過去の日記

平成23年<平成22年  平成24年>

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平成23年1月1日
あけましておめでとうございます
いつもご覧いただきありがとうございます。新年がみなさまにとって、大相撲にとって、高砂部屋にとって良い一年となりますようお祈り申し上げます。今年も、力士の日常や生態、相撲豆知識、相撲の力学、などなど、幅広く、ときには偏って、気ままに紹介して相撲の面白さ奥深さを一人でも多くの人に興味をもっていただけましたら幸いです。本年もよろしくお願い申し上げます。
平成23年1月2日
再び肩甲骨とテッポウについて。腕(かいな)を返すことによりテッポウが全身運動になる。腕(かいな)を返すことによりテッポウがナンバになる。腕(かいな)を返すことにより肩甲骨のローリング運動をおこすことができる。腕(かいな)返すことこそがテッポウをテッポウたらしめる。ベンチプレスや腕立て伏せとは別次元の運動にする。江戸時代から追い求めてきた合理的な身体の使い方を磨く術(すべ)ではないか。
平成23年1月3日
高岡英夫『究極の身体』によると、体重600kgのバッファローがジープでやっと追いつけるほどのスピードをキープしたまま大草原を丸一日走り続けたりチーターが時速110kmのスピードを出すことができるのも、肩甲骨のローリング運動によるものだという。四足動物のものすごいスピードや力強さは、曲げ伸ばしの往復運動では決して実現することができなくローリング運動によって初めて可能になる。稽古始め。稽古終了後、5代目、6代目のお墓参り。
平成23年1月4日
腕(かいな)を返してテッポウを行うと肩甲骨が動く。腕(うで)と一緒に肩甲骨を動かすことが全身を使うことにつながる。固まりやすい肩甲骨まわりもほぐれる。そう考えると、肩甲骨は下半身における大腰筋(だいようきん)の働きに似ている。脚と一緒に大腰筋を動かすことができれば全身がスムーズに力強く使える(腰が強くなる)。固まりやすい股関節まわりもほぐれる。逆に股関節まわりがほぐれないと大腰筋が使えないから、肩甲骨まわりをほぐさないと肩甲骨も動かせないともいえるが。
平成23年1月5日
肩甲骨や大腰筋、股関節について考えると、どちらも先についている腕や脚と方向を揃えることがポイントになってくる。肩甲骨と上腕骨の向きが揃ったとき、背中の筋肉も使え大きな力を発揮することができる。股関節から膝、つま先の向きが揃ったとき、腰が割れ大腰筋が使えるようになり、しなやかで強い足腰を発揮できる。筑波大学の白木教授がいう股関節がはまった状態となる。いわばねじらないことであり、方向を揃えねじらないことこそが、「ナンバ」だといえる。
平成23年1月6日
「蹴らない」「ねじらない」「踏ん張らない」動きがナンバである。「蹴らない」「ねじらない」「踏ん張らない」動きで思い浮かぶのが双葉山の相撲である。双葉山の相撲は、立合い土俵を蹴ることなくスッと足を出し、相手に攻め込まれても踏ん張ることなく小刻みに足を動かし相手を捌き、投げやうっちゃりのときも重力を利用して回転させるだけである。力みがまったく感じられない。それでいて最大の力を発揮する。双葉山は「ナンバ」で相撲を取りきっていたのであろう。
平成23年1月7日
肩甲骨とテッポウの話から広がりすぎてしまった。固まりやすい肩甲骨を動かすには「腕(かいな)を返す」テッポウの動きがお薦めということである。腰割りが股関節の気持ちよいポジションを追求するのと同様、テッポウでは肩甲骨が気持ちよく動けるポジションを探るのがポイントになる。その中で「腕(かいな)を返す」動きは必須になる。股関節の可動域を広げる「股割り」が、肩甲骨まわりの可動域を広げる「肩甲骨ストレッチ」にあたるといえる。取組編成会議。初日朝赤龍は旭天鵬、横綱白鵬には鶴竜。
平成23年1月8日
♪トン トトン ストトトトトン・・・♪触れ太鼓が稽古場に乾いた高い音を響かせ、呼出しさんによって「相撲はあすが~ 初日じゃんぞーえ」「朝赤龍に~は 旭天鵬じゃんぞーえ」と初日後半戦の顔触れ(取組)が呼び上げられる。昔からつづく相撲風情を感じるときである。触れ太鼓は、国技館土俵にて午前10時より行なわれた土俵祭のあと土俵の周りを左回りに3周まわって町へと繰り出すことになっているそう。さいごは「ご油断ではつまりますぞーえ」で締める。
平成23年1月9日
早朝の空気は冷たかったものの青空が広がった初場所初日。午前8時、その澄んだ青空に響けとばかりに国技館正面玄関横の櫓の上で一番太鼓が叩かれ、乾いた太鼓の音とともに国技館正門が開場されお客さんを迎え入れる。櫓の高さは17m、2人の呼出しさんが交替で30分間叩き続け、8時半から序ノ口の取組が開始。結びの一番のあとの弓取り式が終わると同時に再び櫓の上で叩かれるはね太鼓でお客さんを送り出す。平成になって19回目の天覧相撲の初日。
平成23年1月10日
太鼓には、触れ太鼓のときに叩く「寄せ太鼓」、開場とともに櫓の上で叩く「一番太鼓」、現在は叩かれなくなったが関取衆の場所入姿を連想して叩かれたという「二番太鼓」、相撲終了後お客さんを送り出すときに叩かれる「はね太鼓」がある。巡業や花相撲のときに打ち分け実演が行なわれるが、リズムやテンポに微妙な違いがある。今年成人式を迎えた朝興貴が白星。朝龍峰は黒星。
平成23年1月11日
おととい櫓の高さは17mと書いたが、現在の櫓は19mだという。紹介してあるように鉄骨組みでエレベーターで上にあがる。ただし最上部へは何段かは梯子も登らなければならなく、太鼓を叩く場所はもちろん吹きっさらしである。櫓の上で一番太鼓を叩くのは序ノ口・序二段格の呼出しの仕事になるようで、最低気温が1℃まで下がった今朝の櫓の上では呼出し健人が8時から30分間太鼓を叩いた。今場所は6日目と9日目にも櫓に上るそう。
平成23年1月12日
国技館の櫓はエレベーター付の鉄骨製になったが、地方場所ではそうもいかない。それでも大阪、福岡は会場の建物の上に設置されているから櫓自体はそんなに高くないが、名古屋は昔ながらの丸太組である。架けてある梯子を一段ずつ登っていく。まず一人登り、ロープで太鼓をひっぱり上げてからもう一人が登る。風のある日などかなりびびるそう。(健人談)
平成23年1月13日
BS大相撲中継で出身地別の関取(十両以上)の人数を紹介していた。一番多いのはモンゴルで 14人、2位が青森県の8人、以下3人の茨城、東京、高知、・・・とつづく。逆に関取が一人もいない県が20県以上半数近くもある。横綱武蔵山、大関若羽黒を輩出した神奈川県も現在は関取がいない。放送では、平成12年7月場所の朝乃翔以来関取りが途絶えていると紹介されていたが、朝乃翔以来の関取を目指す神奈川県平塚市出身の朝弁慶2勝目。高知県出身の朝ノ土佐、兵庫県出身の朝興貴が3連勝。
平成23年1月14日
「一番太鼓」は昔は朝の2時か3時頃に打たれたという。“朝の打ち込み”と称して天下泰平、五穀豊穣を祈って打つ。巡業でも一番太鼓の合図で若い力士の稽古が始まったそうだが、現在は騒音防止条例もあり午前8時から30分間だけ打たれることになっている。「寄せ太鼓」は、江戸・明治初期に相撲協会が会所と呼ばれた頃、相談事が起きた時に親方衆や関取衆を呼び寄せるために打たれた太鼓で、入りが一番太鼓と微妙に違うそう。別名“清めの太鼓”とも呼ばれ土俵を清めるためにも打たれ、そのまま街へ「触れ太鼓」として繰り出す。
平成23年1月15日
太鼓は落語や歌舞伎の世界にもある。寄席でも、開場のときに打つのを「一番太鼓」、開演五分前に打つのを「二番太鼓」、終わりに打つのを「はね太鼓」というそうで、お客様が帰る様を「テンテンバラバラ テンテンバラバラ」と打つのも相撲と同じである。元は同じ大衆芸能の面もあるから当然と言えば当然だが。ただ同じ太鼓でも相撲の太鼓の方が皮の張りが強く、高く乾いた音の響きになる。室内で叩くのと屋外で叩くのの違いなのであろうか。男女ノ里負越し。
平成23年1月16日
巡業や花相撲(引退相撲など)のとき、櫓太鼓打ち分け実演を行う。土俵の上に太鼓を置き、座布団に正座した呼出しさんが「寄せ太鼓」「一番太鼓」「はね太鼓」と打ち分ける。相撲甚句や初っ切りと並び巡業などでは欠かせないお好み(余興)である。太鼓打ち分けは、太鼓名人として名高い呼出し太郎が昭和26年から始めたものだそう。朝興貴、4連勝での勝越し第1号。
平成23年1月17日
呼出し太郎は明治21年本所南二葉町(現墨田区亀沢)の生まれで、生家の隣が初代朝潮太郎の家だったこともあり11歳で呼出しに入門、朝潮にあやかって「太郎」と名乗ったという。「太鼓名人」「呼出しの親分」と異名をとり名物呼出しとして名が高かった。呼出し太郎一代記には明治時代の両国や本所の様子、ちゃんこや巡業の話も生々しく語られていて非常に興味深く面白い。
平成23年1月18日
明治時代、現在の墨田区は本所区といった。呼出し太郎が入門した明治31年ころは、「昼間でも狸が出るという下屋敷跡の寂しい野っ原が各所にあって、いまの錦糸掘、割下水はその頃、俗に「オイテケ堀」と呼ばれていた」とある。本所は、江戸時代に低湿地だった土地を開削し造成された街で、大名屋敷や旗本・御家人の屋敷が並んでいた。勝海舟が生まれたのも本所亀沢町である。朝ノ土佐、朝龍峰勝越し。
平成23年1月19日
司馬遼太郎『街道をゆく36-本所深川散歩』に本所の歴史が詳しい。そもそも江戸に多かった火事対策で火除地(空地)をつくるため大名屋敷などの代替地として幕府によって造成されたという。水はけをよくするため、北十間川、大横川、南北の割下水、などの運河や堀が人の手によって掘られ街が造られた。元禄元年(1688)造成が完了して、大名屋敷や大小旗本屋敷が移住した。現在、大横川は親水公園になり、南割下水は北斎通り、北割下水は春日通りに姿を変えている。大子錦、朝天舞勝越し。今場所早くも勝越し6人目。
平成23年1月20日
本所松坂町という町名は赤穂浪士の討ち入りでよく知られている。刃傷松ノ廊下は元禄14年(1701)3月14日のことで、事件後吉良邸は江戸城近くから本所(当時の地名は本所一ツ目)へ移された。西側の裏門は回向院に通じ2500坪以上の大きな屋敷だったという。現在は、両国3丁目の一角に大きな吉良邸跡の一部が記念碑として残されている。朝興貴5勝目。あと1勝すれば三段目昇進という希望も出てきた。朝弁慶も勝越し。昨日勝越した朝天舞と共に最後の一番に幕下復帰をかける。
平成23年1月21日
割下水は、もともと田畑への用水路だったという。本所が市街化されて下水になった。下水といっても水はきれいで、屋敷の池に割下水から水が引かれていたりもしたらしい。幅二間(3.6mあまり)で両岸には木柵が施され、両岸のほとんどが旗本屋敷だったが大名屋敷がひとつだけあった。津軽越中守上屋敷で、その隣の中屋敷跡に明治になって(11年)初代高砂浦五郎が高砂部屋を構えた。1000坪の敷地には庭園や池もあったという。朝ノ土佐5勝目。
平成23年1月22日
南割下水(現北斎通り)沿いの津軽藩上屋敷跡の変遷については、雑誌NHK大相撲中継初場所号掲載の元NHKプロデューサー佐藤桂氏「両国いまむかし」に詳しい。上屋敷は南側が現在の京葉道路まであり敷地8000坪だったという。明治17年上屋敷跡の鬼門(北東)に初代高砂浦五郎が野見宿禰神社を創建し土俵も築いた(部屋は神社の東向い)。初代高砂没後、宿禰神社を協会が管理、その後初代の弟子浪ノ音に管理が引き継がれ境内に振分部屋を構え、震災と大空襲から神社を守った。 朝弁慶幕下復帰を決める5勝目。大子錦も5勝目。朝奄美今場所8人目となる勝越し。後半戦の追い上げならず朝赤龍負越し。
平成23年1月23日
津軽屋敷跡南側京葉道路沿いには歌舞伎劇場寿座があった。一時廃絶したが明治31年に歌舞伎小芝居劇場として復活、庶民の楽しみの場として賑わったものの昭和20年大空襲で焼失。芥川龍之介の小説にも登場するそう。初代高砂浦五郎没(明治33年)後、2代目を元関脇高見山宗五郎が継ぎ部屋は京葉道路を越えた緑小学校の近くに移り、2代目没(大正3年)後、元大関2代目朝潮太郎が3代目となり寿座の近くに部屋を構えた。朝天舞幕下復帰濃厚となる5勝目。笹川も5勝目、こちらも三段目復帰濃厚。午後6時半より千秋楽打上。
平成23年1月24日
2代目没後、後継者争いで部屋が分裂し力士数が半減した。結局、大正時代の名大関2代目朝潮が3代目高砂浦五郎を襲名。ちょうど同じころ元横綱太刀山の東関が検査役選出に敗れ角界を去ることになり、36人の弟子と両国駅前の部屋を盟友3代目高砂に譲ったという。再び一挙に大部屋となり、大関太刀光、横綱男女ノ川、横綱前田山らが誕生した。今日から1週間の場所休み。
平成23年1月25日
平成14年3月に定年になった元副立呼出し三平さんは、三重県一志町の生まれで昭和25年12歳で入門した。二枚鑑札(現役で親方も兼ねる)だった横綱前田山がちょうど引退したばかりで、4代目高砂の時代である。部屋は、戦前からの両国駅前の和風の建物で、立派な門構えに中庭もあり、長い廊下があった。12歳の呼出し三太郎(後の三平さん)にとっては、呼出しの仕事よりも、真冬の冷たい水で雑巾を絞って、長い廊下から天井、玄関の門などを拭き掃除するのが本当に辛かったという。
平成23年1月26日
その後昭和40年代になって、部屋は鉄筋コンクリートの4階建てに建て替えられた。当時はまだ土俵の上には住居をつくらないという考えもあり、4階が稽古場であった。ここから横綱朝潮、宮錦、島錦、若前田、大田山、及川、愛宕山、富士錦などの関取衆が育ち、ハワイから高見山も入門した。4代目没(昭和46年)後、元横綱朝潮が5代目を継ぎ両国から隅田川を渡った柳橋へと部屋は移った。
平成23年1月27日
三平さんは、高砂部屋で呼出しをしていた叔父さんに誘われて入門した。叔父さんは呼出し多賀之丞という。多賀之丞は、もともと三重県で保険の外交員のかたわら消防団長も務めながら義太夫語りや素人相撲の呼出しをやっていた。縁あって高砂一門の巡業のときには手伝い、昭和13年には高砂親方(3代目か)から呼出し免除を与えられた。その後高砂一門の呼出しが人手不足になり正式に呼出しとして採用。お客さんから歓声が上がるほどのよく通る声で、中年からの中途採用にもかかわらず、結び前3番を、これまた美声で名高い呼出し小鉄と交互に務めたという。
平成23年1月28日
呼出し多賀之丞は声量豊かな呼び上げが評判だったが、“甚句の名手”としても名高かった。唄い手としてはもちろん、作詞にも見事な才能を発揮した。今でも名作としてよく唄われる「花づくし」や「出世鑑」、終戦直後につくられた新生日本などはみんな多賀之丞作である。“されど忘るな同胞(はらから)よ あの有名な韓信が 股を潜(くぐ)りし例(ためし)あり 花の司の牡丹でも 冬は籠(こも)りて寒凌ぐ ・・・ やがて訪ずる春を待ち パッと咲かせよ桜花” と唄う「新生日本」は、戦後、巣鴨の戦犯収容所を慰問に行った際に多賀之丞自ら唄い、A級B級戦犯の方々が涙を流して喜んだという。
平成23年1月29日
呼出し多賀之丞は、昭和30年代になって後進に道を譲ると言ってやめていったが、中途入門なのに声が良いことから先輩を出し抜いて立呼出しをやっていたことに仲間のねたみやいじめがあったとか、女性問題もあったとか、名人らしく謎に包まれた引き際だったよう。相撲甚句はその後、床寿、利樹之丞と高砂部屋で名人芸が引き継がれている。利樹之丞は、もちろん多賀之丞にちなんでの名である。
平成23年1月30日
3代目高砂浦五郎は、明治12年愛媛県新居郡玉津村(現西条市)の生まれ。本名坪井長吉。怪力で名を馳せ同じ愛媛県出身の初代朝汐に憧れ入門。はじめ朝嵐長太郎の四股名で、関脇になって2代目朝汐太郎を継承。のちに朝潮となって大関に昇進。右を差したら無類の強さを発揮し「右差し五万石」とも「右差し百万石」ともいわれたという。西条市大町には記念碑もある。
平成23年1月31日
愛媛県は高砂部屋とは縁が深く、初代朝汐太郎も愛媛県の出身である。初代朝汐は本名増原太郎吉といい江戸末期宇和郡八幡浜浦(現八幡浜市)の生まれ。7歳で1斗樽(18L)を持ち上げたという怪童で、明治16年17歳で大阪相撲押尾川部屋に入門。故郷に因んで朝汐太郎と名乗り、明治22年に東京相撲初代高砂のもとに移籍。明治31年、小錦と共に大関に昇進、在位6年で名大関と謳われた。明治36年に陥落するも平幕でも取り続け明治41年引退。42歳頃まで現役だったことになる。八幡浜市には記念碑が建立されている。
平成23年2月1日
初代朝汐太郎が大関在位中の明治33年、八幡浜で大相撲巡業があり、故郷に錦を飾った。その巡業の折、観客のため一夜にして丸太で橋を架け、のちに石橋に架けかえられて朝汐橋と名付けられたという。現在も地名として残っている。大阪市内にも朝潮橋という駅名があるが、こちらはあまり関係なさそう。酒豪でならし酒一斗(18L)を飲み干したという。大正9年56歳で逝去。
平成23年2月2日
2代目朝潮太郎となったのは、前記愛媛県西条市出身の3代目高砂浦五郎。その後、昭和4年から7年まで3代目朝潮の名が番付に復活。のちの横綱男女ノ川が一時期朝潮を名乗っていた。こちらは本名から朝潮供次郎。4代目朝潮は、徳之島出身の46代横綱朝潮太郎。そして現師匠が5代目朝潮となる。(男女ノ川を入れずに横綱朝潮を3代目、現師匠を4代目としている資料も多いが)いずれにせよ朝潮を名乗った力士はすべて横綱・大関となっている。6代目朝潮が現れるのはいつの日か。
平成23年2月3日
元横綱前田山の4代目高砂浦五郎も愛媛県西宇和郡喜須来村(現八幡浜市)の出身。3代目高砂一行が八幡浜に巡業にきたときの縁で高砂部屋入門。幼少のころから暴れん坊で有名で、相撲っぷりも闘志溢れ張り手を交えた突っ張りを得意として優勝1回。戦後初の横綱となったが、休場中に来日した大リーグの野球観戦に行って問題となり引退。再び激震となった大相撲界、6日(日)開催の大相撲トーナメントと11日(金)開催の福祉大相撲が中止となる。一日も早く事態が収拾することを願うばかりである。
平成23年2月4日
第39代横綱前田山に関しては、同じ愛媛県出身の今田柔全氏が『 どかんかい 』(BAB出版局)という本を出している。-国際化を駆け抜けた男ー張り手一代、前田山英五郎 と題して前田山の生涯を綴り、前書きには「豪放無類、和魂洋才、波乱万丈の生涯を送った前田山感動の記録」とある。
平成23年2月5日
床寿さんが入門したとき(昭和34年)の師匠が元横綱前田山の4代目高砂浦五郎である。ときおり話を聞かせてもらったが、弟子も100人近くいて、師匠が風呂に入るときには関取衆が背中を流したそうで、今では想像できないような貫録、威厳があったという。厳しかったが、当時は貴重品だった高級ウイスキーを嗜み、たまに「あんちゃん、一杯飲め」とやさしい気遣いもみせてくれたそう。食事に出かけたときなど「ご注文は?」と尋ねられると「あるもん全部もってこい!!」と豪快を絵にかいたような親方だったという。あす発売予定だった大阪春場所前売りが延期となる。
平成23年2月6日
今田柔全『どかんかい』には前田山の、まさに豪放無類、波乱万丈の生涯が紹介されている。昭和4年15歳のとき喜木山(ききやま)として初土俵。その後佐田岬と改名して番付を上げていくが飲んで暴れて破門。赦されて復帰するも再び騒動を起こして自ら飛び出す。再び復帰後19歳で十両昇進を決めるが当時の医療技術では不治とされていた右腕骨髄炎を患い5度の手術。1年余りの休場中に飲んで警官との乱闘騒ぎでまた破門。再度赦され復帰、親身になって困難な手術をしてくれた慶応大学前田和三郎博士の恩に報いるよう前田山と改名、再十両をつかむ。3月場所中止が決定。事態を深刻に受け止め一日でも早い信頼回復に全員で努めなければならない。
平成23年2月7日
心機一転、前田山と改名して土俵に上がってからは快進撃で番付を上げていった。1年間の休場で番付は三段目まで落ちてしまったが復帰場所を5勝1敗、翌場所幕下に戻って10勝1敗で幕下優勝、再十両となった。十両でも昭和11年春場所8勝3敗、つづく夏場所では10勝1敗で優勝、十両2場所通過で新入幕を決めた(当時は年2場所)。入幕しても勢いは衰えず、7勝4敗、9勝4敗(双葉山人気でこの場所から13日間になった)と勝越しを続け昭和13年春場所には新小結に昇進した。
平成23年2月8日
新小結の昭和13年春場所、いきなり11勝2敗と準優勝の成績。連勝をつづける双葉山には敗れたものの、横綱玉錦を取り直しの末破り、大関陣が低迷していたおかげもあって、翌場所の大関昇進が決まる。181cm。120kgの体から激しい突っ張りと張り手を武器として9年余り大関を務め、昭和17年1月からは三代目高砂親方廃業のため現役大関のまま二枚鑑札で4代目高砂を継承。昭和19年11月場所には初優勝。昭和22年で第39代横綱に昇進した。
平成23年2月9日
高砂一門の総帥となった大関前田山。年2回の本場所と巡業などで食いつないでいくが、だんだん戦局は悪化。昭和19年、国技館は軍に接収され夏場所は後楽園球場にて晴天10日間の開催。東京への空襲も激しくなってきたため20年春場所を繰り上げて19年10月に秋場所として開催。場所は同じく後楽園球場晴天10日間。この場所前田山は千秋楽横綱羽黒山を破り9勝1敗の成績で初優勝。昭和20年に入り、3月の東京大空襲で高砂部屋も全焼。何人かの弟子を連れて故郷愛媛へ疎開。6月、焼けただれて穴のあいた国技館で非公開7日間の夏場所開催。前田山も弟子を連れて上京。
平成23年2月10日
昭和30年刊行の相馬基『相撲五十年』(時事通信社)に戦時下の相撲界の様子が詳しい。昭和17年になると戦時色も強まり、場内飲酒禁止となり土俵を軍服姿が取り囲み、壁や柱には戦時ポスターや軍の宣伝幕が張り巡らされた。力士の浴衣も「体力奉公」と染め抜いたものに統一された。力士の軍事教練も行なわれ、19年秋からは勤労隊を組織して軍需工場に出向いた。応召もつづいた。昭和20年3月9日から10日にかけての大空襲で両国は焼け野原となり、関脇豊島、小結松浦潟の両力士が犠牲となった。
平成23年2月11日
関脇豊島は大阪出身で興国高校(当時は興国商業中学)柔道部。柔道三段の腕前を買われ昭和12年出羽ノ海部屋入門。朝興貴の直接の先輩にあたる。167cm126kgの体で押し相撲に徹し3年で新十両、4年で新入幕。昭和17年1月には横綱双葉山と対戦、立合い一気の出足で金星。双葉山からは19年11月にも金星をあげている。おおいに将来を嘱望されたが疎開する前夜に大空襲に遭い、隅田川沿いに逃れたものの浅草東武電車の鉄橋下で絶命していたという。享年25歳。
平成23年2月12日
8月終戦となり力士達もひとり二人と両国へ戻ってきた。ほとんどの部屋は焼けてしまったが、出羽ノ海、春日野、立浪の三部屋だけは何とか形をとどめていたいたという。伊勢ケ浜部屋、高島部屋は湘南に、二所ノ関部屋は高円寺のお寺に、双葉山道場(現時津風部屋)は大宮の幼稚園を仮住まいとし、11月5日にはザラ紙で番付が発表された。弾痕も生々しく屋根には穴が開き廃墟の中にそそり立つ国技館で11月16日から晴天10日間興業で秋場所を開催。初日から休場していた双葉山が9日目に引退声明を発表した。
平成23年2月13日
終戦から3カ月。食うや食わずの騒然としたなかでの秋場所開催。新弟子が入門するはずもなく、前相撲、序ノ口はなかった。復員してきたばかりの坊主頭の力士もいて多くの力士が体重を減らしていたが熱戦が繰り広げられ、新大関東富士9勝1敗の活躍、新入幕千代ノ山が横綱羽黒山とともに全勝して人気を博し、7日目は満員御礼となった。大相撲は、敗戦に打ちひしがれた焼け跡で復興に向け歩み始めた日本人の希望の光だった。
平成23年2月14日
20年秋場所終了後、国技館は進駐軍に接収、アイススケートリンクに改造されメモリアル・ホールと改称された。本場所が終わり、食糧難、交通事情もあり、食料をもとめて農村漁村などで一門ごとに巡業が行なわれた。高砂部屋は再び前田山の故郷愛媛に戻った。21年は4月に京都で10日間、6月に大阪阿倍野で11日間の準場所を開催。11月ようやく進駐軍から許可が下りメモリアルホールを借りての秋場所を13日間開催。以後メモリアルホールの使用が許可されることはなかった。バレンタインデー、おかみさんから全員にチョコレートが配られる。
平成23年2月15日
GHQ(連合国軍総司令部)との折衝は元前頭筆頭出羽ノ花の武蔵川が行なった。メモリアルホールの使用を懇請したが「ノー」であった。それなら明治神宮外苑をと考えたが、担当将校が日本人嫌いということで秘書の日本人が合わせてもくれなかった。事務員や秘書に侮蔑されながらも何日も通いようやく許可された。昭和22年は夏場所を6月1日から晴天10日間、秋場所を11月3日から11日間明治神宮外苑で挙行した。高砂部屋も再建され、前田山も弟子を連れて両国に戻った。夏場所初めての試みとなった優勝決定戦に進出した前田山、優勝こそのがしたものの場所後に横綱に推挙された。全力士献血(但し血液検査での正常者のみ)。
平成23年2月16日
当時の横綱免許は熊本の吉田司家(相撲の故実を伝える家)から授与されていた。横綱推挙に先立ち、番付編成会議でも賛否両論に分かれ2時間以上もめたが、混乱期での9年5カ月という長期の大関在位の労が認められ推挙された。しかし、吉田司家から「人格が横綱としてふさわしくない」と待ったがかかる。結局免許状に、「別に粗暴の振舞ある節は、この免許を取り消す」という但し書きが加えられて戦後初となる39代横綱前田山が誕生。どこかで聞いたような話でもある。
平成23年2月17日
例年なら大阪先発の準備で慌ただしくなっている頃であるが、大阪行きが中止となり東京での単調な日々がつづいている。そんな中、稽古後の風呂場で事件は起こった。風呂には力士用の木製の大きな腰かけが置いてあるが、それに足をかけて石鹸で体を洗っていた笹川の姿が、湯船に浸かっていた朝ノ土佐の視界から突然消え、ゴーンという大きな音。見ると、脚が根元からきれいに折れぺしゃんこにつぶれたイスと、うつぶせのままピクリとも動かない笹川の裸体。3分後ようやく起き上がってきた笹川、稽古でもやらない久しぶりの激しいぶちかましで目を腫らしてしまった。幼少の頃は親がジャニーズ入りも真剣に考えたという笹川、幸いにも今は少々崩れてもそんなに影響はなくなっている。
平成23年2月18日
ちゃんこ長大子錦、地方場所先発隊長でもある。190kg(2月の健康診断では189kgだったと自己申告しているが)の巨体だが、テレビの配線や縫い物なども器用にこなし親方や資格者の部屋のセッティング等、先発隊になくてはならない存在である。また農業科卒で耕運機の扱いにも慣れていて、土俵崩し隊長でもある。相撲は引っ張り込むだけだが、日常生活ではいろんな特技を持っている。そんなちゃんこ長大子錦にとっても、一番差し入れの多い大阪場所中止は、毎日のちゃんこのメニューを考えるうえでも頭を悩ますところで、悩みすぎてまた太ってしまうかもしれない。アンコは悩むと食って寝てしまう習性がある。ような気がする。いつも寝ているだけのことかもしれない。
平成23年2月19日
平成24年度から中学体育の授業で武道が必修になる。剣道や柔道と並んで相撲も選択科目のひとつに入るから一人でも多くの中学生に相撲に親しんでもらいたいものだが、お相撲さんと実際接する機会があると相撲をより身近に感じてくれることであろう。毎年名古屋場所の折には東海相撲連盟・愛知県相撲連盟の会長を務める近藤弘行氏が、刈谷市で親方や朝赤龍、大関把瑠都らの学校訪問やファンとの交流の場を設けてくれている。長年、相撲の振興発展に尽力しつづけている近藤氏にこのほど武道功労章が贈られた。こういう方の恩に報いるためにも一日も早く大相撲も再生しなければならない。
平成23年2月20日
毎日夕方になると地下からラップが聞こえてくる。ラップのリズムにのりながら重いダンベルやバーベルが上下させているのは朝天舞。以前から小さい体を補うために筋力トレーニングをよくやっていたが、横綱がいるときは付人稼業や巡業、現在は場所中審判の付人とまとまった自分の時間はなかなかとれない。久しぶりの幕下復帰となる大阪場所中止は残念だが、入門以来はじめてじっくりとトレーニングに取り組めると嬉々として筋力アップに励んでいる。ラップで磨いた集中力は体に染みついていて、ときに本場所の土俵上でも発揮されている。
平成23年2月21日
弓取式は覚えるのに時間がかかる。横綱の部屋の力士がやるのが通例だが、男女ノ里のあと、宮城野部屋の一門の力士が巡業等で練習して覚えるまで九重部屋千代の花が務めていた。その千代の花が初場所で引退、あとを引き継ぐはずの力士が怪我で当分休場となってしまい、再び男女ノ里にお鉢が回ってきた。春場所からまた一年ぶりに弓を振る予定だったが、こちらも延期となった。本来ならば昨日から大阪先発隊出発。大阪の関係者からも「今年はさびしいなぁ」と連絡がはいってくる。年一度の大阪場所を楽しみにしていた方々には誠に申し訳ない限りである。
平成23年2月22日
もともと大阪には大阪相撲があった。歴史は江戸時代にさかのぼり、京都相撲とともに盛んだったが、江戸に谷風、雷電などの強豪力士が現れ、だんだん江戸相撲におされていった。明治になって大阪相撲協会ができ、大正8年には新世界に7000人収容の大阪国技館もできた。昭和2年に東西の相撲協会が合併して、昭和12年には大阪旭区関目に大阪大国技館も造られている。円型4階建てで収容定員は25,000人の大きな建物だったという。開館記念に双葉山と清水川の三段構えが披露されたが、7回準場所を開催しただけで軍需工場となり、その後接収された。
平成23年2月23日
相撲が国技と称されるようになったのは、明治42年6月両国に相撲常設館が建てられ国技館と命名されてからである。「国技館」の響きは当時としてもかなり人気が高かったようで、全国各地でブームとなった。同年12月に横浜に、横浜の国技館と呼ばれた「横浜常設館」(収容2,000人)。 明治45年には収容12,000人の「浅草国技館」、京都市中京区に「京都国技館」(収容3,500人)。大正2年には「熊本肥後相撲館」、大正3年名古屋市中区に「名古屋国技館」(収容8,800人)、大正4年には「富山国技館」。そして前記の大正8年「大阪国技館」同12年の「大阪大国技館」と、国技館建設ラッシュがつづいた。夢のような話だが、現在、東京ドームを皮切りに全国にドーム球場が建てられているようなものである。
平成23年2月24日
国技館の命名については風見明『相撲、国技となる』(大修館書店)に詳しい。明治42年6月2日が開館式であったが、直前の5月29日になってもまだ決まらなかった。板垣退助を委員長とする常設館委員会では「尚武館」「相撲館」「武育館」などの案がでるもまとまらず協会へ一任。結局、尾車検査役が文筆家江見水蔭作成の「初興業披露状」の中にある「・・・そもそも角力は日本の国技、歴代の朝廷之を奨励せられ、・・・」をヒントに国技館と命名された。
平成23年2月25日
「板垣死すとも自由は死せず」で有名な板垣退助は、好角家として知られていた。国技館建設には建設委員長として奔走し、高知市の実家には相撲場があり力士も20人ほど養成していたという。横綱太刀山入門のときには後援していた友綱親方に頼まれて間に入り、富山県知事や 内務大臣西郷従道までもを担ぎ出し説得して入門させた。太刀山の四股名も板垣退助の命名による。
平成23年2月26日
現在高知県出身の力士は、栃煌山、豊ノ島、土佐豊と幕内に3人もいる。先ごろ引退した土佐ノ海もそうであるし、近年ではなんといっても師匠大関朝潮がいる。少しさかのぼれば関脇荒勢もいた。もともと高校相撲も強く、朝青龍や朝赤龍の明徳義塾をはじめとして強豪校がひしめき高知市内には立派な相撲場もある。相撲が盛んな県としての今日の隆盛も、板垣退助の相撲好きに端を発したことなのかもしれない。
平成23年2月27日
高知県は、江戸時代にはさしたる力士もいなかったが、板垣邸の稽古場で修業した香美郡出身の初代海山太郎が大阪相撲で関脇まで昇進。その後東京の玉垣部屋へ移り、前頭筆頭まですすんだ。明治24年5月引退後、板垣伯爵のバックアップもあり友綱を襲名して部屋を創設。前述の横綱太刀山(富山出身)はじめ、高知県出身だけでも大関八幡山、大関国見山、関脇2代目海山、小結矢筈山らを育て、最盛期には幕内20余名、力士150名の大部屋になったという。高知市出身の2代目海山は引退後独立、二所ノ関部屋を創設して、同じく高知市出身の横綱玉錦へと引き継がれた。
平成23年2月28日
風が吹けば桶屋が儲かる例えでいえば、板垣退助伯爵の相撲好きが高じて友綱部屋が創設され、高知県出身の力士が増えた。身近に力士がいると相撲ファンが増え、ますます盛んになる。アマチュア相撲も盛んになり、大相撲へ入門する人間も増えてくる。板垣伯爵のおかげで、大関朝潮が生まれ、朝ノ土佐(土佐市出身)、朝乃丈(安芸市出身)が高砂部屋に入門して頑張っている、ともいえる。1月場所成績による新地位が各部屋に配布される。朝赤龍は前頭9枚目。幕下以下は非公表なので、次回番付発表までお待ちください。
平成23年3月1日
相撲年齢という言葉がある。相撲を始めてからの年齢で、小学生から相撲を始めていれば実年齢が20代後半でも相撲年齢20年のベテランとなるし、20歳を過ぎて入門し相撲を始めれば同じ20代後半でも相撲年齢は10年にも満たずまだまだ若い。朝ノ土佐は相撲が盛んな高知で小学生の頃から相撲を始め、わんぱく、中高と全国大会も経験して入門、若い衆の中では中心的存在である。相撲年齢も長くなりすぎるとモチベーションを保つのが難しく体調不良もつづき三段目での生活が増えてきたが、地力は誰もが認めるところで、次場所の幕下復帰が濃厚な朝弁慶も朝天舞も稽古場ではまだまだ顔じゃない。実年齢は今年30歳になるが、相撲年齢の長さからいってもここ1,2年が最後の勝負どころである。
平成23年3月2日
朝乃丈も、小6から相撲を始め相撲年齢はけっこうなものがある。春日野部屋栃煌山とは高知県安芸中学校相撲部で全国大会に出場した同級生の仲で、いまは完全に水を開けられた状態だが、本人はいたってマイペースで、たまに胸を出してもらって同窓会などもやるらしい。入門以来、稽古場でのやるきの無さも相変わらずだが、8年目となる今まで風邪で稽古を休んだのは一日しかなく(何とかは風邪を引かないだけとよく言われるが)、イメージ以上に真面目にコツコツやってはいる。その甲斐あって、今度も陥落するものの過去1勝しかできなかった三段目で3勝できるようになり、コツコツと地力はつけてきている。
平成23年3月3日
昨日の新聞に、名古屋大学出身の千賀ノ浦部屋舛名大が引退して4月から中日新聞の相撲記者に転身する記事が掲載されていた。舛名大とは引退前の平成19年7月場所初日に、国立大学同士の対戦として話題(7月9日日記)になった。首を痛めて休場がつづいていたので心配していたが新しい人生を始められることになり一安心である。力士から新聞記者への転職は珍しいが、相撲評論家、演芸評論家として名高い元出羽ノ海部屋小島貞二氏も引退後東京日日新聞で相撲記者も務められていた。
平成23年3月4日
小島貞二氏は愛知県豊橋市の生まれ。時習館高校卒業後漫画家になるため上京したが182cmの長身を見込まれて出羽ノ海部屋に入門。昭和13年夏場所初土俵で横綱吉葉山は同期生にあたり同17年春場所引退。引退後雑誌の編集記者になり、以後新聞記者、放送作家、相撲・演芸関係のライター、評論家と文才を発揮して著作も160冊を超える。また小林旭『恋の山手線』の作詞も手掛けている。
平成23年3月5日
大空襲で帰らぬ人となった関脇豊島は小島貞二氏の一年兄弟子にあたる。焼け跡の大相撲視と題した小島貞二著『本日晴天興業なり』(読売新聞社)には豊島の話も出てくる。空襲のあった20年3月9日小島氏と手(気)の合った同期生の小高という力士が部屋に在籍していて、夜、タニマチから誘いがあり豊島と二人で出掛けた。8時過ぎにお開きとなり一緒に帰ろうとしたが、豊島は妙な理屈をつけて浅草へ寄るという。若くてきれいなホシが浅草に住んでいるのを思い出した小高は、しつこく聞くのも野暮かと「じゃあ、またあした」「うん」と笑顔で別れた。あの時無理やりにでも部屋に連れて帰るんだったと後々まで悔んだという。
平成23年3月6日
当時両国橋たもとにあった出羽海部屋も焼夷弾が2階をぶち抜き焼け落ちたが力士たちは逃げ延び倉庫だけが残った。翌朝明るくなって見渡すと両国はまだ焼け残りが所々に見られたが、浅草は地獄図絵を見るようであったという。付人だった川崎という力士が豊島を捜しに浅草へ出た。道路には遺体がころがり泣き叫んでいる姿もあった。ホシとは近々挙式の予定にもなっていて半同棲生活だったそうで、生き残った近所の人に話を聞くと、豊島は防火団長をやってかなりの時間消火活動に奮闘していたらしく、周りが火の海となり川のほうへ逃げたという。
平成23年3月7日
付人の川崎は、川なら吾妻橋辺りだろうと勘が働いたという。川堤へ出ると、家財道具や死骸が流れ、船や杭にしがみついたまま動かない人もいて隅田川は三途の川と化していた。そのうち「おっ、あれは、相撲とりじゃないか」という声が聞こえた。飛んでいくと、棒っ杭をしっかりつかんだまま、川の中から首から上を出し、かぶった防空頭巾がズレて、そこからチョンマゲがのぞいた形で、息絶えていた豊島の姿があった。重い遺体を引き上げ、焼け跡にころがっていた黒こげの荷車に乗せ部屋へ戻った。2階が焼け落ちて青天井になった土俵の真ん中に遺体を寝かせ、ありあわせの茶碗に酒をついで供え、合掌した。
平成23年3月8日
頭巾は半分焦げてはいたが、体のどこにも傷はなくおだやかな表情のままであったという。火災から生じた一酸化炭素による窒息死であったろう。14日に相撲協会の2階でお通夜をし、15日桐ケ谷の火葬場で荼毘に付した。仲の良かった元三保ケ関の大関増位山は「まるで生きているような顔だった・・・」と回想していたという。得意だった柔道の投げ技を封印して押し相撲一本に徹し、大関候補とも嘱された。66年前の3月のことである。同じ興國高校柔道部出身の朝興貴、先輩の無念を晴らすべく精進しなければならない。
平成23年3月9日
関脇豊島と同じ大阪興國高校柔道部出身の朝興貴、入門してちょうど2年になる。入ってきたときは体がガチガチに固かったが、兄弟子に背中から乗られ股割りも胸までつくようになった。120kgあった体重が90kg台まで落ちていたが、115kgくらいまで戻してきた。腰高なのは相変わらずだが、少しずつ膝も曲がるようにはなってきて、時々朝乃丈にもめが出るようになった。3年で関取、4年で新入幕の先輩のスピード出世には及びもつかないが、着実に力はつけてきている。初場所は5勝を上げ、次の場所勝ち越しての三段目昇進目指して、今日も砂と汗にまみれている。
平成23年3月10日
午前10時ころ国技館に行くために蔵前橋を渡ると「東京大空襲慰霊・・・」と書かれた幟旗を掲げたお坊さんの一行と橋上ですれ違った。国技館近く墨田区横網の東京都慰霊堂で行なわれた法要の帰りのよう。66年前の3月10日零時7分から2時間あまりに亘り300機以上のB29により38万発以上の焼夷弾が投下され下町を焼きつくし10万人以上の犠牲者を出した東京大空襲。相撲界では前述の関脇豊島、小結松浦潟の他に高砂部屋元射水川の西岩親方も被害に遭われた。また徳之島出身で講道館四天王と称された徳三宝も59年の生涯を閉じた。
平成23年3月11日
部屋が集中している下町が爆撃の中心だったのにもかかわらず力士の犠牲者が少なかったのは、大半が各地に勤労奉仕に出ていたことによる。双葉山一行は九州太宰府の道場を拠点に、立浪一門は山形に、高砂一門は九州の軍需工場で、二所一門は尼崎で、それぞれ勤労奉仕をしながら慰問などにあたっていたため難を逃れた。
平成23年3月12日
東北地方太平洋沖地震で被害に遭われた方々心よりお見舞い申し上げます。東京の高砂部屋は幸い無事でしたが、宮城県石巻出身の朝天舞、両親と連絡はとれるものの家屋の被害がまだつかめず不安がつづく。朝天舞の実家へは横綱も東北巡業の折顔を出したこともあり心配して電話をかけてきた。茨城出身の男女ノ里、大子錦は実家の屋根瓦が落ち窓ガラスが割れたりの被害。福島や宮城、青森には部屋関係の方も多く安否が気遣われるが未だ連絡不能で定かではない。皆様の無事と一日も早い復旧をお祈り致します。
平成23年3月13日
本来なら春場所初日を迎えるはずの日曜日。月~土稽古で日曜は休みとなるサイクルがつづいている。休みの日のちゃんこはカレーやハヤシライスが定番となっているが、それだけではもの足りずコンビニ弁当やファストフードで買い食いするのが若い衆にとってはささやかな楽しみのひとつでもある。それが今回の地震の影響で部屋近くのコンビニ等も品切れ続出となり、棚には商品がほとんど並んでなく、たまに入荷してもすぐになくなってしまう。食べることが趣味であり特技である朝弁慶、商品を運ぶトラックが近くのコンビニに入ったとの情報を聞きコンビニへ巨体をゆすらせ走った。食べたいものを食べたい時に食べられることに感謝し、また明日からの稽古に精進しなければならない。
平成23年3月14日
被害状況が明らかになるにつれ衝撃が日に日に増していくが、実家が震源地に近い宮城県石巻の朝天舞、兄とは連絡ついて一旦家族の無事は確認できたが、その後まったく連絡とれなくなり祈って待つしかない状況。男女ノ里は、昨日の休みを利用して茨城県つくばの実家へ何とか帰りつき予想以上に被害のあった実家の復興にあたっている。同じく茨城出身の大子錦も実家の様子が心配ではあるが、こちらは交通がまだ遮断されていて帰れず、何より帰っても邪魔になるだけだからと自分で自分を納得させている。
平成23年3月15日
直接の大きな被害はないものの、東京も一日に何度か余震があり原発の問題もでてきて落ち着かない日がつづき、交通機関の混乱とスーパーやコンビニの品切れなど生活にも影響がでてきている。そんな中、おかみさんが母娘で大阪の実家のコノミヤからトランク4個に満杯の食料品を調達してきて、おかずに苦悩していたちゃんこ番にとってはありがたい限りである。朝天舞もようやく兄と再度連絡がついて実家も無事とのこと、とりあえずは一安心となった。
平成23年3月16日
内田樹の研究室のファンである。難解な話も多いが、頭の中でモヤモヤと感じていることをすっきりと文章化してくれて「なるほど、そういうことだったのか」という気持ちよさをつねに感じさせてくれる。シコを踏んでいて新しい感覚を発見した(ような気がする)ときの喜びの感覚にも似ている。本日の「疎開のすすめ」も成程である。相撲部屋は大阪の宿舎へ疎開すれば、大阪の相撲ファンにとっても喜ばしいことになる。3月13日の「未曾有の災害のときに」の話もそうである。寛容な心で専門家に任せるしかない。
平成23年3月17日
内田樹氏を初めて知ったのは、合気道家として武道の雑誌に登場した内田氏であった。『日本辺境論』が出たあと、新潮社『考える人』で 対談する機会をつくっていただいた。妻に話したら、フランス文学の内田樹氏はよく知っているという。元上司の親友で、元上司が急逝されたとき友人代表として弔辞を述べられたのをよく覚えていた。ちょうど対談の前日のブログに、亡くなった元上司の話が出ていてさらに驚いた。今月神戸女学院大学を退職され新しく自宅兼道場を建て武道家として生きる。朝天舞の両親、実家に戻り直接連絡あったとの嬉しい知らせ。
平成23年3月18日
内田樹氏のブログは教育や政治、映画論、身体や武道論まで幅広い。言葉に表すのが難しい身体運動や武道の動きをいろいろな角度から言語化してくれる。合気道の他に居合道も修練されているが、居合の話も興味深い。座った姿勢から剣を抜く居合は剣の動きが主体となるが、動き出した剣の「最適運動」を邪魔しないことが、とりあえずの人間の仕事だという。動きを邪魔せずに動かすことはものすごく難しい。「ナンバ」は邪魔をしない動きを身につけるためのもので、「テッポウ」が「ナンバ」なのも自分の体の動きを邪魔しないためなのであろう。
平成23年3月19日
「木も 風も 大地も ひとつのもの そうだった 刀が教えてくれるんだった 軽いっ むずかしいぞ でも この棒きれですら 教えてくれるはず 耳を澄ますように 体を手放せ ぶらぶら おお来た これだ 指先に ひっかかる 棒きれの確かな重み ・・・」内田樹氏が井上雄彦さんと会うで引用されている『バガボンド』24巻の棒きれで雪だるまを斬る武蔵の気づきである。剣の「最適運動」と同じことで、邪魔しない動きのエネルギーをさらに高めていくことになる。自然の生み出すエネルギーに人間の力が遥かに及ばないことは今回また思い知らされたことである。
平成23年3月20日
ブレーキをかけずに動くことは難しい。立合い相手に当たるとき、思い切りぶつかっているつもりでもどこかで体にブレーキをかけ身を守っている。自分で自分の動きを邪魔している。ところが『バガボンド』の武蔵は、幻想の剣先にすべてのエネルギーを託して伝七郎(吉岡)に向かって泳ぐように身を投げ出している。体ごと剣の最適運動をしている。意識が極まると時間が相対的に伸びるようで、外から見たらほんの数秒のことでも、その間武蔵は無数のシュミレーションをしている。
平成23年3月21日
高岡英夫氏も宮本武蔵を長年探求している。高岡氏は、武蔵が二刀流なのは剣を片手で持つことにより剣の力学量を最大限に引き出すためだったという。剣が動きたいように剣を動かし、剣の動きに体の動きと心を合わせていく。あくまでも剣が主体となる。そのとき「剣が生き物になる」。生き物になった剣は、両手で握り全身の筋力を使って振り下ろす剣よりも遥かに早く、相手の剣をも巻き込んで更に威力を増す。
朝天舞、石巻の両親とも電話が通じるようになり安堵。惨状を見るにつけ本場所もなく時間をもてあます身がもどかしいが義援金や支援物資、節電、節品等できることをできる限り応援していくしかない。
平成23年3月22日
避難所生活が長期化してくると血栓症が心配だという記事が出ていた。運動できない狭い空間での生活が続き水分補給が足りないと血液がドロドロになり塊をつくって危険な状態となる。血栓が肺をふさぐのがエコノミークラス症候群で神戸や新潟の地震の後にも多くの方が亡くなられた。起こってからでは遅いので、水分をしっかり摂って1時間に一度は散歩や脚のマッサージを行なう必要があるという。環境や身体的に歩くのが難しい方には腰割りがお薦め。場所も時間もとらずに行なえる腰割り。決して深く下ろすことはない。膝とつま先を軽く外向きにそろえて開き腰をゆっくり下ろしていく。上体やスネが前傾してしまうと股関節への刺激がすくなくなるので、わずか2,3cmでもいいので上体とスネをまっすぐ保ったまま股関節を開く気持ちよさを感じるのがコツ。もの足りないくらいで十分ですので気が向いたときに(1時間に1度5回ずつ)行なうことで、じんわりと股関関節をほぐし、血液やリンパの流れをよくしてくれます。初めは下ろしすぎないのがコツです。
平成23年3月23日
腰割りは、腰を上下させるだけの簡単な運動だが、実際行なってみると意外と難しい。現役のときは深く考えたこともなく誰もが当たり前にできる姿勢だと漠然と思っていたが、妻の腰痛緩和をきっかけにいろいろな方に実施してもらい探求していくと、いかに一般の方々が股関節を動かしていないかということに改めて驚かされた。腰を下ろそうとすると、必ず膝が中に入ってしまう。膝を中にいれないよう頑張るとお尻が後ろに逃げてしまう。腰を下ろすことと割ることの違いをしみじみ感じて、初心者が腰をわるためには下ろしすぎないことがコツだと知った。単純だが、重心や意識しにくい股関節に意識を向けることによりどんどん深い世界へと入り込んでいけます。簡単だけど深い。時間つぶしにももってこいですのでぜひお試しください。
平成23年3月24日
余震や原発、水問題と落ち着かないが、友綱部屋へ出稽古。東関部屋も来ていて3部屋合同での稽古。人数が多いと申し合い稽古といって、土俵を十数人が囲み勝った力士が次の対戦相手を選んでいく稽古になる。勝負が決まる場所を見越し、デブの間をかき分け、すり抜け、勝った力士の前に行かないといつまでたっても稽古できない。相撲の流れを見越す勘と自分を売り込む積極性が求められる。どちらかというと、いま流行りの草食系に属する朝興貴、積極性も勘も足りずなかなか買ってもらえない(稽古相手に指名されない)。三段目へ上がるための課題であろう。今日明日、錦糸町駅前、上野松坂屋、渋谷駅で三役以上力士を中心に街頭募金。
平成23年3月25日
申し合い稽古で番数をこなすには、他人を押し分けてゆく積極性はもちろんだが、勝負が決まる場所、どっちが勝つか、どっち向きで勝負が決まるかなど想像力をはたらかせることが大切になってくる。「ごっつぁんです」と声を出すか勝った力士の名前を呼んで指名してもらうが、いくら元気よく呼んでもらっても後ろにいる人間を指名することはできない。勝負が決まった瞬間に目の前にいる力士を指名することになる。ただ勝負が決まるまでは動かないことになっているから、はじめのポジションと決まりそうになったときの一歩目をいかに早く出すかが決め手となってくる。勘の冴えているときはスッと動けるが、調子の悪いときは読みが反対になったり近くで勝負が決まっても割り込まれてしまう。
平成23年3月26日
合気道では、この勘を磨く稽古を大切にしているという。先日内田樹氏にお会いしたとき、そういう話題を興味深く伺った。「気の感応」「時間をフライングする」「先の先」・・・これから起こることを事前に察知し先に動くことこそが求められる。野球のファインプレーに見せないファインプレーにも通ずることだし、何と言っても今回の大災害などから身を守るためには必要不可欠な能力であろう。
平成23年3月27日
ひとつの土俵を大人数で囲んで申し合い稽古をやっていると、効率が悪いから土俵を2つにすればいいという意見がでることもあるが、勘を磨くという観点からすれば、大人数でひとつの土俵を囲み、気を働かせ先を読むことが大切になってくる。量をたっぷりやらせるためには三番稽古(同じ相手と何十晩もつづけてやる稽古)という方法がある。申し合い稽古と三番稽古、それぞれに特色があり利点がある。
平成23年3月29日
十両格行司木村朝之助、目下の悩みは年々お相撲さん体型になってくることである。ちょっと油断すると腹と脚がめきめき育ってしまう。これはやばい!と今までも何度か走ったり筋トレしたりダイエットメニューにも取り組んできたが、なかなか成果が上がらない。もともとエビスコも強いほうで消費した以上に身についてしまう。ところが最近ベルトの穴がひとつ余ったという。見ればお腹まわりも以前よりすっきりしている。最近走る前に“腰割り”をやっているそう。腰割りをやってから走ると気持ちよく走れるとのこと。食欲は相変わらずなのに痩せて「腰割り効果」を実感している。
平成23年3月30日
番付の文字は“相撲字”という独特の書体で行司さんが書く。入門して見習いの頃からひたすら練習してだんだんと形になっていく。入門5年の木村悟志、割触れ(対戦する両力士の四股名を書いた紙)を何枚も書いて兄弟子に添削してもらう毎日だが、最近板番付の練習も始めた。もちろん練習だから板ではなく大きめの模造紙に書くが、本場所がなく時間がとれる今月は2日に1枚のペースでひたすら書き続けている。素人目にはずいぶん上達したかに見える。
平成23年3月31日
相撲字はもともと根岸流と呼ばれる文字である。江戸時代中期までは、歌舞伎や寄席と同様、御家流または青蓮院流という書体で書かれていたが、寛政の頃から番付の版元である三河屋根岸治右衛門が創始して現在のような文字になったといわれている。客席がすき間なく埋まるようにと、肉太で余白が目立たないよう書く。根岸家は番付をつくりながら年寄の一名跡となり、特に大正時代の9代目根岸治右衛門は理事として国技館経営に商才を発揮する傍ら、東京市議会議員にも当選したという。
平成23年4月1日
相撲字が根岸流と呼ばれたように、番付表はずっと根岸家が書いて刷ってきたが、昭和初期になり行司が書くようになった。29代木村庄之助著『一似貫之』(高知新聞社)によると、昭和19年より式守伊三郎(24代木村庄之助)、昭和27年から5代式守勘太夫、昭和41年から式守清三郎、58年から木村庄二郎(26代式守伊之助)、昭和60年から木村容堂(30代木村庄之助)、平成12年より式守敏廣(38代現式守伊之助)とつづいている。現在は、幕内格行司木村恵之助が平成19年11月場所より戦後7人目の書き手として番付表を書いている。三役格行司までの役割で、立行司になると後進に道を譲る。
平成23年4月2日
相撲は田舎に似たところがある。若い頃は都会に憧れ早く田舎を出たいと思うが、いざ離れると年々想いが積もってきて愛おしくなってくる。実際周りにも若い頃はまったく興味なかったのに年をとってから相撲が好きになったという方も多い。老人ホームに慰問にいくとお相撲さんというだけで涙を流して喜んでくれる方も多い。寝た切りになっている方ほどそんな想いがより強いようにも感じられる。震災に遭われ避難している方にも同様の想いを持つ方は多いと思うが、一番の復興支援となる本場所開催に向けようやく一歩を踏み出したばかりである。
平成23年4月3日
一昨日の処分発表を受け、本日午後1時より評議員会。評議員は一般に親方と呼ばれる年寄全員と、立行司と横綱、大関の現役評議員とで構成されている。行司は定員2名、力士は定員4名と定められているが、横綱、大関は日本国籍を有する力士のみであるから、現役力士では魁皇のみが評議員となる。評議員は理事および監事を選ぶ選挙権を持つ。これらは財団法人日本相撲協会寄附行為に定められている。
平成23年4月4日
相馬基『相撲五十年』(時事通信社)によると、東京相撲協会が文部省に財団法人設立の申請をしたのが大正14年9月30日。同年12月28日文部大臣岡田良平から許可された。この頃まだ大阪にも大阪相撲協会があり、大正14年11月、15年3月、15年10月と合計3回の合同相撲を行ない、成績を基に新たに番付をつくり、昭和2年1月正式に東西相撲協会が合併して「大日本相撲協会」となった。
平成23年4月5日
相馬基『相撲五十年』では20世紀に入ってから50年の大相撲史を世相と織り交ぜながら語っている。大正末期から昭和初期にかけては不景気のどん底で相撲界も不況にあえいだ。土俵では太刀山のあと栃木山と強豪力士が続き、大錦、常ノ花という人気力士も活躍したが、「世間では相撲の勝負に情実がみられることや桟敷で芸者が酒に酔い嬌声を張り上げる醜態、木戸口の年寄の横暴な態度などに批判の声が高まり大衆人気は学生野球のほうへと引きつけられていった」とある。さらに大正12年9月1日には関東大震災が起こり国技館は全壊、本所界隈の相撲部屋も全滅となった。
平成23年4月6日
少し好転の兆しが見えてきたのは大正14年4月29日に摂政宮殿下(昭和天皇)の24回目の御誕生日の祝賀式に大相撲を招いて台覧(皇太子が相撲を観戦すること)され、莫大な金一封が下賜されたこと。これを基に天皇賜杯がつくられた。東京相撲協会は、賜杯拝戴のよろこびを東京のみで独占するのは畏れ多いと大阪相撲協会にも呼びかけ合併へとつながった。
5月場所は技量審査場所として8日(日)から22日(日)まで15日間開催され一般無料公開されることになりました。
平成23年4月7日
当時の大阪相撲は人気実力ともに東京の比ではなかった。3回にわたる連盟相撲で新たな番付を編成したが幕内に残ったのは横綱宮城山をはじめとして6名のみ。大阪で大関を張っていた力士は前頭9枚目10枚目に組み込まれた。十両に残ったのが6名。同時に年寄も17名加わり(朝日山、陣幕、中村、時津風、三保ケ関など)年寄の定員は103名となった。昭和2年1月東西合併後初の場所で大阪相撲の横綱宮城山が横綱常ノ花に敗れたものの10勝1敗で優勝して土俵で感泣した。以後、1月、5月は東京で3月、10月は関西での開催となった。
平成23年4月8日
昭和2年1月の合併場所を大阪相撲の横綱宮城山が、初めての天皇賜杯拝戴となった翌5月場所では不調だった横綱常ノ花が優勝を飾り話題となったが、世の不景気は相変わらずで閑古鳥の啼く日が多かった。反して学生野球は人気を博し、早慶戦の日の野球場には未明から長蛇の列ができた。昭和3年1月場所からはラジオ中継が始まり、仕切りの制限時間もこのときにできた。「ただでさえ入りが悪いのにラジオで勝負の模様を放送されたら余計に客が来なくなる」と反対する年寄もいたが、逆に一般の相撲への関心も徐々に高まっていった。
平成23年4月9日
その後玉錦などの台頭もあったが相変わらずの不人気で、満員札止め(満員御礼)が出るのはようやく昭和5年1月春場所になってからのことである。満員札止めになるのは明治45年の横綱常陸山・梅ケ谷の対戦以来じつに18年ぶりのことであった。千秋楽、武蔵山と朝潮(男女ノ川)の一番が人気を呼び18年ぶりの満員札止めが実現。しかもこの場所朝潮は西の小結、武蔵山は前頭2枚目でしかなかったが、異常な武蔵山人気の賜物であった。入門4年目の双葉山がようやく幕下に上がったばかりの場所でもあった。
平成23年4月10日
横綱武蔵山というと双葉山時代は冴えない印象しかないが、小坂秀二『昭和の横綱」(冬青社)によると小結時代までの武蔵山人気はすごかったという。武蔵山は横浜市日吉の出身。第1回明治神宮体育大会に神奈川県代表として相撲と砲丸投げに出場したのをスカウトされて大正15年1月場所出羽ノ海部屋から初土俵。183cm90kgで「日吉の怪童入門」と評判になり、稽古熱心で“飛行機出世”呼ばれるほどグングン番付を上げていった。序ノ口から十両まで4回全勝して幕下こそ2場所かかったものの他は1場所で通過、昭和4年5月場所には19歳6カ月でさっそうと新入幕。筋骨隆々とした体型で愁いを含んだような顔はゲーリークーパーに似ているともいわれたという。小学生だった著者が銭湯に行くと武蔵山の話で持ち切りだったそう。
平成23年4月11日
当時の武蔵山人気を物語る話として小坂秀二『昭和の横綱』には次のようなエピソードが紹介されている。昭和6年夏場所後の巡業でのこと。満州での巡業で最終日が大連であった。トーナメント戦で決勝が武蔵山と同じく出羽ノ海部屋関脇天龍の対戦。両者右四つがっぷりになりもみあうが勝負がつかない。水入り後取り直しするも決着つかず結局引き分け。ところが観客が承知しない。2人もやりたいということで、桟橋に入港している船(日本に帰る船)を一日待たせて、翌日再戦となり観客も大喜び。翌日はこの一番だけの興行なのに前日を超す大入り。翌日も大相撲になったが武蔵山が勝った。巡業の取組での話である。時代が違うと言えばそれまでだが、観客の熱気に応え、帰りを一日遅らせてでも真剣に取り組んでいたことを肝に銘じなければならない。
平成23年4月12日
昭和6年夏場所で初優勝した武蔵山はつづく10月場所でも好成績で大関昇進を決めた。武蔵山人気に後押しされ大相撲人気も回復しつつあったが、昭和7年1月6日春場所番付発表の翌日に春秋園事件(4月14日日記)が起こる。結局春場所はひと月以上遅れて2月22日に初日。残った力士12名と十両、幕下からも引き上げて合計20名での幕内番付をつくり8日間の興行を行なうものの人気は脱退した新興力士団のほうへ集まり国技館は空席だらけ。8日間開催してよくやく以前の1日分のお客さんしか入らず一気に危機的状況を迎えた。
平成23年4月13日
幕内20名の改正番付で強行した昭和7年春場所は入場料を半額にしたが客はまったく入らなかった。出羽ノ海、高砂ら役員は事件の責任を取って総辞職。あとを継いだ元横綱常ノ花の藤島取締は、一時的に協会内だけで通用する金券を発行し決算の形だけをととのえ急場をしのいだ。協会には大震災で国技館を建て直した安田銀行からの130万円の負債も重くのしかかっていた。横綱武蔵山が脱退組から抜け出して復帰してきたが、空席の目立つ館内に「裏切り者」の罵声が冷たく響いた。5月夏場所も不入りで、相撲協会は滅亡するのではないか、とまで囁かれた。
平成23年4月14日
本場所のない間の国技館をニュース映画の上映やボクシングの試合などに貸し出して経営の足しにした。7年の暮れになり幕内12名、十両10名が復帰してきた。8年1月場所は新横綱となった玉錦人気と復帰力士の出場も話題となり、ようやく客足も戻ってきた。満州事変の進展と共に景気も上向きになり大相撲も盛況の波にのった。逆に脱退組の新興力士団は、はじめこそ目新しく人気を集めたが、だんだん飽きられ大阪に本拠を移して関西角力協会となった。東京の相撲協会は年2回の関西本場所を廃止して、年2回東京本場所のみの昔にかえった。
一昨日から東関部屋への出稽古。
平成23年4月15日
今日も東関部屋へ出稽古。朝弁慶ひとり部屋に残ってシコやテッポウ、スリ足等で汗を流す。先週の稽古で膝の痛みが再発したためである。入門前の高校で柔道をやっていたころからの古傷で、年に数回痛みが出る。今後どう解消していくかが、これから番付を上げていくうえでの大きな課題である。「膝を鍛える」というよりも「痛めない膝の使い方」を覚えることが大切になってくる。
平成23年4月16日
朝弁慶の四股を真後ろから注意深く見てみる。いつも痛める右膝と左膝の使い方に何か違いが見つかるかもしれない。以前から左膝に比べて右膝がときどき中に入ってしまうクセがあるのはわかっている。それがどこからきているのか。腰や肩、上半身の動きには左右差はほとんどない。足元に注目してみる。カカトが右と左で違っている。四股の動きにつれ左足の足裏はピタッと土俵から離れないが、右足のカカトがわずか2,3ミリだが浮いてしまう。
平成23年4月17日
左足を上げるとき軸足となる右足のカカトが2,3ミリ浮いてしまう。さらに左足を踏み下ろして、腰を下ろしていくときにも右足のカカトが2,3ミリ浮いてしまう。無意識の動きだからかなり意識しないと直せない。左足をあまり上げないよう、足の上げ方を小さくしたら何とか浮かなくなった。ところが腰を下ろす時にはやっぱり浮いてしまう。「カカトを浮かすな」ではなく「足を動かすな」と言葉を変えてやると、ようやく腰を下ろす時も浮かなくなった。
平成23年4月18日
カカトが浮くと重心はつま先にかかる。なぜそれがよくないのか。つま先に重心がかかると膝関節に大きな負担がかかるからである。膝関節は伝動関節と呼ばれ、力を伝えるためにある。太ももの骨の先端の軟骨とスネの骨の先端の軟骨で半月板という薄い板状の軟骨をはさみ、滑りやすく動きやすいように関節が出来ている。滑らかに動かして力をうまく伝えるために膝関節があるのであって、重さを支えるようにはできていない。重心はカカト、内くるぶしの真下にかけるべきで、そのためにカカトには大きく太い骨がある。カカトに重心がかかっていると膝にはほとんど負担はかからない。
平成23年4月19日
朝弁慶は、力を出す時には必ず右足のカカトを浮かせてしまう。立合い仕切ったときもそうである。わずか2,3ミリだが右足のカカトを浮かせて体重を前にかける。おそらく高校生で柔道をやっていた頃からのクセなのであろう。そのたびに膝にはよけいな負担がかかり直す暇がない。3日ほど部屋で四股に取り組んだが、きのう再び東関部屋へ出稽古。さっそくまた痛めて帰ってきた。道のりはまだまだ遠く長い・・・
平成23年4月20日
今日は朝奄美が部屋に残って四股。朝奄美は脇があまくすぐ万歳してしまうクセがある。力んで肩が上がり、肘を引いてしまう。逆に腹を出してしまい相手に簡単に差され、自分は文字通りお手上げになってしまう。四股を踏んでいても、すぐに肩に力がはいってしまう。とくに腰を下ろす時に肩が力み、腰は下ろそうとしているのに肩と腕は上に引っ張り上げる動きになっている。体のなかで矛盾をおこしている。朝弁慶は朝赤龍とともに時津風部屋へ出稽古。
平成23年4月21日
足を上げるときにも肩が上がる。腰が浮いて上半身が上に動き、その動きが肩に伝わり肩が腕を動かし反動で足を上げる。上半身と下半身のつながりはなくなりバラバラに動いているだけである。下半身に伝わるのは力んだ肩の動きで、太ももの前の表面的な筋肉に力みが伝わり、しなやかさとはほど遠い固い動きで足を上げる。無駄な力みがあるからバランスはとりづらく、体の重みも感じられなくなってしまう。
平成23年4月22日
四股は足を左右交互に上げ下げするだけの単純な運動である。単純な運動だけに体のクセ、動きのクセが出やすく、難しいともいえる。昨日、四股でのクセを長々と書いたが、これは朝奄美だけのクセでなく多かれ少なかれ誰にでも出る根本的な動きのクセである。何十年も四股を踏んで探求をつづけても、多少はましになったと思うもののまだまだ脱け出せない。体のクセ、動きのクセをなくし、合理的な体、合理的な構え、合理的な動きを身につけることこそが四股の目的であろう。
平成23年4月23日
能楽師でロルファーの安田登氏と親しくさせていただいているが、能の稽古で最初にすることは「体のクセをとること」だという。能面をつけて人間の感情や想いを表現する能の舞台。体にクセがあると表現の可能性を狭くしてしまい、クセが深層筋の活性化を妨げることになる。体のクセを取ることが深層筋を使えることになり豊かな表現を生み出す。師匠、朝赤龍、朝天舞、朝弁慶、福島市佐原のあづま総合体育館に出向き炊き出し慰問。体育館にはまだ1000人近い方が避難されている。
平成23年4月24日
逆に言えば深層筋を使うことが体のクセをとることになる。深層筋を使うにはどうすればいいか。表層筋をゆるめることである。表層筋、体の表面についている筋肉をゆるめて体を動かすことができれば深層筋を使うことができる。「肩の力を抜いて」とか「力むな腹に力を入れて」の「肩の力」や「力み」が表層筋の緊張であり、「腹に力を入れて」の腹は腹筋ではなく深層筋の「ハラ」である。
平成23年4月25日
そうすると、四股でのクセも表層筋の余計な緊張だといえる。肩の力みや太ももの筋肉の緊張、足首のこわばり、腕での反動、腰を浮かすこと、カカトを浮かせる、足を動かす、バランスを取ろうと足の親指に力を入れる、逆に指を浮かす、手で膝の後ろを持って脚を持ち上げる・・・これらはすべて表層筋に余計な力を入れてクセをつくっていることになる。深層筋をはたらかせることができなくなる。
本来なら番付発表の日だが、審査場所ということで番付発表は無し。明日、朝土俵祭を行ない審査場所へ向け稽古再開。
平成23年4月26日
四股は単に脚の筋肉を鍛えるために踏むのではなく、深層筋いわゆるインナーマッスルを使えるようになるための稽古であるのは間違いない。腰割り、スリ足、テッポウも然りである。どうすれば深層筋を使えるようになるのか。前にも書いたように表層筋をゆるめることである。と書くのは簡単だが実際行なうのは至難の業である。まず基本の構えとなる「腰割り」が難しい。肩や腕はもちろん、太ももにもお尻にもまったく力を入れずに腰割りの構えを取ることが、深層筋を使って腰割りを行なうことになる。
平成23年4月27日
「腰割り」の構えは、股関節を開き腰を下ろしていく。腰を深く下ろせば下ろすほど太ももやお尻の筋肉に力が入ってしまう。最終的には腰が膝と同じ高さになるよう、太ももが水平になるところまで下ろす。腰を深く下ろしても、太ももにもお尻にもまったく力を入れないで構えをとることが、深層筋を使った腰割りになる。そんなことができるのか?双葉山の腰割りがそうである。腰を深く下ろしても、太ももにもお尻にもふくらはぎにも、まったく力みがない。
平成23年4月28日
明日4月29日(金)国技館本土俵にて横綱審議委員会による稽古総見の一般公開が行なわれます。開場は午前7時。7時半頃から幕下、8時半頃から十両、9時半頃から幕内の稽古の予定で、11時頃まで行ないます。入場無料です。
平成23年4月29日
国技館土俵にての横綱審議委員会総見稽古に幕下復帰となる朝弁慶、朝天舞の二人も朝赤龍とともに参加。幕下申し合いで汗を流す。朝天舞は15番ほど土俵に上がり五分五分の成績だったとのこと。総見稽古初参加の朝弁慶、ちょっと気後れして6番しか取れなったそうだが、幕下の兄弟子相手に4勝2敗とめを出せた。幕内申し合いでは稀勢ノ里が元気な稽古を見せたが、観客も例年よりかなり少なめで全般的に寂しい雰囲気の総見稽古となった。
平成23年4月30日
朝弁慶、今日は出稽古に来た東関部屋幕下華王錦(かおうにしき)と部屋で三番稽古。幕下上位が長い華王錦、今場所は幕下3枚目と関取り目前だが、何番か出足で圧倒して寄りきる相撲も見られた。ある程度胸を出してくれているとはいえ、大いに自信になったことであろう。稽古後華王錦も、「まだまだ粗さはあるものの、いい馬力をしている」と肌で感じた圧力に満足げであった。東洋大学相撲部出身のベテラン華王錦にとっても今場所は大きな勝負の場所である。
平成23年5月2日
3年ぶりに幕下復帰となった朝天舞、連日九重部屋への出稽古。九重親方の厳しい指導のもと九重部屋の若手幕下連中としのぎを削っている。被災した故郷石巻の家族のためにも今場所は結果を出したいところである。朝乃丈、朝興貴もいっしょに九重部屋で汗を流しているが、一昨日いいい稽古をした朝弁慶は、またまた膝の痛みが再発して部屋で調整。5月技量審査場所初日まであと6日。
平成23年5月3日
朝奄美と朝龍峰は残って部屋での稽古。同じ相手と繰り返し何番も稽古するのを三番稽古という。押す力に大差はない二人だが、10番中9番は朝奄美が前にもっていって寄り切る。どちらかというと脇の甘い朝奄美だが、朝龍峰はそれ以上に甘く朝奄美が差し勝ち前に出れる。脇の甘い力士は、四股やスリ足のときに必ず肩が上がってしまう。肘が体の横にきて胸を開いてしまう。
平成23年5月4日
差すのがうまいことを差し身がいいという。差したほうが相手の中に入れるわけで、差し身のよさは有利な体勢をつくるために大きな武器となる。脇を締めるというよりも、肩や肘を柔らかく使えるかどうかが条件になってくる。横綱白鵬はもちろんだが、豊ノ島の差し身のよさは抜群であろう。朝青龍もスピードやパワーが目立ったが差し身のよさにはかなりなものがあった。高見盛も右を差すのを得意としているが、高見盛の場合は差し身がいいというよりも右が固いと表現するほうが的確であろう。
平成23年5月5日
差し身がいいのと反対に、すぐに差されてしまうことを脇が甘いという。どちらかというと、柔軟性のある器用な力士のほうが差し身がいいし、固い力に頼るタイプの力士は脇が甘くなる傾向にある。 右腕を差した方(相手の腕の下に入れる)が力が出るタイプの力士を「右四つ」、左腕を差した方が力が出るタイプを「左四つ」という。同じ右四つ同士ならお互いすぐに右四つになるから「相四つ」という。右四つと左四つの対戦だと、どちらが得意なほうを差すかによって有利さが大きく変わってくるから右腕と左腕で差し手争いが行なわれ、お互い「ケンカ四つ」だという。
平成23年5月6日
自分の得意の四つになるよう、または両腕を差して双差し(もろざし)になるよう、お互いに争うことを「差し手争い」という。差して争いは、うまさ、早さ、柔らかさ、力強さ、あらゆることが同時に高度に要求される。高岡英夫氏は『鍛錬の理論』のなかで、「相撲の差し手争いは、重いバーベルを肩にくくりつけてスクワットをやりながら、両手でワープロを敏速に打ちまくるようなものである」とたとえている(1989年の文章だからワープロだが)。取組編成会議。初日、前頭9枚目朝赤龍は若荒雄との対戦。横綱白鵬には小結豊ノ島。
平成23年5月7日
明日からの初日を前に国技館土俵にて土俵祭。今回は特別に協会員全員約1000人が参加。午前9時半本土俵に集合して、東日本大震災による犠牲者に黙祷を捧げ、15日間の無事を祈願する土俵祭りを行う。土俵祭終了後、十両以上の関取衆を集めて放駒理事長から訓示。関取衆に限らず全協会員が襟を正し褌を締め直して15日間を務めなければならない。
平成23年5月8日
五月晴れの技量審査場所初日。昨日理事長が「土俵で失った信頼は土俵で取り戻すしかない」と話していたように、土俵に取り組む姿勢が審査される場所でもある。ベースボール・マガジン社『相撲』5月号に共同通信・田井記者が八百長騒動の顛末として4ページに亘る文を寄せているが次の言葉で締めている。尊敬する故・谷口正美記者の言葉「何か疑問に感じることがあれば土俵に来なさい。土俵こそが人生の縮図なんだよ」また貴乃花親方の言葉として「どんなことがあろうとも、我々は土俵に還らねばならないのです。土俵こそがすべての基本なんです」ようやく還ることのできた土俵に感謝し心技体を尽くさなければならない。
平成23年5月9日
技量審査場所2日目。場所前から人気の無料入場券、当日券も1000枚用意しているが本日もすべて配布完了。節電でいつもより暗い館内だが熱気はもどりつつある。朝赤龍好調に2連勝の滑り出し。幕下復帰の朝弁慶、数日前に腰を痛め治療にあたっていたが回復が芳しくなく出場を断念して不戦敗。回復次第の出場目指して治療に専念していく。朝ノ土佐も体調を崩して休場。こちらも途中出場目指して調整中。
平成23年5月10日
3年ぶりの幕下復帰となった朝天舞2連勝。東日本大震災で石巻の実家も被災。母親が津波で流されたものの一命をとりとめ、宮城県警に勤める兄と家族の安否状況の連絡がついたのが震災から2週間後。心休まらない日々を過ごしたが、その間も朝夕のトレーニングを欠かさず、友綱、東関、九重と出稽古に通い、体重を増やすため胃潰瘍になるほど食べ、ようやくこの場所を迎えた。未だ故郷へ足を運ぶことはできずにいるが、白星を重ねることが、幕下で初の勝越しを決めることが、一番の支援となる。茨城県つくばの実家家屋が被災した男女ノ里も2連勝。朝赤龍3連勝。
平成23年5月11日
朝興貴と朝奄美、共に今場所自己最高位。朝興貴は押しと差して腕(かいな)を返して寄る相撲を、朝奄美は突き押しとおっつけを場所前から稽古してきて多少形にもなってきた。ただ二人共、出足が伴わず自分の形になりかけても攻めきれなく、白星にはつながっていない。稽古場で覚えた形を本場所で発揮できてこそ自信にもなり力になる。家賃が高かったで終わるか、力をつけたと胸を張れるか、次の一番が大切になってくる。朝赤龍4連勝。
平成23年5月12日
何事においてもリズムは大切である。幕下から十両へ、今回の騒動でもその格差が問題視されたように幕下と十両では、給与、待遇、生活、名実ともに大きな差があるから、誰もが十両に上がったときが一番嬉しいと言うし、目前までいきながら涙をのむ例も数多い。とくに今場所は幕下から十両へと昇進する力士の数も多くなるから、それぞれの力士に多くのドラマが生まれるだろうが、目の前にきたチャンスにも自分のリズムを守れるかどうかが大きなカギになる。場所前マイペースのリズムを保った幕下3枚目東関部屋華王錦、2勝1敗と入門11年目の悲願へ向け歩みつつある。全勝だった朝赤龍、朝天舞、男女ノ里に土。
平成23年5月13日
勝ち越せばいよいよ十両に上がれるという番付になると、本人も周りも一番気を揉む。まったく稽古せずに幕下上位まで上がれるわけもないが、それまでマイペースの稽古で番付を上げてきた力士が、十両目前になって周囲の期待も膨らみ本人にも欲が出て人が変わったように稽古熱心になることがある。そういう場合はほとんどが失敗に終わる。過去2度の昇進のチャンスでは周囲の期待に応えようと欲を出してしまって失敗した華王錦、今場所前はずっと高砂部屋への出稽古でマイペースを守り(?)3度目の正直に挑んでいる。
平成23年5月14日
5月技量審査場所も中盤戦。NHKの中継がないのは寂しいが、相撲協会が序ノ口からの全取組をインターネット配信しているから普段見られない幕下以下の相撲も生映像で見られてありがたい。3連敗と後がなくなった朝奄美、今日は手も足もよく出て会心の相撲での初白星。朝天舞、男女ノ里3勝目で勝越しまであと一番。東関部屋華王錦も3勝目。
平成23年5月15日
中日8日目の技量審査場所。一日1000枚の当日券は日に日に配布完了時間が早くなっているようで、ありがたい限りである。相撲協会のネット配信の他にニコニコ動画でも序ノ口からの取組が見られる。画面には「すげえええええ・・・」とか「ほそっ」とか、さまざまなコメントも出て面白い。まったくの素人的なコメント、笑える言葉、ちょっと危ないもの、冷やかし、通な意見、・・・画面上を走る文字は邪魔くさいがついつい目で追ってしまう。いろんな人に興味をもってもらうキッカケになることであろう。3連敗だった朝興貴、ようやく得意の左を差して前に出ての初白星。
平成23年5月16日
今回の騒動の報道で話題になったように幕下と十両には大きな格差がある。その格差が八百長を生み出す原因だという意見も多いが、その差があるからこそ幕下上位の取組は人生をかけた大きな一番になり、数々のドラマを生み出す。とくに今場所は、いつもの数倍も昇進のチャンスがあるから多くの力士の目の色が違い、よりスリリングな取組も多い。ぜひ幕下上位の熱い取組をライブでご覧いただきたい。男女ノ里今場所第1号の勝越し。勝ち越せば三段目昇進の位置まで上がってきた朝興貴だが、家賃が高く負越し。東関部屋華王錦、給金相撲(勝越しをかけた一番)に臨むも大願ならず。残り2番。
平成23年5月17日
朝天舞3年半ぶりの幕下で初めての勝越し。宮城県石巻出身の朝天舞、入門12年目となる。本名花田晴多(せいた)で「花ちゃん」と呼ばれ個性的な性格である。個性的なゆえ、子供の頃はいじめられることもあったらしい。入門してからも、いじられキャラで、ときにはじけ、ときに辛酸をなめ、数々の修羅場も乗り越えてきた。いろんなことに振り回されながらも愚直に稽古を重ね、他人に笑われながらもあらゆるトレーニング不器用に取り組み、貪欲にちゃんこやプロテインを腹に詰め込み、ときに胃を壊してしまうほどであった。今場所後には30歳となるがいまだに新弟子っぽさも残している。体格や素質を考えれば幕下に上がるのも大変なことだが、あと2番を残しての勝越しはある意味偉業ともいえる。被災地石巻への何よりの支援であろう。
平成23年5月18日
ワイドショーなどでも何度も取り上げられたように幕下と十両には大きな差がある。給料のある無しはもちろん待遇や服装など生活全般で大きく違う。その差が激しいから、一般的には幕下の力士はすごく低い身分で最低の生活のような印象を持たれているかたもいるかもしれない。しかし相撲界の中にいる人間からすると、幕下は明日を担う期待に膨らむ存在で一目おかれる立場である。ほとんどの部屋では幕下に上がるとちゃんこ番をしなくてもよくなり日々の雑用からもかなり解放され稽古に専念できるようになる。東関部屋華王錦勝越し。10年近い幕下生活から関取昇進がほぼ確定。
平成23年5月19日
幕下上位の取組が連日熱い。いつもの場所ならひとつや二つ生まれるドラマが毎日のように何番もつづく。何度か紹介した学生相撲出身としては異例の入門10年の東関部屋華王錦。チェコ出身の鳴戸部屋隆の山、こちらも苦節10年での栄誉で入門後初の凱旋帰国が叶いそう。また追手風部屋濱錦、出羽ノ海部屋鳥羽の山の元幕内のベテラン勢の久しぶりの復活。ブルガリア出身で部屋創設10年にして初の関取誕生となる田子ノ浦部屋碧山・・・本人にとってはもちろん家族や故郷、母国、部屋にとっても大きな出来事である。場所前腰を痛めて出場も危ぶまれた笹川、ベテランの味での見事な勝越し。
平成23年5月20日
引退して3年半になるが、勝ったときの嬉しさ高揚感、負けたときの悔しさ喪失感は、いまだに心身にムズムズと浮かんでくる。昇進をかけるとか優勝をかけるとかいう一番になると、その想いは尚更である。景色や他人の視線までが違ってくる。以前から有望力士といわれて久しい伊勢ノ海部屋勢(いきおい)、仕切りから緊張感が伝わってきたが力を出し切れずに3勝3敗で迎えた最期の一番を落とし負越し。幕下8枚目と勝ち越せばという地位だっただけに無念の一番。幕下20枚目の島人(シマンチュ)尾上部屋里山、こちらも今日の一番に勝てば6勝1敗となり、久しぶりの復帰へひょっとしたらの希望も出てきたが残念な黒星。負けた力士にもドラマがある。中日まで1勝3敗だった朝乃丈3連勝で勝越し。来場所の三段目復帰が確定。
平成23年5月21日
横綱大関になった力士でさえ十両に上がったときが一番嬉しかったと語ることが多い。横綱大関にあがることは確かにすごいことだが責任も大きくなってくるから、純粋に昇進の喜びに浸れるのは新十両のときだということかもしれない。何せ番付発表のその日から生活がガラリと変わる。個室が与えられ、付人がつき、ちゃんこも真っ先になり、お膳と座布団が用意され(幕下以下は座布団は顔じゃない)、おまけに100万近い給料がもらえるようになる。その差があるからこそ人生をかけた大一番になる。大子錦土俵際まで攻められるも必殺「腹乗せクルリどっこいしょ」で逆転の勝越し。序二段31枚目と普通なら上がらない番付だが、大量昇進余波でひょっとしたら5年ぶりの三段目復帰があるかもしれない。
平成23年5月22日
これも今回一般にもよく知られるようになったが、十両の約100万円の給料に対し幕下以下は給料がない。給料はないが場所手当てが出る。幕下15万円、三段目10万円、序二段8万円、序ノ口7万円という額である。ここから番付代、油銭(びんつけ油代)、若者会、源泉所得税など引かれるが、残った金はすべてお小遣として使える。また勝越したら勝越し金も入ってくる。同年代の学生やサラリーマン(妻帯者)の小遣に比べれば、そんなに低い額ではない。千秋楽。三段目で優勝決定戦が行なわれ、裁く行司は木村悟志、その模様を場内にアナウンスするのは木村朝之助、土俵下には呼出し健人と顔をそろえた。
平成23年5月23日
幕下以下の力士は修業の身であり、部屋に住み込みで修業(稽古)する。いうなれば昔の丁稚奉公とおなじである。丁稚として奉公先に住み込み技術を習得する。家賃や食費は奉公先が賄ってくれるが給料はなく、ときにお小遣いをもらうのみである。何年も奉公し技術を習得し、働き・人物を認められたら、のれん分けなどで独立して自分で開業することができる。基本的構造は職人仕事や商いの徒弟制度に近く、プロスポーツ興業として成立したプロ野球やサッカーとは根本的に成り立ちからして違うことである。今日から1週間の場所休み。
平成23年5月24日
千秋楽の日の朝日新聞スポーツ欄に『混迷大相撲』と題して「40代 離れがたい土俵」という見出しの記事が掲載されていた。現在総力士数は662人、そのうち40代が4人いる。いずれも幕下以下の力士である。ある親方のコメントが紹介されている「土俵ほど苦しい場所はない。でも、関取になることを諦めれば、土俵にしがみつく方が楽なんだよ」大部屋暮らしで結婚もダメ、という自分を受け入れられれば時間も小遣いも、同じ40代のサラリーマン(平均小遣い月3万8500円)より恵まれているとし、外部委員会の改革答申では年齢制限を設ける提案がなされているという。
平成23年5月25日
恥ずかしながら47歳になるまで家賃を払ったことがなかった。大学4年間は寮生活(寮費は払ったが)だったし、卒業後すぐに相撲部屋に転がり込んだから引退するまで大部屋暮らしで、部屋の食事をとる限り食費もかからない。光熱費や水道代も然りである。保険や年金も相撲協会が面倒みてくれるから自分での支払いの必要は一切なかった。引退後マネージャーとして給料をもらう身になって収入は増えたが、家賃、保険、年金、光熱費、水道代、食費、・・・支払うとお小遣いといえる金はほとんど残らない。今頃になって1万円のありがたみをしみじみと感じる。確かに独身の現役時代のほうが金回りはよかった。
平成23年5月26日
そこそこの小遣いがあって、稽古が終われば午後からはある程度時間も自由になる。お気楽といえばお気楽だが、将来に対する不安は年々高まっていく。田舎に帰れば「いつまでやるの?」「この先どうするの?」と親の心配は尽きない。家庭を持ち車を持つ同級生の普通の暮らしがときに羨ましくもある。若い衆との距離感もだんだん出てくる。2チャンネルをのぞくと言いたい放題ボロカス書いてあり結構へこむ。相撲を愛し少しでも強くなりたいと希望をもちつづけるか、夢や希望を放棄しとりあえずの「居心地のよさ」に甘んじるかになる。
平成23年5月27日
それでも大相撲の力士は恵まれていると思う。プロボクシングは日本チャンピオンになってもアルバイトをしないと生活していけない。プロレスラーも一部の有名選手をのぞけば、自分が出る試合のチケットを売っていくらかの収入を得られるのみである。力士は幕下以下でもアルバイトをしなくても日々の生活は保障されているしチケットを売る心配をしなくてもいい。プロ野球の二軍(最低年俸440万円)やサッカーのJ2に比べて収入が少ないという話もでるが、そもそも野球やサッカーは選ばれた人間しかプロになれない。相撲は、身長体重さえあればなりたくなくてもプロになれてしまう。
平成23年5月28日
プロ野球選手やJリーガーには、身体能力に優れ、幼いころからその競技で秀でた選手でもなかなかなれない。狭き門である。いっぽう相撲は、体が大きいだけでスカウトされて断り切れずに入門することもままある。入門して生まれて初めてマワシを締めるもの、入門するまで運動経験がないものもいる。ところが、そういう中からもときに強くなる力士が生まれてくるのが大相撲の不思議なところである。腕立て伏せが一回もできないような「単なるデブ」が関取になることもある。これを化けるという。
平成23年5月29日
先だって内田樹氏とお会いしたときにも「単なるデブでも強くなれる」話で盛り上がった。内田氏とお会いするのは今回で2度目であったが、初めてお会いしたとき「単なるデブの話」にいたく感動されて、「相撲は奥が深い」と感じ入ったという。内田氏によると、「単なるデブでも強くなれる」ことこそが相撲が1000年以上も続いてきた秘密であるし、武道の本質もそこにあるという。
平成23年5月30日
相撲がもし先天的に卓越した能力をもった人しかできないものだったら、仮に抜群の運動能力をもつ人が15年20年と入門してこなければ相撲は断絶してしまう。ある種の伝統文化を何代にもわたって継承するには「標準的な身体能力があって、伝統的な稽古法を愚直に行なっていけば誰でもスーパースターになれる」という能力開発プログラム、制度設計がないと1000年2000年とは継続できない。と、興味深い論理を内田氏は展開された。午後2時から協会員全員国技館に集合して剣道範士井上義彦氏の『稽古』についての講演を拝聴。
平成23年5月31日
もし大相撲が現在のプロ野球やサッカーJリーグのように身体能力に優れ、その競技でかなりの実績を誇る選手しかプロになれないのだとしたら、15歳で来日した白鵬少年の入門はとても叶わなかった。もちろん白鵬は抜群の身体能力を持っていたのだが、来日当時の67kgしかない、か細い少年がこんなに大きくなりこんなに高い身体能力をもっていようとは誰にも想像がつかない。
平成23年6月1日
振武館黒田鉄山氏は、現代武道界のなかで達人とよばれる稀有な存在である。「型」を追求して「無足の法」「浮身」「等速度理論」など超人的な動き、技を実現している黒田氏も、子供の頃は「デブチンで足も遅かった」と自らを語っている。運動神経や筋力を超えたところにこそ武道の本質があるといい、「型」は実戦のひな型ではなく、古人の伝えるすべてが膨大な遺産として「型」のなかにあると言っている。錦戸部屋が来ての合同稽古。
平成23年6月2日
稽古とは古(往にし方=いにしえ)を稽(かんが)えることであり、先人が古から受け継いできたことを学ぶことである。能楽師の安田登氏に教えていただいたが、「稽」には、土下座のように頭を地につけて行なう礼という意味もあるという。高い敬意を表し、首がついた「稽首」は「頓首」と共に中国では最も重い礼になるという。古に敬意を表し深く近づいていくことで、「型」を繰り返し学ぶことこそ「稽古」になる。
平成23年6月3日
相撲で古(いにしえ)から受け継がれてきたものとは何か?「シコ」「テッポウ」である。「シコ」「テッポウ」を繰り返し学び、先人が伝えようと残した遺産を「シコ」「テッポウ」のなかに見出すことこそが稽古になる。
平成23年6月4日
今日から横綱白鵬、魁皇、琴欧洲ら幕内上位力士20人が岩手、宮城、福島の被災地を慰問。一日に2か所ずつ訪れ、横綱土俵入りや、記念撮影、サインなどでふれあい、また若手力士30人も2班に分かれてちゃんこの炊き出し。高砂部屋からは宮城県石巻出身の朝天舞が参加。8日まで巡回するが、7日は宮城県女川町と仙台市の慰問だから、久しぶりに両親とも会えるかもしれない。5月技量審査場所での勝越しが一番の土産になる。
平成23年6月5日
能楽師安田登氏は、「型は長い間積み重ねられた知恵の集積、真髄」だと語っている。それゆえ能の稽古は型しか教えない。稽古で徹底的に型を繰り返し舞台上では教えられた型を演じる。そうすると、演じている本人が意識しなくても型に込められた知恵の集積、真髄が解凍され湧き出てきて観客を感動させる。 相撲でも古から伝えられてきた型である「シコ」「テッポウ」を徹底的に繰り返し稽古することによって、長い伝統のなかで積み重ねられた真髄の技が生まれ観客を感動させることになるのであろう。
平成23年6月6日
能は「こころの芸能」と言われるが、それは大きな間違いだと安田氏はいう。「こころ」は元々「こっ、こっ、こっ」という心臓音が語源になっていて変化することに特徴がある。「心変わり」という言葉があるように、好きになる人が変わるのは「こころ」の特徴そのものである。去年はあの人が好きだったけど今年はこの人が好きだと変化するのが「こころ」である。ところが、好きになる人は変わっても、「人を好きになる」という「おもひ」は変わらない。変化する「こころ」の奥にある「おもひ」を扱うのが能であるという。その「おもひ」が込められたのが「型」である。(ちょっとややこしいけど)
平成23年6月7日
変化する「こころ」の奥にあるのが、変わらない「おもひ」。若いころ鍛えてもりもりになった筋肉は年齢と共に衰えていく。「こころ」と同じように変化していく「からだ」は「殻」だ、と安田氏は語る。身体を覆う「からだ」は表層筋、表層筋は変化し、やがて衰えていく。「おもひ」と同じように、表層筋の奥に眠るのが深層筋、インナーマッスルである。深層筋は身体の「身(み)」で「実(み)」。深層筋は「おもひ」と同じで年をとっても衰えない。「型」を稽古するのは「おもひ」を表現するためであり、身体でいうと深層筋、インナーマッスルを使えるようにするため、身を充実させるための「型」である。
平成23年6月8日
そうすると稽古とは、深層筋、インナーマッスルを使えるようにするためのものだといえる。筋トレで大胸筋(胸の筋肉)を大きくしたり、腕や脚の筋肉を太くするのは、表層筋、アウターマッスルを鍛えることで、トレーニングもしくは鍛錬になる。稽古とは別ものである。極端にいえば、古(いにしえ)の合理的な身体の使い方を追求するのが稽古で、筋肉により大きな負荷をかけて、不合理な体の使い方をすることによって筋肉を太く逞しくしていくのがトレーニングだといえる。
平成23年6月9日
岩手、宮城、福島の10か所を巡回慰問に行っていた朝天舞、5日間の慰問を終え昨日帰京。3カ月経っていくらか復興がすすんだとはいえ、現実に目の前に広がる惨状はまだまだ痛ましく衝撃的であったという。朝4時5時に宿舎を出発という日もあったようだが、被災者の方々が「お相撲さんがきた!」と涙を流して喜ぶ姿に、力士のほうも逆に大いに励まされるものがあった。3日目の南三陸町では両親とも久々の再会を果たせ、初の幕下での勝越しを報告できた。被災した実家の美容院も再開できたそう。また世話人の總登さんも先発隊として設営やちゃんこの準備で各地に乗り込み、ずいぶん日焼けしての帰京。
平成23年6月10日
スポーツ科学が発達していろいろな競技において技術も進化した。トレーニング方法も日進月歩である。ところが能の「こころ」と「おもひ」の話で考えると、進化、進歩といっても、変化するものは「こころ」すなわち表面的なものでしかない。その競技の真髄は、というか人間の身体の動かし方の真髄は不変のものであるはずである。それを「おもひ」という。誰がみても美しくしなやかで芯の通った合理的な動きこそが「おもひ」であり真髄であろう。相撲でいうと、腕(かいな)を返すとか腰を割るということが「おもひ」になる。
平成23年6月11日
大相撲の稽古は「シコ」「テッポウ」を繰り返し、実戦である「申し合い」を行ない「ぶつかり稽古」で仕上げるのみである。技術練習そのものは、もともとは存在しない。もちろん申し合い稽古のなかで、「おっつけろ」「腕(かいな)を返せ」「腰を入れろ」「膝を使え」「上手を浅く取れ」・・・と体の使い方の指導は細かく行なわれるが、ひとつひとつの技や技術を取りだしての技術練習はない。これも、稽古が「おもひ」にアプローチするものだという能の考え方からすれば納得できる。「シコ」「テッポウ」という型を繰り返すことにより「腰を割る」「腕(かいな)を返す」という深層の「おもひ」が現れ、表面的な「こころ」である技は自然に出る。
平成23年6月12日
例年なら6月のこの時期に行なわれる茨城県下妻市大宝八幡宮での合宿、今年は震災の影響で中止になったが、わんぱく相撲茨城県予選が本日大宝八幡宮境内相撲場にて行なわれ、若松親方、朝赤龍はじめ高砂部屋一同も参加。呼出し健人による寄せ太鼓と呼び上げ、土俵では木村悟志が捌き勝ち名乗りを上げ、禁じ手の説明は、朝弁慶と朝奄美による実演、さらには午後の部の前には呼出し邦夫による太鼓打分け実演、最後は男女ノ里による弓取式で盛り上げ、大いに沸いたわんぱく相撲を締めた。この中から将来入門する子が出てきたらますます下妻の相撲熱も高まってくることであろう。
平成23年6月13日
内田樹氏にお聞きした話だが、合気道の開祖植芝盛平先生は「技に名前をつけるな」と常々言っていたそうである。技に名前をつけると、技を形として覚えてしまい、そこに居着いてしまうと。動けばすなわち技となるのであって、身体の動きによって自然に生み出されるのが技で、無限にあるものだと。技は表面的な「こころ」でしかなく変化するものであり、技の奥にある「おもひ」、身体の使い方そのものを追い求めなければならないと戒めた言葉なのであろう。
平成23年6月14日
技とは何か?辞書には「柔道などで勝敗に結びつく決まった型の技術」とある。「払い腰」「一本背負い」「小外刈り」「大内刈り」などという技が柔道にあるが、相撲でいうと「払い腰」は「二丁投げ」、「一本背負い」はそのまま「一本背負い」、「小外刈り」は「すそ払い」、「大内刈り」は「内掛け」に相当する。ただルールの違いによって相撲では技になっても柔道では技にならない場合もある。相撲の「引き落とし」や「叩き込み」「肩透かし」などの技は、手や膝がついても大丈夫な柔道では、崩しにはなっても勝負を決める技にはならない。
平成23年6月15日
逆に柔道の「巴投げ」や膝つき「一本背負い」は、投げに入る前に背中や膝をついてしまうので相撲では技として成立しないし、寝技はいうまでもない。“投げる”という共通の動きがあるので、投げ技に関しては同じような体の使い方がでてくるが、柔道は、背負い投げや内股、はね腰などのように相手に背中を向けて投げる技も多いのに対し、相撲は背中を向けることが圧倒的な不利になるので、正対しての投げが多い。相手に背中を向けて投げる技は「一本背負い」のように追い込まれたときか「腰投げ」のように力に圧倒的な差があるときに限られる。
平成23年6月17日
明後日から名古屋場所先発隊が出発のため、大掃除やら荷造りもはじまっている。1カ月余りの地方場所生活のための衣類や土産、仕事道具などをまとめ部屋を大掃除して地方へ移動する。ちょっとした引っ越しのようなもので、それなりに手間暇かかるのだが、前回の大阪場所が中止になって半年ぶりの作業だけに、妙な懐かしさというか心地よいリズム感、安心感も感じられなくはない。19日(日)に先発隊、1週間後の26日(日)に全力士が乗り込み、27日(月)が番付発表、7月10日(日)からの本場所に備える。
平成23年6月18日
毎日のちゃんこのメニューを考えるのはちゃんこ長大子錦の役目である。部屋にある食材を中心に足りない物を近くのスーパーなどで買い足してちゃんこをつくる。メインの鍋、サラダ、付け出しのおかず3,4品。限られた予算で、同じような料理にならないよう飽きさせないよう、毎日頭を悩ませる。それが地方場所があると、先発の1週間はちゃんこもないので頭をリフレッシュすることができる。普通に地方場所が開催されることは、ちゃんこメニューに頭を悩ますちゃんこ長にとっても嬉しいことになる。
平成23年6月19日
先発隊(大子錦、朝天舞、朝弁慶、朝久保、朝興貴、松田マネージャー)名古屋場所宿舎となる海部郡蟹江町龍照院に乗り込み。呼出し健人も土俵築のため同行。1年ぶりおなじみの鈴木さんが今年も迎えに来てくれる。鈴木さんの車に7人乗りこみ、窓から肉を溢れそうになりつつ車体が大きく沈みながらも龍照院到着。ご近所の方々とも激動の一年をのりこえ今年も再会できた喜びのご挨拶を交わす。晩飯も孫が出来ておじいちゃんになった鈴木さん家族と焼き肉食べ放題。今年の名古屋場所も鈴木さんで始まった。
平成23年6月20日
早朝から雨。雨に降られると先発隊の仕事ははかどらない。雨の合間をぬって冷蔵庫を出して洗浄するが、途中また雨に降られパンツもシャツもびしょ濡れ状態。濡れてしまうと怖いものなしでホースで水をかけ合って水遊びが始まる。日々の仕事は多いがのんびりできるのも先発ならではのことである。
平成23年6月21日
名古屋入りしてからつづいていた梅雨空が晴れ上がり一気に蒸し暑い名古屋到来。ちゃんこ場の食器や調理道具を引っ張り出して洗いもの。そのまま外に干して昼過ぎには乾く。座布団も倉庫から出して日干し。晴れると片付けがどんどんすすむ。暑いのでパンツ一丁での作業だが、色白の,朝弁慶と朝興貴、日焼けして背中が真っ赤っかになってしまう。裸商売ゆえにすぐ裸になれることが暑がりのお相撲さんの特権だが、裸ゆえのリスクもある。(天ぷらを揚げるときなども)
平成23年6月22日
地方場所の稽古場は毎年つくり直す。先発の1週間の間に一門の土俵を呼出しさんがつくってまわる。掘り返した土俵を細かく砕き、ならし、タコで突き固め、俵を埋める穴を掘り、穴の側面を切り、俵を入れてしっかり固め、土俵の内外をタタキで叩いて、ツヤのある土俵に仕上げていく。すべて手作業の職人仕事である。俵も、編んだ藁に土を詰め込み縄で縛りビール瓶で形を整えてつくる。入門3年目となる呼出し健人、兄弟子呼出し邦夫の指導を受けながら今場所初めて俵つくりに挑戦。おそらく江戸時代から何百年も承け継がれてきたつくり方なのであろう。
平成23年6月23日
先週の天気予報に反して朝から強い日差しが照りつけ猛暑到来。呼出し利樹之丞、邦夫、健人の三人は早朝から一門の錦戸部屋の土俵築へ。午後2時過ぎに部屋に戻り、部屋の土俵築にもとりかかる。途中鈴木さん夫婦がお店で焼いたたこ焼きを差し入れ。30個ほど持ってきてくれたが、当たりが2個あるという。利樹之丞が口にした熱々のたこ焼きからは甘い味が・・・アメ玉だったそう。のこるひとつは何がでてくるか??誰が当たるか??猛暑を忘れさせるひとときになった。
平成23年6月24日
どては大阪では牛スジの煮込みをさすが、名古屋では豚もつが一般的になる。豚もつを八丁味噌で煮込んで食す。甘めの赤味噌の味と、とろりと柔らかくなった豚もつが溶け合ったうまさが最高である。濃いめの味付けが好みのお相撲さんにとってもハマる味である。愛知県内のセブンイレブンでは、どて煮をおにぎりの具にしたものも売っているらしい。まだ食べたことないけど。
平成23年6月25日
午前中幟立て。宿舎龍照院まわりや尾張温泉などに14本の幟を立てる。今年も稲沢市浅井造園の浅井さん親子がトラックに7mの竹を積んで蟹江町内をまわってくれる。80歳を迎えようかという浅井さんだが今年も元気な顔を見せてくれ、こちらも元気をもらう。午後、伊予櫻さん總登さん朝之助と蟹江入り。晩、みんなで稽古場横で炭をおこし、おととい鈴木さんが釣ってきたウナギでバーベキュー。明日には全員そろう。
平成23年6月26日
毎年名古屋場所でお世話になっている鈴木さんの娘さんの結婚式が行なわれ、高砂部屋からも8人出席。朝赤龍が祝辞を述べ、呼出し邦夫による太鼓打ち分け、利樹之丞による相撲甚句で祝宴に華を添える。初めて披露宴に出席した朝弁慶、幸せいっぱい感涙にむせぶ同年代の新郎新婦の晴れ姿に感激。部屋に帰ってきても「おれも、けっこんしたーい!」と醒めやらない。お相撲さんは関取(十両以上)にならないと結婚できないから早く強くなるしかない。全員名古屋入り。明日半年ぶりの番付発表。
平成23年6月27日
7月場所番付発表。半年ぶりの番付折り作業で番付表の手触りも懐かしくもある。大量引退の余波で番付の昇降も異例。先場所西前頭9枚目で7勝8敗と負け越した朝赤龍、今場所も変わらず西前頭9枚目に据え置き。幕下57枚目で4勝3敗だった朝縄、通常なら10枚も上がればいいほうだが、21枚も昇進して幕下37枚目。自己最高位を大きく更新した。さらに先場所自己最高位で3勝4敗と負け越した朝龍峰も、2枚番付を上げて自己最高位更新。
平成23年6月28日
名古屋場所での稽古始め。朝から強い日差しが照りつけ立っているだけでも汗がにじみ出してくる暑さだが、早朝から稽古見学に来てくれる後援会のかたやご近所のかたもチラホラ。横綱がいたときのの混雑ぶりからすると隔世の感だが、落ち着いて稽古に集中できる。午前8時半、一旦稽古を中断して土俵を掃き清め砂で山をつくり御幣を立て、木村朝之助による土俵祭。カン、カンカン・・という利樹之丞の乾いた柝の音で始まり、「天地(あめつち)開けはじめより・・・」と方屋開口を朗々と述べ、再び柝の音によってしめる。清々しくも引き締められるひと時である。
平成23年6月29日
今日も朝から猛暑。相撲錬成歌の歌詞のように玉の汗が滴り落ちる。朝赤龍は鈴木さん運転の車で春日野部屋へ出稽古。幕下36枚目へ躍進の朝天舞は若松親方の勧めもあって高田川部屋へ出稽古。2人抜けて稽古場の土俵が少しさびしく感じられるところ、「ケントも四股踏め!」の声がかかり、呼出し健人も裸足になって土俵へ。赤ん坊の頃から部屋に出入りしてお相撲さんが四股を踏むのも十年以上間近に見てきたケント、腰も割れ、18歳とは思えないいい腹を出し(単なるメタボ?)、なかなかいい四股を踏んで玉の汗をかいていた。
平成23年6月30日
猛暑変わらず。今日は呼出し健人に加えて、行司木村悟志にも声がかかり二人も稽古場に入って四股。こちらはまだ相撲界との関わりが健人ほど長くないから腰割りも様にならない。どうしても膝が中に入ってお尻が後ろに逃げてしまう。野球とかでは悟志の方がうまいが、相撲は健人の方が圧倒的に様になっている(体型的なものもあるが・・・)。現代の日常生活では行なうことのなくなった腰割りや四股などの相撲の基本の構えは、運動神経どうこうよりも、身体で覚える能力の高い幼少期に実際見た経験があるなしで、身につき方も違うような気がする。
平成23年7月1日
呼出し健人・行司木村悟志の四股に触発されて、土俵で四股を踏むよかたが日に日に増えている。新たに木村朝之助と呼出し利樹之丞もTシャツを脱ぎ裸足になって土俵に入り四股。ちょん髷の力士と同じくらいのよかたが勢ぞろい。枯れ木も山の賑わいといっては語弊があるが、力士数が減って出稽古でも2人抜けている現状では土俵をぐるりと囲む人垣は大いに活気を感じさせてくれる。
平成23年7月2日
名古屋場所幕下36枚目と自己最高位に番付を上げた朝天舞、連日高田川部屋への出稽古。元安芸乃島率いる高田川部屋は、稽古時間も早朝5時から11時過ぎまでと質・量ともに厳しい稽古でしられている。朝6時前に部屋を出て自転車で40分近くの道のりを通う。関取こそいないものの新進気鋭の若手がひしめく幕下・三段目の稽古に朝天舞も加わり毎日汗を流す。熱心な稽古を高田川親方も認めたようで、指導を受け、師匠公認で稽古後の風呂とちゃんこまでお世話になって蟹江に帰ってくる毎日がつづいている。
平成23年7月3日
朝稽古終了後、午前11時より宿舎龍照院境内にて餅つきやちゃんこ鍋で地元の方々との交流会。以前は町役場で行なっていたちゃんこ会だが、数年前に中止になった代わりに地元の有志の方が中心になって町民との交流の場を設けてくれ今につづいている。家族連れで賑わい力士との写真撮影やちゃんこで触れ合い。400人前のちゃんこの材料切りなども地元の主婦連がお手伝いで箱ごとの野菜を慣れた手つきで捌いていき、こちらは大鍋での味付けをするのみである。蟹江龍照院にお世話になって今年で24年目を迎える。
平成23年7月4日
宿舎龍照院(りゅうしょういん)は、正式には〝蟹江山常楽寺龍照院”という。真言宗智山派のお寺で、奈良の大仏の建立責任者だったという行基菩薩が天平5年(733)に開基したといい、鎌倉時代初期1182年木曽義仲が七堂伽藍十八坊を建立し、御本尊十一面観世音菩薩を安置した。当時は7万2千坪の境内に寺領約30万坪もある広大な敷地だったそうだが、天正12年(1583)の蟹江合戦の時に現在の龍照院だけを残し焼けてしまった。御本尊十一面観音菩薩は国の重要文化財。寺の裏には秀吉が植えたという大銀杏の木もある。また大正13年から15年まで第24代内閣総理大臣を務めた加藤高明は、現在稽古場のある場所で生まれたそうである。
平成23年7月5日
龍照院にお世話になったのは昭和63年からである。初めてきたとき稽古場の隣の家の子が入園したばかりの幼子で、部屋にもよく遊びに来ていた。あれから24年、中学生くらいまでは自転車通学する姿も見かけたものの高校大学と進むにつれ顔を合わすこともなくなっていたが、朝稽古場の横を赤ん坊を抱きながら通る姿にひさしぶりに出会った。いつのまにか27歳になり(当たり前だが)、あの幼子が親になっているのは妙に感慨深いものもある。蟹江に来て四半世紀にもなる。
平成23年7月6日
連日高田川部屋通いだった朝天舞、ちょっと首を痛めたようで部屋で序二段相手のアンマで調整。初日まであと4日と迫ってきたから、いい意味での休養になるであろう。先場所腰痛で全休した朝弁慶、マワシを締めて土俵に入れるようになっていたものの、再発して現在はウォーキングなどで調整しながら初日へ向けようやく状態も上向きになりつつある。こちらもしばらくは腰痛との長いお付き合いになりそう。生活、気持ち、身体のクセ、・・・いろいろなことを見つめ直すチャンスでもある。あまり稽古を休むことのない朝乃丈だが、ほっぺたにヘルペスが発症して、こちらもしばし休養。その分、ベテランの笹川、男女ノ里が土俵でいい汗を流している。それぞれに好不調の波を繰り返しつつ、いよいよ半年ぶりの本場所を迎える。
平成23年7月7日
朝から一日雨がふりつづいた七夕。宿舎のプレハブと稽古場は龍照院の北裏にあり、稽古場には屋根もついているが、かなり高々と鉄骨を組んであるので強い雨だと雨が打ち込むこともある。過去2度ほど台風襲来で横殴りの強雨が降り込み土俵が水浸しになって稽古をできなくなったことも。もう時効だからと最近聞いた話だが、それに味をしめて雨が強くなると夜中にホースを出して水を撒いた若い衆もいたよう。しかしながら土俵の水はけは悪くなく翌朝は全然普通に稽古できたようだが。早朝からの雨にもかかわらず今日も傘を差しての見学客の姿も数人。朝赤龍が出稽古を終え、部屋で朝天舞をアンマ。近所の小学校の6年生27人も校長先生と一緒に稽古見学。この中からいつか入門者が出てくれるとうれしいのだが。
平成23年7月8日
地方場所前恒例の高砂部屋激励会。ずっと場所前の木曜日開催が恒例であったが、今年は金曜日の開催。場所は例年通りのウエスティンナゴヤキャッスルホテル。半年ぶりの本場所開催だが、まだまだ巷の大相撲への信頼回復は途半ばのようで、前売り券の販売状況も厳しいようである。そんな中、師匠との縁が深く長い方々が大勢お集まり下さり名古屋場所への決意も新たに。取組編成会議。明日は一般公開の土俵祭。
平成23年7月9日
今日も晴天だが「蒸しっ」とした名古屋らしい暑さ。午後2時過ぎ、その蒸し暑い空気を晴らすように太鼓の音が鳴り響き明日の幕内の触れが呼び上げられる。「豊真将に~は 朝赤龍じゃんぞ~え」・・・「白鵬に~は 栃ノ心じゃんぞ~え」触れ太鼓は太鼓を持つお手伝い2人と呼出し5人の計7人でまわるが、仕事から帰ってきた健人も兄弟子の列に加わり呼び上げに飛び入り。大関獲りが注目される琴奨菊は高校時代からのライバル豊ノ島と、あと1勝で千代の富士のもつ通算1045勝に並ぶ魁皇は嘉風との対戦。
平成23年7月10日
名古屋場所初日。5月技量審査場所にひきつづき序ノ口からの全取組がインターネット配信されているから幕下以下の取組もライブで見られてありがたい。朝奄美が白星で初陣を飾り、つづいて大子錦登場。得意の「引っ張り込んで死んだふり」にいきかけるも、相手もベテラン力士でだまされず寄り切られてしまう。朝乃丈も黒星スタートとなるが、ベテラン笹川が満身創痍の体に鞭打っての白星。先場所にひきつづき根拠のない自信が功を奏しているよう。幕下中堅へ躍進の朝天舞は白星ならず。
平成23年7月11日
朝興貴、かなりの方向音痴である。名古屋場所蟹江に来るのも今年で3年目になるが、いまだに宿舎近辺の地理に慣れてなく、今年も部屋の近くのスーパーに買い出しにいくのに迷子になり、自転車で5,6分の焼肉屋に行くのに1時間以上さ迷い結局たどり着けなかった。名古屋場所の行なわれる県立体育館まではJR蟹江駅から関西線で名古屋まで出て地下鉄に2度乗り換えなければいけないが出発前全くわかってなく、途中迷子になるのではないかと心配されたが、今日は無事たどり着けたよう。相撲は、迷いなく突いて前に出て快勝。
平成23年7月12日
久しぶりに土俵に上がるのは怖いものがある。5月技量審査場所を休場した朝ノ土佐、1月場所以来半年ぶりの土俵で初日は蹲踞のとき目まいもしたといいさすがに相撲にならなかったが、今日の相手は初日笹川が電車道で勝った相手。もちろん初顔の相手なので、一応笹川に「どうだった?」と聞いてみた。「俺でも電車道で勝てたから大丈夫だよ!」そんな答えが返ってくると思っていたら、笹川からは「けっこう強かったよ」の言葉。「えっ!」とバカマケしたが、「これは負けられない」と、朝ノ土佐も電車道での半年ぶりの白星。朝ノ土佐の心を奮い立たせる、油断するなと引き締める、深遠な意味のある友情から出た意外な返答だったのかもしれない。(そんな深い意味は毛頭ないのだが結果的にそうなった。畏るべし笹川の言葉力)
平成23年7月13日
相撲協会ネット配信は、序ノ口からの取組を全部映してくれるから今まで見ることができなかった大子錦の取組も見られ、部屋ではパソコンの前に人だかりができるほどの人気取組になっている。今日の相手は同じようなアンコ型力士。稽古場でもみせたことのないような頭からのぶちかましに「おー!」の歓声が上がり、少しの攻防のあと四つに組んで長い相撲になる。「いつ足がもつれて転んでしまうか」、「いつ息が上がって無呼吸になってしまうか」、別の意味でハラハラドキドキ、手に汗握る熱戦となる(関係者にしかわからない盛り上がりだろうが)。最後は大きな腹を使っての寄り切りにまたまた大歓声。「大子錦の取組がDVDになったら買いたいわ~」という声も上がるほどプロの目をも楽しませてくれる。ある意味銭の取れるお相撲さんといえるのかも。
平成23年7月14日
名古屋場所が行なわれている愛知県体育館は名古屋城旧二の丸跡地にある。宿舎のある蟹江からはJRと地下鉄を乗り継いでおよそ1時間ほど。取組時間の近い力士が2,3人いるとタクシーを相乗りしていくこともある。高速を利用すると20分弱で到着する。数年前のことだが、引退した高稲沢が2,3人部屋から車で体育館まで送ってくれることになった。免許取り立てで道に詳しくなくナビで「名古屋城」と入力して部屋を出発。名古屋市内に入ったものの体育館のある名古屋城とはほど遠い繁華街に車は誘導されていく。「なんか雰囲気ちがうなぁ??」「道間違えてるんじゃないの?」ナビの「目的地周辺です」という音声で止まった目の前には『ファッション○○○名古屋城』のきらびやかな看板。名古屋城には違いなかったのだが・・・。
平成23年7月15日
名古屋場所は昭和33年から本場所となった。始めは金山体育館で開催され、昭和40年から現在の愛知県体育館になった。金山体育館は冷房がなく、支度部屋には大きな氷柱が置かれ、館内に酸素放出も行なわれたそう。南洋場所とも呼ばれたというが、現在の愛知県体育館は冷房も効いて空調の真下だと寒いほどである。ただし館内から一歩外へ出るとコンクリートの蒸し返しが強くクラクラするような暑さに見舞われる。体育館の構造上、東西の支度部屋が隣接しており、花道への出入りも途中までは一緒になっている。また風呂場でも東西の対戦力士が一緒になることがあるのも名古屋場所ならではのことである。
平成23年7月16日
地下鉄名城線市役所駅出口を地上に出てお堀沿い(空堀だが)に進むとお城の東門へとつながる。東門へと曲がる手前でよくテレビカメラが待ち構えてインタビューをしていて相撲についてマイクを向けるのだが、名古屋城への入り口も同じなため「あ、お城の見学です」と断られている光景もたまに目にする。入口の石垣の手前のスペースには20m近い高さの櫓が昔ながらの丸太で組まれている。櫓の下には独特の相撲字で黒々と書かれた「板番付」と「御免札」も立てられていて昔と変わらぬ相撲場の風景を醸し出している。中に入ると石垣の内側に旗めく幟が立ち並び、大きな愛知県体育館が目にとび込んでくる。朝天舞片目あく(初白星)。
平成23年7月17日
序二段78枚目と自己最高位の朝龍峰、4連勝での勝越し。先場所負越しても自己最高位にあがったとはいえ、4連勝での勝越しはアッパレである。あすの相手も過去2勝している同期生とのことで自信にあふれている。
平成23年7月18日
大型台風接近で名古屋も夕方から風が強くなり、幟が立ててある場所を自転車で回りバン線を切り幟を倒していく。幟竹は長さ7mほどもあるから道に倒れたりしたら大変なことになる。関取が5人いたときに比べたら幟の数も減ったので、こういうときには楽になった。何とか雨に降られずに作業終了。朝龍峰5連勝ならず。朝興貴、前に出るいい相撲で3勝2敗と勝ち星先行。明日はいよいよ台風最接近となりそうである。
平成23年7月19日
大関魁皇が引退を発表。現在の大相撲界にとって痛手で残念ではあるが、よくぞここまで長い間満身創痍の体で大関という激務を務めつづけたものだと、感謝と畏敬の念を多くの人が抱いているのではなかろうか。昔は部屋同士の交流も深く幕下の頃から稽古場でもよく見てきたが、やはり光る存在ではあった。若い頃は酒豪でも鳴らし、普段の謙虚な人柄とうって変わる豪快な豹変ぶりも愛すべき魅力であった。1047勝の偉業が素晴らしいのはもちろんだが、カド番を何度も乗り越えたあきらめない精神力は多くの日本人に勇気を与えてくれたことであろう。いや日本だけでなくモンゴルでも魁皇人気は抜群のものがあった。
平成23年7月20日
十両格行司木村朝之助、今場所も場内アナウンスも務めている。日によって放送の時間帯は違うが、ときどきマッチの声になることもあるのが特徴である。場内放送係も年期が入り堂々たるものであるが、琴欧洲と阿覧の出身地の発音には毎回苦労するという。琴欧洲はブルガリア・ヴェルタルノヴォ出身、阿覧はロシア・ヴラヂカフカス出身、舌がまわらないが、さすがに滑らかにそらんじている。朝龍峰5勝目。
平成23年7月21日
5月技量審査場所を休場した朝ノ土佐勝越し。震災や騒動の影響もあってか今年の春先から心身に不調をきたし実家の高知へ戻り療養生活を送っていたが場所前にようやく名古屋入りでき、久しぶりに土俵に下りてちゃんこを囲む生活に戻った。療養中は苦悶の日々も多々あったようだが、ボケまくるもの、奇声を発するもの、意味不明の行動のもの、・・・個性豊かな仲間たちの言動に「俺って普通かも」と思えてきたという。その甲斐もあってかの勝越し決定。これも高砂部屋効果か(?)朝弁慶も勝越し。
平成23年7月22日
猛暑もひと息ついた13日目。残り二日間、優勝争いも琴奨菊の大関獲りもいよいよ佳境にはいってきたが、お客さんの入りにはなかなか結びつかない。明日明後日の席もまだあるようですので、生で大相撲をまだご覧になったことのない方、ぜひ一度愛知県体育館へ足をお運びください。生で見ると、大相撲の見方がまた変わってきます。朝ノ土佐5勝目。
平成23年7月23日
3勝3敗で最後の一番を迎えた朝乃丈と朝興貴、明暗。ふだんはかなりボーっとしていて失敗も多い朝興貴だが、今日の相撲では目の覚めるような突き放しを見せ快心の相撲での勝越し。つづきたい朝乃丈だが、こちらはガラにもなく緊張してしまい、中途半端な待ったの後の立合いも鋭さがなく腰が砕けるように突き倒されて完敗。朝稽古では朝乃丈が朝興貴を問題なく圧倒していたのに蓋を開ければ・・・相撲はむずかしいものである。
平成23年7月24日
半年ぶりの本場所も無時に千秋楽を迎える。千秋楽にして初めての満員御礼。打上げはいつもの尾張温泉東海センター。地元蟹江のお客様を中心に名古屋場所の千秋楽を祝う。歌や踊りのあと、朝赤龍手形や高砂部屋浴衣地など高砂部屋グッズやテレビ、自転車3台などの豪華賞品も当たる抽選会。蟹江にお世話になって24年、力士もお客さまも顔触れはずいぶん変わったが、応援してくれる温かさは変わらない。
平成23年7月25日
今日から1週間の場所休み。おすもうさんにとっては一番うれしい期間である。ただ地方場所は荷物整理や宿舎の後片付けもあるからいろいろと作業をしながらの1週間だが、それでも稽古がなく朝ゆっくり寝られることが至福のときである。朝弁慶は岐阜の保育園へ。園児といっしょに四股を踏み、相撲をとって、綱引きして、3人抱いて写真撮って、流れ落ちる汗を拭きながらも楽しげ。そのうち園児同士でもおすもうが始まった。相撲をとっている園児たちは勝っても負けても本当に楽しそうで一生懸命。
平成23年7月26日
朝弁慶・朝興貴、今日は宿舎蟹江の隣町のあま市の老人ホームを慰問。四股や股割りを見せて、畳でこしらえた土俵の上で立合いのぶつかりや技の披露。巨体のぶつかり合いに「わぁー」という感嘆の声が上がる。ひとりひとりの席へまわり握手していくと、涙を流して喜んでくれるおばあちゃんや拝んでくれるおじいちゃんもいる。これだけ多くのお年寄りがみなさん喜んでくれるのを肌に感じると、お相撲さんもより一層がんばらなければと想いを強くする。幼児からお年寄りまで、幅広く喜んでもらえるのもお相撲さんならではのことであり、それを励みに日々の稽古を積み重ねていくのが力士の務めである。
平成23年7月27日
9月秋場所の番付編成会議が行なわれる。名古屋場所では通常より幕内が2名、十両が2名少なくなっていたため、その穴埋め分もあって新十両6人、再十両3人と合計9人の十両昇進。再十両には奄美出身の尾上部屋里山の名もある。またお祝いしなくちゃいけない。また同じ高砂一門八角部屋の北勝国は前相撲から再スタートしての関取復帰。新十両のなかには九重部屋から千代桜、千代嵐の若手2人。78年ぶりの早稲田大学出身関取となる尾車部屋直江改め皇風(きみかぜ)、若手ホープ20歳の佐渡ヶ嶽部屋琴勇輝、幕下11枚目から昇進の192cm191kgの巨漢中村部屋飛翔富士(おじいさんが徳之島のシマンチュ3世)、モンゴル出身のイケメン力士大島部屋旭秀鵬と、話題も豊富である。
平成23年7月28日
明治初期の高砂部屋創設以来、高砂一門は横綱大関をはじめ数々の関取衆を擁してきた。それがここ数年は横綱朝青龍、大関千代大海、北勝力、海鵬、・・・と引退がつづき、朝赤龍、高見盛、隠岐の海しかいないという寂しい状況だったが、5月、7月と、東関部屋華王錦、九重部屋千代の国、千代桜、千代嵐、中村部屋飛翔富士、八角部屋北勝国、といっきに増員した。この中からまた横綱大関が一場所でも早く出てきてもらいたいものである。
平成23年7月29日
本家高砂部屋だけでも、明治の初代高砂の弟子西ノ海嘉治郎、初代小錦八十吉、4代目高砂となった前田山英五郎、江戸っ子横綱東富士欽壱、徳之島出身の5代目高砂朝潮太郎、そして朝青龍明徳、と横綱が6人もつづいた。また佐渡ヶ嶽部屋の横綱男女ノ川(みなのがわ)は関脇までは高砂部屋所属であった。ちなみに男女ノ里の四股名は郷土つくばの先輩男女ノ川に因んでつけた名である。大関には明治時代の一ノ矢藤太郎、3代目高砂となった2代目朝汐太郎(ややこしいが)、元高田川の前の山太郎、現師匠の4代目朝潮太郎、ハワイ出身の小錦八十吉、と名を連ねる。
平成23年7月30日
東京行の荷物を後援会の伸興通産㈱のトラックで送ってもらい、龍照院の裏の宿舎の大掃除をして、いよいよ蟹江も今日が最後。夜、今年もお世話になった鈴木さんと最後の晩餐。こころなしか寂しそうではあるが、若い衆に「明日から寂しくなりますね」と突っ込まれると、「孫がおるでええわぁ」と、強がっている。大阪場所がなかっただけに年に一度の地方場所のありがたさがよけいに身にしみる。明日昼過ぎ相撲列車(新幹線)にて全員帰京。
平成23年7月31日
お昼前、1ヵ月半お世話になったお寺さんにご挨拶して名古屋駅へ。仕事の合間を縫って都合をつけたくれた鈴木さんと高稲沢が車で送ってくれる。また1年のお別れである。東京に戻り、明日は荷物を片付け大掃除して明後日から稽古再開。今夏は、お盆明けに久しぶりの青森五所川原合宿、8月末に平塚合宿を行い、8月29日(月)が9月場所番付発表。9月11日(日)初日の秋場所に向けての日々がまた始まる。
平成23年8月1日
今日から8月。昨日今日の東京は少し暑さも和らいだとはいえ夏真っ盛り。夏といえば浴衣である。浴衣といえばお相撲さん。自分の四股名の入った浴衣をつくれるのは幕の内になってからである。幕内力士になると、自分の四股名を染めた反物を贔屓筋や相撲関係者に5月場所か7月場所にお中元代わりに粗布として配る。そういう慣習ができたのは、「いつ頃どのようにして始まったのか」と、質問を頂きました。おそらく江戸勧進相撲時代からのことだと思うのですが、本やネットで調べてみても確かなことは、まだわかりません。どなたか詳しい方おられますでしょうか?
平成23年8月3日
浴衣は、もともと平安時代の湯かたびらからきたそうで、江戸時代になって庶民にもひろまったという。やはり力士の浴衣も江戸時代からのことなのであろう。和装では最もかんたんな略装ではあるが、幕下以下の力士にとっては夏場の正装になる。関取衆は夏でも夏物の紋付き袴が正装になるが、幕下以下の若い衆にとっては、結婚式でも葬儀でも部屋の仕着せ(部屋名が入った浴衣)が正装になる。そういうこともあって仕着せは地味目の反物が多かったが、最近はかなりカラフルな色を使っている部屋もある。朝天舞、朝興貴昨日から高田川部屋へ出稽古。
平成23年8月4日
幕内力士になると自分の四股名を染めた反物をつくり関係者や贔屓筋に配る。一門の親方や関取衆、頭、世話人、行司・呼出し・床山の資格者、部屋の若い衆、同期生、・・・けっこうな数になる。若い力士は、もらった反物で浴衣をつくる。力士用の反物はキングサイズで一般の反物より4cmほど長く幅40cmあるが、それでも一反でつくれるのは100kgくらいまでの力士で、ほとんどの力士はワリ(反物を半分とか1/4に切ったもの)をつけて仕立て屋さんに出す。
平成23年8月5日
部屋のお相撲さんに聞いてみたが、1反で浴衣をつくれるのは朝乃丈のみのよう。朝天舞は100kgそこそこのときは1反で大丈夫だったそうだが、115kgとなった現在は1反とワリが少しないとつくれなくなったという。大子錦や朝弁慶は、1反半必要。昔大子錦が付人としてついていた小錦さんは、2反ないとつくれなかった。夏休み恒例の部屋開放、今年は常連のさいたま相撲クラブに加え草加市からも小学生が参加。
平成23年8月6日
カツオ人間をご存知でしょうか。師匠の出身地で、師匠が観光特使を務める高知県のアンテナショップ「まるごと高知」のPR大使に任命された「カツオ人間」が部屋を訪問。ちゃんこを食べ、力士と記念撮影も。マワシを締めた黒い胴体に大きなカツオの頭がのっかっているが、朝弁慶がかぶると、気ぐるみがいらないほどよく似合う。8月いっぱいは銀座1丁目の「まるごと高知」で「カツオ人間」に会えるそうです。
平成23年8月7日
相撲部屋開放最終日。今日もさいたま相撲クラブと草加から小学生30人超が参加して賑やかな稽古場。3日目となって相撲健康体操もだいぶ様になってきて「や―!」の掛け声も元気一杯。指導員の笹川と男女ノ里の胸を借り、同学年同士の申し合いも行ない、砂まみれ汗まみれの活気あふれる1時間半。稽古後はみんなでお風呂に入り、風呂上りには待ちに待ったチャンコ。2杯、3杯とおかわりする子に「大きくなったらお相撲さんになる?」と聞くも「ならない」と素っ気ない。でもいつかはこの中から力士が誕生する日もくることであろう。
平成23年8月8日
たまに、「お相撲さんは真冬でも浴衣一枚で寒くないのですか」と聞かれることがある。寒さには強いお相撲さんもさすがに冬は着物を着るが、おそらくドロ着を着ているのを見てのことであろう。ドロ着というのは、マワシを締めているときに羽織る浴衣のことである。力士のユニフォームは裸にマワシだとはいっても、街中をマワシ姿で闊歩するわけにはいかない。出稽古に行くときや、稽古中に近所に買い出しにいくときなどはマワシの上からドロ着を着ていく。たいがい自分の着古した浴衣や、ちょっと寸法の合わなくなった浴衣などをドロ着として使う。ドロ着は、すそを膝まで上げ、マワシの間にはさんで着るから帯はいらない。普通の浴衣のように足首まで覆うのは、だらしのない着方になる。
平成23年8月9日
大阪場所の頃、2月末から3月初めにかけてが一番冷え込みが厳しく寒さが身にしみるときである。それでもドロ着を一枚着るとずいぶん寒さをしのげる気になる。もっとも最近の関取り衆や兄弟子連はドロ着を2枚重ね着することが多くなった。重ね着すると防寒度もかなりアップする。昔新弟子の頃は、襦袢の代わりに浴衣を着ることも多かった。下に浴衣を着込むと、単衣の着物でもけっこう温かい。関取衆が取組後本場所から帰るときのドテラの下にも浴衣を合わせることが多い。
平成23年8月10日
猛暑連日。浴衣は涼しげなイメージがあるとは思うが、実際真夏日には向いていない。Tシャツ短パンの方が圧倒的に楽である。もともと暑がりが多いお相撲さんにとっては、長袖で足首まで覆ってしまう浴衣はできれば真夏日には避けたいものになる。クリーニングからおろしたてだと糊がバリバリに効いて余計に風通しが悪くなる。そこであまりに暑いと腕まくりをすることもあるが、行儀の悪い着方になるので公の場ではやってはいけないことである。今日くらいの暑さになると、出不精(デブ症?)になってしまう力士は多い。
平成23年8月11日
新弟子が入門すると浴衣や着物は寸法を合わせて新しくつくるが、ドロ着は引退した兄弟子のお古をあてがう。マワシにつっこむだけだから少々大きかろうが短かろうがさして問題ではないが、元ホスト力士で話題となった朝山下は、細すぎてそうもいかなかった。小さめの浴衣でも2,3回りしてしまう勢いである。そこで父である落語家桂楽珍に相談したら、浴衣を何枚か送ってくれた。上方落語協会がお祭りのときにつくった浴衣だそうで、落語家の名前も入っている。逆にお相撲さんにとっては珍しい浴衣で「これいいなぁ」とうらやましがられたいた。
平成23年8月12日
ベースボ^ール・マガジン社『相撲』部屋聞き書き帖でも報じられたように、元志免錦こと中井正人さんが急性心不全のため47歳の若さで永眠された。志免錦さんは、平成8年32歳で引退するまで長らく高砂部屋ちゃんこ長を務め、序ノ口75場所(史上2位)などの珍記録をもつ名物力士だった。糖尿病を患い引退間際は弱視となり場所で会って挨拶しても顔を近づけないとわかってもらえないほどであったが、引退後はマッサージの学校へ通い所沢で開業していた。部屋関係者のイベントのときには必ず顔をだしてくれていたのに返す返すも残念である。
平成23年8月13日
琉球大学の2年生の頃、夏休みに徳之島に帰島すると高砂部屋が合宿をしていた。志免錦さんは入門1年半くらいだったはずで、よく一緒に稽古をした。まだ糖尿病になる前で、頭でぶちかまし合いをやったのもなつかしい思い出である。相撲界ではむろん志免錦さんが何年も兄弟子だが、先輩風を吹かすこともなく接してくれた。四股名の通り福岡の粕屋郡志免町の出身だが、身寄りはなくなっていたようで7月1日にごく親しい方が内々で葬儀をおこなってくれたそうである。決して強いお相撲さんではなかったけれど、「志免錦」の名は大相撲界に確かに刻まれている。合掌。
平成23年8月14日
浴衣の話にもどる。おなじ着物の世界である落語界はどうなのか、高校の後輩である桂楽珍に聞いてみた。落語界では浴衣に自分の名前を染め込む慣習はないという。手拭いに入れて配ることはあるそう。そういえば歌舞伎界でも手拭いに名前を染めたものはよく見る。浴衣に名前を染め込むのは相撲界独特のものかもしれない。いつ頃から始まったのか?江戸時代の錦絵を調べてみたが見当たらない。もっとも江戸時代の関取衆は士分で、マワシ姿以外は羽織や紋付きの正装で浴衣姿自体がお目にかかれない。
平成23年8月15日
午前10時34分上野発の新幹線で青森へ出発。2時半過ぎ新青森駅へ到着。お世話になる江良さんが自ら迎えにきてくれバスにて五所川原江良道場へ。青森五所川原合宿も平成17年S以来6年ぶりのことである。日中は汗ばむ暑さがあるとはいえ東京の猛暑からくらべるとまだましで、夜になると涼しさも感じる。夕食は馬肉鍋。
平成23年8月16日
今回の五所川原合宿には来春入門予定の大分と埼玉の中学3年生2人も同行。マワシを締め四股やスリ足に汗を流す。稽古後のちゃんこは江良さん特製ポン酢での豚チリ。昔ながらの酒石酸でつくった大根と人参のおろしもたっぷりのおろしポン酢は酸味が暑い夏にはよくあう。稽古が終わった頃、朝天舞の両親が石巻から車で差し入れをもって江良道場へ。被災して大変な目に遭われたが、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻しつつあり車を運転しての遠征もかなった。
平成23年8月17日
稽古とちゃんこ終了後、午後1時から五所川原市の老人介護施設白生会緑風苑を訪問。職員の方との腕相撲や相撲、力士によるカラオケで盛り上がり、ひとりひとりと握手や記念撮影。お年寄りがお相撲さんを見て本当に嬉しそうな顔で喜んでくれるのは全国共通のこと。朝から降っていた雨が夕方には風雨ともに強くなり、Tシャツ短パンでは肌寒いほど。猛暑つづきの東京から来たアンコの身にはありがたい肌寒さ。
平成23年8月18日
今日も朝から雨の五所川原。五所川原市は津軽半島のつけ根のまん中辺りに位置し人口6万人弱という町だが、合宿地の江良産業がある毘沙門は五所川原市街から車で10分ほどかかる所で、どちらかというと太宰治の故郷金木町の方が近いくらいである。もっともその金木町も現在は五所川原市に合併されているそうだが。師匠も昨日青森入りして今朝は江良道場で稽古指導。青森といえばりんごが有名だが、馬刺しやメロンも特産品で、たくさんの差し入れが届き青森合宿ならではの豪華なちゃんこ。これで天気がよければいうことないのだが。
平成23年8月19日
青森に来て初めての晴天。やっとマワシが干せるのがお相撲さんにとっては何より嬉しい。木綿の厚織りの稽古マワシは、雨が続くと汗と湿気を吸い込みガチガチになってしまう。天日干しにすると柔らかさがもどり締め心地もよくなる。稽古タオルもコインランドリーに行かなくて済み楽になる、といいことづくめ。夕方、青森後援会の中泊町竹内組とのご縁で、中泊町武田小学校の少年野球チーム武田クラブの東北大会優勝祝賀会に参加。ちゃんこを振る舞い、小さな町の大きな栄冠を共に祝う。角界のマツコ・デラックスこと伊勢ケ浜部屋宝富士の故郷でもある。
平成23年8月20日
青森合宿最終日。稽古とちゃんこを終え、鰺ヶ沢の海水浴場へ。しばし泳いだ後、ボールを借りてビーチバレーならぬ海中バレー。ただでさえへたなのに海中でさらに動きが悪くラリーがつづかない。あきらめて浜辺へ。浜辺で今度は2組に分かれてビーチドッジボール。朝奄美が意外にうまい。小学生の頃、徳之島で他に遊びがないのでドッジボールばかりやっていたとのこと。納得。みんな小学生以来のドッジボールに、嬉々としてはしゃぎまくっていた。
平成23年8月21日
朝お世話になった江良道場を大掃除して江良さん運転のバスで新青森駅へ。1週間の合宿だったが、青森の生活にもようやく慣れてきたころで、いざ帰るとなると、一面緑の津軽平野や何を言っているか半分くらいしかわからない津軽弁も名残り惜しい。12時28分発の新幹線にて約4時間の帰路。このあと26日(金)~28日(日)までは平塚合宿。29日(月)が9月秋場所番付発表。
平成23年8月23日
もともと高砂部屋と青森県は浅からぬ縁がある。明治時代に「角界の風雲児」と呼ばれた初代高砂浦五郎は、相撲改革を唱えて明治6年に「高砂改正組」を立ち上げ11年に和解して復帰した。そのときに部屋を構えたのが本所緑町(現墨田区緑町)の津軽藩中屋敷跡。1000坪の広さがあり敷地内には庭園や池もあったそう。弟子にも津軽出身者が多数集まり、「津軽部屋」とも称されたという。
平成23年8月24日
錦糸町駅北口を出た通りを北斎通りという。錦糸町から両国へ向かって北斎通りを歩くと突きあたりが江戸東京博物館になり、その向こうに国技館がある。北斎通りの少し江戸博寄り左側に宿禰神社があり、こちらは津軽藩上屋敷跡にあたる。江戸時代の古地図で見ても広大な上屋敷は、実に8千坪もあったそうで、明治17年初代高砂浦五郎が、上屋敷跡の鬼門(北東角)に宿禰神社を創建した。部屋のあった中屋敷跡は、錦糸町から行くと宿禰神社の手前の道を左に入って2つ目の一角になる。
平成23年8月25日
元NHKプロデューサーの佐藤桂氏の雑誌『大相撲中継』ー両国いまむかしーには、明治19年には宿禰神社の落成祭典も盛大に行なわれ、皇族、華族、政府高官、外国使臣を招待し地固めの相撲を行なったとある。貴賓の休憩所には神社東隣りの高砂部屋を使用した。神社の敷地も今よりかなり広かったのだろう、土俵も築かれていたよう。西ノ海、小錦という横綱と三大関を育て取締となった初代高砂浦五郎、数々の改革も進めて協会(この頃は会所)内でも日の出の勢いで勢力を強めていった。
平成23年8月26日
午前中健康診断で、午後1時平塚合宿へ出発。2時40分過ぎ宿舎となる平塚市総合運動公園内の研修所に到着。相原会長はじめ湘南高砂部屋後援会の方々に出迎えてもらう。平塚合宿は今年で18回目となるようだが、年一度の心温まる瞬間である。夕方駅前のまちかど広場でスイカ割りや風船割りなど市民とのふれあいイベントなのだが、始まると時を同じくして雨が激しくなりアーケードの軒下へ移動。ひどい雨にもかかわらず何組かの親子が待っていてくれ記念撮影など。用意した風船は始末した方がいいとのことで、笹川が朝弁慶の耳元で割りまくっている。夜7時より平塚市長にもお越しいただき、後援会主催の激励会。明日明後日午前8時より運動公園内土俵にて朝稽古。
平成23年8月27日
今朝もあいにくの雨模様。それでも午前7時前からかなりの人数の平塚市民が傘を差して土俵を囲む。7時過ぎから若松親方指導のもと、朝弁慶や朝天舞、朝乃丈、朝興貴、朝龍峰と土俵に上がり、四股や腰割り、すり足伸脚と、若松親方考案のスペシャルメニューを繰り返す。地味な基本の繰り返しこそが強靭な足腰と心をつくる。稽古終了後、わんぱく相撲やちゃんこの振舞と、みなさんが毎年楽しみにしている年中行事。午後は後援会の方々とボーリング大会。
平成23年8月28日
今日も7時過ぎから運動公園内の土俵で四股、腰割り、伸脚と若松親方指導のもと稽古が始まる。晴天に恵まれて観客も昨日を上回る賑わい。朝天舞、朝赤龍にぶつかる。何度も転がされながら最後押し切ると客席からは大きな拍手。つづく朝龍峰も今日が21歳の誕生日ということでお祝いの長めのぶつかり稽古。こちらも何度も転がされ、息も絶え絶えになりながら最後の一押しを押し切り大きな拍手。四股、すり足、腕立ての補強運動で仕上げ、終了後、男女ノ里の弓取式で平塚合宿稽古の打上げ。ちゃんこと片付けを終え、今年もお世話になった湘南後援会会員の方々と記念撮影。午後1時半バスにて帰京。
平成23年8月29日
9月場所番付発表。序二段で7月場所勝ち越した朝興貴と朝龍峰、共に自己最高位を更新。朝興貴が13枚目、朝龍峰が33枚目と4勝、5勝で三段目昇進を狙える位置。ようやく浅いながらも底上げが形になってきた。7月5勝の朝弁慶は幕下復帰ならず3枚目。朝赤龍は西前頭12枚目。
平成23年8月30日
新しくつくり直された土俵で7時半より稽古開始。8時半、稽古を中断して砂を土俵中央に集め山をつくり山裾を五角形に整え、御幣を差し、塩を盛り、土俵祭。祭主を務めるは十両格行司木村朝之助。最近恰幅がよくなったせいもあるのか、祝詞も、「天地開け、始まりてより・・・」とつづく「方屋開口」も、声の重みというか響きというか艶というか深い味わいがある。体験入門に来ている中学生2人もマワシを締めて土俵祭にも参加。14,5歳の少年にはどう感じられただろうか。
平成23年8月31日
蔵前に住んでいたが、6月末から墨田区緑町に引っ越した。どちらも相撲には縁の深い土地だが、緑町は高砂部屋との縁がより深い。現在の住所表記では、総武線の南側と堅川の間、両国と錦糸町にはさまれた区域が緑1丁目~4丁目となっているが、明治の本所区緑町のときはもう少し広い範囲だったろう。何日か前に書いた本所緑町の初代高砂部屋は宿禰神社東側、現在の地名でいうと亀沢2丁目5番地一帯。2代目高砂部屋は京葉道路を超えた緑小学校近くだったそうで、現緑2丁目になるよう。朝天舞はじめ数名は高田川部屋へ出稽古。
平成23年9月1日
明治11年に初代高砂浦五郎が部屋を構えた本所緑町の「津軽藩中屋敷跡」は、現在亀沢2丁目5番地という地番で、いくつかの会社やマンションが立ち並んでいる。自宅から部屋へ通うには幾筋も行き方があるが、宿禰神社と初代高砂部屋跡地にはさまれた通りは、一番街路樹の緑も深く、自転車通勤にも心地よい。跡地は、いまでは何の変てつもない下町の一角だが、夕暮れ時など明治の世に想いを馳せながら宿禰神社の脇を通ると、初代高砂浦五郎の大きな声が聞こえてくるような気もする。
平成23年9月2日
雑誌『大相撲中継』の佐藤桂氏「両国いまむかし」によると、江戸時代「本所に過ぎたるもの」とうわさされた広大な津軽藩上屋敷は、明治維新後、政府が取り上げ官有地となって明治23年公園地となった。現在の京葉道路に面する南側入り口には明治31年に芝居劇場寿座が誕生。芥川龍之助の「追憶」や「本所両国」にも登場するという本所寿座、三島由紀夫もよく通ったそうだが、昭和20年3月10日の大空襲で焼失した。現在は跡地にファミリーレストランがあり、建物角に「本所寿座跡」という碑が建っている。
平成23年9月3日
以前にも紹介したように2代目高砂部屋は緑小学校近くだったが、没後後継者争いが起こり2代目朝潮が現役大関のまま二枚鑑札(プレイングマネージャー)で3代目高砂となり、部屋は寿座の近くに移った。現在の住居表記でいうと、同じく緑2丁目町内になるであろう。朝天舞はじめ若い衆は今日も高田川部屋での稽古。朝赤龍は国技館での横審総見稽古に参加。
平成23年9月4日
昨日3日、本所高砂会の懇親会が第一ホテル両国にて行なわれた。師匠家族や朝赤龍はじめ部屋からも11人が参加。地元本所町内会のファンクラブ的な本所高砂会、毎年9月秋場所前に懇親会を開いているが、今年で18回目を迎える(若松部屋時より)。カラオケや抽選会、盆踊りと輪になって楽しむ。この18年の間にも栄枯盛衰はあったが、変わらず温かく応援してくれる地元の方々がいることは本当にありがたいことである。
平成23年9月5日
緑町には他にもいくつか部屋があった。宿禰神社境内には、初代高砂の弟子関脇浪ノ音が、引退後振分部屋を相続し幕内力士も育てた。戦後部屋の看板を下ろした後は、昭和36年に相撲協会を停年になるまで神社の管理に専念したという。また、上屋敷跡の総武線沿いに 元富士ヶ嶽(のち若港)が富士ヶ根部屋を興し東富士を大関にまで育て上げた。その後東富士を本家高砂部屋に預け、自身は「墨田みどり保育園」を経営し、191cmの長身で“ガリバー園長”と呼ばれたという。
平成23年9月6日
雑誌『大相撲中継』によると、その後富士ヶ根部屋は子供たちの相撲道場に開放され、「墨田みどり保育園」となり、現在は豊富な相撲資料と展示が盛んな「区立緑図書館」になっている、とある。緑図書館は、昭和32年12月17日開館となっているが、富士ヶ根親方や相撲協会も開館に関ったのであろうか。みどり保育園は、現在は2区画ほど離れた亀沢3丁目間垣部屋の裏にある。
平成23年9月7日
高砂部屋の横綱東富士が、大関まで富士ヶ根部屋だったというのは今回初めて知った。双葉山から「キン坊」(本名が謹一)とかわいがられ、東京都台東区の出身で初の「江戸っ子横綱」として人気があり、後輩の面倒見もよく、人望もあった東富士だが、横綱としても引退後も、不遇の印象がある。移籍して横綱に上がり優勝も何度か重ねたが、東富士にとっての高砂部屋は居候のようなもので、あまり居心地はよくなかったのかもしれない。
平成23年9月8日
小坂秀二『大相撲ちょっといい話』(文春文庫)に東富士の話がでている。東富士の富士ヶ根部屋は小部屋で稽古相手にも事欠くので、高砂系の部屋をたらい回しにされていたそうだが、戦時中は出羽ノ海部屋にひきとってもらっていた。稽古相手にも恵まれグングン力をつけて大関に上がり移籍話も出て、本人も出羽ノ海部屋の力士たちもその気になっていたが、二枚鑑札だった前田山の高砂から待ったがかかり結局高砂部屋に戻った。出羽ノ海部屋からは裏切り者扱いされ、高砂部屋でも身の置き所がなくつらい立場だったという。出稽古を終え、今日から初日に向け部屋での調整の稽古。
平成23年9月9日
AED講習会が国技館地下大広間にて行なわれ、部屋からも松田、木下両マネージャーが参加。先日サッカーの松田選手の痛ましい事故があったが、相撲協会でも数年前から各部屋に一台ずつAEDを配布して備えている。使わないに越したことはないのだが、いざというときのために各部屋から2人ずつ出席しての講習会。AEDの講習を受けるのもこれで3回目だが、年数が経つとやはり忘れてしまう。講習会は今後定期的に行なわれるよう。
平成23年9月10日
「秋空に 天まで響く 触れ太鼓」とはいかず、残暑きびしき中、呼出しさんも大汗をかきながらの触れ太鼓。「相撲は明日が初日じゃんぞーい 芳東には朝赤龍じゃんぞーい  日馬富士には豊ノ島じゃんぞーい 白鵬には阿覧じゃんぞーい ご油断では詰まりますぞーい」と初日の取組を触れまわる。高砂部屋幕下以下は、朝奄美に始まって、大子錦、笹川、朝ノ土佐と初日の割り。残りは2日目から。明日初日は8時30分取組開始。
平成23年9月12日
昨日の初日、取組の進行が早く、交通機関の遅れとも重なって不戦敗が3人も出たそう。今日も早めの進行だったようで、序二段朝龍峰、朝興貴も稽古後あわくっての場所入り。昨日の今日で、さすがに今日は遅刻での不戦敗はなかった模様。現役時代、なるべく取組の1時間前には場所入りするよう心がけてはいたが、どうしても部屋を出るのが遅くなってしまったり、交通渋滞に巻き込まれたりと、気が気ではなかったこともたまにはあり、時々取組に遅れそうになるのが夢にも出てきた。朝興貴、勝ち越せば初の三段目昇進へ向け、まずは1勝。
平成23年9月13日
序ノ口、序二段は、呼出しや行司も新弟子でまだ慣れてなく、四股名の呼び間違いもときにある。土俵下若松審判の隣で控えていた朝奄美、土俵に上がった呼出しから「ヒガーシ マスアマミー」と呼び上げられてしまった。「ちがう!」と心の中で叫びつつも土俵に上がり相撲に勝って、勝ち名乗りを受けると、再び行司も「マスアマミー」の勝ち名乗り。行司の顔を見つつ頭を振ってアピールしていたら、審判からも「違うぞ」の声。ようやく「アサアマミー」と正しく呼んでもらった。確かに似たような体型で序ノ口に「舛奄美」という力士もいるのだが。笹川、朝ノ土佐も今場所初の勝ち名乗り。
平成23年9月14日
呼び間違いといえば、現役ながらも数々の伝説を残している大子錦にも逸話がある。最初番付に四股名がのったとき、読み方は同じ「ダイゴニシキ」だが、字画によるのもあったのか「太子錦」と点入りの四股名だった。ある場所でのこと、呼出しが土俵上で良く通る大きな声で呼び上げたのは「ヒガーシ タコーにーしーき」 本人もびっくりしたが、まだまばらな客席からも笑いが起こり、土俵下の審判も笑いをこらえるのに必死だったという。さすがに当時の師匠に懇願して点をとり、出身地の町名通りに「大子錦」に改名した。改名はしたものの以後「タコ」というあだ名はしっかり定着して現在に至っている。成績も、今日負けて2タコ。
平成23年9月16日
幕下朝天舞2勝目。本場所中の稽古は8時からだが、7時頃から部屋の裏の道路で反復横とびやダッシュ、地下に下りてトレーニングやストレッチと寸暇を惜しんでの鍛錬に余念がない。3年半ぶりに幕下復帰して3場所目。地力もだいぶついてきたようで、今日も前に出る快心の相撲での白星先行。朝奄美も2勝目。朝弁慶、朝乃丈、大子錦と初白星。部屋全体の成績も今場所初の5割超え。
平成23年9月18日
三段目朝弁慶、とったりで勝って2勝目。2本差されてアップアップして寄られて投げを打たれて、「あ、負けた」と思ったら、朝弁慶の大きな体がうまく相手にもたれかかり相手のほうが先に落ちた。もたれた時に相手の左腕にしがみついたのが結果的に「とったり」という決まり手になったよう。本人も何がどうなったのかよくわからなかったようだが、今頃になって「すごい技を使ったんですよ」と自慢げ。朝ノ土佐勝越しまであと1番となる3勝目。中日8日目を終わってちょうど5割。
平成23年9月19日
三段目100枚目の朝乃丈、2連敗のあとの3連勝で勝越しまであと1番。「今場所はダメっす」「今日は勝てないっす」「無理っす」が口癖の、クボユウこと朝乃丈。稽古場でも毎日のように叱咤されながらも他人事のように聞き流すやる気のなさは相変わらずだが、怪我や風邪で稽古を休むことはないのもクボユウである。三段目で相撲を取るのも今場所で6場所目だが、いまだ勝越したことは一度もない。今場所こそ6度目の正直となれるかどうか。朝興貴も3勝目で、初の三段目昇進まであと1勝。
平成23年9月20日
今夏もお世話になった青森五所川原の江良社長はクボユウこと朝乃丈を気にかけてくれている。江良社長が名古屋場所遊びにきたときに、宿舎の近くで道に迷い、ちょうど朝乃丈に遭って部屋まで案内してもらった。部屋に到着すると「クボユウがすかしてしまいました」とのこと。「えっ!いま部屋まで案内してもらったのに???」と、脱走中にもかかわらず律儀に部屋まで案内してくれたクボユウを、それ以来応援してくれている。朝ノ土佐、今場所第一号の勝ち越し。
平成23年9月21日
記憶に残っているだけでも5,6回はすかしている朝乃丈、ここ3,4年ようやく落ち着いてすかすこともなくなった。すかすことはなくなったが、酒で調子にのりすぎたこともあり、入門8年目にして再びザンバラ髪から出直している。ふつうならそろそろ髷を結える頃なのだが、髪が伸びるのが異常に遅いのもクボユウならではのこと。小学生の頃から相撲を始め相撲歴は長い。やる気なさげな態度の奥には相撲が好きな純な心もあるからこそのようやくつかんだ6度目の正直となる三段目での勝越し。朝奄美も勝越し。朝奄美も、もう一番勝てば自己最高位を更新できる。
平成23年9月22日
序二段13枚目朝興貴勝越し。来場所初めての三段目昇進がかなり濃厚となった。入門2年半、体が固くて股割りでは何度も泣いた。1年近くかかってようやくできるようになったが、いまでも伸脚屈伸の度に膝がポキポキ鳴る。固いのは相変わらずだが、多少は腰も割れるようになり時折腕(かいな)を返して出られるようにもなった。稽古場では積極性が足りないのだが、本場所では意外と思い切りのいい相撲を取る。そういえば、飯のときには別人のように積極的になる一面もある。応援してくれる母校興國高校のためにも家族のためにも、どんどん番付を上げていかなければならない。
平成23年9月23日
アンコ型力士には鈍重なイメージがあると思うが、ときに軽やかな動きをみせることもある。序二段45枚目のちゃんこ長大子錦、何度も攻め込まれるも土俵際一回転して最後は小手投げでの勝越し。軽やかなステップとはいかないものの、自分の体の重さを利用してグルリと回るのを得意にしているアンコは多い。またアンコには、いつの間にか稽古場からいなくなるという得意技もある。幕下朝天舞も勝越し。勝負が決まった後も興奮さめやらず、ひょっとこ口のまま嬉しい勝ち名乗り。
平成23年9月25日
九月場所千秋楽。初日の不入りが報道され心配された秋場所だが、琴奨菊、稀勢の里の活躍もあり中盤戦以降は活況を呈し満員御礼も5日間を記録した。やはり土俵の熱戦こそ一番の人気回復策には違いない。朝奄美5勝目。今朝の稽古場でも、いい出足いいおっつけで、めを出していた。力をつけてきた成果が本場所でも発揮された価値ある5勝目である。朝赤龍は3連敗で負越し。午後6時半より千秋楽打上パーティー。
平成23年9月26日
今日から1週間の場所休み。番付発表以降は稽古が休みなしでつづくので、約1カ月ぶりの稽古休みとなる。お相撲さんにとっては、一番ホッとして、一番うれしい一週間である。地方場所後の休み中は、宿舎の後片付けも行なわなければならないが、東京場所後の休みは完全な休養日となるので、よりのんびりできる。とくに休みが始まったばかりの月曜日の安堵感解放感は、何ものにも代えがたい。
平成23年9月30日
引退してどんな職業に就くのか?よく聞かれることだが、一般の方の再就職と同じで多種多様である。本人の価値観や好き嫌いの問題はあるが、引退後も今までやってきたことを活かせる仕事ができるのなら、それに越したことはない。そういう意味では年寄(親方)となって相撲協会に残るのは一番理想の再就職といえる。ただしかなり厳しい条件が求められる狭き門ではある。若者頭、世話人、営繕、部屋のマネージャーなども、収入面での違いはあるとはいえ相撲に関りのある再就職といえる。またちゃんこ屋の経営なども相撲経験を活かした職業になるであろう。
平成23年10月1日
自ら経営しなくても、ちゃんこ屋で店員として働く例はままある。朝泉は長野県佐久市のちゃんこ大鷲で繁盛店の中心的役割を担っている。また、元高砂部屋幕下奄美富士さんも大鷲で修業して尼崎でちゃんこ奄美富士を開店している。大阪コノミヤのちゃんこ朝潮の味も大鷲から引き継がれた味である。他店でも、部屋の弟弟子を雇っている店は多い。ちゃんこ屋は、引退力士の受け皿としてや新規開店への修業の場としての役割も果たしている。
平成23年10月2日
チャンコ屋の延長ともいえると思うが、飲食店関係で働く場合も多い。ホームページを開設した平成9年以降、若松部屋・高砂部屋合わせて51名の引退力士がいるが、一時働いていたのも含めると確認できるだけでも11名はいる。行先不明の力士も何人かいるからもう少し増えるかもしれない。居酒屋、焼鳥屋、飲み屋、クラブ、うどん屋、・・・経営者、雇われ店長、従業員、こちらも様々である。
平成23年10月3日
朝闘士、高稲沢の二人は愛知県で介護士として働いている。相撲雑誌にも紹介されたが、全国放送のニュースで特集されたことがあるし、地元のテレビ局でも何度も紹介され東海地区ではちょっとした有名人である。介護される方も元お相撲さんだと安心感が違うという声が多い。接骨院や整体師として働いているのもわかっているだけで4人いる。介護士も接骨院も、付人稼業が役に立った仕事ともいえる。
平成23年10月4日
一般の会社にサラリーマンとして勤務している元力士も何人かいる。元前頭筆頭2枚目朝乃翔は大阪の物流会社間口で総合営業職として勤務する傍ら会社の相撲部監督も務めている。また元アマ横綱ながらも怪我のため引退した朝陽丸も同社に勤務している。両氏ともアマチュア相撲連盟に復帰し、アマチュアの試合で審判も務めていて引退後も相撲に関っている。間口の社長が、元二子山部屋の力士で、他にも力士出身の社員が数名いる。また実家や親戚が自営業をやっていて跡を継いでいるものも数名。市場や運送業のドライバーとして働いているものも数名ずついる。
平成23年10月5日
個性派力士泉州山は、引退後も個性的な道を歩んでいる。引退後まず声優学校へ通った。かなり個性的な若者が集まっていたようだが、その中でも際立った存在だったらしい。その後、部屋の先輩である小錦さんのKPプロダクションに所属しドスコイダンシングのバックダンサーなどタレントとして活動している。ときどき大子錦に意味不明の電話があるそうで、引退後もその個性にますます磨きをかけている。現在は中国に語学留学中だそう。午後2時より全協会員が国技館に集合して『健康で強くなるための食事』についての研修会。
平成23年10月6日
朝鷲は、引退後実家のちゃんこ大鷲を継ぐべく和食の有名店へ修業にでたが、子供の頃からの夢をあきらめきれずプロレスの道へとすすんだ。力士時代は膝の怪我にも悩まされ太れずに苦労したが、プロレス界の水が合っていたのか体も大きくなり大鷲透として存在感を示し, 昨年10月には3回目となる大鷲プロレスも地元長野県佐久市で成功させている。力道山や天龍に代表されるように引退後プロレスラ―として第2の人生を歩んでいる元力士は数多い。
平成23年10月8日
プロレスラーになるなら体の大きさは武器になるが、普通に就職するとなると大きさが邪魔になる。150kg超だと狭い厨房は通れなく、面接で断られてしまったという話もあった。免許を取りに行くにしてもシートを一番後ろまで下げてもハンドルに腹がつっかえてしまい不自由なことこのうえない。飯代はかかる。特大の服は高い。ただ200kg超だった福寿丸は、大型冷凍庫の中でリフト車で荷を仕分けする仕事に従事しているという。腹がつっかえることもないし、暑がりの福寿丸にとっては快適な職場らしい。
平成23年10月9日
引退後実業家として成功を収めた元力士としては、なんといってもホテルニューオータニの創業者大谷米太郎氏の名前が挙げられる。大谷米太郎氏は富山県の出身で、稲川部屋で鷲尾嶽という四股名で幕下筆頭まで上がった。引退後酒屋に転職し儲け鉄鋼業にも手を広げ大谷重工業を設立して「鉄鋼王」とも呼ばれた。蔵前国技館の建設にも尽力し、東京オリンピックの宿泊地不足の解消のためホテルニューオータニを創業した。
平成23年10月10日
大谷米太郎氏は明治14年富山県で6人兄弟の長男として生まれた。貧農の家族を支えるため酒屋奉公、百姓奉公と働きづくめだったが唯一の楽しみが村相撲で、近隣では敵なしの横綱だったという。働けど働けど貧乏暮らしから抜け出せないのに奮起し母親に「3年だけ暇をくれ」と懇願して上京したのが31歳。港湾の日雇い人夫、八百屋、酒屋、風呂屋、米屋と渡り歩き商売のコツをつかんだという。ちょうどその頃大相撲のアメリカ巡業の話があり、アメリカなら日本の10倍金儲けが出来ると聞き故郷の先輩力士を頼って稲川部屋へ入門。田舎相撲とはいえ、米太郎の体力、膂力は並はずれたものがあったようで、明治45年1月幕下附出しで初土俵を踏んでいる。
平成23年10月11日
詳しい戦績は不明だが、2年足らずのうちに幕下筆頭まで番付を上げ周囲からも期待されていたようで贔屓のお客さんもかなりついていたようである。ただ村相撲時代の指の怪我がありそれ以上の出世をあきらめたとある。師匠や兄弟子に惜しまれながらも引退し酒屋を開業。力士時代から付き合いの合った女性と結婚し、二人で三畳一間で寝起き、朝五時起きで働く生活が始まる。替えの下着もないので朝は生乾きのままの下着で働いたという。5年で酒屋も軌道に乗り国技館の酒も一手に引き受けるようにまでなり、さらに鉄製品や鉄板をつくるロール製造業を始め、やがて大谷重工業へと発展していく。
平成23年10月12日
平成14年2月に高砂部屋と合併して名前が消えた若松部屋は、昭和4年1月元小結射水川が高砂部屋から独立して再興された(江戸、明治期にも若松部屋は存在した)。その射水川は四股名の通り富山県の出身で、明治44年6月稲川部屋から初土俵を踏んでいる。鷲尾嶽(初めは砺波山)こと大谷米太郎が稲川部屋に入門したのは45年1月だから、ほぼ同時期に入門して同じ釜の飯を食ったことになる。生年月日から換算すると、少し兄弟子の射水川が17歳、半年遅れて入門の大谷米太郎は31歳。ずいぶん年の離れた新弟子同志である。
平成23年10月13日
二人は共に富山の生まれで、射水川が高岡市、大谷米太郎が小矢部市と、小矢部川(元射水川)沿いの隣町になる。村相撲での米太郎の強さは近隣に鳴り響いていたそうだから、射水川の松崎少年(射水川の本名)も名前くらい知っていたかもしれない。米太郎は幕下附出しでデビューしたから、入門半年17歳の射水川少年は稽古でも歯が立ったなかったのでは。それでも米太郎が同郷の年下の兄弟子を立てて仲良く稽古に励んでいたであろう。その証拠に米太郎引退後も付き合いは深かったようで、のちに射水川は師匠稲川から相撲茶屋上州屋を譲り受けるが、そのときの資本は米太郎の協力が大きかったようである。
平成23年10月14日
大谷米太郎の力士生活は2年足らずでしかなかったが、その後も相撲界との縁は深く、射水川の若松親方への協力だけでなく蔵前国技館建設にもずいぶん尽力したそうである。また日本相撲協会最高顧問として毎場所砂かぶり席から土俵を見つめていたという。さらに地元富山では大谷技術短期大学(現富山県立大学)の設立に私財を投じ、小学校や市庁舎の建設にも多額の寄付をした。地方から出てきた青少年を保護する「少年センター」を浅草、新宿、大森につくった。常に国のためにと考え、東京オリンピックに合わせたニューオータニ創業もその一環だった。オリンピックの4年後、86年の生涯を閉じている。
平成23年10月15日
いっぽう射水川は順調に出世していき、入門7年大正7年に24歳で新十両、さらに1年半後の大正9年1月場所では新入幕を果たしている。部屋は、大正5年に師匠稲川が亡くなり高砂部屋所属となった。173cm90kgと当時としても小兵ながら、回転のいい上突っ張りと足取りや蹴返しなどの曲者ぶりを発揮し、大正13年5月場所では横綱栃木山、大関大ノ里を破る活躍で勝越し翌場所小結に昇進。新小結の場所も勝越したが翌年大正15年5月場所をもって引退。昭和4年1月場所に高砂部屋から独立して若松部屋を興した。明日部屋全員で宮城県名取市の仮設住宅へ慰問の予定。
平成23年10月16日
朝5時半に部屋を出発して宮城県名取市へとバスで向かう。仙台空港がある名取市は仙台市の南に位置して人口7万人余りの町だが東日本大震災の津波で大きな被害を受け現在も1000人近い方々が仮設住宅住まいを余儀なくされている。その仮設住宅を慰問して、作新学院野球部OB会やボランティア団体の方々と共に500人前のちゃんこ鍋や焼きそば、コロッケなどを振る舞う。ちゃんこを食べながら赤ん坊を抱いてもらったりサインや写真撮影会とお相撲さんとの触れ合いにたくさんの笑顔。復興へはまだまだ遥か遠い道程なのだろうがくじけずに歩んでいっていただきたい。
平成23年10月17日
名取市の仮設住宅で避難生活を送られているのは名取市閖上(ゆりあげ)地区の方々がほとんどだという。NHKの特集番組でも報道されたように街全体が津波に飲み込まれてしまう大変な被害に遭われた。「ゆりあげ」の地名はもともと清和天皇の頃にさかのぼるそうだし、名取川は、「陸奥にありといふなる名取川なき名とりては苦しかりけり」(壬生忠岑)と『古今和歌集』にも詠まれる歴史深き地である。名取市出身には双葉山時代に幕内で活躍した桂川の元木瀬親方がおられる。元桂川の檀崎氏は、はじめ名取川と名乗り、居合道家としても有名であった。幕内力士としては最高齢の96歳まで存命された。
平成23年10月19日
部屋のパーティーがそうであるように、相撲関係者の催し物はホテルニューオータニで開催されることが多い。師匠の結婚披露宴もニューオータニだったし朝青龍の大関披露、横綱披露パーティーもニューオータニであった。ひとえに創業者大谷米太郎氏と相撲界とのご縁に由るところが大きい。最近は他のホテルでの宴も増えているが、多くの横綱大関の華燭の典がホテルニューオータニにて行なわれてきた。
平成23年10月20日
以下は元若松部屋の床山よっさんこと床義さん(故人)から聞いた話。昭和30年代後半に活躍した大関栃光の結婚式が竣工間もないホテルニューオータニで行なわれた。栃光は熊本天草の出身で、実直な性格そのままに黙々と押し相撲に徹して名大関と称された。高砂の席には大銀杏に紋付き袴の新郎と美しい新婦の姿。華やいだ中にも粛々と宴はすすみ、乾杯の後の料理はもちろん超一流のフレンチ。親族席の父親が感激のあまり声を発した。田舎の漁師(農家?)だから声がやたらでかい。「さすが東京はしこっとるばいね!」「みそ汁が皿で出てくるばい!」緊張した面持ちだった招待客もどっと沸いた。
平成23年10月21日
興奮冷めやらぬ親父さんの大声はさらに会場に響き渡る。「このパンは固かばい!」「きのうのパンばい!」もちろんフランスパンを食べてのこと。またまたどっという大歓声。天下の名大関は顔を真っ赤にして下を向いていたという。入門は18歳と遅かったが初土俵以来負越しなし2年で十両に上がり、十両では全勝優勝も果たして3年で幕内。大関在位22場所、真面目な土俵態度は力士の鑑と称えられ、引退後も年寄千賀ノ浦として後進の指導にあたっていたが43歳の若さで帰らぬ人となった。
平成23年10月22日
先発隊7人(大子錦、男女ノ里、朝乃丈、朝弁慶、朝興貴、呼出し健人、松田マネージャー)福岡入り。空港には呼出し健人のお母さんが迎えに来てくれる。健人が生まれた頃からつづいている年中行事だから、もうかれこれ17,8年にもなる。そのまま空港近くの天ぷら屋へ直行して昼食。これもここ7,8年つづいていることで、「今年も福岡に来た!」という気分が一気に沸き上がる。「うまい!安い!」天ぷらでお腹を満たし宿舎唐人町成道寺(じょうどうじ)へ。100畳ほどある本堂にゴザを敷き大きなカーテンで仕切り布団を敷けるよう生活空間をつくる。雨模様だが時折晴れ間ものぞき仕事も順調にすすむ。今日から約1ヵ月半の福岡暮らしが始まる。
平成23年10月23日
倉庫に保管してある荷物をトラックで宿舎に運び込む。後援会関係の方が4トントラックを出してくれ久留米の先まで往復。荷を下ろすとき近所の小学校1年生の男の子も遊びに来てお手伝い。一緒に荷物を運んだり、お相撲さんにしがみついて荷物になったりと、すぐになついている。荷物を運び終わったところで近所の方がおばあちゃんを伴ってお寺へ。おばあちゃんがお相撲さんをみたいということで来たが、朝弁慶がお姫様抱っこで記念撮影しておばあちゃんも大喜び。大相撲に対する世間の目はまだまだ厳しいが、子供やお年寄りがお相撲さんを喜んでくれる気持ちは昔と少しも変わらない。
平成23年10月24日
九州場所に来て部屋のお相撲さんが一番楽しみにしているのが、宿舎唐人町成道寺近くにある「わらすぼ」である。一見普通の居酒屋風なのだが、餃子が絶品のうまさ!!もともとお相撲さんは餃子は大好きだから日本全国うまいと聞けば行くこともあるけど、「わらすぼ餃子」に勝るものはないと何人も口にする。他のニラ玉や豚骨ラーメン、チャンポンあらゆる料理もかなりのうまさである!!。
平成23年10月25日
唐人町「わらすぼ」は「藁巣坊」と書く。親父さん夫婦と息子さんとのアットホームな店で、ご近所の常連さんとも顔なじみである。小学生の子供もいて小さい頃からお相撲さんとも遊び仲間だから、福岡入りすると部屋の山積みの布団に投げてもらってワーワー喜んだり、Wiiのダンスゲームで汗だくでゼーゼー踊るお相撲さんを尻目に高得点を上げて勝ち誇っている。チャンコ場のプレハブが出来、洗い物や土俵起こしの作業。日々の仕事に追われながらも子供たちと疲れ果てるまで遊べるのも先発ならではのこと。
平成23年10月26日
土俵築。大子錦が耕運機で掘り起こした土俵を、呼出し利樹之丞、邦夫、健人がクワでならし、お相撲さんが4人がかりでタコで突き固めていく。耕運機以外は江戸時代から変わらぬ作業風景であろう。土を耕し突き固め俵を盛る。出来上がったばかりの土俵を眺めると、清々しく浄められる思いを感ずるのは、太古からつづく日本人のDNAの中に土とイネと相撲とが同じように刷り込まれているからなのだろう。
平成23年10月28日
呼び出しは職人仕事である。土俵をつくるのもそうだし、太鼓や呼び上げも極めれば日本の伝統芸能としての価値も十分に高い。呼出し利樹之丞は、さらに相撲甚句も唄うから芸の幅がより広い。しかもイケメンでもある。先日も高砂部屋OBに依頼されて埼玉県の老人ホームに慰問に行ったそうだが、相撲博物館から栃若から現代までの取組DVDを借りて上映して太鼓、甚句と1時間ほどの出し物を行なった。認知症のお年寄りも多かったのにみんな飽きずに食い入るように見つめて、職員の方も「やっぱり相撲の力は大きいですね!」と驚いていたという。これからの高齢化社会に向け、見せ方次第で相撲の果たす役割は大きいものがあるのであろう。
平成23年10月29日
回想療法というのがあるらしい。過去の楽しい思い出を振り返ることでいまの元気を取り戻す効果があり、認知症の予防・改善、うつ病の改善にも役立っているという。施設の職員の方が利樹之丞に語った話によると、施設には認知症の方が多く、いろいろなイベントを企画しても20分と持たずに「部屋に帰りたい」と駄々こねるそうだが、今回はほとんどの方が1時間集中して見入ったという。栃錦、若乃花や大鵬の映像は自分が若かりし元気な頃を思い出させ、太鼓の高く響く音もそれぞれの心に、身体に、響くものがあったようですとのこと。
平成23年10月30日
東京残り番だった力士達も全員博多入り。宿舎もいっきに賑やかになる。今日は昼夜健人母が職場の妹分2人と共にちゃんこ番。最後の掃除や荷物整理に忙しい先発隊にとっては誠にありがたい。朝から降りつづいた雨も夕方には止み明日からは天気も回復しそう。明日番付発表。
平成23年10月31日
九州場所番付発表。朝興貴入門3年目での新三段目昇進。もちろん自己最高位となる。新三段目の時には着物に着替えて師匠に「お蔭さんで三段目に昇進できました」と挨拶に行く。兄弟子にも挨拶してまわる。番付発表の今日から晴れて三段目を名乗れる。朝奄美も自己最高位。こちらは入門7年。一進一退を繰り返しながらようやく序二段の50枚目。歩みも遅く地位も低いが、何年目でも何段目でも自己最高位を更新することには同じ価値がある。
平成23年11月1日
稽古始め。午前8時半、稽古を一旦中断し土俵中央に砂を集めヤマをつくり御幣をさす。向正面側徳俵から中央のヤマにむけてゴザを敷き、残り三方の徳俵には盛り塩を三つずつ。盛り塩を起点に三方向に塩をまく。ヤマの手前には御神酒(一升瓶)と榊を供える。土俵祭の準備が整い、装束に身を包み軍配片手に十両格行司木村朝之助が土俵に入る。御幣を前に祝詞をあげ土俵祭が始まる。祭主を務めるようになって4年余り。慣れた所作だが今場所は異変が。一昨日から突然右肩の激痛。診断によると四十肩とのこと。まだ三九歳なのにと痛みをこらえながらの土俵祭となった。
平成23年11月2日
ゴーヤーマンは相撲好きである。元々運輸会社で相撲協会関連の仕事をしていて部屋にも出入りするようになった。もともと相撲が好きだったのか相撲関連の仕事に携わるようになって好きになったのか定かでないが、とにかく相撲が好きである。高校生の娘を持ついいおじさんなのだが、少年のように、相撲を、相撲界を、お相撲さんを応援してくれる。会社でもそこそこ責任ある地位にあり、現在は鹿児島勤務になっているのに、九州場所中は仕事もプライベートも絡めて部屋に現われ、いろいろ世話を焼いてくれ手伝ってくれる。本名は合屋さんというのだが、お相撲さんは親愛の念を込めてゴーヤーマンと呼んでいる。
平成23年11月3日
博多弁に“のぼせもん”という言葉がある。山笠のときによく使われるが、あるものに夢中になる人のことをいう。ゴーヤーマンもある意味“のぼせもん”の部類に入るかもしれない。だいたい相撲部屋に出入りするような人間には“のぼせもん”が多いが、高砂部屋の元祖“のぼせもん”ともいえる”やっさん”も健在である。今年もすでに3日ほどお泊りに来たが、相変わらずお相撲さんとワイワイガヤガヤやって、時にうざがられてもいる。息子健人の色恋話をお相撲さんに輪をかけて炊きつけられても「よかとこに就職したたいねぇ」と気持ちも若い。九州場所といえば“やっさんたい”の季節が今年も始まった。
平成23年11月4日
先日朝弁慶と出かけた。博多駅のホームで電車を待っていると小学生2人とお母さんが近づいてきた。初めて間近に見るお相撲さんの大きさに驚き大喜び。握手して番付表をあげたら、お母さんも握手してほしいと嬉しそう。さらに吉塚の駅を出て歩いていると、道の反対側からフェンス越しに「おすもうさ~ん」と手を振る母子5,6人。朝弁慶も手を振り返すと大きな歓声。「このお相撲さんは高砂部屋の朝弁慶といいます」と紹介すると「べんけいガンバレ~!!」と可愛い大声援。博多の町で朝弁慶を知る子供たちが7人は増えた。九州場所の宣伝にもなったであろう。本日午後6時よりホテルニューオータニ博多にて九州場所市民激励会。横綱大関はじめ幕内力士全員と各部屋の師匠ら相撲協会からは100人余りが参加。こちらは2000人の福岡市民との交流。大小の交流で博多の大相撲ムードも徐々に盛り上がりつつある。
平成23年11月5日
地方場所に来ると、普段東京で家庭のある人間も一月余り力士と寝起きを共にする。24時間一緒にいると、相撲界に長いとはいえ人間離れした力士の生態を垣間見ることもあり今更ながらに驚かされることも多々ある。あえて名前は伏せるが、力士Dと風呂で一緒になった利樹之丞、湯船から何気なくDを見ていたら、いきなり口に手を突っ込んでオエオエやりだしたらしい。D曰く「タンがからまってたので指を2本入れただけっスよ」とのことだが、利樹之丞には手首まで口の中に入ったように見えたという。「歯ブラシ使わないの?」と聞いたら、すぐ横に置いてある歯ブラシを取るのがめんどくさかったとのこと。利樹之丞の脳裏には妖怪人間べムの「はやく人間になりた~い!」という歌詞が流れたという。今日から九重部屋へ出稽古。
平成23年11月6日
利樹之丞の観察談はさらにつづく。普段はマワシ姿やジャージ姿しか見る機会はないが、風呂場では全身があらわになる。改めて力士Dの裸身を見ると、腹が重力にまかせてたわわに垂れ下っている。マワシには、女子の胸のごとく寄せて上げる効用もあるのだと知ったという。相撲部屋で力士と一緒に生活していると、ときに旭川動物園や江ノ島水族館なみの面白い発見もある。
平成23年11月7日
鳴戸親方が急逝された。糖尿病を克服して第59代横綱に昇りつめ、厳しい指導で、若の里、稀勢の里ら数多くの関取を育てた。いよいよ今場所は稀勢の里の大関昇進、さらに上へと、これから師匠としての仕事が花開くときであったのに無念であろう。稀勢の里関の今場所が亡き師匠の夢を果たせるよう期待したい。高砂部屋激励会がホテルニューオータニにて行なわれ、たくさんの方々に九州場所に向け熱い応援をいただく。
平成23年11月8日
鳴戸親方は言わずと知れた横綱隆の里である。土俵の鬼初代若乃花の二子山親方に、第56代横綱2代目若乃花の間垣親方と一緒に夜行列車で連れて来られて二人共横綱になった。少し前のベースボールマガジン社「相撲」に手記が出ていたが、糖尿病を患い、力士仲間やタニマチからの誘いも頑なに断り、変わり者と言われながらも節制を重ね、大関、横綱にまで上がった。昇進の前にもいろいろな病気を発症して、入院して点滴を打ちながらも本場所の土俵を務め、白星を死力で勝ち取ってきた。まさに“土俵の鬼”の精神を引き継いだ、最後の力の士(さむらい)であった。
平成23年11月10日
九州場所前夜祭が国際センターで行なわれる。横綱土俵入りや郷土出身力士の紹介、力士のど自慢や初っ切りなど、たくさんの出し物で13日の初日へ向け雰囲気を盛り上げていく。ただ、名古屋や大阪と違って本場所と同じ土俵で行なわれるので(名古屋、大阪は別会場)、呼出しさんにとっては、前夜祭の終わったあと俵を新しく入れ替える作業が行なわれ、いつもより気を使う土俵築となる。
平成23年11月11日
宿舎のある唐人町(とうじんまち)は中央区に在り、天神や中洲にもほど近い。地名の由来は定かではないようだが、港にも近く、唐や高麗との交易盛んなりし頃のグローバルな響きも匂い立ってくる。商店街の歴史は古く(400年前の唐津街道沿いの店から)、アーケードができたのも福岡市内でもかなり早い時期だそう。全国の商店街がシャッター通りとなる中、往時の活況はないにせよ味のある店が軒を連ねヤフードームの最寄り駅としても有名で、日本シリーズを前にホークスの応援旗や横断幕も数多い。その中に高砂部屋の幟も彩りを加えている。
平成23年11月12日
九重部屋への出稽古も昨日までで終わり今日からは部屋での稽古。土曜日とあって見学のお客様もちらほら。お昼前、触れ太鼓。一度11時過ぎに来るもお寺の法事と重なり、九重部屋を先に済ませて再び高砂部屋へ。こちらも地元唐人町商店街の方々が数名見学に。昔は唐人町商店街のアーケードでも触れ太鼓の音が響いていたそうで、来年から復活できないかとの下見も兼ねてのこと。明日の初日は8時50分取組開始。朝赤龍に玉鷲、大関昇進のかかる稀勢の里は旭天鵬、新大関琴奨菊は栃ノ心、横綱白鵬には豊真将。
平成23年11月13日
触れ太鼓の音は相撲好きの人にとって胸高鳴らせる響きがある。相撲に興味のない人でも初めて聞いて感動したという人は多い。先だって日本橋川で能の謡を聞く機会があったが、船上で奏でる和の音は河岸の風景にもマッチして、えも言えぬ情緒があった。川幅もそんなに広くないので両岸や橋上の人々にも音はよく響くようで数多くの方々の注目を集めていた。入場券販売プロジェクトに提案中だが、日本橋川や神田川に船を浮かべて触れ太鼓を響かせるのも相撲情緒を盛り上げるのに一興ではないか。九州場所初日。3勝3敗の滑り出し。
平成23年11月14日
初日の幕下の取組で朱雀対白虎という取組があった。どちらも土俵の四神(四神獣)の名である。それぞれ四季をも表し、朱雀(すざく)が夏で南方の守護神、白虎(びゃっこ)が秋で西方の守護神となっている。春の守護神は青龍(せいりゅう)で東方、冬は玄武(げんぶ)で北方の守護神。昔は四本柱に布を巻いて四神を表わしていたが、昭和27年9月場所より現在の吊屋根からの四房になっている。四神獣は高松塚古墳の壁画にも描かれていることで有名である。四方からの神に見守られた九州場所2日目、今日も3勝3敗の高砂部屋。
平成23年11月15日
四神である青房、赤房、白房、黒房の四房は、陰陽五行説にもつながっている。五行説は古代中国の思想で、万物は木・火・土・金・水からなり、「木」は春、「火」は夏、「土」は季節の変わり目、「金」は秋、「水」は冬を表わすという。青龍の青房が「木」で朱雀の赤房が「火」、白虎の白房が「金」で玄武の黒房が「水」にあたる。残る「土」は万物を育成保護するもので、色でいうと黄色。黄金の実りを表わし四色の房に囲まれた土俵が、そのもの「土」にあたる。
準ご当所熊本出身の朝龍峰2連勝。
平成23年11月17日
朝青龍の「青龍」は、高知県の明徳義塾近くにある「青龍寺(しょうりゅうじ)」に由来する。明徳義塾の校長先生の命名である。四国八十八箇所霊場三六番札所青龍寺は空海ゆかりで中国西安の青龍寺に因んでの名だというから元をたどれば四神の青竜にいきつく。青は漢音読みだと「せい」だが、呉音読みでは「しょう」となる。そういえば朝青龍が三役に上がったばかりの頃、四股名を「あさせいりゅう」とよく読み間違えられて機嫌悪かった。
平成23年11月18日
朝青龍が三役に上がったばかりの頃だから10年近くも前になるだろうか。ある地方都市で若松部屋激励会が行なわれた。壇上には師匠はじめ朝青龍、朝乃若、朝乃翔の三関取が並び、後援会長のご挨拶が始まった。なにぶん高齢で杖をつきつつ登壇しマイクを握る手も握えている。朝青龍を「ワカセイリュウ」と呼び新三役昇進を祝った。次いで「アサノワカ」とは言えたものの出身校を中京高校(正確には名電高校)と間違い、最後に朝乃翔を「ワカノショウ」と言って締めた。間違えっぱなしの会長挨拶に、はじめは機嫌悪そうな顔をしていた朝青龍も、苦笑いを浮かべながらも大きな拍手を送っていた。
平成23年11月19日
今年初アラの差し入れ。取組を終えて部屋に帰ってきたちゃんこ長大子錦が早速チャンコ場のテントの下に大きなマナ板をセットし20kgはあろうかというアラを捌きだす。そこへまた車が一台。荷台からは大きなトロ箱。「朝からそんな予感がしてたんスよ」と包丁を持つ手を止めた大子錦がほっぺたとアゴの下を膨らませて(もともと膨らんでいるのだが)大きなタメ息をつくダブルアラ。おいしいアラが食べられるのも大子錦がいてこそだし、動物園や水族館なみのおもろい生態観察(11月5日6日日記参照)ができるのも大子錦がいてこそのことである(力士Dが大子錦だというわけではないが・・・)
平成23年11月20日
昨日のアラもそうだが、九州場所では福岡ならではの差し入れが多くありがたい。めんたいこは毎日のように食卓に並ぶし、ゴマサバも毎年楽しみな味である。サバの刺し身を醤油、すりゴマ、みりん、わさびなどで和えたゴマサバは博多でしか味わえないおいしさがある。毎年宿舎成道寺(じょうどうじ)のお隣の“佐藤のおばちゃん”がつくってくれるゴマサバをお相撲さんや親方衆もみんな楽しみにしている。豚ミソや塩炊き、ソップ炊きなど味付きのちゃんこのとき、必ずチャンポン麺が入るのも九州場所ならではのことである。
平成23年11月21日
宿舎成道寺(じょうどうじ)に高砂部屋がお世話になりだしたのは昭和36年からだそうで、今年で50年になる。昭和36年九州場所は、5代目高砂の横綱朝潮がまだ現役で大鵬が新横綱の場所。高砂部屋の師匠は4代目の元横綱前田山で、50年の間に師匠が4人代替わりしたことになる。高砂部屋がお世話になる前に朝日山部屋も2年ほど宿舎にしていたそう。男女ノ里、朝興貴負越し。
平成23年11月22日
久々にやっさん登場。仕事帰りに天神で飲んできたらしく今晩は部屋でお泊り。でもまだ飲み足りないとみえ焼酎のキープのある近くのラーメン屋へみんなを誘う。ところがみんな明日の準備やら、すでに布団に入っていたりして誰も誘いにのってくれなくつき合う。一度いけば十年来の常連客になってしまうやっさん、お店のお姉さん相手に息子健人の話。「前は反抗ばかりしよったけど、この間泊まって朝早く仕事にいくとき“体に気つけてよ”と声をかけてくれた」と繰り返す。健人本人もよく知っているお姉さんも「健人君はお父さんに似ず良か子よ」と心なしか目頭が熱い。健人が早朝一番太鼓を叩く日は、国際センターで太鼓を聞いてから天神の職場に出勤するやっさんである。
平成23年11月23日
一年納めの九州場所も11日目を終え残すところあと4日。すでに負越し4人が決定し、勝越し力士は未だ出ず。勝越し第1号となるかと思われた幕下朝弁慶、朝稽古に先日(11月4日日記)博多駅で握手した家族が激励に来て(4歳の男の子はボクもお相撲さんになると言っていた)、部屋の力士たちもパソコンの前で見守るも、叩いて相手を呼び込んでしまい勝越しならず。あすは笹川、朝龍峰が勝越しをかけての相撲。
平成23年11月24日
勝越しをかけた2力士、朝龍峰あっさり負けるも、つづくベテラン笹川が上手をとって電車道の寄りの快心の相撲。12日目にしてようやく今場所初の勝越し力士誕生。朝赤龍が負越し決定するも、朝ノ土佐、朝天舞も最後の一番に望みをつなぐ白星で3勝3敗に星を戻す。朝赤龍は幕内残留をかけての残り3日間、幕下以下力士は5人が3勝3敗で今年最後の一番に勝越しをかける。
平成23年11月25日
3勝3敗力士5人のうち先鋒で登場は朝龍峰。朝出がけに熊本の母親から電話が入っていた。「国際センターにおるけん」。熊本から朝一で応援にかけつけた母親が見守る前での嬉しい勝越し。勝越しを見届けた母親は午後からの仕事にUターン。九州新幹線が鹿児島まで開通し熊本からは40分ほどで博多駅に到着する。鹿児島までもおよそ1時間半である。座布団の目立つ九州場所を盛り上げようと、昨日は高校の同級生が、今日は故郷に戻った名古屋の古くからの知人が、鹿児島から新幹線で桝席での相撲観戦に駆けつけてくれた。入場券販路拡大につなげられる九州新幹線効果であろう。3勝3敗力士残るは4人、次鋒大子錦、中堅朝ノ土佐、副将朝弁慶、大将朝天舞とあす14日目に土俵に上がる。
平成23年11月26日
3勝3敗で最後の一番に臨んだ4力士、まず大子錦が敗れるも、つづく朝ノ土佐、朝弁慶はともに勝って勝越し。幕下3場所目の朝弁慶、過去2場所は1勝6敗に終わって幕下の壁にはね返されていたが、ようやく初の勝越し。これで堂々と博多帯も締められる。場所前また膝を痛め、稽古らしい稽古もできずにの勝越しだから立派なのだが、怪我をしない体にしないと今後の成長が期待できない。今場所も稽古十分だった朝天舞は、残念な負越し。今場所初の満員御礼。
平成23年11月28日
勝越し力士が4人しかいないという成績で終わった九州場所だが、笹川が5勝2敗と一番の好成績であった。しかも勝越し力士第1号でもあった。入門15年目。ベテランの域に入り、膝や腰、肘、肩、・・・年々身体の損傷個所も増えていっているが、本場所の一番に臨む妙な自信は健在で、今場所も勝った相撲は左上手を引いて出足よく若手を圧倒した。その笹川、横綱白鵬が双葉山生誕100年祭に合わせて行なう横綱土俵入りの雲龍型横綱(白鵬は不知火型)の綱締めに指南役として同行することにもなっている。
平成23年11月29日
毎年九州場所後恒例の唐人町商店街でのちゃんこ大会。商店街のアーケードの中に大鍋をセットして豚みそちゃんこ。予想を上回る長蛇の列で、急きょ材料を買い足して汗だくの大子錦。今年は新企画として、外人さんや子供たちとの交流会も行なわれる。呼出し健人が、たっつけ袴に扇子を手にの呼び上げや太鼓実演、朝奄美による四股教室なども。NHKも取材に来ていて、明日朝6時半~7時半頃のニュースでも紹介される模様。本場所後も忙しい日々がつづく。
平成23年11月30日
12月4日(日)双葉山生誕100年記念イベントの一環として、横綱白鵬の奉納横綱土俵入りが宇佐神宮にて行なわれる。日頃から横綱双葉山を崇敬してやまない白鵬、普段は不知火型の土俵入りだが、今回は双葉山が行なっていた雲龍型にて横綱土俵入りを行なう。せり上がりのとき不知火型が両手を大きく広げるのに対し、雲竜型は左手を脇腹にそえるのが大きな違いだが、横綱の後ろの締め方も大きく違う。雲龍型は後ろで結ぶ輪がひとつなのに対し、不知火型は輪が二つになる。11時30分からの奉納土俵入りでは白鵬が初めて雲龍型を披露する。
平成23年12月3日
雲龍型と不知火型は、10代横綱雲龍久吉と11代横綱不知火光右衛門の土俵入りの型が美しく二人の型からとったといわれるが、本来は逆だったという説もあり、論争にもなった。雲龍久吉は、福岡県山門郡大和町出身で、大和町は現在柳川市になっているから琴奨菊の故郷の先輩にもあたる。大和町には雲龍の館があり立派な土俵もあり、毎年相撲大会も行なわれている。不知火光右衛門も熊本県菊池郡の出身で、どちらも九州から出た横綱である。
部屋のチャンコ場のプレハブや家財道具一式、大牟田の倉庫まで引っ越し。明日お昼に全員帰京。
平成23年12月5日
昨日12月4日(日)両国国技館にて第60回の全日本相撲選手権大会が開催されたが、予選と決勝の間に全日本小学生相撲優勝大会も行なわれた。4年生以下、5年生、6年生の部と3学年に分かれ、全国から予選を勝ち抜いてきた各学年33選手が競い合うが、故郷徳之島からも4人が出場。4年生以下の部で3位、5年生の部で2位、6年生の部も2位と、それぞれ大健闘した。いつかこの中から、徳之島ゆかりの四股名“朝潮”を継ぐ力士を誕生させたいと関係者の間では盛り上がっている。
平成23年12月8日
「相撲を取ることよりも、四股やぶつかりで下半身をしっかりつくれ!」という師匠の指示で、通常より開始時間を30分早めて7時から9時頃までみっちり2時間の基礎。四股、腰割りに始まり、すり足、伸脚しながらのすり足、仕上げに二人一組になっての手押し車で土俵を10周。今朝も冷え込みがきびしかったが、ブラックジョークを交えながらの若松親方の厳しい指導に、いい汗かいて息も絶え絶え。基礎のあとの申し合い稽古のほうが、よほど楽に感じられるであろう。
平成23年12月9日
相撲で下半身をつくる基本は四股であり、すり足であるが、若松親方が母校近大の稽古からヒントを得てすり足と伸脚を組み合わせた運動も最近よく行なっている。土俵の端か端まで、すり足で2歩進んでは左右の伸脚を交互に2回ずつ計4回行う。また2歩進んで伸脚左右に4回、端までに3回繰り返す。伸脚というと、単に脚を伸ばすストレッチと思われている方も多いと思うが、相撲の伸脚は、曲げる足のカカトを浮かさずに足裏を全部つけ、股関節と膝を大きく開いてお尻が地面につくほど腰を下ろす。腰を入れ、上半身は起こさなければならない。股割りと腰割り両方を同時に行なうような姿勢になるからからけっこうきつい。さらに膝に手を置かずに左右大きく脚を曲げ伸ばしするのには体の芯の力と股関節の柔軟性が必要になる。
平成23年12月10日
ときどき行なっているシコトレ講座でもカカトを浮かさない「相撲式伸脚」をやってもらうと、夏場はいっぺんに汗がふきだす。寒い時でも身体の芯から温まる。いっぽう、カカトを浮かせ上体を前傾させて行なう伸脚では、膝裏のストレッチ感はあるものの身体の芯から温まる感覚はでてこない。股関節への働きかけも少ない。カカトを浮かさず上体を前傾させないという制限をつくることで、より身体の芯に(インナーマッスル)に働きかける運動になるのであろう。
平成23年12月11日
制限をつくることで、身体の芯が中心が使えるようになってくる。インナーマッスルを使えるようになる。「四股」「すり足」「テッポウ」も同様であろう。上体を前傾させない、ぶらさない、カカトを浮かさない、膝を動かさない、反動を使わない、・・・無駄な動作を極力はぶき、制限のなかで、シンプルに身体を動かすことこそ「型」であり、身体の芯を使った合理的な動きにつながる。「四股」「すり足」「テッポウ」が目指さなければならない動きなのであろう。
平成23年12月12日
今週も部屋での稽古。東京に戻ってから久しぶりに手押し車も復活している。二人一組になり腕立て伏せの姿勢で足首を持ってもらい土俵周りを1周ずつ交互に10周まわる。体重の重い力士には、より負担も大きい。腕の運動でもあるが、腹や腰、全身を使う運動である。面白いもので、三段目以上の力士は何とかこなすが、序二段の朝奄美、朝龍峰は5,6周目あたりから腰の位置が下がり(腹が地面につきそうになり)、ハーハーゼーゼーと息も上がる。そのへんが三段目と序二段の差なのであろう。
平成23年12月13日
手押し車は、下になる方、腕立て伏せの状態で足首を持たれて腕で歩くほうがきついのはもちろんだが、脚をもつほうもけっこういい運動になる。130kg、150kgと重い力士は脚だけでも重いし、手押し車で歩くと左右に大きく体も振られるので、脚を持っている方も全身でしっかり持っていないと落としそうになってしまう。不安定ななかで全身をうまく調和させて力を発揮するのは、より実践的な力の出し方になる。
平成23年12月14日
錦戸部屋が出稽古に来て合同での稽古。錦戸部屋は、元関脇水戸泉の錦戸親方が平成14年12月に高砂部屋から独立して創立した。一番兄弟子の龍神、梅の川は半年余り高砂部屋で生活して移籍したから、昔同じ釜の飯を食った仲間でもある。両力士とも10年選手となり、「いい兄弟子」なのだが、高砂部屋へ来ると、もっと「大兄弟子」がまだまだ健在なので、いささか肩身も狭い。その龍神、先場所より四股名を大子山(だいごやま)と改名。大子錦にあやかってということではなく、大子錦と同じ出身校の大子一高から師匠が命名。番付発表まで本人も知らなかったようで、番付を見てひっくりかえったそう。大子兄弟は、共にいじられキャラで体重も180kg超と共通点は多い。お互い嫌がっているが・・・梅の川も水戸晃と改名してる。
平成23年12月15日
錦戸部屋の他に中村部屋、東関部屋、九重部屋、八角部屋が高砂一門になる。昔(昭和30年頃まで)は一門ごとに巡業に行って、親方や力士の収入もそれぞれの一門ごとの独立採算制であったから、共同体としての意識は強く、部屋が違っても一門内での対戦はなかった。その後、一門ごとの巡業はなくなり日本相撲協会としての巡業が始まり月給制となって一門ごとの共同体としての意識は薄れていっている。昭和40年から同じ一門内でも部屋別の対戦も組まれるようになった。一門は、高砂、出羽海、立浪、時津風、二所ノ関と、五つの一門に大きく分けられている。
平成23年12月16日
一門別巡業は、横綱大関など人気力士がいるかどうかによって集客が大きく左右されたという。人気横綱大関のいる一門の巡業は、勧進元との契約もしやすくお客さんも大入りとなったが、人気力士のいない一門は、巡業地を捜すのにも一苦労で、めったに巡業などない田舎の町を回った。初代若乃花が入幕したての頃の花籠部屋は、売りになる力士は若乃花一人しかいなく、若乃花が若い衆との稽古を延々と見せたという。来年も巡業に呼んでもらえるよう、お客さんを魅了するよう、工夫を凝らした激しい稽古をつづけ驚異的なスタミナと鋼の体をつくっていった。自分たちの生活がかかっているだけに「銭のとれる力士」にならなければという気持ちも強かったであろう。
平成23年12月18日
以下は元房錦の若松親方が一杯飲んだときに面白おかしく語っていたことだから話半分に聞いてもらったほうがいいかもしれない。高砂一門の巡業を一稼業終えると、それぞれの担当の親方衆が勢ぞろいしたという。まん中にどっかり座って場を仕切るのは、もちろん一門の総帥4代目高砂親方(元横綱前田山)。それぞれの巡業地での売り上げをカバンからひっくり返すと、部屋のまん中には札も小銭も入り混じった山ができる。全部揃ったところで、高砂親方が現金の山の半分にトンボを差入れ手元に引き寄せる。「ん!あとは分けろ!」残った半分の山を大山部屋、若松部屋などいくつかの小部屋で分けたという。豪放で気風の良さも伝え聞く前田山なら有り得た話かもしれない。
平成23年12月21日
昨12月20日(火)夜、ホテルニューオータニにて年末恒例の高砂部屋激励会&クリスマスパーティー。厳しい世相にもかかわらずたくさんのお客様にお越しいただき、新しい年が明るい一年となりますよう祝う。ゲストには日本舞踊の市川千代若、ものまねのノブ&フッキーが出演、艶やかで楽しみ満載の舞台で華を添える。今日が初場所番付発表。朝赤龍、東前頭15枚目に残留。幕下朝天舞、三段目朝乃丈もそれぞれギリギリ残留。
平成23年12月22日
番付表には人生がありドラマがある。ときにサプライズもある。改名すると番付表で四股名の上に元の四股名改新しい四股名と書かれるから改名者はすぐわかる。例えば今場所新十両の九重部屋千代大龍は、明月院改千代大龍秀政と記されている。ところが、四股名の下の名前のみを改めた場合は特に表記されないから注意してみないとわからない。先場所、大子山の登場でその四股名が俄然話題になった(もちろん身内のみでの話)大子錦、今場所から「大子錦大伍郎」に改名。番付を折りながら、またまた大きな話題になった。「えーっ!!」と本人が一番ビックリ。先場所までは本名の佳信であったが字画も考えられて「ごろう」の「ご」は人偏つきの「伍」である。ちなみに錦戸部屋大子山は、「大子山太郎」である。
平成23年12月23日
四股名の下の名は本名のままの力士が多いが、大伍郎のように新たにつける場合もたまにある。外国人力士は、本名のままというわけにもいかないから日本的な名前をつける。朝赤龍太郎、隆の山俊太郎、魁聖一郎、鶴竜力三郎、玉鷲一朗のように「太郎」「一郎」が多い。しかしながら把瑠都は凱斗(かいと)。本名が「カイド・ホーヴェルソン」だから本名から名づけられたのであろう。朝青龍は、校長先生の命名で出身校からとった明徳(あきのり)。横綱白鵬は翔(しょう)。こちらは四股名に合わせての命名であろう。ちなみに朝ノ土佐も翔(しょう)。こちらは本名。
平成23年12月27日
一昨日25日は年末恒例のもちつき大会。210kgあまりのもち米が今年も江戸川大ちゃんクラブのご尽力で準備され、当日は埼玉相撲クラブのメンバーも助っ人にきてペッタンペッタン。すべてのお餅をつき終わり片付けにはいったところで周りにはやし立てられ行司木村悟志と呼出し健人による相撲大会。負けず嫌いの両名、滑るシートの上で木村悟志が健人を寄り切るも、体を入れ替えた健人が体(たい)を預けるとツルッとすべって勢いよく重ね餅。幸い大事には至らなかったもののしばし脳震盪の木村悟志。多忙な年末行事も一通り終わり、大掃除をして明後日29日が稽古納め。
平成23年12月28日
東日本大震災が日本中に大きな陰を落とした平成23年。大相撲界も、3月場所の中止、5月技量審査場所という未だかつてない激震の一年となった。ずっと年3回ずつの東京場所、地方場所というリズムで一年を暮らしてきた相撲界の人間にとっては、ずっと東京から動かない期間は一日が長く、ましてや外出もままならない時期もあり、おすもうさんにとっても精神的にもつらい一年となった。そういう影響もあったのかどうか朝赤龍にとっては一年間負越しという不本意な一年。もちろん入門以来初めてのことである。幕下以下は笹川が19勝16敗で年間最多勝。明日若者会から金一封が表彰される。5場所のうち4場所勝越した朝ノ土佐と朝弁慶は、共に一場所の全休がたたり18勝止まり。
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