過去の日記

平成17年<平成16年  平成18年>

過去の日記一覧へ
今日の高砂部屋
平成17年1月6日
大変遅ればせながら、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
昨年暮れにウィルスにやられましてパソコンが使えない年末年始となってしまいましたが、ようやく本日より復旧再開となります。
年末年始を振り返りますと、26日に部屋で年末恒例の餅つきが行われ、大掃除をやりつつ29日まで稽古。30日に飾り付けをやり手締めにて解散、殆どの力士が里帰りとなる。新年2日に集合して3日より稽古始め。4日綱打ちで、5日から又初場所へむけての稽古再開、となっています。
平成17年1月7日
初日が近づいてきて、明け荷を出したり、締め込みを身体に慣らしたりと、本場所へ向けての準備が着々とすすんでいる。数日前から下がりも張り直しているが、太さを揃えたり形を整えたり、けっこう職人芸でもある。その下がり張りに初めて挑戦した朝花田、周りから出来栄えに関していろいろと茶々も入っていたが、本人的には自信作だったようで、ニヤリとしながら写真を撮っていた。
平成17年1月8日
年明けから部屋の中で大流行だった風邪もようやく一段落したようで、そこいらじゅうで咳込んでいた大部屋でも時々小さい咳が聞こえるだけとなった。大部屋暮らしは一人がひきだすと何人も患者がでるが、風邪をひく人間もだいたいが決まっていて、ひかない奴は全くひかない。苦しげに咳込んでぜーぜーいっている横で、パンツにTシャツという季節感のない格好でゴーゴーイビキをかいて寝ている姿もある。どちらにも明日は初日である。
平成17年1月9日
天覧相撲となった初日。幕下以下は不調のスタートとなったが、1年ぶりに5人に復活した関取衆、全員が白星という幸先のいい新年初場所の初日となった。毎日の土俵を締める弓取式の皇牙、いつもなら取組が終わるとサッサと帰ってしまう人も多いのだが、天覧相撲の今日は最後まで席を立つ人もなく、いつもに増して気合の入った弓取りだったことであろう。NHKでも長く中継されたが、いつもより弓を回す回数も多かったかもしれない。天皇皇后両陛下も、皇牙の顔を憶えたことであろう。
平成17年1月10日
成人の日の2日目。昭和59年生まれが成人式を迎える今年、部屋では熊ノ郷が成人式を迎え、おかみさんからお祝いのケーキと雪駄を貰う。15歳入門だと約5年、三段目あたりで相撲を取っている力士が多いと思うが、今日成人の日に序二段で、二人合わせて80歳という対戦があった。一ノ矢と瀧ノ音(伊勢ノ海部屋)という取組で、もっとも二人とも入門21年目に入っているから力士生活もすでに成人を超えているが。珍記録好きの新聞記者のネタにもなっていた。
平成17年1月11日
入門してやがて2年となる朝神田、今まで親方の付人だったから場所中も自分の取組が終わると部屋に帰り、部屋の掃除やちゃんこの手伝いという毎日だったが、今場所から朝赤龍の付人になり支度部屋デビューを果たしている。支度部屋も、序ノ口、序二段あたりの支度部屋と幕内のそれとでは別世界のような違いがあるから、初めて関取の付人として本場所の支度部屋にはいるときにはものすごく緊張するものである。そういう雰囲気にもまれながら初めておすもうさんらしさが身についてくるということはある。
泉州山に初黒星がついたものの、相変らず好調な関取衆である。
平成17年1月12日
呼出し利樹が、今場所から利樹之丞と改名した。終戦後から昭和30年代にかけて高名だった高砂部屋呼出しの多賀之丞にあやかっての改名だそうである。呼出し多賀之丞は、平成14年3月場所で定年となった三平さんの伯父にあたる人で、その声量豊かな呼上げや相撲甚句の作詞・唄い手としても名人の呼び声高かったそうである。甥である三平さんの了解を得ての今度の改名である。
平成17年1月13日
ベースボールマガジン社『相撲』平成14年4月号に春場所で定年を迎えた呼出し三平さんの記事があり、その中で呼出し多賀之丞の話も出ている。元々は田舎の消防団に勤めるかたわら、義太夫語りや素人呼出しをやっていたりして高砂部屋入門となったそうである。かなり年をくってからの入門だったのにもかかわらず有名な小鉄さんと交代で結びの一番を呼び上げるほどだったそうである。さらに甚句の作詞にも才があり、今でも唄い継がれている「新生日本」や 「花尽くし」「出世鑑」などは多賀之丞作だそうである。
三段目に復帰した朝花田、先場所に引き続き好調で3連勝。
平成17年1月14日
多賀之丞作『新生日本』という甚句は、~♪世界第二のあの戦いもヨー♪ という唄いだしではじまり、(中略)♪されど忘るな同胞(はらから)よ あの有名な韓信が 股を潜りし例(ためし)あり 花の司の牡丹でも 冬は菰(こも)着て寒凌ぐ・・・やがて訪ずる春を待ち パッと咲かせよ桜花♪ という名文句で締める。前記『相撲』の三平さんの話によると、この甚句を終戦後、巣鴨の戦犯収容所に慰問に行ったときに多賀之丞が唄い、A級B級戦犯の方々が涙を流して喜んだそうである。朝光三連勝。
平成17年1月15日
上の歌詞でもわかるように、甚句は七五調で文句がくりかえされていく。俳句や短歌などもそうだが、七つや五つという枠の中に言葉を入れていくから、より洗練され深みが出て、情緒や哀愁という味わいをかもし出してくるのではなかろうか。そういう意味で言えば、相撲における土俵という枠こそが、日本文化的であるといえるし、相撲の深さ面白さを、より引き出すものであるのであろう。
平成17年1月17日
利樹之丞の改名の話から甚句の話になったが、利樹之丞も数年前から、相撲甚句のプロである床寿さんの元へ弟子入りして甚句を習っている。元々仕事柄、発声のプロであるから甚句の上達も早く、パーティなどで美声を披露するに至って益々磨きをかけているが、年末もある忘年会の席で力士と一緒に甚句を披露する機会があった。力士と並びスーツ姿で甚句を唄う利樹之丞に、テーブル席のご婦人方から、「ヨン様よりカッコイイ!」と熱い視線が送られていた。三段目復帰の朝花田、昨日の朝光に続いての勝越し決定。
平成17年1月18日
TVを見るとちょうど中入りの時間で、舞の海氏が白鵬の下半身の使い方について貴乃花と似ているというような話をしていた。解説の詳細は聞き逃してしまったが、白鵬の足の裏の使い方には以前から注目している。それは、踵がまず浮かないという点である。普通、立合い当たったり、前に攻めたりするときには、どうしても踵が浮いてつま先立ってしまうものだが、白鵬の足裏は外側(小指側)は浮くが、内側は親指から踵まで土俵から離れない。同じような足の裏の使い方をできるのは横綱だけである。
三段目の高稲沢、熊郷共に4勝1敗の勝越し。
平成17年1月19日
踵を浮かさないのはスリ足の基本だが、なぜつま先立ちが悪いのだろう。経験上からいうと、つま先立ちで押すと、腕や上体の力だけで押している感じで相手にあまり効かない。また胸を出していて、つま先立ちになっている足の方へひねってやると相手はかんたんにこけてしまう。相手に力が伝わらない、不安定になってしまう、などということが言えるであろう。ただ、必死になればなるほどつま先立ちになってしまう。十両闘牙、幕下朝陽丸勝越し決定。
平成17年1月21日
横綱13戦全勝で10回目の優勝を決め、取組終了後部屋にもどり優勝祝いの乾杯。昨日から用意してあった鯛も、めでたく大皿の上で日の目を見ることとなった。年6場所制覇へ向けての発進である。熊ノ郷3勝3敗からの勝越し。来場所また自己最高位を更新することになりそうである。朝闘士、今場所で引退することとなり、今日の一番が9年間の力士生活最後の一番となった。断髪式は1月30日(日)に行われる予定である。
平成17年1月22日
塙ノ里勝越し。昨年6場所連続勝越しで幕下10枚目まで番付を上げた今場所、中日で1勝3敗となったときは、さすがに家賃が高いかと思ったが、後半戦3連勝で7場所連続の勝越しである。来場所はいよいよ幕下一桁で相撲を取ることになる。
朝乃若も勝越し決定。これで明日千秋楽に朝赤龍が稀勢の里に勝てば、関取全員勝越しとなるのだが。
平成17年1月26日
一ノ矢と呼出し利樹之丞に邦夫、25日から琉球大学相撲部の土俵造りのため沖縄入り。25日午後から、30トンの土が入った琉球大学キャンパスの陸上グランド隅で土俵築きを行い本日26日立派な土俵が完成。今日正午より、はるばる福岡県甘木市よりやってきた美奈宜神社の宮司さんが土俵祭を行い、新しい土俵の完成を祝す。
平成17年1月30日
昼間、国技館では元大関貴ノ浪の断髪式が行われたが、午後6時より朝闘士の断髪式が浅草橋駅前の会場にて行われた。 朝闘士は神奈川県平塚市の出身で平塚合宿が縁で平成8年3月場所入門、通算成績が192勝177敗2休、最高位は平成15年9月の幕下39枚目であった。今後は愛知県にて介護関係の仕事に就職の予定である。丸9年間の力士生活のお別れに100人近い方々が集まり、第二の人生への門出を祝った。
平成17年1月31日
引退を決意するのはやはり人それぞれで、怪我であったり家庭の事情であったり年数であったり環境の変化であったりと様々だが、みんな数場所前か、少なくともその場所前には決意して最後の場所に上がっている。朝闘士の場合は昨年からの首の怪我もあり10年目となる今年を迎え、第二の人生を歩むなら早い方がいいということでの引退だったが、平成14年5月場所に引退した川口は、腰の怪我と部屋の合併というのを機に引退することを前々から決めていたら、その最後の場所で三段目優勝するという華やかな引退の花道となった。
平成17年2月1日
やめる場所に優勝したというのが高砂部屋では以前にもあった。昭和61年初場所、十両を5場所勤めた若筑波は幕下に転落して一年、この場所を最後に引退することを決意して周囲に挨拶も済ませていた。ところが引退を決意して気持ちも吹っ切れていたのか、初日から白星を積み重ね、あれよあれよという間に全勝優勝してしまった。番付は幕下も上位14枚目である。これで翌場所の十両復帰が決まり、「やめるのやめます」と新聞紙上でも大いに話題に なった。
現在は地元茨城県土浦市で『ちゃんこ若筑波』を経営、男女ノ里を入門させた方である。
平成17年2月2日
内面的な問題はいろいろあるにせよ、引退を決意する直接の原因で一番多いのはやっぱり怪我であろう。特に本場所の直前に怪我すると本当にガックリくる。この世の不幸が自分ひとりに降りかかってきているような気にさえなってくる。20代の頃は毎場所のように場所前になると怪我をしていた。足首の捻挫、膝の靭帯損傷、首の挫傷、肩の亜脱臼、肉離れ・・・全身をくまなく、並行して、怪我を繰り返していた。それを試練として、怪我に打ち勝つよう、怪我と闘ってきた。
平成17年2月3日
ところが怪我を何度も繰り返していると、怪我に慣れるということもあるのであろう、怪我と闘うというよりも怪我とうまく付き合っていく、仲良くしていくという心境になってきて、そんなに落ち込むこともなくなってくる。ようやく30代になった頃からの事であろうか。
節分会で親方、関取それぞれ鎌倉長谷寺や成田山新勝寺から平泉中尊寺まで行って豆まき。明日からの春を迎える。
平成17年2月4日
怪我と闘っているときは怪我は敵である。仲良く付き合い出すと仲間になってくる。それでも、仲間になったといっても所詮は他人である。40を過ぎて感じるのは、怪我は敵でも仲間でもなく自分自身であるということである。自分自身の内なる声である。身体が自分に送るメッセージである。そうすると怪我が自分自身そのものであるし、怪我が自分自身を見つめ直すチャンスである。さらに自分の身体との対話の絶好の機会である。そういうとらえ方をすると、怪我にもまた楽しみがわいてくるものである。
平成17年2月5日
人間の身体は小宇宙だというが、ほんとうにそう思う。自分の身体と対話しだすと自分の身体が、わかっていない、感じられないのに驚かされる。少しずつ感じられるようになってくるとその深さにまた驚きが深まる。無限である。
見知らぬ土地を旅するのは楽しい。ましてや海外旅行だとなおさらである。さらにその上の宇宙旅行だともっとワクワクしてしまう(行ったことないけどそう思う)。ちょっと大げさな言い方をすると、しかもその宇宙が自分の中に眠っている。
平成17年2月7日
毎場所のように怪我していた頃は、東に鍼の効く医者があると聞けば行き、西にいい整体があると聞けば行っていて、医者巡りの日々であった。七つの診察券を持つ男と呼ばれたりもした。そのころは、医者に治してもらう、という意識でいた。
最近つくづく思うのは、怪我や病気を治すのは自分の身体である、ということである。医者はそれを手助けするだけである。その手助けの方法がうまいのが名医である。
平成17年2月8日
先日新聞の記事に出ていたが、同じ傷でも顔とお尻とでは治る早さが数倍違うそうである。血行のいい顔の傷の方が断然早いそうである。それは、スポーツ選手が一般人より怪我の治りが早いことの理由でもあるのであろう。怪我や病気を治すのは、殆どが血液の力である。だから絶対安静の場合を除いては、できるだけ体を動かした方が治りは絶対早い。もちろん悪い箇所に負担をかけないようにである。絶対安静でも意識や気を巡らしてやれば血行はよくなる。気功には「意=気=血」という言葉があるそうである。
平成17年2月10日
新弟子が入門。鹿児島県徳之島出身で、一ノ矢の中学校の後輩にあたる澤保幸君15才である。今朝、始業の前に体育館に同級生が集まり、送別会を開いてもらい徳之島を旅立つ。学校でも人気者だったようで、同級生や先生も涙してのお別れとなった。連れて行く方としては人さらいにでもなったような気もしてくる。ちょっと身長が足りないので、2月15日に行われる第2検査を受検しての新弟子検査合格を目指す。すでに昨年の夏合宿や冬休みの体験入門で部屋の力士ともなじみで、みんなからは〝シマジロウ”と呼ばれている。
平成17年2月13日
新弟子検査は元々、身長173cm・体重75kg以上という基準があったが、平成13年から第2検査という制度ができて、167cm・67kg以上あって運動能力テストに合格すれば入門できるようになっている。その第一期生が若松部屋当時に入門した朝君塚であるし、その第2検査の中から豊ノ島という幕内力士も誕生している。
平成17年2月16日
昨日15日、新弟子第2検査が行われ、身長体重の体格検査と運動能力テストに”シマジロウ”こと澤保幸君も挑戦。合格ラインギリギリだった身長も無事にパスし、運動能力テストも規定の点数をクリアして見事合格。正式には、大阪に行って3月5日の内臓検査を受けてからの入門決定となる。今朝の稽古からは申し合い稽古やぶつかり稽古にも参加。いよいよ力士としての本格的な修行の日々が始まる。
平成17年2月17日
第二検査の運動能力テストは、次のような課目が行われる。背筋力・ハンドボール投げ・握力・上体起こし・垂直とび・反復横とび・50m走・シャトルラン。以上の8種目がそれぞれ10点満点で採点され、そのうちの背筋力から握力までの3種目の平均を最大筋力の値とし、以下5種目との合計60点満点で、18歳以上は26点以上、18歳未満は21点以上が合格ラインとなっている。
”シマジロウ”は27点での合格だったそうである。
平成17年2月18日
新弟子検査は審判部の部長、副部長である親方が行うが、実際の進行をすすめるのは若者頭の仕事である。もともと大相撲は門戸は広くいろんな人間が入門してくるが、伊予櫻さんによると第二検査で運動能力テストをやるようになって、そのバラエティさが更に広がったようである。身長体重ともに小柄な志願者は、最大筋力では点数が低いが後半の走・持久力種目では点数をかせぎ、身長だけ足りないアンコな志願者は、前半の種目で点数をかせがないと、後半はバテバテで点数が伸びず、中には脚がもつれてすっころんでしまうのもいるそうである。また最近、背筋力35kg(握力ではない)というツワモノ(?)もいて、立ち会ったお医者さんもビックリだったそうである。
さすがに不合格だったそうであるが。
平成17年2月20日
先発隊7人(一ノ矢、大子錦、朝光、熊郷、男女ノ里、朝神田、朝久保)大阪入り。お昼前に宿舎の谷町九丁目久成寺(くじょうじ)に入り、荷物を出し掃除して、これからひと月半にわたる大阪場所がはじまる。夕方、地元堺出身の朝光の両親が土俵を起こす耕運機を親戚から借りて持ってきてくれて、明日からの土俵築の準備も万端である。先発隊では地元力士の存在は大きい。
夜、おかみさんの実家のちゃんこ朝潮で夕食をごちそうになる。
平成17年2月23日
年一回の地方場所は、年一回だけに毎年の行事も殆ど決まっていて参加するお客さんにとっても力士にとってもお互いに年に一回の出会いが楽しみである。全員乗込みの日はちゃんこ朝潮で大阪高砂部屋後援会特別会員のちゃんこ会があるし、その翌日の番付発表の日は夜、泉佐野市の日根野にある”ちゃんこくろさき” で親方と関取全員が店に招待していただいて150人ほどのお客さんを集めてのちゃんこ会が若松部屋当時から10年続いている年中行事であった。”ちゃんこくろさき”の社長は親方の近大相撲部の先輩で、相撲を愛し、親方を愛し、朝乃若・朝乃翔を可愛がり、近大相撲部を愛し、高砂部屋を愛してくれた方であった。その社長が一昨日急死して本日お通夜で親方も東京から飛んできての参列となった。享年57歳というあまりにも若過ぎるご逝去であった。
謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌。
平成17年2月26日
先発隊で久成寺(くじょうじ)に乗込んで数日間は、関取衆の部屋となるお庫裡の中にある部屋での生活だが、全員の乗込みが近づいた昨日の金曜日あたりから大部屋となる本堂へと引っ越すことになる。関取衆の部屋は8畳であったり12畳であったりと広さはいろいろだが、部屋になっているぶん暖房器具も使えその効果もあるが、本堂は天井は高く広くであるから冷え込みが本当に厳しくなってくる。
最近九州場所は暖かい日の方が多いから、大阪の乗込みから初日 頃までの3週間が一年の中で最も寒さを感じるときである。 特に小雪がちらついた今日あたりは布団をかぶるしかないが、シンシンとした冷え込みが布団にまでしみこんで来ている。
平成17年2月28日
春場所新番付発表。30連勝を目指す横綱は丸2年12場所目の東の正横綱の定位置。幕内復帰を目指す闘牙、朝乃若は2枚目と5枚目まで番付を上げる。特に先場所11枚目だった朝乃若は、9勝6敗という3点の勝ち越しで6枚も昇進するという番付運に恵まれた。
こういう運が力士寿命には大きく影響 してくる。6人目の関取を目指す朝陽丸と塙ノ里、幕下6枚目と8枚目まで昇進。連日の取組が注目である。
平成17年3月1日
毎年恒例の学生相撲出身力士を励ます会が行われ、高砂部屋からも師匠をはじめ、若松親方、朝乃若、朝陽丸、一ノ矢と5人が参加。年々勢力を増やしている学生出身力士は現在65人を数えるそうで、そのうちの35人が出席しての賑やかなパーティとなった。力士総数に対し1割弱。幕内の関取の数は四割を占める。伝統ある日大・近大等はもちろんだが、最近は専修大学や立命館大学も出身力士を増やしている。
平成17年3月2日
番付は折りたたんで送ることになるが、縦に3回折って更に横に折りたたむと長さが約22cm、幅約7,6cmほどの大きさになる。普通の封筒は長さが 20,5cm幅9cmであるから、長さが足りなく、折った状態でも頭がはみ出てしまう。そこで番付を送る際には「番付封筒」と呼ばれる長さの長い封筒を使うことになる。この「番付封筒」は、普通の文房具屋さんにはまず置いてなく注文品になってしまうので、これを常時置いてある両国近辺の文房具屋さんで買って地方場所にも持ってきて使っている。
平成17年3月4日
それでもたまに地方場所に番付封筒を持ってくるのを忘れることもある。そういう場合、他の力士から数枚くらいなら回してもらうが、何百枚の数になるとそういうわけにもいかず、番付の長さに合う幅広の封筒で代用するしかないが、単価が高いのでかなり割高になってしまう。番付封筒は、やっぱりなくてはならない必需品である。
平成17年3月5日
大阪場所前恒例の高砂部屋激励会が上六都ホテルで行われ、約1300人のお客さんが集う。大阪高砂部屋後援会会長である塩川正十郎前財務大臣の挨拶で開会し、元NHKアナウンサーの杉山邦博氏司会のもと、華やかに盛大に宴はすすみ、春場所での全力士の活躍を祈り閉会となった。新弟子検査の1次検査が行われ茨城県出身の野澤君15歳も受験。183cm117kgで体格検査には合格し、第2検査の澤君とともに内臓検査の結果を待って正式な入門決定となる。
平成17年3月6日
幕下6枚目と8枚目まで番付を上げてきた朝陽丸と塙ノ里、両者とも、朝陽丸は膝と眼、塙ノ里は肩の脱臼と、それぞれとも怪我を抱えながらも番付を上げてきている。そのため激しい申し合い稽古はできずに、もっぱら基礎運動が中心の稽古が主体となっている。
塙ノ里には若松親方、朝陽丸には世話人の總登さんがマンツーマンでついて、四股やぶつかり、スクワットなどの運動をみっちりと積み重ねる毎日である。
平成17年3月7日
市町村の合併ばやりだが、今春滋賀県で大津市と合併する志賀町は、町制50周年だそうで、その記念イベントとして高砂部屋から親方と横綱はじめ関取衆、付人、呼出しと、総勢14人が参加して”餅まき”が志賀町体育館で行われた。奈良朝時代、聖武天皇の頃、この町の出で志賀清林という人物がいて、故実によると行司の始祖といい、四十八手の確立者といわれているそうである。町役場訪問のあと志賀清林の墓を拝んで、餅まきとなった。取材にきていた京都新聞の記者の名字が行司さんだったのも何かの縁であろうか。
ただし、先祖も相撲の行司とは全く関係ないそうである。
平成17年3月9日
3月5日に行われた新弟子検査の内臓検査の結果がわかり、野澤君と澤君の両名とも合格。これで正式に日本相撲協会の力士として認められたことになる。野澤君の方は5日に結果が出てすでに合格がわかっていたが、澤君の方は腎臓の数値が少しひっかかり、7日に再検査をして気をもませていただけに一安心である。茨城県出身の野澤君は今日が中学校の卒業式で帰省中で、澤君の方は15日の卒業式で、14日に徳之島へ帰島の予定である。
平成17年3月10日
地方場所の稽古場は、東京の部屋の稽古場に比べるとどうしても土や砂が粗くなってしまうので稽古をしていても足の裏が荒れやすくなってしまう。それでテーピングを巻いたり足袋を履いたりするのだが、普通の足袋だと一日持たずに穴が空いてしまう程である。そこで、おかみさんのおじさんにあたる芋繩会長の弟さんが、足袋の老舗『福助』に特注して裏地が4枚合わせの稽古足袋を作ってもらい重宝している。いちばん足の裏がすりむけるのはぶつかり稽古の胸を出すときで、後ろ足になって滑らせる左足だから、特注足袋は全て左足用のみである。
平成17年3月11日
一日のうち4,5時間は裸足で土の上にいるから、足の裏の皮は厚くなってくる。厚くなってきた皮は、カミソリやハサミで、削ったり切りとったりするが、その手入れを怠ると皮が厚くなりすぎて、お正月の鏡餅のようにひび割れしてしまう。そうなると、その割れ目からバイ菌がはいったりして歩くのも痛くなるようなこともある。特にアンコ力士の足の裏の皮はゾウかサイなみに厚くなり、それこそ押しビンを踏んでも痛くないほどの厚さになることもある。
平成17年3月12日
ところが、体質にもよるのであろう、足の皮の裏が全く厚くならない力士もたまにはいる。横綱の足の裏なんかもきれいなものである。昔、昭和の初めに活躍した役力士の幡瀬川という力士の足の裏などは、それこそ赤ん坊の足の裏のようにフワフワと柔らかかったそうである。幡瀬川という力士は70kgそこそこの体で出羽ヶ嶽のような巨人力士をも負かしていた"相撲の神様"と呼ばれていた力士である。そうなると、足の裏も体質というより本質の問題なのかもしれない。
平成17年3月14日
関取昇進が見える位置まで上がってきた朝陽丸。胸に期しての初日の土俵に上がったが、納得いかない相撲で負けてしまった。自分自身に対して腹がたったのであろう、土俵下に落とされて、「ちくしょう」という気持ちで土俵にひとまたぎで戻ろうとしたら、脚の長さが若干足りずに土俵の角に引っかかってこけてしまったそうである。府立体育館の館内も大爆笑だったそうで、「むっちゃ恥ずかしかったですわ」というスタートになってしまった。朝神田、場所2日前に膝を怪我して初日不戦敗。怪我の状態が良くなれば途中出場の予定である。
平成17年3月15日
大阪出身力士は多いが、関取は泉州山一人になったそうである。大阪春場所唯一のご当所関取泉州山に対する声援は連日多いが、今日は毎年訪問している地元堺の幼稚園の園児が応援に来ていて可愛い声援が熱くとんでいた。残念ながら負けはしたものの相撲内容は良く、今場所もご当所での勝越しが大いに期待される。その泉州山に付いている大子錦、府立体育館を出たところ”大阪のオバちゃん” につかまって「あんた朝潮そっくりやね!親戚かなんか?」と大きな声で抱きつかれんばかりだったそうである。
そんな熱き声援も大阪場所ならではである。
平成17年3月16日
冷え込みの厳しい日が続いていた大阪もようやく春がやってきたようで、いっぺんに暖かくなっていよいよ春場所らしくなってきたが、高砂部屋としては初日こそ勝越したものの2日目から負け込みが激しく、春まだ遠かりしの前半戦である。特に若い衆の星が上がらず、朝の稽古場の雰囲気もちょっと冷え込んでいる。
平成17年3月18日
現代のおすもうさんにとっても携帯電話は生活必需品になっているから、携帯電話が使えなくなると困ることは多いにでてくる。特に付人をやっている若い衆にとっては、関取からの連絡がはいるから常に携帯は手放せない生活である。であるから、便所に入るときにも持っていく場合があるが、便所ならではのトラブルもある。携帯電話を持って部屋の洋式トイレに入った朝君塚、出すものを出してズボンを履こうとしたときに、ボットンとポケットから落ちてしまったそうである。出したものがまだ固形だったから良かったようなものの(良くはないが)、便器の中に手を突っ込んで取り出したが 使用不能になってしまったとのことである。今場所序二段の最下位で1勝2敗と、序ノ口陥落の危機に陥っている朝君塚、これでウンがついて、残りの相撲にフン戦してくれればいいのだが。
平成17年3月21日
「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、すっかり春の陽気さえ感じられるようになってきたが、部屋の成績も久方ぶりに大きく勝越しての後半戦スタートとなった。ただ、朝乃若だけが未だ芽が出ず苦しい土俵が続いている。長年付人をやってきて先場所引退した元朝闘士も就職先の愛知県から応援に駆けつけ、取組も微妙な一番となったが、行司差違えでの負けとなり、いよいよ追いつめられてきてしまった。残り6日間、何とか4勝できることを願うのみである。
平成17年3月23日
宿舎のお寺から松屋町筋へ下る坂の途中にある”アメリカン”という喫茶店は、泉州山が昔から顔をだしている店で、マスターはじめ常連客も泉州山ファンが集まっている。ふだん店に置いてあるTV画面は海や山の風景を写して静かなバックミュージックを流す雰囲気だが、春場所中の十両の取組になると画面が大相撲中継に変わり、店の電話にも「いまから始まるでー」と客からの電話も入ったり、泉州山応援モード一色になる。泉州山が勝つとマスターからコーヒーのサービスが出て、今場所は大出血の毎日である。
朝乃若に待望の白星。
平成17年3月25日
今日勝てば11回目の優勝決定ということで、朝から、鯛を手配し、後援会筋に電話し、お寺の玄関の客間を乾杯用にセッティングし、結びの一番を見守ったが、まさかの取り直し敗戦で、全て撤収。準備したものもあすへ持ち越しと、肩透かしの一日となった。
ただ、部屋にもどってきた横綱は思ったよりサッパリしたもので、明日の優勝決定は間違いないものであろう。しかしながら、明日フランスのシラク大統領が観戦予定で、相撲終了後大統領との会食も予定に入っているから明日の部屋での乾杯もまた微妙なのかしれない。
平成17年3月31日
横綱が14勝目をあげて優勝に華を添えた千秋楽に、3勝3敗から勝ち越しを決めた朝陽丸。今場所は十両下位での負け越し力士が多く、「ひょっとしたら」という期待も僅かにはあったが、きのう30日の番付編成会議では5人しか入れ替えがなく、新十両昇進はアゴとなった。本人もそのんなには期待していなかったであろうが、他人事である周りが面白がってあおる物だから、少しは意識していたのかもしれない。来場所はようやく、2年ちょっと前に怪我した最高位の位置まで番付を戻しての挑戦となる。
近大の後輩に先を越されての事であるから、期するものは大いにあることであろう。
今日の高砂部屋
平成17年4月3日
昨2日土曜日、巡業組は春巡業恒例の伊勢神宮へ出発。東京残り番は新幹線にて帰京。大阪から送った100個以上の荷物をほどき整理するのが一仕事である。巡業は明日愛知万博会場での巡業だが、幕内だけ参加の為、十両の闘牙と泉州山とその付人は本日夜帰京。その巡業組も明日には帰るが、横綱と親方は、翌5日より10月に行われる公演の宣伝の為、ラスベガスへ出発である。
平成17年4月4日
大阪宿舎の久成寺(くじょうじ)の檀家さんに天保14年という大阪の古地図のコピーをいただいた。天保14年といえば西暦でいうと1843年、江戸末期とはいえペリーの黒船の嘉永6年(1853)の10年前もの昔である。古地図には大阪城が右上に描かれ、台下に碁盤の目のように町並みが整然と広がっているが、城を取り囲む奉行所や同心の屋敷のすぐ外に寺町があり、その中に久成寺の名もある。
というか、まわり一帯の寺の名が現在とほぼ同じなのには、感動すらおぼえる。
平成17年4月5日
古地図を眺めるのは楽しい。久成寺の名前を見つけるのは楽しいし、現在は途中でふさがっている道頓堀が、淀川から東横堀川という堀を経てつながっているのを見つけるのも又楽しい。ネオンきらびやかなミナミは、天保の地図では西成郡難波村という田んぼばかりの寒村であるし、町人の街だけあって今に残る人名の町名や橋も多い。
もともと大阪相撲の名である安治川なども由来は今も流れる川の名であろうし、朝潮という名も朝潮橋という地名からのゆかりかもしれない。
平成17年4月6日
歌舞伎や文楽で名高い『曽根崎心中』の舞台はもちろん大阪だが、主人公お初・徳兵衛の心中の現場となったのが曽根崎天神の森で、現在は「お初天神」と呼ばれる神社になっているそうだが、そのお初のお墓は久成寺にある。墓地をはいって中ほどの所にひっそりと小さな墓石があり、表には”妙法妙力信女”という戒名が刻まれており、右面には「元禄16年4月7日寂 曽根崎心中お初の墓」という文字がある。明日4月7日が命日。元禄16年は1703年だから303回忌になるのだろうか。
平成17年4月9日
桜が満開だが、日本的な美しさ華やかさがいいのであろう、桜をつかった四股名も時々見うけられる。現役の関取では豊桜、北桜の兄弟関取が有名だし、現佐渡ヶ嶽親方は横綱琴櫻である。相撲っぷりが華やかで潔かった富士櫻は、櫻の四股名がもっとも似合うおすもうさんであろう。また現高砂部屋の若者頭も元十両伊予櫻である。以前若松部屋時代からいた兄弟子には小桜という名もあったが、これは先代若松の房錦が下の頃につけていた名前でもある。さらに、先の大戦前後に横綱を張った照国は、そのすもうぶりが「桜色の音楽」と評されたそうである。
平成17年4月13日
慶応大学ラグビー部が体験入門。稽古見学のあと、幕下皇牙や十両泉州山の胸を借りてぶつかり稽古。当たり自体はかなりいいものがあるが、押す力はやっぱり違うので、当たってはね返されて転がされてと、かなりハードに取り組んでいた。明日もう一日体験の予定だが、この体験を実戦に生かして、早稲田、明治に対抗してもらいたいものである。
平成17年4月14日
相撲とラグビーの相似点や相違点をかんがえてみたい。ボールを扱う球技ということが一番の違いだが、テニスやバレーはもとより、野球やサッカーなどに比べても 相手との接触プレーが多いという点では、球技の中では最も相撲に近い競技であろう。ただ競技スペースが広いから、「走る」という動作が重要で、体重は必要だが、アンコは役立たずになってしまうのであろう。しかし、スクラムという行為だけを考えてみると、人数は違えども押し合いということでは全く一緒で、柔道やレスリングなどの格闘技に比べても最も相撲に近い競技になるのかもしれない。明日は靖国神社奉納相撲。
平成17年4月15日
”押す”という行為は単純なように見えるが、本質なだけに高度な身体の使い方を要するし、ものすごく奥の深い運動である。押す動作について齋藤孝氏が『自然体のつくり方』(太郎次郎社)の中で「カベ押し-つっかい棒型と腰の入った型」という題で解説しているが、本当に腰の入った押しを行うのは、腰の入った動きが日常生活から消えてしまった現代日本人にとっては全く難しい動作である。
平成17年4月16日
腰の入った押しについて、齋藤孝氏は次のように述べている。「腰をカベに近づけ、前足と後ろ足の膝を十分に曲げたうえで、足の親指の付け根を中心として地面を強く押すことができる構えである。肘も十分に曲がっており、ワキを絞るようにして背中から腕の力も発揮できるようになっている。踏んばりがきき、腰の力もぐっとはいる・・」とある。つづけて「カベ押しでカベを急にとり払ったとき、腰の入った押し方は、その形のまま前にずれるが、つっかい棒的な押し方は、前につんのめってしまう(概略)」とし、さらに「最近引き落としとかで簡単に勝負が決まってしまうのが多いのは、大相撲でも腰で押す基本が薄れてきている(概略)」からだとしている。
平成17年4月18日
全くもってそのとおりであろう。以前に書いたことのある”つま先立ちで押す”ことも、腰の入っていないつっかい棒的な押し方であるだろうから、現代の力士は殆どが腰の入った押しをすることができていない、といえるのかもしれない。全力士を検証したわけでもないが、大げさな印象で線引きをすれば、腰の入った押し方をできるのは横綱と白鵬だけのような気もする。
1月18日の日記に書いたように、カカトが浮かないのは(全く浮かないわけでは ないが)、おそらくこの二人だけである。
平成17年4月19日
栃若時代のビデオを見ると、押すにしろ、寄るにしろ、今の相撲よりも腰が相手の腰に近く、それだけ腰の入った押し方をしているのがわかる。それゆえ、引き落としや叩き込みで簡単に勝負がつくことが少なかったのだろうし、うっちゃりや吊出しという技も多く見られたのであろう。今より身体が細かったからだという理由だけではないように思う。足に注目してみても、足の甲や足の裏が今より表情豊かで力感もあり、意識が行き届いていたような感じである。
平成17年4月20日
ところがもっとさかのぼって双葉山のビデオを見ると、取り組み中に足が踏ん張っていないのに驚かされる。双葉山の足は、相撲を取りながら常に小刻みに動いていて、およそ踏ん張ることがない。決してカカトが浮くことはなく、常に重心がカカトのくるぶしの真下に落ちている。それゆえ、骨格の構造で相手の圧力を受けていて踏ん張ることなくリラックスした状態で相手の攻めを受けることができたのであろう。そして自分が攻めるときには、足裏の外側を浮かして親指側からカカトの内側までを土俵に食い込ませるようにして攻めている。
平成17年4月21日
足の裏の使い方については、高岡英夫氏が『究極の身体』(2002年ディレクトシステム社)の中で詳しく解説しているが、足の親指の付け根を中心として踏ん張るのは、まだ一流選手としての範囲にとどまるそうで、歴史に名を残す超一流選手になると例外なくくるぶしの真下カカト側に重心が乗っかって、決して親指の付け根で踏ん張ることはないそうである。マイケルジョーダンの足の使い方は、その最たるものであるそうである。
平成17年4月22日
先日久しぶりに右足首を捻挫してしまったが、そのときの状況を思い出してみると、大きい相手に寄られたときに足が爪先立ちになった状態で相手の寄りを受ける形になってしまった。その結果、足首とスネが無理な角度になってしまい、グキッといった。足首の怪我の原因は、骨折にしろアキレス腱の断裂にしろほぼ同じことであろう。カカトを浮かさずに相撲を取りきることができれば足首を怪我することはまずなくなる。他の関節についても同様ではあろうが。怪我したあと爪先立ちで歩くと痛みがあるが、スネから足首の関節を真っ直ぐにしてカカトで歩くと痛みは全くない。相撲も十分に取れることでもわかる。あす土俵を作り直すため土俵を掘り起こす。日曜日は休みで月曜日が番付発表。火曜日から稽古始めで、千秋楽まで休みなしの日々が始まる。
平成17年4月25日
夏場所番付発表。闘牙幕内復帰で、ふたたび横綱土俵入りを高砂部屋だけで行うことができる(太刀持ち、露払いは幕内力士)。幕下以下は番付を下げた力士が多いが、先場所3連敗4連勝で勝越した熊郷が自己最高位を更新。
朝野澤、朝奄美が初めて番付に名前が載る。
平成17年4月26日
土俵祭を行い、今日よりまた夏場所へ向けての稽古再開。春場所入門の朝野澤と朝奄美も、先週いっぱいで相撲教習所第一期目を終え、今週からは部屋での稽古。二人ともまだ下半身が固く又割りでは苦労している。今週29日は国技館土俵にて横綱審議委員会総見の公開稽古も行われる。入場無料。
平成17年4月27日
春の入学シーズンと一緒でこの時期は相撲部屋も新弟子が入ってくる時期なので、新鮮なというかビックリするような出来事も毎年のようにでてくる。住民票の移動で区役所に行った時のこと、書類を書いて「ではここに印鑑を押してください」と言われて「あ、すいません印鑑忘れてきました」と答えたので、「じゃあ、拇印でもいいです」と言われたら「え、拇印も忘れてきましたけど」区役所の人も目を丸くしていた。ゆとり教育の弊害が叫ばれて久しい昨今、その最先端の現場にいるのかもしれない。まあ単に個人的な問題ではあろうが。今年入門の新弟子の話ではないので念のため。
平成17年4月28日
力士になる人間は、学校の勉強が嫌いとか苦手というのが多いから(一般的にも好きな人間はそういないだろうが)、漢字がちょっと苦手というのもたまにはいる。稀にカタカナが苦手というのもでてくる。ところが、十数年前若松部屋の頃、ひらがなも全く読めない子が入門志願してきたことがあった。千葉県出身で19歳。身長体重も基準を上回っていたので断る理由もなく、部屋で生活することとなった。
幼い頃に両親と別れ、血のつながりのない近所のおばあちゃんが育ててくれたという話であった。会話をしてもそんなにおかしくもなく、最初は全然わからなかった。
平成17年4月29日
新弟子検査の書類をつくるため大阪宿舎近くの病院に健康診断に連れて行った。内臓も大丈夫で普通に検査はすすんだが、視力検査の時になって看護婦さんに呼ばれた。測定不能だと言う。話を聞くと、視力表の右側のCマークは2,0まで見えるが、左側のひらがなを指すと全然ちんぷんかんぷんらしい。明治・ 大正の世ならいざ知らず、昭和も60年を過ぎ高度成長期もピークを迎えた時代、今時ひらがなの読めない若者がいるとは夢にも思わないから、看護婦さんも首をひねるばかりである。「とりあえず1,0にでもしておいてくださいよ」と頼んで診断書を書いてもらった。朝乃若、引退発表若松を襲名。5月場所初日に正式な記者会見の予定である。
元朝乃翔の若松親方は佐ノ山に変更となる。
平成17年4月30日
それから数日後、ドリンクの差し入れが5箱ほどあった。その新弟子に「玄関にライフガードというスポーツドリンクがあるから持ってきてくれ」と頼むと、コーヒーを持ってきた。「ちがうよ、スポーツドリンクだよ」と再度取りにいかせると、今度はコーラの箱を持ってきた。「ちがうよ、緑色の箱だよ」と言ったらようやくライフガードの箱がきた。箱にはカタカナで大きくライフガードと書いてある。
「これなんて書いてあるんだ」と聞くと「ポカリスエット」という。「え!この字が読めないのか」そこで初めてわかった。
平成17年5月1日
「あいうえお」「かきくけこ」と、口に出しては言えるが、「う」とか「さ」とか一文字だけを読ませるとまったく読めない。部屋にころがっているマンガも全く手にとることがなかったから、今どき珍しい子だなとは思っていたが、読めなかったのである。めし屋や喫茶店でもメニューはもちろん読めないから「カツどん」か「カレー」という言葉しか発しなかった。歌はちょっと知ってて、カラオケを歌うと、お客さんは「歌詞カードも見ずに歌えるんか、たいしたもんや」とほめていたが、歌詞カードが読めなかっただけのことである。
そういう事情から元房錦の先々代若松親方の命で、小学校一年生用のノートを買ってきてひらがなの勉強をさせることになった。
平成17年5月2日
ノートには鳥の絵が書いてあって、「なんでしょう」という問題である。「これなに?」と聞くと、「スズメ」と答える。「ばかやろう!ほかに言い方があるだろう」と再度聞くと、「キュウカンチョウ」という。「そういうもの全部を何というんだ」と聞くと、ようやく「とり」という答えが返ってくる。 鳥の絵の横に四角のワクが二つあり、答えを書くようになっている。「じゃあ、ここに"とり”と書いてみろ」といって書かすと、しばらくノートを眺めたあと四角の中には「なん」という字が入ってしまった。問題の「なんでしょう」を写しただけであった。
そんな生活の中、前相撲では二番出世を果たし、ひらがなも少しは覚えたが、東京へ戻ったその足でスカシてしまった。もう30も半ばの年齢になっているだろうが、今頃どんな生活をしているのだろうか。東京場所前恒例の綱打ちが行われる。
平成17年5月3日
4月28日に引退を発表して年寄若松を襲名した元朝乃若。家のある埼玉から通勤して7時前には稽古場にマワシ姿であらわれ、さっそく親方として熱心に若手力士の指導にあたっている。肥後ノ海、浜ノ嶋、朝乃翔とは同級生で入門も同期で、その中で一番長く現役を続け、初土俵から休みなしの連続1145回出場。三役昇進こそ叶わなかったものの前頭筆頭まで上がり、幕内在位52場所は大変な記録である。それだけ準備運動やトレーニングには自負もあり、若い衆も気の抜けない稽古場の雰囲気になっている。
平成17年5月4日
朝乃若と初めて会ったのは朝乃若が中学2年生のときであった。当時、若松部屋の名古屋場所の宿舎が愛知県一宮市にあり、近くにあった中学校が相撲大会に出るので胸を出しにいってくれと後援会の人に頼まれて行ったのが最初であった。当時は水泳部で、身体はそんなに大きくはなかったもののバネがあっていい当たりをしていたのを覚えている。部屋にも何度か稽古に来たりしたが、やんちゃで元気があって性格的にもプロ向きで、元房錦の先代の親方からもスカウトされていた。その後愛工大名電の相撲部へ進み、高校卒業時にも若松部屋へスカウトしたのだが、近大へ進学したので若松部屋とは縁が切れたようなものであった。ところが、朝乃若大学3年のときに、急遽近大の先輩である現親方の元大関朝潮が若松部屋を継承することとなり、昔から縁のあった若松部屋入門となった。
平成17年5月7日
初日を明日に控え、見学のお客さんも見守る稽古中、叫び声が飛び交い、出血もあり、大きな力士が走り回るという大パニックに稽古場が陥った。特に体の大きなアンコな力士ほど逃げ回ったが、小兵の朝花田と朝君塚が立ち向い、最後は朝花田のケリが頭を直撃して出血させ、伸びた所を朝君塚が新聞のチラシで取り押さえ騒動が治まった。稽古場にネズミが乱入しての大騒動であった。しかもそのネズミが弱っていて動きが悪く、稽古場から抜け出せないで走り回ったものだから余計に騒動になった。体の大きい奴ほど小さなネズミが苦手なのである。
平成17年5月8日
ピンと糊付けされたサガリは関取の象徴でもあり、付人にとっても形を揃えてきれいに張るのは職人技の腕の見せ所でもある。先場所一年ぶりの十両復帰を果たした泉州山には福寿丸と大子錦が付人として付いているが、その福寿丸が朝、サガリにサランラップを巻いていた。変わったことをするなと思い聞いたら、マワシを締める時に霧を吹いてマワシをかなり濡らして締めるので、せっかく綺麗に張ったサガリがフニャフニャになってしまわないようにとの配慮だそうである。そんな付人の気遣いを知ってか知らずか、土俵上で四股を踏むときに邪魔になるからと、出番前にポキッと折ってしまうらしく、その瞬間が一番ガクッときて哀しいそうである。
そんなマイペースさが魅力でもある泉州山、今場所も好調な滑り出しで新入幕を狙う。
平成17年5月9日
第2検査一期生の朝君塚、このホームページを見て入門を決意したという変り種でもあるが、5年目を迎えている。ふつう5年目ともなると、相撲界にも慣れ、兄弟子風を吹かせ、相撲稼業もさまになってくるのだが、いまだによかたがお祭りで浴衣を着たような雰囲気がある。それでも、入門したときは70kgもなかった体重が90kgを超えて稽古場でも逞しさがでてきた。ただ、顔は相変わらず非力なので、そうは見えないのが残念ではあるが。立合いが弱いのが一番の課題である朝君塚、今日も攻め込まれるが少し回りこんでのすくい投げで初日を飾る。こういう勝ち方をできるようになったのも5年目の余裕がなせる業ではあろう。
平成17年5月10日
いよいよ幕下4枚目まで番付を戻してきた朝陽丸、今場所の成績如何によっては関取昇進の可能性も大いにある位置である。初日は際どい相撲の末行司差違えで負けたものの、今日の取組では2分を超える長い相撲をものにして5分の星。支度部屋に帰ってからも汗がなかなか引ききらなかったようで、この熱戦を勝ち取った勢いで今場所を乗り切ってもらいたいものである。
その朝陽丸の入門時の記事が母校 長尾谷高校の進路・卒業生の紹介の欄で紹介されている。このページが平成10年卒業三好君関取昇進として更新されることも近いことであろう。
平成17年5月13日
三段目男女ノ里の今日の相手は錦戸部屋の龍神であった。錦戸部屋第一号の弟子で、入門は平成14年の5月だから同年12月に錦戸部屋として独立するまでの間は、内弟子として高砂部屋所属で一緒に生活をしていた仲である。新弟子として入門してきて兄弟子にいろいろ教えられ怒られしてきただけに、やりにくいというか気後れしてしまうような所は無きにしもあらずである。こういうのを兄弟子負けという。まあ、兄弟子の方も負けたら何をいわれるかわからないというのもあり、やりにくいのは同じであるが。明日はまた熊ノ郷との対戦である。
平成17年5月15日
今場所から初めて番付に四股名がのるようになった朝奄美、2連敗したものの今日の白星で五分の成績にもどした。帰ってきて、風呂上りの闘牙関に「おかげさんで勝ちました」と挨拶したら「どうやって勝ったんだ」と聞かれ、「判定勝ちでした」と答えたそうである。「なんじゃそりゃ?」とよくよく話を聞くと、押し出されて軍配は相手に上がったものの勇み足があり、物言いがついて行司差違えでの勝ちだったそうである。中学の時柔道をやっていたシマジロウこと朝奄美、まだ柔道用語の方が身についているようである。
平成17年5月16日
同じ一勝には変わりはないが、一勝にも、何でもない一勝と人生変えてしまような一勝とがある。今日の幕下上位3番目の取組は、徳之島出身大島部屋の旭南海が勝ち越しをかける一番で、衛星放送が始まった時から、今ごろ緊張しているだろうなと思いながらテレビを見守った。先場所幕下9枚目で6連勝して、最後の一番に敗れて新十両昇進を逃したものの、決定戦で幕下優勝を果たしたことも自信になったのであろう、おとといある宴席で一緒になったときも気負いがなく、今日の勝越しを十分予想させる雰囲気であった。今日の一勝で旭道山以来の徳之島出身関取誕生がかなり濃厚になったが、あと一勝して当確といきたいものである。6勝するような気もするが。
その大一番の2番前の朝陽丸も、辛抱勝ちで残り2番に可能性を託すことができた。
平成17年5月18日
朝、寝坊をすると若者会に3千円の罰金を納めなければならない。ふつう、一場所に一回か二回あるくらいであるが、罰金は場所中12日目に配給になる給金(場所手当て)から天引きされる。7場所連続の勝ち越しで幕下8枚目まで番付を上げた塙ノ里、幕下上位のカベにぶつかり先場所は1勝6敗と大負けして、今場所も3連敗と苦しいスタートだった。もともと朝は弱いが、今場所は特に場所前から寝坊つづきで、そろそろ給金も無くなってくるよ、という状況になってからの3連勝である。元来、宵越しの銭は持たないタイプだが、そういう意味では、今どきの日本人には珍しいハングリー精神を持ったおすもうさんといえるのかもしれない。
幕下朝陽丸、皇牙とともに最後の一番に勝越しをかける。
平成17年5月20日
先場所一年ぶりの再十両で11勝4敗と大勝ちして十両の4枚目まで番付を上げた泉州山、今場所も引き続き好調で、今日13日目で勝ち越しを決める。あと2日間の幕内下位力士の成績にもよるが、のこり2番勝って10勝すれば、新入幕という夢も膨らんでくる。
逆に西前頭17枚目とあとがない番付の闘牙、今日負けて7敗と、幕内残留へあとがなくなってきた。
平成17年5月21日
横綱朝青龍、4場所連続12回目の優勝決定。4場所連続での千秋楽を待たずにの優勝決定は、史上初のことだそうである。取組終了後部屋に戻り、優勝祝いの乾杯。千秋楽の乾杯は金杯でやるが、千秋楽前の13日目とか14日目に優勝が決まると、タイを用意するのが恒例になっている。東京場所優勝の時は、後援会が大田市場から届けてくれるが、今日は撮影用で、明日のちゃんこに煮物などで使われることになる。祝いのビールや樽酒も届き、明日の打上げパーティの用意も着々と整いつつある。
昨日から今日にかけて3勝3敗が4人続けて敗れていたが、三段目福寿丸が流れを変え、朝ノ土佐、皇牙もつづいて勝越し、幕内朝赤龍も嬉しい勝越しをきめる。
平成17年5月23日
千秋楽の一夜明け。昨夕の雨で優勝パレードが中止になり、部屋の玄関に用意してあった振舞い用の樽酒もなみなみと残っており、一升瓶に移しかえて近所に配ったり、お祝いに届けられた酒やビールを整理したりと、一夜明けの朝はけっこう忙しい時となる。
横綱の付人は、部屋に持って帰ってきた優勝旗と銀杯を返しに午前9時に協会に行き、おかみさんは優勝パレードの準備でお世話になった本所警察へ御礼のご挨拶に出向きと、ようやくお昼過ぎにひととおりの片づけが終わる。午後になってはじめて、待ちに待った場所休みを迎えることになる。
平成17年5月24日
場所も終わりかけになると、力士内で一番話題になるのが幕下と十両の入れ替えである。その差を身をもって感じているだけに他人事ながら、割り(取組表)の裏にある幕下上位と十両下位の成績を見比べて、今場所は何人上がって何人落ちるという話が支度部屋でも部屋でも我が事のような真剣さで話がすすむ。普通より一日早く、12日目に7番相撲を取り終えて負け越してしまった朝陽丸、12日目の時点では勝越しても上がれなかったという意見が大勢だったが、13日目以降に筆頭の二人が相次いで負け越し、終わってみればあの時勝っていれば上がっていたのにという結果であった。12日目の負け越し時には、どうせ勝ってもダメだったのだからとあきらめていたのに、あきらめきれない気持ちがよみがえってきている場所後の朝陽丸である。あす水曜日が番付編成会議で新十両発表となる。
泉州山の新入幕も微妙であるが、新入幕は公式には番付発表まで非公開となっている。
平成17年5月25日
本日番付編成会議が行われ、徳之島出身大島部屋の旭南海(きょくなんかい)の新十両昇進が正式に発表された。朝日新聞によると、徳之島からは旭道山以来17年ぶりのことだそうである。同紙によれば、「南海のハブ2世」と紹介されているが、先日一緒に飲んだ時は、「俺はマングースだ」と言っていた。 旭道山に憧れて入門し、旭道山引退の日は風呂で背中流しをしたそうだが、その背中に追いつき、ハブより強いマングースになってもらいたいものである。近々島人会(しまんちゅかい)でもお祝いしなければならない。
平成17年5月29日
おかみさんのお母さんが亡くなられた。芋縄会長と共に、現在19店舗にまで大きくなったコノミヤを創りあげた文字通り産みの母である。6年半前(平成10年10月16日日記)からの闘病生活だったが、少し元気になると"ちゃんこ朝潮”に顔をだして、大阪場所の折には何かとお世話になりっぱなしであった。昨日のお通夜には横綱はじめ関取衆も東京から駆けつけ、本日午後1時半よりの告別式でお別れとなった。享年67歳。まだまだこれからという年齢であったのに残念でならない。謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌。
平成17年5月30日
二子山親方の訃報が大きく報道された。今の若い世代にとっては若貴のお父さんという印象が強いと思うが、30代後半以上の人間にとっては、”角界のプリンス” と呼ばれ、ドラマチックな土俵をくりひろげた現役時代が鮮やかによみがえってくることであろう。相撲を見だした頃の横綱北の富士とのかばい手の一番は、小学生ながら鳥肌が立つような感動を覚えたし、そのころの日本人全てのスーパーヒーローだったような記憶がある。大関在位50場所は史上一位の記録だそうである。親方としても横綱大関を育て一時代を築き上げた功績は誰もが認めるところであろう。安らかに眠られることをただただ願うばかりである。
平成17年5月31日
昨日から今日にかけて、新聞もテレビも二子山親方のニュース一色である。亡くなられて、二子山親方というよりも元大関貴ノ花という名前の方が大きく見出しになっている。昭和の高度成長期に頑張っていた日本人にとって、小さい体で大きい相手に真っ向立ち向っていく姿が、自分たちの象徴のように、全国民の人気を集めていたのであろう。ひとつの時代が終わったというコメントも多い。
大相撲の歴史は、日本の世相を反映する鏡のようなところがある。
平成17年6月1日
昭和初期の金融恐慌の頃は大相撲も人気が落ちていたようだが、その後双葉山が勝ち続けて人気が沸騰するのと時を同じくして無敵皇軍として太平洋戦争に突入していった 敗戦と共に双葉山も引退し、終戦後は興業自体も苦しい状態が続いたようだが、「栃若」「柏鵬」「貴ノ花」「千代の富士」と高度成長時代に合わせるように人気力士が誕生し、バブル景気と共に「若貴」が空前の相撲ブームを巻き起こした。その後、バブル崩壊に合わせるように「若貴」も引退して、古き日本が否定され、国際化という大きな波にのまれる現在、大相撲を引っぱっていっているのは「外資」とでもいうべき朝青龍を筆頭とする外国人力士たちである。
平成17年6月2日
さらにさかのぼってみても、江戸文化熟成の中期に江戸勧進相撲が盛んになり、谷風・小野川という黄金時代を迎えるが、その後は雷電という無敵力士が現れるも人気的にはもうひとつだったらしく多少の盛衰をへて明治維新へと向かっている。明治維新直後は、相撲禁止論が出るほど存亡の危機だったそうだが、その後初代高砂浦五郎の改革などもあり、徐々に人気を取り戻して、日清、日露戦争の勝利にのるように梅ヶ谷・常陸山の両雄が大人気を博し国技館開設にまで至っている。「梅・常陸」のあとは太刀山、栃木山という強豪、名力士もでるが大正時代は、どちらかというと低迷期で、沸騰するような人気は「双葉山」時代まで待たなければならない。
平成17年6月4日
明治初期の東京相撲は、かなり危機的な状況にあったようである。風見明『相撲、国技となる』(大修館書店2002年)に詳しいが、明治四年に東京府が出した「裸体禁止令」の影響もあって(実際2千人以上が罰金やムチ打ち刑で処罰されたそうである)、相撲も、野蛮だ非文明的だという意見が多く出て、相撲無用論から相撲禁止論にまでエスカレートして存亡の危機にさらされたそうである。
モンゴル帰国中の横綱、12日に帰国の予定である。
平成17年6月5日
その危機を乗りきる為、消防別手組(火が広がらないよう建物を壊すのが専門の消防団)を力士で結成させて欲しいと警視庁に嘆願し、綱引きや中距離走などの試験を受けて(当時の力士は中距離走の能力もかなり高かったそうである)許可され、2年ほど活動したようである。その甲斐もあって、相撲禁止論も次第に下火となったそうである。また政府要人の中に、黒田清隆、伊藤博文、板垣退助といった相撲好きがいたことも幸いしたことであろう。明日6日から9日まで茨城県下妻市大宝八幡宮にて合宿。
平成17年6月6日
今日から茨城県下妻市の大宝八幡宮にて合宿。元々親方が、毎年節分に豆まきをやっている縁で合宿の話がでて、平成13年から実現して今年で5年目になる。午後2時、迎えのバスにて部屋を出発し、午後3時半には大宝八幡宮に到着。毎年のことながらお宮さんの敷地内にある保育園から園児が総出で迎えてくれる。午後6時より歓迎パーティ。おかみさんも東京から参加して、茨城県出身力士を中心のカラオケあり、大宝保育園の保母さんと朝君塚・朝神田ジョイントのモーニング娘あり、相撲甚句ありとで盛り上がる。
明日から3日間の稽古である。
平成17年6月14日
通信機器の不具合で、1週間ほど接続ができませんでしたが、ようやく復旧いたしました。
平成17年6月15日
茨城合宿の折、縁あって若松親方と佐ノ山親方と3人で筑波大学に招かれ、体育総合実験棟という施設を見学させてもらった。以前の日記(平成16年10月6日~17日)でも紹介したことのある股関節トレーニングの第一人者である白木仁助教授の今までの研究や施設の説明、これからの研究の課題や展望などを聞かせて貰い、非常に興味深い体験であった。
平成17年6月17日
白木仁助教授は、股関節研究の一環として、ここ数年相撲に強く関心をもって研究しているそうである。2年ほど前から筑波大学の大学院生を相撲教習所に派遣して、腰割りの正しいやり方を勉強させ、研究チームをつくって筋電図をとったり、新弟子のデータも半年に一回の割合で測定して研究を重ねているそうである。研究を重ねれば重ねるほど、昔からの基本動作の合理性に感心させられるそうである。
平成17年6月18日
先々月号になってしまうのだろうが、以前にも紹介したマキノ出版「安心」の5月号にも白木助教授の「腰割り」の話が詳しくでている。背表紙のタイトルからして「朝青龍も実戦!強くて美しい下半身を作る『腰割り』の威力」というものだし、6ページにわたる白木先生の書き出しは、朝青龍のお尻に惚れたという文から始まり、横綱の土俵入りでの腰割り姿勢の写真も誌面を飾っている。しかも、女性モデルによる腰割りポスターまでもが付録としてついている。
平成17年6月19日
「安心」5月号には、「腰割り」に関する研究結果が発表されている。腰割りと普通のスクワット、上体が前傾した腰割りや膝が中に入ってしまった腰割りなどの、脚、腰まわりの筋電図をとって比較している。一番違うのは大臀筋(だいでんきんーお尻の筋肉)の活動である。スクワットや間違った姿勢の腰割りに比べ正しい腰割りは、大臀筋を強く使っている。
先発隊6人(一ノ矢、大子錦、朝光、熊郷、朝神田、朝久保)蟹江龍照院入り。
平成17年6月20日
筋電図のグラフは、膝の関節角度による大臀筋の筋活動の値が示されている。膝を伸ばした状態(膝関節角度0度)から腰を膝の高さまで下ろした状態(膝関節 角度90度)にいって一秒静止して、元の立った姿勢に戻るまでの筋活動のグラフである。腰割り、上体を前傾させた腰割り、膝が中に入ってしまった腰割り、普通のスクワット、足幅の広いスクワット、以上五つの動作による違いを見ると、山が一番大きいのが正しい腰割である。その次に高いのは前傾の腰割りとなっている。 先発隊、一年間倉庫にしまってあったちゃんこ道具を全部出して洗い物。
平成17年6月21日
あらゆる競技において、身体の後側の筋肉を使うことが大事なことは、以前にも書いたことがあるが、グラフの結果から考えてみると、股関節を開く、すなわち腰を割るという動作が一番大切で、さらに上体を真っ直ぐ立てるということも大事になってくる。白木助教授の解説文では、最近の力士の怪我が多くなったのは腰割りなどの股関節の鍛錬がおろそかになっているためだとし、股関節を軟らかくし怪我に強い体をつくるには腰割りが最も理にかなったトレーニング法だとしている。最後に、股関節を鍛えるのには腰割りが効果的だが、スクワットは大腿四頭筋を鍛えるのには最適という文で締めているが、最近の四股が、腰割りよりもスクワットに近い姿勢になってきているのは大いに問題のあることであろう。
平成17年6月23日
白木助教授の研究にもあるように、正しい腰割りの姿勢は膝の角度が90度になるような脚の構え、すなわち腰(骨盤底)が膝の高さまで下りた姿勢で、太股は地面と平行になる。それ以上腰を下ろすのは脚、腰の構造上難しいし、無理に下ろすとどうしても上体は前傾してしまい、お尻が後に逃げてしまう。おそらく筋電図をとっても大臀筋の筋活動も低下するはずである。腸腰筋(ちょうようきん)の筋電図も測れたらいいのだろうが、深層筋は難しいのだろうか。昨日今日で幟29本を立て、掃除や荷物整理も大まかには終わり、明日土俵つきで、先発隊の仕事も順調にすすんでいる。26日(日)に全員宿舎に入り、27日(月)が番付発表。28日(火)から土俵祭で稽古再開となる。
平成17年6月24日
土俵築で稽古場の土俵が完成。名古屋場所へ向けての舞台装置もほぼ仕上がりである。
平成17年6月26日
東京残り番力士相撲列車(新幹線)により名古屋入り。先発隊6人だった蟹江龍照院宿舎も全員が揃い、急にクーラーの効きも悪くなったようである。蟹江の宿舎は、お寺の裏にプレハブが2棟建っていて、その中にちゃんこ場、個室2部屋、36畳と24畳の大部屋があり、若い衆は大部屋2つに分かれて寝ることになるが、枕元に荷物を置いて貸しフトンをひくと殆どすき間はなくなってしまう。
あすが番付発表。毎年お世話になっている鈴木さんのワゴン車で、先場所の勝ち越し力士3人が5時半出発して番付を取りに愛知県立体育館に向かう。
平成17年6月28日
きのう27日が名古屋場所番付発表。新入幕が期待された泉州山だったが、十両東の筆頭どまりとなって今場所再チャレンジである。ただ、一年前の名古屋場所では付人としてついていた闘牙を入門以来初めて番付で追い越したことになる。
平成17年6月29日
地方場所の宿舎は仮住まいになるので、お寺の本堂などを借りるか、プレハブを建ててという場合が殆どであり、稽古場も倉庫や駐車場、プレハブ等の、いわば掘っ立て小屋のような状況である。名古屋市内東区に宿舎を構えている九重部屋が今年、立派な稽古場を新築したそうで、その稽古場の土俵開きに横綱が出向き、土俵入りを披露。あすからまた部屋で稽古をやることになるが、今年は久しぶりによそからも関取衆が横綱の胸を借りに出稽古にくるそうである。
今日の高砂部屋
平成17年7月1日
地方場所は年に一回ということもあろうが、東京場所に比べ、行事や地元との交流の機会も数段に多い。見学のお客さん自体も多いし、地元からの要請もあって幼稚園や老人ホーム、施設などの訪問なども毎年恒例のこととなっている。幼稚園で園児を相手にすると、みんな本当に熱狂的になるし、老人ホームなどで握手してまわると、涙を流して喜んでくれるおじいちゃん、おばあちゃんも多い。そういう機会に触れると、まだまだ相撲人気も捨てたものではないと思うし、そういう機会を増やしていくことが、これからは大事なことであろう。
相撲協会としても、ここ数年、全国で子供向けの相撲教室や、一般人向けの相撲体操の紹介なども積極的に行ってきている。
平成17年7月3日
相撲どころの青森県などでも小学校の校庭から土俵が消え、子供の遊びの中からも相撲が消え、取り巻く環境は厳しいものがあり、相撲を取ったことのない人間が昔より増えているのは確かなことであろう。しかしながら今年の大阪場所で幼稚園を訪ねたときに、面白い光景を目にすることができた。園児と相撲を取り終えて着替えに下がったところ、先生が校庭にマルをいくつも書いたら、そのマルの中で園児がそれぞれ自分たちで勝手に相撲を取りだしたのである。先生は何にも言わずに、ただマルを書いただけである。
そういう子供達の姿をを見ると、まだまだ日本人のDNAの中には相撲が刷り込まれているという希望を感じることもできる。
平成17年7月4日
琴光喜と琴奨菊が佐渡ヶ嶽親方と共に出稽古にくる。久しぶりの部屋への出稽古で横綱も気合十分の稽古だったようである。夜、宿舎龍照院の客殿をお借りして、お寺周辺の方々を招待してのちゃんこ会。若松部屋時代から今年で18年目となる蟹江龍照院での宿舎。とくに横綱が誕生してからは見学客も増え、路上駐車や生活道路の混雑などで近隣住民には不便をおかけすることも多々で、そのお詫びと御礼を兼ねて昨年より行っている行事である。今年はまた更に部屋裏に大きな駐車場も新設されて、地元のご理解とご協力には、ただただ頭が下がる思いである。
平成17年7月5日
昨日からの佐渡ヶ嶽親方と琴光喜、琴奨菊に加え、露鵬も出稽古にくる。この時点で、かなり稽古場の雰囲気も高まっていたが、しばらくして大鵬親方も姿を見せ、見学のお客さんからも思わずどよめきが起こる。佐渡ヶ嶽部屋は一宮市、大嶽部屋は津島市と、ほぼ隣接した所に宿舎があり、以前も何度か出稽古に来たこともあったが、親方自らが足を運ぶのは初めてのことである。先場所定年となった大鵬親方、今年一杯で定年を迎える佐渡ヶ嶽親方、両親方が、今後の大相撲界に託す気持ちが現れてのことなのであろう。
平成17年7月7日
場所前恒例の高砂部屋激励会がウエスティンナゴヤキャッスルホテルにて行われる。後援会を中心に約350人ほどのお客様が集まり、名古屋場所での高砂部屋力士一同の好成績を祈念する。年に一回、このパーティでしか会わない人もいるが、今年はちょうど七夕と重なり、会場のあちらこちらでそんな挨拶も交わされた。あす取組編成、あさって土俵祭で初日を迎える。
平成17年7月9日
初日を明日に控え、若松部屋時代から毎年恒例となっている宿舎龍照院のご本尊、十一面観世音像を開帳していただき、今場所の無事と必勝を祈願していただく。重要文化財である十一面観世音像は、安置堂が昨年来の工事で新築され、姿も見やすくなっている。800年以上も前に彫られたという木像は、高さが5尺7寸とほぼ等身大で、顔は何とも言えぬ慈悲深き落ちついた深みをたたえている。
ご住職からも、この観音様のように落ちついた心で勝負に臨めば、願いは叶うでしょうと言葉をいただき、明日からの取組にのぞむ。
平成17年7月10日
以前にも紹介したように、龍照院は創建1182年という歴史ある古刹であり、客殿裏には太閤秀吉が植えたという伝説のある樹齢400年を越える越える大銀杏の巨木もある。また、お寺のすぐ裏には昔信長が清州城から馬で駆けていたという古道もあり、その道には信長街道という表示も埋め込まれている。初日。序ノ口の朝野澤の白星でスタートして関取4人も全て勝ち、全体でも9勝5敗とまずまずの滑り出しである。
平成17年7月11日
最近の傾向として、どの場所も前半戦の平日2日目~5日目辺りが一番お客さんの入りが悪いが、今年の名古屋場所も今日は寂しい入りであった。桝席の前の方はさすがに埋まっているものの、真ん中から上は桝席の青い座布団が一面に広がり寂しいものである。
ただ今場所は、桝席の最上列とその下の列にはお客さんが入っている。先場所5月場所から売り出したペアシートという席で、4人で座る桝を、二人用に値段を下げて販売している。さらに名古屋場所のペアシートには前にテーブルが設置され、お茶と鳥弁(名古屋場所名物の関係者しか食べられない弁当、超ウマ)もついていて大人気だそうである。
平成17年7月12日
龍照院の横を馬で駆け抜けていた信長は、大の相撲好きだったそうで、元亀元年(1570年)に近江のお寺に武将を集めて相撲大会を開いたそうである。異説もあるものの、その相撲大会のときに勝者に弓を与えたのが弓取式の始まりといわれているそうである。そんな話が、毎日小学生新聞の「きょうのなぜ?なぜ相撲で弓取式をする?」という見開きの特集で、皇牙の談話とともに掲載されている。
龍照院は、天正12年(1583年)の蟹江合戦で焼かれるまでは七堂伽藍十二坊の7万2千坪という敷地を誇っていたそうであるから、境内で信長が相撲を取らせることがあったのかもしれないなどと、想像してみるのも面白い。
平成17年7月15日
宿舎龍照院の近くにお寺の檀家さんが中華料理屋さんをオープンして、お寺のご住職ご家族に、行司呼出しと共にご馳走になった。毎年同じメンバーでお世話になっている食事会(例年はお家で)だが、お寺の歴史や仏さまの話、ご近所の移り変わりなどなどいろいろと興味深い話を聞けて楽しみにしている。今宵もいろんな話が出たが、当然連勝を続ける横綱の無敵ぶりも話題にのぼった。ご住職も、平成11年名古屋場所、入門半年の朝青龍から毎年見続けているが、体は細いがものすごく稽古熱心で、他の力士とは目の色が違い「これは強くなるな」とは思っていたが、まさかこれほど強い横綱になるとは想像できなかったという。つい6年前のことである。
平成17年7月16日
たった6年前のことであるが、当時の若松部屋15人いた力士のうち現在残っているのは3人だけである。合併の影響もあったのだろうが、入れ替わりの激しい時期だったことは確かであろう。その翌年12年1月入門の朝ノ土佐、あと一番で幕下復帰となる3勝目。弓取り皇牙も3勝目。ただ、ご当所稲沢市出身の高稲沢は負け越し第一号決定。
平成17年7月17日
序二段最下位133枚目の朝久保、4連勝での今場所勝ち越し第一号。横綱の付人になって一年近くなるが、今のところ部屋の掃除や洗濯、留守番という仕事がもっぱらで支度部屋にいくこともないが、今夏の巡業には初めて出ることになっている。先日仕事の失敗で怒られて、半日ほどスカしたこともあったが、稽古で可愛がられてひとまわり逞しくなったのかもしれない。
5年目を迎えているが まだあまり勝ち越したことのない朝君塚と、3年目にしてまだ一回しか勝ち越したことのない 朝神田、共に3勝目で待望の勝ち越しに王手。
平成17年7月18日
初日以来の関取全員白星。10月にラスベガス公演があるが、9月場所の幕内力士のみの参加なので、新入幕を目指す十両東筆頭の泉州山 はもちろんのこと、2枚目の闘牙にとっても、残り6日間がラスベガス行きをかけた闘いになる。
三段目50枚目の神山勝ち越し。毎日取組まえの支度部屋での横綱の稽古相手を務めており、3連勝した6日目の時点で日刊スポーツから「横綱の稽古台の付人神山も好調3連勝」という取材を受け、7日目の朝刊に写真入りで結構大きく掲載された。「4連敗したらシャレにならないから、勝越してから載せてくれと頼んでいたのに」と心配していたが、堂々の勝ち越しとなった。あと一勝すれば最高位更新も見えてくる。
平成17年7月19日
朝神田入門3年目にして2回目の勝ち越し。部屋の全員が毎年お世話になっている地元蟹江の家族があり、力士も家族ぐるみの付き合いだが、その家族に朝神田と同じ年の娘さんがいる。場所前一緒に飯を食いながら、同い年で話も合い、周りもあおるものだから、デートするまで話は盛り上がった。ところが、慌てたお父さんが「勝ち越したら娘とデートさせてやる」という条件をつけた。朝神田の今までの成績を知っているからこその言葉であった。ところがお父さんの意に反したのかどうか、10日目の今日にして勝ち越しを決めてしまった。大喜びの朝神田、「やっぱり愛の力は強いな」と、みんな納得した。
平成17年7月22日
朝赤龍、昨日の出島戦で勝ったものの脚を痛め今日から休場。体育館から病院へ直行して治療に努めたものの、今朝は歩行困難な状態で無念の不戦敗となった。休場は入門以来初めてのことである。その朝赤龍の付人の高稲沢、ご当所の場所で6連敗だったが、ようやく片目があく。片目だった大子錦2勝目で両目があく。そういえばきのう、チャリンコに乗っていて田んぼに落ちたらしい大子錦、ドロドロになって帰ってきて「自転車に乗りながら寝てたの?」と突っ込まれていたが、片目だったせいであろう。朝久保6勝目。
平成17年7月23日
6勝7敗とあとがなかった泉州山と闘牙、ともに敗れて負け越し決定。来場所の入幕と、10月のラスベガスがアゴになってしまった。3勝3敗で最後の一番となった朝奄美と熊ノ郷、朝奄美は負け越すも、熊ノ郷勝ち越し。これで若い衆20人のうち11人が勝ち越しとなった。あすの優勝決定の準備も完了し、千秋楽の土俵を待つだけである。6時40分過ぎに部屋に戻ってきた横綱、「琴欧州も負けないねぇ」と楽しそうに語り、あすの決定戦を待ち望んでいる気持ちの昂まりが自然にあふれでている。
平成17年7月24日
千秋楽。打上げパーティの会場となる尾張温泉東海センターの前に酒樽をセッティングして体育館へと向かう。東支度部屋奥には佐渡ヶ嶽部屋勢が集まり、入口側には高砂一門が勢揃いして、テレビでこれより三役を見守る。琴欧州が敗れた時点で5連覇を確信するが、勝負が決まるまでは予断を許さないのが相撲でもある。13回目の優勝が決定し、表彰式後、支度部屋で後援会に囲まれての賜杯を抱いての記念撮影。その足で蟹江の尾張温泉へと向かう為、体育館外のタクシー乗り場へ急ぐが、パーティ会場へ向かっているはずの銀杯を抱えた熊ノ郷が、手配の車とはぐれたといってうろうろしている。それなら一緒にタクシーでと乗り込んだところ運転手と連絡がついて銀杯を積み込み蟹江へ向け高速で走る。横綱の到着より先にパーティ会場に銀杯を届けなければいけないが、運転手も名古屋市内の環状線の高速はあまり慣れていなく、標識を確認しながらけっこうハラハラの走行である。6時35分無事会場にたどり着き銀杯をセット。6時50分、横綱も到着して銀杯での乾杯により祝賀会が開宴となる。
平成17年7月25日
今日から一週間は稽古が休みで、部屋の後片付けや荷造りをしていくこととなるが、この稽古休み中、勝ち越した力士のみ2泊3日の里帰りが許されることになる。今場所6勝1敗と大勝ちした朝久保、高知県安芸市へ里帰りする為、明日26日午後1時の飛行機をとったが、台風7号の接近で欠航の心配もでてきた。めったにないチャンスで地元の友達ともいろいろ約束しているそうだが、天気予報を見ながらヤキモキする夜を過ごしている。明日午後1時名古屋発の高知行きの飛行機次第である。
平成17年7月28日
地元名古屋の中日新聞で夏目漱石の「吾輩は猫である」を連載しているが、その夏目漱石の熊本の旧制五高時代の教え子に、寺田寅彦という明治の物理学者がいる。寺田寅彦は、物理学者であるとともに随筆家でもあって、多くの文章を残しているが、1991年発行の日本の名随筆別巻2『相撲』(吉村昭編作品社)に寺田寅彦の「相撲」という7ページほどの随筆が載っている。その中に、夏目漱石先生の紹介で東京朝日新聞に「相撲の力学」という記事を書いたことがあるという話もあり興味深い。
平成17年7月29日
日本の名随筆別巻2『相撲』には30人近い近世文人の随筆が集められているが、石井代蔵の「戦後異能力士列伝」という文もある。その中に元若松部屋の潜航艇岩風の話が出ている。昭和30年代、褐色の弾丸房錦と共に三役をはった岩風は、引退後すぐ廃業して、それっきり部屋に顔を出すこともなく、死んでしまったという噂もあったほどだそうだが、昭和56年5月21日に師匠だった元鯱ノ里の二代目若松親方が急死して、翌日行われたお通夜にひょっこり現れたそうである。ただ、口髭をたくわえ、昔の面影はまったくなく、本人が名乗るまでは房錦の三代目若松でさえわからなかったそうである。
平成17年7月31日
名古屋より新幹線の相撲列車にて全員帰京。今夏は、明後日2日から11日まで青森五所川原合宿、その間6日7日は岩手秋田での巡業。帰ってきて、22日から25日まで恒例の平塚合宿。26日に健康診断。29日が秋場所番付発表で、9月11日(日)初日の9月場所を迎えることになる。
平成17年8月1日
潜航艇の異名をとった元関脇岩風は、おそろしく無口だったそうである。最近でこそ力士もテレビのインタビューや支度部屋での新聞記者の取材に、よく受け答えするようになったが、当時はしゃべらないおすもうさんが多かったようで、その中でも群を抜いての徹底ぶりだったそうである。ただ唯一、手の合った元文化放送アナウンサーの細田勝氏にはボソボソと少しだけしゃべってくれたそうである。
家業が鉄筋屋で、手で鉄筋をグニャと曲げていたという怪力ぶりは有名な話である。
平成17年8月2日
岩風はまた稽古嫌いでも有名だったそうである。若い頃はもちろんかなり稽古させられたのだろが、関取で活躍している頃には巡業なんかにいっても、旅館で薪割りをやったりするばかりだったらしい。そんな話を元大関前の山の高田川親方にも聞いたことがある。200数十キロもあるレールを持ち上げたりしたこともあるそうで、昔で言う膂力(りょりょく)が抜群だったのであろう。
毎年恒例の青森五所川原合宿へ出発。あまり東京と変わらない暑さである。
平成17年8月3日
合宿先でお世話になっている江良産業の次男坊は今春近畿大学相撲部を卒業して、現在青森の鯵ヶ沢高校で教員をやっている。もちろん相撲部のコーチで、その縁で今日は高砂部屋力士9名も鯵ヶ沢高校相撲部の稽古に参加。鯵ヶ沢高校は、八角部屋海鵬関の出身校で、海鵬が在籍中には九重部屋埒見らと共に全国制覇を果たしたこともある名門である。現在部員は16名で、新相撲のメンバーも3人一緒に稽古している。
平成17年8月4日
五所川原合宿で毎年恒例となっている青森後援会の白生会胃腸病院の介護施設である緑風苑で、ちゃんこをつくってふるまい、相撲基本動作実演やカラオケ、写真撮影会などで交流を深める。年に一度の力士との交流をみんな楽しみにしてくれていて、孫に接するような喜びようである。夕方から、これも恒例となっている青森後援会の藤本建設㈱社提供の出世大太鼓のメンバーとして青森のねぶた祭りに参加。ふだん歩き慣れないおすもうさんも、今日ばかりは青森市内を練り歩き、浴衣も汗でビシャビシャである。
平成17年8月5日
今日は全国的にも今年一番の猛暑だったそうだが、2日乗り込み以来青森も30度を超える暑い日が続いている。アンコにとって、暑さは最大の敵で、「溶けそう、溶けそう」と警報を発しているが、合宿先の江良道場は、土俵の横の上がり座敷でちゃんこを食べることになっていて、もちろんクーラーは無く、扇風機が一台置いてあるのみという状況である。その扇風機の首振りが壊れているので、いっしょにちゃんこを食っていた朝陽丸と福寿丸のアンコ二人、飯を食いながら交互に扇風機をあてている。その間隔約2分づつ。風が切れた途端に汗がふきだし流れ落ちる。風があたると少しずつ汗が引いていく。それを交互に5回ほど繰り返し、暑苦しい午餐は終了した。
平成17年8月6日
一般家庭では、クーラーのある部屋に扇風機は置いてないと思うが、相撲部屋とくにアンコ力士の周辺ではクーラーのある部屋でも必ず扇風機がセットになっている。一般的に、扇風機の風に連続してあたりつづける事は体温を奪い身体に非常によくないそうだが、そんな人間の常識が通用しないのがアンコのアンコたる所以でもある。夏は、クーラーをガンガンに効かし、布団をかぶり、頭上から顔に扇風機を強風であてて寝るのが常である。決して首振りやリズム機能は使わない。寝入ったからと思って扇風機を止めると、必ず起きてしまうのもアンコの常である。
平成17年8月8日
「寝顔が可愛い」とはよく聞くが、誰とは言えないが、某アンコ力士の寝顔ほどすさまじいものはない。人間の顔もここまで変形できるのかというほど面白い顔、というか、ピカソの絵にでもなりそうな前衛的な造形物になる。あまり面白いものだから、ある力士が、その某アンコ力士の寝顔を写メして、飲み屋でおねーちゃんに見せたらしい。見た瞬間、誰もが「これ何?」とわからないそうである。「顔だよ!」といってマジマジ見直してようやく「あーぁ」と、うなずくほど、前衛的である。
平成17年8月9日
「♪小さな寝息をたててる・・・・♪」というフレーズが南こうせつの歌にあったように(妹よ)、寝息はふつう小さいものであるが、アンコは寝息までがでかい。イビキはもちろんでかいに決まっているが、イビキをかいていないときのふつうの寝息も隣に寝るとかなりなものがある。そこに無呼吸症候群が加わると、不規則で、危なっかしく、このまま息が止まってしまうのではないかと心配してしまうほどである。また寝息とともに頭や体も上下左右不規則な動きを繰り返し、顔の変形とあわせて、ちょっと距離を置いて見る分には十分なおかしみもある。動物園の動物を見て喜ぶのと似た感覚かもしれない。ただあまり近づきすぎると寝っぺに時々やられてしまうこともあるが。
ねぶた祭りが青森の真夏のピークだったようで、きのうから朝晩はめっきり涼しさがでてきた。五所川原合宿も明日が最終日となる。
平成17年8月10日
合宿先の江良道場での宿泊は、土俵のある建物の隣の画廊になっている。30畳ほどはある画廊だが、普段は画廊だけに小さい窓が一つあるだけで、熱がこもってしまう建物になっている。合宿で宿泊するようになってクーラーが二台ついたが、一年の内10日ほどしか使わないクーラーだから6畳間用ほどのが二台ついているだけである。その中に10人の力士が寝ると昼間は殆どクーラーは効かない状態になってしまう。その代わり画廊なだけに照明はシャンデリア風やらが天井びっしりセットされている。窓が少ないから、昼間でも照明をつけるが、温度に敏感なアンコは、「照明つけると温度が1度は上がってしまうから消せ」というが、アンコが部屋にいることによって2度は上がってしまうことをアンコ本人はわかっていない。
平成17年8月11日
五所川原江良道場を午前9時バスにて出発。12時過ぎ盛岡駅に到着して12時39分発の"はやて”にて帰京。同じ東北新幹線でも、"やまびこ”は自由席があるからアンコ力士の隣になったソップ型の新弟子は(強制的にアンコとソップの新弟子がセットになる)自由席に移動したりもできるが、"はやて”は全席指定なのでそれもできない。この季節の新幹線はかなり混んでいるが、仙台まではまだいくらか空席もあり空いている席に座ることもできるが、仙台駅でドッと乗客が乗り、それもできなくなり結局もとのアンコの隣席に戻ることになる。寝っぱなしとはいえ、上野駅に到着した姿はぐったりとして、乗車前よりやせ細った感じえ見受けられる。
午後3時2分上野着。タクシーに分乗して部屋へ戻る。
平成17年8月14日
ルジマトフという名前は少し前まで聞いたこともなかったが、最近バレエを観る機会を何度か得て、その圧倒的存在感、身体能力の高さ、観客を魅了するスター性、言葉をあげればキリがない。まさに伝説のカリスマダンサーと呼ぶにふさわしい舞踊家である。先日は、レニングラード国立バレエ団との共演であったが、世界一流のダンサーと比べてもその存在は格別で、一流ダンサーが普通の人間に見えてしまうような差がある。
平成17年8月15日
今回の舞台はハイライトで、次々と主役ダンサーがでてきたので何がこんなに違うのだろうと比べて観る事ができた。まず立ち姿が違う。ただ真っ直ぐ立っているだけで美しい。歩くともっと違う。他の一流ダンサーは脚で歩いているが(あたりまえだが)、ルジマトフは重心(腰腹部)を移動させて歩いている。他のダンサーが脚で重心を運んでるのに比べ、重心の移動で脚を動かしている。軽やかで動きに無駄が無い。その差は、横綱朝青龍と他の力士との違いを思い出させるほどである。
平成17年8月17日
走っても軽い。飛ぶようである。ジャンプするときも軽い。フワッと上がっているのに、他の一流ダンサーに比べ、高く、滞空時間も長い。実際に目にしたことはないが、マイケルジョーダンのジャンプにも通じるところがあるのではないだろうか。立った姿勢から脚を上げるときにも、上体も腰部も全くブレない。鏡の前で実際にやってみるとわかると思うが、片足を少しでも上げようとすると、軸足に重心を移さなければならず、かなりブレてしまう。プロである背後で踊っているダンサーでもけっこう揺らぐダンサーがいるが、ルジマトフは1ミリもブレない。軸足や上体と切り離されたように、上げる脚のみが、他人の脚みたいにスッと上がってポーズを決める。
平成17年8月18日
立った姿勢から、後ろ足をひいて、前足は膝を立て、腰を落としていくポーズをよくとるが、その時にも他のダンサーに比べ膝が全くブレない。ふつうは、腰を落としていくときに前足の膝が前後左右にけっこう動きながら決めのポーズに入っていくが、ルジマトフの動きは、前足の膝が固定されて、膝を支点にして腰(腰腹部)や後ろ脚がスーッと落ちていく。その動きを見た時に思い出した動きがある。双葉山が四股を踏むときの動きである。軸足の膝がブレずに上に上げた脚や腰をストンと落としていく。身体の使い方が一緒なのであろう。
平成17年8月19日
膝を固定する、動かさない、ということはどういうことになるのだろうか。腰割りの記事でも紹介したように、最近スポーツ界でも股関節の重要性ということが色んなところで言われている。足腰を鍛えるためのトレーニングでスクワットという動作は広く一般的だが、一般的なスクワットでは膝を前に出して、しゃがんでいく動作を繰り返す。このスクワットでは主に太腿の前や膝周りの筋肉ガ鍛えられる。ところがここ10年ほど、股関節の重要性がだんだんと叫ばれるようになって、股関節スクワットというトレーニング方法があちらこちらで紹介されるようになってきた。股関節スクワットは、膝を固定してお尻をうしろにつきだしながら腰を落としていく動作になる。そうすることによって、股関節周りの筋肉が使えるようになる、ということである。
平成17年8月20日
膝を固定することである。以前にも何度か紹介したようにNHKBSで平成11年に放送された『名力士・名勝負の100年』は、明治から現代までの大相撲の取組が見られて興味深いが、膝だけに注目して4時間の番組を見るとまた面白い。(早送りして取組だけ見ても1時間以上かかるが。)注目すべきは、やっぱり双葉山である。双葉山の取組は、30番近く収録されているが、どの取組でも膝から下、すなわちスネが常に両脚とも前傾で殆ど一定の角度に保たれている。前に出るときも、四つに組んだ時も、さらに打っちゃるときも、スネは前傾姿勢を保っている。
平成17年8月21日
ふつう、前に出ているときはともかくとして、四つに組んだ時には、足を前後にも開くので、前足のスネは殆ど垂直か、場合によっては少し後傾することが多い。そうなった時の前足は、腰より前にあり、すなわち重心より前にあることになる。前足は遊んでいる状態である。そこから動こうとすると、重心(腰)を前に動かして前足に体重がのらないと前足には力は入らない。その分動き出しが遅くなるし、相手にも感じられやすい。両脚が常に前傾だと、常に重心 と足が一体で動き出しも速く、相手に伝わる力も強いのであろう。それが腰で相撲を取るということであり、双葉山の腰の強さなのではないのだろうか。
平成17年8月22日
今日から平塚合宿。午後3時過ぎに湘南高砂部屋後援会からの迎えのバスにて宿舎となる平塚市総合運動公園内の宿泊研修所入り。午後6時から公園内の会場にて歓迎会。来賓で地元の河野太郎前衆議院議員も歓迎の挨拶。若松部屋時代から12年目となる合宿とあって、すっかり平塚の夏の風物詩になっている。明日から3日間研修所近くの土俵にて稽古することになる。
平成17年8月24日
名古屋テレビ土曜深夜0:30から30分間、伊集院光がやっている「光る!スポーツ研究所」という番組があるそうで、その中で「スポーツの衝撃力」というテーマの取材が平塚合宿で行われた。あらゆるスポーツの衝撃力の中で一番衝撃の大きいのは相撲の立合いだそうで、その衝撃力は800kgから1トンの力がお互いの力士にかかるそうである。その立合いの当たり方を元朝乃若の若松親方の解説で検証しようという番組である。ただ、東海地区ローカルの番組だそうです。
平成17年8月25日
平塚合宿を打ち上げ、午後1時半熱海へと向かう。平塚合宿の一環で、今年で5年目となる熱海サンビーチでのちびっこ相撲大会へ参加して、夕方に大月ホテルでパーティという行事だが、台風襲来でビーチのちびっこ相撲はさすがに中止となり、午後5時半よりのパーティのみの参加となる。カラオケや相撲甚句で熱海のファンとの交流を深め、午後7時にパーティがお開きとなる。終わってホテルから出たら暴風雨吹き荒れている。みんな、「怖いよ~」「大丈夫かよ」とわめきながら、バスで怒涛押し寄せる海沿いの道を出発したが、30分後にはあちらこちらからイビキが聞こえてくる。やっぱり怖さよりも眠さの方が勝ってしまうようである。午後9時半過ぎ無事部屋に帰りつく。
平成17年8月28日
昨日27日に『相撲指導適格認定証』の講習会が行われ、現役力士16名を含む60人が受講。受講資格は5年以上の在籍がある者で三段目以上に実績を持つ者という条件である。午前8時50分より「指導者の役割」「スポーツと栄養」「スポーツ医学」「救急法実習」「トレーニング論」「相撲体操実技」と夕方5時過ぎまで講習が行われ、講習会後の試験にも全員合格した。あすが秋場所番付発表。
平成17年9月1日
先場所13日目の膝の怪我で初めての休場となった朝赤龍、まだ相撲を取れる状態ではないようだが、久しぶりのマワシを締めて四股スリ足などの準備運動を始動。11日の初日目指して、これから徐々にペースを上げていくことになる。明日は横綱審議委員会総見稽古となっている。(国技館内相撲教習所土俵。一般非公開。)
平成17年9月2日
元幕内の朝乃翔、平成13年12月に引退して準年寄朝乃翔として親方生活をスタートしたが、その後若松親方となり、平成17年4月から佐ノ山を襲名していたが、今年17年8月から関ノ戸に名跡が変更になった。年寄株が借株なため、持ち主の事情により変更になってしまい、株取得目指して頑張っているが、現在空き株が殆どないため取得が厳しい状況ではある。そんな中、早朝の稽古に千葉県から通い、一度自宅に戻り更に夕方の筋トレにも顔を出しと、指導に精力的である。人呼んで小田原ジムといわれているが、今場所は特に、いつもの塙ノ里に加え福寿丸もジムに参加していて、夕方の地下室でうめき声を上げながらいい汗を流している。
平成17年9月3日
地元本所3丁目の応援組織である本所高砂会の懇親会が、秋場所前恒例で行われる。元々本所若松会の頃からすると、ちょうど10年目になるそうで、10周年記念の集合写真の撮影も行われた。親方家族と関取衆と共に50名近くがテーブルを囲みカラオケや抽選会などで懇親を深める。10年一昔とはいうが、このホームページを立ち上げた平成9年8月30日の会が2回目の会合だったようで、当時小学5年生だった親方の長男茂紀君も大学1年生となり、入学した立教大学で相撲部として頑張っており、今日は東日本体重別選手権に出場したようで、初めて本所高砂会を欠席することとなった。
平成17年9月5日
再びルジマトフである。知人にビデオをお借りしたので繰り返し見ているが、見れば見るほど、その身体、動きの深さに魅入られてしまう。まったく飽きることがない。以前に、脚が他人の脚のように切り離されることを書いたが、腕も同様である。前後左右自由自在に動き、胴体と切り離されたようでさえある。後ろへ腕を伸ばすときも前へ出したように思えるほどひっかかりなく伸びる。
実際にもそうなのだろうが、腕や脚がものすごく長く見える。肩胛骨や股関節(腸腰筋)が使えるとそうなるそうである。質感、量感はちょっと違うが、双葉山のビデオを繰り返し見て飽きないのと同じ感覚がある。
平成17年9月6日
脚や腕が切り離されて自由自在に動きながら、全体としての統一感がまたものすごい。腕や脚がどんな動きをしようとも、体の中心部はその動きに影響されることなく揺るがない。高岡英夫氏が唱えているところのセンターが全くぶれない。というよりも、身体のセンターで、腕や脚の動きを操り、より豊かな動きを生みだしている。そういう動きこそが人類や宇宙の動きの本質そのものなのであろう。
そういう本質の動きを見ることによって、われわれ凡人の中にも眠っている細胞のDNAが同調して、素晴らしいという感動を感じるのであろう。というようなことが、高岡英夫氏の身体意識論である。
平成17年9月7日
身体を切り離して使うこと、全体として統一して使うことは、まったくもって難しいことである。差し手をおっつけられると、腰まで崩れてしまう。差されて腕を返されると体全体が浮き上がってしまう。反対に、相手を押すときには肩や上体にばかり力が入ってしまい、体全体で押すことができない。双葉山の取組は、相手のおっつけや突っ張り、差し手、いかなる攻めにも、腰が全く揺らがない。そのために、上体はあくまでも柔らかく、下半身、特に足は、腰が崩れないポジションを捜すように小刻みに動いている。攻めに転ずる時には、寄りにしろ、上手投げにしろ、全身が一致団結してその動きを支えている。攻めたり守ったりすることはないが、ルジマトフの動きも同様である。
新横綱の綱打ちが行われる。
平成17年9月10日
初日が明日へと迫り、今日から稽古の開始時間も30分遅くなり、いよいよ本場所モードとなる。お昼過ぎ、触れ太鼓があしたの取組を呼び上げ、割り(取組表)が部屋にもまわってきて、対戦相手や相撲が明日か明後日かというのもはっきりして、気持ちも高まってくる。
横綱の優勝額の授与式が国技館で行われ、5月場所と7月場所の分が、明日初日の中入り後に国技館内で除幕式にて披露される。優勝額は館内の一面に8枚ずつ四面で32枚あるから、今回の分で二面を殆ど横綱朝青龍の額が占めることになる。あす横綱は普天王との対戦である。
平成17年9月11日
横綱が初日に負ける大波乱となった。波乱の相手は普天王。最近ブログでも話題になっているが、ここ2,3場所見違えるように力をつけてきた。テレビでも何度も紹介されているように、高校の同級生で、インターハイの準決勝で対戦した時には普天王(当時内田)が勝っている。平成12年12月10日に行われた全日本選手権では大学2年生でアマチュア横綱となっているから、最近の活躍が遅すぎたくらいの素材ではある。強くなったから言うわけではないが、先場所テレビで見ていて四股の踏み方が良くなったなと感じていたところであった。横綱が大関へ上がる頃に感じた印象(2月6日の日記)のと同じ印象を受けた。
平成17年9月12日
同じ印象とは、足を下ろすときに腰がいっぺんに下りることである。足を下ろして、そこから腰を下ろすのでなく、動作が一段階で終わりである。一拍子という感覚であろうか。普天王は、山科親方(元大錦)の指導の下、正しい四股に取り組んで成果が上がったことが新聞紙上でも再三紹介されているが、現代の力士で、こういう印象の四股を踏んでいる力士は数少ない。ところが、以前の日記(平成14年4月21日~5月8日)でも取り上げたように明治から昭和初期にかけては殆どの力士がそういう印象の四股を踏んでいる。
平成17年9月13日
それならみんな腰をいっきに下ろす四股を踏めばいいのにと思うかもしれないが、かんたんそうに見えて、現代人にはけっこう難しい動きである。足腰が強い、足腰を鍛えるということは、現代人にとって腰というよりも脚の筋肉の意識が強いから、どうしても脚の方に力を入れてしまう。そうすると、腰が下りるのを脚が邪魔してしまう。特にフトモモの前(大腿四頭筋)に力が入ると、それは膝を伸ばす動きになるから、腰を下ろす動きにブレーキをかけてしまい腰が途中で止まってしまう。そこからまた腰を下ろすという二段階の動きになってしまう。朝赤龍2連勝と好調のスタートを切ったものの、昨日の取組で先場所痛めた膝を悪化させ今日から休場。
平成17年9月14日
一方、ひといきで腰を下ろす動きは、太股(特に前)の筋肉を脱力しないとスムーズにいかない。フトモモの前の筋肉がリラックスできてはじめて腸腰筋(ちょうようきん)が使えるようになってくるそうだから、現在あらゆるスポーツの最前線でその重要性が叫ばれている腸腰筋を使うためには、腰を一気に下ろすということが最も大事になってくるのかもしれない。
平成17年9月15日
腰を一気に下ろすには、膝が支点となり固定されなければならない。というと、膝に力を入れて固めるという感じをうけてしまうかもしれないが、そうではなく、膝の力を抜いて、腰の動きに対して膝から下(スネ)が動かないということである。膝から下と膝から上が切り離されて、一気に元の腰の高さまで腰が落ちるという動きである。膝から上の体が落ちる時に膝やフトモモでブレーキをかけないから、重力を最大限に使った重みのある四股になるのであろう。
平成17年9月16日
一気に腰を下ろすが、下ろすのは膝の高さまでである。それ以上はしゃがみこまない。腰割りのところでも述べたように、スネは垂直に、フトモモは水平に、膝と腰(この場合の腰は骨盤底)が同じ高さになる姿勢が、一番股関節周りの筋肉の活動が活発で、構造的にも安定した姿勢となるようである。イスや机の構造と同じである。朝奄美、おとといの稽古で首を痛め今日から休場。
平成17年9月17日
腰を一気に下ろすには、膝の力を抜くことが大事になってくるのであろう。そんなことを繰り返し考えているうちに、これが武道で言う「膝を抜く」ということなのかと思った。「ナンバ走り」以来ちょっとしたブームになっている古武術の解説本にもよく出てくる「膝を抜く」という動きである。膝の力を抜くことによって重力を最大限に使った動きができるそうである。小田伸午『スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと』(大修館書店2005年)によると、陸上の末續選手のスタートは、スターティンブロックを蹴るのでなく、膝の力を抜いてスタートしているそうである。幕下10枚目の皇牙3勝目。東京場所中日に行われる溜り会の懇親会は、幕下有望力士をゲストとして招待することになっているそうだが、明日の溜り会は皇牙にも招待状が届いている。
平成17年9月18日
膝の力を抜くことによって重心(腰)が重力によって下に落ち、下に落ちながら前に進むことになるから、合力は斜め下方にベクトル(力の方向)が向くことになる。人間の本能というか生物の本能なのだろうが、落ちることを本能的にいやがるから、腰から上の上体は逆に起き上がる方向に動き出す。それが本来の下から当たるという立合いになるのであろう。それが、土俵を蹴って相手に当たると、蹴ったことによる上向きの力と、重心にかかる下向きの重力が打ち消しあって前へ出る力の合力は減ってしまうのであろう。
平成17年9月19日
怪我人や休場者続出のうえ、成績も大不振の今場所の高砂部屋、ようやく三段目の高稲沢が、今場所初の勝ち越し。特に序二段以下がボロボロである。四股の話から、「膝を抜く」とか、立合いの話とか、考え出すと、深く、広く、難解で、わかりだしたと思っても更に新しい疑問も出てきてしまい、ますますわからなくなってくるというのが実情である。こういうことを本場所中に考えだすと、ろくな結果にならないというのは頭ではわかっているのだが、頭はついつい考えてしまう。負け越した言い訳になってしまうが。
平成17年9月20日
頭と身体の関係は、野球チームとフロントの関係に似ているかもしれない。選手や監督、コーチなどを集め組織や環境をつくり、チームとしての方針を決めるのはフロントだが、シーズンが始まると実際に動くのは監督や選手である。いい動きをするときには、頭で考えることなく体が勝手に動いてしまう。勝手に動くのだけれど、全体としての統一感はあり、しかもそれぞれがそれぞれの役割をしっかり果たしている。ところが、ここに頭が参加してくると、迷い、動きが 遅くなり、勝ちたいという欲や、負けたらどうしようという不安・・・などなどで、身体本来のいい動きの邪魔をしてしまう。朝光 二人目の勝ち越し。だが、負け越しは今日で9人になってしまった。
膝の怪我で休場の朝赤龍、明日から再出場。
平成17年9月21日
弓取式を務める皇牙、幕下10枚目での勝ち越し。今年にはいって初場所こそ負け越したものの、3月から4場所連続の勝ち越しで、来場所は自己最高位の更新である。今日の対戦相手は元関脇の追風海。相撲内容も完勝だったそうで、怪我で落ちているとはいえ、百戦錬磨の実力者に勝っての勝ち越しは大きな自信になったことであろう。逆に朝陽丸は負け越し。怪我もあるとはいえ、こちらはアマチュア横綱を勝ち取ったときの自信を思い起こして欲しいところである。
平成17年9月22日
先場所の膝の怪我を悪化させて3日目から休場していた朝赤龍、きのうから再出場して、内容的にもいい相撲で連勝して4勝目。残り3日間で1勝すれば、幕内残留の可能性が大きくなってくる。十両5枚目の闘牙は今日でついに10敗目。残り3日間で最低1勝はしないと関取の座から陥落する可能性も大きくなってきた。
平成17年9月24日
いよいよ逆転優勝が、6連覇が、現実的なものとして近づいてきた。酒樽が届いたり、本所警察に優勝パレードの打合せに行ったりと、いつもながらの千秋楽を迎える準備の流れになってきた。部屋に戻ってきた横綱も、「時がきた!」と、昂ぶることもなく集中力がいよいよみなぎってきた表情である。怪我人や休場力士も出て、成績も近年稀に見る悪い散々な場所となったが、3勝3敗の3力士が今日みんな勝ち越しを決め、あす横綱が優勝で締めてくれると、めでたしで終えられるのだが。また、闘牙にとっても、あすは横綱にも匹敵するほど大事な一番とななってしまった。
平成17年9月26日
千秋楽から一夜明け。部屋の玄関には優勝祝いの酒樽が3個並び、テレビ局からの祝いのビールも10ケースほど積まれている。午前9時起きで若者会のミーティングを行い、各自今場所の反省文を書き、山と積まれた荷物を片付けていく。大分県知事賞のシイタケ1年分が大きなビニール袋一杯にあったり、大関杯の大銀杯と優勝旗も部屋に持ち帰るので、2階の大広間に置かれていて、祭りの後状態である。銀杯と優勝旗は朝一番で協会事務所に返還にいく。昨日の取組が最後の一番となった熊ノ郷、昨晩の打上げパーティで断髪式を行い力士生活に別れを告げることとなった。
平成17年9月27日
最後の一番、攻め込まれながらも小手投げで3勝目を勝ち取った闘牙関。負けて2勝なら幕下陥落が決定的だったが、何とか白星を勝ち取り、ギリギリ希望的な星取りまではこぎつけた。今場所の幕下と十両の境では、昇進陥落が2人になるか、3人になるか微妙なところで、28日の番付編成会議が開かれるまでは何ともいえない状況ではある。
平成17年9月30日
心配された闘牙。正式な発表は10月31日の番付発表を待たねばならないが、28日に発表された新十両2人というのを見ると、なんとか関取の座に残れたようで一安心である。来場所こそは体調を整えて、いいお正月を迎えられるよう期待したいものである。
10月7,8,9日と行われる大相撲ラスベガス公演の団長を務める師匠、先発隊として行司の勝次郎らと共に今日ラスベガスへ出発。本隊は10月4日に出発の予定である。
今日の高砂部屋
平成17年10月1日
ようやく昼間でも秋の風を感じられるようになったが、力士にとっては、これでやっと浴衣がちょうどいい季節である。「涼しそうな浴衣ですね」とかよく声をかけられるが、長袖だし、足首まで覆うし、風通しもそんなによくないし、真夏には袖を通しただけで汗ばんでしまうくらい涼しくない。大阪から帰ってきての4月から5月場所中までくらいと、秋場所後、九州へ乗り込むまでくらいが、力士にとっては涼しげに浴衣を着れる時期である。武双山引退相撲が国技館にて行われる。
平成17年10月2日
自分の四股名のはいった浴衣地をつくれるのは幕内力士になってからである。だいたい5月場所に間に合うようにつくって、他の幕内力士や一門の親方衆、行司、呼出し、床山、若者頭、世話人などの資格者配る。もちろんお互いだから、お中元のようなものである。若い衆は、同期生の関取からもらったり、関取が貰ったやつをおすそ分けしてもらったりして、反物を手に入れることができる。これを自分の寸法に合わせて仕立ててもらい着ることになる。 交換し合うものだから、昔は自分の名前の入った浴衣を着ることはまずなかったが、最近は気にすることなく自分の浴衣をきている関取衆もたまに見かける。
平成17年10月3日
20数年前入門した頃は、まだ昔ながらの既成の図柄(女物を使うことが多いが)に自分の四股名を入れるということが一般的だったが、最近は自分でデザインを考える関取が殆どになってきている。それぞれに結構こだわりというか凝っていて、面白いデザインになる。おととい引退して藤島親方となった元大関武双山は、生まれがネズミ年とあって青地のネズミを水玉模様のように浴衣地に散りばめたり、交流のあった研ナオコや所ジョージがデザインした柄もあったりと、かなりユニークであった。
平成17年10月4日
しかしながら浴衣地のユニークさでいえば、元朝乃若の若松親方の右に出るものはいないであろう。幕内に上がった最初の年は、白地に紺で芸者風の浮世絵が入ったごく普通の柄であった。ところがだんだん、デザイナーとしての芸術魂が湧き出てきたのか、元来の目立ちたがり屋の性格がでてきただけなのか、工夫を凝らし、、合衆国国旗風あり、アニメやマンガ風あり、色使いも、赤から 青から、オレンジから黄色から、それはそれは独特の世界で楽しませてくれた。
平成17年10月5日
一方、元朝乃翔の関ノ戸親方の方は、わりと渋めのさっぱりした柄が多かった。紫を使った年もあったが、だいたいは白地に紺の基本的な配色であったように思う。出身地の関係で、小田原の鈴廣のカマボコの絵が入った柄もあり、仕立ててよく着させてもらった。近畿大学相撲部の同級生である若松親方と関ノ戸親方。浴衣の柄でも想像つくように性格もけっこう違うが、同級生の同期入門にしては珍しく(?)仲がいい。お互い「おれが大人だから合わせてやっている」といい合っている所なども、息がピッタリである。
平成17年10月6日
同期生というと、仲間というか仲がいいものだという感覚があると思うが、そうでない場合もけっこうある。とくに同じ部屋同士だと24時間顔を突き合わせているということもあり、ライバルという意識もあり、足の引っ張り合いになったりで、仲のいい例の方が珍しいような気がする。ただ、和気あいあいという環境よりもケンカしたりの環境の方が、ここ一番の闘争心を育てるのにはいいような感じもある。人間の心や強さの難しさが複雑に絡んでしまうが。しかし、別の部屋の同期生とは、距離がある分けっこう仲がいいものである。ただこれも、あまりに番付が違いすぎると微妙なものになってくるが。
平成17年10月7日
毎年春場所には100人近い新弟子が入門するが(最近は100人になかなか届かないが)、3,4年もすると半分くらいの人数になり、少し兄弟子にもなるから、同期生会などもやりはじめるようになってくる。もっとも年度によって違いはあり、誰か音頭をとって幹事をやるやつがいないとダメだが。10年もたつと、残っている人数も数人から10数人ほどになり、ますますつながりは深くなってくる。その中から関取に昇進するものが出てくると、残った同期生一同で明け荷を贈ることになっている。
明け荷もいまは10万円ほどするから、同期生が少ないと大変である。
平成17年10月8日
明け荷とは竹で編んだ行李(こうり)のことである。行李といっても、現代の日本からは殆ど姿を消しているから知らない方もいるかもしれないが、今風にいえば衣装ケースである(用途的にはトランクだが)。大きさは、縦45cm、横80cm、高さ30cmほどで、編んだ竹の上に和紙をはり、そこに漆と渋(渋ガキの絞り汁を集めた赤黒い液で、防虫用に塗るそうである)を塗り固めるそうである。竹で編んでいるといっても、骨組みには木を使い、ヘリにはカネも使ってあるから、かなり頑丈で、重さもけっこうある。
平成17年10月9日
明け荷の色は全て同じで暗緑色である。横面には、2cm幅ほどの太さで朱色の枠が三つ書かれ、その中に同じく朱色で四股名が入る。縦面はぐるっと一枠で、片方には贈り主「贈 同期生一同」などとはいり、もう片方には、「博多 小川屋調製」などど製造元がはいっている。新十両の明け荷は、まだ塗料の匂いが強く、いかにも新十両という新鮮さがある。枠は三つなので、朝青龍とか泉州山はちょうどはまるが、闘牙のように2文字の場合は真ん中に家紋のような 紋様を入れて枠を埋める。千代の富士のように5文字もあると、千代富とはいり、「の」と「士」は「代」と「富」の枠の隙間に小さく書かれる。
平成17年10月11日
明け荷の中には、化粧回し、締め込み、スリッパ、包帯やテーピング、下がり、ドロ着(浴衣)、テッシュ、などなど相撲を取る為の七つ道具が入るからけっこうな重さになる。更に巡業の時は、トレーニング用のおもりなども入れるときもあるから、非力な新弟子では担ぎ上げるのも容易ではない。たまに、担ぎ上げたと思ったら、そのまま後ろにひっくり返ってしまう新弟子もいるほどである。明け荷が楽に担げるようになると巡業要員としても一人前である。徳之島出身で今年の5月場所に引退した元北の湖部屋の島虎というおすもうさんは、その重い明け荷を担いだまま、トラックの荷台(大型である)から飛び降りるという驚異的な芸当を持っていた。
平成17年10月12日
時代柄か、お相撲さんの武勇伝もめっきり聞かなくなったが、島虎は、数々の武勇伝やら伝説やらを残して引退していった。生まれは、徳之島でも有名な伊仙町の出である。徳之島高校を卒業後(妹と同級生であったが、高校生の頃から有名だったらしい)、自衛隊に2年いった。しかもレンジャー部隊にも所属したそうである。そのころ習得したホフク前進は、飲むと必ずといっていいほどやっていた。
ラスベガス公演組帰国。
平成17年10月13日
今回のラスベガス公演の会場内での司会は小錦氏が務めた。小錦氏が現役時代付人をやっていた皇牙、ラスベガスでも3日間弓取り式を行って公演を締めた。昨年6月の中国公演(6月13日参照)では、お客さんの反応は今ひとつだったそうだが、今回のラスベガスでは、小錦氏がマイクでいろいろ説明してくれて、四股を踏む時も、「ワン、ツー、スリー、ヨイッショー!」と掛け声をかけてくれたそうで、お客さんも一体となって、ものすごい盛り上がりだったそうである。
平成17年10月14日
ショーの本場であるラスベガスでは、観客もプロであるようで、公演中最高の盛り上がりがつづいたそうである。高見盛のパフォーマンスに足を鳴らし、投げ技や、激しい突っ張りにも熱狂的な拍手歓声が会場を揺るがせたそうである。皇牙によると、弓取式でも今まででやった中で最高のもりあがりだったそうで、やる方も最高に気合がのって、いい仕事ができたそうである。パンフレットでは、弓取式は“bow dance”と紹介されている。
平成17年10月15日
国技館内にある相撲博物館にて「相撲と芸術家」という展示会が開かれている。相撲を愛した芸術家たちと、その相撲に関わる作品群が展示され興味深い。松林桂月や前田青邨画による化粧回し、力士像の彫刻、掛け軸、斎藤茂吉や夏目漱石の中の相撲・・・・。先だって、漱石の弟子である寺田寅彦の相撲に関する随筆を紹介したが(7月28日 )、夏目漱石も相撲好きだったようで、随筆や小説「それから」の中にも相撲が登場している。
平成17年10月16日
歌人斎藤茂吉と“文ちゃん”こと206cm、195kgの巨人力士出羽ヶ嶽文治郎のつながりは、相撲通には良く知られたところである。生まれが同じく、山形県は上山市だそうで、斎藤茂吉が養子となった郷里の先輩青山脳病院院長斎藤紀一のもとへ少年だった出羽ヶ嶽も引き取られ(あまりに体が大きすぎて、どこへいっても奉公を断られたそうである)、本人も医者志望だったそうだが、常陸山の出羽ノ海にスカウトされ、断りきれずの入門だったようである。明治15年生まれと明治35年生まれであるから、年の離れた弟のような目で出羽ヶ嶽の土俵を見ていたのであろうか。晩年怪我をして、三段目まで陥落したときに歌ったのがつぎの歌である。
「番付もくだりくだりて弱くなりし出羽ケ嶽 見に来て黙しけり」
平成17年10月19日
今回のラスベガス公演には、親方が責任者だったということもあって、裏方も高砂部屋から多数参加していた。先発隊での土俵築には 呼出し利樹之丞が中心メンバーとして腕を振るったし、公演の事務一般や場内アナウンスは行司の勝次郎が務め、土俵進行係は若者頭の伊予櫻が行い、荷物の運搬や管理などには世話人の總登さんが、という具合で、高砂部屋主体でで運行したようなものでもある。
公式パンフレットにも高砂部屋の稽古風景や、綱打ちの模様、さらにはちゃんこの紹介で、ちゃんこをついでいる福寿丸と一ノ矢の写真までもが掲載されていてビックリしてしまった。
平成17年10月20日
巡業や公演での室内での土俵は、組み立て式の枠組みがあって、その中にある程度土を入れれば出来上がるようにはなっている。ただ今回、砂漠の中にある都市のラスベガスなだけに、土といっても殆ど砂のような土しかなく、いくらタコ(土俵をつき固める道具)でついても固まらなかったようで、テレビでも紹介されたようにセメントを混ぜて何とか固めるという具合だったそうである。ただやっぱり出来上がると、セメントだけにどうしても固くなり過ぎてしまい、力士にも事情を説明して注意を呼びかけと、土俵築に携わる呼出しとしては、土俵築から公演終了まで苦心の連続だったようである。
平成17年10月21日
朝乃若引退断髪式ならびに若松襲名披露パーティーの詳細が大方決まった。来年初場所後の平成18年1月28日(土)午後2時から国技館土俵にて断髪式を行い、若松襲名披露パーティーは、同日午後5時から国技館内地下一階の大広間にて行う。断髪式は、部屋関係者のみの催しとなるが、5時からの襲名披露パーティは一般のお客様も参加可能となっている。
平成17年10月23日
先発隊7人(一ノ矢、大子錦、高稲沢、朝ノ土佐、朝君塚、朝野澤、朝奄美)福岡入り。名古屋、大阪への先発は新幹線だが、福岡だけは飛行機での乗り込みとなっている。9時20分発の福岡行き搭乗口へ向かうと、境川部屋一行15人も同じ飛行機で、おすもうさんだらけである。けっこう空いている便だったから余裕をもって座れよかったが、大子錦と朝ノ土佐の二人は、肘掛を上げ、延長ベルトをつぎ足しての座席である。境川部屋のマネージャーは、元出羽ノ海部屋の十両出羽嵐という巨漢力士だったが、さすがに今は現役時代よりは多少肉も落ち、延長ベルトなしで座れていて、「さすがによかた」になっている。
平成17年10月25日
突然の訃報におどろいた。元若松部屋の床山だった床義さんが亡くなられた。床義さんは「よっさん」の愛称で親しまれ、床山として協会に在籍中は、いいとこ売りで有名だった。若松部屋日記でも何度か紹介したように数々の伝説を残して相撲協会を去っていって、田舎の都城で悠々自適の生活を送っていて、九州場所の折には博多に出てきて昔話に花を咲かせ、今年もそれを楽しみにしていたのに残念である。謹んでご冥福をお祈りいたします。合掌。
平成17年10月28日
床義さんの同級生が"板坂君! 大相撲床山人生 放浪記"と題して 床義さんのホームページをつくってくださっている。「なんとも、ハチャメチャで ユニークな人生を送ったもんだよこの男 !! 今は相撲協会を退職して都城にいるが、相変わらずの旅暮し。まるで風転の寅だね !!」という口上で、若かりし頃の、昔なつかしの、床義さんのアルバムを掲載している。
先発隊、稽古場の土俵が完成。部屋やちゃんこ場のセッティングもほぼ完成し、あす四国からの巡業乗り込みを待つのみである。
平成17年11月2日
床義さんのホームページには、部屋ホームページの日記で床義さんに関することが書かれている話が集められている。両国のラーメン屋「みやもと」の話からよっさんの話がはじまったようだが、2月10日に書いている、ファイティング原田のサインの話は、現プロレスラー嵐こと元高田川部屋卓越山と元高砂部屋の奄美富士の二人と一緒に飲みにいったときの実話で、福井県の地方都市での巡業でのことだったそうである。
平成17年11月5日
当時幕下上位だった卓越山、奄美富士の両力士は共に190cm近く、150kg超の堂々たる体躯で、三人でふらりと場末のスナックにはいったそうである。田舎町の飲み屋で、おすもうさんを生で見るのも初めてだったから、ママさんも興奮して大歓迎だったそうである。そして一緒に来た「よっさん」にも「あ、あなたもどこかで見たことある」と言ってきたそうである。そこで、「よっさん」が、「え、わかる?」といいつつシャドーボクシングのマネをすると、「あ、やっぱり」「ファイティング原田さん」と大喜びで、「サインして」と色紙まで差し出されたそうである。
平成17年11月6日
場のノリで、差し出された色紙にファイティング原田とサインして気分よくガンガン飲んだそうである。酔いもかなり回ったころ、ママが友達にも「ファイティング原田さんが来ているから」と電話すると、友達も来てサインをせがまれたが、酔っ払いすぎてカタカナの「ファ」が思い出せなくなったそうである。最初に書いた色紙を見ようとしても棚のボトルに隠れて見えない。苦し紛れに「きょうは酔っ払ったからもうサインはしない」そう言って写真だけを撮ったそうである。もちろん飲み代はタダになったらしい。
本日夕方、今年3月におきた福岡沖地震で被害にあった玄海島島民の避難施設でちゃんこ200名分を炊き出し。
平成17年11月8日
夜もふけ、店のママと友達は大喜びで、知り合いのお寿司屋さんもボクシングが好きだから店を閉めてお寿司屋さんに行こう、ということになったそうである。スナックはまだ照明が暗いから何とかごまかせたが、寿司屋は明るいので「やばいかな」と思ったそうだが、酔いも手伝って結局行くことになったらしい。運よく(?)カウンターが満席で、座敷で食うことになったそうである。大将は、カウンターの中で握りながら時々座敷をのぞいてくるらしい。その度に、体勢を変え、柱や障子の陰になり、冷や冷やものだったそうである。結局寿司屋もごっちゃんになり、ファイティング原田の夜がおわった。次の日の巡業ではこの話でもちきりだったそうである。
平成17年11月10日
場所前恒例の高砂部屋激励会がホテルニューオータニ博多で行われ、後援会関係者を中心に約250名ほどが参加。平成17年締めくくりの九州場所に、史上初の7連覇と年6場所完全制覇を目指す横綱朝青龍をはじめとする高砂部屋力士一同の11月場所での活躍を祈願。
平成17年11月11日
昭和58年3月、相撲取りになりたい一心で大阪にでてきて、巡り巡って入門を許された元房錦の若松部屋は、東住吉区の北田辺にあった。前年まで河内長野で宿舎を構えていたそうだが、この年から鈴木さんという方の家をお借りしての大阪場所であった。昭和58年から今の親方に代替わりする平成2年の前年までの7年間、この北田辺の鈴木宅を宿舎として多い時には15人ほどが寝泊りし、鈴木さんには本当にお世話になった。その鈴木さんが先日亡くなられ、本日告別式が営まれた。先週の床義さんにつづき、また一人若松部屋に深く関わった方が亡くなり、いよいよ若松部屋も遠くになりけり、という感である。
平成17年11月12日
告別式には、北田辺の若松部屋宿舎の近所の薬局のご主人や、酒屋の大将、当時小学生だった鈴木さんの甥っ子姪っ子ももちろん参列していて、それこそ 15,6年ぶりの再会の方もいた。さすがにあまり昔話に花を咲かせる時間もなかったが、15,6年ぶりの顔を見れただけで往時がしのばれてくる。そういう方々の中にこそ、元房錦の若松部屋は今もいきているのかもしれない。触れ太鼓が初日の割を告げ、すこし冷え込みも出てきて、初日を迎える柝の音が鳴り渡ってくるようである。
平成17年11月13日
宿舎成道寺(じょうどうじ)の近所に藁巣坊(わらすぼ)という店がある。居酒屋であるが、定食もありギョウザが絶品で、力士や部屋関係者もよく出入りしている。夜、朝陽丸を誘ってのぞいたら、先客で皇牙が食事中であった。ビールの勢いもあって「こっちにつけといて」と飲み食いしている所へ、床寿さんが現れた。三人でさらに追加して飲んでいると、今度は 関ノ戸親方の登場である。結局、床寿さんが全部もってくれるのだが、話の流れの中で、朝陽丸が番付が落ちたことの話題も出て、「明日は負けることはないだろう」「もし明日負けたら今日の勘定、朝陽丸に払ってもらう」ということになった。ふつうに晩飯をおごって貰うだけだった朝陽丸、明日の一番には5人分の飲食代がかかることとなった。
平成17年11月14日
九州場所が寒くなくなったのはもう当たり前のことになっているが、今年も例年以上に、日中は寒くないというより暖かな日がつづている。逆に、九州場所開催中の国際センター館内は空席が目立ち、寒々とした冷え込み様でさえある。明日からは本来の九州場所らしい冷え込みになるそうなので、国際センターの方は熱気が戻ってきてほしいものだが。
平成17年11月15日
昨日の相撲に負け、藁巣坊の飲食代2万円を床寿さんに持っていった朝陽丸だが、床寿さんの「千円でいいよ」という言葉に胸をなでおろしていた。その床寿さんへの恩返しもあったのか、今日の取組では会心の相撲での初白星。あす以降、リズムにのっていい相撲を取ってくれることであろう。ようやく九州場所らしい冷え込みが襲ってきたが、国際センター館内も相変わらずの冷え込みようである。
平成17年11月16日
勝負師である力士にとっては、お客さんもゲンかつぎのひとつになることが多々ある。体重210kgと、日本人の中で最重量を誇る福寿丸、九州場所でおなじみの“やっさん”が来ると今まで勝ったためしがないそうである。今日仕切っていたら「ふくじゅまるー!」と大声が聞こえたものだから、目をやると“やっさん”の顔が目に入ったそうである。見た瞬間、「あちゃー」と思ったそうだが、案の定、小さい相手に蹴返しで負けてしまい、大いに館内を沸かしたそうである。その福寿丸、明後日の取組は、安治川部屋の安寿との対戦。こちらも190kgの巨漢で、合わせて400kg超。文字通りの肉弾戦となる。
平成17年11月18日
“やっさん”の息子の“けんと”も中学生になった。相変わらずの九州場所は部屋に入り浸りの毎日である。先週土曜日から泊まりに来て、週明けの火曜日まで部屋にいた。水曜日久しぶりに学校に行って、先生に相談があると、先生と相談室に入ったそうである。
最近休みの多い“けんと”、先生はイジメにでもあってるのかと心配したそうだが、けんとが「先生、ボクは赤ん坊の頃から九州場所の時は相撲部屋で生活していて、ちゃんこ番も手伝わなければならないし、忙しいから学校にはたまにしかこれません。相撲部屋では学ぶことがいっぱいあります。」「そのかわり、九州場所が終わったら一日も休まず学校に行きます」と言ってきたものだから、先生もけんとの決意に負けて納得してくれたそうである。話のわかる先生である。福岡の教育界はなかなかのものであるかもしれない。
平成17年11月21日
ここ数日、朝の冷え込みが厳しくなってきた。6時半前になってようやく明けるが、その前後が一番冷え込む感じである。その一番冷え込みの厳しい時間に元朝嵐の振分親方は毎朝稽古場にやってくる。市内のホテル泊まりだが、朝五時に起きて大濠公園を散歩して、それから自転車を漕いでやってくるそうである。稽古場に入ってくるなり「クーラー入れろ!」と言いながら窓を全開である。そのあと自らジョウロで土俵に水をまき、若い力士に声をかけ、現役時代の四股名の通り、朝の嵐で稽古場を去っていく。還暦を過ぎ定年(65歳)も間近だが、まだまだ元気一杯の親方である。輝面龍、若い衆で第1号の勝ち越し。来場所幕下復帰である。
平成17年11月22日
幕下で期待の大ホープ境川部屋の澤井豪太郎、今場所は5連勝と大物ぶりをいかんなく発揮している。出身が大阪で、小学生の頃からアマチュア相撲では高名な古市道場の出身である。同じく古市道場出身の朝陽丸、高校横綱を取った高校生の頃、澤井は小学生で、よく胸を出したりもしたそうである。今日は自分の取組の一番前、土俵下で大きく成長した後輩の姿を見守りつつ、不思議な、複雑な、心境だったそうである。今日敗れて2勝3敗となった朝陽丸、来場所からは番付も逆転してしまうが、逆境に追い込まれてからが朝陽丸の本領発揮である。いつか幕内の土俵で、古市道場出身同士の対決が見られることを期待したい。
三段目神山勝ち越し。
平成17年11月23日
本場所の土俵は力士だけでなく、行司や呼出しにとっても勝負の場である。とくに勝負を裁く行司は、差違えをすることは大変なこと(星という)である。幕下格行司の勝次郎、一日に5番の取組を裁くことになっているが、昨日の土俵で、いきなり最初の取組で差違えをしてしまったそうである。ここ最近の多忙による疲労もだいぶ溜まっていたのであろう、動揺もあって、続く一番も差違えて、2番連続の星となってしまったらしい。最初の一番は際どかったからまだしも、二番目は明らかな誤審で土俵下の審判からも散々に言われ、五番全て間違えるのではと、不安にかられるほどだったそうである。部屋に帰ってきて呼出しから慰められ、力士からも冷やかされつつ慰められ、今日は無事立ち直ったようである。
平成17年11月25日
今日千代大海が負けて横綱が勝つと優勝が決まる為、優勝の鯛を持っての乾杯の準備を用意する。鯛は後援会の大観荘の社長にお願いして用意してもらい、お寺の本堂の前にテーブルと座布団を用意して取組を待つ。千代大海が勝った時点で今日の優勝はなくなり、用意したもの全ての撤収作業にはいる。明日もまたあるから、鯛の箱に氷をビッシリつめて、報道陣用に用意したオニギリはおすもうさんの腹の中に消え、テーブルやテーブルクロスも片付け、明日の予行演習を終える。朝花田勝ち越し。後がない闘牙、関取の座どころか、十両優勝の可能性も大いにでてきた。
平成17年11月26日
歴史的偉業達成となった優勝決定。宿舎成道寺に戻って鯛を持っての乾杯。記念撮影後、知人と博多で有名な料亭“稚加榮”(ちかえ)での食事。別館での席だったが、本館の方に大鵬さんが来ているということで本館の方へ挨拶に出向く。本館は真ん中に大きな生簀があり、生簀を囲むようにカウンター、座敷と180席ほどもあるそうだが、そこに優勝を決めたばかりの横綱朝青龍登場ということで、ほぼ満席の本館が大きな歓声に沸き上がった。大鵬さんに優勝の挨拶をして7連覇記念に頂いたケーキを囲んで記念撮影。お客さんからもフラッシュが盛んに焚かれていた。泉州山2勝7敗からの5連勝で7勝7敗まで星を戻す。闘牙、十両優勝争いの単独トップとなる。
平成17年11月29日
千秋楽が終わり、昨日から1週間稽古は休みとなる。ただ地方場所は、宿舎の後片付けや幼稚園、施設の慰問やらもちつきなどとけっこう忙しい1週間でもある。毎年恒例となっている地元唐人町商店街でのチャリティーちゃんこも本日午後4時より行われる。商店街に長蛇の列ができ、大鍋6杯分の約600食が完食。
平成17年12月3日
先日亡くなった床義さんこと“よっさん”にお線香をあげに都城まで行ってきた。3年ほど前にお母さんが亡くなり一人暮らしだったので、死後発見されるまで数日かかったそうで、寂しい最後だったのかと心配していたが、同級生の一人に連絡を入れておいたら、よっさんの自宅に10人ほども同級生が集まってくれていて、アルバムを出してよっさん話に花が咲いた。ふるさと都城でも人気者だったようで、月に一回は開いていた同窓会でも常に話題の中心だったらしい。お通夜やお葬式でも同級生や近所の人がみんなで送ってくれたそうで、いまでもみんなの心のなかで“よっさん”が息づいている
平成17年12月4日
一ヵ月半にわたった福岡より帰京。朝、宿舎のお寺を再度大掃除。木曜日、九州に残していくトラック3台分の家財道具一式を基山の倉庫になおし、昨日お昼東京行きの荷物を約100個、コンテナ便で送り、ゴミもあらかた出し終えたはずなのに、まだまだゴミが湧いてくる。結局70Lのゴミ袋が10個ほども山になってしまった。収集は夜なので、裏門の内側に積み、お寺の奥さんにお願いして一ヵ月半お世話になった成道寺(じょうどうじ)を後にする。やっさん家族も最後の最後まで、掃除から引っ越し、見送りと手伝ってもらい、中学生になった“けんと”もさすがに泣くことはなくなったが、少し涙目である。明日から 稽古再開。
平成17年12月6日
朝乃若引退断髪式並びに若松襲名披露パーティーの詳細が決定しました。平成18年1月28日(土)午後2時より国技館土俵にて断髪式(受付は1時30分より)、パーティーは国技館地下一階の大広間にて午後5時より開催。断髪式でハサミを入れられるのは関係者のみですが、パーティーはチケット制で一般の方も参加できます。 チケットがある方は断髪式の見学もできます。
平成17年12月9日
今月の歌舞伎座は、玉三郎、勘三郎の豪華共演の舞台となっているが、演目が「船辨慶」(ふなべんけい)という能の同曲を歌舞伎舞踊化したものだそうで、玉三郎の見事な舞が堪能できる。能からの歌舞伎だけにスリ足による動きが多々見られるが、まるで舞台の上を滑るように、腰や上体がまったくぶれないその動きは、歩くというよりも、運ぶ、という表現の方がふさわしいように思える。
平成17年12月11日
能の舞台は数ヶ月前に初めて観たが、スリ足が印象的であった。能楽師安田登氏が月刊『秘伝』誌(BABジャパン)の中で何度か能の立ち方やスリ足について解説しているが、深層筋である大腰筋(だいようきん)を使うことの大切さを度々説いている。能のスリ足では、足裏を床から離さず、擦るように歩くのは当たり前だが、つま先は自然に上がる。その時、指先だけが上がらないように、カカトを支点として足裏全体が上がるのが、大腰筋を活性化させるためのコツ、になるそうである。
平成17年12月12日
一方、相撲でもスリ足は基本として、四股同様大切な動作として捉えられている。ただ相撲の場合、カカトが上がってしまうのはよくないが、つま先が浮いてしまうのもよくないという認識が強い。指先に力を入れろ、特に足の親指が大事だという指導が常識である。
能と相撲は違うといってしまえばそれまでだが、能のように体の中心の筋肉(大腰筋)を使って体を運ぶという、体、筋肉の使い方としての問題よりも、土俵から足裏を離さない、バタバタしないという 、体の中の筋肉をいかに使うかというよりも、足裏で土俵を踏ん張る、押すという、動作のためのスリ足として考えているように思う。
平成17年12月13日
「電車道」という相撲用語がある。一直線に相手をもっていくことで、その時土俵の上にスリ足の跡が、電車のレールのように並行に2本できることから言う。最近は仲間内では「しゃみちで勝ったよ」などと省略して使うことの方が多い。その場合、電車道の足跡は、親指もしくは拇趾球(ぼしきゅうー親指の付け根の盛り上がった所)でできた跡である。稽古のスリ足の時の足跡ももちろんそうである。教える方も教えられる方も、つま先を浮かさないように気をつけて、カカトが多少浮いてしまうのはやむをえないとしているところがある。それ故、足裏の拇趾球あたりがよくすりむけ、テーピングで巻いたりする。また足袋もその部分が真っ先に穴があいてしまう。
平成17年12月15日
能と相撲のスリ足の違いは、その足幅(両脚の間隔)によるものかもしれない。相撲は両脚を広げて動くのに対し、能は両足を揃えた状態で歩く。足が重心のほぼ真下にあるため、重心(ハラや丹田、大腰筋周辺)で足を操作しやすいということは言えるかもしれない。足を広げることにより、止まっているときの安定感は増すが、重心(体の中心)からは離れ、足を動かすことによって重心も動いてしまう。動く時にはかえって不安定になってしまうのかもしれない。コンパスの軸をもって脚を動かすか、コンパスの脚の先をもって軸を動かすか、の違いになるのだろう。どちらが動きとして効率的で無駄がないかは言うまでもないことであろう。
平成17年12月16日
月刊『秘伝』2003.5号(BABジャパン)の記事によると、もっとも理想的な身体、バランスは「能楽師や日本舞踊家」だということである。体育学の権威、東海大学教授田中誠一氏の話である。歩行における重心や前後左右のブレに関する研究は論分や科学的測定がかなり進んでおり、能楽師のスリ足での歩行は、人間の動きの中でもブレの少なさが最たるものだそうである。身体がブレないということは、スポーツやあらゆる競技においても重要なことで、パフォーマンスを決定づけるかなりの要素をしめることは間違いないことであろう。
明日明後日、日本相撲協会80周年記念式典が国技館にて行われる。
平成17年12月18日
財団法人日本相撲協会設立80周年記念のファン感謝祭で、国技館内でサイン会や記念撮影、もちつき、ちゃんこ、じゃんけん大会、抽選会、土俵入りやら 髪結い実演、相撲体操、行司部屋や支度部屋の公開・・・・などなど様々なイベント、展示、公開が行われ、実に1万9千人のファンが来てくれたそうである。西の支度部屋で髪結い実演のモデルだったが、間近でちょん髷を結うのを見るのは初めてという人が殆どで(あたりまえだろうが)興味深く、びんつけ油の匂いを嗅ぎながら、床山さんや力士にいろいろと質問をして楽しんでいた。また、支度部屋のトイレや風呂も珍しげに見回っていた。こういう催しは、これからもどんどん続けていくべきであろう。
まだまだ大相撲人気も捨てたものではないと実感できた一日であった。
平成17年12月19日
きのうの感謝祭、西支度部屋の奥には横綱朝青龍の三つ揃えの化粧回しと雲龍型の横綱、太刀が展示されていて、その両脇に皇牙と大子錦が座って監視係を朝9時から終了の4時半まで務めた。弓取式で全国に顔が売れている皇牙、見学のお客さんから写真を撮られたり、握手をせがまれたり、ざっと200人以上の人に声をかけられていたそうだが、反対側の大子錦、同じく6時間座っていて(お客さんへも大子錦の方が若干近かったそうだが)写真を撮られたのは幼児2人とおばあちゃんの合計3人だけだそうである。そんなことを今朝こぼしていた。
平成17年12月20日
年末恒例の高砂部屋激励会&クリスマスパーティーがホテルニューオータニにて行われ、後援会を中心に約400名ほどのお客様が集い、平成17年の横綱の偉業を讃え、来年へ向けての景気づけとする。井上美悠紀東京高砂後援会会長のご挨拶で幕を開け、ディナータイムのあとショータイムとなり、おなじみの古都清乃やロスインディオスの棚橋梓津夫に加え、今年はデュークエイセスと山川豊も登場して宴に華を添える。子供達の待ちに待った親方サンタによるクリスマスプレゼントや高砂部屋グッズの抽選会もあり、賑やかなうちに閉会となる。明日が初場所番付発表。
平成17年12月21日
新番付発表。朝神田、朝奄美は、先場所序ノ口で全休した為、今場所は番付外となって番付に名前は載らない。今場所も全休の予定である。
平成17年12月25日
年末恒例のもちつき。前日から用意した240kgの餅米を午前8時頃からつきだす。8時半頃からはお客さんもボチボチと来だすが、9時過ぎ頃からドドドーッと溢れんばかりのお客さんで、稽古場でのもちつきを見学する上がり座敷はもちろん、2階の大広間でのちゃんこも座りきれないほどの人・人・人である。受付や土産の伸し餅を渡す係りの裏方おかみさん連、見物のお客さんに餅やお茶をだす江戸川区大ちゃんクラブの奥様方、ちゃんこ場で250人分のちゃんこを作るちゃんこ番、2階で給仕をする面々、みんな大わらわの忙しさである。ようやく一息ついたのはお昼の一時頃になってのことである。明日は、横審の総見稽古。
平成17年12月27日
以前何度かこの日記で紹介した、股関節トレーニングの第一人者である筑波大学白木仁助教授が、シンクロの井村元コーチらと共に稽古見学に訪れる。白木助教授が提唱している「腰割り」は、いろいろなスポーツの現場で取り入れられているようで、動きが良くなったと効果がかなり上がっているそうである。来年早々に今までの研究結果をまとめて発表するそうで楽しみである。
さらにこれから、テッポウとスリ足に関しても科学的研究を進めていくそうで、 研究を深めるたびに大相撲の伝統の深さとその合理性に感嘆するばかりだそうである。
平成17年12月29日
平成14年6月に行われた徳之島合宿に同行してマワシを締めて一緒に稽古したスピードスケートの今井裕介選手が、長野、ソルトレイクに続き3度目のオリンピック代表に選ばれた。1000mと1500mの2種目での代表である。トレーニングに四股を取り入れたりして高砂部屋としても応援している選手で、スーツには高砂部屋のロゴも小さく入っているそうである。今季は長野、トリノと2回の世界選手権で表彰台に登っており、2月の本番が大いに期待される。
平成17年12月30日
昨日で今年の稽古納めとなり、一本締めにて解散。大掃除をしておかみさんにお年玉を貰い実家へ帰省するものは次々と姿を消していき、2階の大部屋も広さが増していくようである。新年は3日が稽古始め。4日は綱打ちで5日が明治神宮奉納土俵入り、8日の初日を迎えることになる。
平成17年12月31日
平成17年大相撲は、朝青龍に始まり朝青龍に終わった一年だったが、横綱以外の高砂部屋の一年を振り返ってみたい。1月関取5人、力士総数24人だったのが3月場所後の朝乃若の引退で関取4人となり、朝迅風、熊ノ郷の引退もあり、また朝光、朝神田も名前はまだ残っているものの引退がほぼ決定的で、1年で5人が土俵を去っていった。新弟子は朝野澤、朝奄美の二人だけで、差し引きマイナス3人と寂しい一年となっている。朝乃若に代わる新十両も期待されたが、塙ノ里、朝陽丸、皇牙と、今一歩のところまではいくが果たせずに持ち越しとなっている。来年は底上げが急務だが、まだまだ辛抱の年になるかもしれない。
幕下以下での年間最多勝は24勝の皇牙、2位が23勝の朝花田、3位が22勝の神山。この3人には金一封が贈られた。
過去の日記一覧へ