過去の日記

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平成18年1月1日
新年あけましておめでとうございます
おかげさまでこのホームページも10年目を迎えています。(若松部屋以来)平成9年1月のオープン以来の星取表や日記を振り返ってみても、多くの人間が土俵を去り、入門があり、合併あり、横綱誕生あり、といろいろな出来事を重ね、山あり谷ありの一年が積み重なって今日にいたっています。今年はどんな一年になっていくのか。本年もよろしくお願い申し上げます。
平成18年1月2日
お正月休みも今日までで、夕方あたりからガランとしていた部屋にも一人二人と帰ってきて、「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」という挨拶が交わされる。久しぶりに親や兄弟に会ってきたせいなのか、顔に何となく安堵感が見受けられる。
あす6時半からはまた、初場所に向けての稽古再開である。
平成18年1月3日
稽古始め。横綱をはじめとして力士一同、親方衆、裏方一同、殆ど全員が集まり平成18年度の稽古始めを迎える。見学のお客さんも多く、上がり座敷も満席である。しかもそのうちの約8割がたは外人さんである。明日は、東京場所前恒例の新横綱の綱打ちである。
こちらは関係者以外には非公開である。
平成18年1月4日
間が空きすぎてしまったが再びスリ足である。相撲の神様双葉山に登場願う。双葉山のビデオで足に注目してスリ足を見てみる。もともと受けて立つ相撲だから電車道のような相撲はないが、受けるときも足をわりとべたっとつけ、小刻みに動かし、時には浮かし、決して親指や拇趾球(ぼしきゅう)で踏ん張らない。特にうっちゃる時などは、重心がカカトにのっていて、カカトを支点にしてつま先を浮かし、きれいに相手をうっちゃっている。このときの足の使い方は能のスリ足に通ずるものがあるのではないだろうか。
平成18年1月5日
寄り切って勝つ相撲は多いが、寄るときに土俵に電車道が残るような寄り方はしない。がぶり寄り(腰を上下にゆすって相手の腰の下にはいっていく寄り方。元大関琴風の得意だった寄り方)のような寄り方が多いが、腰を上下にゆするというよりも、上体の力を抜いて相手の重心の下にもたれかかっていくような感じで、足も土俵を蹴るような動きは殆どない。脚(双葉山の)も腰の中心にひきつけて脚の重さまで相手に乗せているような感じで足が土俵から浮いていたりする。
平成18年1月6日
日本全国大寒波で、東京もいつ雪が降ってもおかしくないような冷え込みがつづいている。寒さに強いはずのおすもうさんにも、さすがにこの寒さはこたえるようで、部屋の中でもみんなけっこう厚着になっている。(若い衆が寝る二階の大部屋には暖房も付いてはいるが部屋が広いこともありけっこう寒い)ところがそんな中、寝る時はパンツ一丁というツワモノがいまだにいる。しかも布団をめくると、殆どいつもハンケツ状態である。さすがに起きると「寒むー」というが(裸だから当たり前だが)靴下を履くと「はあー暖かいわ」でおわってしまう。200kg超ともなると、寒さにたいする感覚も普通の人間とは違ってくるものらしい。
平成18年1月7日
先場所十両優勝で東の3枚目まで番付を戻して幕内復帰もみえてきた闘牙だが、昨日朝持病の腰が悪化して救急車で病院に運ばれるという事態になってしまった。初日は取組が決まっていたため不戦敗となる。一日たって回復には向かっている模様で、必死の治療にあたり後半戦出場を目指す。番付外におちた朝奄美も現在部屋で治療中で、今場所も休場である。あすは幕下以下9人、関取3人の取組で平成18年度初日の幕開けである
平成18年1月8日
またまた話がとんでしまったが、再びスリ足である。双葉山の取組を見て驚かされるのは、ほんとうに踏ん張らないことである。足は時に浮くことも多い。足を地面から離す、というよりも、ホバークラフトのように浮き上がる、という感じである。浮き上がらせている元の力は腰の中である。とくに相手を寄る時は脚の重みも全て腰の中心に集まり、相手の重心を崩しているかのようである。そういう足の使い方こそは、能楽師の安田氏が説く能のスリ足の本質そのものではないだろうか。今日初日の横綱の立合いも、足の指が若干浮き気味で、腰の中心で脚をひきつけて出るような素早く安定した踏み込みであった。
平成18年1月9日
思わぬ波乱となった結びの一番、例によって座布団が乱れ飛んだ。横綱の頭にも当たってしまっていたが、弓取式を行う皇牙の所にもけっこう飛んできたそうである。軽い座布団とはいえ、遠くから勢いよく飛んでくるからかなり痛いそうである。ましてや弓も持っているから気が気ではない。危険だし、なんとかならないものかとは思うが、火のついた群集心理を止めるのはむずかしい。明治42年に開館された新設「国技館」でも、そんなことがあったと、風見明『相撲、国技となる』(大修館書店)に出ている。開館場所の三日目、横綱常陸山が敗れるという大波乱に、座布団はもちろん、煙草盆や日本酒やビールの空き瓶、盃までもが雨のように降ってきたそうである。
平成18年1月10日
さすがにこの明治42年の大波乱のときには、全治1週間の怪我人が3人出たそうで(空き瓶が飛んでくれば当然であろう)、翌日から制服80人、私服10人の警察官が館内に配置されたそうである。にもかかわらず、翌4日目も大関駒ケ岳が敗れた一番に座布団や空き瓶が再び雨あられのように投げ込まれ、11人が現行犯で連行拘留され、新聞にも住所氏名が公表という処分が下されたそうである。
毎場所の警官の取り締まりや、座布団を3枚から5枚つなげるという策もとられ、そのうち物投げもようやく無くなったそうである。
平成18年1月11日
腰の悪化で緊急入院していた闘牙、とりあえず退院。ブロック注射で痛みを一時的に抑えてのことだから、まだ厳しい状況に変わりはないが、通院しながらリハビリ、トレーニングを始め、来週からの出場を目指す。面白いもので、怪我とかした場合、入院してて病院内の立派な設備でトレーニングするよりも、なにもしなくても部屋や稽古場の現場の空気にふれる方が、圧倒的に治りは早いものである。
3連敗だった 泉州山、実力者の隆乃若を破っての初白星。今日までは勝越した先場所と全く同じ星の並びである。
平成18年1月12日
「大相撲は国技から国際技へ・・」という小泉首相の80周年式典での挨拶にもあったように日本人横綱の待望論も久しいが、大きな将来性を感じさせる 若手日本人力士もけっこう頭角を現してきた。今場所新十両の豊真将、ご存知澤井、その同期の影山、ちょっと足踏みはしているが澤井と同じ部屋の寶智山、まだ三段目ながら勢、他にもこの世代には楽しみな素材が多い。その有望力士影山(春日野部屋、明徳出身)と同じ高知安芸中学校の相撲部の同級生だったのが朝久保である。同じ団体メンバーとして全国大会にも出たそうだが、現在は大きく番付の差をつけられてしまっている。今場所はここまで3連勝と、すこしでも近づいていきたいところである。
平成18年1月13日
2年前の一月場所では三段目だった塙ノ里、7場所連続の勝ち越しで幕下の8枚目まで番付を上げたが、この一年は負け越しの方が多く、2年前の三段目に近いところまで番付を落としている。しかもこの位置で2連敗だったが、朝寝坊を得意中の得意としている塙ノ里、九州場所後からの寝坊の罰金の数が20回になり(一回3千円)場所手当ても無くなる勢いになっている。今朝の寝坊でその金額を本人も知り、ようやく尻に火がついたのかも知れない。攻め込まれて剣が峰からの投げで取り直しに持ち込み、取り直しの一番も土俵際で鮮やかな投げを決めた。ある意味、ハングリー精神をもった貴重な日本人力士といえるのかもしれない。
平成18年1月14日
「江戸の大関より故郷(くに)の三段目」という言葉があるように、郷土とおすもうさんの結びつきは強いものがある。田舎ほどその傾向はあるが、関東でも都心を離れるとけっこう田舎で、そんな雰囲気もまだ残っているようである。埼玉県は比企郡滑川町出身の福寿丸、3連勝だったが今日負けて1敗となってしまった。その福寿丸に毎場所幕が開けると故郷滑川町長から激励の電報がくる。今場所も、初日一勝した時点で、「白星一勝おめでとうございます。・・・・・ふるさと滑川町より応援しています。フレー!!フレー!!福寿丸!!」という祝電が届いていた。郷土の期待に応えて早く勝ち越しを決めたいものである。腰の悪化で入院していた闘牙、あすから出場。
平成18年1月16日
腰が、みのもんたと同じ「脊椎管狭窄症」になってしまった闘牙、手術をするわけにもいかず、痛み止めを打っての土俵である。実質的には初日となった昨日の取組、不利な体勢になりながらも踏ん張って土俵際の投げで白星を手にした。見ている方も冷や冷やものだが、3枚目という番付を考えると、最低あと1勝は必要で、苦しい土俵がつづく。幕下皇牙と朝陽丸早々の勝ち越し。
平成18年1月17日
三段目筆頭の朝ノ土佐、今日の対戦相手はロシア出身大露羅(おおろら)である。現役最重量力士で約250kgある。しかも 身長も193cmもある。仕切ると前が見えないそうである。朝ノ土佐も150kgあるが、土俵上で並ぶと小学生のようだ。人は「ぬりかべ」みたいだという。みかんを食いだしたら一箱ぜんぶ一人で食ってしまったらしい。たぶん実話であろう。
その大露羅に土俵際の下手投げで勝ち、あと1勝で幕下復帰となる。逆に塙ノ里負け越し決定。一年前は幕下上位で関取の座を狙える位置であったのに、来場所は三段目降格。一番忙しい大阪でちゃんこ番復帰である。福寿丸、熊郷勝越し。
平成18年1月18日
横綱大関になる人間や万年序ノ口で相撲界を去る人間を除くと、殆どの力士の通算成績は、ほぼ5割近く、4割台後半から5割台前半の間にある。相撲という競技が白か黒かの二通り(稀に引き分けもあるが)しかないから、統計学的、確率論的にいって当然の結果ではあろう。したがって、白がつづくと(勝ちが つづくと)黒になる(負けになる)確率が高くなる、逆もまた然りのような感じもあるが、人間の心理的要素も大いに関わってくるから、特に黒がつづくと、白がでる確率は日に日に減っていってしまう。何をやっても勝てる気がしなくなってくるものである。そんな泥沼にはまり込んでしまっている泉州山、闘牙と同じ3枚目だけに(しかも西)、残り4日間がいよいよ重くなってきている。
平成18年1月19日
元呼出しの三平さんの息子さんで社労士の伊藤光博氏という方がおられて、高砂一門の力士のデータをまとめてくださっている。かなりの量の資料だが、その資料には1973年以降の高砂一門の力士のほぼ全員のデータが載っていて通算成績もすべて一目瞭然である。関取衆も全員が5割を超えているわけではなく、4割台後半も多い。長く取って番付を落として引退すると5割をきってしまう。逆に若くして昇進して、すぐ引退した力士は勝率も高い。これから、という時に引退した南海龍などは147勝95敗、勝率0.607である。元大関朝潮の現師匠は0.596、元横綱朝潮の5代目は0.650である。横綱朝青龍は現時点で0.784、ものすごい数字である。しかもこの数字はこれからどんどん上がっていくこともまた確かである。泉州山貴重な2勝目。
平成18年1月20日
相撲の強い、弱いというのは一体全体何なのかと時々不思議に思う。去年一年間で6回しか負けていない横綱が、圧倒的な力の差を見せてきた横綱が、よもやの連敗である。しかも横綱らしくない負け方である。稽古不足は多少はあるにせよ、そんなに昨年とペースが変わっている訳ではない。筋力や瞬発力などの 科学的データを採ってみても殆どそん色ない値がでることであろう。
しいて言えば、科学的データでは表すことのできない、心と身体のちょっとしたバランスの狂いのような気がする。そのバランスの絶妙が圧倒的強さを生み、ちょっとした狂いが思わぬ敗戦になってしまうのではないだろうか。何しろ、7連覇、年間6場所完全制覇、年間最多勝という大偉業を達成したばかりである。かの大横綱双葉山も、69連勝が途切れたあと4連敗もしているのである。
平成18年1月21日
「初雪や 二の字ニの字の 下駄のあと」という句をどこかで見たことがあるが、裏口をニの字でいっぱいにして帰ってきた朝君塚、朝久保、朝野澤の3人、揃って3勝3敗だったが、3人とも勝ち越しを決め、降りしきる雪の中うれしい帰宅となった。
こちらも3勝3敗だった三段目55枚目の高稲沢、今場所を最後に引退することとなり最後の場所を勝ち越しで終えることとなった。明日の千秋楽打上げで断髪式を行う。幕下11枚目の皇牙5勝目。三段目福寿丸6勝目。十両闘牙の残留決定的となる3勝目。
平成18年1月23日
昨日の打上げ式で断髪式を行った高稲沢、パーティーのあと会場の近くで若者会で送別会をやり、千葉まで遠征して3次会まで10数人で、本人はほっといて飲み明かす。今朝は朝稽古もないから部屋に帰りついたのは2時半過ぎである。とりあえずそのまま部屋に泊まって、今朝改めて挨拶まわりである。本当は今日地元愛知県に帰る予定だったのだが、昨夜の飲みすぎやら挨拶回りやらで荷物をまとめる時間もなく、今日も部屋泊まりになりそうである。周りから、「送別会したのに」とか「宿泊費取るぞ」とか言われつつ、大部屋生活を名残惜しんでいる。
平成18年1月24日
今週土曜日の朝乃若引退断髪式若松襲名披露パーティーのプログラムが完成した。午後2時、呼出し利樹之丞の太鼓打分実演によって幕を開け、高見盛の髪結い実演、若松親方と朝陽丸、福寿丸の稽古、武蔵川部屋地車、双武蔵による初切、横綱の綱締め実演と土俵入り、最後は皇牙の弓取式により断髪式へとはいる(午後3時の予定)。断髪式後、午後5時より国技館内地下大広間にて襲名披露パーティー。あっと驚く超有名人も出席の予定である。
平成18年1月25日
横綱の自伝が本日25日付けで発行になった。『一番、一番! 真剣勝負』というタイトルで、NHK出版からの発行である。16歳で初めて日本に来て明徳義塾の相撲部に入学したころからの思い出や大記録を達成した2005年に至るまで、勝負にたいするこだわり、相撲に対する想い、故郷モンゴルや日本に対する想いが語られた254ページの一冊である。
平成18年1月26日
2階の54畳ある大部屋には現在21人のおすもうさんが枕を並べているが、部屋や押入れの出入り口には布団を敷けないから、カベ際を枕にして真ん中をあけ、カベにくっつけて個人の身の回りの荷物を置いて、そこがプライベート(仕切りがあるわけではないが、気持ちとして)な空間になっている。ただ、入ったばかりの新弟子は、その空間さえもなく大部屋の真ん中の布団と布団の間にねることになるから、荷物を置く場所もなく、なにか小物を出してもいちいち押入れにしまい直さなければならない。今場所、高稲沢が引退したことで壁沿いの場所がひとつ空き、ようやく朝野澤にも自分の荷物をおける枕元ができた。そんなことも、若い衆にとってはささやかな幸せである。
平成18年1月28日
元朝乃若の若松親方の断髪式ならびに襲名披露パーティーが国技館にて行われる。午後2時より、太鼓打分け(利樹之丞)や髪結い実演(高見盛)、綱締め実演や横綱土俵入りなどのお好みをやったあと、3時から土俵上で断髪式が行われた。後援会関係者にまじり、愛工大名電の後輩にあたるイチローや近大の先輩である赤井英和らもハサミを入れ、最後は師匠の止めバサミにて13年あまりのちょん髷生活に別れを告げた。5時より館内大広間にて披露パーティー。全国からかけつけた大勢のお客様が新親方の門出を祝した。
平成18年2月3日
節分会。各地へ豆まきにでかける。横綱と闘牙は成田山新勝寺で、師匠と泉州山は鎌倉長谷寺で、師匠は夜も茨城大宝八幡宮でとダブルヘッダーである。朝赤龍は奥州平泉中尊寺までの遠征である。旧暦でいうと明日からが新年。年二場所の頃は、一月に興行するのを春場所、5月か6月頃興行するのを夏場所と呼んでいたそうだが、旧暦だと季節感がよく合う。
平成18年2月5日
トリノ五輪の開幕が間近に迫ってきてテレビや新聞の報道も熱を帯びてきている。スピードスケートはメダルが期待される注目種目のひとつだが、どうしても目立つのは500mの清水や加藤という選手のみである。何度か日記でも紹介しているが、1000mと1500mの代表で今井裕介選手。4年ほど前に知り合い、平成14年6月の徳之島合宿にも参加してマワシをしめて四股やぶつかり稽古にも汗を流した。今度が3度目のオリンピック出場である。そんな縁もあってウエアの胸にはNikonなどのスポンサーに混じって高砂部屋のロゴも入っている。高砂部屋を胸に 勝負する1000mは2月19日朝のスタートだそうである。
平成18年2月9日
いよいよ明日が開会式となったトリノオリンピック。2月5日の日記で紹介したスピードスケート1000mと1500mの代表の今井裕介選手と高砂部屋の関わりが2月7日の日刊スポーツでも大きく取り上げられていたが、明日の日テレ午後2時からの「ザ・ワイド」でも取り上げるそうで、今日夜取材に来た。徳之島合宿でのマワシ姿の今井君の写真もでるはずである。
平成18年2月11日
何度か紹介しているが島人会(しまんちゅかい)というおすもうさんの集まりがある。奄美(奄美大島、徳之島、喜界島、沖永良部島、与論島)出身力士の会(単なる飲み会だが)である。(最近は屋久島まで広がり屋久ノ島(千賀ノ浦部屋)も参加しているが)
初場所現在10の部屋に16人が在籍しているが、その中のひとり、三保ヶ関部屋の里山(奄美大島出身)の十両昇進祝いが日本橋高島屋裏の沖縄料理の店美ゅらで開かれ、よかたシマンチュも含め40人ほどが集い祝った。島人会の会長は年の功で、もちろん一ノ矢が務めている。
平成18年2月12日
昨年九州場所で新十両昇進を決めた三保ヶ関部屋の里山。九州場所後の水曜日の番付編成会議で昇進が決まり、その足で記者会見が開かれるのが通例である。シマンチュらしく、人前で喋るのが大の苦手の里山、最高に緊張したそうである。取り囲んだ記者の質問に「はい」「いやー」「はい」しか答えないらしい。しかもかなりの間をあけてである。話が締め込みの色に関しての質問になり、「新調の締め込みの色を黒にしたのは何故ですか」と聞かれると、「は い、じ つ は  ・ ・ ・ 」と、感慨深い面持ちで黙り込んでしまったらしい。記者連中も、「これは何か深い思い入れがありそうだ」と固唾を呑んで見守った沈黙、約1分45秒(誰も計ってはいないが)。長い沈黙を破って里山が口にしたのは、 「・・・く、くろが好きなんです」。周りで聞いていた若い衆もずっこけて大爆笑の会見だったそうである。
平成18年2月13日
サインをしてもいいのは十両に上がってから、というのは角界の不文律である。サインをする、手形を押す、付人がつく、紋付袴を着る、給料が貰える。これらは全て関取になった証しであり、特権であるが、慣れるまでにはやっぱり多少の時間はかかる。関取になって初めて色紙にサインを求められた里山、喋るのと一緒で字を書くのも苦手だそうだから、ものすごく緊張して、「里」の字を大きく書きすぎてしまったらしい。つぎの「山」を書こうとしたら、そのスペースが全くなくなってしまったそうである。色紙を出した人に謝って、2枚目にようやく書くことができたらしい。そんな里山関も協会事務所の習字のうまい人に教えてもらい、なかなかのサインを書けるようになっている。
平成18年2月14日
横綱朝青龍7連覇達成祝賀会が新高輪ホテル飛天の間にて行われる。横綱の大偉業を祝福して全国、内外から1000数百人のお客様が集まる。塩川正十郎 元財務大臣の挨拶で幕を開け、政界から森喜朗元総理や鳩山由紀夫氏ら多数、また芸能界からも、みのもんた、松方弘樹、格闘界から前田日明、藤原組長・・・ 、などなどの超大物が多数参加して盛大な宴に益々の花を添えた。横綱も来場所への決意を更に強めたことであろう。
平成18年2月16日
さて再度里山である。ベースボールマガジン社『相撲』1月号に新十両紹介がされている。出身地は奄美大島で空港のある笠利町である。平成11年には 冬巡業笠利場所も行われた相撲どころである。出身校の赤木名中学相撲部は全国大会の常連強豪校である。実家は「里山植物園」という農園を経営しているそうである。4人姉弟の末っ子で、一番上の姉は京セラミタ陸上部の長距離ランナーで全国大会優勝の経験もあるそうである。自分の性格には「内気でちょっと人見知り。でもお酒を飲むと変わります(笑)」とある。
本当にその通りで、あるときを境に変身する。しかしながら決してそんなに性質の悪い変身ではなく、ちょっと距離を置いてみる分と、男から見る分には、かなりおもろく、場を盛り上げる変身である。(フォローになっていない?)
平成18年2月18日
なかなか結果が出なく苦戦模様のトリノオリンピック日本代表であるが、世界で闘える選手が増えているのは事実であろうし、何かのきっかけがあれば入賞した選手たちはメダルを獲得しても不思議ではなかったように思う。そういう全体の流れに引き戻されるのは、日本人全体の国民意識が高まっている証拠といえるのかもしれない。そんな中、高砂部屋サポートのスピードスケート1000mの今井裕介が今晩12時50分から登場である。日本選手団のきっかけとなることを祈る。
平成18年2月19日
先発隊6人(朝ノ土佐、男女ノ里、大子錦、一ノ矢、朝久保、朝野澤)大阪入り。昨年9月場所で引退した熊ノ郷も宿舎久成寺(くじょうじ)に顔を見せる。現在実家の神戸に戻って働いているのて、今日は仕事が休みだということで早速あそびにきた。つい半年前まで一緒に生活していただけに違和感なく新弟子とじゃれあっている。呼出し利樹之丞と邦夫も土俵築の為、大阪宿舎入り。
平成18年2月20日
みんな揃うと若い衆が寝るのは本堂になるが、先発隊のときだけは横綱や関取衆の部屋になる暖房設備つきの和室に寝ることができる。ところが今晩急なお通夜が入り寝ている部屋を使うことになり、晩飯で一杯飲んで気持ちよく帰って来た所で、急遽部屋の移動である。今晩は運び込まれたご遺体の隣室で寝ることになる。そういえば、坊主漫談の甘味けんじという奄美出身の漫談家がいて、持ちネタに「亡くなった方を遺体といったり死体といったりするのはどう違うのか」という話があった。亡くなった方が男性の場合は「死体」、女性の場合には「遺体」というそうである。ちょっとアクセントを変えて読めばそのわけがわかるようになっている。ちょっと不謹慎ではあるが。
平成18年2月21日
死体や酔っ払いの体が重い話は前にも書いたことがあると思うが、さすがに死体を担いだことはないにしても、泥酔状態の人間や、伸びて意識をなくした人間を運ぼうとしたことは何度かある。その重いのなんのって、体重60kg位の人間でも、意識のある人間を抱えるのは軽いものだが、意識のない60kg は一人では抱え上げられなくなってしまう。ましてや100kg以上もあると力の強いおすもうさん二人がかりでもものすごい労力がいる。本来重力は、それほど重いものであるし、ましてや固体や液体や少しの気体も混在している複雑系の人間の体にかかる重力は、ちょっとした姿勢の変化でものすごく重心が動いてしまい、持つのが難しくなってしまう。
平成18年2月26日
東京残り番だった力士も全員大阪乗り込み。夕方6時半よりちゃんこ朝潮徳庵店にて大阪高砂部屋後援会特別会員とのちゃんこ会。これも恒例の行事となっている。明日が春場所番付発表で、明後日から 春場所に向けての稽古が始まる。
平成18年2月28日
タニマチ発祥の地であるだけに、夜の出足ばかりよくてなかなか更新できません。すんません。
平成18年3月1日
春場所新番付でひと際目立つのがど真ん中に書いてある行司 朝之助改 三十五代 式守伊之助 の名前である。先場所で庄之助、伊之助の両立行司が引退となり、三役格行司の高砂部屋所属木村朝之助兄弟子が式守伊之助を襲名することとなった。三役格までは兄弟子と呼ぶが、立行司になると「伊之助親方」と呼ぶことになる。今場所は庄之助は不在で、結びの横綱の一番は全て伊之助親方が差裁くことになる。数場所のちに庄之助襲名の予定にもなってはいるそうである。今場所行司見習いで一人高砂部屋に入門してきており、46名いる行司のトップと一番下、そしてちょうど真ん中になる23番目の位置の勝次郎と、ポイントを高砂部屋がおさえているという面白い構図になっている。春場所前恒例の学生相撲出身力士を励ます会が行われ、高砂部屋からも親方3人(高砂、関ノ戸、若松)、力士2人(一ノ矢、朝陽丸)の合計5人が参加。
平成18年3月2日
弓取りで顔が売れている皇牙、先場所の5勝で幕下東4枚目まで番付を上げてきた。最近の傾向でいうと、4勝で十分昇進できる位置である。日本人力士で一番重い体重を誇る福寿丸先場所の6勝で自己最高位の三段目15枚目。一ノ矢、入門後初めて番付に載った昭和59年初場所以来の序ノ口。
平成18年3月4日
場所前恒例の大阪高砂部屋激励会が上六都ホテルにて行われ、1000人を超えるお客様が集い、会場溢れんばかりの熱気で春場所高砂部屋の活躍を期して祝した。大阪高砂部屋後援会会長である塩川正十郎前財務大臣のご挨拶で幕を開け、日本盛提供による樽酒3樽での鏡割りで開宴となった。元NHKアナウンサーの杉山邦博氏の名司会のもとデュークエイセスによる歌謡ショーや清和大学チアリーダー部によるショーなどでも花を添え、華やかで賑やかな宴での激励会となった。
平成18年3月5日
昨春町制50周年で餅まきをやった琵琶湖湖畔の志賀町体育館で、今年は大津市との合併記念として横綱朝青龍土俵入りが行われる。メインの土俵入りを前に、太鼓打分けや、高見盛による大銀杏髪結い実演、子供との触れ合い相撲、また地元の神事である子供相撲や甚句なども披露され、「入りの悪い時の巡業より入っているなぁ」という体育館いっぱいのお客さんのもと、綱締め実演に引き続き、横綱土俵入りで興奮も最高潮に達し、最後は皇牙による弓取式で締めた。
平成18年3月8日
重力というのは、生まれたときから常に身体にかかってきているから、当たり前になりすぎて普段なかなか意識しにくい。急激に体重が増えたり減ったりしたときには自分の身体にかかる重力を感じるようだが、それでもそれに慣れるとまたそんな感覚も忘れてしまう。筋肉の緊張や意識で、重力のいくらかを打ち消していることもあるであろう。相撲をとっていても、体重が軽くても重く感じる力士もいるし、体重が重くてもじっさいよりかなり軽く感じる力士もいる。意識のある人間と、意識のない人間の重さの違いはものすごいものがあるし、重さとは、重力とは、いったい何なのかと不思議に思う。
平成18年3月9日
腰の重い力士というのは本当に押しにくい。押しても力が伝わらない感覚がある。筋肉質の力士よりもアンコ型の力士に多い。腰の重さには柔らかさが条件になってくる。身体がリラックスしていると、重力が身体に素直にかかり、重心がより下へ落ちるからであろう。逆に力みがあると、筋肉の緊張で重力を打ち消してしまって軽くなってしまう。それは、意識のある人間と意識のない人間の重さの違いほどはないにしても、感覚的には同じことであるのであろう。
平成18年3月10日
重力があるからこそ筋肉は発達する。それは、宇宙飛行士が宇宙を旅して無重力空間で数週間過ごすとてきめんに現れることでもわかる。重力があるからこそ進化してきたといえるのかもしれない。ただ筋肉には坑重力筋と呼ばれる筋肉(下腿三頭筋、大腿四頭筋、腹直筋、大・中殿筋、脊柱起立筋)があり、文字通り重力に抵抗して直立を支えており、そこが力み過ぎると重力を打ち消してしまい、腰の重みなどという感覚がなくなってしまうようである。
平成18年3月11日
相撲は(対人競技一般にいえることだろうが)、重心の崩しあいであるから、重心のコントロールということがとても大事になってくるであろう。ただ我が身を振り返ってみても、普段から重力や重心というのは感じ難いし、土俵の上で相撲を取るとなるとなおさら吹っ飛んでしまうことである。ただ、いい相撲を取れたときは無意識のうちに重心がうまくコントロールされ、全身の力みがなく、力が相手に無駄なく伝わっている感覚は何となくながらもある。逆に肩に力がはいったり、意識がどこかにとらわれたりしたら、重心はものすごく不安定になり、気がついたら負け、という具合である。運動科学者高岡英夫氏によると、角聖と謳われた明治時代の大横綱常陸山は、重力をもっとも使いきった人類史上にも稀な存在であるそうである。あすから初日。
平成18年3月12日
春場所初日。横綱と朝赤龍は、まずまずの内容での白星スタートとなったが、十両の闘牙と泉州山は元気なく黒星の初日となった。二人とも腰の状態が十分でなく、場所前も稽古らしい稽古ができずに臨む春場所だけに、かなり苦しい15日間となることは予想される。今までも何度か乗り越えてきた苦しい経験を活かして、ここ一番の力を祈るしかない。行司見習いとして入門した山口県宇部市出身前田君、今日から本場所の行司部屋デビューである。今場所は文字通り、兄弟子の仕事を見習うだけになるようである。
平成18年3月13日
東大阪で知人と一杯飲んでの帰り、タクシーに乗って文字ニュースを何気なく見ていたら、大相撲2日目の結果「朝青龍(押し出し)安馬」などという何番かの結果につづき、「45歳一ノ矢22年ぶりの序ノ口で白星」という文字が流れ思わず笑ってしまった。取組後記者が二人ほど来ていたが、まさかタクシーの中で見るとは夢にも思わなかった。取っている本人にすれば、なんでそれがニュースになるのかよくわからないが。今場所一番一番が気をもむ皇牙、白星スタート。泉州山にも嬉しい白星。
平成18年3月14日
幕下4枚目まで番付を上げている皇牙、幸先よく2連勝。まだまだ気は早いが、期待が高まってきていることだけは確かなことである。後がない泉州山は身上の粘りで2勝目を上げるが、闘牙が元気なくの3連敗で、心配がいよいよ現実味を帯びてきている。観客もまばらな序ノ口の取組、向う正面の審判のすぐ後ろに若い子が行儀よく5人ほど正座して並んで観戦しているので、こんな時間から熱心だなとよく見ると 、行司見習いの前田君の姿も5人の中にあった。今場所入門の行司見習い5人が序ノ口の取組まで観戦見習いだそうである。来場所からは、実際に本土俵の上で 取組を裁くことになる。
平成18年3月18日
3連勝と好調で今日7日目に給金相撲を迎えた朝花田、ちょっと高見盛が入っているところがある。土俵際もつれた一番となったそうで、行司軍配は朝花田にあがったものの物言いがついたそうである。朝花田本人は土俵下で協議を見守りながら、軍配が相手に上がったものと思い込み、場内アナウンスで「行司差し違えで・・・・」という言葉を聞いた途端、「よっしゃー!!」と大声を発して、体やマワシを叩きまくって気合十分で、土俵に上がり勝ち名乗りの蹲踞をしたらしい。ところが・・・行司さんは背中を向けており、相手も蹲踞しているのを見て、ようやく事の次第に気づき、土俵を下りたそうである。かなり恥ずかしかったそうである。朝陽丸も3勝目。
平成18年3月19日
大子錦4連勝での勝ち越し第一号。3連勝して給金相撲を迎えたおすもうさんが5人いたが、そのなかで唯一のストレート給金である。一年6場所の中でも一番お客さんが多くてちゃんこも忙しい大阪場所、ちゃんこ長として稽古よりもちゃんこ優先の毎日だが、そんな中での勝ち越し第1号で、周りからも「たいがいこっちには白星がまわってこないよ」とか,「だから雪が降るんだよ」と(大子錦の取組後くらいに大阪に雪が舞った)罵声を浴びせられても笑顔の一日である。これからの一番一番が人生を左右する皇牙、残念な一敗。でもまだ残り3日間もある。
平成18年3月24日
東幕下4枚目の皇牙、10日目に勝ち越しを決め、今日最後の一番は負けたものの5勝2敗の成績。残り2日間の十両下位と幕下上位の全取組が終わらないと確かなことは言えないが、新十両昇進が現時点でかなり濃厚なのは確かである。29日の番付編成会議が待たれる。逆に、皇牙が付人を務めている闘牙は今日で11敗目。来場所の幕下陥落が決定的になっている。
朝赤龍が勝ち越しを決めるものの、泉州山も7敗となり、残り2日間で最低1勝はしないと危ない状況になっている。
平成18年3月25日
三段目49枚目で5勝1敗と好成績で、今日の一番に勝てば来場所の新幕下の可能性もあった朝花田、残念ながらの2敗目。三段目11枚目の朝ノ土佐は6勝目で来場所は幕下での自己最高位を大きく更新しそうである。十両幕下の入れ替え戦が大いに気になる皇牙、一枚上の力士が4勝止まりとなったため、新十両昇進がまたかなり濃厚なものとなってきた。
祝いの樽酒が届き、宿舎久成寺(くじょうじ)前での優勝パレードの準備も整い、明日千秋楽を待つ。
平成18年3月27日
劇的な優勝決定となった千秋楽からの一夜明け。優勝パレード後の振舞い酒を片付けたり、荷物を整理したり、パレードの警備でお世話になった警察署へ挨拶にいったりと、けっこう忙しい。横綱の付人は付人で、部屋に持ち帰っていた、金杯と優勝旗を協会に返しにいかなければならない。ひととおりの片づけが終わったら殆どが横になってイビキの大合唱である。普段は4時に掃除でおこされるが、今日から1週間は掃除は午前中に終わっている為、時間を気にせず眠りたおしている。時間を気にせずに寝れるというのは、若いおすもうさんにとっては至福の時である。
平成18年3月28日
大阪の駅名や地名には、相撲とのかかわりを見れるものがけっこうある。朝潮橋とか、安治川、境川などは、大阪相撲が盛んだった頃に由来があるのであろう。そもそも高砂浦五郎という名前も、姫路藩のお殿様が高見山大五郎という力士につけた名前だそうで、高砂部屋自体も元々が関西系である。力士も関西出身が多く、部屋全体のノリもどちらかというと関西系であるのは確かであろう。
平成18年3月29日
番付編成会議が行われ皇牙の新十両昇進が決定。千秋楽を迎えた時点でほぼ確実視されていたとはいえ、やっぱり正式に発表になるまでは落ちつかないもので、吉報を受け祝福の電話を受けたり、挨拶の電話をかけたり、化粧回しのや締め込みの話に博多小川屋が早速来たりと、慌しさもよろこびもひとしおである。本日2時から宿舎久成寺本堂にて記者会見。
平成18年3月30日
弓取式は普通、横綱がいる部屋の幕下力士がやるのが通例である。ただどうしても、新進気鋭の関取間近の若手幕下よりも、ベテラン幕下がやることが多くなる。そんなこともあって、弓取りや初っ切りをやると出世しない、というジンクスめいたものは昔からある。そんなジンクスを破っての皇牙の新十両昇進だし、弓取式をやるようになってからの出世だけに、十両に上がってからも弓取式は続行することになりそうである。元花籠部屋の十両板倉以来、31年ぶりのことだそうである。
平成18年4月1日
大阪へ残っていた力士たちも全員明日の巡業地の伊勢へ上本町から近鉄電車で移動。巡業へ行かない力士は新幹線で帰京。きょう限りで大阪からおすもうさんの姿が消えてしまうことになる。十両昇進を決めた皇牙、水曜日の記者会見のあと郷里福岡県直方市へ凱旋帰郷していたが、故郷から直接巡業地へ。その皇牙が付人を務めている闘牙、来場所は幕下陥落が決定的となっているが、来場所以降も現役続行となる。腰の治療に努め、元小結の意地を、もういちど見せてもらいたいものである。
平成18年4月2日
おすもうさんの健康診断は2月と8月の年二回行われるが、その結果は細かいデータが記されて個人に還ってくる。身長、体重から始まり、心電図、胸部X線、尿検査、血圧、血糖値、肝機能、腎機能、コレステロール、血液検査・・・などなど31の項目について検査結果の数値が示され、基準値(力士用だが)から上回っているものに対しては蛍光ペンで赤線が引かれ、一番下部に判定結果がA-1とかBー2とかCとか示される。数値に異常なしは、Hの判定である。判定結果の返ってきている14人中6人がH(異常なし)の判定。異常ありの8人の結果を見てみると、一番多いのが高血圧とアルコール性肝炎もしくは脂肪肝が4名、高脂血症も3名と多い。ただし糖尿病に至っているのは一人もいない。その中でも2名は異常項目5個ずつもあり、判定欄にA-1とかCとかE-2とか文字が並びまくっている。内臓疾患のオンパレードである。異常なしのH判定でも数値がギリギリの所にには赤線が引いてあるが、その注意赤線もない全くの健康体は一ノ矢のみである(エヘン!)。毎晩の内臓消毒が効果的なのであろう。
平成18年4月3日
久しぶりに重力に関してである。そもそもこの宇宙には四つの力しかない。「重力」「電磁気力」「弱い力」「強い力」の四つである。「弱い力」「強い力」とはあまり聞きなれないと思うが、原子核内でのことだから実際の日常生活では感じることはないし、関係ない(人間の形自体をつくっている力ともいえるから関係ないことはないが、動きや生活には関係ない)。「電磁気力」は学校の理科の授業等でおなじみであり、日常生活にもかなり関係している。さて肝腎の「重力」は、他の3つの力に比べると比べ物にならないくらい小さな力だそうである。
平成18年4月4日
学校でも理科離れがいわれて久しい昨今、「重力」などという話をだすと嫌がる向きもあろうとは思うが、相撲ほど重力に関わりのある競技もないと思うので、しばしお付き合い願いたい。ここから話をどう展開させるのかの見当はまったくついてもないが・・・。
「重力」や「四つの力」についてネットで調べて多少なりともわかったことは、「重力」には大きな特徴が二つあることである。一つは無限大ともいえるほど遠距離まで力が働くことで(「強い力」や「弱い力」は原子核内での距離でしか働かない)、もうひとつは常に引力だということである(電磁力は+と-があるから打ち消しあってしまう)。それゆえ、他の3つの力に比べるとゼロにも等しいほど弱いのに、それが積み重なって一番影響のある大きな力となっている。
平成18年4月5日
「重力」や「重さ」とは、そもそも一体なんなんだろうと考えるためにここ数日書いている。同じ100kgの体重でも軽く押せる力士と、重くてびくともしない力士がいる。筋力の違いももちろんあるだろうが、びくともしない力士ほど力を入れずに押させない。おなじ人間でも、意識のあるときと、泥酔して意識を失った時では重さが何倍にも感じられるほど違ってしまう。(たまに一緒に飲む某部屋の某親方で最近よく体験している)それでおもうのは、泥酔して意識を失った時の重さが、本来人間にかかっている重力で、ふだんは意識がそれを打ち消して軽くしてしまっているのではないか?ということである。
平成18年4月6日
人間が二本足で直立するということは奇跡に近いほど難しいことらしい(人間本人には当たり前すぎてあまりそんな意識はないと思うが)。それは、この地球上で人間以外なしえていない、ということからも想像には難くない(レッサーパンダで話題にはなったが)。それが歩くとなると、なおさら難しさはとてつもないことになってしまう(アシモ君などロボットの歩行の成功にはものすごい年月がかかった)。
歩くだけでも難しいのに、そこに相手からの押すとか引くとか投げるとかいう色々な方向からの圧力が加われば、立っていることは益々もって難しいことになってくる。それが相撲の難しさであり、面白さであり、深さであろう。
平成18年4月8日
すっ転んでしまった。いつも部屋のパーティーとかで司会をやってくれる三遊亭小金馬師匠の落語を聴きに鈴本演芸場へ行ったときのことである。ちょっと下り勾配の通路を雪駄で歩いていると、通路の磨きが良かったのか、見事に滑ってドーンと転んでしまった。舞台では落語の真っ最中で、満席ではなかったものの客席の視線が一斉に舞台から後ろへと向いた。恥ずかしさと情けなさで痛みも忘れるほどであったが、久しぶりに重力を思い切り感じた瞬間でもあった。そんなに頻繁に滑って転んだことがあるわけでもないが、滑って転ぶ時は、本当に一瞬である。そのスピード、その勢い、どれもがすさまじい。「重力」「重さ」を100%使い切った動きといえるのかもしれない。
平成18年4月9日
この宇宙には「四つの力」しかない。というか、実際の生活では「重力」と「電磁気力」の二つしか感じることはできない。浮力や、反発力(作用・反作用といった方が馴染み深いかもしれない)は重力によるものだし、では筋力はどうなるかというと、脳からの電気信号によるものだから電磁気力の一種になるであろう。立合いのぶちかましは、筋力即ち電磁気力によるものだろうが、常に重力はかかっているわけで、重力との合力になるのであろう。双葉山の立ち合いを考えてみると、電磁気力(筋力)は最低限で、重力を最大限に使っているように思われる。
平成18年4月12日
4月24日(月)の番付発表の日から晴れて関取となる皇牙、関取としての準備を着々とすすめている。化粧回しは、おかみさんのお父さんであるコノミヤの芋縄会長から贈られることになり、会長発案で、皇牙弓取りの絵を漫画家のやくみつるさんに書いてもらって、その弓取り似顔絵が化粧回しなるというユニークな図柄である。関取になっても続ける予定の弓取式では、勝力士に代わっての舞いということで、今まで通りの相撲協会の化粧マワシを締めての弓取式になるそうである。
平成18年4月13日
また関取になると、幟を揚げることができるが、幟は、やくみつるさんの奥さんの友人であるNHK「お江戸でござる」でおなじみの女優重田千穂子さんから贈られることになっている。それに締め込みや紋付袴一式、白の稽古マワシ、明け荷・・・・全て揃えるのには相当な金額もかかるが、そこはベテランでもあり弓取りで顔が売れていることもあり、順調にすすんでいるようである。
平成18年4月14日
ネタに困った時の救いの神なのが大子錦で叩けばいくらでもネタがこぼれ落ちてくる。堂々たるアンコな大子錦、180kgもある。そのせいもあって最近膝の調子が悪く膝に水が溜まってしまい、昨日相撲診療所で抜いてもらった。それでかなり膝も楽になったそうだが、夕食時 同じく180kgある朝陽丸に「大子さん、そのアゴの下にたまっている水も抜いてもらった方がいいんじゃないの」と突っ込まれ、さらには周りから「そこは、水じゃなくてコーラがたまっているんじゃない」とか「その肉がなくなれば顔変わるだろうね」とか話題の中心であった。その話題の二重アゴというか、下を向く時かなり邪魔をしている肉、本人によると「小学校5年生のときから!」だそうである。
平成18年4月18日
皇牙は、先場所まで闘牙の付人であったが、その前は小錦関や水戸泉関の付人もやっていたそうである。そんな縁もあって、昨日、KONISIKIさんの店あんばらんすにてKONISIKIさんと元水戸泉の錦戸親方主催で、皇牙の十両昇進祝いの食事会が行われた。食事会には、当時の高砂部屋OBの梅乃里、南富、志免錦、角田という懐かしい面々も顔をみせた。
平成18年4月19日
志免錦さんは、平成8年秋場所を最後に廃業したが、平成になってからは、知る人ぞ知る名物力士であった。廃業するまで永らく高砂部屋のちゃんこ長を務め、16年あまり通算100場所のうち70数場所を序ノ口で取ったが、序ノ口での志免錦Vs有門戦は、新聞記者や関係者が土俵を取り囲んで見守る名物取組であった。若い頃から糖尿病を患い、廃業間際は眼底出血で視力がかなり落ち、ぶつかる直前まで相手が見えなかったそうだが、休むことなく土俵を勤め上げた。現在は資格を取って、マッサージはり灸院を埼玉県所沢市緑町で開業している。
平成18年4月20日
有門は、立浪部屋のおすもうさんで、こっちも志免錦に負けず劣らずの名物力士であった。数字は定かでないが、序ノ口で20数連敗した記録は、未だに破られていない連敗記録だと記憶している。20数連敗の後やっと白星を勝ち取った時は、スポーツ新聞に写真入で取り上げられるほどであった。
志免錦との対戦では、お互い攻め切れずに、そのうちどっちも力はいって動けなくなってしまい、3分を超える取組になるのが常であった。それもまた大相撲である。
平成18年4月22日
明後日の番付発表から晴れて関取となる皇牙、初手形を押した。最初200枚くらいの予定だったが、あっちからもこっちからもとけっこう依頼が増え、結局400枚も押すこととなった。手形を押して、これも初サインである。筆で皇牙と色紙に書いていく。最初は慣れない手つきながらも、400枚を書き終える頃にはサインもなかなか様になってきた。今日明日は、土俵築で稽古が休みとなる為、その初サイン入り手形を携えて、甚句の前唄のとおり「♪錦をヤー かざりて 母まつ故郷(くに)へ ♪」となった。
平成18年4月24日
5月場所番付発表。東十両13枚目の位置に、先場所までの幕下の文字と明らかに違う太々とした皇牙の四股名が見られる。今朝はまだ大部屋での寝床で、みんなと一緒で6時過ぎには起きて番付を折り、午後1時からは玄関の看板前で新番付を持っての新十両記念撮影が報道数社によりあり、夕方番付発送も落ちついた頃、4階個室へと引っ越した。しかしながら、13年間の大部屋暮らしからいきなり個室になると落ちつかないようで、「なんか寂しいですわ」と長年の大部屋生活をまだ懐かしんでいる風でもある。
平成18年4月25日
5月場所の新弟子検査が行われ高砂部屋からも埼玉県戸田市出身の黄宮(こみや)君が受検。埼玉栄高校でウエイトリフティングをやっていたそうで、パワーがあり、下半身も柔らかく楽しみな素材である。内臓検査の結果発表を待って、正式な入門決定となる。
先場所から行司見習いとして入門した山口は宇部出身の前田。4月に東京に戻ってからは、行司動作や相撲字の勉強に午前中国技館に通う毎日である。こちらも、5月場所から前相撲で行司デビューすることになる。
平成18年4月26日
先場所から元朝之助兄弟子が、35代式守伊之助を襲名したが、さらに今場所から伊之助改め、33代木村庄之助を襲名することとなった。文字通り行司の最高位を務めることとなった。『日本相撲大鑑』(窪寺紘一著、新人物往来社)によると、初代木村庄之助は享保11年( 1726年)に誕生したとあるが、金指基『相撲大辞典』(現代書館)によると、初代庄之助は寛永年間(1624~44)の行司だが実在は不明とあり、初代横綱明石志賀之助と同様、こちらも伝説の話で、それもまた相撲らしいといえば相撲らしいはなしであろう。
平成18年4月27日
庄之助・伊之助の立行司になると、呼ぶ時には「親方」と呼ばれる。それは『相撲大辞典』によると、明治22年に相撲会所が東京大角力協会に改組された時に「木村庄之助」「式守伊之助」は年寄名跡として認められたことからだそうである。ただし、昭和34年には年寄名跡から除かれたそうだが、待遇は年寄と一緒で、それ故いまだに「親方」と呼ばれるそうである。三役格までは兄弟子としか呼ばれないし、呼出しや床山の最高位も「親方」と呼ばれることはない。
平成18年4月29日
肩の手術で入院していた塙ノ里が退院してきた。元々脱臼グセがあったが、最近は寝返りを打っただけで外れることもしばしばあり、幕下上位から番付を一気に三段目まで落としていた。ダマシだましにも限界が来たようで手術に踏み切ることになり、幸い手術はうまくいったようだが、5月場所は休んで再起をかけることになる。また、首の怪我で治療中の朝奄美も今場所も休場の予定で、現在はもっぱらちゃんこ番の腕を磨く毎日である。
平成18年4月30日
昨日、横綱審議委員会総見稽古が国技館にて行われ一般にも開放され盛況だったようである。総見稽古に参加するのは幕内が前頭5枚目以上、幕下が15枚目以内となってはいるが、その番付にいなくても参加できないことはなく、部屋の関取衆も全員参加であった。そんなこともあり、大人数での稽古だからよっぽど芽が出ないと番数をこなせないが、師匠から「きのう何番いったんだ」と聞かれた皇牙、「えー、たしか2番くらいだとおもいますが・・・」と答えたら、「2番くらいじゃなくて、2番だけ!」と関ノ戸 親方にきっぱり訂正されていた。「え!なんで知っているんですか?」と聞くと、昨日は 「どすこいFM」の解説だったらしく、最初から最後までしっかり見ていたそうである。
平成18年5月1日
ベースボールマガジン社「相撲」の今月号に「どすこいFM」を担当している下角陽子さんの記事がでている。3年前の夏場所から実験放送として始めているそうで、主に警備担当の親方衆の空き時間に解説を協力してもらっているそうだが、最近ははゲストとして KONISIKIさんやプロレスの天龍さんも出演したり、北の湖理事長と武蔵丸親方が二人で解説したりと、放送もすっかり軌道にのっているようである。放送は十両取組から開始だそうで、持参のFMラジオ「83・4MHz」(館内貸し出しや特製ラジオの販売もあるそう)にて聴けます。(聴いたことないけど)
平成18年5月2日
また昨年5月場所から、無線LANを利用しての「Sumo Live TV」という映像や情報のサービスも行っているそうである。その映像サービスで「どすこいFM」の放送席生中継が見られるそうである。他に、「大山親方の相撲講座」、「裏方さんの仕事紹介」「館内マップ」「星取表」なども提供されているそうである。時間はやはり午後3時頃から。こちらは、ノートパソコンを持参しないと見れない。どのくらいの人が利用したことがあるのだろうか?ちょっと気になるところではある。国技館内も、毎場所いろんなサービスが始まっている。
平成18年5月3日
玉三郎が好きである。立ち姿を見ただけで惚れ惚れとしてしまう。動きはあくまでもしなやかでブレがなく、この世のものとおもえないほどの美しさである。その驚異的な身体能力、表現能力を支えているのは、あくなき身体への探究、鍛錬であろう。
今年2月の日経新聞の夕刊の「こころの玉手箱」に5日間 ほど手記を載せているが、その中に相撲の股割りの話もでてくる。20歳の頃、「白鳥の湖」を映画で見てショックを受けたそうである。股割り(開脚)こそが舞踏の世界での共通語だと感じたそうである。その日から開脚の練習を始め、3ヶ月でできるようになったらしい。それまでは、役者の世界には開脚という鍛錬はなかったそうである。
先月NHKの朝の番組に出演したときも、まことに見事な股割りを披露している。
平成18年5月4日
歌舞伎座で「鷺娘」のDVDを買って観ている。有名な「鷺娘」を始め、玉三郎の舞踊5作品が収められているが、派手な動きはそんなにないが、座ったり、立ち上がったりという上下の動きはけっこう多い。上下の動きの中でも軸はまったくブレない。重心線の中をスーッと沈み、スーッと吊られるように立ち上がる。脚の筋肉で立ち上がると、どうしても体のブレや、動きの途切れみたいなのがでてくると思うが、まったく淀みない。「イナバウアー」で流行りとなったが、後ろに反るときもそうである。「反る」というよりも重力にまかせて身体がしなっているだけのようである。
平成18年5月5日
「反る」ことに関しては相撲にも反り技がある。先場所、十両で三保ケ関部屋の里山が土俵の上で「イナバウアー」を決めたと話題になった「伝え反り」をはじめ、「居ぞり」「撞木反り」「掛け反り」「たすき反り」「外たすき反り」と6種の「反り手」が決まり手82手の中に含まれている。「反り手」は現代相撲では殆どといっていいほど見られなくなったから、稽古でも股割りは基本動作として残っているが、反る稽古は実際の稽古場では全く見られない。ただ、昔の相撲の本を読んでいると(どこで読んだか忘れたが)、昔は入門のときに身長体重を見ない代わりに、股割りと、正座させて後ろに反らせて、入門の基準にしていたというのを読んだことがある。
平成18年5月6日
闘牙が引退を決意した。3月場所で幕下陥落が決まり、稽古回しも黒く染め直して再起を目指してはいたが、腰の状態も改善せず、もう一度という気力も戻らず、引退の決意に至った。正式にはあす7日に発表することになっている。明日から初日だが、塙ノ里、朝奄美につづき大子錦も休場することとなってしまった。稽古中に膝を痛めてしまった為で、こちらは回復次第では途中出場の可能性はある。
平成18年5月7日
5月場所初日。幕内では栃東や白鵬が注目を集めているが、十両の土俵では新十両皇牙が大ブレイクである。まず土俵入りで化粧回しが話題となり、取組でも大熱戦を制して客席を大いに沸かせ、そして最後の弓取式でも注目を集めた。31年ぶりの関取としての弓取りが場所前から話題になっていたこともあってか、結びの一番が終わっても席を立つお客さんが殆どいなく、「ヨイショー」の掛け声や、終わった後の拍手も今まで経験したことのないほどの盛り上がりだったそうである。(本人談)
弓取りのために控えに入ったら、座布団が敷いてあったのにも驚いたそうである。 朝赤龍、大関魁皇を破っての初日白星。
平成18年5月8日
結びの一番が波乱となり、しかも土俵下に落ちた時に肘を痛めてしまう(初場所と同じ右肘)というアクシデントまで重なってしまった。氷で冷やしながら部屋に戻ってきたが、正直痛みはかなりありそうである。病院で診察を受け、あすの朝の状態をみての判断になりそうだが、心配ではある。ただ、怪我を治す能力や怪我に強いのも、横綱の強みというか、横綱が横綱であることの要因のひとつであることは間違いないことでもある。
平成18年5月9日
横綱になると、政治家や野球チームにつくように番記者と呼ばれる記者が各社つく。横綱担当の記者である。相撲担当は政治家の番記者ほど“夜討ち・朝駆け”はないと思うが、きのうのような一大事があれば、横綱本人や親方のコメントをもらおうと部屋の玄関前は、昨夜も今朝も番記者でいっぱいである。ある社は病院の前に夜遅くまで張りついたりもしたそうである。少しでも情報を得る為、付人やこっちにも電話がはいったりもする。休場がこれだけ大ニュースになるのも大横綱の証しであろう。その横綱を目指す栃東を朝赤龍が破る。最高の笑顔で部屋に戻ってきてビデオを繰り返し見ていた。まだ気は早いが、新三役へ一歩前進である。
平成18年5月10日
平成13年度のアマチュア横綱である朝陽丸、膝の怪我や網膜はく離もあって足踏み状態が続いているが、なんとか幕下の17枚目まで番付を戻してきた。初日は同じアマ相撲出身で一気に番付をあげてきた門元との対戦だったが、元アマ横綱とプロ生活5年目という意地を見せて勝ち、今日2日目は元十両の力士との対戦となった。元々突っ張りを得意とする力士だが、きょうは重くて突ききれないと思ったのか、ほぼ全部張り手であった。ちょっと大げさに言えば、30発は顔を殴られたであろう朝陽丸、口から鼻から大出血しながらも最後は組みとめて寄りきった。張りやすい顔(?)とはいえ、また勝負とはいえ、あまりの張り手連発に、支度部屋に戻ってきた対戦相手に朝赤龍が、一言苦言を呈するような激しい一番であった。
平成18年5月11日
幕下以下の取組では、水入りの相撲になると2番後取り直しとなる。幕下17枚目で2連勝と好調の朝陽丸、今日の相撲は水入りにもなろうかという長い相撲になった。裁く行司は勝次郎である。一日に5番裁く勝次郎、朝陽丸が本日4番目の取組である。あと1番で今日の裁きも終わりというときに4分近い大相撲である。2番後取り直しとなると、自分の捌きが終わっても帰れず、また控えで待っていて再度土俵に上がらなければならない。「ハッケヨーイ!」「進んで!」と声をかえながらも内心、「2番後取り直しにだけはならないでくれよな」と秘かに祈っていたそうである。その念が通じたのか、水入り直前で小手投げで朝陽丸3連勝。3分50秒の熱戦を制した。
平成18年5月12日
膝の怪我で休場中の大子錦、半月版の損傷があって手術入院することとなった。内視鏡での手術なので、2時間足らずで無事終了したそうだが、その間寝っぱなしでいいイビキをかいていたそうである。6人部屋で、隣のベッドには八角部屋のおすもうさんも入院しているが、隣だけに大迷惑を被っているらしい。それでも八角部屋のおすもうさんは、あす退院だそうで、「今晩ひと晩の我慢」と笑っていたが、同室のよかたは、あと3日も過ごさねばならない。同室となった不運を憐れむばかりである。
平成18年5月13日
休場中の横綱が突如稽古場に現れた。肘の治療に専念しているが、TVの中継を見ているとやはり気持ちは落ち着かないようで、久しぶりに土俵の感覚を確かめたかったのであろう。肘は靭帯が一部断裂しているようで、まだ固定しているのでもちろん稽古はできないが、軽く四股を踏みながら土俵の感触を確かめ、若手力士の稽古に目をやっていた。3連敗中だった朝ノ土佐と福寿丸,ようやく片目が開く。
平成18年5月14日
横綱との対戦がない為、初めての結びの一番となった朝赤龍、全勝の大関を破っての記念すべき白星となった。ちょうどモンゴルからお父さんも来日したばかりで、お父さんの見守る前で最高の親孝行となった。手にした懸賞は28本、名実ともに重く価値ある一勝となった。新三役も一歩一歩近づいてきており、後半戦がますます楽しみである。新十両皇牙も5勝目。相撲巧者若兎馬を双差しからの電車道で圧倒。「ここ10年で最高の一番」という快心の相撲で、あすからの後半戦に弾みをつける。
平成18年5月15日
相撲観戦後部屋を訪ねてきて、ちゃんこで一杯やっていたお客さんが「やっぱり、横綱土俵入りがないと寂しいし、結びも横綱がでてこないともう一つ締まらないね」と言っていたが、全くもってその通りであろう。それは現大関が役不足というのではなく、300年という伝統がつくり出してきた“横綱”というものに対する観客の想いでもあり、重さでもあろう。3年前、横綱に成りたての頃に休場した時とは、休場に至る過程も状況も違うが、3年前とは休場に対する意識が本人にとっても全く違うし、その重さの感じ方も大違いである。
東の支度部屋の雰囲気も全然違うと、誰か関取が言っていたのもTVで聞いた。
平成18年5月17日
見事な出し投げで大関琴欧州を破り勝ち越しを決めた朝赤龍、今日の一番で新三役と三賞がいよいよ見えてきた。その朝赤龍の付人をやっている朝陽丸、今日も勝って5勝目。来場所はまた10枚目以内へ上がってくるが、あと1番欲しいところではある。朝久保も勝ち越し。初日からの2連勝も内容のいい相撲で、今場所こそは5勝して幕下昇進なるかと思われた朝花田、2連勝のあとの4連敗で負け越し。幕下への壁がまた厚くなってしまった。
平成18年5月18日
取組表には、力士の名前はもちろんだが、行司や呼出しの名前も載っている。呼出しの名前は、資格者である十両格からしか載っていないが、行司は序ノ口から名前が載っている。あす13日目の取組表を見てみると、一番の勝負審判の名前のあとに東西とあり、(是より序ノ口)の文字の次に(木村悟志)の名前がある。是より序ノ口からの5番を木村悟志が裁くことになっている。その130数番後結びの一番を裁くのは、もちろん高砂部屋所属木村庄之助である。
平成18年5月20日
久しぶりの晴れ間で、“五月晴れ”といいたいところだが湿気が多く梅雨時のようでさえある。風薫るという言葉がぴったりな5月場所は、稽古をしていても浴衣を着てても一番過ごしやすいいい場所だが、20数年経験している中でも、これほど天候不順な5月場所は記憶にない。そんな悪天候をも吹き飛ばす快勝の朝赤龍、晴れ晴れと10勝目。十両でも皇牙が9勝目で優勝争いにまで絡んできた。泉州山も負け越してからの2連勝で十両残留へ向けて、明日も大事な一番となった。
三段目熊郷1勝3敗からの3連勝で勝ち越し。同じ横綱チームの神山は3連敗からの4連勝で昨日勝ち越しを決めた。
平成18年5月21日
千秋楽。皇牙が優勝決定戦出場で、三つ巴の最初の一番を勝ち、支度部屋でも大部屋でも大いに盛り上がったが、残念であった。浅草橋の共和会館で打上げパーティーが行われ、今日の取組を最後に引退することになった福寿丸の断髪式も行われる。
断髪式後、 210kgの体をスーツで包み、髪を七三に分けた鈴木敏勝の登場にはみんな大受けであった。
第二の人生は埼玉の実家にもどり家業の土木をやることになっている。
平成18年5月25日
断髪式に涙はつきものである。一人ひとりハサミを入れていき、声をかけられると、万感胸に迫ってくるものがあるそうである。先日の千秋楽で断髪式を行った福寿丸、一般客がハサミを次々と入れてくるにつれ、だんだんとこみ上げてくるのもあったそうで、何人目かの人が「ごくろうさん」と肩を叩いた時、いよいよ涙も溢れ出そうになったそうである。ところが、その「ごくろうさん」の次に出てきた言葉が「大子錦」という名前だそうで、溢れ出そう になっていた涙も”すーっ”と引いてしまったそうである。
平成18年5月27日
明後日29日から6月3日まで高砂部屋モンゴル合宿が行われる。国際子供キャンプ場での稽古、子供達へのちゃんこ振舞い、また6月1日にはモンゴル子供の日にあわせたイベントなども企画されているようである。この合宿に、細木数子、加藤茶も同行して、テレビ朝日のスペシャルで一部放送するそうである。
すでに24日から土俵築の先発隊として、呼出し利樹之丞と邦夫、それに大子錦がモンゴルに乗り込んでいる。
平成18年5月28日
モンゴル合宿にちなんで、というわけでもないのだろうが、成田空港第1ターミナル・中央ビル5F/展望デッキフロアにて 「一村一品マーケット」というイベントが行われていて、6月10日(土)午前10時から11時まで、朝赤龍に一日店長を務めるよう経済産業省からの依頼があった。当日は、モンゴル商品の岩塩や人形などのPRや来店のお客様との握手などが予定されているそうである。
もちろん、写真も、色紙を持っていけばサインなども大丈夫、なはずである。
平成18年5月29日
今日からモンゴル合宿へ出発です。
午後1時に大型バスにて成田へ出発。おかみさんのお父さんであるコノミヤの芋縄会長と会長の知人も同行。2時過ぎに成田に到着、TV朝日の控え室にて待機。3時半過ぎ控え室には今回の合宿に一緒に行くことになっている細木数子さんと加藤茶さんも来てご挨拶。5時に成田を出発、ソウルへと向かう。

ここから別ページで紹介されていた「モンゴル合宿記」を日付ごとに掲載

ーモンゴル合宿記ー
午後1時に大型バスにて部屋を出発。高砂部屋関係者が、横綱、朝赤龍を筆頭に木村庄之助親方、闘牙親方ら24名、テレビ朝日関係が16名のツアーである。2時すぎ成田着。横綱土俵入りの為特別参加する時天空や番組の出演者である細木数子や加藤茶も成田で合流。午後5時過ぎモンゴル・ミアット航空にて成田を発つ。
午後7時半過ぎソウルに到着。乗務員交替の為,一旦機外へ出なければならない。空港への出口でしばらく待たされる。韓国人の係官がきて、「イマ7時48分デス。8時10分マデニ36番搭乗口へキテクダサイ」と告げる。かなり歩かされ、また手荷物検査の探知機をくぐり、空港内へようやく上がり搭乗口へ向かうと、レストランに朝赤龍を中心に6,7人座っている。「ちょっと食事しましょう」と缶ビールとビビンパを頼みにいくが、ちょうどそこへ細木数子さんもスタッフと来て、ビールとビビンパを頼んでくれたので、声を揃えて「ごっちゃんでーす」
時計を見るとすでに8時5分である。スタッフから「8時20分にはここを出てください」ということで、あわててビビンパをかきこむ。
日本のビビンパと違って、中鉢に肉と野菜が入っており、別にご飯やキムチやカクテキや辛みそやらが小皿毎に盛ってあり、スープから何から全部肉と野菜の中鉢に混ぜて食べることになっている。要領がわからないおすもうさんのテーブルを、細木先生がひとつひとつ回って「全部混ぜて食べるのよ」と教えてくれる。急いでかきこむのと、キムチの辛さで、汗が吹き出てくる。缶の韓国ビールはライトでウマイ。
食べ終え時計を見ると8時19分である。急ぎ足で搭乗口へと向かう。何名かは走ってもいる。エスカレーターを降り、36番搭乗口へ到着すると、出発が遅れて9時35分になったそうである。「なーんだ、もっとゆっくり食えば良かった」何人かは再びレストランへUターンした。
時間通り(?)9時35分にソウルを発ち、ウランバートルへと向かう。ソウルまではかなり空席があって楽に座れたが、ソウルでほぼ満席となり、隣に153kgもある熊郷に座られると、かなり暑苦しい。2時間55分の旅だそうである。
30日に日付が変わって、零時40分ウランバートル到着。機内放送によると、気温4度だそうである。
荷物を出して、外に出ると、みぞれ混じりの冷たい雨で、ところどころ雪が積もっている。空港には先発隊で来ていた呼出し利樹之丞と邦夫が出迎えに来ていたが、昨日まで30度あったのに今日いきなり大吹雪になったとのことである。荷物を積み終え、チンギスハーンホテルへと向かう。午前2時過ぎ、ようやくホテル到着。
平成18年5月30日
ーモンゴル合宿記ー
ウランバートル市内から車で40分ほどかかる子供キャンプ場で、土俵の贈呈式、土俵祭、横綱土俵入りを行うことになっているが、今日も天候が悪く、屋外の土俵が使えるかわからないので、現地の状況を見ながらホテルで待機である。
午前11時、とりあえず行ってみようということで、バスでキャンプ場へと向かう。市内を出て、まわりの建物がバラックやゲルになり、それもなくなり、どんどん山を登っていく。あたり一面の雪景色である。寒暖の差が激しいモンゴルでも、6月も間近になっての大雪は何年かぶりのことらしいが、キャンプ場へ近づくにつれ、いよいよ雪は深く、除雪作業をしてようやく車が通れる、という具合である。
キャンプ場に到着。雪は降り止んでいるものの、20cm近くも積もっていて、現地スタッフが土俵まわりの整備にやっきである。しかも時折、雨が降ってきたりして難渋している。キャンプ場にある調理場では、大子錦を中心に、子供達に振舞うちゃんこ700人分の用意。鳥肉50kg、玉ねぎ30kg、キャベツ30個、・・・・という量である。鍋は、ごま油でニンニクを炒めて、そこに鳥肉をいれ、という鳥の塩炊き。お手伝いのモンゴル人の主婦たちも、大子錦のちゃんこの作り方に熱心に見入っていた。ズン胴の大鍋6つのちゃんこも出来上がり、空から少し薄日もさしてきて、準備万端である。子供達も、キャンプ場に続々とあつまってきている。時計を見ると、午後6時過ぎだがまだまだ真昼のように明るい。それもそのはず、日没は午後10時頃だそうである。
チンギスハンホテルへ戻り、10階の会場にてエルカムパーティー。ようやく夜になった。
細木数子さんや加藤茶さんもゲストとして参加して、モンゴルで有名な俳優さんの挨拶で始まり、馬頭琴や歌、モンゴルの民族衣装のファッションショー,曲芸師、ミュージシャン、コング・・・つぎからつぎへと出し物が盛りだくさんである。
日本盛提供の日本からもってきた樽酒の鏡割りもあり、ビールにアルヒ(モンゴルウオッカ)、日本酒、ウイスキーと飲み物も盛りだくさんである・・・
気がつくと翌朝、ベッドの上であった。
平成18年5月31日
ーモンゴル合宿記ー
今日も相変わらずの悪天候。ホテルでマワシを締め、12時にバスに乗り込んで、きのうのキャンプ場へ向かい稽古。の予定であったが、雨がやみそうにもなく稽古は中止となる。マワシをはずし、横綱が胸を出しての(ご招待)ランチに変更。
モンゴル風しゃぶしゃぶという感じで、ひとりひとり小鍋に塩味のスープを入れて火をつけ、肉や野菜や麺などを入れて食べる。香辛料もきいてかなりうまい。食事後、大旗にみんなで寄せ書き。お店から一人ひとりにウオッカの土産までありというVIP待遇である。玄関前でみんなで記念撮影。
夜は7時から(といっても明るいが)テレビ朝日のご招待でモンゴル料理店で夕食。羊肉が中心だが、お好み焼き風や普通のサラダ、ハンバーグ風、蒸し餃子風(ボーズという)などなどけっこういける。二日酔いがひどく、あまり量を食えないのが残念である。
平成18年6月1日
ーモンゴル合宿記ー
ようやく二日酔い(三日酔い?)も醒めてきたので、ホテルの近くを散歩。道路事情はまだ悪く、大通りもぬかるみや水溜りがけっこうある。今日はモンゴルの子供の日だそうで、親子連れも含め子供の数が目立つ。車は右側通行で交通量はかなり多いが、信号は大きな交差点しかないので、少しでも流れがゆるやかになると、どんどん渡る。ぶつかりそうになってもお構いなしである。車同士もそうで、はいったもん勝ちという感じで、みんなイケイケである。そのためクラクションもけたたましい。エネルギーに溢れている。バスが通るがその乗車率がすごい。窓中に人が溢れている。ゆうに200%はありそうである。タクシーも走っているが、白タクも多く、道端で手を挙げているが、モンゴル初心者には普通の乗用車との違いがまったくわからない。
子供の日のイベントで、広場は人でごった返しているが、待ちきれないのか、信号で止まったバスの窓からどんどん子供が飛び降りてくる。柵がある反対側へ渡るのも、柵を乗り越えたり、「え、そんな細いところ?」という隙間から抜け出て、どんどん行ってしまう。たくましき子供達である。
ちなみに6月1日生まれの子供は、この日遊園地なども全部タダだそうで、ガイドのエギ君は、6月13日生まれだったので、子供の頃「なんで6月1日に生んでくれなかった」とお母さんに泣きついたこともあったそうである。
2時半にマワシに泥着(ゆかた)姿でイベント会場へと向かう。広場に特設の土俵がつくられており、子供の相撲大会が行われている。優秀者に横綱から記念品が贈呈され、表彰式終了後、模範稽古と子供たちとの稽古。関取衆との稽古には、土俵を取り囲んだ大勢のお客さんから大喝采である。帰り道も、握手を求められ、もみくちゃにされるような大人気である。
  夜7時過ぎ(やっぱりかなり明るいが)、朝赤龍関の家族がみんなを招待しての夕食会。横綱と魁皇関のブロンズ像も登場。よくできている。生バンドつきの高級レストランで、今日もアルヒ(モンゴルウオッカ)でアリッ乾杯!である。
平成18年6月2日
ーモンゴル合宿記ー
朝9時半出発で、国立公園の観光。途中旭天鵬関の故郷ナライハを通り、バスで1時間半ほどゆられて到着。ゲルの中を見学したり、害虫が大発生して木が枯れてしまった山に植樹をしたりする。植樹の御礼に馬乳酒がまわされ、オバァが御礼の言葉を述べる。それをガイドのエギ君が訳すのだが、熱弁でなかなか終わらない。エギ君も苦笑しながらの通訳である。
ランチもキャンプ場内のレストランにて。羊のバーベキューがメインだが、サラダやお吸い物風の鶏肉とシイタケのスープもあり、相変わらず二日酔いの胃にもなんとかかきこめる。食事後、馬頭琴の演奏や歌や踊りを楽しむ。「ホーミー」といわれる独特の発声にみんなでブラボー!
キャンプ場を後にして、更に東へ(北かも?方角がよくわからない)20分ほど走る。亀石(モンゴル語でも聞いたが発音が難しくて覚えていない)と呼ばれる、亀の形をした自然岩を見に行く。日本でもたまに観光地に動物に似た自然石などがあるが、日本のものとは比べ物にならないくらいのスケールの大きさで、モンゴルの自然の大きさに圧倒されてしまう。亀石の前で記念撮影をしてウランバートルへ戻る。途中、ゴルフ場があったが、草原の中のゴルフ場なので、あたり一面グリーンで、旗の赤色でようやくわかる。OBもないかもしれない。2時半にホテル着。
ショッピングセンターで買い物をして、夕食はモンゴリアンバイキング。お好みの野菜や肉を皿にとり、調味料も自分ですきなものを選び、奥に持っていくと、円形の鉄板を囲んで3人のコックが回りながら焼いてくれる。焼きあがって皿に取る時にちょっとしたパフォーマンスなどもやってくれて楽しませてくれる。味もかなりよい。時刻は夜の8時半過ぎ、日本だと真っ暗だが、こっちはまだ真ッ昼間なので、店の窓からみえる道の反対側の広場で、子供達がバスケットをやっている。そこへ、食事を終えた熊郷、朝ノ土佐、塙ノ里も飛び入り。さらに、街路樹の横に積まれた土砂をトラックが回収にきて、スコップで投げ入れる作業が始まった。そこへまた朝野澤、朝久保、大子錦が助っ人として参入。一番うまかった大子錦に、すかさずコーラの大ジョッキがごほうびとして運ばれる。歩道上でのコーラの一気飲みにやんやの喝采に道行く人もカメラを構え、走行中の車も見物し、ちょっと渋滞してしまうほどであった。午後9時ホテルへ戻る。
平成18年6月3日
ーモンゴル合宿記ー
午前5時にホテルをチェックアウト。5時半に空港へと向かう。相変わらず冷え込みが厳しい。
搭乗券には7時15分発となっているが、7時40分すぎようやく搭乗。帰りは成田まで直行だそうだが、機内はほぼ満席で、このモンゴル数日間で更にアンコになった感のある熊郷のとなりはかなりきつきつである。
12時50分過ぎ成田着。
平成18年6月4日
『草原の記』(新潮文庫)は司馬遼太郎がひとりのモンゴル人女性ツェベクマさんを通してモンゴルについて語っている本だが、モンゴル・ミアット航空の機内誌をめくっていると(モンゴル語だから全く読めないが)3ページほど日本語の文章もあった。その1ページには司馬遼太郎夫妻がツェベクマさんと一緒に3人で車の後部座席にのっている写真で、もう一方にはツェベクマさんが娘さんと二人、舞台上で小渕元総理や海部元総理に囲まれ勲章を授かっている写真であった。機内誌の中で、その写真と記事を見つけて妙に嬉しかった。
平成18年6月6日
モンゴルという国を身近に感じたのは司馬遼太郎の本が最初だが、横綱が入門してますます身近なものとなり、一緒に大使館にいって餅つきをやったりもしたこともあった。そのときの駐日モンゴル大使がフレルバートルさんという方で、日本語が達者でずいぶん良くして頂いた。前記のツェベクマさん叙勲のときも一緒に写真に納まっていて懐かしく拝見した。そういう縁もあって、モンゴルへ行ってみたいという想いはあったものの、なかなか機が合わずに行けずにいたが、今回のモンゴル合宿のお蔭でようやく念願叶い、感慨深いものはあった。改めて『街道をゆく5モンゴル紀行』や『草原の記』を読み直してみると面白さが益々深まってくる。
平成18年6月11日
司馬遼太郎がモンゴルを訪れ『モンゴル紀行』や『草原の記』を記したのは、1973年と1990年のことだから、国家体制も経済状況も現在とは大きく違っている。日本もそうであったように、街や経済の発展で便利になっていくのと逆に、失われていくのもあるであろう。
ただ、モンゴルには、車で小一時間も走ると変わりようのない大草原がどこまでも広がっているのが、失うものをまだ少なくしていくような気もする。
明日から15日まで、恒例の茨城下妻大宝八幡宮での合宿。
平成18年6月12日
今日から茨城県下妻市大宝八幡宮での合宿。親方が節分の豆まきに来ていた縁で平成13年から合宿が行われるようになり、今年で6年目の合宿である。地元の方々ともかなり顔なじみになり、神社関係者はもちろん、出迎えの幼稚園生や小学生、いつもちゃんこ番を手伝ってくれる愉快なオバちゃんたちとも 一年ぶりの再会。
平成18年6月13日
稽古終了後、ちゃんこ200人分を毎日振舞う。ちゃんこ番で4人のオバちゃんたちも手伝ってくれるので、賑やかなちゃんこ場である。今年初めて茨城合宿に参加する朝奄美、「おすもうさんは名前なんていうの?」と聞かれて、「さわです」と答えたら、「サオ?」と聞き間違えられ「サオといえるほど立派なものはついていない」と突っ込まれ、妙な所で盛り上がってしまう。「年々、耳も悪くなるのヨー」「若い時の写真は今とは別人 ダッペー」「孫がバアチャンと顔そっくりで、カワイそーなのヨー」・ ・ ・ 話は尽きない。
平成18年6月14日
合宿地の下妻大宝八幡宮から車で10分くらいの所に実家のある朝野澤、4人いる茨城県出身者(他に塙ノ里、男女ノ里、 大子錦)の中でもバリバリのご当所である。そのお蔭もあって(?)、毎日泥まみれになっての稽古である。見学のお客さんもその辺の事情をわかっていて、今朝もフラフラになりながらのぶつかり稽古を終えたときには満員の客席から大きな拍手も起こった。
お父さんも毎朝息子の稽古を見守り、お姉さんもちゃんこ番を手伝ってくれたりしている。
平成18年6月15日
大宝八幡宮での稽古を終え、お客さんへのちゃんこの振舞いがひと段落したところで、関係者一同でちゃんこをつつきながら缶ビールでお別れ。3泊4日と短い期間ではあるが、祭りのあとの寂しさがある。片付け終了後、園児に見送られて帰京。
平成18年6月18日
先発隊6人(朝ノ土佐、塙ノ里、大子錦、一ノ矢、朝久保、朝奄美)名古屋場所の宿舎、蟹江龍照院入り。龍照院でお世話になるのは若松部屋時代の昭和63年からだから、今年で19年目となる。田んぼに囲まれた田舎だけに街並み自体はそんなに変わったわけでもないが、19年前に元気に部屋に顔を出していた人が老いてしまったり、当時赤ん坊だった子が成人したりと、取り囲む人々は年々変わっていく。それでも一年ぶりの再会は故郷に帰ったような懐かしさがある。
平成18年6月19日
先発2日目。雪のモンゴルや涼しい茨城合宿を終え名古屋入りすると、いきなり30度を超える真夏である。今日は全国的に暑いのだろうが、あっちこっちを回って名古屋に入った途端に暑くなると、やっぱり名古屋は暑い、というイメージがどんどんできてしまう。真夏の日差しのお蔭で、1年間しまいっぱなしのちゃんこ道具や鍋など、洗い物をして外に出しておけばすぐに乾き、先発隊の仕事ははかどる。外にホースを出して洗い物をしながら、水をかけあって水遊びをしながらの洗い物で、朝久保などはパンツまでビショビショだが、ビショビショのパンツもすぐ乾いてしまう。
平成18年6月22日
わが故郷徳之島で、12月6日(水)7日(木)の2日間巡業が行われることになった。正式には7月11日に発表になるが、天城町の野球場にテントをはっての開催となるようである。大阪在住の天城町出身の方が勧進元となり、これから島にも実行委員会が組織されるよう動き出したところである。天城町は大島部屋旭南海の地元で、文字通り故郷に錦を飾ることになる。徳之島での巡業は、確か昭和58年12月以来、20数年ぶりのことになると思う。
平成18年6月24日
元大関北天佑の二十山親方が急逝されてしまった。三月場所で体調を崩して入院生活をおくっていたのは周知のことではあったが、その余りにも早すぎる、あまりにも若すぎる死には関係者一同驚きでいっぱいである。部屋を興して十数年、ようやく関取も誕生してこれからというときだけに無念さもいっぱいであろうが、ご冥福をお祈りするばかりである。
平成18年6月25日
東京残り番も全員名古屋乗り込み。おととい稽古場土俵が完成して、幟も立ち、宿舎近辺も相撲の雰囲気が一日一日高まっていっている。散歩していても稽古はいつからですかと尋ねられるし、気の早い人は実際に稽古場にきたりもしている。明日番付発表で、明後日27日(火)から稽古開始。土俵祭は8時半からである。
平成18年6月26日
7月場所番付発表。朝赤龍、予想通りの東の新小結。皇牙も7枚目まで昇進である。朝君塚が朝翔冴(あさしょうご)と改名。朝乃翔の翔と闘牙の牙から一字ずつもらっての翔冴(しょうご)だそうで、朝乃翔の関ノ戸親方と闘牙親方が二人で考えてくれたそうである。そこに居合わせた元朝乃若の若松親方も、いっちょかみで「じゃあ、朝翔冴の朝は、朝乃若の朝をやる」といったそうで、三親方が名付け親という有り難き(かなり強引な気がしないでもないが・・・)四股名である。
平成18年6月29日
部屋から程遠くない所に市場がある。ちょっとした買い物のときは近くのスーパーを使うが、まとめ買いが必要なときは市場へ行く。ここのところけっこう野菜が高値だが、市場へ行くと毎年の顔なじみもあって、安いのを更に安くしてくれ大助かりである。大根1箱500円、玉ねぎ1箱800円、キャベツ1箱1000円、長ネギ1束500円という具合で、その上「これももっていきー」とナスやレタスも箱でサービスしてくれる。これも、蟹江で長年宿舎を構えているお蔭である。
平成18年6月30日
地方場所に来ると、幼稚園や施設、老人ホームなどの慰問も多い。若松親方は地元ということもあって、そういう仕事も多いが、数日前現役時代から付き合いのある一宮の老人ホームを朝陽丸と一緒に訪問したそうである。おじいちゃん、おばあちゃんも、毎年おすもうさんに会えるのを楽しみにしていて、記念撮影や握手などにも「いい冥土の土産ができた」と涙流さんばかりに喜んでくれるそうである。サービス精神旺盛な朝陽丸、記念撮影でおばあちゃんを一人ひとりお姫様ダッコしてあげ、これは自らやったのかやらされたのか、ホッペにチューまでしたそうである。いつにも増してみんな大喜びだったそうだが、そのうちの一人のおばあちゃんがその瞬間、口を向けてきたそうで、「ショッパカッタス」と、さすがの朝陽丸もちょっとだけへこんでいた。
平成18年7月1日
若い衆といってもちょん髷をつけたプロのおすもうさんであるから、強い弱いにかかわらずその存在自体が商品のようなところはあり、幼稚園や施設の慰問でも何がしかの御礼(祝儀)はでる。それが、給料のない若い衆にとってはアルバイト的な副収入でもある。人気のある関取ほどそういう仕事の依頼も多く、付人としては忙しい反面実入りはよくなる。もちろん御礼の額にも相場があり、番付によっても違い、関取になるとまた桁も違ってくる。忙しい地方場所もそういうのがあるから乗り切れている面もある。
怪我の回復具合も順調なような横綱、毎年恒例の熱田神宮での土俵入り。
平成18年7月3日
昔の話だが、ある人の家で食事をご馳走になり祝儀を貰った数日後、またその人に会った。今度もまた封筒を出してきたので「いやー、この間もらってますからもういいすよ」と遠慮したら、「いや、これはこの間の写真・・」と言われ、恥ずかしい思いをしたことがある。つい先日の某若い衆、出された祝儀に一度遠慮したら、そのまま引っ込まれてしまい「あちゃー・・」と悔やんだそうである。教訓その1ー出されたものを断ってはいけないーというところか。横綱、鳴門部屋へ出稽古。若の里相手に元気いっぱいの稽古を見せたそうである。
平成18年7月5日
九州場所ではやっさん家族がいるように、ここ名古屋場所では鈴木さん家族という存在がある。若松部屋のころから十数年部屋に出入りしているので、それも殆ど毎日なので、単なる支援者・サポーターというよりもほとんど部屋の一員といっても過言でないほどである。
駅への出迎えから、病院、買い物、釣り、荷物運び、食事・・・何から何まであらゆることで東奔西走の毎日である。田舎に宿舎を構えるのは、交通の不便さは確かにあるが、それを補ってあまりある地元の人との温かい交流を得られる有り難さがある。
平成18年7月6日
場所前恒例の激励会がウエスティンナゴヤキャッスルホテルにて行われる。名古屋高砂部屋後援会を中心に350名を超えるお客様が集まり、7月9日初日の名古屋場所での高砂部屋力士一同の活躍を期して祝う。横綱はもちろん、新小結朝赤龍や弓取りでおなじみの皇牙にも大きな拍手が送られ、写真撮影やサインに大勢のお客さんに取り囲まれていた。明日取組編成会議で、明後日土俵祭を行い初日を迎えることになる。
平成18年7月7日
昨年の1月場所で引退した朝闘士、付人をしていた若松親方の関係で一宮で結婚して介護の仕事に奮闘している。その姿が今日夕方の東海テレビ夕方5時半からのスーパーニュースで「〝介護”の世界で夢の関取に、大きな身体を生かして元力士が再スタート・・・」という特集で放送される。今年の1月場所に引退した高稲沢も、そういうツテで同じ職場に勤めている。
取組編成会議が行われ、横綱は新小結稀勢の里と、もう一人の新小結朝赤龍は、横綱昇進をかける白鵬との対戦。
平成18年7月8日
初日を前にして、名古屋場所恒例となっている宿舎龍照院のご本尊、重文「十一面観世音菩薩像」をご開帳して頂き、本場所の無事と必勝を祈願。龍照院は、天平5年(733)行基菩薩により草創され、寿永元年(1182)木曾義仲により再興されたと伝えられていて、最盛期には18坊という広大な敷地を誇ったそうだが、天正12年(1583)蟹江合戦で焼打ちに遭い、現在の龍照院一坊になってしまったそうである。NHKの大河ドラマ「功名が辻」でその頃のことが放送されているようである。
平成18年7月9日
名古屋場所主催者であるからでもあろうが、中日新聞には相撲の記事がけっこう多い。朝日の『天声人語』にあたる『中日春秋』という表紙コラムがあるが、今朝は「ハァー エー 花を集めて甚句にとけばヨー ・ ・ ・ 」という相撲甚句「花づくし」が紹介されている。「正月ことほぐ福寿草 二月に咲く のが梅の花 ・ ・ 六月牡丹に舞う蝶や 七月野山に咲く萩か ・・・」とつづく名作である。最後は「四つに組んだる雄々しさは これぞーまことのヨー ハァ ー 国の華ヨー ハァー ドスコイドスコイ」でおわる。今日から華やかに初日。朝赤龍が注目の白鵬を破り、横綱も万全のスタート。部屋全体も9勝1敗という最高の滑り出し。
平成18年7月11日
「意識」というのがそもそも何か、ということは現代科学では殆どわかっていないに等しい不思議なことである。でも、意識というのは間違いなく人間誰にでもあることであるし、その存在自体は疑いないものである。相撲の強さ、というものも、実際やっている人間にとっても今ひとつその実態がわからないものがある。筋力に優れている、スピードがある、というのは確かに強さの大きな部分を占めるが、わりと表面的なことであって、その奥にももっと色々な要素があるように思う。「意識」もその奥の中の重要なひとつであろう。幕下中堅で相撲を取っていた頃の皇牙、その頃と筋力やスピード自体はさほど変わらないと思うが、意識の成長は大きく(想像だが)、入幕も狙えそうな3連勝の名古屋場所である。
朝赤龍昨日の相撲で足を痛め今日から休場。ただこれからの回復具合で再出場の可能性はある休場である。
平成18年7月13日
モンゴルの大祭典ナーダムのブフ(モンゴル相撲)が開催され、横綱の次兄であるスミヤバザルさんが見事優勝を飾り、念願だったモンゴル相撲での横綱の称号を勝ち得たそうである。取組前の支度部屋でその吉報を聞いた横綱、涙流さんばかりの歓喜の雄叫びをあげたそうである。
平成18年7月14日
昨日の幕下上位の取組、朝陽丸と澤井の対戦があった。二人は同じ大阪出身で、共に有名な古市道場の出身である。朝陽丸が高校生の頃、澤井が小学生で道場に入門してきて胸を出して以来の仲間である。お互いやりにくい面は大いにあっただろうが、初戦は朝陽丸の兄弟子勝ちであった。でもこれからも度々対戦のある取組になるであろう。
勝って3連勝の朝陽丸、あすは澤井の同級生、明徳出身の春日野部屋のホープ影山との勝ち越しをかけた一番である。
平成18年7月16日
5月場所前に脱臼癖があった肩を手術した塙ノ里、術後の経過も順調にいき今場所から土俵に復帰している。1年前には幕下上位で相撲を取っていた塙ノ里、まだ肩の具合が万全ではないとはいえ、さすがに三段目の下位では地力の違いを見せて4連勝で勝ち越しを決めている。 最近は、幕下以下のおすもうさんもけっこう小銭を貯めていたりもするが、そういう生活と全く無縁で常にハングリーな塙ノ里、三段目優勝賞金30万円を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていることであろう。
平成18年7月17日
今場所から改名した朝翔冴(あさしょうご)、このホームページを見て入門した第2検査1号の力士である。入門したときは70kgにも満たなかったが、6年目となる今も日々トレーニングを欠かさず30kg近くも増量して稽古場でも力をつけてきている努力家である。ただ、本場所の土俵に上がると、手足が冷たくなるほど緊張してしまい力を発揮できずに序ノ口・序二段の往復を未だに繰り返しているが、今場所は、そいういう気の弱さからも翔びたって気持ちも冴えてきたようで、力強い投げでの早々の勝ち越しを決める。改名効果が早速現れたようで、この勢いで三段目まで駆け上ってもらいたいものである。
平成18年7月18日
雨がつづいている。雨の日になると、昔は(20年ほど前)、関取衆も前に泥除けのついた下駄で場所入りしていたが、最近は(ここ10年近くになるかもしれない)下駄を殆どみかけなくなった。雨の日にも同じように雪駄を履くのが当たり前になっている。黒い泥除けのついた下駄に蛇の目の傘もなかなか風情があったが、履きやすさや車で玄関から玄関まで移動するのが殆どで、雪駄でも問題ない等の事情も影響しているのだろう。エナメルの雪駄は、雨の日に履くと裏の皮がだめになってしまうのだが、最近は雨の日でも関係ない裏にゴムを貼ったビニールの雪駄(雪駄風の草履)もかなり出回っている。
平成18年7月19日
一般の方々は他人の履物を履いた経験はそんなにはないと思うが、誰でも他人の履物を履くと大きな違和感があるはずである。自転車でもそうであろう。それは、重心のかかり方の違いによる。重心のかかり方は、かなり個人差があるし、またその少しの違いにも違和感を覚えるのが人間の身体である。団体生活の相撲部屋では、他人の履物を機会は多々ある。そのたびに大きな違和感を覚える。個人によって本当に履き心地が大きく違う。昔、江戸時代の道場主は、道場破りにきた武芸者のカカトのすり減り方を見て、その武芸者の力量を量ったこともあるそうである。
幕下5枚目の朝陽丸勝ち越しを決める。十両下位の成績にもよるが、あと一番勝てば、新十両の可能性も大きく開けてくる。
平成18年7月20日
どういう磨り減り方が望ましいかというと、左右・内外均等である。自分もそうであるが、一般的にはカカト外側だけが減っていってしまう。重心が外に逃げている証拠で、足や脚の使い方、ひいては全身の使い方に無理がでてきて、シャープな動きができなく無駄な動きがより多くなってしまう。相撲は腰を割るということで、がに股がいいと思っておられる方も多いかもしれないが、一般的にいわれているがに股、O脚は典型的な外重心で、相撲というか、あらゆる競技、動きにマイナである。腰を割る(股関節を開く)ことと、がに股とは全く違うことである。
横綱優勝が日々色濃くなってきて、警察との打ち合わせや鯛の手配など、祝賀会にむけての段取りを始める。残り一番が注目の朝陽丸、最後の一番は14日目か千秋楽に十両との対戦となるようである。
平成18年7月21日
では、足の重心はどこにかかるのがいいかというと、脛骨(けいこつ=スネの内側の骨)の真下、内クルブシの真下である(高岡英夫氏の書による)。その位置が、人間の身体の重心と地球との接地点であるし、そこを中心に身体を使うと重力を無駄なく使えることになる。であるから、能の摺り足におけるカカトを接地してつま先を上げて足を運ぶ、ということは人間の身体、重力にのっとった正しい動きといえるのであろう。一般的なスポーツ科学で言われていたつま先に重心を置く、というのは大きな間違いである、ということを高岡英夫氏は語っている。
宿舎龍照院で横綱優勝の準備を行うが、あすに持ち越しとなった。
平成18年7月25日
重心を脛骨の真下にもってくるということは、現代人にとってはかなり難しいことではある。というか、これだけ物や情報が豊かになりすぎると、意識は外にばかり向かってしまい、自分の身体の中の意識、ましてや重心がどこにかかっているか、などと感じる能力は昔に比べてどんどん失われていっているものだと 思う。それゆえ、無駄なところに余分な力がはいり、歪がでて、現代病といわれるあらゆる病気の素になっているのではなかろうか。
平成18年7月27日
脛骨の真下(内くるぶしの下)に重心をおいて動くことが、人間の骨格の構造的に重力を最大限に、合理的に、使うことになる。特に立合い相手に当たるとき、脛骨の真下に重心を置いたまま当たると、足の内側(親指側)の線(インエッジ)が土俵に食い込むような動きになる。その分、足の外側(小指側)の線(アウトエッジ)は浮くことになる。立合いの時、つま先重心になっていると、カカトが浮いてしまうことになる。そうすると、重力をうまく使いきれずに 、自分の脚で自分の動きにブレーキをかけてしまうことになる。
平成18年7月30日
テレビやビデオを見るとき、足だけに注目して見るといろいろと面白いことが見えてくる。カカトを浮かさずに立ち合う、動く、ということがいかに難しいことかがわかってくる。そういう足の使い方ができる力士は本当に数少ない。双葉山の足は、カカトが浮く、ということはまずない。しかしながら、足指で土俵をかむとか、踏ん張るとかいう動きもなく、土俵の上を滑るように常に小刻みに動いている。また、けっこう足裏が土俵から離れたりもするが、カカトだけが浮くのでなく足裏全体を浮かしている。全員名古屋から帰京。あすからまた稽古再開である。
平成18年7月31日
雨の話から雪駄の話になり、雪駄の話から重心の話になってしまったが、一昨日蟹江の宿舎で後片付けをしていたときに雪駄が片足だけなくなってしまった。赤紫の目立つ色の雪駄だった。飲んで帰って来て、翌朝仕事をしようとしたら、赤紫の雪駄が片方しかない。下駄箱の下に入り込んでしまったか、どこか別棟へだれか履いて脱ぎ捨ててしまったか、捜せどどこにもない。ただ、灰色の大きな雪駄も片方だけ残っている。お昼前、若松親方と大学の後輩である某力士が中学生の相撲大会の観戦から帰ってきたら、ようやく出てきた。その某力士が間違えて履いていったようである。しかしながら雪駄の色は大違いである。さらに、大きさも小判と大判だからかなり違う。案の定、履かれた方はバコバコになっていた。履いた時にわかりそうなものだが、某力士は全く気づかず、 試合の観戦途中座って足元を見たとき初めて気づいたそうである。完全な色違いなので、「しまった」と思い、若松親方に気づかれないよう苦心したそうである。帰ってきたときもばれないようにそおっと帰ってきたが、すぐばれてしまった。「履いた時に気づけよ」と言ったが、某力士にとっては、下を向くのが大の苦手なことなのである。
平成18年8月5日
相撲の本来の季語は“秋”であるが、現代日本では夏が相撲真っ盛りの季節である。名古屋から帰京した7月30日がJC主催のわんぱく相撲全国大会であったし、今週は「相撲部屋開放」週間で、10の部屋で小学生や中学生を対象に相撲教室が開かれている。高砂部屋にも2日から昨日までの3日間、大田区相撲連盟の子供達が相撲教室に参加して、闘牙親方と朝ノ土佐、大子錦の指導の下、相撲体操やぶつかり稽古に汗を流していた。そして明日はまた、都道府県対抗の中学生の相撲大会が国技館で行われる為、部屋に香川県と徳島県のチームが、先生も含めて合計10名泊まりにきている。香川県の引率の先生は、朝ノ土佐の1年先輩の日大相撲部出身で、高校生のときには四国大会で顔をよく合わせていたらしく、昔話に話もはずんでいた。
平成18年8月6日
「相撲と俳句」で検索したみたら面白いページをみつけた。大相撲記録の玉手箱というところに俳句と短歌という項目があり、あるわあるわ、相撲に関わりのある殆どの俳句・短歌を集めてある。他のページもそのデータ量がものすごい。恐れ入谷の何とかで、全く感服してしまう。一旦郡山から帰京の巡業組、今日からまた北海道巡業へ出発。
今夏の巡業では、男女ノ里が、もしもの時のピンチヒッター用として弓取式に初挑戦している。
平成18年8月7日
俳句や短歌はあまり解さないが、芭蕉や蕪村までもが句題にしているのをよむとうれしくなる。実際に相撲を取っている身からすると、正岡子規や久保田万太郎の句は、相撲をこよなく愛していた感じが伝わってくるし、漱石の「相撲取の屈託顔や午の雨」という句も、情景が浮かばない気がしないでもない。茂吉の文ちゃんを詠んだ連句は悲しくもある。
平成18年8月8日
力士・相撲関係者編にも名句が多い。五七五という決まった短い枠の中で心を表現するのであろうから、より凝縮された心根が言葉として表れてくるのであろう。稲妻と陣幕の句が似るのもそういう身体の使い方、それだけのレベルの高い相撲を取ったからこそでてくる句であろうと、感じる。笠置山の「風薫る両国橋や勝ち角力」という句は、相撲に勝って帰る足取りの踊るような喜びが溢れ出てくる句である。勝った時には、本当に風が薫ってくるものである。
平成18年8月9日
度々大相撲記録の玉手箱から引用させてもらうが、笠置山についてである。笠置山という名前は、戦前の早稲田大学出身で学生相撲出身力士の草分的存在として相撲関係者には知られていると思うが、玉手箱の解説にあるように、中学生の頃から出羽ノ海部屋で生活していて、根っからの相撲取りで、学生相撲というよりも、学業にも秀でているお相撲さんだったから早稲田大学にも通ったというのが実状である。解説にあるように現役時代から、相撲評論、随筆、さらには小説までも書いていた正真正銘のインテリ力士である。双葉山69連勝のときに打倒双葉を謳(うた)った出羽ノ海部屋の作戦参謀だあったことは、あまりにも有名な話である。
平成18年8月10日
大阪場所の宿舎である谷町九丁目の久成寺(くじょうじ)でお彼岸の中日のときに毎年お見えになる僧侶は奈良の方で、笠置山の中学の2年後輩だという話を毎年聞かせてもらえる。中学生の頃から学業優秀で、もちろん身体も大きかったから目立っていたそうだが、後輩には優しくてみんなに慕われていたそうである。2,3年前、隅田川の花見祭りで餅つきをやって、終わったあと花見をしながら一杯やっていたら隣に座った主婦が、「わたしの父はおすもうさんだったんですよ」と言われ、四股名をきいたら「笠置山」だったことには驚いてしまった記憶がある。引退後も年寄秀ノ山として相撲協会の運営に尽くし、決まり手70手をまとめたり、出版活動も多数であったが志半ばで亡くなったときは協会葬として葬られたそうである。
平成18年8月11日
巡業組青森から飛行機2便で帰京。あすから16日まではお盆休みとなり、17日から台湾巡業出発である。21日に帰国して、25日に夏季健康診断。健康診断終了後平塚へ向かい、夏恒例の平塚合宿。27日に戻り、28日が番付発表である。
平成18年8月12日
現在、関取衆の場所入りは正装が義務付けられている。羽織袴が完全な正装だが、羽織か袴の片方だけというのも、略式正装とでもいうように認められている。また着流し(着物だけ)でも「染め抜き」だけは正装として認められているので交通機関の乗り降り時には「染め抜き」を着ることが多くなる。冠婚葬祭の時には黒紋付の羽織袴だが、パーティーなどの招待客となるときは色紋付(現在は本当に派手な色が多い)を着ることになる。
平成18年8月13日
若い衆にとっては、夏は浴衣、冬は着物が正装になる。部屋の催物(千秋楽打上げパーティーや激励会、昇進祝賀会など)のときは仕着せ(浴衣は部屋名入り、着物は揃いの色)を揃えて着る。番付が下だと、冬でも足袋を履けないと思っている人が多いようだが(よく聞かれる)、着物の時は足袋を履くのが正装である(履かなければいかない)。もちろん浴衣には素足で、足袋は履かない。(過去2人ほど浴衣に足袋を履いた大バカ者がいたが・・・)
平成18年8月16日
お盆休みも今日で終わりで、帰省の力士もそれぞれ部屋へもどってくる。故郷でのんびりとか、のんだりとか、それぞれの休みを過ごしたことであろう。
平成18年8月18日
「相撲健康体操」のDVDが発売になっている。相撲の基本動作を取り入れた「相撲健康体操」は、最近全国各地で教室が開かれたり、週間現代でとりあげられたりと静かな話題となっているが、それが詳しい解説付きでDVDとなった。中心となっている大山親方の解説はもちろん、以前何度か紹介した「腰割り」研究の筑波大白木助教授のスポーツ医学的な解説などもあり興味深い。さらにちゃんこの紹介までもある。子供から高齢者まで気軽に取り組めて、一般の体操よりもより体の中心、さらにはインナーマッスルにまで効果的な体操といえるであろう。
平成18年8月19日
相撲協会では、相撲健康体操プロジェクトチームというのを発足させて、相撲健康体操の普及、今回のDVDの撮影に取組んでいるが、その現場責任者というか中心になっているのが大山親方である。また、元朝乃若の若松親方もプロジェクトチームの一員としてDVDにも出演している。DVDは、親方衆や現役力士はもちろん、協会事務所の職員や国技館出入りの旧知の洋服屋のおやじさんも出演していて、伸脚や股割りに苦労していて微笑ましい。また、体操のお姉さんのような女性も二人参加しているが、こちらはさすがに見事な腰割りや、完璧な股割を披露している。
平成18年8月20日
まさに、熱闘!甲子園だが、さすがに準々決勝あたりから部屋での観戦もかなり熱くなってきている。部屋の力士の中では朝野澤が中学校時代野球部だったそうだが、木下マネージャーは長野県下の甲子園を狙えるような高校の野球部でレギュラーをやっていて、愛知大学の野球部出身である。また、闘牙親方も野球が好きで、チームをつくって時々試合をやっている。元房錦の3代目若松親方は、やはり中学時代野球部で、長嶋茂雄氏と同級生で「佐倉の長嶋、行徳の桜井(房錦の本名)」と当時の千葉県中学野球で双璧の実力だったそうである。現役時代は金田正一氏や西鉄ライオンズの選手ともかなり交流があったそうである。
平成18年8月22日
しばらくは早実の斎藤投手の話題が醒めやりそうにもないが、若松部屋時代は、毎年暮に野球場を借り切っての野球大会もやっていた。対戦相手は草野球チームや少年野球チーム、女子ソフトボールチームと、毎年対戦相手は変われども負けっぱなしであった。それもそのはず、野球経験者は、当時のマネージャーが岐阜第一高校の野球部出身だったほかは、遊びでやったものしかいなく、それはまだましで、野球を全くやったこともないのも何人かいた。十数年前、サッカーよりもまだ野球の方がメジャーだった頃だから、誰もが野球くらいはと思っていたが、セカンドがどこだかわからない奴もいたチームであった。
平成18年8月23日
チーム名は”若松ベヤーズ”といい、縦縞のユニホームも揃えてあった。ビッチャーはもちろん親方で、スピードはないものの、そこそこのコントロールで打たせて取るという流れにはなっていた。ただ、普通のゴロやフライを普通に取れる奴は限られていて、エラー続出でなかなか守備が終わらなかった。ライトフライが上がり、「おーい しんご! いったぞー!」と声をかけると、呼ばれたと思って「はーい」と声のする方へ駆け出してくる。もちろんボールは、はるか後ろへ転々である。外野に7人ぐらい人数を入れたこともあったが、変わりはなかった。
四股のあと、土俵を掘り返す。明日土俵築である。
平成18年8月24日
しんご少年は青森県出身であった。相撲どころだけあって、小さい頃から相撲はやっていたそうだが、野球は全くやったことがなかった。右利きだったから、右バッターボックスにはいるのだが、グリップが、右手が下で左手が上という左打者の握りで打った。まったくあべこべのグリップながら、バッティングは良くてヒットはけっこう打った。
しかし、どう考えてもそのグリップではおかしいだろうと、普通の右打者のグリップに直すと全く打てなくなってしまう。そもそもの右左の感覚が普通ではなかったのかもしれない。そんなムチャクチャな野球大会を毎年やっていたが、某ベテラン力士が、年甲斐もなく張り切りすぎて肉離れを起こしてしまったことや、6代目の葬儀と重なったこともあって、合併以来行われていない。
平成18年8月25日
元々の高砂部屋もけっこう野球好きは多くて、チームをつくって野球をやったり、またジャイアンツとも少なからず縁があったようで圧倒的にジャイアンツファンが多かった。当時はジャイアンツファンが多い時代ではあったものの、たまに「阪神ファンです」とかいっても、「バカヤロー!」 ボコッ!という感じで、体で覚えてジャイアンツファンになっていったものもいたであろうことは想像に難くない。応援もかなり本格的で、『高砂ジャイアンツ』という応援歌もあったほどである。
♪「タ カ サ ゴ ジャイアンツ♪ 土俵の暴れんボー 」♪、と軽快なテンポの歌であった。
今日から8月末恒例の平塚合宿。明日、明後日運動公園の土俵で稽古が行われる。
平成18年8月26日
高砂部屋で一番古い輝面龍に聞いたら、さすがに最後まで覚えていた。♪「タカサゴジャイアンツ 土俵の暴れん坊  ガンとぶつかれ 一気に押せよ 稽古千番 鍛えた技で 勝って勝ち抜け 晴れの場所 高砂一門 どいつもこいつも ドスコイナ ドスコイナー  アー ドスコイナ ドスコイナ」♪ さすがは名門高砂部屋である。
平成18年8月27日
輝面龍が高砂部屋に入門した(昭和60年)大阪場所のころ、毎日この『高砂ジャイアンツ』を歌わされたそうである。当時は入門者も多く、新弟子が10人くらいいたそうだが、稽古が終わると当時の錦戸親方(元大田山)に呼ばれて整列させられて、「番号!」を言っていくそうである。「いち」「にい」 「さん」「しい」「ごお」「ろく」「はち」「きゅう」・・・「しち」は必ず飛ばさなければならないらしい。みんな言い終わったところで親方が聞くらしい。「しち はどうした?」そうすると「先月流しました!」と言うのが決まり文句だそうである。必ず毎日だそうである。番号!が終わると、全員で♪「た!か!さ!ご! ジャイアンツ!」とこぶしでテンポをとりながらの歌がはじまるそうである。ジャイアンツの応援歌というよりも、単なる部屋の歌だったようである。その辺も、さすがに名門高砂部屋である。平塚合宿から帰京。明日が番付発表である。
平成18年8月28日
秋場所番付発表。横綱は昇進翌場所から21場所連続での定位置東の正横綱だが、先場所1勝の朝赤龍は9枚目まで番付を下げ、皇牙も10枚目まで落ち、勝ち越しの少なかった若い衆も軒並み番付を下げている。そんななかにあって、朝陽丸がほぼ自己最高位に近い三枚目まで番付を戻してきて、いよいよ勝負の場所である。辛うじて朝野澤が自己最高位を更新。これまで序ノ口での勝ち越しはあるものの、序二段では未だ勝ち越したことがないので、そろそろ脱却したいところである。
平成18年8月29日
テレビ東京月曜夜10時からの番組カンブリア宮殿に横綱が出演するそうで、部屋での稽古風景の撮影も今日から行われる。来週月曜日9月4日の放送だそうである。午前8時半土俵祭りが行われ、いよいよ秋場所へ向けての本格的な稽古再開である。4日(月)は横審総見稽古(一般には非公開)、5日(火)に綱打ちの予定である(同様に非公開)。
平成18年8月30日
幕下西3枚目まで番付を戻してきた朝陽丸、膝や目の怪我とも闘いながらの力士生活だから、稽古もまだまだ全開とはいかず状態をみながらの調整という具合ではある。ただ、小学生のときからの相撲生活だから相撲歴は長く、そのへんの調整は手馴れたものではある。アンコらしく夏に太ってしまったそうであるが、ここ数日で5kgほどしぼったそうで、(見た目には全くわからないが)今場所の目標は「スピード&ビューティ」と何処かで聞いたような宣言をしている。
ときどき意味不明のことをいうのも朝陽丸の特徴である。
平成18年9月1日
9月場所前恒例の本所高砂会が第一ホテル両国にて行われる。元々平成8年に本所若松会として発足したこの地元との懇親会、今年で11年目を迎えるそうである。この日記を書き出した平成9年8月30日にもあるように(この年が第2回目)、当時小学校5年生だった成紀(しげき)君も立派な大学生となり、今日もカラオケで歌も披露。なにせ小学生の頃から歌いなれているから上手なもので、アンコールまででる盛り上がりよう。立教で相撲部にも所属している。
平成18年9月2日
33代木村庄之助襲名披露宴が新高輪プリンスホテルにて行われる。部屋関係者はじめ、一門の親方衆、関取衆ら400人近いお客様が集い盛大に祝す。行司さんも三役格までは兄弟子と呼ばれるが(朝之助兄弟子)、立行司になると親方と呼ばれることになる。年寄、横綱 大関とともに評議員となり、理事および監事の選挙権をもつことにもなる。行司さんも65歳定年なので、来年3月場所まで木村庄之助として結びの一番を裁くことになる。
平成18年9月3日
今回の33代木村庄之助襲名披露宴にあたり、呼出し利樹之丞が襲名披露の甚句をうたって宴が始まった。
♪「ハァードスコイ ドスコイ あの日 夢見た 結びの一番ヨー  ハァードスコイ ドスコイ ハァー故郷青森あとにして 行司めざすは13歳 名門高砂入門し 軍配裁きに相撲字と つらい修行の毎日も うれし十両昇進の 名乗るは三代朝之助  平成2年は幕の内 返す軍配凛として 裁く姿も美しく 声量豊かな勝ち名乗り 土俵ひとすじ半世紀 天下無敵の朝青龍 部屋の隆盛いまここに 昇進果たすは立行司 三十三代庄之助 苦楽をともにす一同が ご支援くださる皆様と 挙げてお祝いヨーホホホイ アー申しますヨー ハァードスコイ  ドスコイ」♪利樹之丞作の甚句である。
平成18年9月5日
朝夕の風は秋になってきたとはいえ、まだまだ日中は残暑厳しき毎日である。そんな中、冷を素早くとれるようと、枕元に置くクーラーボックスを買った朝花田である。倹約家の花ちゃんとしては、かなり思い切った 買い物だったようで、枕元にセットしたときには快適な生活に自身満々だったが、使い始めて3日、いちいち氷を入れなければならないし、水滴も垂れてくるしで、普通に2階の大部屋にある冷蔵庫に冷やしたほうが、よっぽどましだということにようやく気がついた。ムダこそ文化、ともいうけれど、自信をもってやることがことごとくムダに終わり、裏目にでてしまう朝花田である。
東京場所前恒例の綱打ち。
平成18年9月8日
取組編成会議が行われ、初日二日目の取組が決まる。東の正横綱は、初日は西の小結と対戦するのが常だから、予想通りに黒海との対戦。注目の白鵬は東小結の稀勢の里との初日。幕下以下の取組がわかるのは、明日の触れ太鼓が来たときである。
平成18年9月10日
皇太子ご一家の観戦、というよりも愛子さまのご観戦でおおいに盛りあがった感のある初日。昭和天皇の血を濃く継がれたかのような愛子さま、決まり手から力士のフルネーム、出身地までも詳しいそうである。ちなみに、天皇が観戦する相撲のことを天覧相撲というが、天皇以外の皇族の観戦は台覧相撲というそうである。
平成18年9月11日
今場所も2連勝と好調な滑り出しの皇牙。関取になると力士幟を国技館に立てることができるが、今場所は”皇牙関”へという幟が3本も立っている。両国駅に近い幟は、元々の高砂部屋の頃からお世話になっていて場所まで送り迎えをしてくれる「徳さん」という方が贈ってくれた幟である。皇牙関へという文字の下には贈り主の名前もはいるが、そこには『応援団長 徳永○○』という名前が誇らしげに旗めいている。普通は、宣伝のための会社名や後援会名が入るが、応援団長というのは、今までにない響きである。残りの2本は、「女優 重田千穂子」「女優 鈴樹志保」という幟で、これまた異彩を放っている。
平成18年9月15日
幕下3枚目まで番付を戻してきた朝陽丸、今日は十両の出羽鳳との対戦。幕下力士も、十両との対戦の時には大銀杏(おおいちょう)を結うことになっているから、部屋で大銀杏を結っての場所入りとなったが、土俵際まで攻め込むも攻めきれずに、3敗目を喫してしまった。 朝稽古のあとの風呂上り、白地にえらい派手な柄のパンツをはいているので、「なんじゃそれは!」と聞くと、「今日はこれでいくっす!」と気合十分であったが、気合の勝負パンツも空しくの黒星である。残り3番に起死回生をかける。
平成18年9月16日
一横綱五大関が敗れる史上初の大波乱となった昨日の国技館。さすがに今日は、横綱が無類の強さを見せつけて大波を鎮めた。3連敗だった泉州山にようやく初日。こちらは、これからまた波を起こしていかなければならない。
平成18年9月17日
中日を終え、横綱を筆頭に勝ち越し大手が6人。反対に逆大手も5人。
平成18年9月18日
先場所から改名した朝翔冴(あさしょうご)。じつは場所前の稽古で目を強打して診察を受けたら、最初にいった病院では眼底下の骨折があるから即入院して手術しなければならないといわれてしまった。休場も覚悟していたが、半ば医者を振り切るようにして病院をでて、念のため翌日別の病院で再診したら、しばらく様子を診ましょうということで、何とか出場できた状態ではある。今日勝って2勝目をあげ、勝ち越しへ望みをつなぐ。朝陽丸も同様2勝目をあげるも、熊郷が今場所第1号の負け越し。
平成18年9月22日
3勝3敗で最後の一番に臨んだ3人。朝翔冴は勝ち越すも、朝花田、輝面龍は負け越し。とくに朝花田は3連勝からの4連敗での負け越しで、さすがにがっくりである。横綱の18回目の優勝が明日にでも決まりそうで、鯛の手配や後援会への連絡などなど、優勝への準備をいろいろと始める。
平成18年9月23日
千秋楽前(13日目とか14日目)に優勝が決まると、部屋で、鯛を前にの乾杯の記念撮影が行われるのが恒例となっている。昨日、横綱が安馬を破った時点で今日の優勝の可能性も出てきて、早速後援会へお願いしたのだが、今日23日が祝日で市場が休みの為、かなり苦労しての入手となったようである。そういう訳もあって、いつもより小ぶりの「めで鯛」となってしまった。優勝決定後の一番が黒星となってしまった横綱、いつもなら「明日も相撲があるから早くしてよ」と大きな鯛をもつ手も震える所、今日は、「この鯛カワイイね」と余裕の記念撮影となった18回目の優勝決定である。
平成11年10月2日
徳之島の郷友会である関東徳州会が60周年を迎えたそうで、昨日の上野水月ホテル鴎外荘のパーティーに参加した。受付で会費を払おうとしたら、「あ!一ノ矢さんはゲストですからいいんですよ」といわれ、「招待された覚えはないけど、ま、いいか」と中に入って宴会のプログラムを見たら『相撲漫談 一矢』とある。受付の人の勘違いが納得できた。
相撲漫談一矢(かずや)さんとは、以前一緒に食事をしたこともある旧知の仲だが、呼出しの装束で柝(き)を鳴らしながらの楽しい舞台を初めて見せてもらった。徳州会の方々も大半が、一矢は「ノ」を入れ忘れていると思っていたそうである。相撲甚句はたまに歌うが、相撲漫談はさすがにやったことはない。
平成18年10月3日
稽古再開。きょうから東関部屋への出稽古となる。東関部屋と友綱部屋はほとんど年中一緒に稽古していて、若松部屋時代は3部屋合同の機会が多かったが、若松部屋と高砂部屋の合併時には30人を超える部屋となったから、ずっと部屋での稽古だったが、ここのところ若い衆の数が減ったこともあって、合併以来初の出稽古となった。3部屋合同となると、40人近くなるから、稽古場も芋を洗うような、四股を踏む場所を捜すのにも苦労するような、溢れかえるような稽古場である。巡業出発まで出稽古の予定である。
平成18年10月4日
人数が多い場合の稽古は、申し合い稽古と呼ばれる方式の稽古になる。申し合い稽古とは、勝った力士が次の相手を指名していく稽古で、勝負が決まった瞬間に勝った力士のところへ、周りを囲んでいる力士が集まる。「ごっつぁんです」「ごっつぁんです」・・・と声を出しながら、自分とやってくれと、勝った力士の周りを取り囲む。指名権は、勝った力士にある。大体は目の前に来た力士を指名することになるが、たまに少し遠くても「ごっつぁんです」の売り込みの威勢に押されて、ということもある。それゆえ、積極性が稽古をするための条件になってくる。生存競争にも強くなってくる。
大部屋の良さ、強さはそこにある。
平成18年10月5日
相手が順次変わっていく申し合い稽古に対して、同じ相手と何番もやる稽古を三番稽古という。もちろん、三番で終わるはずもなく、10番、20番と番数を重ねていく。人数が少ない場合には三番稽古が中心になる。二人だけとは限らず、3人もしくは4人(4人は三番稽古というか申し合いになるか微妙だが)での三番稽古というのもあり得る。三番稽古には、じっくりとたっぷりと稽古できる、続けてできる、という良さがある。
昔から、力をつけるには三番稽古、とはよく言われている。
平成18年10月7日
申し合い、三番稽古とならんで代表的な相撲独特の稽古には、“ぶつかり稽古”がある。胸を出す方(受け)とぶつかる方にわかれて、頭からぶつかって押す、当たって転ぶを、ただひたすら繰り返す。これをヘトヘトになるまでやるから本当に苦しい。苦しい中で、動かない相手を何とか少しでも押そうと頑張りもがいていると、体表面のムダな力が抜けて、身体の中心の筋肉を使って押せるようになってくる。なかなかそこまで自分を追い込むのは難しいことだが。
昔から、四股とぶつかり稽古さえしっかりやれば強くなれると言われてきている。
平成18年10月9日
熊郷、元々悪かった膝を数日前に手術して入院している。部屋では、というよりも、全力士の中でも1,2位を争うのではないかというほどのイビキの横綱である熊郷。さぞや同室の方々は夜も寝れずに迷惑を被っているであろうなと、その苦労を察しつつ見舞いに病室を訪れると、反応がわりと普通である。聞くと、さすがに初日でレッドカードが出たそうで、2日目からは就寝時間になると、個室に移動させられて、クーラーの十分効いた部屋で、イビキのかき放題だそうである。本人もいたってすっきりしている。イビキも、核実験ほどのレベルになると役にたつものかもしれない。
平成18年10月10日
昔(昭和50年代だと思うが)、ベースボールマガジン社の『相撲』で、「三保ヶ関国秋の相撲ゼミナール」という連載があった。元大関の初代増位山で、現三保ヶ関親方の実父で、現理事長の横綱北の湖の師匠でもあった方である。相撲の基本から稽古方法、技術、心構え、服装や生活全般にいたるまで幅広く綿密に、昔からの伝統や正しい方法、所作などを語った貴重な連載である。46回にわたる連載の第1回目は“四股”である。
平成18年10月12日
朝日新聞夕刊の一面に「ニッポン 人・脈・記」という連載があるが、最近相撲ネタで『十五尺無限』と題打って、昨日が9回目であった。9回目の見出しは “ひたすら磨く 脇役の道”“「仕事は盗むもの」脈々と”として、大相撲の脇役「床山」「呼出し」「行司」についての話である。それぞれの写真つきだが、 床山は床寿さんが、呼出しは利樹之丞の姿が一面を飾っている。記事を書いているのは相撲担当として長い根岸敦生記者である。
平成18年10月13日
10日の日記に書いた「三保ヶ関国秋の相撲ゼミナール」①は四股である。“四股の本義”と題して、10コマの連続写真やイラストを駆使して、本当の四股とは、について述べている。声を大にして語っているのは、足を高く上げるのが四股の目的ではない、ということである。基本の四股立ち(腰割り)の姿勢を崩さずに、腰から上げて腰から下ろす、ということが一番大事なことと述べている。巡業組、埼玉の羽生市へ出発。今回の巡業は久しぶりに民泊(一般家庭に泊まる)もあるそうである。
平成18年10月14日
巡業組、羽生市の巡業を終えて帰京。終わり次第の各自解散なので十両皇牙の付人朝翔冴がまっ先に帰ってきたが、昨夜は関取と二人、羽生市の一般家庭に泊めてもらったそうである。初老のご夫婦の家庭で、近所の方も数人出迎えてくれたそうである。昔のように、食事もその家庭でという風ではなく、民泊の力士を全員集めて食事の場所は別に用意してあるそうである。食事後、家へ戻り、ご夫婦が経営されているカラオケスナックで一杯やって交流を深めて就寝という感じだったそうである。ホテルしか経験したことがない若い力士にとっては新鮮な経験であろう。
平成18年10月18日
20年ほど前の巡業では、田舎町をまわることも多かったため、旅館やホテルが足りなくて、素人宿と言った民泊もたまにあった。受け入れ側も、関取が、おすもうさんが泊まりに来るという事で、わざわざ布団を新調したり、風呂場を新しくしたりという話も時折聞いた。夕食は、近所の人や親戚一同集まっての宴会である。人付き合いの苦手なお相撲さんにとっては苦痛の場合もあったかもしれないが、面白さ楽しさはあったし、何より人情にふれる喜びもあった。朝赤龍が泊まった家庭は、野球をやっている子供達が3人いる家族だったそうで、子供達とも仲良くなり早速御礼のメールも届いていて、えらく感激していた。これからは、こういう機会を増やしていくのも相撲普及の大きな力になるかもしれない。
平成18年10月19日
テレビ放送が半世紀を超え、放送局も増え、BSやスカパーの参入もあり、それぞれの視聴率が落ちていくのは当然のことである。そういう時代にあって、テレビコマーシャルもだんだんと難しいことになっていくのは想像に難くない。ネットの普及によりますますその傾向は強まるあろうし、そういう背景の中でのミクシィの活況や大相撲懸賞の増加なのであろう。
これからは口コミがどんどん大きな力になっていくような気もする。そういう意味でも、巡業で民泊をやっていくのは昔と違った価値観が大いにあるのかもしれない。もちろん、双方の選択基準は必要ではあろうが。
平成18年10月20日
先発隊4人(一ノ矢,大子錦、朝久保、朝奄美)福岡乗り込み。福岡空港では、いつものやっさん夫婦が出迎えてくれる。やっさんの奥さんの車で、毎年恒例となっている空港近くにある天ぷら屋へ直行。カウンターで100席ほどもあるが、お昼時は常に満席で、待合のイスも2,30人の行列である。回転は早いので待つこと数分でカウンターに着つけるが、揚げたての天ぷら定食じたいも安くてウマイうえに、カウンターの上に並べられた食い放題のイカの塩辛や高菜、漬物もそれだけで大盛り丼の飯がかきこめる旨さで、宿舎についてからの仕事を考えると食い過ぎ注意報と戦いながらの福岡上陸である。曇天だが汗ばむほどの温かさである。
平成18年10月21日
博多に来ると、食いもんがやたらおいしく感じる。みんなが口を揃えていうことである。昨日の天ぷら屋や、部屋の裏の藁巣坊(わらすぼ)のギョウザやごまサバ、豚足はもちろんのこと、単なるオニオンスライスや生キャベツなどにも何ともいえぬ味がある。博多の街が、おいしく感じさせる雰囲気、気候風土を持っているのか、来る季節がいいのかなどとも思うが、ビールや焼酎の味は東京と変わりない。鮮度のよさ、水のよさなども関連しているのであろうか。
同じ材料、同じつくり方でつくる部屋のちゃんこも、博多で食うほうがうまい、というのもみんなの一致した意見である。
平成18年10月22日
宿舎の成道寺には冷蔵庫やら鍋やら自転車やらの家財道具一式は置いておけないため、基山の農家の倉庫に預けてある。一切合切だとかなりの量になり、トラック2台でも積み残しが出るほどで、荷物運びが先発隊の仕事の一番のメインでもある。その引越し作業のトラックの手配から運転手、基山の農家との窓口、すべてはやっさんの奥さんの段取りによるもので、さらには今日の作業も、非番のやっさんはもちろん、社会人となった長男と中2の“けんと”までもが一家総出で手伝ってくれている。さらに、知人の先生の教え子の福大レスリング部の1年生も助っ人に参加して、大仕事もまたたく間に片付いてしまった。
平成18年10月29日
全員高野山の巡業から福岡入り。新大阪まで出て新幹線での博多入りなので、部屋に到着したのは10時半頃である。それから東京から送った荷をほどいてセッティングしてと、慌ただしい。あすが番付発表である。
平成18年11月1日
プレジデント社が出しているdancyuという月刊の料理雑誌がある。毎月6日発売だそうだが、来月号の特集がちゃんこだそうで、昨日から3日がかりの取材に、宿舎成道寺を訪れている。昨日が鳥の塩炊き、今日がキャベツ鍋、あすが湯豆腐の予定である。綺麗な写真がたっぷりの8ページにも亘る特集になるようである。
平成18年11月2日
景気回復が叫ばれだして久しい今日この頃だが、もともとの都市規模の違いもあるだろうし、福岡博多は実質まだまだの感は否めない。でも、夜の中洲だけはかなり活気に溢れている。今日は連休前だったということもあるが、人通りも夜遅くまで賑わっていて、相撲関係者に会うことも度々である。銀座、六本木、ミナミ、新地、錦などなどに比べても負けない熱気を感じる。元々九州人が酒好きだということもあろうし、中洲じたいが狭い範囲なのもあるであろう。それだけに凝縮された 面白さもある。一年締めくくりにふさわしい街だといえよう。
平成18年11月3日
生まれた時から部屋に出入りしているやっさんの息子“けんと”、中学2年生になった。部屋との関わりも14年を数え、強いて言えば皇牙と同期生ともいえなくはない。今日からの3連休で、先発の時以来部屋に泊まりにきているが、掃除やちゃんこ番など全く違和感なく溶け込んでやっている。そろそろ来年は進路決定の時期が迫ってくるが、熱心なスカウトをしている利樹之丞や邦夫の呼出し稼業よりも、興味は床山に向いているようでもある。ただ、床山だと全く別の部屋所属になる可能性が高く、悩むところでもある。と言いつつ本人はたまに「世話人にもなりたかと」とのん気にいっている。(世話人になれるのは元力士のみであるが)
平成18年11月4日
本年初のアラの差し入れがあり、アラ鍋。横綱のタニマチである京都のよーじやさんから届いたアラで、35kgはあろうかという大物である。大物であるにもかかわらず、身はしまっているし、アブラも程よくのっているしで、最高級のアラである。見た目はどちらかというとブサイクな方のアラ、藁巣坊さん親子の手助けはあるにせよ、ちゃんこ長大子錦の包丁でさばかれていく。アラをさばくのは、大変な技術と労力がいるが、そんな苦労も知ってか知らずか、「あ!アラがアラさばいとう」と言われつつの初アラである
平成18年11月6日
地方場所へ来ると、幼稚園や小学校を訪ねて子供達と交流という機会も多い。福岡県の南寄り筑後市にある古川小学校とは縁あって、7,8年前から交流がつづいている。ここ4年ほどは朝赤龍が付人と共に訪問していて、父兄らが見守る中、“古川場所”と銘打ってマワシ姿で園児から6年生まで全校生徒と相撲を取って楽しんでいる。子供好きの関取にとっても、場所前の元気をもらう貴重な場となている。本場所へ向けても、出稽古に精を出す毎日である。
平成18年11月9日
九州場所前恒例の高砂部屋激励会がホテルニューオータニ博多にて行われる。300人近くのお客様が集まり、九州場所での高砂部屋力士一同の活躍を祈念してのパーティー。入門13年、初めて地元福岡に関取として帰ってきた皇牙。
お母さんも入門以来毎年このパーティーに参加して、ここ数年は、そろそろ今年限りでと思いながらの出席だったそうだが、いままで辛抱した甲斐あっての晴れ姿となった。
平成18年11月10日
稽古上がり、横綱のマネージャーが食器洗いのスポンジを2つとスポーツ新聞を手にしていた。洗車にでもスポンジを使うのかと思ったが、あにはからんや新弟子に「スポニチ」を買ってきてくれと頼んだのがスポンジになってしまったそうである。一瞬まぎらわしいかとも思ったので、「スポンジじゃなくてスポニチだよ。」と言いなおしたのがよけいに混乱を招いたようで、コンビニに行って迷ったそうだが、気を利かせて(?)両方買ってきたのがスポニチとスポンジになった。元からある食器洗い用のスポンジがそろそろ痛んできた頃なので、横綱マネージャー寄贈のスポンジが千秋楽まで活躍することであろう。¥取組編成会議が行われる。横綱は露鵬との対戦、朝赤龍は旭鷲山、皇牙は里山との初日となる。
平成18年11月11日
ようやく九州場所らしい冷え込みが博多の街を覆って、1年締めくくりの大相撲という雰囲気もでてくる。年六場所やっているとはいえ、温暖化で季節感が薄れているとはいえ、博多の人々にとっては九州場所とともに冬が来るというイメージはいまだに残ってはいる。明日からの初日を控え、触れ太鼓が成道寺にもやってくる。呼出しさん5人と太鼓もち2人の計7人で回ってきて、後半戦の全取り組みを呼び上げる。その部屋の関取は、後半戦の登場に限らず呼び上げてくれる。そのときはみんなで拍手をするのが慣わしとなっている。
平成18年11月12日
地元福岡に関取として初めて帰ってきた皇牙、関取としてはすでに4場所目ですっかり自信にもあふれている。ご当所場所の初日の今日も相撲巧者実力者の里山を余裕の取り組みでやぶり、館内での拍手もひときわ大きかった。そろそろ勝ったら地元で花火でも上がるんじゃない?とふってみたが、地元直方では魁皇人気があまりも偉大すぎて、まだまだ顔じゃない、そうである。今年で50周年となる九州場所、その魁皇が勝つと、国際センター内のボルテージも最高潮となる。
平成18年11月13日
普段は8時半には稽古場を上がってしまうので、幕下以上の稽古を見るのは時間的に難しいが、場所中は稽古場の人数も少なくなってしまうため、9時過ぎまで稽古場にいる。久しぶりに朝ノ土佐の稽古をじっくり見た。今場所は体調もいいようで、強い、とうなってしまった。朝花田との三番稽古であったが、稽古場では幕下力士を回す(勝ち続ける)こともある朝花田を子供扱いである。受けてつぶして、攻めてひとたまりもなく、速いし、重いし、力強いしと、言うことなしである。本人も手応えは感じているそうだが、今年で7年目の九州場所、今までに勝越したのは一回だけだそうで、そんなことも影響してか、立ち遅れての完敗の初日となったようである。つくづく相撲とは難しいものである。
平成18年11月15日
福岡から車で約一時間ほど、秋月という里がある。その里に小森草木染工房という高名な店がある。もともと振分親方とのご縁で横綱もお世話になっており、毎年ご挨拶に伺っている。今年も昨日、取組終了後 食事に呼んでいただき、若い衆までもが帯をプレゼントしていただいた。そういう縁もあり相撲四十八手の取り組みの絵をちりばめた帯もあったりして、どこへ行っても素敵な帯ですねと褒められる。福岡空港にも出店しているので、ぜひ一度のぞいて戴きたい。
相変わらず好調な関取衆、3人とも土つかずである。さらに幕下の上二人も二連勝なので、上位5人で16戦全勝と絶好調の高砂部屋である。
平成18年11月18日
男女ノ里、4連勝で今場所第一号の勝ち越し。その男女ノ里、平成15年1月に2度目の三段目昇進を果たしてから一度も序二段に落ちたことがなかったから、4年ぶりの序二段陥落となったが、これで一場所で三段目復帰濃厚である。というか、勝ち越しが実に一年ぶりで、それも、1月場所が3勝2敗から2連敗での負け越し、3月も同様に3勝2敗から2連敗、5月は3勝1敗から3連敗、7月も3勝1敗から3連敗と、給金相撲(勝ったら 勝ち越し)を実に10連敗もしていたから、いつにも増しての嬉しい勝ち越しであろう。
平成18年11月19日
幕下12枚目の朝陽丸勝ち越し。気を揉むにはまだまだ早いが、あと3つ勝って7戦全勝となれば永年の夢実現へ大きく前進する。何にせよ明日の白馬戦が大きなヤマである。その朝陽丸と同じ大阪出身の泉州山、まだまだ腰が本調子ではないものの、さすがに元十両の貫禄を見せての3勝目。大阪人同士の二人、トークでもよくからみあうが、「ほんまに大阪人なの?」というくらい寒いからみあいで、そういう意味でもかなり個性派の二人である。
平成18年11月23日
奄美出身力士は現在21人を数える。島人会と称して、ちょくちょく飲み会をやっているが、きのう11日目にも九州場所恒例の ちゃんこ重ノ海にて行われた。読売新聞が取材にきていて、あすかあさってあたりの夕刊に載せるそうである。
明日にも19回目の優勝が決まりそうで、鯛の手配なども始めなければならない。男女ノ里も明日の一番に勝てば序二段優勝の可能性もあり、横綱チームとしてダブル優勝の可能性も大である。
平成18年11月24日
序二段の男女ノ里、7戦全勝となるも全勝がもう一人残り千秋楽に初優勝をかけての決定戦。横綱の方も、豊真将が勝った時点で今日の優勝はなくなり用意していた乾杯のテーブルを片付ける。あすには間違いなさそうであるが。
7日目から6連敗中だった 皇牙に久しぶりの白星。毎日代わりばんこに送り迎えしてくれる同級生達も、久しぶりの安堵の顔である。国際センターの幟も、この3人の同級生が立ててくれている。
平成18年11月25日
横綱朝青龍19回目の優勝を決め、宿舎成道寺で、めで鯛を前にしての優勝祝いの乾杯式。成道寺でも3年連続の優勝だから、お寺も参列するお客さんも慣れたもので、あっという間に乾杯の撮影会も終わってしまう。朝赤龍9勝目。吊り落としを狙って失敗したそうで、取り直しの末の白星。普通にでれば良かったと苦笑いであった。朝花田6勝目。3勝3敗だった一ノ矢、長い相撲を制しての勝ち越し。土俵近くで見ていた若者頭の伊予櫻、同級生の息も絶え絶えの長い相撲に、思わず酸素ボンベでも持っていってやろうかと思ったそうである。
平成18年11月26日
雨模様の千秋楽であったが、表彰式後地元唐人町商店街へ凱旋パレードして、親方夫妻と住職、後援会長が待つ宿舎成道寺へ戻り、樽酒をつけての優勝報告。その後、打上げ会場の八仙閣での祝賀パーティー。300人を超えるお客様が高砂部屋千秋楽打上げと、横綱の19回目の優勝を祝う。勝ち越し力士の歌にまじり横綱も飛び入りでカラオケに参加。「涙そうそう」を熱唱しての拍手大喝采。最後は、床寿大先生のもと、利樹之城、泉州山、熊郷による相撲甚句で締める。 序二段優勝決定戦出場の男女ノ里、残念ながら優勝を逃す。
平成18年11月28日
始まる前は、まだまだ東京に帰るまでは1ヶ月あるなぁとか、始まっても前半戦のうちは一日がものすごく長く感じるのだが、後半戦にはいると、時のたつのがあっと言う間になってきて加速度的に時間がたってゆく。巡業に出ない資格者(親方、行司、呼出し、床山の十両格以上)は殆どが昨日千秋楽の翌日に帰京し、宿舎の後片付けや東京へ送る荷物の整理などもどんどん始まってゆくから、博多を後にする名残惜しさもでてきて、余計に時の進みが早まっていく。
場所後の休みも、幼稚園訪問やちゃんこ作りなどの行事に追われながらのこの1週間である。明日夕方は、恒例の唐人町商店街でのちゃんこ会である。
平成18年11月30日
来週水木、12月の6日7日に行われる徳之島巡業。実行委員の殆どが昔から相撲を一緒にやっていた仲間なので、いろいろと問合せや相談なども多くなってきて、いよいよという気持ちも高まってきている。島でもいろいろな企画もあって、迎え入れ体整も着々とすすみつつあるようではあるが、今年の九州場所同様、周囲の盛り上がりの割には切付の売れ行きに結びついていないようで、あと5日間での追い込みが必需のようである。
平成18年12月4日
昨日3日に佐賀県きやまの巡業に出発。残り番(3人だけだが)は1月半お世話になった宿舎成道寺を、けんとや藁巣坊さん親子(子孫)にも手伝ってもらって掃除して帰京。けんともようやく泣かなくなった。(若干ウルウルではあるが・・)
今日は島原での巡業で、明日が鹿児島市。明日の巡業が終わって鹿児島港から船に乗り明後日の朝徳之島入り(15時間の船旅)。着いた足で巡業を行い、夜歓迎会。翌7日巡業を終わってまた船で鹿児島へ戻る。かなりハードな移動である。
平成18年12月5日
徳之島巡業参加のため東京から空路徳之島入り。巡業地となる空港近くの野球場や横綱土俵入りが行われる井之川の45代横綱朝潮の銅像などを回りながら亀津の自宅へと向かう。銅像前で先発の尾上親方と若松親方と合流。今日は薄日も差し、小春日和のような暖かさ。その後明日夜に高砂部屋歓迎会を催してくれる地元建設会社を訪問して明日の宴会の打ち合わせ。対応するのは総務部長である高校の同級生である。
今日から昼夜(深夜まで?)忙しい3日間となりそうである。
平成18年12月7日
6日7日と天城町野球場に特設されたテント張りの会場で徳之島巡業。前売りが今ひとつ芳しくなく入りが心配されたが、昨日も今日も当日券もけっこう売れ、招待の小中高生も含めると4000人近いお客さんで超満員の大盛況。ご当所力士が登場すると場内割れんばかりの盛り上がりで、頭も「いやぁー、昔の巡業を思い出すようなものすごい活気だなぁ」と目をまるくしていた。2時半に終了して亀徳港へと向かい、また鹿児島まで15時間の船旅である。夕方雨風が強く、揺れ模様ではある。
平成18年12月9日
巡業組、今年最後の巡業地鹿児島県出水市を終え、2便に分かれて帰京。顔を合わすのは2日ぶりでしかないが、ずいぶん久しぶりのような気もしてしまう。さすがに徳之島から鹿児島へ渡る船はかなる揺れたそうで、翌日陸に上がっても一日揺れがつづいていたそうである。まあ、1週間という短い期間ではあったが、巡業を一稼業終えて部屋に戻ってくると、慣れていない新弟子ほどひと回り逞しくなってきたように思えるてくるから不思議なものではある。


別ページで紹介されていた徳之島巡業日記を掲載

ー12月5日 徳之島場所前日ー
故郷徳之島で23年ぶり(昭和58年以来)に巡業が行われることになった。巡業の付人としてのメンバーには入ってはいないが、ご当所力士ということで徳之島だけの特別参加で九州場所を終え一旦東京に戻り、東京から徳之島へ巡業日前日の帰郷。午前6時過ぎに部屋を出て、8時羽田発のJALで鹿児島へ。鹿児島空港で乗り継ぎ徳之島へ。少し到着が遅れ12時過ぎに徳之島空港着。
鹿児島空港からジェット機で約一時間の旅だが、暖かかった秋から急に真冬になって冷え込みの厳しい東京から南の島へ降り立つと、忘れかけていた生暖かさが身を包んでくる。タラップを降りて滑走路内を歩いて空港ビルに向かうと、「歓迎大相撲徳之島場所御一行様」という横断幕もかかっている。
実行委員である徳之島町役場企画課からの迎えがあり(昔からの顔なじみだが)、巡業が行われる天城町野球場へと向かう。先発の尾上親方(元浜ノ嶋)と若松親方(元朝乃若)に挨拶するつもりであったが、まだ会場へは来ておらず、途中昼食をとって、明日朝横綱土俵入りが行われる井之川の45代横綱朝潮銅像へと向かう。
銅像前の広場では役場職員がテント張りを行っており、ボランティアスタッフとして手伝う琉球大学相撲部学生3人とともに会場設営を手伝う。そこへ、尾上・若松の先発親方も来て挨拶を交わす。明日からの本番に備え、弁当の手配や迎えのタクシーや車の手配の確認等に大忙しである。露天での土俵入りとなる為、雨の降らないことを祈るばかりである。その足で、明日夜に高砂部屋歓迎会を開いてくれる地元建設会社で打ち合わせ。
担当の総務部長は、高校の同級生で話も早い。打合せを終え、ようやく実家に荷物を下ろしシャワーを浴びて一息つく。
しばしの休憩後、徳之島町役場へ挨拶に向かう。明日朝大相撲一行が到着する亀徳港での歓迎セレモニーと井之川横綱朝潮銅像前での横綱土俵入りは徳之島町の担当なので(他に巡業会場となる天城町、歓迎パーティーをやる伊仙町との3ヶ町からなる)、町長(琉球大学の先輩)はじめ助役(相撲連盟)企画課長(同じく 相撲連盟)らと進行表を見ながら最終的な確認の打ち合わせ。
巡業に参加する身ながら迎える立場でもあり、なにやらおかしな気分もするが面白い経験ではある。
打ち合わせ終了後、役場前にある病院に1ヶ月ほど前から入院している父親を見舞う。夕食後、家に帰るというので外泊許可を貰いタクシーで家へ。タクシーの乗り降りもままならない父を背負うのは寂しくもある。テレ朝の報道ステーションが徳之島巡業の取材に来ていて両親にインタビュー。寝ついた親を家に残し、巡業の手伝いに来ている琉大相撲部後輩3人を連れ飲みに出る。2軒目で、尾上・若松の両親方と合流して、明日からの徳之島巡業の前祝。何度も徳之島に足を運んでいる尾上親方、“ワイド節” をすっかりマスターしている。

ー12月6日 徳之島場所初日ー
午前8味すぎ町役場からの迎えの車に同乗し亀徳港へと向かう。入港は9時10分頃だそうで、岸壁では出迎えの準備に忙しい。大音響で流れるのは徳之島出身の若手ミュージシャン偵一馬(ていかずま)唄う“ワイド節”。唄に合わせてエイサー隊が踊りながら太鼓を打ち鳴らしての歓迎である。この中にも同級生(主婦)が2人いる。
三役以上(力士、行司、・・・)の資格者はタクシーでの移動の為、岸壁にタクシーを配列してフロントガラスに名前を取り付ける作業に先発親方は忙しい。
いよいよ船が接岸し、先頭の横綱朝青龍と巡業部長大島親方には徳之島町役場美人職員から花束が贈呈される。そのあと、続々と長いタラップを力士が降りてくるが、15時間の船旅でさすがにみんな疲れきった表情である。一行はそれぞれ分乗して天城町野球場へと向かうが、横綱チームは井之川朝潮銅像へと向かう。
県道沿い小高い丘上に銅像はあり、その前が広場と公民館になっている。公民館が支度部屋となり、大銀杏を結って綱を締めて会場へ登場。その前に、勝 徳之島町長と勧進元の武さんから挨拶があり、5代目高砂親方の妹さん共々銅像に献花。井之川じゅうの人が集まったのではないかと思われるほどの観客を前に勇壮な土俵入り。
師匠の師匠の前で土俵入りするのは感慨深いものがあったとの、横綱の感想。
土俵入り終了後帰りがけに横綱が餅まき。またまたやんやの盛り上がり。そこから天城町の巡業会場へ向かう。
着いて支度部屋(体育館)で荷物を広げ、弁当での昼食。午後1時頃から取組開始だが、その前にご当所天城町出身の旭南海と高見盛によるわんぱく相撲との稽古。そのあと、地元アマチュア力士と幕下力士との5人抜き勝負。相撲処で、日大や中大などのレギュラーだった選手も多いため抜きつ抜かれつの熱戦で更に場内はヒートアップ。さらにアマチュア力士側に最近引退した元北の湖部屋の島虎が出ていたものだから、関取衆もわざわざ遠い支度部屋から見物に来て大喜び。
招待の小中高生も含めると4000人近い観客で大盛況の初日となった。

ー12月7日 徳之島場所2日目
午前5時10分、自宅から琉大相撲部学生の運転の車で福岡から来ているやっさんとやっさんの奥さんのお父さんと共に会場へ。5時50分着。宿舎ホテルから会場まではけっこう遠いので、まだ誰も来ていなく支度部屋の鍵もかかったままである。待つこと10分、車が来て支度部屋を開けてくれ、若い衆をのせたバスも到着する。明け荷をひろげ、マワシをつけて稽古場へ向かう。
稽古場へ着いたはいいが、土俵が柔らかすぎるらしく呼び出しさんが土俵を掘り起こしている。掘り起こしてセメントを混ぜもう一度つき直す。乾くまで使えないのでヤマ稽古へ。
野球場なので、ヤマはいくらでもあり、足で丸(土俵)をかいてヤマ稽古。最初、朝野澤に胸をだしていたが、他の部屋からも序二段の力士が集まってきて10人くらいで申し合い。若者頭の伊予櫻さんもきて稽古の指導。巡業での若い衆の指導、土俵の進行などは若者頭の大事な仕事の一つである。
8時前、ぶつかって(ぶつかり稽古)みんな並んで仕上げの四股。土俵も乾いたらしく、頭が「三段目、幕下、土俵へしゅうごぉー」と呼びかけている。
この頃になると関取衆も白い稽古マワシをつけ、土俵やヤマへ。8時半開場なので、お客さんも続々と入場してくる。ご当所の松ヶ根部屋川元(天城町出身17歳) はもう一度ぶつかり稽古。今度は高見盛関に胸を出してもらいお客さんも拍手喝采。地元天城町のヒーロー旭南海も砂にまみれての大声援を浴びている。
入口近くで取組の出番を待っていると、親戚や近所のおじさんおばさんなどが入ってきて島口で挨拶を交わす。20年ぶりくらいに会う人もいて懐かしい。出世こそしてないものの、これも「故郷に錦を・・・」の一つの形であろう。午前11時、取組開始。すでに客席は満席である。
ご当所力士は、「東方高木、喜界 町出身九重部屋」「西方東心山、徳之島町出身玉ノ井部屋」とか場内アナウンスの行司さんが特に力をこめて紹介してくれる。花道を入っていくだけで、大きな拍手に包まれる。
取り組みを終え支度部屋へ戻り、シャワーを浴びて昼食の弁当。魁皇関がさとうきびを貰ったらしく、こっちにも回ってくる。初めて食べる潮丸関や朝野澤、ハサミやナイフを駆使しても固い皮がむけず四苦八苦しているが、「こうやって食うんだよ」と歯でさとうきびの皮をバリバリ剥いていったら、隣で見ていた 海鵬関や須磨ノ富士関も大喜び。「歯強いですねぇ」と妙に感心されてしまった。
お昼頃から雨がだんだん激しくなり、終盤は本降りとなる。2時15分過ぎ幕内トーナメント戦の決勝が終わり、優勝の白鵬関にはトラックにのった闘牛の牛一頭が贈られる。終わった足で雨の降りしきる中、亀徳港へと向かい、また15時間船に揺られて鹿児島へと出発。
一日おいて、9日に出水市で今年最後の巡業を行い帰京。
平成18年12月13日
大晦日31日夜にフジテレビで細木数子さんの特番をやるそうで、本日高砂部屋で収録。大関千代大海や雅山も部屋に来て、細木数子さんや神田川さんに超豪華料理を振舞ってもらうという番組だそうである。朝から大勢のスタッフで、てんやわんやの一日となった。
平成18年12月14日
昔から部屋の仕事主体だったため、巡業にはそんなに行っている方ではないが、先代房錦の親方も審判委員だったから親方が巡業にでるときは、進んで出ていた。20年ほど前だったから、体育館と露天と半々くらいで、一番土俵を取るのに何人かで必死に競争し合った時代でもあった。その頃は夏巡業も1ヶ月ほどあったから、最初は5時半ころ起きれば良かったが、お互い競争しあって、日に日に時間が早くなっていき、巡業が終わるころには、午前2時半にタクシーを頼んだ、ということもあった。
平成18年12月15日
2時半ころ宿でマワシをしめていると、飲んだ帰りの兄弟子とバッタリということもあった。マワシは、巻け荷(みんなのマワシやドロ着をまとめた荷物)に入れると朝まで出せないので巡業中ずっと手持ちである。重いしかさばるから4周のところを3周にしたりもした。稽古場土俵(巡業地)まではタクシーだが、もちろん自費である。近いところはいいが、遠い所はやっぱりつらかった。3時ころ着くと、土俵を捜して、土俵に名前を書き、近くで仮眠をとる。夜明け前、薄明るくなると約束したいたもの同士で稽古を始める。
平成18年12月16日
現在立浪部屋で世話人をやっている羽黒海は、入門が一期上の教習所仲間だったから、2人で時間を合わせて三番稽古をよくした。そのときは、立浪部屋の親方だった元黒姫山の武隈親方もかなり早くに稽古場に出てきていろいろ指導をしてもらった。先年亡くなられてしまった春日野部屋の蜂矢さんも現役バリバリで、春日野部屋の幕下連中を集めて熱心に稽古をつけていた。また、出羽ノ海部屋の幕下力士も一番土俵を取り合った仲であった。普段やれない、よその部屋の力士と稽古したり、胸を出してもらったりするのが巡業の一番のいいところである。
平成18年12月20日
昨19日、年末恒例の高砂部屋激励会&クリスマスパーティーがホテルニューオータニにて行われた。東京高砂部屋後援会を中心に400名近いお客様が集い、今年の横綱と高砂部屋の活躍を祝した。井上美悠紀東京高砂部屋後援会会長の挨拶のあと、塩爺こと塩川正十郎元財務大臣も大阪から駆けつけ祝辞を述べる。ショータイムでは、市川ゆきの、古都清乃、ロスインディオスのゲストがおなじみの歌で聴かせ、親方サンタからの子供達へのプレゼント、お楽しみ抽選会で盛り上がり、最後は新年での更なる躍進を期しての一本締めにての閉会となった。明日が初場所番付発表。
平成18年12月21日
初場所番付発表。いつもなら初日の2週間前の月曜日が番付発表だが、初場所前だけは年末と重なるので、何日か早めの発表となる。三段目朝花田が朝道龍(あさどうりゅう)と改名。横綱直々にの命名である。改名を機に、そろそろ幕下に上がりたいところである。先場所優勝決定戦で負けはしたものの7戦全勝だった男女ノ里、94枚の昇進で三段目21枚目。ほぼ最高位(19枚目)まで戻した。
平成18年12月24日
年末恒例のもちつき。240kgのもち米を朝8時ころから稽古場に3つ出した臼でつきだす。いつも使っている蒸し器のボイラーが一台故障して、応急で借りてきたのだが、いつも使っているやつより小さく、米を蒸すのに時間がかかってしまい、例年より1時間ほど遅く2時過ぎに終了。前日の米とぎから杵や臼の手配、ボイラーの設置など江戸川の大ちゃんクラブがやってくれての年末行事で、大ちゃんクラブさまさまである。終了後、2階大広間でちゃんこをつつきながら、今年も無事済んだ労をねぎらい、ビールを交わしながらトラブッた昔話(平成10年12月27日)にも花が咲く。
みんなそれぞれに年を重ね、またひとつ新しい年を迎える。
平成18年12月25日
横綱審議委員会の総見稽古が国技館教習所土俵にて行われる。部屋に戻ってきた横綱、ちょっと肩を痛めたようで稽古後の乱れた髪を結い直しながらも アイシングをしていたが、その後の食事風景などを見ていると大事には至らなさそうである。それよりも、体重がベストを少しオーバーしているようで、スピード、相撲感(勘ではない)が身上の横綱としては、大台へ向けての一番大事なことになるであろう。ベスト体重という意識が高いのも、横綱の安定した強さを支えている要因であろう。
平成18年12月26日
一時期大相撲界は、体重増加傾向の一途にあったが、ここ数年それも止まりつつあるように思える。太りすぎによる弊害がいろんな所で叫ばれ、また横綱を始めとした割と細身のモンゴル人力士の台頭ということも大きいであろう。大相撲は体重別がないから、大きいほど有利ではある。ただ、その大きさにも限度がある。今日から東関部屋へ出稽古。東関、友綱、高砂、三部屋での合同稽古である。
平成18年12月27日
人間の大きさというか、動物のサイズについて多方面から生物学的に考察してあるのが、本川達雄著『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)で大変興味深い。進化論によると、あらゆる生物は小さいサイズからはじまっていって、だんだんと大きくなっていくそうである。そういうと、小から大へと進むのが進化の方向と思われるかもしれないが、そうではなくて、いろんな方向に進化していったのだが、大きくなった方が生存に有利だったから、ということらしい。ゾウもその昔は、イノシシほどの大きさだったそうである。今じゃ200kg近い朝陽丸も大子錦も、昔は小太りの時代もあったそうである。
(ちょっと 例えが違うが・・・ちなみに、二人共生まれてこの方一度も痩せた事はないそうである)
平成18年12月28日
大きいことがいいことは数々あるが、一番わかりやすいのは、“強い”ことである。アフリカのサバンナの水場で水を飲む順番は、ゾウ、サイ、カバ、シマウマと体の大きい順になっているそうである。他にも、体温を一定に保ちやすい、乾燥に強い、飢えにも強い、などなど様々な利点があるが、大きいものほど動く速度が速いということもあるようである。アリよりもネズミが速く、ネズミよりも猫が速く、猫よりも犬の方が速く走れる。ただ、大きくなればなるほど速くなるかと言えばそんなことがないのはわかっている通り、大きくなり過ぎると逆にまた遅くなってしまう。動物で一番速いのはチーターで、体重は55kgほど だそうである。単なる力比べならより大きいほうがいいし、スピードを求めるなら、ある限界がある。
その両方を求めるのが相撲だから、両方を満たすべき 適正体重があるのは当然である。
平成18年12月29日
適正体重については、もう少し話を深めたいが、しばし置いて映画の紹介をしたい。現在ル テアトル銀座にて早咲きの花という映画が上映されている。映画を観るのも久しぶりであったが、不覚にも3度も泣いてしまった。一般的に日本映画を観ると、それはちょっと違うだろう、と違和感を感じながら見てしまって距離を置いてしまうことが多々あるが、最初から話に引き込まれて主演の浅丘ルリ子や出演者たちとの一体感がどんどん深まっていった。ピンホールカメラという存在も人間や現世を考えさせる意味深い共演者であった。菅原浩志監督は、『ぼくらの七日間戦争』で宮沢りえを世に送り出した監督で、ひょんな縁から知り合ってご招待をうけたが、こんないい映画は2000円(前売り1500円)出しても少しも惜しくないと思った(ほんまに)。1月8日(月)まで11時・15時・19時の上映。
平成18年12月30日
相撲における適正体重はどのくらいであろうか。身長による違いもあるだろうが、130kg以下だと体力負けする感じがするし、150kgを超えてしまうと重過ぎることによる弊害もでてくるようである。130kgから145kgまでくらいが相撲と言う競技の適正体重ではないだろうか。もちろん、身長にも適正があるだろう。時代による違いもあるだろうが、身長は180cmから185cmの間が現代相撲の適正になるような感じがする。
平成18年12月31日
ゾウは襲われないために無理して体を大きくしているところがあるそうである。大きくなりすぎたため骨がその重さについていけないようである。そのためチーターのように飛ぶように走ることはできないし、歩くにしても一歩一歩を慎重に足を運ばなければならない。それでも死後の骨を調べると、骨折のあとがかなりあるそうである。ゾウの骨よりも弱い人間の骨や関節にも、もちろん無理のない重さがあるのは想像に難くない。29日に稽古納め、ほとんどが里帰りしてのお正月を迎える。新年は3日から稽古始め。
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