平成18年4月1日
大阪へ残っていた力士たちも全員明日の巡業地の伊勢へ上本町から近鉄電車で移動。巡業へ行かない力士は新幹線で帰京。きょう限りで大阪からおすもうさんの姿が消えてしまうことになる。十両昇進を決めた皇牙、水曜日の記者会見のあと郷里福岡県直方市へ凱旋帰郷していたが、故郷から直接巡業地へ。その皇牙が付人を務めている闘牙、来場所は幕下陥落が決定的となっているが、来場所以降も現役続行となる。腰の治療に努め、元小結の意地を、もういちど見せてもらいたいものである。
平成18年4月2日
おすもうさんの健康診断は2月と8月の年二回行われるが、その結果は細かいデータが記されて個人に還ってくる。身長、体重から始まり、心電図、胸部X線、尿検査、血圧、血糖値、肝機能、腎機能、コレステロール、血液検査・・・などなど31の項目について検査結果の数値が示され、基準値(力士用だが)から上回っているものに対しては蛍光ペンで赤線が引かれ、一番下部に判定結果がA-1とかBー2とかCとか示される。数値に異常なしは、Hの判定である。判定結果の返ってきている14人中6人がH(異常なし)の判定。異常ありの8人の結果を見てみると、一番多いのが高血圧とアルコール性肝炎もしくは脂肪肝が4名、高脂血症も3名と多い。ただし糖尿病に至っているのは一人もいない。その中でも2名は異常項目5個ずつもあり、判定欄にA-1とかCとかE-2とか文字が並びまくっている。内臓疾患のオンパレードである。異常なしのH判定でも数値がギリギリの所にには赤線が引いてあるが、その注意赤線もない全くの健康体は一ノ矢のみである(エヘン!)。毎晩の内臓消毒が効果的なのであろう。
平成18年4月3日
久しぶりに重力に関してである。そもそもこの宇宙には四つの力しかない。「重力」「電磁気力」「弱い力」「強い力」の四つである。「弱い力」「強い力」とはあまり聞きなれないと思うが、原子核内でのことだから実際の日常生活では感じることはないし、関係ない(人間の形自体をつくっている力ともいえるから関係ないことはないが、動きや生活には関係ない)。「電磁気力」は学校の理科の授業等でおなじみであり、日常生活にもかなり関係している。さて肝腎の「重力」は、他の3つの力に比べると比べ物にならないくらい小さな力だそうである。
平成18年4月4日
学校でも理科離れがいわれて久しい昨今、「重力」などという話をだすと嫌がる向きもあろうとは思うが、相撲ほど重力に関わりのある競技もないと思うので、しばしお付き合い願いたい。ここから話をどう展開させるのかの見当はまったくついてもないが・・・。
「重力」や「四つの力」についてネットで調べて多少なりともわかったことは、「重力」には大きな特徴が二つあることである。一つは無限大ともいえるほど遠距離まで力が働くことで(「強い力」や「弱い力」は原子核内での距離でしか働かない)、もうひとつは常に引力だということである(電磁力は+と-があるから打ち消しあってしまう)。それゆえ、他の3つの力に比べるとゼロにも等しいほど弱いのに、それが積み重なって一番影響のある大きな力となっている。
平成18年4月5日
「重力」や「重さ」とは、そもそも一体なんなんだろうと考えるためにここ数日書いている。同じ100kgの体重でも軽く押せる力士と、重くてびくともしない力士がいる。筋力の違いももちろんあるだろうが、びくともしない力士ほど力を入れずに押させない。おなじ人間でも、意識のあるときと、泥酔して意識を失った時では重さが何倍にも感じられるほど違ってしまう。(たまに一緒に飲む某部屋の某親方で最近よく体験している)それでおもうのは、泥酔して意識を失った時の重さが、本来人間にかかっている重力で、ふだんは意識がそれを打ち消して軽くしてしまっているのではないか?ということである。
平成18年4月6日
人間が二本足で直立するということは奇跡に近いほど難しいことらしい(人間本人には当たり前すぎてあまりそんな意識はないと思うが)。それは、この地球上で人間以外なしえていない、ということからも想像には難くない(レッサーパンダで話題にはなったが)。それが歩くとなると、なおさら難しさはとてつもないことになってしまう(アシモ君などロボットの歩行の成功にはものすごい年月がかかった)。
歩くだけでも難しいのに、そこに相手からの押すとか引くとか投げるとかいう色々な方向からの圧力が加われば、立っていることは益々もって難しいことになってくる。それが相撲の難しさであり、面白さであり、深さであろう。
平成18年4月8日
すっ転んでしまった。いつも部屋のパーティーとかで司会をやってくれる三遊亭小金馬師匠の落語を聴きに鈴本演芸場へ行ったときのことである。ちょっと下り勾配の通路を雪駄で歩いていると、通路の磨きが良かったのか、見事に滑ってドーンと転んでしまった。舞台では落語の真っ最中で、満席ではなかったものの客席の視線が一斉に舞台から後ろへと向いた。恥ずかしさと情けなさで痛みも忘れるほどであったが、久しぶりに重力を思い切り感じた瞬間でもあった。そんなに頻繁に滑って転んだことがあるわけでもないが、滑って転ぶ時は、本当に一瞬である。そのスピード、その勢い、どれもがすさまじい。「重力」「重さ」を100%使い切った動きといえるのかもしれない。
平成18年4月9日
この宇宙には「四つの力」しかない。というか、実際の生活では「重力」と「電磁気力」の二つしか感じることはできない。浮力や、反発力(作用・反作用といった方が馴染み深いかもしれない)は重力によるものだし、では筋力はどうなるかというと、脳からの電気信号によるものだから電磁気力の一種になるであろう。立合いのぶちかましは、筋力即ち電磁気力によるものだろうが、常に重力はかかっているわけで、重力との合力になるのであろう。双葉山の立ち合いを考えてみると、電磁気力(筋力)は最低限で、重力を最大限に使っているように思われる。
平成18年4月12日
4月24日(月)の番付発表の日から晴れて関取となる皇牙、関取としての準備を着々とすすめている。化粧回しは、おかみさんのお父さんであるコノミヤの芋縄会長から贈られることになり、会長発案で、皇牙弓取りの絵を漫画家のやくみつるさんに書いてもらって、その弓取り似顔絵が化粧回しなるというユニークな図柄である。関取になっても続ける予定の弓取式では、勝力士に代わっての舞いということで、今まで通りの相撲協会の化粧マワシを締めての弓取式になるそうである。
平成18年4月13日
また関取になると、幟を揚げることができるが、幟は、やくみつるさんの奥さんの友人であるNHK「お江戸でござる」でおなじみの女優重田千穂子さんから贈られることになっている。それに締め込みや紋付袴一式、白の稽古マワシ、明け荷・・・・全て揃えるのには相当な金額もかかるが、そこはベテランでもあり弓取りで顔が売れていることもあり、順調にすすんでいるようである。
平成18年4月14日
ネタに困った時の救いの神なのが大子錦で叩けばいくらでもネタがこぼれ落ちてくる。堂々たるアンコな大子錦、180kgもある。そのせいもあって最近膝の調子が悪く膝に水が溜まってしまい、昨日相撲診療所で抜いてもらった。それでかなり膝も楽になったそうだが、夕食時 同じく180kgある朝陽丸に「大子さん、そのアゴの下にたまっている水も抜いてもらった方がいいんじゃないの」と突っ込まれ、さらには周りから「そこは、水じゃなくてコーラがたまっているんじゃない」とか「その肉がなくなれば顔変わるだろうね」とか話題の中心であった。その話題の二重アゴというか、下を向く時かなり邪魔をしている肉、本人によると「小学校5年生のときから!」だそうである。
平成18年4月18日
皇牙は、先場所まで闘牙の付人であったが、その前は小錦関や水戸泉関の付人もやっていたそうである。そんな縁もあって、昨日、KONISIKIさんの店あんばらんすにてKONISIKIさんと元水戸泉の錦戸親方主催で、皇牙の十両昇進祝いの食事会が行われた。食事会には、当時の高砂部屋OBの梅乃里、南富、志免錦、角田という懐かしい面々も顔をみせた。
平成18年4月19日
志免錦さんは、平成8年秋場所を最後に廃業したが、平成になってからは、知る人ぞ知る名物力士であった。廃業するまで永らく高砂部屋のちゃんこ長を務め、16年あまり通算100場所のうち70数場所を序ノ口で取ったが、序ノ口での志免錦Vs有門戦は、新聞記者や関係者が土俵を取り囲んで見守る名物取組であった。若い頃から糖尿病を患い、廃業間際は眼底出血で視力がかなり落ち、ぶつかる直前まで相手が見えなかったそうだが、休むことなく土俵を勤め上げた。現在は資格を取って、マッサージはり灸院を埼玉県所沢市緑町で開業している。
平成18年4月20日
有門は、立浪部屋のおすもうさんで、こっちも志免錦に負けず劣らずの名物力士であった。数字は定かでないが、序ノ口で20数連敗した記録は、未だに破られていない連敗記録だと記憶している。20数連敗の後やっと白星を勝ち取った時は、スポーツ新聞に写真入で取り上げられるほどであった。
志免錦との対戦では、お互い攻め切れずに、そのうちどっちも力はいって動けなくなってしまい、3分を超える取組になるのが常であった。それもまた大相撲である。
平成18年4月22日
明後日の番付発表から晴れて関取となる皇牙、初手形を押した。最初200枚くらいの予定だったが、あっちからもこっちからもとけっこう依頼が増え、結局400枚も押すこととなった。手形を押して、これも初サインである。筆で皇牙と色紙に書いていく。最初は慣れない手つきながらも、400枚を書き終える頃にはサインもなかなか様になってきた。今日明日は、土俵築で稽古が休みとなる為、その初サイン入り手形を携えて、甚句の前唄のとおり「♪錦をヤー かざりて 母まつ故郷(くに)へ ♪」となった。
平成18年4月24日
5月場所番付発表。東十両13枚目の位置に、先場所までの幕下の文字と明らかに違う太々とした皇牙の四股名が見られる。今朝はまだ大部屋での寝床で、みんなと一緒で6時過ぎには起きて番付を折り、午後1時からは玄関の看板前で新番付を持っての新十両記念撮影が報道数社によりあり、夕方番付発送も落ちついた頃、4階個室へと引っ越した。しかしながら、13年間の大部屋暮らしからいきなり個室になると落ちつかないようで、「なんか寂しいですわ」と長年の大部屋生活をまだ懐かしんでいる風でもある。
平成18年4月25日
5月場所の新弟子検査が行われ高砂部屋からも埼玉県戸田市出身の黄宮(こみや)君が受検。埼玉栄高校でウエイトリフティングをやっていたそうで、パワーがあり、下半身も柔らかく楽しみな素材である。内臓検査の結果発表を待って、正式な入門決定となる。
先場所から行司見習いとして入門した山口は宇部出身の前田。4月に東京に戻ってからは、行司動作や相撲字の勉強に午前中国技館に通う毎日である。こちらも、5月場所から前相撲で行司デビューすることになる。
平成18年4月26日
先場所から元朝之助兄弟子が、35代式守伊之助を襲名したが、さらに今場所から伊之助改め、33代木村庄之助を襲名することとなった。文字通り行司の最高位を務めることとなった。『日本相撲大鑑』(窪寺紘一著、新人物往来社)によると、初代木村庄之助は享保11年( 1726年)に誕生したとあるが、金指基『相撲大辞典』(現代書館)によると、初代庄之助は寛永年間(1624~44)の行司だが実在は不明とあり、初代横綱明石志賀之助と同様、こちらも伝説の話で、それもまた相撲らしいといえば相撲らしいはなしであろう。
平成18年4月27日
庄之助・伊之助の立行司になると、呼ぶ時には「親方」と呼ばれる。それは『相撲大辞典』によると、明治22年に相撲会所が東京大角力協会に改組された時に「木村庄之助」「式守伊之助」は年寄名跡として認められたことからだそうである。ただし、昭和34年には年寄名跡から除かれたそうだが、待遇は年寄と一緒で、それ故いまだに「親方」と呼ばれるそうである。三役格までは兄弟子としか呼ばれないし、呼出しや床山の最高位も「親方」と呼ばれることはない。
平成18年4月29日
肩の手術で入院していた塙ノ里が退院してきた。元々脱臼グセがあったが、最近は寝返りを打っただけで外れることもしばしばあり、幕下上位から番付を一気に三段目まで落としていた。ダマシだましにも限界が来たようで手術に踏み切ることになり、幸い手術はうまくいったようだが、5月場所は休んで再起をかけることになる。また、首の怪我で治療中の朝奄美も今場所も休場の予定で、現在はもっぱらちゃんこ番の腕を磨く毎日である。
平成18年4月30日
昨日、横綱審議委員会総見稽古が国技館にて行われ一般にも開放され盛況だったようである。総見稽古に参加するのは幕内が前頭5枚目以上、幕下が15枚目以内となってはいるが、その番付にいなくても参加できないことはなく、部屋の関取衆も全員参加であった。そんなこともあり、大人数での稽古だからよっぽど芽が出ないと番数をこなせないが、師匠から「きのう何番いったんだ」と聞かれた皇牙、「えー、たしか2番くらいだとおもいますが・・・」と答えたら、「2番くらいじゃなくて、2番だけ!」と関ノ戸 親方にきっぱり訂正されていた。「え!なんで知っているんですか?」と聞くと、昨日は 「どすこいFM」の解説だったらしく、最初から最後までしっかり見ていたそうである。
平成18年5月1日
ベースボールマガジン社「相撲」の今月号に「どすこいFM」を担当している下角陽子さんの記事がでている。3年前の夏場所から実験放送として始めているそうで、主に警備担当の親方衆の空き時間に解説を協力してもらっているそうだが、最近ははゲストとして KONISIKIさんやプロレスの天龍さんも出演したり、北の湖理事長と武蔵丸親方が二人で解説したりと、放送もすっかり軌道にのっているようである。放送は十両取組から開始だそうで、持参のFMラジオ「83・4MHz」(館内貸し出しや特製ラジオの販売もあるそう)にて聴けます。(聴いたことないけど)
平成18年5月2日
また昨年5月場所から、無線LANを利用しての「Sumo Live TV」という映像や情報のサービスも行っているそうである。その映像サービスで「どすこいFM」の放送席生中継が見られるそうである。他に、「大山親方の相撲講座」、「裏方さんの仕事紹介」「館内マップ」「星取表」なども提供されているそうである。時間はやはり午後3時頃から。こちらは、ノートパソコンを持参しないと見れない。どのくらいの人が利用したことがあるのだろうか?ちょっと気になるところではある。国技館内も、毎場所いろんなサービスが始まっている。
平成18年5月3日
玉三郎が好きである。立ち姿を見ただけで惚れ惚れとしてしまう。動きはあくまでもしなやかでブレがなく、この世のものとおもえないほどの美しさである。その驚異的な身体能力、表現能力を支えているのは、あくなき身体への探究、鍛錬であろう。
今年2月の日経新聞の夕刊の「こころの玉手箱」に5日間 ほど手記を載せているが、その中に相撲の股割りの話もでてくる。20歳の頃、「白鳥の湖」を映画で見てショックを受けたそうである。股割り(開脚)こそが舞踏の世界での共通語だと感じたそうである。その日から開脚の練習を始め、3ヶ月でできるようになったらしい。それまでは、役者の世界には開脚という鍛錬はなかったそうである。
先月NHKの朝の番組に出演したときも、まことに見事な股割りを披露している。
平成18年5月4日
歌舞伎座で「鷺娘」のDVDを買って観ている。有名な「鷺娘」を始め、玉三郎の舞踊5作品が収められているが、派手な動きはそんなにないが、座ったり、立ち上がったりという上下の動きはけっこう多い。上下の動きの中でも軸はまったくブレない。重心線の中をスーッと沈み、スーッと吊られるように立ち上がる。脚の筋肉で立ち上がると、どうしても体のブレや、動きの途切れみたいなのがでてくると思うが、まったく淀みない。「イナバウアー」で流行りとなったが、後ろに反るときもそうである。「反る」というよりも重力にまかせて身体がしなっているだけのようである。
平成18年5月5日
「反る」ことに関しては相撲にも反り技がある。先場所、十両で三保ケ関部屋の里山が土俵の上で「イナバウアー」を決めたと話題になった「伝え反り」をはじめ、「居ぞり」「撞木反り」「掛け反り」「たすき反り」「外たすき反り」と6種の「反り手」が決まり手82手の中に含まれている。「反り手」は現代相撲では殆どといっていいほど見られなくなったから、稽古でも股割りは基本動作として残っているが、反る稽古は実際の稽古場では全く見られない。ただ、昔の相撲の本を読んでいると(どこで読んだか忘れたが)、昔は入門のときに身長体重を見ない代わりに、股割りと、正座させて後ろに反らせて、入門の基準にしていたというのを読んだことがある。
平成18年5月6日
闘牙が引退を決意した。3月場所で幕下陥落が決まり、稽古回しも黒く染め直して再起を目指してはいたが、腰の状態も改善せず、もう一度という気力も戻らず、引退の決意に至った。正式にはあす7日に発表することになっている。明日から初日だが、塙ノ里、朝奄美につづき大子錦も休場することとなってしまった。稽古中に膝を痛めてしまった為で、こちらは回復次第では途中出場の可能性はある。
平成18年5月7日
5月場所初日。幕内では栃東や白鵬が注目を集めているが、十両の土俵では新十両皇牙が大ブレイクである。まず土俵入りで化粧回しが話題となり、取組でも大熱戦を制して客席を大いに沸かせ、そして最後の弓取式でも注目を集めた。31年ぶりの関取としての弓取りが場所前から話題になっていたこともあってか、結びの一番が終わっても席を立つお客さんが殆どいなく、「ヨイショー」の掛け声や、終わった後の拍手も今まで経験したことのないほどの盛り上がりだったそうである。(本人談)
弓取りのために控えに入ったら、座布団が敷いてあったのにも驚いたそうである。 朝赤龍、大関魁皇を破っての初日白星。
平成18年5月8日
結びの一番が波乱となり、しかも土俵下に落ちた時に肘を痛めてしまう(初場所と同じ右肘)というアクシデントまで重なってしまった。氷で冷やしながら部屋に戻ってきたが、正直痛みはかなりありそうである。病院で診察を受け、あすの朝の状態をみての判断になりそうだが、心配ではある。ただ、怪我を治す能力や怪我に強いのも、横綱の強みというか、横綱が横綱であることの要因のひとつであることは間違いないことでもある。
平成18年5月9日
横綱になると、政治家や野球チームにつくように番記者と呼ばれる記者が各社つく。横綱担当の記者である。相撲担当は政治家の番記者ほど“夜討ち・朝駆け”はないと思うが、きのうのような一大事があれば、横綱本人や親方のコメントをもらおうと部屋の玄関前は、昨夜も今朝も番記者でいっぱいである。ある社は病院の前に夜遅くまで張りついたりもしたそうである。少しでも情報を得る為、付人やこっちにも電話がはいったりもする。休場がこれだけ大ニュースになるのも大横綱の証しであろう。その横綱を目指す栃東を朝赤龍が破る。最高の笑顔で部屋に戻ってきてビデオを繰り返し見ていた。まだ気は早いが、新三役へ一歩前進である。
平成18年5月10日
平成13年度のアマチュア横綱である朝陽丸、膝の怪我や網膜はく離もあって足踏み状態が続いているが、なんとか幕下の17枚目まで番付を戻してきた。初日は同じアマ相撲出身で一気に番付をあげてきた門元との対戦だったが、元アマ横綱とプロ生活5年目という意地を見せて勝ち、今日2日目は元十両の力士との対戦となった。元々突っ張りを得意とする力士だが、きょうは重くて突ききれないと思ったのか、ほぼ全部張り手であった。ちょっと大げさに言えば、30発は顔を殴られたであろう朝陽丸、口から鼻から大出血しながらも最後は組みとめて寄りきった。張りやすい顔(?)とはいえ、また勝負とはいえ、あまりの張り手連発に、支度部屋に戻ってきた対戦相手に朝赤龍が、一言苦言を呈するような激しい一番であった。
平成18年5月11日
幕下以下の取組では、水入りの相撲になると2番後取り直しとなる。幕下17枚目で2連勝と好調の朝陽丸、今日の相撲は水入りにもなろうかという長い相撲になった。裁く行司は勝次郎である。一日に5番裁く勝次郎、朝陽丸が本日4番目の取組である。あと1番で今日の裁きも終わりというときに4分近い大相撲である。2番後取り直しとなると、自分の捌きが終わっても帰れず、また控えで待っていて再度土俵に上がらなければならない。「ハッケヨーイ!」「進んで!」と声をかえながらも内心、「2番後取り直しにだけはならないでくれよな」と秘かに祈っていたそうである。その念が通じたのか、水入り直前で小手投げで朝陽丸3連勝。3分50秒の熱戦を制した。
平成18年5月12日
膝の怪我で休場中の大子錦、半月版の損傷があって手術入院することとなった。内視鏡での手術なので、2時間足らずで無事終了したそうだが、その間寝っぱなしでいいイビキをかいていたそうである。6人部屋で、隣のベッドには八角部屋のおすもうさんも入院しているが、隣だけに大迷惑を被っているらしい。それでも八角部屋のおすもうさんは、あす退院だそうで、「今晩ひと晩の我慢」と笑っていたが、同室のよかたは、あと3日も過ごさねばならない。同室となった不運を憐れむばかりである。
平成18年5月13日
休場中の横綱が突如稽古場に現れた。肘の治療に専念しているが、TVの中継を見ているとやはり気持ちは落ち着かないようで、久しぶりに土俵の感覚を確かめたかったのであろう。肘は靭帯が一部断裂しているようで、まだ固定しているのでもちろん稽古はできないが、軽く四股を踏みながら土俵の感触を確かめ、若手力士の稽古に目をやっていた。3連敗中だった朝ノ土佐と福寿丸,ようやく片目が開く。
平成18年5月14日
横綱との対戦がない為、初めての結びの一番となった朝赤龍、全勝の大関を破っての記念すべき白星となった。ちょうどモンゴルからお父さんも来日したばかりで、お父さんの見守る前で最高の親孝行となった。手にした懸賞は28本、名実ともに重く価値ある一勝となった。新三役も一歩一歩近づいてきており、後半戦がますます楽しみである。新十両皇牙も5勝目。相撲巧者若兎馬を双差しからの電車道で圧倒。「ここ10年で最高の一番」という快心の相撲で、あすからの後半戦に弾みをつける。
平成18年5月15日
相撲観戦後部屋を訪ねてきて、ちゃんこで一杯やっていたお客さんが「やっぱり、横綱土俵入りがないと寂しいし、結びも横綱がでてこないともう一つ締まらないね」と言っていたが、全くもってその通りであろう。それは現大関が役不足というのではなく、300年という伝統がつくり出してきた“横綱”というものに対する観客の想いでもあり、重さでもあろう。3年前、横綱に成りたての頃に休場した時とは、休場に至る過程も状況も違うが、3年前とは休場に対する意識が本人にとっても全く違うし、その重さの感じ方も大違いである。
東の支度部屋の雰囲気も全然違うと、誰か関取が言っていたのもTVで聞いた。
平成18年5月17日
見事な出し投げで大関琴欧州を破り勝ち越しを決めた朝赤龍、今日の一番で新三役と三賞がいよいよ見えてきた。その朝赤龍の付人をやっている朝陽丸、今日も勝って5勝目。来場所はまた10枚目以内へ上がってくるが、あと1番欲しいところではある。朝久保も勝ち越し。初日からの2連勝も内容のいい相撲で、今場所こそは5勝して幕下昇進なるかと思われた朝花田、2連勝のあとの4連敗で負け越し。幕下への壁がまた厚くなってしまった。
平成18年5月18日
取組表には、力士の名前はもちろんだが、行司や呼出しの名前も載っている。呼出しの名前は、資格者である十両格からしか載っていないが、行司は序ノ口から名前が載っている。あす13日目の取組表を見てみると、一番の勝負審判の名前のあとに東西とあり、(是より序ノ口)の文字の次に(木村悟志)の名前がある。是より序ノ口からの5番を木村悟志が裁くことになっている。その130数番後結びの一番を裁くのは、もちろん高砂部屋所属木村庄之助である。
平成18年5月20日
久しぶりの晴れ間で、“五月晴れ”といいたいところだが湿気が多く梅雨時のようでさえある。風薫るという言葉がぴったりな5月場所は、稽古をしていても浴衣を着てても一番過ごしやすいいい場所だが、20数年経験している中でも、これほど天候不順な5月場所は記憶にない。そんな悪天候をも吹き飛ばす快勝の朝赤龍、晴れ晴れと10勝目。十両でも皇牙が9勝目で優勝争いにまで絡んできた。泉州山も負け越してからの2連勝で十両残留へ向けて、明日も大事な一番となった。
三段目熊郷1勝3敗からの3連勝で勝ち越し。同じ横綱チームの神山は3連敗からの4連勝で昨日勝ち越しを決めた。
平成18年5月21日
千秋楽。皇牙が優勝決定戦出場で、三つ巴の最初の一番を勝ち、支度部屋でも大部屋でも大いに盛り上がったが、残念であった。浅草橋の共和会館で打上げパーティーが行われ、今日の取組を最後に引退することになった福寿丸の断髪式も行われる。
断髪式後、 210kgの体をスーツで包み、髪を七三に分けた鈴木敏勝の登場にはみんな大受けであった。
第二の人生は埼玉の実家にもどり家業の土木をやることになっている。
平成18年5月25日
断髪式に涙はつきものである。一人ひとりハサミを入れていき、声をかけられると、万感胸に迫ってくるものがあるそうである。先日の千秋楽で断髪式を行った福寿丸、一般客がハサミを次々と入れてくるにつれ、だんだんとこみ上げてくるのもあったそうで、何人目かの人が「ごくろうさん」と肩を叩いた時、いよいよ涙も溢れ出そうになったそうである。ところが、その「ごくろうさん」の次に出てきた言葉が「大子錦」という名前だそうで、溢れ出そう になっていた涙も”すーっ”と引いてしまったそうである。
平成18年5月27日
明後日29日から6月3日まで高砂部屋モンゴル合宿が行われる。国際子供キャンプ場での稽古、子供達へのちゃんこ振舞い、また6月1日にはモンゴル子供の日にあわせたイベントなども企画されているようである。この合宿に、細木数子、加藤茶も同行して、テレビ朝日のスペシャルで一部放送するそうである。
すでに24日から土俵築の先発隊として、呼出し利樹之丞と邦夫、それに大子錦がモンゴルに乗り込んでいる。
平成18年5月28日
モンゴル合宿にちなんで、というわけでもないのだろうが、成田空港第1ターミナル・中央ビル5F/展望デッキフロアにて 「一村一品マーケット」というイベントが行われていて、6月10日(土)午前10時から11時まで、朝赤龍に一日店長を務めるよう経済産業省からの依頼があった。当日は、モンゴル商品の岩塩や人形などのPRや来店のお客様との握手などが予定されているそうである。
もちろん、写真も、色紙を持っていけばサインなども大丈夫、なはずである。
平成18年5月29日
今日からモンゴル合宿へ出発です。
午後1時に大型バスにて成田へ出発。おかみさんのお父さんであるコノミヤの芋縄会長と会長の知人も同行。2時過ぎに成田に到着、TV朝日の控え室にて待機。3時半過ぎ控え室には今回の合宿に一緒に行くことになっている細木数子さんと加藤茶さんも来てご挨拶。5時に成田を出発、ソウルへと向かう。
ここから別ページで紹介されていた「モンゴル合宿記」を日付ごとに掲載
ーモンゴル合宿記ー
午後1時に大型バスにて部屋を出発。高砂部屋関係者が、横綱、朝赤龍を筆頭に木村庄之助親方、闘牙親方ら24名、テレビ朝日関係が16名のツアーである。2時すぎ成田着。横綱土俵入りの為特別参加する時天空や番組の出演者である細木数子や加藤茶も成田で合流。午後5時過ぎモンゴル・ミアット航空にて成田を発つ。
午後7時半過ぎソウルに到着。乗務員交替の為,一旦機外へ出なければならない。空港への出口でしばらく待たされる。韓国人の係官がきて、「イマ7時48分デス。8時10分マデニ36番搭乗口へキテクダサイ」と告げる。かなり歩かされ、また手荷物検査の探知機をくぐり、空港内へようやく上がり搭乗口へ向かうと、レストランに朝赤龍を中心に6,7人座っている。「ちょっと食事しましょう」と缶ビールとビビンパを頼みにいくが、ちょうどそこへ細木数子さんもスタッフと来て、ビールとビビンパを頼んでくれたので、声を揃えて「ごっちゃんでーす」
時計を見るとすでに8時5分である。スタッフから「8時20分にはここを出てください」ということで、あわててビビンパをかきこむ。
日本のビビンパと違って、中鉢に肉と野菜が入っており、別にご飯やキムチやカクテキや辛みそやらが小皿毎に盛ってあり、スープから何から全部肉と野菜の中鉢に混ぜて食べることになっている。要領がわからないおすもうさんのテーブルを、細木先生がひとつひとつ回って「全部混ぜて食べるのよ」と教えてくれる。急いでかきこむのと、キムチの辛さで、汗が吹き出てくる。缶の韓国ビールはライトでウマイ。
食べ終え時計を見ると8時19分である。急ぎ足で搭乗口へと向かう。何名かは走ってもいる。エスカレーターを降り、36番搭乗口へ到着すると、出発が遅れて9時35分になったそうである。「なーんだ、もっとゆっくり食えば良かった」何人かは再びレストランへUターンした。
時間通り(?)9時35分にソウルを発ち、ウランバートルへと向かう。ソウルまではかなり空席があって楽に座れたが、ソウルでほぼ満席となり、隣に153kgもある熊郷に座られると、かなり暑苦しい。2時間55分の旅だそうである。
30日に日付が変わって、零時40分ウランバートル到着。機内放送によると、気温4度だそうである。
荷物を出して、外に出ると、みぞれ混じりの冷たい雨で、ところどころ雪が積もっている。空港には先発隊で来ていた呼出し利樹之丞と邦夫が出迎えに来ていたが、昨日まで30度あったのに今日いきなり大吹雪になったとのことである。荷物を積み終え、チンギスハーンホテルへと向かう。午前2時過ぎ、ようやくホテル到着。
平成18年5月30日
ーモンゴル合宿記ー
ウランバートル市内から車で40分ほどかかる子供キャンプ場で、土俵の贈呈式、土俵祭、横綱土俵入りを行うことになっているが、今日も天候が悪く、屋外の土俵が使えるかわからないので、現地の状況を見ながらホテルで待機である。
午前11時、とりあえず行ってみようということで、バスでキャンプ場へと向かう。市内を出て、まわりの建物がバラックやゲルになり、それもなくなり、どんどん山を登っていく。あたり一面の雪景色である。寒暖の差が激しいモンゴルでも、6月も間近になっての大雪は何年かぶりのことらしいが、キャンプ場へ近づくにつれ、いよいよ雪は深く、除雪作業をしてようやく車が通れる、という具合である。
キャンプ場に到着。雪は降り止んでいるものの、20cm近くも積もっていて、現地スタッフが土俵まわりの整備にやっきである。しかも時折、雨が降ってきたりして難渋している。キャンプ場にある調理場では、大子錦を中心に、子供達に振舞うちゃんこ700人分の用意。鳥肉50kg、玉ねぎ30kg、キャベツ30個、・・・・という量である。鍋は、ごま油でニンニクを炒めて、そこに鳥肉をいれ、という鳥の塩炊き。お手伝いのモンゴル人の主婦たちも、大子錦のちゃんこの作り方に熱心に見入っていた。ズン胴の大鍋6つのちゃんこも出来上がり、空から少し薄日もさしてきて、準備万端である。子供達も、キャンプ場に続々とあつまってきている。時計を見ると、午後6時過ぎだがまだまだ真昼のように明るい。それもそのはず、日没は午後10時頃だそうである。
チンギスハンホテルへ戻り、10階の会場にてエルカムパーティー。ようやく夜になった。
細木数子さんや加藤茶さんもゲストとして参加して、モンゴルで有名な俳優さんの挨拶で始まり、馬頭琴や歌、モンゴルの民族衣装のファッションショー,曲芸師、ミュージシャン、コング・・・つぎからつぎへと出し物が盛りだくさんである。
日本盛提供の日本からもってきた樽酒の鏡割りもあり、ビールにアルヒ(モンゴルウオッカ)、日本酒、ウイスキーと飲み物も盛りだくさんである・・・
気がつくと翌朝、ベッドの上であった。
平成18年5月31日
ーモンゴル合宿記ー
今日も相変わらずの悪天候。ホテルでマワシを締め、12時にバスに乗り込んで、きのうのキャンプ場へ向かい稽古。の予定であったが、雨がやみそうにもなく稽古は中止となる。マワシをはずし、横綱が胸を出しての(ご招待)ランチに変更。
モンゴル風しゃぶしゃぶという感じで、ひとりひとり小鍋に塩味のスープを入れて火をつけ、肉や野菜や麺などを入れて食べる。香辛料もきいてかなりうまい。食事後、大旗にみんなで寄せ書き。お店から一人ひとりにウオッカの土産までありというVIP待遇である。玄関前でみんなで記念撮影。
夜は7時から(といっても明るいが)テレビ朝日のご招待でモンゴル料理店で夕食。羊肉が中心だが、お好み焼き風や普通のサラダ、ハンバーグ風、蒸し餃子風(ボーズという)などなどけっこういける。二日酔いがひどく、あまり量を食えないのが残念である。
平成18年6月1日
ーモンゴル合宿記ー
ようやく二日酔い(三日酔い?)も醒めてきたので、ホテルの近くを散歩。道路事情はまだ悪く、大通りもぬかるみや水溜りがけっこうある。今日はモンゴルの子供の日だそうで、親子連れも含め子供の数が目立つ。車は右側通行で交通量はかなり多いが、信号は大きな交差点しかないので、少しでも流れがゆるやかになると、どんどん渡る。ぶつかりそうになってもお構いなしである。車同士もそうで、はいったもん勝ちという感じで、みんなイケイケである。そのためクラクションもけたたましい。エネルギーに溢れている。バスが通るがその乗車率がすごい。窓中に人が溢れている。ゆうに200%はありそうである。タクシーも走っているが、白タクも多く、道端で手を挙げているが、モンゴル初心者には普通の乗用車との違いがまったくわからない。
子供の日のイベントで、広場は人でごった返しているが、待ちきれないのか、信号で止まったバスの窓からどんどん子供が飛び降りてくる。柵がある反対側へ渡るのも、柵を乗り越えたり、「え、そんな細いところ?」という隙間から抜け出て、どんどん行ってしまう。たくましき子供達である。
ちなみに6月1日生まれの子供は、この日遊園地なども全部タダだそうで、ガイドのエギ君は、6月13日生まれだったので、子供の頃「なんで6月1日に生んでくれなかった」とお母さんに泣きついたこともあったそうである。
2時半にマワシに泥着(ゆかた)姿でイベント会場へと向かう。広場に特設の土俵がつくられており、子供の相撲大会が行われている。優秀者に横綱から記念品が贈呈され、表彰式終了後、模範稽古と子供たちとの稽古。関取衆との稽古には、土俵を取り囲んだ大勢のお客さんから大喝采である。帰り道も、握手を求められ、もみくちゃにされるような大人気である。
夜7時過ぎ(やっぱりかなり明るいが)、朝赤龍関の家族がみんなを招待しての夕食会。横綱と魁皇関のブロンズ像も登場。よくできている。生バンドつきの高級レストランで、今日もアルヒ(モンゴルウオッカ)でアリッ乾杯!である。
平成18年6月2日
ーモンゴル合宿記ー
朝9時半出発で、国立公園の観光。途中旭天鵬関の故郷ナライハを通り、バスで1時間半ほどゆられて到着。ゲルの中を見学したり、害虫が大発生して木が枯れてしまった山に植樹をしたりする。植樹の御礼に馬乳酒がまわされ、オバァが御礼の言葉を述べる。それをガイドのエギ君が訳すのだが、熱弁でなかなか終わらない。エギ君も苦笑しながらの通訳である。
ランチもキャンプ場内のレストランにて。羊のバーベキューがメインだが、サラダやお吸い物風の鶏肉とシイタケのスープもあり、相変わらず二日酔いの胃にもなんとかかきこめる。食事後、馬頭琴の演奏や歌や踊りを楽しむ。「ホーミー」といわれる独特の発声にみんなでブラボー!
キャンプ場を後にして、更に東へ(北かも?方角がよくわからない)20分ほど走る。亀石(モンゴル語でも聞いたが発音が難しくて覚えていない)と呼ばれる、亀の形をした自然岩を見に行く。日本でもたまに観光地に動物に似た自然石などがあるが、日本のものとは比べ物にならないくらいのスケールの大きさで、モンゴルの自然の大きさに圧倒されてしまう。亀石の前で記念撮影をしてウランバートルへ戻る。途中、ゴルフ場があったが、草原の中のゴルフ場なので、あたり一面グリーンで、旗の赤色でようやくわかる。OBもないかもしれない。2時半にホテル着。
ショッピングセンターで買い物をして、夕食はモンゴリアンバイキング。お好みの野菜や肉を皿にとり、調味料も自分ですきなものを選び、奥に持っていくと、円形の鉄板を囲んで3人のコックが回りながら焼いてくれる。焼きあがって皿に取る時にちょっとしたパフォーマンスなどもやってくれて楽しませてくれる。味もかなりよい。時刻は夜の8時半過ぎ、日本だと真っ暗だが、こっちはまだ真ッ昼間なので、店の窓からみえる道の反対側の広場で、子供達がバスケットをやっている。そこへ、食事を終えた熊郷、朝ノ土佐、塙ノ里も飛び入り。さらに、街路樹の横に積まれた土砂をトラックが回収にきて、スコップで投げ入れる作業が始まった。そこへまた朝野澤、朝久保、大子錦が助っ人として参入。一番うまかった大子錦に、すかさずコーラの大ジョッキがごほうびとして運ばれる。歩道上でのコーラの一気飲みにやんやの喝采に道行く人もカメラを構え、走行中の車も見物し、ちょっと渋滞してしまうほどであった。午後9時ホテルへ戻る。
平成18年6月3日
ーモンゴル合宿記ー
午前5時にホテルをチェックアウト。5時半に空港へと向かう。相変わらず冷え込みが厳しい。
搭乗券には7時15分発となっているが、7時40分すぎようやく搭乗。帰りは成田まで直行だそうだが、機内はほぼ満席で、このモンゴル数日間で更にアンコになった感のある熊郷のとなりはかなりきつきつである。
12時50分過ぎ成田着。
平成18年6月4日
『草原の記』(新潮文庫)は司馬遼太郎がひとりのモンゴル人女性ツェベクマさんを通してモンゴルについて語っている本だが、モンゴル・ミアット航空の機内誌をめくっていると(モンゴル語だから全く読めないが)3ページほど日本語の文章もあった。その1ページには司馬遼太郎夫妻がツェベクマさんと一緒に3人で車の後部座席にのっている写真で、もう一方にはツェベクマさんが娘さんと二人、舞台上で小渕元総理や海部元総理に囲まれ勲章を授かっている写真であった。機内誌の中で、その写真と記事を見つけて妙に嬉しかった。
平成18年6月6日
モンゴルという国を身近に感じたのは司馬遼太郎の本が最初だが、横綱が入門してますます身近なものとなり、一緒に大使館にいって餅つきをやったりもしたこともあった。そのときの駐日モンゴル大使がフレルバートルさんという方で、日本語が達者でずいぶん良くして頂いた。前記のツェベクマさん叙勲のときも一緒に写真に納まっていて懐かしく拝見した。そういう縁もあって、モンゴルへ行ってみたいという想いはあったものの、なかなか機が合わずに行けずにいたが、今回のモンゴル合宿のお蔭でようやく念願叶い、感慨深いものはあった。改めて『街道をゆく5モンゴル紀行』や『草原の記』を読み直してみると面白さが益々深まってくる。
平成18年6月11日
司馬遼太郎がモンゴルを訪れ『モンゴル紀行』や『草原の記』を記したのは、1973年と1990年のことだから、国家体制も経済状況も現在とは大きく違っている。日本もそうであったように、街や経済の発展で便利になっていくのと逆に、失われていくのもあるであろう。
ただ、モンゴルには、車で小一時間も走ると変わりようのない大草原がどこまでも広がっているのが、失うものをまだ少なくしていくような気もする。
明日から15日まで、恒例の茨城下妻大宝八幡宮での合宿。
平成18年6月12日
今日から茨城県下妻市大宝八幡宮での合宿。親方が節分の豆まきに来ていた縁で平成13年から合宿が行われるようになり、今年で6年目の合宿である。地元の方々ともかなり顔なじみになり、神社関係者はもちろん、出迎えの幼稚園生や小学生、いつもちゃんこ番を手伝ってくれる愉快なオバちゃんたちとも 一年ぶりの再会。
平成18年6月13日
稽古終了後、ちゃんこ200人分を毎日振舞う。ちゃんこ番で4人のオバちゃんたちも手伝ってくれるので、賑やかなちゃんこ場である。今年初めて茨城合宿に参加する朝奄美、「おすもうさんは名前なんていうの?」と聞かれて、「さわです」と答えたら、「サオ?」と聞き間違えられ「サオといえるほど立派なものはついていない」と突っ込まれ、妙な所で盛り上がってしまう。「年々、耳も悪くなるのヨー」「若い時の写真は今とは別人 ダッペー」「孫がバアチャンと顔そっくりで、カワイそーなのヨー」・ ・ ・ 話は尽きない。
平成18年6月14日
合宿地の下妻大宝八幡宮から車で10分くらいの所に実家のある朝野澤、4人いる茨城県出身者(他に塙ノ里、男女ノ里、 大子錦)の中でもバリバリのご当所である。そのお蔭もあって(?)、毎日泥まみれになっての稽古である。見学のお客さんもその辺の事情をわかっていて、今朝もフラフラになりながらのぶつかり稽古を終えたときには満員の客席から大きな拍手も起こった。
お父さんも毎朝息子の稽古を見守り、お姉さんもちゃんこ番を手伝ってくれたりしている。
平成18年6月15日
大宝八幡宮での稽古を終え、お客さんへのちゃんこの振舞いがひと段落したところで、関係者一同でちゃんこをつつきながら缶ビールでお別れ。3泊4日と短い期間ではあるが、祭りのあとの寂しさがある。片付け終了後、園児に見送られて帰京。
平成18年6月18日
先発隊6人(朝ノ土佐、塙ノ里、大子錦、一ノ矢、朝久保、朝奄美)名古屋場所の宿舎、蟹江龍照院入り。龍照院でお世話になるのは若松部屋時代の昭和63年からだから、今年で19年目となる。田んぼに囲まれた田舎だけに街並み自体はそんなに変わったわけでもないが、19年前に元気に部屋に顔を出していた人が老いてしまったり、当時赤ん坊だった子が成人したりと、取り囲む人々は年々変わっていく。それでも一年ぶりの再会は故郷に帰ったような懐かしさがある。
平成18年6月19日
先発2日目。雪のモンゴルや涼しい茨城合宿を終え名古屋入りすると、いきなり30度を超える真夏である。今日は全国的に暑いのだろうが、あっちこっちを回って名古屋に入った途端に暑くなると、やっぱり名古屋は暑い、というイメージがどんどんできてしまう。真夏の日差しのお蔭で、1年間しまいっぱなしのちゃんこ道具や鍋など、洗い物をして外に出しておけばすぐに乾き、先発隊の仕事ははかどる。外にホースを出して洗い物をしながら、水をかけあって水遊びをしながらの洗い物で、朝久保などはパンツまでビショビショだが、ビショビショのパンツもすぐ乾いてしまう。
平成18年6月22日
わが故郷徳之島で、12月6日(水)7日(木)の2日間巡業が行われることになった。正式には7月11日に発表になるが、天城町の野球場にテントをはっての開催となるようである。大阪在住の天城町出身の方が勧進元となり、これから島にも実行委員会が組織されるよう動き出したところである。天城町は大島部屋旭南海の地元で、文字通り故郷に錦を飾ることになる。徳之島での巡業は、確か昭和58年12月以来、20数年ぶりのことになると思う。
平成18年6月24日
元大関北天佑の二十山親方が急逝されてしまった。三月場所で体調を崩して入院生活をおくっていたのは周知のことではあったが、その余りにも早すぎる、あまりにも若すぎる死には関係者一同驚きでいっぱいである。部屋を興して十数年、ようやく関取も誕生してこれからというときだけに無念さもいっぱいであろうが、ご冥福をお祈りするばかりである。
平成18年6月25日
東京残り番も全員名古屋乗り込み。おととい稽古場土俵が完成して、幟も立ち、宿舎近辺も相撲の雰囲気が一日一日高まっていっている。散歩していても稽古はいつからですかと尋ねられるし、気の早い人は実際に稽古場にきたりもしている。明日番付発表で、明後日27日(火)から稽古開始。土俵祭は8時半からである。
平成18年6月26日
7月場所番付発表。朝赤龍、予想通りの東の新小結。皇牙も7枚目まで昇進である。朝君塚が朝翔冴(あさしょうご)と改名。朝乃翔の翔と闘牙の牙から一字ずつもらっての翔冴(しょうご)だそうで、朝乃翔の関ノ戸親方と闘牙親方が二人で考えてくれたそうである。そこに居合わせた元朝乃若の若松親方も、いっちょかみで「じゃあ、朝翔冴の朝は、朝乃若の朝をやる」といったそうで、三親方が名付け親という有り難き(かなり強引な気がしないでもないが・・・)四股名である。
平成18年6月29日
部屋から程遠くない所に市場がある。ちょっとした買い物のときは近くのスーパーを使うが、まとめ買いが必要なときは市場へ行く。ここのところけっこう野菜が高値だが、市場へ行くと毎年の顔なじみもあって、安いのを更に安くしてくれ大助かりである。大根1箱500円、玉ねぎ1箱800円、キャベツ1箱1000円、長ネギ1束500円という具合で、その上「これももっていきー」とナスやレタスも箱でサービスしてくれる。これも、蟹江で長年宿舎を構えているお蔭である。
平成18年6月30日
地方場所に来ると、幼稚園や施設、老人ホームなどの慰問も多い。若松親方は地元ということもあって、そういう仕事も多いが、数日前現役時代から付き合いのある一宮の老人ホームを朝陽丸と一緒に訪問したそうである。おじいちゃん、おばあちゃんも、毎年おすもうさんに会えるのを楽しみにしていて、記念撮影や握手などにも「いい冥土の土産ができた」と涙流さんばかりに喜んでくれるそうである。サービス精神旺盛な朝陽丸、記念撮影でおばあちゃんを一人ひとりお姫様ダッコしてあげ、これは自らやったのかやらされたのか、ホッペにチューまでしたそうである。いつにも増してみんな大喜びだったそうだが、そのうちの一人のおばあちゃんがその瞬間、口を向けてきたそうで、「ショッパカッタス」と、さすがの朝陽丸もちょっとだけへこんでいた。