平成20年4月1日
レスリング部の高校生の体験入門は、福岡県立三井高校のレスリング部が北陸遠征の帰りに東京により、高砂部屋で四股を勉強したいという話から実現した。トレーニングの現場でも、四股の良さが見直されつつあるようで、先だってもブックハウスHD社の『月刊トレーニング・ジャーナル』誌4月号で、「伝統的なトレーニングを見直そう」という特集が組まれ、四股やてっぽうなどについてインタビューを受けた。
平成20年4月3日
四股については、引退して外から見るようになって気づいたことも、いくつかある。最近気にしてというか意識して見ているのは、脚の上げ方、特に膝の向きについてである。腰を割った(股関節を開いた)姿勢から脚を上げようとすると、ふつうどうしても膝を前に向けて脚をあげてしまう。脚を上げることだけを意識すれば、その方がより上げやすいからであろう。
平成20年4月4日
四股の目的は、インナーマッスル(腸腰筋などの股関節まわりの筋肉)を使えるようにするため鍛えるためだと確信している。「腰を割る」という姿勢や動作も、そのためにあるのだと思う。そういう四股の目的という観点から見た場合、膝を前に向けることは割った腰を(開いた股関節を)閉じてしまうことになり、インナーマッスルに効果がなくなってしまうように思う。
平成20年4月5日
膝を前に向けてゆっくり脚を上げていくと、上げる時に太ももの外側の筋肉を使っているのがわかる。膝を上に向けたまま脚を上げていくと、股関節周りや太ももの内側の筋肉により効いているのがわかる。実際踏んでいても気づきにくい微妙な感覚の違いだが、どの筋肉を使って脚を動かすか、ということは大きな違いではなかろうか。
平成20年4月6日
CMでもやっているように、人間の体には約200個もの骨がある。さらに、600近くある大小の筋肉がそれらの骨をつなぎ、収縮することによって、いろいろな運動を行っている。それゆえ、四股を踏む、脚を上げるという単純な運動でも、どの筋肉を使うか、またその使い方の割合、どこを支点にして動かすか、などなどいろんなパターンがあり、人によってさまざまである。
平成20年4月7日
脚を上げるという動作ひとつをとってみても、多くの筋肉が参加して脚を上げている。歩く、立つ、という動作でもそうである。だからこそ、同じ動作でも個人差があり、美しい、速い、力強い、伸びやか、ぎこちない、いろんな違いが出てきて、その積み重ねが、上達やパフォーマンスの差になるのであろう。
平成20年4月8日
同じ動作でも、人によって筋肉や骨の使い方が違ってくるし、細かく観れば同じ人でも、日によって、体調によって、気分によって違うことであろう。動かし方は無限にあるといってもいいと思う。その中で、より合理的な動かし方、体の使い方を覚えていくのが、相撲が強くなるとか、上達するということではなかろうか。そういう意味で、四股こそが、合理的な体の動かし方使い方を学ぶ、方法ではなかろうかと思う。
平成20年4月9日
新弟子の山下君。3月10日の日記で紹介したように、部屋に入ったときは58kgしかなかったが、毎食丼飯3杯をノルマにし入門約1ヶ月で65kg近くまで体重を増やしてきた。第2検査の合格基準は67kgなのでもう少しだが、最初の頃に比べると増えるペースが落ちてきて食後体重計に乗っては「もう1杯」と、食う苦しみも味わっている。新弟子検査は5月1日、67kgという体重と運動能力テストをクリアすれば晴れておすもうさんになれる。
平成20年4月10日
場所前ごとに行われる通常の新弟子検査は、173cm・75kgという基準があるが、それに満たないものでも167cm・67kgあれば第2検査で、50m走やハンドボール投げ、反復横跳び、シャトルランなど8項目の運動能力テストに合格すれば入門が認められる。この制度は平成13年度から始まり、朝翔冴は第2検査第一期生である。また豊ノ島は、この第2検査合格者からの初の関取である。
平成20年4月11日
身長体重の基準というのがあるから、ギリギリのものにとってはあの手この手の闘いがある。一昔前の乱暴な時代には、頭をスコップやバットでぶん殴ってタンコブをつくった話もときおり聞いた。頭にシリコンを注射して身長を伸ばしたのは舞の海の入門のときに有名な話だが、それ以前にも何例かある。ただ、シリコンは現在は禁止になっている。体重も、体重計に乗るギリギリまで一升瓶(現在はペットボトルか?)に入れた水を飲みつづけたとか、パンツの中に重りをしのびこませ「あんちゃん、立派なものをもっているな」と握られたとか、いろいろな物語がある。
平成20年4月12日
昭和58年の話に戻るが、3月入門以来秋まであの手この手と試みたが、結局伸びたのは脚を縛って伸ばした5mmだけであった。そこで、元房錦の師匠に懇願してシリコンを注入してもらうことにした。銀座にある美容整形外科のお医者さんを紹介してもらった。先生も親身に相談にのってくれて11月九州場所前の新弟子検査の前日にやることになった。
平成20年4月13日
銀座のホステスさんらも数人いる待合室から手術室へ通されシリコンを注入してもらった。注射で頭へ直接注入する。少しの痛みを感じるものの処置はあっという間に終わった。終わって身長計に乗った。看護婦さんが目盛りを読み上げた。「ヒャクロクジュウハチテンゴ」「え!2cmしか伸びていない」「先生! 170cmないと受かりませんから、あと1センチ5ミリ入れて下さい」しかし、頭の皮膚はかたいので、これ以上入れても溢れるだけだという。「まあ、明日の朝になれば内出血して腫れて1センチ5ミリくらい伸びますよ」無事(?)おわった。
平成20年4月14日
せっかく注入したシリコンが流れ出ないように、また腫れが上にいくように、みそ汁のお椀をかぶせて(大きさ軽さがちょうどよかったのだろう)、包帯でぐるぐる巻きにして新弟子検査の行われる福岡に飛んだ。さすがにその晩はズキズキしたが、翌朝の検査直前まで寝て(立つと縮むから)、伸びた髪の毛を立たせてヘアースプレーで固めて(1mmでも得するように)、車の後部座席に横になって(1mmでも縮ませないように)新弟子検査の会場へと向かった。
平成20年4月16日
舞の海らの活躍によって第2検査が出来、第2検査によって豊ノ島という力士も誕生した。小さい力士が大きい力士を倒すということは、大相撲の大きな魅力のひとつであろうから、その存在は大きいだろう。身長体重の基準というのは昔からあるようで、『日本相撲大鑑』(窪寺紘一著・新人物往来社)によると、明治の梅・常陸時代には5尺4寸(164cm)16貫(60kg)、昭和の双葉山時代は5尺5寸(167cm)18貫(67,5kg)だったそうで、さすがに終戦直後はなかったのか、戦後昭和28年から復活したとなっている。
平成20年4月18日
相撲は体が大きいものが有利なことに間違いはないが、小兵でも名人とよばれ神様とよばれ大きい力士と互角以上に戦い強さを誇った力士も数多い。その中で も第27代横綱栃木山の強さは格別であろう。172cm103kgと、当時としても小さな体ながら大正7年から14年まで横綱を張り、その間の成績が116勝 8敗、勝率9割3分5厘という驚異的な強さを誇っている。相撲は、左を浅くのぞかせ(差し)右からおっつけという徹底した押し相撲だったそうである。
平成20年4月19日
小兵ながらも鋼鉄のような体である。元々怪力でもあったらしく、怪力逸話も数ある。そのハガネの体を鍛えこみ技を磨き、左は浅く差すかハズ(親指と他の4本の指をY字に開き手のひらで矢筈のような形をつくる)で、右からおっつけ(相手の肘や腕を下からしぼりあげる)、出足を磨いて磐石の押し相撲の型を完成させた。見ているほうは、相撲は体が小さい方が有利なのではないかと錯覚するほどであったという。
平成20年4月20日
体にも徹底して気を配った。少し体重が増えると「汗が貯まった」といって猛稽古で体を絞り、体重が落ちると少しセーブして、常に103kgという体重を維持したそうである。また、日常生活でも、歩く時、座るとき、寝る時まで、すり足でアゴをひき脇を締めと、あらゆる動作を相撲に結びつけ、晩年まで変わることはなかったという。その教えの中から横綱栃錦が生まれ、大関栃光、横綱栃ノ海というふうに春日野部屋の伝統が引き継がれていった。
平成20年4月22日
栃木山引退のあとを継ぐように、昭和初期にも小兵ながら「相撲の神様」と呼ばれた力士が相次いで二人でたそうである。一人は大関大ノ里、もうひとりは関脇幡瀬川である。大ノ里は、あまりに小さくて門を叩いた若松部屋でも最初は拒まれるほどだったというが、懇願して許されると無類の稽古熱心さで番付を上げ、164cm97kgという体格で 大正14年から昭和7年まで大関を務め上げた。(その後湊川部屋から出羽ノ海部屋へと移籍)5月場所に向けて新しく土俵をつくりなおす土俵築。
平成20年4月23日
大ノ里については以前(平成13年4月10日~13日)にも書いたが、相撲のうまさで"神様"と呼ばれたことはもちろんだが、現役時代からその人徳を語る逸話も多く、春秋園事件(4月13日、14日)でもその人望で新興力士団をまとめ、その徳が"神様"と呼ばせた雰囲気もある。しかしながら晩年(といっても45歳の若さだが)は不遇で、「悲劇の大関」とも呼ばれている。明日が番付発表。
平成20年4月24日
5月夏場所番付発表。横綱昨年の9月場所以来4場所ぶりに東の正横綱に復帰。朝赤龍も昨年11月場所以来の三役復帰。4場所目の三役である。幕下以下では、朝ノ土佐が初めて若い衆の中で一番番付上位となる。朝奄美 初の序二段。
平成20年4月25日
メタボが社会問題ともなっていて、腹囲や体重を少しでも減らすことが関心をあつめているが、新弟子の山下君にとってはその逆が大きな問題である。3月に部屋に来た時には58kgしかなかったが、その後順調に体重を増やし65kgまでにはなったものの、そこから全く増えなくなってしまった。毎食必死に食って(食わされて)はいるのだが、体重計の目盛が全然上がらない。女性や中年メタボ男性にとってはうらやましい話だろうが、太れない苦しみの毎日がつづいている。
67kgが基準の新弟子検査まであと6日と迫ってきた。
平成20年4月26日
もう一人の“相撲の神様”幡瀬川(はたせがわ)は173cm85kgという体で昭和初期に関脇をはった名力士である。のちに語ったところによると「あまりに小さくて格好悪いから85kgと言っていたが、生涯75kgになったことはなかった」そうである。(小坂秀二『大相撲ちょっといい話』文春文庫)
メタボどころか殆ど一般人体型である。その体で当時の横綱大関を大いに悩ませ、特に出し投げからの小股救いは文字通り神技だったそうである。幡瀬川以降、その技の冴えで相撲の神様と呼ばれた力士は出ていない。横綱と朝赤龍、井筒部屋へ出稽古。
平成20年4月27日
体が小さい力士やソップ型の力士にとっては、小さいことや細いことを指摘されることは腹が立つしいやなものである。逆に、たとえ幼稚園児にであっても「おすもうさんおおきい」とか言われると気分がいいものである。昔、高砂部屋の兄弟子に鶴見富士さんといって70kgあるかないかのおすもうさんがいて、稽古場で「昨日タクシーに乗ったら、おすもうさんはやっぱり重いですね、と言われた」と嬉しそうに話していたこともあった。記録を見ると66kgで取っている時の方が長いが、内掛けが得意で、三段目で勝ち越したこともあった。
平成20年4月28日
明日29日(火)は、5月場所前恒例の横綱審議委員会による稽古総見の一般公開が国技館土俵にて行われる。午前7時開場で、稽古は7時半から11時頃まで。例年通りに入場無料である。また、これも5月場所前の恒例となってきた両国にぎわい春祭りが、5月3日(土)4日(日)と行われる。江戸博物館や回向院 でのイベントや大好評のちゃんこミュージアム、呼出しさんによる太鼓打ち分け実演や行司さんによる相撲字などなど相撲関連のイベントも盛りだくさんである。
平成20年4月29日
メタボの診断基準のひとつに腹囲85cm以上というのがあり、肥満を量るのにBMI(体重を身長で2回割った数値)というのがある。殆どのおすもうさんにとっては、どちらも数字的にはあてはまることである。では、おすもうさんはメタボであり肥満症であるのかというと、殆どがそんなことはない。以前に相撲診療所所長を長く務められた林盈六先生の『力士たちの心・技・体』(平成8年法研)によると、平均体重150kgの幕内力士の体脂肪率は23,5%(平成2年8月測定)でしかない。
平成20年4月30日
埼玉県草加市といえば草加せんべいで有名だが、市内に22校あるすべての小学校に土俵が(室内土俵も含めて)あるそうである。4月25日の東京新聞 の記事によると、屋外土俵が13校、その他の小学校にも屋内マット土俵が完備され、年2回開催される相撲大会には1000人を超える小学生が参加する盛り上がりだそうである。28年前、草加在住の振分親方(元幕内朝嵐)が2人の息子が通う小学校に土俵を寄贈したことがきっかけとなったそうである。
平成20年5月1日
5月場所の新弟子検査が行われ、高砂部屋からも山下智徳君(20歳)と高橋太一君(15歳)が受検。高橋君が一次検査で山下君が二次検査で合格。この後、内臓検査の結果発表を待って正式な合格となるが、5月場所3日目からの前相撲で初土俵を踏むことになる。
境川部屋豪栄道と豊響が出稽古に来て、朝赤龍、横綱と熱の入った申し合い。
平成20年5月2日
前記の『相撲診療所医師が診た力士たちの心・技・体』(林盈六著・法研)には、番付による体脂肪率の変遷のデータもあって興味深い。まず序ノ口が26%で、同年代(16歳くらい)の日本人一般の平均値より6%ほど高めである。それが序二段になると30,5%、三段目が34,5%と上がっていく。デブ度をどんどん増していっている。その値が幕下になると逆に29,5%と下がっていく。十両の平均値は24,5%、前述のように幕内は23,5%である。
平成20年5月3日
林先生の解説にもあるが、体が大きくやや肥満気味の若者が入門してきて。朝飯抜きの激しい稽古のあとのちゃんこと昼寝という一日2食の生活パターンが、筋肉を大きくするが脂肪をも増やし、体重増加とともに体脂肪率も増加させていく。ただ、幕下に上がる力士はより激しい稽古を重ね筋肉の増加によって体を大きくしていることがわかる。さらにその上の十両、幕内という地位に上がるには体重が150kg近くに増えても体脂肪率が23,4%のままという、質のいい体を持ったもの磨いたものしか上がれないという数字である。今日も豪栄道と豊響が出稽古にくる。
平成20年5月4日
一日2食が体を大きくするということはよく言われていることだが、『力士たちの心・技・体』にも出ている。同じカロリーを摂取するなら、一日に3回、4回と分けて食べるよりも2食が最も太りやすいそうで、同じ2食でも朝食抜きの2食がさらに太りやすい、とのことである。また、夜は体が非活動的で栄養貯蔵になるように自律神経が働くから、体に脂肪を貯め込むのには夜食がもっとも効き目があるそうである。横綱、今日は春日野部屋への出稽古。
平成20年5月5日
“メタボ”すなわち“メタボリックシンドローム”は直訳すると代謝症候群だが、日本的にいうと『内臓脂肪症候群』となるそうである。内臓周辺に脂肪がたまることが、色んな病気を引き起こす原因となるそうで、脂肪そのものには罪はないというか、脂肪細胞そのものからは、いわゆるメタボといわれる高血圧、糖尿、高脂血症などを抑える物質も分泌されているそうである。言うなれば、デブだからメタボなのではなくて、運動しないデブがメタボなのである。
平成20年5月6日
5月場所に向けて順調に稽古を重ねてきた横綱、今日は部屋での稽古。その横綱の稽古風景を写真家篠山紀信氏が撮影。小学館から発行の雑誌和楽で掲載されるようである。7月発売の8月号くらいだろうか。
平成20年5月7日
『力士たちの心・技・体』は12年前に刊行された本だが、メタボという言葉こそないものの内臓脂肪の問題点について詳しく書かれている。同書によると、現役の幕内力士には、内臓周辺に脂肪のついている肥満は皆無だそうである。たとえ肥満であっても病的な問題のある肥満は一人もいないのである。ただし、引退して稽古をしなくなった場合とか、現役でもあまり稽古をしなくなった場合には大いに注意が必要、とある。
平成20年5月9日
“メタボ”が恐いのは、メタボが糖尿や高血圧、高脂血症などにつながり、それが最終的に動脈硬化へとつながっていってしまうことだそうである。『力士たちの心・技・体』にも近年の力士の死亡原因は(一般的にも同じだそうだが)約半数近くが心臓病や脳卒中などの循環器系の病気だそうで、血管を若く保つことが、健康や長寿の秘訣となる、とある。
平成20年5月10日
昔から力士は短命だとか横綱は早死にするとかいわれているが、実際の所どうなのであろう。『力士たちの心・技・体』に昭和55年に調べた記録が載っている。関西医大の学生が相撲博物館で調べ「力士の寿命と力士の病気」という卒業論文でまとめたものだそうである。それによると、明治から大正・昭和初期にかけての力士の平均寿命は52歳だったそうである。その後だんだんとん伸びて昭和50年ごろには56歳となり、その後も徐々に伸びてはいるが、世間一般の伸びと平行線を描く伸びで、確かに一般の平均よりも低いとある。そういえば元房錦の先代若松親方が亡くなったのも56歳頃である。明日から初日、横綱は稀勢の里、朝赤龍は白鵬。
平成20年5月11日
夏場所とは思えない冷え込んだ初日。入門4年目の“シマジロウ”こと朝奄美、怪我のため2年半ほどブランクがあったが、先場所から復帰している。そのシマジロウ、朝赤龍関の付人を務め、今場所から座布団運びの仕事をやることになった。関取の取組の2番前、座布団を運ぶシマジロウの姿が全国放送で映し出されるかもしれない。横綱不覚の初日。
平成20年5月12日
今場所からファンサービスとして親方衆による握手会が始まったようである。初日が元千代の富士の九重親方、今日2日目が元朝潮の高砂親方、明日3日目が元闘牙の佐ノ山親方と国技館エントランスホールで午後2時から先着100名様にサインをプレゼントしての握手会となっているそうで、お昼過ぎには長蛇の列となる盛況ぶりだそうである。千秋楽まで日替わりで15人の親方が登場する。横綱、朝赤龍ともに快心の相撲での今場所初日。また、幕下3人も白星の初日。
平成20年5月13日
今日3日目から前相撲。今場所7人の新弟子のうちの2人、朝山下と朝高橋も初めて国技館の土俵に上がり相撲を取る。初土俵は2人ともあっさりの黒星だったようだが、まずは勝敗よりも、四股を覚え、鉄砲を覚え、転び方を覚え、プロの力士としての自覚をもって日々の稽古を生活を、ひたすらくりかえしていくことである。
平成20年5月14日
幕下塙ノ里、初日に豪快な投げ技で勝ったが、そのときに相手に脚に乗られ負傷して今日から休場、不戦敗となる。相撲センスはあるだけに怪我が多いのが出世を阻んでいる。怪我の回復次第では再出場の可能性もあるが。前相撲朝山下が初白星。
平成20年5月15日
力士の寿命が一般人のそれよりも短いのは確かではあるようだが、相撲という運動や力士という職業が問題なのではなく、引退したあとの生活に問題があるようである。引退して稽古をまったくやらなくなったにもかかわらず、現役時代と同じように飲んで食ってという生活を続けると、多くの元力士が身体を壊し寿命を縮めることになってしまう。その反対に、引退後は食生活に気を配り運動も続けていった元力士は、一般人と変わらぬ寿命を全うしている。
前相撲の朝高橋、初白星。
平成20年5月17日
15日間は長い。特に前半戦はそう感じる。怪我をしたり風邪をひいて体調を崩す日もある。負けが込んでくるとよけいにである。3連敗で7日目を迎えた大子錦、朝から体調が悪かったらしい。ちゃんこ長の仕事も忙しかったらしい。時間にも追われていたのであろう。取組に行くのに、浴衣にスリッパを履いていってしまい、国技館手前でようやく気づいて、雪駄を部屋から持ってきてもらっての場所入りだったそうである。もちろん相撲は負けて4連敗での負越し。自己申告のネタである。
平成20年5月18日
今場所入門の朝山下と朝高橋、前相撲を取り終え今日が出世披露。三段目取組途中で 関取から借りた化粧回しを締め、土俵上でひとりひとり紹介される。そのあと、役員室や審判室に行き、「高砂部屋○○です。よろしくおねがいします」と挨拶してまわる。挨拶の声が小さいと「やり直し!」となることもある。もちろん部屋に帰ってきても親方や兄弟子に「おかげさんで出世しました」と挨拶する。殆どの力士にとっては、化粧回しを締める、最初で最後の機会でもある。
平成20年5月19日
700数十人いる力士の中で、関取と呼ばれる十両以上の力士は70名だから、確率論的にいうと、約一割、数字の上では10人に一人が関取になれる確率となるが、あくまでも数字の平均であって個々では関取になれる確率は大きく違ってくる。入門時の横綱ほどの身体能力や気持ちがあれば、関取に上がる確率は90%を超えるであろうし、運動経験もなく身長体重の基準をクリアしただけの新弟子にとっては、昇進の確率は1%以下となってしまうこともある。ただ、どちらも100%ではないし0%ではないところに、面白さはある。
平成20年5月20日
今場所前相撲で出世披露をおえた朝山下、朝稽古では兄弟子の胸を借りてぶつかり稽古も始めている。まだまだぶつかっても兄弟子はびくともしなく、はね返され、何度もぶつかり、転がされている毎日だが、そんな朝山下の姿を今日は大阪から仕事で出てきたおとうさんが見守っていた。お父さんは徳之島出身の落語家桂楽珍さんである。
平成20年5月21日
入門1年半の朝酒井、188cm160kgの巨体を利して番付を上げてきたが、先場所は三段目昇進の壁にはね返され2勝しかできなかった。出ていく馬力はあるが、大きいゆえに腰高とか脇が甘いとかの欠点もあり、中に入られると苦しい展開となる。稽古では、立合いの突き放しから突っ張りを繰り返すが、なかなか思うようには取れない毎日である。それでも今日は取り直しの相撲で、若い衆では唯一の勝ち越しを決めた。突き放しや突っ張りが身につけば、三段目はすぐだし、その上へもどんどん登っていけるのだが。
平成20年5月22日
突き放しは難しい。腕を伸ばさなければならない。いっしょくたに「突き押し」というが、押してしまうと突き放せない。「押し」は体を相手に密着させないと押せないが、「突き」は相手と離れないと突っ張れない。同じように思えるかもしれないが、間合いが全く違う。「押し」は下から押すのが有利だから、重心を低くして押さなければならないが、「突き」は「上突っ張り」という言葉もあるように、背の高い力士が上から突き下ろすのもかなり威力がある。横綱曙の突っ張りがいい例であろう。だから重心が高くても構わない。というか、重心が高いほうがより有効かもしれない。
平成20年5月24日
若松部屋当時、ホームページを見て入門したいと電話がかかってきた。およそ力士には不向きな体格であったが、おりよく第2検査が始まった年で、無事新弟子検査にも合格した。小さいながらも運動神経抜群とか闘志溢れるとかいうことも全くなかったが、雨の日も風の日も休みの日もコツコツと地道に四股やトレーニングや雑用を繰り返してきた。体重も最高98kgまで増やした。今日の一番で約7年間の力士生活を終えることとなった。ご苦労さまでした朝翔冴。
平成20年5月26日
世の中には自分と似た人が3人はいるという。昨日の千秋楽打上げパーティーで断髪式を行った朝翔冴、ちょんまげがついている時から名古屋の相撲ファンの一人に似ているともっぱらの評判だったが、断髪してよかたになった君塚裕一君、本当に件の相撲ファンに瓜二つである。その元朝翔冴こと君ちゃん、都内で左官屋として就職する。第2の人生も修行の道である。
平成20年5月28日
引退して半年がたった。ほぼ100kgあった体重が10kgほど落ち、80kg台になった。もともと少し無理して食べて体重を維持していたので、丼2,3杯食っていたご飯を軽く1杯だけに減らしただけである。あと大きく変わったのは稽古をしなくなったことである。3サイズは、115,115,110くらいだったが、それが105,100,105くらいになった。昨年の九州場所でボタンがしまらなかったGパンがベルトを締めないとずり落ちてしまうようになった。オーダーメイドのジャケットがかなり大きくなった。
平成20年5月29日
半年たった自分の体の変わりようをみて、つくづく相撲は全身運動だと感じる。引退前は、そんなに激しい稽古をしていたわけでもないが、四股や鉄砲などの準備運動からぶつかり稽古や一日10番ちょっとのあんまが、それなりの筋肉を保っていたようで、肩や腕、胸などはみるみる小さくなってしまった。首も細くなり埋もれていた分が出てきて多少長くもなった。また、マワシを取ったり押したりするのに使っていたのであろう、指の太さや手の厚みも目に見えて変わった。
平成20年5月30日
脚は、散歩をしたり駅の階段を上り下りしたりで衰えさせないよう心がけているが、自転車に乗ると骨があたる感覚が出てきて、やっぱりお尻の肉は落ちているのだと感じる。裸足で土俵に下りることがなくなったから、足の裏の皮の厚さやひび割れはかなり薄くましにはなったが、まだ完全にはなくなっていない。当たり前だが、稽古始めの頃の全身の筋肉痛や大きな疲労感はなくなったが、稽古後の心身の充実感や清々しい感覚もなくなってしまった。
平成20年6月2日
場所後一週間の休みも終わり、今日から稽古再開。5月場所初土俵を踏んだ朝山下と朝高橋は今日から相撲教習所。場所後の休み明けから番付発表までの間、3週間から4週間ずつ国技館内にある教習所に通う。3場所、約半年通って卒業となる。幕下以下の力士が何人か指導に当たるが、今場所からその指導員に朝ノ土佐が就任。二人のお目付け役という所である。
平成20年6月3日
引退してしばらくは諸事に忙殺されて稽古はもちろん運動も殆どできなかった。もともと20代の頃に首を痛め、40歳ころから坐骨神経痛などもあったが、疲れが溜まるとしびれ等の症状が出るくらいで、あまり気にもならなかったが、だんだんと日常生活でもしびれを感じるようになってしまった。そこで、四股や鉄砲や散歩などを再開した。朝食も摂るようになった。症状はかなり改善された。一生つづけていくことになるであろう。四股の、身体の、変化を感じていくのもこれからの楽しみでもある。
平成20年6月4日
ロサンゼルス巡業へ出発。7日(土)8日(日)とロサンゼルス・メモリアル・アリーナにて行われる。海外巡業は付人もついてはいくが、予算の関係もあって人数が激減するので仕事も多く、海外へいける嬉しさがある反面、何度か行くと、できれば日本でのんびりしたいという気持ちも確かにある。
今回の巡業には 当初塙ノ里が付人としていく予定であったが、取組で怪我をして、急遽神山が代役となった。 この間、予定もあったらしい神山「ロサンゼルス行きたくなくてわざと怪我したんじゃないか、ロス疑惑だ!」と叫びつつ機上の人となった。10日帰国の予定。
平成20年6月5日
ロサンゼルス巡業へ行かず日本に残り番の力士、怪我人も多く稽古を出来る人数も少ないので、昨日から錦戸部屋へ出稽古。平成14年12月に独立した錦戸部屋、当時高砂部屋に内弟子として入門した新弟子も兄弟子となり、 銀閣山は来場所から新幕下として土俵に上がれそうである。
平成20年6月6日
相撲教習所通いが始まった新弟子の朝山下と朝高橋、下駄をカロンコロン鳴らしながら国技館へ通う毎日である。午前7時からマワシを締めて実技があり、ここで四股やまた割り、すり足などの基本動作を学ぶ。そのあと学科の授業を受けて掃除してお風呂に入り食事して、という一日である。
今まで運動経験の殆どない朝高橋、また割りや四股や蹲踞に苦労しているようである。一方、朝山下の方は実技の方はそれなりにこなしているようだが、食事が最も苦しい時間だそうである。
凸凹コンビの修行は始まったばかりである。
平成20年6月9日
相撲教習所の授業は、実技のあと毎日50分行われる。月曜日から木曜日までは「相撲の歴史」「一般社会」「書道」「運動医学」をやり、金曜日は 「相撲甚句」と「力士修行心得」を隔週で、となっているそうである。講師は、筑波大学名誉教授や元横浜国立大学教授、江戸東京博物館館長とそうそうたる面々である。「相撲甚句」は伊勢ヶ濱OBの元国錦さんが、「修行心得」は大山親方が講師を務めている。
平成20年6月12日
授業が終わると、掃除や食事をして最後にまた集まって注意事項を聞いて部屋に帰る。12時半ころに国技館を出て部屋へ帰りつくのが1時頃である。食事は日替わりでメニューが決まっていて「とんかつ」「魚」「スキヤキ」「カレー」「メンチと野菜の串揚げ」となっているそうである。おかずは一皿ずつだが、ご飯はおかわり自由らしい。もちろん残すことは許されなく、指導員が目を光らせているそうで、食が細い朝山下には稽古よりも苦しい時間となっている。
平成20年6月14日
最後に集まった時にみんなで相撲錬成歌を歌って帰る。相撲錬成歌とは、相撲教習所の校歌のようなもので、作詞は元呼出し永男(のりお)の福田永昌さん。元栃錦の春日野理事長が相撲甚句つくりの名人の永男さんに頼んでできたそうだが、何度か駄目だしをくらい、なんども練り直した文句だそうで、今の歌詞が出来た時は春日野理事長も「おお、これだ!」と感嘆したそうである。
春日野理事長と呼出し永男さんの大相撲へ熱き思いがこもった名歌である。
平成20年6月18日
毎年6月恒例の茨城県下妻市大宝八幡宮での合宿稽古。16日に下妻に入り、17日から19日までの3日間境内の土俵で朝稽古が行われる。平成13年若松部屋時代に東関部屋と合同で行われたのが最初で、翌14年からは高砂部屋合宿として毎年行われ、今年で7年目である。18日夜には八幡宮近くの温泉施設ビアスパークで歓迎のバーベキュー大会。270名になるという奉納相撲保存会の会員の方々と懇親を深め、抽選会や記念撮影などで楽しんだ。
平成20年6月22日
先発隊5人(松田マネージャー、大子錦、塙ノ里、朝久保、朝酒井)名古屋場所宿舎の蟹江龍照院入り。毎年お世話になっている鈴木さんに迎えに来てもらい1年ぶりの蟹江へ。部屋の中の荷物を出して畳を敷いてバルサン焚いてと大掃除。雨に降られ、埃と汗と雨にまみれながらの作業である。ひと通り終え、蟹江尾張温泉で汗を流し、鈴木さん夫婦と晩御飯。朝酒井のえびすこに鈴木さんの奥さんもビックリである。
平成20年6月23日
ちゃんこ道具や冷蔵庫などをひっぱり出して洗い物。朝から少し晴れ間も出たから作業もはかどる。先発隊にとって天気が崩れないことは、仕事をすすめるための必要条件である。土俵築のため、呼出し利樹之丞と邦夫も蟹江入り。
平成20年6月25日
幟立て。毎年、稲沢市の浅井造園さんが立ててくれ、宿舎龍照院の境内や蟹江町内に17本の幟を立てる。引退した高稲沢をスカウトして入門させた浅井さん、最近も近くのお風呂に行ったら、ちょっと年はいってるがかなり大きい人が入っていて、「すいません、お宅大きい子供さんとかいませんか」と声をかけたら、大鵬部屋の元おすもうさんだったそうである。
平成20年6月26日
浅井さんの紹介で入門した高稲沢は引退後地元愛知県に戻り、朝迅風と一緒に介護の仕事に就いている。元おすもうさんが介護の仕事をしているということで、地元のマスコミにも度々取り上げられていて、先日もTVで特集されたそう である。付人経験といい、力仕事といい、元おすもうさんにはもってこいの仕事ではなかろうか。
平成20年6月27日
引退後も相撲協会に残れるのはごく一部の力士のみだから、引退後の仕事探しと言うのは昔からある問題である。いままでは、各個人や部屋にまかされていたが、それを相撲協会全体で支援しようと言う取り組みが始まった。25日付けの日刊スポーツによると、「第2の人生への支援センター」が活動を開始したそうで、無料でビジネスマナーやパソコン講習、適性を探るカウンセリング、就職先の紹介をするもので、過去に引退した力士も対象となるそうである。
平成20年6月30日
7月名古屋場所番付発表。先場所前相撲の朝山下と朝高橋が初めて番付に四股名を載せる。下から3番目の序ノ口東39枚目と下から4番目の西38枚目。序二段神山が改名、本名の笹川に戻す。