過去の日記

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今日の高砂部屋
平成15年1月1日
新年明けましておめでとうございます。昨年中はたくさんの応援をいただきありがとうございました。おかげさまで、新生高砂部屋として最高の年となりました。平成15年度も、昨年以上のいい年となりますよう、益々の応援よろしくお願い致します。
平成15年1月3日
稽古始め。初場所へ向けての稽古再開。昨年までは、正月の稽古始めは静かなものだったが、横綱大関に今場所も休場の多い中、朝青龍横綱挑戦が最大の焦点となりそうで、早朝からTVカメラや新聞記者が多数詰めかけ例年にない賑やかな稽古始めとなる。午後からは正月恒例の先代お墓参り。なにかと慌しい年明けである。
平成15年1月4日
再度初代高砂浦五郎である。明治6年、脱会して高砂改正組として独立興行を行なったのは前述の通りだが、最初のうちこそ順調にいったものの、しばらくすると分裂やら政治的圧力などもあったりして、苦しい道のりであったようである。大阪相撲や京都相撲などと合同興行などをしながら、なんとかつないでいたようである。現在のプロレスのマイナーな団体に似ている感もある。
紆余曲折ののち、ようやく明治11年5月に相撲会所に帰参復帰した。このときが正式な高砂部屋創設となるのだと思う。
平成15年1月5日
文化放送の夕方5時40分から7時までの番組「豊田泰光 スーパーウルトラサンデー」が高砂部屋より生中継。西鉄ライオンズで一世を風靡した豊田泰光さんは、相撲にも詳しく、ちゃんこを囲みながら焼酎を酌み交わし初場所を前にしての相撲談義に花がさいた。途中、たまたま外出する時間が重なった朝青龍も飛び入り参加。今場所への抱負を語る。番組終了後も話は尽きず、相撲界・野球界の裏話から○○ネタまで時のたつのも忘れるほどであった。
その昔、親方も文化放送で「朝潮太郎 青春一直線」という番組をもっていたことがある。
平成15年1月6日
明治11年6月場所から復帰した年寄初代高砂浦五郎は、次々と改革を実施していったようである。力士の給金制度の確立、記者席の設立、選挙制度の確立(明治16年の初選挙により取締-現在の理事長に就任)、従来の相撲会所を株式組織とし東京大相撲協会と改称等等、まさに大相撲の近代化をなしえた大功労者である。
平成15年1月7日
初場所新弟子検査が行われ、高砂部屋からも二人受検。福岡県大野城市出身の船津君18歳(やっさんの奥さんの紹介である)と栃木県宇都宮市出身の小曽戸君16歳である。共に体格検査(173cm、75kg以上)はパスして、内臓検査の結果を待つだけである。内臓検査もパスすると晴れて入門が認められ、初場所から前相撲を取ることになる。
平成15年1月9日
昨日の横審総見で順調な仕上がりを見せた朝青龍。結婚の話題がスポーツ紙の一面を飾ったものだから、急に身辺が慌しくなってしまった。明日午後、本人から記者会見が行なわれることになっている。
平成15年1月11日
「初場所や控え力士の組みし腕」とは久保田万太郎の作だそうだが、これが夏場所や名古屋場所では、やっぱり違うような気がする。他の場所とは、土俵に上がる力士も見守るお客さんも、ちょっと違う雰囲気のする初場所である。特に初日はそうである。
あす初場所初日、注目の大関朝青龍は土佐ノ海戦。2日目は出島との対戦が決まっている。
平成15年1月12日
昨日の俳句ではないが、控えに座っているときが一番緊張して思いが巡るものである。控えに入り、目の前で大関が2人もつづけて負け、一瞬やばいかなと思ったそうだが、3人のうち一人くらいは勝つだろうと気持ちを切り替えたそうで、横綱挑戦へ向け順調なスタートの朝青龍。十両関取衆も好調で、全体でも勝ち越しスタートとなった。
平成15年1月15日
一昨年のアマチュア横綱の実績をもつ朝三好、番付を幕下2枚目まで上げてきて、場所前も連日泥まみれになっていた。今日まで1勝1敗、勝ち越せば十両昇進も大いに期待されるだけに一番一番が気を持たせる。明日は初めて十両の土俵に上がって千代天山と対戦。また前頭2枚目の闘牙は、あす再出場の貴乃花と対戦。こちらは、初金星を狙う。
平成15年1月18日
序二段下位だが、入門14年の大ベテラン勝田錦、4連勝で平成15年高砂部屋第1号の勝ち越し。横綱挑戦の朝青龍も7戦全勝と絶好調で、今場所もいろいろと忙しくなりそうな気配である。
平成15年1月19日
十両昇進を目前にしていた朝三好、今日の取組みで左膝を損傷。土俵から車椅子で病院へ直行し、そのまま入院。あす精密検査をしてみないとはっきりはわからないが、全治3,4ヶ月の重症のようである。
三段目取組み途中、今場所の出世披露が行なわれ、高砂部屋からも朝船津と朝小曽戸が、関取の化粧回しを借りて晴れ姿を見せる。来場所から番付の最下段、序ノ口に四股名がのることになる。
平成15年1月20日
貴乃花引退のニュースが早朝から流れ、予想していたこととはいえ、相撲関係者にとっては激震の一日となった。国技館もTV局の中継車やカメラが並び、記者も慌しく廊下を走っていたりして、国技館全体が何か大きな支柱を失った感じさえした。その影響もあったのかどうか、朝青龍にも土がつき、脚の怪我というおまけまでついてしまった。ただ、怪我には強い性質で、これまでも何度か場所中の怪我を経験してきているので明日からも元気な姿を見せてくれるはずである。
平成15年1月22日
好調の大関に引っ張られるように、幕下以下力士も好成績である。まだ負け越しが一人もいないのに対し、今日また熊郷が5人目の勝ち越し決定。実弟熊ノ郷に先を越されていたが、先場所6勝1敗で初の三段目昇進を勝ち取り、今場所もあと1番を残しての勝ち越しである。元々体格には恵まれている方だが、ここ数ヶ月で目方がまた増え、下半身は競走馬のようでさえある。
寝つきの早さといびきの大きさも、部屋で一番である。
平成15年1月24日
今日の若の里戦の大一番に勝った朝青龍、いよいよ連続優勝と横綱が目の前まで迫ってきた。明日の一番に勝てば優勝が決まるため、優勝祝賀の記念撮影に使うタイの手配や、後援会関係への連絡、場所後すぐの月曜日から行なわなければならない横綱作りに使う麻やヌカの手配、などなど。部屋の方も一気に慌しさを増してきた。
今日の取組みで惜しくも3勝4敗と負け越してしまった序二段の豊雲野、今場所を最後に引退することとなり今日が力士生活14年の最後の一番となる。
平成15年1月27日
千秋楽から一夜明け、午前10時から部屋にて優勝の記者会見。午後5時半より横綱審議委員会が行なわれ、満場一致で横綱に推挙される。午後6時過ぎより再び部屋にて記者会見。29日の番付編成会議と理事会を経て、正式に横綱朝青龍が誕生することとなる。
30日に綱打ちを行い、翌31日明治神宮にて奉納の土俵入りをお披露目する予定になっている。
平成15年1月30日
一門の親方衆や関取衆、世話人、東関と八角から手伝いの若い衆と、高砂一門総出で綱打ち。月曜日から30人で2日がかりでヌカで揉んだ麻をバンセンを芯にしてキャラコの白布で包み、それを3本あわせて綱にしていく。純白の綱を汚さぬよう白手袋にさらしの前掛けをして、紅白のねじりハチマキで、「ひーふの、み!」「いち、にのさん!」と威勢良い掛け声で 綱を打っていく。一門の力士、親方みんなの力を合わせて作る横綱だからこそ、こんなに神々しく、ありがたく、その重さ以上に重いものだということがしみじみと実感できた。
平成15年1月31日
明治神宮奉納土俵入り。新横綱として始めての公の場での土俵入りである。かなり緊張したそうだが、見事にこなし、見守っていた報道関係者からも、初めてとは思えないゆったりとして立派な土俵入りだったと概ね好評であった。直接は見れなかったが、スポーツニュースの映像で見ると、せり上がりも見事に腰を中心とした動きになっているのが印象的で、4年で横綱まで駆け上がった秘密を見た気がした。
平成15年2月2日
横綱が制限時間前になって腕を大きく回しながらまわしを叩いて塩を取りに行く動作は、モンゴル相撲の舞ではないかと聞かれることが多い。本人にとっては全く無意識の動作で、気合が充実してきて戦闘モードになってくると自然とでてくるそうである。その時の手足の動きは、以前にも触れたナンバ歩きで、江戸時代の日本人が築き上げた超合理的な動きである。
平成15年2月5日
初場所5勝2敗と好成績だった序二段の勝田錦、以前紹介した豊雲野同様、初場所を最後に引退することとなっていて千秋楽の一番が14年間の力士生活最後の一番となった。膝の怪我などもあり、ちゃんこ番として裏方の仕事が多かったが、勝田錦がいると、やかましいほどに賑やかなちゃんこ場であった。2月11日に両名共に断髪式を行なう。場所後の慌しい行事も一段落し、きょうから稽古始め。
平成15年2月6日
横綱の昇進のしかたを見ていると、強くなるのが簡単なことのような錯覚を思わず起こしてしまうほどだが、強くなることがどれだけ難しいかは、99%以上の力士が、もがき、悩み、苦しみ、ある者はあきらめ、身にしみて感じていることである。塩取りの動作と同様、強くなったと時を同じくして、ちょっと変わったなと思った動作がある。四股である。それまでもけっこういい四股は踏んでいたが、どちらかというと今風の脚主体の動きだったのが、5月場所辺りから腰を一気に下ろす、腰主体の動きになった印象をおぼえている。
平成15年2月7日
横綱または強豪力士を評して「天下無双」とか「日下開山(ひのしたかいざん)」という。金指基『相撲大辞典』によると、日下は天下という意味で、開山は仏教用語で宗派や寺院を開いた最初の一人という意味だそうである。横綱になると、手形に「日下開山」というハンコを押すことができるようになる。昇進後、注文していたハンコがようやく届いた。ところが、出来てきたハンコは「火下開山」になっている。熱そうである。再度つくり直しである。川崎出身の某付人の失敗である。再注文は、もちろん某付人の手相撲(自腹)となる。
平成15年2月11日
午後2時から浅草橋にて勝田錦の断髪式、午後6時より上野にて豊雲野断髪式。高砂部屋OBのKONISIKI さんも参加して宴に華を添える。第二の人生、勝田錦は介護の道へ、豊雲野は錦戸部屋マネージャーとして頑張ることになっている。
平成15年2月13日
先日録画撮りした志村けんと中山秀行の番組、3月5日(水)TV朝日系列で放映の水曜スペシャルだそうです。たぶんゴールデンタイムだと思いますが。
平成15年2月14日
先日、歌舞伎を見る機会を初めて得た。日本古来の伝統文化である歌舞伎と相撲は、現代では芸能とスポーツと、両極端にいっている感じだが、歌舞伎役者の動きや構えを見ていると 歌舞伎も相撲も源流は同じだということが感じられた。花道を下がるときに片脚立ちで構える姿勢は、明治時代の四股の踏み方に殆ど類似しているし、歩き方もあまり手を振らず、滑るように進むナンバ歩きである。
平成15年2月16日
先発隊7人(一ノ矢、大子錦、熊郷、福寿丸、塙ノ里、朝光、朝花田)大阪入り。しまってある荷物を出して、寝床をセッティングして、夕食はコノミヤのちゃんこ朝潮。そのあと、元若松部屋力士小桜が、東大阪市長田に〝ちゃんここざくら”を出したのでちょっと顔を出す。
平成15年2月18日
いまは日本全国どこへいっても同じ様なものだが、大阪へ来ると、東京との違いを大きく感じてしまう。エスカレーターで急ぎの人のために空けるのが左右反対だし、子供連れのお母さんが、一緒に歩いている子供が転んだときの反応もかなり違う。東京というか普通一般だと思うが、大体は駆け寄っていって「だいじょうぶか」とか「痛くない痛くない」と声を掛けるのに対し、大阪のお母ちゃんは「アホか」とか「何しとんの」と言いながらどんどん歩いていってしまう。どっちがいいとは言えないが、大阪人のたくましさはこういうことが下地になっているような気がする。
平成15年2月23日
全力士大阪乗り込み。午後6時より、コノミヤ徳庵店のちゃんこ朝潮で、大阪高砂部屋後援会特別会員のちゃんこ会に全力士参加。ちゃんこ朝潮徳庵店は、3店舗あるちゃんこ朝潮の中でも飾ってある写真等が一番豊富で、師匠の若い頃の写真や、歴代横綱の写真など博物館並である。
平成15年2月24日
平成15年度春場所番付発表。
平成15年2月25日
毎年春場所前恒例の西日本学生相撲連盟主催の学生出身力士を励ます会が行なわれる。部屋からは師匠高砂、朝乃翔親方、朝乃若関、一ノ矢が参加。現在学生出身力士は51名おり、そのうち24名が関取として活躍している。
平成15年3月1日
新横綱ということで、ただでさえ賑やかな稽古場に大関千代大海、魁皇、海鵬、北勝力と集まり、部屋の関取衆も加え大賑わいの稽古場である。取材のTVカメラや記者も殺到してちょっと異様というほどの雰囲気である。夜、宿舎近くの上六(上本町6丁目)都ホテルにて激励会。こちらも1000人を超すお客様で賑わう。
平成15年3月2日
門前の小僧何とやらで、一緒に生活をしている行司や床山も見よう見まねで相撲を覚えていく。入門2年の床若、最近相撲をとりたくてしょうがない。さすがにおすもうさんには歯が立たないので、目下のライバルは行司の勝次郎である。挑むこと十数回、まだ勝に至らぬが、最近は大相撲になってきて、今日は同体取り直しにまで持ち込んだ。初白星目指してトレーニングに励んでいる。こちらの春場所はすでに中盤戦である。
平成15年3月4日
宿舎となっている久成寺(くじょうじ)は谷町九丁目の交差点のすぐ近くにある。相撲の後援者の事をタニマチということの発祥の地であるから、昔から相撲部屋とは縁が深い町で昭和4,50年までは殆どの相撲部屋がこの界隈に宿舎を構えていたそうである。宿舎のお寺の住所は中寺町であるし、坂を下れば下寺町というふうにお寺が密集している街である。ただ現在は、ネオンきらびやかなホテルが乱立し、その陰にお寺が散在しているという不思議な取り合わせの街でもある。
平成15年3月7日
出稽古の関取衆も5日で出稽古を打上げ、いよいよ初日を前にして調整段階にはいってくる。初めての本場所を迎える新横綱も、先週ちょっと肩を痛めてペースダウンしていたものの、肩の方もすっかり回復したようで、幕下をつかまえて40番ほどこなし照準を合わせてきたようである。土俵入りの刀や、三つ揃いの新しい化粧回しも出来上がり、あさって初日土佐ノ海戦を迎えることになる。
平成15年3月9日
高砂部屋大阪宿舎が、現在の久成寺になったのは元横綱朝潮の五代目高砂が現役の頃からだそうで、40年近くにもなるそうである。お寺のつくりも稽古場も、殆ど当初のままだそうで、この部屋は昔誰誰が寝ていたとか歴史が積もっている。その歴史ある寺に触れ太鼓の呼び上げを迎えて、いよいよ明日より春場所初日である。
平成15年3月10日
例年なら春場所が始まると春が来る。というのが、大阪での決まり文句になっているが、今年は、初日が始まったとたんに雪が舞い、2日目の今日もちらちらとした雪がふった。東京も同じ様に寒いのだろうが、大阪場所の宿舎はお寺を借りているため、若い衆の寝床はお寺の本堂で、天井が高くお寺自体も古いためすきま風もけっこう盛んで、外よりも冷え込む感じさえある。
平成15年3月12日
2日目から始まっている前相撲。高砂部屋からも一人、朝神田が初土俵を踏んでいる。地元大阪此花中学の3年生で、闘牙関の奥さんの関係の紹介で入門となった。入門するに当たり闘牙関と一緒に学校に挨拶がてらに迎えにいったが、校長先生はじめ、お母さんの職場の方々や親戚も大勢集まって盛大に送り出して部屋での生活をはじめている。相撲の経験は全くなく、初日は黒星だったものの、今日初白星を飾った。明日は学校の卒業式で、いいお土産をつくっての卒業式出席となる。詰襟が小さくなったため、着物姿での出席となるようである。
平成15年3月15日
2敗目を喫してしまった新横綱だが、取組み以上に緊張しているであろう土俵入りは、落ち着きがでてきて風格さえ感じさせるようになってきている。露払い朝赤龍、太刀持ち闘牙で行なっているが、現在使っている太刀は徳川家縁の葵のご紋入りの太刀である。読売新聞社刊の「大相撲」という雑誌の裏表紙を飾っている『銀座長州屋』という刀屋さんが、新横綱に太刀を贈る事になって現在制作中だそうだが、春場所には間に合わなかったため、社長のご好意で秘蔵の太刀を貸してもらえることになって使わせてもらっている。
横綱専用の新しい太刀は、5月場所からお目見えする予定である。
平成15年3月16日
全般的に苦戦模様の中日までの成績だが、朝ノ土佐が春場所第1号の勝ち越し。新入幕の朝赤龍と明徳の同級生で、もちろん横綱とも同窓である。もともと相撲センスには非凡なものがあるが、二人に完全に置いていかれた感じで伸び悩んでいるが、久々の4連勝である。このまま波に乗ってせめて幕下には定着してもらいたいものである。
平成15年3月19日
大阪の宿舎を近大に構えていた頃から部屋に出入りしているアマチュアカメラマンに、湯村さんという方がおられる。横綱が入門の頃からの写真を撮りつづけていて、昨夏の大関昇進凱旋帰国のときには同行してモンゴルでも朝青龍写真展を開いたこともある。
その湯村氏が、梅田第4ビル7階会場にて〝朝げいこ”と題して朝青龍写真展を開催している。 紹介が遅くなって申し訳ないが、明日4時までの開催である。横綱の成長ぶりがひと目でわかる楽しさがある。
平成15年3月23日
千秋楽。優勝の可能性が残っているということで、そのときに備え南警察で優勝パレードのコース決めや道路使用許可書の提出、宿舎のお寺で迎える樽酒を日本盛から用意してもらったりとか下準備を整え決戦を待つが、惜しくも涙をのむ。三段目で勝ち越して幕下復帰を決めた朝迅風に続き、三段目中位の塙ノ里が6勝目を上げ、来場所初幕下昇進への可能性を残す。もし上がれば幕下5人という充実したものになる。
平成15年3月25日
場所休み。今週1週間は稽古が休みなので朝もゆっくりである。木曜日辺りからは巡業行きや東京へもって帰る荷物の整理などで再び忙しくなるため、今日あすあたりが、一番ゆっくりできるやすみである。大体の力士がどこかへ遊びに行くでもなく、ただひたすら寝ている。寝ているときが一番しあわせそうな顔をしている。
平成15年3月26日
宿舎のある谷町9丁目は谷町筋と千日前通りの交差点にあるが、谷町筋を天王寺の方に向かっていくと、上町台歴史散歩コースなるものがある。谷町九丁目のあたりは台状になっていて大阪(元は逢坂)の発祥の地だったような記憶があるが、谷町筋と下寺町を登ったり下ったりする間に由緒あるお寺や、きれいな名の坂が数あり、飽きることない散歩道になっている。お寺の間を縫って進むと天王寺公園に出るが、公園では青いビニールシートで囲われたテントで浮浪者が大音響でカラオケに興じている。これもまた大阪ならではの風物詩なのかもしれない。
平成15年3月30日
29日に巡業組は伊勢神宮に乗り込み、残り番は帰京。帰ってきて大掃除をするが、地下にネズミが大発生。ネズミ捕りをしかけ早速3匹捕獲。しかけた 床若、「ネズミに勝った」とおおはしゃぎである。夜、巡業組も伊勢より帰京。
平成15年3月31日
食うことに関しては部屋で一番の大子錦、この2月からちゃんこ長として、その食いしん坊人生に磨きをかけている。ちゃんこ長としての、味見とつまみ食いは、ある意味微妙な所もあるが、両者をはっきり分けるのはその量であろう。きょう一緒にちゃんこ番をやった朝光に「味見にしては食いすぎちゃうの」と突っ込まれた大子錦、動揺したのか思わず「あんたと俺はドウハンや」・・(本人は同罪と言いたかったらしい)・・160kgと155kgの同伴はあまり想像したくない。
今日の高砂部屋
平成15年4月1日
パソコンをやっている2階の事務所の隣がトイレになっている。2階の大部屋には約20人の力士が寝ているから、2つあるトイレにはいるのも頻繁である。力士は、ほぼ全員が菜食よりも肉食を好むから、またその量も半端でないから、必然的に出てくる量も多くて、その臭いも強烈で重い。であるから、トイレに入って音がする度、「すぐ流せー」と叫ぶがそれでも瞬間的に戸の隙間をくぐりぬけ事務所へと流れてくる。今日も臭いと闘いながらの高砂部屋日記である。
平成15年4月2日
臭い話続きで恐縮だが、昔ある力士は、ある座敷だったかどうか酒も飲めなく芸もないので、「こんなことしか自慢になるものがありません」と新聞紙の上に出してハカリで量ったら 5kgあったという。大部屋でも朝起きる頃は、あちこちで目覚ましの音と共に「ブー」とか「ブリッ」という音も響いてくる。また、本来自然現象である屁を、話の合間合間に自由自在に出せる力士もけっこういる。一般人にとって屁の臭さは恥ずかしいことだと思うが、相手が「臭い」と顔をしかめると、してやったりと快感に顔ほころばせる力士はけっこう多い。
平成15年4月3日
女性にとって便秘は悩みのタネである場合も多いようだが、およそ力士で便秘に悩んでいるということは殆ど聞いたことがない。そのかわり、食いすぎ飲みすぎによる下痢は日常茶飯事である。さすがに土俵上で漏らしたという話は聞かないが、下痢気味の時の本場所の土俵の時ほど、つらく冷や汗ものなのもない。また、巷では関取になると付人にトイレのあとお尻を拭いてもらうという噂がいまだに吹聴されているようだが、決してそんなことはないことを断言して、3日続いた臭い話の終わりにしたい。
平成15年4月5日
巡業組、あすの大阪城ホールにて行なわれる勝抜戦に向け出発。こういう場合、若者は東京駅に集合して団体席での新幹線移動で、資格者(十両格以上)は、切符をもらっての各自乗り込み である。明日一日で再び帰京し、9日からまた関東近辺の巡業となっている。
平成15年4月7日
今回の春巡業では貴乃花の土俵入りが話題を呼んでいるが、そもそも横綱土俵入りは江戸寛政(1789)の谷風・小野川に始まったそうである。窪寺紘一「日本相撲大鑑」によると、谷風・小野川の頃は一人で行なっていたそうだが、天保年間(1830~44)以降、露払い・太刀持ちを従えるようになったそうである。
平成15年4月8日
以前この日記でも何度か話題にしたことのある相撲評論家の小坂秀二氏が亡くなられた。ここ1年ほどは病気療養のため筆をおいていたが、相撲雑誌に乗っている小坂秀二氏の文を読むのが好きであった。相撲の本質、神髄をかなり奥深くまでわかっていることは近世随一であったと思っている。読売大相撲の3月号の文が遺稿になってしまった。「70年、相撲を見てきた。その中心にいるのはいつも双葉山であった。・・・」「大力士とは双葉山のことをいうのです」その双葉山が、ほかの力士と違うのは、〝志の高さ”ということになろう。・・ いつかお会いして色々とお話をお聞きしたかったが叶わぬ夢となってしまった。ご冥福をお祈りいたします。合掌。
平成15年4月9日
小坂秀二氏は大正7年東京本所の生まれで、現在の東京医科歯科大を卒業。歯医者から相撲アナウンサーとしてNHKに入局(のちに現TBSに移籍)という経歴をもつ。著書 『わが回想の双葉山定次』(1991年読売新聞社刊)にそのいきさつが書いてある。
「戦中の18年夏場所に中支から休暇をもらって双葉山を見に帰ってきた。このことが、のちに歯医者をやめて相撲アナウンサーになることを決定的にした。(中略)以来現在まで相撲を専門の仕事にしてきているが、これは双葉山に魅せられたことによるとしかいいようがない。」『わが回想の双葉山定次』は、双葉山を通して相撲の神髄を語った名著である。
平成15年4月10日
茨城県の結城市で巡業。女の子が誕生したばかりの横綱も昨日モンゴルから帰国し参加。今回の結城巡業では久しぶりにちゃんこが復活したとのことである。まだまだいろいろと試行錯誤しながらになると思うが、新体制の巡業のスタートである。明日は靖国神社奉納相撲。これは一般のお客さんも無料で見学できる巡業である。土曜日藤沢、日曜日横須賀とまわって春巡業を終える。
平成15年4月12日
小坂秀二氏は著書も多数あるが、月刊読売『大相撲』で「相撲探求」という文を長い間連載していた。この文章の内容の深さ、面白さに感じ入って小坂秀二という名前を知った。本屋でもまっ先に、ここさえ読めばという感じで、よく立ち読みしたものである。
平成15年4月13日
巡業組帰京、あさってから稽古を再開。このあと20日にホテルニューオータニにて横綱昇進披露パーティー。21,22日で土俵をつくり直し、23日が番付発表。5月場所前恒例となった一般公開の横綱審議委員会総見稽古は5月5日(月)国技館土俵にて。午前7時開場とのことである。また、22日には門前仲町の富岡八幡宮でも土俵入りを行い、場所前には新しい綱打ちもやることになっている。
平成15年4月16日
横綱土俵入りについて窪寺紘一『日本相撲大鑑』からひきつづき紹介したい。谷風・小野川のころ一人で行なっていた土俵入りに、露払い・太刀持ちを従えるようになったのは天保年間 (1830~44)からだそうである。一般には土俵入りの型が現在のようになったのは幕末の第10代横綱雲竜久吉と第11代横綱不知火光右衛門からで、そこから雲竜型と不知火型となったといわれているそうだが、異説もけっこうあるようである。
平成15年4月20日
第68代横綱朝青龍昇進披露パーティーがホテルニューオータニにて行なわれる。全国から、そしてモンゴルから1000人近いお客様が集まり横綱昇進を祝う。三揃えの化粧回しが三組、太刀2本も新たに贈呈され、同じ明徳の出身であるサッカーの三都主、新日本プロレスから藤波辰爾、中西学、永田裕志らの有名選手も多数かけつけ宴に華を添えた。
平成15年4月22日
土俵築。あす番付発表で、あさってから夏場所に向けての本格的な稽古再開である。横綱は、門前仲町の富岡八幡宮にて「横綱力士碑」への刻銘の記念の土俵入り。富岡八幡宮よりお土産の文明堂カステラをもらってきた。箱で4箱。高さ約20cm、縦横1mはあろうかという巨大カステラ4箱である。カステラには目がない大子錦でもちょっと食いきれないほどの大物である。
平成15年4月23日
夏場所番付発表。朝青龍東の正横綱となる。入門して4年半、初めて番付に名前が載った平成11年3月場所序ノ口34枚目の地位から、4年と1場所でまさに頂上まで駆け上がった。初場所で膝を怪我して休場中の朝三好、そろそろ退院のメドがたってきたようだが、ようやくギプスなしで歩けるようになった段階で今場所も休場の予定。番付は公傷の適用により先場所と同じ幕下16枚目である。ただし、適用は一場所限りなので今場所全休すると大幅に陥落することになる。
平成15年4月26日
部屋の近く三ツ目通りと四ツ目通りの間に、大横川親水公園という気持ちのいい公園がある。東京にいるときの散歩コースで、春の桜や秋の紅葉、冬枯れの木々など四季折々の景色を楽しませてくれる。もともとは、江戸人が開拓して掘った川を埋めたてた公園で、もちろん人力で掘ったであろうから江戸人の労力に想いをはせると木々の輝きも違ってみえる。雨上がりで 新緑が青々と深みを増し、一気に初夏を感じさせる陽気となった。稽古場にも片男波から玉力道・玉乃島、八角の海鵬と出稽古にきて申し合いも初夏の熱気である。
平成15年4月27日
先日土俵入りを行なった富岡八幡宮について、司馬遼太郎『街道をゆく36本所深川散歩』でも紹介されている。富岡八幡宮は、三代将軍家光のころ建立されたそうで、当時「勧進相撲」の形をとっていた大相撲が富岡八幡宮でのみ興行が許されたそうである。
勧進とは寺社への寄進のことで、建立やら修理のためひろく一般大衆から銭を募ることをいい、このため表向きの主催は 八幡宮で、監督官庁は寺社奉行だったそうである。大相撲に神事が加わっているのはこのときの名残ともいえるそうである。
平成15年4月28日
綱打ち。横綱を新しく作ることを綱打ちという。今回からは、新横綱のときの綱打ち式のように一門総出ということはなく、ほぼ内々での作業となる。力士の方も2回目とあって要領もけっこうわかってきて思ったより早くできあがる。年3回、東京場所前に行なうことになる。
平成15年4月29日
金指基『相撲大辞典』(現代書館)の〝富岡八幡宮”の項を引いてみると次のようにある。(中略)慶安元年(1648)以来幕府に禁じられていた江戸勧進相撲は、貞享元年(1684)に復活して最初の興行地がこの境内であった。宝暦7年(1757)以降の記録に残るだけでも28場所興行された。境内には、「横綱力士碑」「相撲横綱由来記」「超50連勝力士碑」「大関力士碑」「強豪関脇力士碑」「巨人力士身長碑」「釈迦ヶ嶽等身碑」などがある。最寄り駅は地下鉄「門前仲町」。
平成15年4月30日
富岡八幡宮「横綱力士碑」は12代横綱陣幕久五郎が、引退後明治33年(1900)に建立したものだそうである。そのときに初代明石志賀之助から16代西ノ海嘉治郎までの一覧をかかげ、それが現在の第68代横綱朝青龍までの元になっている。しかしながら、初代から2代綾川五郎次・3代丸山権太左衛門までは、あくまでも伝承の域の話だそうである。
平成15年5月1日
そもそも江戸時代には横綱という地位はなく、最高位は大関であった。窪寺紘一『日本相撲大鑑』によると、もともとは宮殿・城郭・社寺を建てる際の地鎮祭に大関を呼んで、お祓いの地踏みをすることを「横綱の伝を免許する」といったとされ、心身を清める意味で注連縄を締めて「天地長久」という地固めの法を行なったことが横綱の起源だそうである。
平成15年5月2日
番付が記録として残っている最古のものは元禄12年(1699)の京都における勧進相撲のものだそうだが、横綱が番付に初めて載るのは、それから約200年も下った明治23年 の西ノ海嘉治郎からであり、相撲協会が番付の最高位として明文化したのは、さらに下って明治42年のことだそうである。
平成15年5月3日
史実として残っている最初の横綱免許は、寛政元年(1789)の谷風・小野川に対するものだそうである。このときに横綱免許状を発行したのは、吉田司家の19世追風(おいかぜ)であり、横綱土俵入りの演出もこの人のアイデアのようである。
平成15年5月4日
吉田司家という名は最近ではめっきり聞かなくなったが、ちょっと前の相撲ファンにとっては馴染みの深い名前であろう。司という名前から想像できるように、元々相撲司すなわち家元とでもいうような存在で、前述の横綱免許などの創出によってその地位を不動のものにしていったようである。谷風・小野川以来、第40代横綱東富士まで吉田司家から横綱免許が与えられていたが、昭和26年の千代の山から相撲協会から横綱免許が授与されるようになったそうである。
平成15年5月5日
ボケとツッコミは大阪人の特徴である。大阪は泉州出身の泉州山、今日の国技館での総見稽古で、安芸乃島関に胸を出してもらって気合の入ったぶつかり稽古を見せてくれたらしい。満員の国技館の観客が固唾をのんで見守る激しいぶつかり稽古の途中、土俵下までおとされて、「そこから飛んで来い」と、安芸乃島。「よーし」と気合を入れて土俵上の安芸乃島の胸めがけて走っていった泉州山。土俵に上がる俵に足をとられて、すっころんでしまい静まりかえっていた場内が、一瞬にして大爆笑。
真剣にやってもボケてしまう大阪人泉州山である。ぶつかり稽古が、その後よけいに長くなったのはいうまでもない。
平成15年5月6日
現在ある行司は木村・式守の両家のみであるが、中世から江戸期にかけては、木瀬・吉田・長瀬・岩井・尺子・吉岡・服部とさまざまな家があったそうである。そのなかで、江戸相撲の行司の家が、木村・式守ということである。また、木瀬という名は現在年寄名として残っていて、先だって引退した肥後ノ海が木瀬親方となっているが、木瀬という名は、今風に言えばキムタクのようなもので、正式には木村瀬平という世襲名である。番付表には、ちゃんと木村瀬平という名が書いてある。
平成15年5月7日
横綱論や行司の話を書くに当たって新田一郎『相撲の歴史』(山川出版社)をかなり参考にさせてもらっている。この本は日本史とのかかわりの相撲史ということでは最も内容の深い本である。新田一郎氏は東大法学部助教授で、専攻は日本法制史、特に中世史が専門である。更に学生時代は相撲部に在籍し、全国選手権で2年連続ベスト32に入った実績も持って いる(参加選手200名余り)。現在は東大相撲部の部長も務めている。実は新田氏とは同学年で、4年生の秋の学生選手権の2回戦で対戦し敗れた相手でもある。
平成15年5月9日
振分親方の還暦を祝う会が新高輪プリンスホテルにて行なわれる。振分親方は元幕内朝嵐という四股名で、昭和34年の入門。昭和41年7月場所で新十両に昇進し、昭和44年5月に新入幕。きれい好きな性格で、昭和43年9月場所初日に制限時間いっぱいになって土俵に落ちていた塵を土俵の外に捨てに行って、反則負けになったという珍記録ももっている。
永らく相撲教習所の教官を務めていたが、現在は巡業部として日本全国の巡業の段取りを行なっているやり手の親方である。
平成15年5月10日
12時過ぎ触れ太鼓が来る。飯の途中で、御礼の封筒を2階に取りに上がり、下りて渡して割り(取組表)を見たら便意をもよおして2階のトイレにはいり、すっきりしたら満腹感と眠気もでてきて、そのまま布団を引いて昼寝の体勢にはいってしまった。下から「いちのやさーん」と呼ぶ声がする。続けて「まだ飯のとちゅうですよー」とでかい声で叫んでいる。「しまった。そうだった」1階と2階を往復しているうちに飯のことをすっかり忘れてしまった。1階におりて飯を食い直す。「志村けんのコントみたいですね。」とか「いちのやさん、とうとう・・・」 とか容赦ない突っ込みで大爆笑である。笑いのネタは見逃さない厳しい弟弟子どもである。明日から初日。
平成15年5月12日
先場所初土俵で、今場所が初序ノ口の朝神田、今場所2連勝と好調の闘牙関の紹介での入門である。そういう縁もあり、初日前日闘牙チームの食事会 に参加。関取から直々に、思い切り当たって突っ張って叩いてみろ、とレクチャーを受けていた。初日となった今日の相撲、教えどおりの展開で記念すべき初白星をあげたようで、「おかげさんで勝つことができました」と何度も挨拶している。
「どうやって勝ったんだ」と聞くと、「頭からあたってー、つっぱってー・・・」と事細かに説明してくれる。みんなも面白がって関取に挨拶にいけと何度も行かせるので、しまいには「何度も来なくていい」と怒鳴られてしまった。
平成15年5月16日
序二段59枚目の熊ノ郷今日勝って3連勝。合併する前は序ノ口だったのに、合併後半年で三段目まで番付を上げた。現在はまた序二段に落ちているが稽古場でも力は三段目のものになってきている。今場所は6勝すれば三段目復帰の位置であり、明日は勝ち越しを賭けて、昨年九州場所まで同部屋であった 現錦戸部屋の龍神との対戦である。
平成15年5月18日
幕下以下出場の8人全員が黒星という最悪の結果となったが、関取衆は相変わらず好調で、横綱も今日中日で土付かずの8連勝。3度燃目の賜杯にむけ完璧な前半戦である。
平成15年5月21日
衛星放送をつけるとちょうど朝ノ土佐の取組みであった。テレビの解説は朝乃翔親方である。会心の相撲で5勝目を上げた朝ノ土佐、親方が現役時代には長く付人もやっていた。内容のある一番に朝乃翔親方の解説も滑らかである。あと一番勝てば新幕下も見えてくる。
平成15年5月24日
幕内で朝乃若と朝赤龍が勝ち越しを決める。朝乃若は平成13年初場所以来、約2年半ぶりの幕内での勝ち越しである。平成4年3月の初土俵以来一度も休みなしで、現在現役力士の中では連続出場記録トップを更新中で、今年の秋場所5日目で1000回連続出場という記録を達成するそうである。若い衆は出場19人中勝ち越し4人だけという散々たる結果だが、関取衆は好調で、明日泉州山が勝てば5人全員勝ち越しという、めったにない快挙となる。
平成15年5月29日
1年ぶりに沖縄・徳之島へ里帰りしている。元々は奄美までは琉球王国だが、琉球諸島(奄美から沖縄までー本来は南西諸島という)が世界遺産になりそうとか、ちゅらさんや沖縄出身アイドル、奄美出身の元ちとせとか歌など、昨今のブームにのり沖縄・奄美はメジャーになりつつある。さらに今年は奄美復帰50周年で(奄美地方も昭和28年までは米軍統治下にあった)、そいういう類いのイベントもいろいろと予定されているようである。この機会に奄美・沖縄出身力士を全部調べてみたいのだが、今年中にできるかどうか。
平成15年6月3日
横綱朝青龍と朝赤龍、昨日6月2日よりモンゴルへ帰国。今回の帰国には床山の床若も同行している。その床若、まだ入門2年余りだが日頃の熱心な練習の成果あって、先日の花相撲から関取の大銀杏も結うようになって、初めての海外旅行となるモンゴル行きが実現した。落語家を父にもつ天真爛漫な少年である。
平成15年6月5日
場所を終わっての休み中、数人でステーキ食い放題の店にでかけたそうである。その店の最高が300gのステーキを7枚というのが記録だったそうだが、朝迅風があっさりタイ記録に並び、えびすこ本家大子錦が8枚と記録を塗り変えたらしい。そのうち、力士お断りという看板がでるかもしれない。もっとも大子錦は、今より若い全盛時には鉄板焼5kgをくったという記録を持っているから、衰えたとはいえ余裕だったそうである。
平成15年6月9日
二階の若い衆の部屋である大広間の入り口はフスマがあって、畳までの間が畳より一段低く50cmほどの幅の板間になっている。右奥の板間の上が着物をかけるスペースになっていて浴衣が並んでいる。稽古開始が6時半なので、6時起床で6時になるとあちこちで目覚ましが鳴り、ようやく目を覚ますが、今朝は6時3分前に「ドーン」という大音響でみんな目を覚ました。びっくりして音のした方に目をやると、誰か浴衣の下で50cmの幅にはまって手足をばたつかせている。なかなかその中から立ち上がれなくて、ようやく3度目に立ち上がったが顔が「すいません」と泣き出しそうな顔になっていた。稽古前の稽古場でもその話で朝っぱらから大笑いである。「あの音で目覚ましいらんかったわ」「しかし、ふつう転ぶなら前に転びそうなものだが、真横に転んでいたものなぁ」
そんな不思議な転び方をできるのは、案外根は器用な方かもしれない朝小曽戸である。相撲教習所へ出かける前の一コマであった。
平成15年6月11日
10日午後2時に迎えのバスにて茨城県下妻市大宝八幡宮へ出発。約1時間半の道のりで、10日~13日まで3泊4日の合宿である。以前から親方が節分の豆まきに来ていた縁で、今年で3回目となる合宿で、年々土俵や観覧席も整備され、見学客も増えている。
平成15年6月12日
大宝八幡宮の合宿は、地元に「奉納相撲保存会」という後援組織があって合宿を支えてくれていて、会員の数も年々増えている。稽古のあとの昼のちゃんこは、会員の方々にもちゃんこをふるまう事になっているが、関係者を入れると250人分くらいを作らなければならない。量が量なので、ちゃんこ番の力士だけでは追いつかないので近所のおばちゃんも手伝ってくれる。
このおばちゃんが綾小路きみまろばりの爆笑トークで、チャンコを作りながら笑いっぱなしである。その昔、飯場の賄いを目指したこともあるそうで、口も動くが手もよく動き、包丁さばきもプロ級で、250人前の材料もあっという間な、スーパー主婦である。
こういう交流も合宿ならではのことである。
平成15年6月14日
昨日13日の稽古とちゃんこを終え、大宝八幡宮より帰京。差し入れのドリンクや野菜でバスも満杯である。あす15日から名古屋場所先発隊が出発するため、揃っての稽古は今日が最後となる。横綱は毎日新聞社寄贈の優勝額の撮影。国技館の天井に飾ってある優勝額は、写真を引き伸ばしたものに画家が色をつけていくそうで、その元になる写真撮影である。今回は綱を締めてのものになるようで、付人も全員総出である。綱締めはかなり技術の要る作業で、5月場所まで東関部屋のベテラン力士に綱締めを手伝って貰っていたが、ようやく自前でできるようになったようである。
平成15年6月17日
15日(日)先発隊7人名古屋入り。1年ぶりの宿舎を大掃除して、鍋やら食器やらも洗い、生活できるようにするのが一仕事である。ところが手違いで電気がきていなく、ここ3日ほど電気なしの生活である。テレビも冷蔵庫も掃除機もパソコンも風呂の湯沸し機も全てが使えない状態で、文明の利器の便利さを痛感させられている。
平成15年6月19日
昨日待望の電気が通り、ようやくろうそくと懐中電灯の世界からぬけだした。温かいシャワーも浴びることができるし、テレビも見ることができる。扇風機も回る。冷蔵庫も使えるようになり、差入れをもらっても安心である。本来今日は幟を立てる予定であったが台風の影響で風が強く延期。あす土俵をつくり、あさっては豊橋にて激励会。日曜日に全員名古屋入りして23日(月)に番付発表となる。
平成15年6月20日
土俵築き。掘り返した稽古場の土俵を3人の呼出しさんが来てつくりなおす。ここ1週間は呼出しさんは一門の各部屋の稽古場をつくって回ることになる。タコつきなどの力仕事は力士も手伝うが、土を平にならしたり、俵を作ったりは、呼出しさんの職人技である。俵をつくるときに形を整えるのにビール瓶を使うが、この時に使うのはアサヒの大瓶が、形といい強度といい一番しっくりくるそうである。他のメーカーのビンだと、持ちにくかったり、たまに割れてしまったりということがあるそうである。
平成15年6月21日
豊橋で激励会のため親方、関取衆名古屋入り。若松部屋の頃から続いているパーティで、今年で13回目を数える。昨年までは豊橋後援会という名称であったが、今年から会長や役員も新しくなり、高砂部屋東三河後援会として組織も大きくなる。会場となったホテル日航豊橋には、横綱人気もあって500名近いお客様が参加。質問コーナーやカラオケ、ちゃんこ、相撲甚句と交流を深める。
平成15年6月23日
名古屋場所新番付発表。
平成15年6月24日
稽古始め。午前6時より稽古開始。8時半、全員がそろったところで土俵祭。祭祀を三役格行司木村朝之助兄弟子が務める。土俵のお祓いの一連の儀式は、土俵中央に盛砂に御幣を立て、昆布・スルメ・米を小皿に盛り、清酒の一升瓶を置いて執り進む。酒は土俵の四隅に垂らして清めるのにつかう。その間力士は四辺に並んで頭を垂れて見守るが、静寂なひととおりの儀式が終わったあと、突如朝之助兄弟子が、一升瓶をもって横綱や朝乃若が立ち並ぶ列に向かって大声で「ツヨクナレ!」と一升瓶を振り撒いた。旧高砂部屋時代は毎場所のようにやっていたそうだが、合併してからは初めての事で、初体験となる朝乃若や横綱は、一瞬何が起こったのかとびっくりした様だったが、大受けであった。 よその土俵祭りは見たことがないが、おそらく高砂部屋ならではのことであろう。
平成15年6月25日
ハンマー投げの室伏選手が稽古見学。横綱とは以前から交流があり、東京では実際に回しを締めて稽古をしたこともある。さすがに運動能力は高く、三段目力士を振り回すパワーを見せたりもしたようである。先だって横綱は、米国タイム誌のアジアンヒーローの一人に選ばれて表彰されたが、お互いこれから10年、アジアのスポーツをリードしていく存在であることは間違いない。
平成15年6月26日
現在の蟹江龍照院に宿舎を構えるようになったのは元房錦の若松部屋時代、昭和63年からである。当時は若い衆10人そこそこの関取もいない小部屋で、見学者もまばらなものであった。あれから16年目の蟹江で名古屋場所を迎えている。今日からは、高見盛、潮丸、海鵬、北勝力、安美錦と出稽古に来て、報道陣や見学者も土俵を何重にも囲み、活気溢れる土俵となった。
昭和63年当時を知る関係者にとっては昔日の感があるであろう。
平成15年6月28日
刈谷市で激励会。以前は毎年やっていたが、平成11年以来、新生高砂部屋となっては初めての激励会となった。
平成15年6月29日
買出しに行くための中古の自転車に後ろカゴをつけてある。最初は普通のカゴであったが、いたずら好きの某関取が、身銭をきって幼児を乗せるクッションつきのカゴに変えていた。今日、宿舎近くのスナックに自転車で飲みに行って、帰り幼児用のカゴに無理やりお尻を入れて2人乗りで帰ってきた。宿舎まで自転車で5分ほどだが、途中から後輪のタイヤがギコギコ、ガッタンガッタンと電車のような音を出してきて、尻への振動も激しくなってきた。そのうち後輪がブレ出してハンドルをとられ、ジェットコースターよりもスリルある走りとなった。
部屋に到着すると、後輪は完全にパンク状態であった。あしたからの買出しに使えなくなってしまった。やっぱり合計222kgの2人乗りは無理があった。
平成15年6月30日
若松部屋の頃からお世話になっている地元の鈴木さんという方がおられる。合併して高砂部屋になっても相変わらずの家族ぐるみの付き合いで、何か困ったことがあったら、いつも鈴木さん頼みである。釣りも好きで、仕事が休みだった今日は泉州山と皇牙を連れてウナギ捕り。夕方、樽一杯のシジミとウナギ数匹の戦果があり、早速稽古場横で炭をおこして天然ウナギの蒲焼となった。
今日の高砂部屋
平成15年7月3日
蟹江に来て16年目になるが、ありがたいことに町をあげて応援してもらっている。数年前までは二子山部屋も蟹江に宿舎があり、その頃尾張温泉前の舗道に二子山部屋関取衆と当時の若松部屋関取、朝乃若・朝乃翔のサイン入り足型が制作されて現在でも飾られている。昨年からの合併で、今年新たにまた高砂部屋関取衆の足型が制作されることになり先日足型をとった。今度は、尾張温泉前舗道だけでなく、宿舎としてお世話になっている龍照院参道にも制作されるそうで、新たな蟹江名所になることであろう。
平成15年7月4日
ウェスティンナゴヤキャッスルホテルに於いて場所前恒例の高砂部屋激励会が行なわれ、約350人ほどのお客様で盛大に催される。ゲストの歌のあと、大太鼓の出し物があり、横綱はじめ関取衆全員とおかみさんも舞台に上がって大太鼓を叩く。横綱ものりのりで、リズムにのって今場所にかける決意のほどを力強く叩き、満場拍手喝采。あさってからの初日に向け意気を昂める。
平成15年7月5日
初日を前にして、毎年恒例となっている宿舎の龍照院の御本尊十一面観世音像を開帳してもらい安全と必勝祈願。この観音様は820年前に作られた木彫りの仏像で重要文化財指定である。ご利益なのであろう、名古屋場所は殆ど毎年といっていいほど好成績で、各段優勝力士も一番多く輩出している場所となっている。
平成15年7月6日
他の場所と違って名古屋場所だけは、主催者が日本相撲協会と中日新聞社となっている。それゆえ、他紙に比べ中日新聞の相撲記事は充実している。7月4日付の夕刊でも見開き2ページ が相撲特集で、出身地別力士マップなるものが載っている。それによると、出身地別のナンバー1は愛知県の56人で、以下大阪、福岡、東京、モンゴルと続く。ご当所関取は武雄山、朝乃若、琴光喜、春ノ山と4人いるが、地元関取が土俵に上がった時の声援は、地方場所で一番多いような気がする。
平成15年7月8日
十両の泉州山、場所の1週間ほど前にふくらはぎを肉離れしてしまった。しかしながら、持ち前のねばり強さで初日にあわせて調整してきて、まだ多少は不安があるものだから速い相撲を心がけているそうである。元々怪我には強い力士で、怪我の功名で、3連勝と上々の滑り出しである。
平成15年7月9日
宿舎のある蟹江からほど近い稲沢市出身の高稲沢、ご当所場所で2連勝の好スタート。元々相撲経験はなかったが、自転車で走っているところを前の高砂部屋関係者が見つけてスカウトしての入門となったそうである。少々体の硬いところはあるものの、引退した栃乃和歌をほうふつさせる恵まれた体があり、数多い三段目力士の中で幕下昇進の先陣を早く切って貰いたいものである。
平成15年7月11日
三段目熊郷、昨日の幕下皇牙につづき3連勝。幕下以下は7番しか取らないので、3連勝すると、ひょっとして今場所はひょっとするかもと意識してしまうものである。まわりもけっこうあおるのだが、本人が調子にのって口に出してしまうと、給金を直す(勝ち越す)のにも苦労することが多々ある。
平成15年7月13日
荒れる名古屋場所も中日折り返し。横綱はじめ関取衆は少々苦戦模様だが、三段目91枚目の熊郷が今日も勝って4連勝と給金第1号。体格には恵まれているものの、なかなか三段目の壁を破れなかったが、今年初場所に初めて昇進してから今場所で4場所目。今回の勝ち越しで、また番付を挽回する。去年から今年にかけての成績表を見ると力のついたのがよくわかる。6勝できると、更に最高位更新である。
平成15年7月15日
横綱休場で早朝から雑誌のカメラマンやテレビカメラ等マスコミ各社が押しかけ、落ち着かない雰囲気の稽古場である。稽古が終わるとスポーツ記者は帰るが、芸能関係のテレビカメラや雑誌のカメラマンはシャッターチャンスを逃すまいと宿舎のフェンス越しに張り付いたままである。いまさら何を撮りたいのかと思うが、トイレにいくのにも気をつかってしまう。
思うのは、最近の日本の報道はスポーツと芸能とがあまりにごちゃ混ぜにされすぎではなかろうかということである。サッカーのベッカム選手はサッカー選手として、その身体能力、テクニック、超一流の素晴らしい選手だと思う。ところが今の日本の報道は、そのファッション、髪型、夫人と、サッカーパフォーマンス以外のことばかりである。これでは、べッカムの本当の素晴らしさを学ぶ目を無くしてしまう。
今日の張り付き報道なども、それと同じことではなかろうか。そういう報道姿勢は、横綱が心を見つめ直す機会をも奪ってしまうのではと杞憂する。ある雑誌でイチローも、アメリカに来て一番よかったことは、アイドルや芸能人としてではなく、純粋にアスリートとして自分を見てくれていることだと語っているそうである。
平成15年7月18日
幕内の闘牙と朝赤龍勝ち越し。大関2人を倒している闘牙は、残り2日間の成績で初の三賞受賞の夢も膨らんでくる。三段目18枚目の朝ノ土佐、5勝目を上げて来場所の初幕下昇進が決定的。朝迅風も幕下復帰を決めており、千秋楽取組みの塙ノ里も最後の一番に初幕下昇進をかける。
平成15年7月19日
三段目福寿丸3連敗のあとの4連勝で勝ち越し。これで幕下以下は、序二段一ノ矢から上14名が勝ち越し、大子錦から下4名が負け越しという滅多にない面白い結果となった。
平成15年7月22日
20日に千秋楽を迎え、1週間名古屋で部屋の片付けなどをしながら27日の日曜日に相撲列車(もちろん今は新幹線だが)で東京に戻ることになる。この1週間は稽古は休みである。一般の方は場所が終わったらすぐ帰るものと思っているらしく、ブラブラしているとまだ帰らないんですかと聞かれることが多い。もっとも家庭もちの資格者(十両格以上)は、殆どが月曜日に帰京するが。
残った若い衆は、海やプールに行ったり、朝一でパチンコに走ったり、寝倒したりと、思い思いの休日を満喫している。
平成15年7月26日
地方場所に来て散歩をすると、東京での散歩ではあまりないことがある。犬が猛烈にほえる事である。犬にとって、東京、特に部屋の近辺ではちょん髷姿は珍しくないのだろうが、年に1度の地方場所ではすごく怪しい奴に映るのであろう、気も狂わんばかりにほえられる。江戸時代の洋装も同じ様にほえられたのだろうか。宿舎を大掃除、明日午後新幹線にて帰京する。
平成15年7月27日
12時半に名古屋駅中央改札に集合して、部屋ごとに改札で輸送係りの行司さんから順番に切符を貰って新幹線に乗る。新幹線の座席は、ABCの3席と通路をはさんでDEの2席とあるからB席にあたった力士は、悲惨な道中となる。まあ名古屋東京間は2時間だからまだましだが。たいがいは、新弟子か小兵力士がそういう目に遭う運命にある。行司の勝次郎が初めて輸送係を務め、部屋の力士が通るたび、「あっ、マッチだ」と声をかけられていた。
平成15年7月28日
東京の部屋に帰ってみると、地下が大変なことになっていた。地下に置いてある冷凍庫が故障して中の肉が腐ってしまい、猛烈な腐臭を発している。腐物を取り除いたら多少臭いも和らいだが完全には消えない。これほどの強烈な臭いだと消臭剤も全く役に立たない。冷凍庫を交換するまでまだ数日かかりそうで、しばらく臭いとの闘いがつづく。夏場になると特に「くさいくさい」言われるアンコ型力士の体臭もかわいいものに思えてくる。
平成15年7月31日
29日に巡業組東北・北海道の夏巡業へ出発。残り番の4力士(一ノ矢、大子錦、朝光、朝小曽戸)30日より青森五所川原合宿へ出発。巡業は山形、盛岡と来て明日8月1日が五所川原にて行なわれる。五所川原巡業の勧進元は、毎年合宿でお世話になっている江良さんで、今晩は巡業組、合宿組全員揃っての高砂部屋歓迎会も行なわれる予定になっている。このあと巡業は北海道へ渡り、4日の旭川終了後は江良道場での合宿に合流し、10日に帰京の予定である。
平成15年8月1日
夏巡業五所川原場所。この五所川原巡業の勧進元は合宿でお世話になっている江良さんであることは昨日も述べたが、本来は長男の良彦氏が勧進元であった。良彦氏は近大相撲部OBで朝乃若・朝乃翔の2年後輩にあたる。卒業後家業を継ぎ、合宿の度若い衆も世話になり、時々は回しを締め、地元の青年の大会にも出ていたりした。家業の方も、この巡業の勧進元を契機として代替わりする手筈になっていたそうである。ところが、先月名古屋場所中に突然心筋梗塞で倒れ帰らぬ人となってしまった。今日の巡業では正面に遺影が飾られ、土俵下で弟が遺影を抱いての進行となった。久しぶりの晴天にも恵まれ盛況となったが追悼興行となってしまったことが返す返すも残念である。享年31歳。心よりご冥福をお祈りしたい。
平成15年8月3日
各巡業には先発で親方が担当者として1週間ほど前から乗り込み、いろいろな準備手配万端にあたる。今回の五所川原巡業の先発は錦戸親方で、先発見習いで朝乃翔親方が補佐しつつ先発親方の仕事を見習っていく。協会主催の巡業では外部業者に殆どその業務を委託していて先発親方は細かいことはあまり気にせずともよかったようだが、勧進元制が復活して先発親方の業務も責任も大きなものになっている。ホテルの確保、宿割り、会場までのバス、風呂や買出しのバス、会場の設営・・・多岐に渡り、先発親方初経験の朝乃翔親方も、「現役時代にはわからなかった裏方の苦労がしみじみわかります」と奮戦していた。
平成15年8月5日
昨日4日、巡業組旭川巡業を終え空路青森入りして合宿に合流。本日5日、青森のねぶた祭りに参加。若松部屋のときよりお世話になっている青森高砂部屋後援会の藤本建設さんの大太鼓に参加。最初先導のジープに乗っていた横綱も生来の祭り好きの血が騒ぎ、大太鼓に登り大団扇でリズムをとり、太鼓にも挑戦。沿道を埋めつくした何十万人の観衆も盛大な拍手喝采をおくっていた。
平成15年8月7日
合宿をしている五所川原市の立ねぶたを見物。8時過ぎから一同会して朝赤龍の22歳を祝うバースデーパーティ。朝花田による八ッピィバースデー の絶唱でろうそくの炎を吹き消し、朝ノ土佐や神山ら同級生からのプレゼントもあり上機嫌。その後は、関係者以外立ち入り禁止となる壮絶な大宴会となった。
平成15年8月8日
五所川原市の立ねぶた最終日。今日は、青森後援会の白生会胃腸病院の職員一同と共にねぶたの先導で歩いて祭りに参加。コースを一周して最後、観覧席が立ち並ぶ交差点に立ねぶたを止めたところへ吉幾三が登場。人気急上昇中の『立ねぶた』を熱唱。観客も一体となって「ヤッテマレ、ヤッテマレ」を大合唱。平成15年度立ねぶたが閉会となった。
平成15年8月9日
普段小説の類いはあまり読まないが、東京と違いテレビも新聞もコンビにも身近にない生活なので一日が長く、久しぶりに小説を読んだ。室積光『ドスコイ警備保障』(アーティスト ハウス刊)である。面白い。久々に一気に読み終えた。笑いあり涙あり、力士の心情も細かいところまでよく捉えていて違和感も全くない。まさに怒涛の感動コメディである。
平成15年8月11日
相撲に縁遠い人にとって、おすもうさんは「ごっつぁんです」と「ドスコイ」というイメージであるらしく、ちょっと調子のいいアンチャンや酔っ払いのオッサンは、すれ違いざまどちらかの言葉を発していく場合がけっこうある。ごっつぁんですは、稽古ではもちろん日常生活でも頻繁に使うが、「ドスコイ」は日常生活では絶対に使うことはない。昨10日青森合宿より帰京。
平成15年8月12日
では「ドスコイ」はいつ使うかというと相撲甚句のときである。相撲甚句の囃子言葉で、合い間あいまに「ハァー ドスコイ ドスコイ」という。だから、相撲甚句を唄わないおすもうさんだと一生ドスコイという言葉を使わないこともある。関係者にとっては、そんなの当たり前だろという話だが、相撲を全く知らない人からはよく受ける質問である。
もっとも最近は、飲み屋での一気飲みの時にも「ど、ど、ど、ど、ど、ど ドスコイ」と掛け声をかけることもあるが。
平成15年8月13日
「ごっつぁんです」の語源は「ごちそうさま」であることはわかりやすいが、「ドスコイ」の語源は何であろう。もっとも囃子言葉であるから、そんなに意味のある言葉ではないであろうが、相撲甚句がもともと民謡の一種であることを考えると、「はぁーどうしたどうした」がなまったのかも知れない。あくまでも想像だが。『相撲大辞典』を引いても、さすがに「ドスコイ」の項はでてこない。
平成15年8月14日
相撲用語は業界用語であるから隠語で、一般の人にはわからない言葉が多い。昔に比べると全然使わなくなってきているが、まだ生活の中にしっかりはいっている言葉もけっこうあるにはある。「めがね」なども今だによく使われる言葉である。
居酒屋で力士数人で一杯やっているときのこと、料理を運んできた金星の若おかみが、すこしかがんだ時に胸元が色っぽくチラリと開いた。そういうときには喜びを分かち合うのが男のサガで、一人が「あっ、めがね」と小さく叫ぶ。全員の視線が一斉に集まるが、当の本人は「え!メガネどうかしたんですか」と全く気付かない。「めがね」と叫んだ奴がうまいことに本当にメガネをかけていたので、「いや、ちょっとメガネが落ちそうになってしまって・・・」とか、うまくごまかせて事無きを得、みんな得した気分になる。
平成15年8月15日
何日か前の朝日の夕刊だったと思うが、江戸時代の吉原の遊女の隠語として「おさしみ」という言葉がでていた。一般には口吸いといったそうで、ディープキスのことである。「おさしみ」は相撲用語でも同じ意味で残っている。20年程前はよく耳にしたが、最近はあまり聞くこともなくなったが、死語ではない。その延長線上の言葉で「脈をかける」というのもあるが、こちらの方がもっと使う人が少なくなっているような気がする。こちらの詳しい解説はご遠慮申し上げる。
平成15年8月16日
無視するという意味で使われる「シカトする」は元来ハマ(横浜)ことばだそうだが、相撲用語でもとてもよく使われる。兄弟子が下のものに向かって「シカかましやがって」とか「シカか」とかよく使う。元々、花札の十点札である鹿が横(そっぽ)を向いているところから「鹿のトウ(十)をかます」というのが語源だと先代の親方に聞いたことがある。そういえば花札も相撲部屋からすっかり消えてしまった。
平成15年8月17日
場所も終わり頃になってくると、「何番勝っているの」と聞くのが挨拶代わりになってくるが、星によっていろいろと決まり文句がある。例えば、2勝3敗だと「兄さん寄ってらっしゃい」という。これは昔も今も変わらない。花札がもっとおすもうさんの生活に入っているときは、3勝3敗だと「さんさんろっぽ見ずに引け」などという文句をよく聞いたが、最近ではまず耳にすることはない。
先場所、若い奴の会話を聞いていたら「何番勝っているの」と聞かれて、「ストロベリー」と答えていた。何のことかわからなかったが、イチゴで1勝5敗のことらしい。さすがに時代は変わったと感じ入った。
平成15年8月18日
相撲用語が使われなくなってきているのは何故だろう。いろいろ複合的な要素があるだろうが、入門する年齢が上がった事は一要因だと思う。12,3歳ころから入門していた頃は、相撲界に入ってから覚える言葉が多かったであろう。それが、義務教育終了後の15歳以上になり、高校大学出身力士が増え、中卒力士も少なくなってきている現在は、入門する以前に言葉が出来上がってしまい相撲用語が入りにくくなっているのは間違いないことであろう。もう一つは、今の日本全体にいえることであろうが、プロ意識の欠如ということも関わってきていると思う。
平成15年8月19日
さらにもっと問題なのは相撲部屋の核家族化ということであろう。もともとの相撲部屋の形態は、10代前半の子供から裏方だと70近くの老人まで100名近くが生活を共にする大家族である場合が多かったが、相撲部屋の数が現在のように54部屋にも増えると、大半が若い親方と若い弟子だけの少人数家族になってしまって相撲用語を使う頻度も激減するであろうことは明白である。そういう意味で言えば、力士社会よりも年齢層が幅広い呼出しの世界の方が、相撲用語は断然生き残っている。
平成15年8月20日
では、どんどん相撲用語を使うようにしたほうがいいのかというと、そう簡単な話でもない。入ったばかりの新弟子や担当になったばかりの記者などにそれらしく相撲用語を使われると、かえっていやらしさを感じるものである。「ちゃんこの味がしみる」という言葉があるが、その場面場面に応じて体の内面から自然ににじみ出てくるのが、本来の相撲用語である。ソフトよりもハードの問題である。
平成15年8月21日
明日から24日までの平塚合宿のため平塚市総合公園乗り込み。昔の若松部屋時代から数えて10年目を迎える合宿である。以前は「平塚若松部屋を愛する会」であったが、現在は「湘南高砂部屋後援会」と名前を変えてだんだん大きな組織になっている。
実家がこの合宿所のすぐ近くにある朝迅風 は、この合宿が縁での入門である。
平成15年8月22日
平塚合宿初日。総合公園の土俵は、地元ライオンズクラブなどの協力もあり平成10年に完成したが、殆ど年に数日しか使わない土俵を平塚市職員である総合公園の管理事務所が管理してくれている。土は生き物なので、普段使わない土俵を管理するのは結構難しい仕事だが、職員の方も年々慣れてきて、土俵を叩くタタキなどの扱いも本職の呼出しさん並にうまくなり、土俵もすっかり落ち着いてきた。
本日夕、公園内のレストランにて新しい平塚市長も参加しての歓迎会。明日は、稽古後一般平塚市民へのちゃんこの振る舞いも行なわれる。
平成15年8月23日
平塚2日目。今日は土曜日ということもあり、土俵のまわりを観客が幾重にも囲み、ちょっとした巡業のような稽古場。夜、公園内で盆踊り大会があり参加して、そのあと平塚市営休場にて地元チームと親善野球大会。ボールがあっちにもこっちにも抜け放題で、守備についた力士は走り回り、上半身裸で汗だくになっていた。
平成15年8月24日
平塚最終日。稽古とちゃんこを終え、お世話になった湘南高砂部屋後援会の幹事の皆様の見送りにて宿泊研修所を後にして熱海へと向かう。熱海市の町おこしの一環として行なっている夏休みわんぱく相撲大会がビーチで催されゲストとして横綱はじめ高砂部屋力士一同も参加。小学生と相撲を取ったり綱引きしたりと興じ、夕方歓迎会を開いてもらい帰京。熱海も今年で3年目を迎える。
明日9月場所番付発表となっている。
平成15年8月25日
9月場所新番付発表。特筆すべきは、先場所10勝5敗と好成績だった闘牙が新小結に昇進したことであろう。午前9時より部屋1階にて師匠、横綱と共に喜びの記者会見。第2子の誕生予定日も明日で、おめでた続きとなりそうである。最幕下の朝迅風に加え、塙ノ里、朝ノ土佐も新幕下昇進。これで幕下5人という陣容になる。怪我のため大阪でリハビリを続けていた朝三好、久しぶりに部屋に帰ってくる。出場はまだ2,3場所先になりそうだが、日常生活に支障のない状態までは回復しつつある。
平成15年8月27日
東関部屋から高見盛と潮丸、錦戸部屋からも若い衆が5人出稽古にきて稽古場も賑やかになってくる。報道陣や見学客も日に日に増えてきているし、明日あたりから他の関取衆も出稽古に集まってくることであろう。来週木曜日に綱打ちを行なう予定なので来週水曜日あたりまでが場所に向けての稽古のピークとなる。
平成15年8月31日
立浪部屋の新しい部屋開きで横綱朝青龍が土俵入り。窪寺紘一『日本相撲大鑑』によると、立浪部屋は大正4年6月に春日山部屋の小結緑島が引退して4代目立浪を襲名して創設。何といっても横綱双葉山を生んだ部屋であるが、他にも横綱羽黒山、双羽黒、大関名寄岩、若羽黒、旭国等、役力士を多数輩出している名門である。現在は元旭豊が7代目立浪を継承している。
平成15年9月1日
東京場所前恒例の横綱審議委員会総見稽古が国技館内相撲教習所土俵にて行なわれる。横綱朝青龍も順調な調整ぶりを見せたようだが、今回の総見稽古に、幕下の朝迅風と朝ノ土佐も初参加した。本来総見稽古は基本的に前頭5枚目以上と幕下15枚目以内の参加だが、幕下申し合いに参加させてもらっていい経験となったようである。
平成15年9月4日
綱打ち。横綱は、東京場所の場所前毎に新調される。綱打ちも3回目なので、段取りもよくわかってきてスムーズに進み、新しい横綱が完成。闘牙関に待望の二人目が誕生した。先週誕生予定だったのがなかなか生まれずやきもきしていたようだが、本日夕方ようやく誕生したとのことである。女の子だそうである。
平成15年9月5日
久しぶりにアンコウの差入れがありアンコウ鍋。ちょっと小ぶりのアンコウだったが、チャンコ長の大子錦が捌き、そこへ今日のちゃんこ番の福寿丸と朝三好が加わりと、高砂部屋アンコベスト3も揃った。アンコウの生臭さも加わって、残暑以上に暑苦しい、ちょっと異様な雰囲気のチャンコ場であった。
平成15年9月6日
初日を前にして土俵祭りが国技館土俵にて行なわれ触れ太鼓が街へ繰り出す。明日あさっての取組みはこちら。今年で8年目を迎える本所高砂会が錦糸町ロッテプラザにて開催。地元の人々との交流を深める。
平成15年9月7日
普通のちょん髷と違って大銀杏を結うのは技術もさることながら体力も要る大仕事である。千代の富士、小錦と大銀杏を結ってきて、その技術は神業と言われ、床山の世界では伝説的にもなっている床寿さんだが、体力的な理由もあり小錦関を最後に本場所での大銀杏の仕事からは一線から引いていた。その床寿さんが今場所から横綱朝青龍の大銀杏を結うことになり、東支度部屋の一番奥で仕事が始まると、約5年ぶりの名人芸を見ようと各部屋の床山さんが何人も周りを取り囲んだそうである。
平成15年9月8日
部屋で一番若い床山の床若は、床寿さんの紹介での入門である。その分床寿さんや先輩の床弓さんも、何とか早く一人前にしようと日頃から厳しい指導が続いている。本人も先輩の意を汲み、毎晩若い衆に頼んで大銀杏の練習に余念がない。ゆくゆくは横綱の大銀杏を結ってもらおうという床寿さんの親心で、早く横綱の髪に慣れるよう取組みが終わって大銀杏をちょん髷に結いなおす仕事を今場所から任されることになった。その支度部屋での写真が、今日のスポーツ誌に載り、床若のお父さんとは床若が生まれる前から親交のある床寿さんも、お父さんに新聞を持っていってやれと感慨深く喜んでいた。
平成15年9月9日
窪寺紘一『日本相撲大鑑』によると、大銀杏髷は天明・寛政年間(1781~1801)頃からのことらしい。確かに錦絵を見ると、それ以前の谷風、小野川、雷電などは月代(さかやき) を剃っている。同書によると、大銀杏というのは元結で結んだ後ろの部分が銀杏の形をしているところから来ているそうで、現在一般的に云われているハケ先が銀杏の形をしているからというのとは逆である。確かに明治初期の頃まではハケ先は現在のちょん髷とあまり変わらなく広げていない。明治から大正にかけてだんだんと広がっていって現在の大銀杏の形になってきている。
平成15年9月10日
今日勝って2勝2敗とした朝乃若、今日の取組みで平成4年3月場所幕下附出しでの初土俵以来休みなしでの連続999回出場。明日が記念すべき1000回となる。もちろん現役力士ではトップの記録である。学生出身力士としては異例の記録であろう。なにせ入門以来怪我らしい怪我をしたのを見たことがない。現代大相撲界で力士の怪我・休場が大問題になっているだけに、大いに称えられるべき貴重な記録である。
平成15年9月12日
今場所初幕下の塙ノ里、兄も高砂部屋の力士だった。床寿さんが兄をスカウトに行ったときに、現塙ノ里は幼稚園児だったそうで、「ボクもおすもうさんになる?」と聞いたら、「うん、お兄ちゃんよりも強くなる」といっていたそうである。兄は三段目で引退したからすでに兄は追い越したが、今場所は1勝2敗と黒星先行で残り4日間に巻き返しをかける。
平成15年9月13日
大阪で柔道の世界選手権が熱戦をくり広げているが、力士にも柔道の経験者は多い。闘牙は東海大相模高で柔道をやっていたし、幕下以下も半分近くが柔道出身である。あす無差別級に出場する鈴木選手は男女ノ里と同じ道場の3年先輩だそうである。テレビでの熱戦にすぐ影響されて、2階大広間では塙ノ里と朝花田の柔道対決がさっそく行なわれ、敷ゴザがバラバラになってしまった。
塙ノ里は中学校で茨城県2位、福寿丸は金鷲旗(きんしゅうきー全国高校大会)の団体ベスト16の実績を持っている。
平成15年9月14日
横綱朝青龍の先陣を切るように大子錦が今場所第1号の勝ち越し。もっとも、初めての三段目昇進を決めた去年7月場所以来1年間負け越し続きだったから当然と言えば当然だが、これほど負け越しが続くと勝ち越せる気もしなくなってくるから、やっぱり嬉しいというか一安心の勝ち越しであろう。大子錦はレスリング出身で、高校時代関東大会2位の実績をもっている。パーティーとかでは「手がドラえもんみたい」と中高年女性に圧倒的人気を誇っている。
平成15年9月15日
新小結闘牙、5勝4敗と白星先行。上位との対戦は殆ど終わっているので、のこり6日間に関脇昇進への夢も膨らんできた。今日のテレビ解説の舞の海氏も言っていたが、引きを立派な技として確立しつつある。本人も言っているように引こうと頭で考えて引いたらまず決まらない、相手との間合い、絶妙のタイミング、まさに闘牙ならではの究極の技術である。
平成15年9月16日
朝君塚と朝花田勝ち越し。三段目朝花田は自己最高位での勝ち越し。集中すると我を忘れるのは今人気の高見盛と 一緒で、稽古場ではいつもかわいがられ役である。その成果が着実に力となっている。序ノ口の朝君塚は入門2年半だが、3回目の勝ち越し。しかもあと2番残してである。こちらも貴重な価値ある勝ち越しである。
平成15年9月17日
相撲見物に酒はつきものである。桝席で焼き鳥をつまみながら、ちょっと一杯というのも相撲の楽しみ方のひとつである。ただ度を過ぎるといろんなことがある。三段目福寿丸が土俵に上がったときだからまだ1時前のこと。桝席から「福 寿 丸 がんばれー 俺はわざわざ滑川町(福寿丸の地元)からでてきたんだぞー 」完全にできあがった声だった そうである。勝負が終わり花道から姿が消えるまで、滑川町の酔っ払いのおっさんは、まだ人気の少ない館内で叫び続け、その甲斐あったのか福寿丸先場所に続いての勝ち越し決定。
全然知らないおっさんだったそうで、さすがにちょっと恥ずかしかったそうである。
何年か前、酔っ払いが幕内取組み中の土俵に上がって、控えにいた旭道山がつまみだした事件はまだ記憶に新しい。もっと昔、ゆで卵につける塩がなくて土俵にまく塩カゴの所までいってゆで卵に塩をつけた酔客もいたそうである。
平成15年9月19日
11日目勝って6勝5敗となったときは、部屋に帰ってくるなり「関脇と呼んでくれ!」と絶好調だったが、きのう今日の連敗で「平幕と呼んでくれ」とトーンダウンの闘牙である。しかしながら、一昨日も今日も全く明るさが変わらないのが闘牙関の闘牙関たる所以である。
7敗とあとがなくなったが、たとえ負け越して平幕陥落しても、十分三役を張っていける地力をつけたというのは、自他共に認める今場所の成果であろう。
平成15年9月20日
阪神タイガースの優勝と同じ様にちょっとやきもきさせた2連敗で千秋楽までもつれこむ可能性もでてきていたが、今日の優勝も考えられるため、朝から優勝の乾杯の鯛やつまみ、飲み物などの手配をして後援会の面々にも連絡、部屋のテレビの前に集まって結果を待つ。琴光喜が負けた時点で乾杯の用意に拍車をかけ4回目となる優勝を祝った。東京では3回目となるため、本所警察署との優勝パレードの打ち合わせも確認事項ばかりであっという間だが、明日の天候だけが気がかりである。
平成15年9月23日
おすもうさんは飛行機の座席に座れるのかというのは、よく聞かれる質問である。九州場所の宿舎が引越しするため、その下準備で羽田発福岡行きの飛行機に大子錦とのった。福岡行きは満席で、大子錦とは離れた席に座りシートベルトを締めてしばらくすると、スチュワーデスが「延長シートベルト」を持ってきて「シートベルトは足りましたか」と聞いてきた。「はい大丈夫です」と答えて、しばらくするともう一人のスチュワーデスがまた同じことを聞きにきた。「締まっているっちゅうのに」と思いつつ、笑顔で大丈夫ですと再度答えてピンときた。「大子錦だ」。着陸してから聞くと案の定であった。160kgの頃まではまわっていたそうだが、延長ベルトはさすがに初体験だそうである。一体何キロになってしまったのだろう。そのお陰なのか、満席なのに隣を空けて貰って、快適な空の旅だったそうである。体型にもよるが、180kg位までは座席にケツも入る。
平成15年9月25日
元々高砂部屋九州場所宿舎は福岡ドームに近い唐人町“成道寺(じょうどうじ)”というお寺であったが、昨年はお寺が改築したため宿舎として借りることができなかった。そのため二日市にある元若松部屋のプレハブの宿舎を使った。今年改築工事が終わり、以前のようにお寺をお借りできるようになって、二日市から唐人町へと引っ越すことになった。成道寺の門前に商店街が軒を並べているが、商店街の人々は高砂部屋が帰ってくると知り大喜びである。一方、先代若松のときから数えると20年近くになる二日市宿舎周辺の人にとっては「え~もう今年はこないんですか」と季節の風物詩が消えるさみしさがあるようである。
平成15年9月28日
場所休み中だが、この時期は色々と花相撲が重なって忙しい。昨日が肥後ノ海の引退相撲で今日が湊富士の引退相撲。明日は明治神宮奉納の力士選手権。10月1日はテレビ朝日の福祉大相撲と続く。また今日夕方、以前の日記で紹介したスピードスケートの今井裕介選手の結婚式があり、高砂部屋からも闘牙関、皇牙、一ノ矢と参加。清水宏保選手や岡崎朋美選手も出席して賑やかな宴となった。
今日の高砂部屋
平成15年10月1日
おすもうさんというと、パッとイメージに浮かんでくるのは、アンコ型力士であろう。アンコは、概して見た目がユーモラスなのが多くて、また性格的にものんびりというか大らかな人間は多い。寝るのが大好きな事はアンコの条件のひとつかも知れないが、寝るときは、ほとんどがうつぶせで寝る。しばらくアンコの生態についていろいろと見ていきたいとおもう。
平成15年10月2日
アンコは仰向けに寝れない。仰向けに寝ると自分の胸の肉で窒息してしまうらしい。本当の話である。横向きはまだ大丈夫だそうだが、やっぱりうつぶせが一番楽だそうである。うつぶせも、壁にぶちかまして寝るのが一番具合がいいそうである。枕を布団におくのではなくて、壁にあてて、その枕にぶちかまして寝るのである。これは大子錦の得意技だが、最近めきめきアンコ軍団の仲間入りをしている朝光も、試しにこの寝方をしてみたら楽だったと共感していた。もっともアンコでも体型による個人差もあり、200kgあっても仰向けでも寝れるアンコもいる。
平成15年10月3日
仰向けに寝れない理由と同じで、下を向いてやる作業は苦手である。靴の紐を結ぶなどという作業はもっともいやな作業だそうである。ボーリングシューズは28cm位まではマジックテープで止めるようになっているが、それ以上の大きい靴は大体が紐である。靴をはいてから紐を結ぼうとすると、途中息が止まって死にそうになるらしく、先に紐を結んでから靴をはくそうである。すこしゆるくても気にしないそうである。朝三好談である。
平成15年10月4日
趣味は食うことと寝ることというのは多いが、アンコは特にその傾向が強い。食うことに関してはプロフェッショナルである。好みに個人差はあるが、共通して好きなのは脂っこいものである。バターの丸かじりなんかはこたえられないそうである。甘いものは嫌いではないが、それほどでもないらしい。そういえば、超アンコにはあまり糖尿病患者はいないような気がする。その代わり中性脂肪とか肝機能の数値とかは、人間の値をはるかに超えている例をよく耳にする。
平成15年10月5日
アンコは鼻息が荒い。後ろに立たれると鼻息の荒さですぐわかる。また体温も高いから熱気でもすぐわかる。これは特技(特殊技能)といえるかもしれないが、バスタオルを腰に巻くとき、結ばなくても腹の下にはさむだけで絶対落ちない。千円札を腹の下や乳の下にはさんでシャワーを浴びても決して千円札は濡れることはない。
平成15年10月6日
では何キロからアンコかというと、絶対的な数字はなくて、体型にもよるし、時代にもよる相対的なものであろう。同じ170kgでも身長が190cmもあればアンコには見えないし、昔は130kgくらいで超アンコと呼ばれた時代もあった。その集団の中で太った体型の人、という言い方が正しいかもしれない。クラスや会社の中でそういう位置にいる人は、たとえ体重が80kgしかなくても、やっぱりアンコ的性質を備えているような感じはする。でも、アンコにもアンコのプライドがあって、同じようなアンコにアンコ呼ばわりされると腹が立つらしい。
「おまえにだけは言われたくない」という所であろう。
平成15年10月7日
アンコは暑がりである。真冬でもパンツ一丁ということは珍しくない。今日は涼しいなと思う日でもちょっと階段を上るといい汗かいている。暑がりのくせに狭いところを好む。飯食っているときやカラオケボックスなどで、他に空いているところがあるのにわざわざ狭い所に入ってくる。店員が、あと何人来るのですかと聞いてきたこともあった。これだけですと答えると、店員は不思議そうな顔をする。
歌はけっこううまい。楽器が大きいせいであろう。歩くのは嫌いである。股ズレするからである。
平成15年10月8日
幸せ太りという言葉があるように、アンコに不幸という言葉はあまり似合わない。アンコな浮浪者は見たことないし、十分以上食えるからこそアンコになってはいるのであろう。でも、アンコも日常生活での苦労は多々ある。まず合う服がそうないことである。あっても品も限られるし値段も高い。食物屋とか行っても、固定式のイスの店だと入れない。タクシーが止まってくれない。自転車に乗るとサドルが曲がってしまう。ペダルが折れる。椅子の脚が折れる。床が抜ける。和式便所に入れない。映画館でイスに座ったらケツが抜けなくなる。
いろんな制約を受けながら生きている。
平成15年10月9日
アンコ話は尽きないが、アンコ自身にアンコを語って貰って締めたいと思う。アンコ自身の口によれば、アンコの一番の特徴は、何といっても「自分に甘いこと」だそうである。「自分に甘いからこそアンコになるんですよ」ということである。それを聞いた他のアンコ達も、大きくうなずいていた。そんなことを堂々といえるところが、アンコの憎めない、愛嬌といえるのかもしれない。
平成15年10月10日
最近、歌舞伎を観る機会を頻にしている。大相撲と歌舞伎は文化としての日本の伝統芸能の、いうなれば東西の横綱であろうが、類似点は多々あり興味深く観せてもらっている。今年は歌舞伎400年だそうで、江戸開府400年と歩みを共にしているが、大相撲は現在の形になって200数十年、少し負けてしまうがその起点が同じ江戸時代にあるのは匂いを同じにしている所以であろう。
平成15年10月11日
歌舞伎と大相撲には共通点は多い。初日、千秋楽、幕内などという言葉、入場する花道。柝(拍子木)によって進行されること、などなど。窪寺紘一『日本相撲大鑑』によると、花道は相撲から歌舞伎へと、化粧回しの絵模様は歌舞伎から相撲へと影響をうけてできてきたものだそうである。
平成15年10月12日
相撲の語源は争うという意味の「すまふ」だそうで、歌舞伎は異様な身なり振る舞いという意味の「かぶく(傾く)」が、そもそもの語源だそうである。今でいう茶髪やコスプレで、400年前から時代を先取りしていたかのようである。同じ江戸大衆娯楽であったのに傾(かぶ)かなかったのは、勧進相撲であり大名お抱えの武芸でもあったからであろうか。
同じ格闘技でありながらショービジネスの面も強いプロレスは、しっかり傾(かぶ)いている。
平成15年10月13日
歌舞伎を観に行くようになってまだ日は浅いが、毎回満席なのには驚かされる。観る以前は過去の文化というイメージが無くもなかったが、実際行ってどんどん時代を先取りしているからこその感を強めている。観客へのサービスというソフト面も、座席、イヤホンガイド、モバイル等、ようやく大相撲が取り組み始めたことを以前から自然に行なっている。また歌舞伎自体のハード面も、伝統を守りつつ勘九郎など新しいものへの挑戦にも勢いがある。人を魅了するスターも多い。
平成15年10月14日
歌舞伎も地方での興行の時は満席にならないことも多々あるらしい。それでも、玉三郎や勘九郎などの千両役者が出ると常に満席だそうである。役者を観るのが歌舞伎ともいう。ただそれはどんな舞台やスポーツにもいえることで、自分にない能力をもつスターを見たいがためにお金を払って見に行くのであろう。そういう身体能力を研究している伊藤昇(故人)という人が書いている『スーパーボディを読む』(マガジンハウス)という本の中でいろんなアスリートや芸術家について述べているが、身体運動の基本である、立つ、歩くということに関して双葉山、玉三郎は 人類最高のレベルだそうである。
平成15年10月16日
15日に先発隊5人(一ノ矢、大子錦、朝三好、朝神田)福岡入り。今年から宿舎が福岡市内の唐人町に引っ越すため、いつもより早い先発隊乗り込みとなった。唐人町は中央区に位置し、天神などの繁華街にも近く、大濠公園も歩いて10分くらいの距離、何といっても福岡ドームのお膝元で、唐人町商店街はダイエー応援ムード一色である。
平成15年10月19日
昨年までの宿舎であった二日市から唐人町のお寺へ荷物を引越し。30名近くが住んでいた荷物だから4トン車2台分の大荷物で、業務用大型冷凍庫などもある為大仕事であり、先発 人数もいつもより少なかったので心配していたが、ひょんな縁で地元朝倉高校野球部が助っ人に来てくれ、午前中で完了。17日にやった土俵の土8トンの掘り出しも浮羽高校生徒の 協力あってのことであった。 引越しのトラックの手配全般は、もちろんスーパー主婦やっさんの奥さんで、やっさん家族総出での先発業務である。
平成15年10月20日
毎年九州場所は、やっさんに始まってやっさんに終わるが(やっさんて誰?という方は過去の高砂・若松部屋日記11月辺りをご参照下さい)、宿舎が遠くなった今年も毎日のように部屋に来てもらって何かとお世話になっている。生まれたばかりの時から部屋に出入りしている息子のけんとも小学5年生になっているが、去年あたりからめっきりアンコ体型になってきて部屋の中でもあまり違和感がなくなってきた。去年、先発事務所付きのため福岡泊りで、あまり二日市の部屋に来てない呼出し邦夫は、約2年ぶりに会って、そのアンコぶりに初めはどこかのわんぱく相撲の子供だと思っていたほどの成長ぶりである。
平成15年10月21日
けんとの例でもわかるように相撲部屋に出入りするようになると一般的にアンコ化する傾向にある。大きいおすもうさんに囲まれていると、自分もまだまだやせていると思ってしまうらしい。年に1回の地方場所の人でさえそうだから、1年中力士と一緒に生活している呼出しや行司は尚更である。けんとのアンコ化に驚いた呼出し邦夫、同僚の利樹と一緒に部屋近くの銭湯に行ったら、一緒にはいってきたおじいちゃんに「お兄さんたちいい体しているね。おすもうさんなの」と言われたらしく、おすもうさんと一緒に行ってたらまだしも、2人だけだったのに、と入門前は痩身だった2人はショックを受けていた。
平成15年10月26日
秋巡業最終日、岡山での巡業を終え全員博多乗り込み。旧若松部屋力士にとっては初めてとなる唐人町成道寺(じょうどうじ)だが、旧高砂部屋力士にとっては勝手知ったる懐かしい場所である。今日の唐人町は日本シリーズ第6戦で地元ダイエーが勝利し、近くのラーメン屋などにも応援帰りのホークスファンが溢れていた。
平成15年10月27日
1年納めの九州場所新番付発表。三段目ケツまで落ちた朝三好が今場所まで休場、来年初場所よりの復帰にかける。
平成15年10月30日
博多に来てのおすもうさんの楽しみのひとつは、とんこつラーメンである。全般にこってりとした脂ののったスープだが、店によってこってり具合や味付け、麺の種類などなど、いろいろ違いがあって、それぞれにあの店が好きだとか好みは分かれる。博多ラーメンの有名どこは「一風堂」や「住吉ラーメン」「一蘭」とかいろいろあるが、「一蘭」の人気は おすもうさん全般にも高い。ただちょっと難点があるのは、「一蘭」には隣の席との間に仕切りがあることである。その仕切りがアンコにとっては邪魔で、ラーメンを食う前にいやになってしまうようである。ところがそこは食うためには労力を惜しまないアンコ。隣との仕切りのない「一蘭」を見つけたらしく、アンコ仲間では情報がいきわたっているそうである。
平成15年11月2日
地方場所は貸し布団での生活で、名古屋場所は掛け布団1枚、九州と大阪は掛け布団2枚か1枚を毛布に代用というふうになっている。九州場所といえば冷え込みが厳しくて、という印象だったが、乗り込み以来朝晩の冷えは少しあるものの、日中は暖かなというのを通り越して暑さを感じるほどである。毛布も紐で縛られたままで使われることもなく、部屋の中でもTシャツ1枚か上半身裸という名古屋場所のような感じである。博多の街の人にとっても寒くなったら九州場所というイメージがあるらしく、汗をかきながら歩いていると、「え、もう九州場所?」という違和感を感じるようで、初日1週間前という雰囲気にはほど遠い今日この頃である。
平成15年11月3日
去年までは宿舎が二日市で家から歩いて3分だったから、学校への行き帰りにいつも部屋に寄っていたやっさんの息子けんとだが、今年から宿舎が遠くなってそういう訳にもいかなくなってしまった。ようやくの連休で学校が休みになったため念願の2泊3日がかない、朝からちゃんこ番の手伝いをして、おすもうさんと一緒に風呂に入りと、部屋の生活に当然のごとく溶け込んでいる。それもそのはず、生まれた時から部屋に出入りして10年、親方と一緒に食卓を囲みながら「お先ごっつぁんです」という言葉も堂にいっている。
平成15年11月4日
宿舎のある唐人町には賑やかな商店街があり、ドームの地元ということで日本シリーズまではダイエー応援一色であったが、日本シリーズが終わって商店街に高砂部屋や関取衆の幟が数十本通りに旗めいて雰囲気を盛り上げている。元々は警固の方にあった高砂部屋が唐人町に来て36年になるそうで、元横綱前田山の4代目高砂の頃が初めてだそうだが、最初の頃は約80人が現在の成道寺(じょうどうじ)に泊まっていたそうである。
平成15年11月6日
昨5日、朝青龍横綱昇進祝賀会と化粧回し贈呈式がホテルニューオータニ博多にて行なわれた。約300名の後援会を中心としたお客様が集い、1年前の九州場所で初優勝して今年横綱として博多入りした朝青龍を祝う。九州高砂部屋後援会から博多山笠の図柄の化粧回し三ツ揃えが贈られ9日からの九州場所へ向けての激励とする。
平成15年11月7日
九州場所といえば何といってもアラ(クエ)鍋だが、キロ1万円もする高級魚なので、このところの不況でここ数年部屋への差入れもなかったが、久しぶりに20kgほどのアラが差入れされ久しぶりのアラ鍋。骨の周りの脂の乗った身をしゃぶる旨さは格別である。
平成15年11月11日
ここ数年の例にもれず入りの悪い九州場所となって盛り上りに欠けたスタートとなっているが、支度部屋でもタクシーに乗っても飲み屋でも、話題になるのは曙K1転向のことである。一時は親方として協会に残る気にもなっていたようだが、いろいろあっての大決心のようである。飲み屋とかで話題になる一般的な曙のイメージは、ただ体の大きさだけで横綱まで上り詰めたように思っているようだが、とんでもない。身体運動の研究家である高岡英夫氏の分析によると、突っ張りやパンチの威力を決定付ける肩胛骨の使い方は現代格闘家の中でも特筆すべきものがあるそうである。
平成15年11月12日
一般的に突きやパンチの強さは腕力に比例すると思われがちだが、そう簡単なものではない。体重の乗せ具合とか重力を利用できているかとか全身的な体の使い方がかなり影響してくる。そのなかでも肩胛骨を使えるかどうかは威力が倍増させるそうである。突っ張りやパンチには、そのスピードに関わらず思い軽いがある。野球のボールに重い球、軽い球があるようにである。
平成15年11月13日
本場所をしめる弓取り式は、勝ち力士に代わってということで横綱もしくは大関がいる部屋の幕下以下力士がやることになっている。九州場所ご当所直方市出身の皇牙(おうが)、今日勝って2勝1敗と白星先行。もし横綱武蔵丸が引退してしまったら、皇牙が弓取り式を行なう予定になっている。
平成15年11月14日
年3回ずつある東京場所と地方場所の一番の違いは、差入れの大小であろう。東京場所だと差入れも限られるが、年1回の地方場所はやっぱり差入れも多い。約1ヵ月半いる地方場所、差入れも均等に順次来てくれれば苦労もないのだが、乗り込んでしばらくは殆ど何もない状態で、本場所が始まるととたんに加速度的に増えてくる。特に時期的なものもあって九州場所は魚の差入れが多い。
玄界灘の荒波に揉まれた脂ののった魚は言葉に言い尽くせないほどおいしくありがたいのだが、それを食える状態に捌くのはちゃんこ番の仕事である。本場所の忙しさと魚の差入れが重なって、さすがに「もう魚は見るのもいやっす」という状態の大子錦の毎日である。
平成15年11月16日
奄美群島日本復帰50周年記念式典が奄美大島の名瀬市で行なわれNHKでも中継された。沖縄の日本復帰は万人が知ることだが、奄美も終戦から昭和28年まで米軍統治下だったことを知る人は少ない。以前にも紹介したと思うが、第46代横綱朝潮は徳之島の出身で昭和23年の入門だから、まだ米軍統治下のことである。徳之島から貨物船で神戸まで密航しての大相撲入門だった。最初は神戸出身力士として番付にのり、昭和28年に日本復帰になって初めて徳之島出身と変更した。徳之島の小学校の先生に、当時の密航の手助けをした人がいてよく話を聞かされたものである。
平成15年11月17日
私事ながら、父母は共に元横綱朝潮の五代目高砂親方と同じ小学校であった。父が親方より2年上、母が1年下とほぼ同年代である。小学校の時から人並みはずれて大きかったそうで、大人の何倍もの荷物を担いだとかいう逸話は数々あったようである。19歳と遅い入門だったが、入門当初から将来の横綱と嘱望され、3年で十両に昇進し、昭和28年復帰当時は三役力士として活躍していたから、奄美復興のシンボルであり、島人(しまんちゅ)にとっての英雄であった。
序二段大子錦先場所に引き続き部屋第1号の勝ち越し。三段目高稲沢と横綱も勝ち越し決定。
平成15年11月19日
現在奄美出身力士は12,3人いる。奄美群島(奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島・喜界島)の全人口が10数万人のはずだから、人口の比率から云うと力士率はおそらく日本一 であろう。もともとスポ-ツというよりも格闘技系の方が盛んで、古くは明治講道館の徳三宝(徳之島)、極真空手の緑健二(奄美大島)、キックの全日本クラス選手とかその方面での著名人は多い。衆議院議員として話題になった旭道山も徳之島出身である。奄美全体としては癒し系の島々が連なっているが、徳之島と奄美の古仁屋は血の気の多い人間が多い。
平成15年11月20日
負け越しが決まってしまったが、決まってからの2日間はいい相撲をとっていた朝赤龍。完全に勝っている相撲だったが、はたいた手が相手の髷にかかって引っぱってしまい反則負け。自分では全くわからなかったらしいが残念な黒星となってしまった。同じく今日の三段目取組。中に入ろうとしたところ叩かれてしまった朝花田、相手の手が髷をつかみ反則勝ちで3勝3敗とする。
平成15年11月22日
今日3勝3敗で最後の一番に臨んだ7力士。序の口朝神田、きわどい相撲で勝ち越しを逃す(本人談だが)。続く朝君塚今度はきわどい相撲で勝ち越し。三段目にはいって朝光は負け越すも、朝花田先場所に続いての自己最高位での勝ち越し。ご当所幕下の皇牙も勝ち越し。結局7人中3人が勝ち越しという結果になった。横綱朝青龍、明日優勝が決まると唐人町商店街に凱旋パレードすることになっている。
平成15年11月25日
唐人町商店街は賑やかな商店街である。アーケードの通りに色んな店が軒を並べ、買い物客で常に賑わっている。福岡ドームに一番近い商店街ということもありダイエー優勝のときはテレビカメラの中継がいつも入っていた。また月に一度は商店街の中の特設ステージでミニコンサート(主に演歌歌手だが)も開催されていたりする。今日は、ちゃんこ祭りということで高砂部屋力士も参加して、お昼に餅つき大会、夕方ちゃんこ会と、いつにも増しての行列のできる賑わいであった。
平成15年11月26日
唐人町商店街のちゃんこ祭りには地元福岡教育大学付属小学校の子供達も多数参加した。アーケード街のイベント広場に並んで、ちゃんこ祭りオープニングの歌を披露。立派な混声合唱団の伸びやかな歌声で、自作のちゃんこの歌も歌い、大いに盛り上る。
部屋では、そろそろ巡業や東京への帰り支度を始めだす。
平成15年11月27日
唐人町商店街にはおいしい店もかなりあるが、商店街を宿舎の成道寺側に抜けたところに高砂部屋ご用達とでもいうほどの店がある。「藁巣坊(わらすぼ)」という居酒屋で、ここの餃子は絶品である。他のニラタマなどの一品料理、ラーメンやチャーハンなどもおいしく力士が入り浸っている。それだけでなく、お店の大将は釣り好きで若い衆を釣りに連れていったり、朝ちゃんこ番が忙しいときは、ちゃんこ番の手伝いにまでわざわざ来てくれる。
平成15年12月1日
九州場所も終わり昨日11月30日より冬巡業開始。佐賀を皮切りに7日まで九州一円をまわる。巡業にでない残り番6力士は、東京の部屋に戻り今日から稽古再開。地方場所に行く前には、土俵の砂を全部上げていくが、1ヶ月半ぶりのことなので土俵が文字通り風化してしまって、表面に埃のような砂が浮き上がっている。その砂を掃き捨てて、新しい砂を入れての稽古始めである。
土俵を作り直すのは番付発表前の22、23日になってからである。
平成15年12月2日
東京での生活は約1ヵ月半ぶりのことである。地方場所は年に一回ということもあり、歓迎もされ楽しいがその分忙しくもあり、東京に帰ってくるとさすがに落ち着くということはある。特に今は、残り番6人での生活なので、稽古開始の時間もいつもより遅く、そのくせ一日はいつもより長い。昔の小部屋時代にもどったような感覚である。街並みは一月半前と変わるべくもないが、親水公園を歩くと枯葉が薫り、福岡入りする前のまだ緑の濃かった頃を思い出し、季節の移ろいの早さを感じてしまう。
平成15年12月3日
相撲稼業は、東京と地方を行ったり来たりだから、最低でも年に6回は引越しをしているようなものである。その分、荷造りや運送費などにも伝統と新たな工夫がいろいろある。明け荷などをロープで縛るのは独特の縛り方があるし、宅急便で出したり、コンテナ輸送にしたりと、物・量によって使い分けたりする。ただどうしても1個あたりいくらの計算でやるので、必然的に衣装箱を3個強引にガムテープと紐でくっつけたり、人間が入りそうなダンボール箱になったりと、業者泣かせであることは間違いない。
平成15年12月8日
年6回の引越しとか、年6回の本場所、その間の巡業や海外公演などなど・・・一年中行事に追いまわされているような力士生活は一年のたつのも早く、時間の経過を早く感じてしまうことは確かにあると思う。一般的なイメージとして、おすもうさんというと、体が大きいゆえに「のんびり」というイメージは根強いと思うが、団体で動く巡業への出発とか、船や列車から降りる段取りとか、殆どが「すもう時間」といって30分前には用意して集まってしまうのが常識である。常に時間に追われているからこそ早め早めの行動で余裕をもつということなのであろう。最近はその傾向も少し薄れてきたような感もあるが、特に古い親方衆や裏方さんには未だに顕著である。
平成15年12月9日
ちょっと相撲の話と離れてしまうが(そのうち強引に結びつけるが)、年と共にだんだん時のたつのが早くなっているような感覚は誰もが感じていることだと思う。一般的に「時間だけは誰のもとにも平等に流れている」とか「森羅万象変われども時間は過去から未来へ向けて一様に流れている」とかいわれているが、物理学では、動く速度によって伸び縮みする相対的なものであるというのがアインシュタインの特殊相対性理論の結論である。地球上の動きでは違いはわからないが、量子(原子や分子や素粒子)の世界や宇宙では、それぞれ時間は別なものであるというのが常識である。
平成15年12月11日
時間が伸び縮みするということは、いろいろな実験で確かめられているが、地球上ではジェット機に乗っても一億分の数秒の違いだから体感としては全くわからない。いま現在の世界でもそれぞれの時間が違うから、過去と現在そして未来でも時間が違っているらしい。江戸時代の一時間と現代の一時間は全く異なる時間で、もちろん現代の方が時間が早いそうである。だからこそ新幹線やジェット機やロケットなどの様なものができてきたということである。
平成15年12月12日
時間というのは何かということは、いまだに良くわかっていないことの方が多いが、われわれの宇宙が膨張しているというのは確かめられている。時間と空間とが一緒になって時空間が膨張している。これを逆に戻していくと約150億年前、時空間すなわち宇宙全体が一つの点になってしまい、それが宇宙の誕生だという「ビッグバン宇宙説」は現代物理学では圧倒的に支持されている。じゃあその前はどうなっていたのかと思うが、時間もそのときに始まったのだから、その前はないという、ますます訳のわからないことになってくる。
平成15年12月14日
物理学の話はわけわからないことになってしまうが、意識という問題も未だによくわかってない領域の最たるものである。ただ意識というものは面白いもので、時空間を自在に行き来している。遠く離れた恋人を想ったり、イラク問題を憂いたり、お月様を見たり、遥かアンドロメダ星雲に思いを馳せたり、その時々で何万キロや何十万光年であろうとも一瞬にしてそのものへ意識はワープしてしまう。光速以上の速さである。また、過ぎたことを後悔するのは過去への意識の旅だし、これからのことを心配するのは未来への旅で、タイムトラベラーでもある。また量子の世界でも不確定性原理というのは、意識が大いに関わることである。
平成15年12月15日
地球上での運動は殆どニュートン力学で説明できるが、宇宙や素粒子(量子)の世界ではニュートン力学は破たんしてしまう。地球上のみで通用する範囲の狭い力学である。人間も地球上で生きているから人間の動きもニュートン力学で説明できるのだが、超一流の名人達人の動きはニュ-トン力学では説明できない動きも多々ある。その名人達人の動きこそは、相対論・量子論的ではないかと思う。運動科学者の高岡英夫氏が、極意とは意識が極まったものだという理論を展開しているが、意識(身体意識)こそが、人間と、宇宙や量子の世界(我々が生まれた宇宙 そのもの)をつなぐものではないかと勝手に想像している。
平成15年12月16日
ちょっと話が長くなってしまったが、相撲に話を戻したい。双葉山である。双葉山の相撲は、現代の相撲の力学からかけ離れたような所がある。相撲は、立合いに鋭く踏み込み当たりを強くして、腰を低くして踏ん張り、脇を締めて上手は浅く相手を引きつける。というようなことがセオリーである。ところが、双葉山の相撲は、あまり踏み込まないで受ける、腰はわりと高い、踏ん張らないで足を滑らす、脇もけっこう甘く、上手は深いと、まるで逆なのに合理的である。まるで、ニュートン力学に対する相対論や量子力学のようでさえある。
平成15年12月18日
昨17日、年末恒例の忘年会とクリスマスパーティを兼ねた高砂部屋激励会がホテルニューオータニにて行なわれた。本年9月より岡本弘前会長から引き継いだ井上美悠紀新会長の開会の挨拶で幕をあけ、ショータイムや親方サンタによる子供達へのプレゼント、抽選会と宴は進んだ。途中、近畿大学校友会より朝乃若関に秋場所に達成した1000回連続出場を記念して場所座布団の贈呈式もあり、最後は床寿さんらによる相撲甚句で閉会となった。
激励会が終わり、部屋に帰り着き床に入ろうかという頃訃報がはいった。かねてより療養中であった元小結富士錦の6代目高砂の一宮章氏が亡くなられてしまった。午後11時46分 のことだったそうである。享年66歳。心よりご冥福をお祈りいたしたい。合掌。
平成15年12月19日
元富士錦の先代高砂親方は、山梨県の出身である。甲府の高校を卒業後高砂部屋に入門し、伝統の押し相撲に磨きをかけ昭和39年7月場所には前頭9枚目で14勝1敗という成績で平幕優勝も飾っている。ここ数年入退院を繰り返していたが、先月九州場所の折には体調も落ち着いていたようで、唐人町の成道寺まで激励に来てくれたりもした矢先のことであった。
遺体は台東区橋場の旧高砂部屋の稽古場上り座敷に安置され、今朝はご仏前でのお別れの稽古を行ない、故人へはなむけとした。
平成15年12月20日
新弟子が一人入門することとなった。高知県安芸市出身の久保優君である。地元で高校に通っていたそうだが中退しての入門となった。体格は検査ギリギリで少々小ぶりなものの、中学校までは相撲部に在籍した経験者である。1年間一番下でやってきた朝神田が、この入門を一番喜んでいる。
平成15年12月22日
昨日のお通夜に引き続き、6代目高砂親方の故一宮章氏の告別式が荒川区の町屋斎場にて行なわれた。告別式、初七日の法要、精進落しと滞りなく終え斎場を出ようと すると、知人に遭遇。以前若松部屋の前に店を構えていた居酒屋のおかみさんが亡くなり、午後2時から内々だけで火葬を行なうとのこと。旧若松時代にお世話になった数名、急遽立ち合わせて貰い悲しいお別れとなった。非常に個性豊なおかあちゃんで、部屋の前に店がある頃には力士は随分とお世話になった。安らかに眠られることを、ただただ祈るのみである。合掌。
平成15年12月24日
新年初場所の新番付発表。自己最高位を更新したのは、朝花田、熊郷、朝君塚の 3人。朝三好、1年ぶりに序二段からの再スタート。
泉州山幕下陥落で、今日から4階の個室を引き払い2階の大部屋暮らし。
平成15年12月25日
稽古始め。稽古途中、午前8時半より土俵祭り。今場所の無事を祈願する。稽古では、幕下目前になってきた朝花田の力強さ、元気さが目立った。稽古終了後も地下のトレーニングルームでラップのリズムにのりながらウエイトをガンガンこなしてノリノリである。
年末年始は、28日(日)に餅つきをやって、30日稽古納め。 注連飾りをかざりつけ、手打ち式にて解散。新年稽古始めは3日から。4日綱打ちを行い11日の初日を迎えることになる。
平成15年12月26日
朝花田が面白い存在になってきた。今年は3月場所で負け越して序二段に落ちたものの、以後4場所連続の勝ち越しで三段目12枚目まで番付を上げ、初場所4勝すれば幕下の可能性も大いにある。今年は1月場所でも勝ち越しているから年6場所のうち5場所勝ち越しという好成績で、今年の高砂部屋最優秀力士であろう。体は小さいものの稽古でも我を忘れて集中するところは、高見盛をも彷彿させ、稽古見学のお客さんからも思わず拍手が出るほどである。日常会話がとんちんかんなのも似てなくはない。
平成15年12月28日
年中行事の最後を締めくくる餅つきを行う。午前6時半から準備を始め、8時ころから230kgのもち米を総出でつきだす。残り60kgほどとなって みんな力はいって(疲れて)きた頃、錦戸部屋の竹野マネージャーが、ガザフスタン出身の風斧山を連れてきて風斧山も参戦。最後は朝神田と風斧山で交互につきまくりラストスパート。お昼前に最後の一臼をつきあげる。
平成15年12月29日
部屋に罰金制度というものがある。朝寝坊をしたり決まり事を破ったりしたら、罰金を徴収して若者会でプールしておく。その金はみんなの稽古タオルの洗濯代や見舞金や香典等に充てたりするが、若い衆で最も年間成績のよかった力士への賞金をも出すようにしている。今年の最優秀力士は24勝18敗( 勝率5割7分1厘)だった朝ノ土佐と朝花田の二人である。
平成15年12月30日
もう一度最終的な大掃除をやって、注連飾りの飾りつけ。お昼前すべて終わったところで、おかみさんからお年玉をもらい解散。それぞれ里帰りのため一人二人と減っていく。午後5時すぎ、2階の54畳の大広間に残っているのは一人だけとなり、いつもは狭い大広間がさすがにガランとして本当に大広間になってしまった。相撲部屋は人がいないと雰囲気がまるっきり違ってしまう。
平成15年12月31日
平成15年の高砂部屋は朝青龍の横綱挑戦で始まった。横綱挑戦を14勝1敗の優勝で果たし、東京場所3場所で優勝した。おかげで、お米と肉には不自由しない一年だった。また闘牙が新小結に昇進し、朝赤龍の躍進もあった。幕下以下では三段目力士が殆ど好成績で新幕下が二人誕生し、他も番付を上げて底上げはかなりできた。残念だったのは、朝三好が怪我で一年を棒に振ったことと、入門した新弟子がやめてしまって序二段以下が減ってしまったことである。
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