だが、2,3日前から冷蔵庫の調子がおかしかったので、これ幸いとばかりにみてもらい、あす朝、再度修理にあたってくれるとのことである。事情を知らないおすもうさんが、「なんでここにいるんですか」と聞くので、「東京から冷蔵庫の修理に来て貰った」というと目を丸くしていた。
平成14年3月27日
番付編成会議が行なわれる。発表になるのは本場所2週間前の月曜日だが、新大関や新十両はいろいろと準備もあるため即日発表となっている。幕下6枚目で5勝2敗の成績だった朝赤龍、新十両昇進なるかどうかは、十両力士の陥落との兼ね合いで微妙なところであった。編成会議は、通常午前9時頃から行なわれるため、昇進が決まると午前10時前頃、協会から部屋に電話がかかってくることになっている。
10時過ぎても電話がないので、昇進はアゴだったのかといっていたところに、新聞記者が5人ほどきた。「10時半から記者会見を・・・」といっている。上がったのかと、朝赤龍も喜んで玄関に顔を出したが、協会からの電話はまだない。新聞記者にもう一度確認してもらったら、やっぱりだめだったとのこと。一度その気になっただけに朝赤龍もがっかりの表情であった。
平成14年3月31日
昨30日(土)に関取衆と付人(幕内2人、十両1人)は巡業へ出発。残りの力士は全員帰京。久しぶりに東京の部屋に帰ってくると、やっぱり落ち着く。留守中に、部屋の内装をリニューアルしたので部屋の中もきれいになって新鮮である。あすから稽古再開となる。