平成23年1月1日
あけましておめでとうございます
いつもご覧いただきありがとうございます。新年がみなさまにとって、大相撲にとって、高砂部屋にとって良い一年となりますようお祈り申し上げます。今年も、力士の日常や生態、相撲豆知識、相撲の力学、などなど、幅広く、ときには偏って、気ままに紹介して相撲の面白さ奥深さを一人でも多くの人に興味をもっていただけましたら幸いです。本年もよろしくお願い申し上げます。
平成23年1月2日
再び肩甲骨とテッポウについて。腕(かいな)を返すことによりテッポウが全身運動になる。腕(かいな)を返すことによりテッポウがナンバになる。腕(かいな)を返すことにより肩甲骨のローリング運動をおこすことができる。腕(かいな)返すことこそがテッポウをテッポウたらしめる。ベンチプレスや腕立て伏せとは別次元の運動にする。江戸時代から追い求めてきた合理的な身体の使い方を磨く術(すべ)ではないか。
平成23年1月3日
高岡英夫『究極の身体』によると、体重600kgのバッファローがジープでやっと追いつけるほどのスピードをキープしたまま大草原を丸一日走り続けたりチーターが時速110kmのスピードを出すことができるのも、肩甲骨のローリング運動によるものだという。四足動物のものすごいスピードや力強さは、曲げ伸ばしの往復運動では決して実現することができなくローリング運動によって初めて可能になる。稽古始め。稽古終了後、5代目、6代目のお墓参り。
平成23年1月4日
腕(かいな)を返してテッポウを行うと肩甲骨が動く。腕(うで)と一緒に肩甲骨を動かすことが全身を使うことにつながる。固まりやすい肩甲骨まわりもほぐれる。そう考えると、肩甲骨は下半身における大腰筋(だいようきん)の働きに似ている。脚と一緒に大腰筋を動かすことができれば全身がスムーズに力強く使える(腰が強くなる)。固まりやすい股関節まわりもほぐれる。逆に股関節まわりがほぐれないと大腰筋が使えないから、肩甲骨まわりをほぐさないと肩甲骨も動かせないともいえるが。
平成23年1月5日
肩甲骨や大腰筋、股関節について考えると、どちらも先についている腕や脚と方向を揃えることがポイントになってくる。肩甲骨と上腕骨の向きが揃ったとき、背中の筋肉も使え大きな力を発揮することができる。股関節から膝、つま先の向きが揃ったとき、腰が割れ大腰筋が使えるようになり、しなやかで強い足腰を発揮できる。筑波大学の白木教授がいう股関節がはまった状態となる。いわばねじらないことであり、方向を揃えねじらないことこそが、「ナンバ」だといえる。
平成23年1月6日
「蹴らない」「ねじらない」「踏ん張らない」動きがナンバである。「蹴らない」「ねじらない」「踏ん張らない」動きで思い浮かぶのが双葉山の相撲である。双葉山の相撲は、立合い土俵を蹴ることなくスッと足を出し、相手に攻め込まれても踏ん張ることなく小刻みに足を動かし相手を捌き、投げやうっちゃりのときも重力を利用して回転させるだけである。力みがまったく感じられない。それでいて最大の力を発揮する。双葉山は「ナンバ」で相撲を取りきっていたのであろう。
平成23年1月7日
肩甲骨とテッポウの話から広がりすぎてしまった。固まりやすい肩甲骨を動かすには「腕(かいな)を返す」テッポウの動きがお薦めということである。腰割りが股関節の気持ちよいポジションを追求するのと同様、テッポウでは肩甲骨が気持ちよく動けるポジションを探るのがポイントになる。その中で「腕(かいな)を返す」動きは必須になる。股関節の可動域を広げる「股割り」が、肩甲骨まわりの可動域を広げる「肩甲骨ストレッチ」にあたるといえる。取組編成会議。初日朝赤龍は旭天鵬、横綱白鵬には鶴竜。
平成23年1月8日
♪トン トトン ストトトトトン・・・♪触れ太鼓が稽古場に乾いた高い音を響かせ、呼出しさんによって「相撲はあすが~ 初日じゃんぞーえ」「朝赤龍に~は 旭天鵬じゃんぞーえ」と初日後半戦の顔触れ(取組)が呼び上げられる。昔からつづく相撲風情を感じるときである。触れ太鼓は、国技館土俵にて午前10時より行なわれた土俵祭のあと土俵の周りを左回りに3周まわって町へと繰り出すことになっているそう。さいごは「ご油断ではつまりますぞーえ」で締める。
平成23年1月9日
早朝の空気は冷たかったものの青空が広がった初場所初日。午前8時、その澄んだ青空に響けとばかりに国技館正面玄関横の櫓の上で一番太鼓が叩かれ、乾いた太鼓の音とともに国技館正門が開場されお客さんを迎え入れる。櫓の高さは17m、2人の呼出しさんが交替で30分間叩き続け、8時半から序ノ口の取組が開始。結びの一番のあとの弓取り式が終わると同時に再び櫓の上で叩かれるはね太鼓でお客さんを送り出す。平成になって19回目の天覧相撲の初日。
平成23年1月10日
太鼓には、触れ太鼓のときに叩く「寄せ太鼓」、開場とともに櫓の上で叩く「一番太鼓」、現在は叩かれなくなったが関取衆の場所入姿を連想して叩かれたという「二番太鼓」、相撲終了後お客さんを送り出すときに叩かれる「はね太鼓」がある。巡業や花相撲のときに打ち分け実演が行なわれるが、リズムやテンポに微妙な違いがある。今年成人式を迎えた朝興貴が白星。朝龍峰は黒星。
平成23年1月11日
おととい櫓の高さは17mと書いたが、現在の櫓は19mだという。紹介してあるように鉄骨組みでエレベーターで上にあがる。ただし最上部へは何段かは梯子も登らなければならなく、太鼓を叩く場所はもちろん吹きっさらしである。櫓の上で一番太鼓を叩くのは序ノ口・序二段格の呼出しの仕事になるようで、最低気温が1℃まで下がった今朝の櫓の上では呼出し健人が8時から30分間太鼓を叩いた。今場所は6日目と9日目にも櫓に上るそう。
平成23年1月12日
国技館の櫓はエレベーター付の鉄骨製になったが、地方場所ではそうもいかない。それでも大阪、福岡は会場の建物の上に設置されているから櫓自体はそんなに高くないが、名古屋は昔ながらの丸太組である。架けてある梯子を一段ずつ登っていく。まず一人登り、ロープで太鼓をひっぱり上げてからもう一人が登る。風のある日などかなりびびるそう。(健人談)
平成23年1月13日
BS大相撲中継で出身地別の関取(十両以上)の人数を紹介していた。一番多いのはモンゴルで 14人、2位が青森県の8人、以下3人の茨城、東京、高知、・・・とつづく。逆に関取が一人もいない県が20県以上半数近くもある。横綱武蔵山、大関若羽黒を輩出した神奈川県も現在は関取がいない。放送では、平成12年7月場所の朝乃翔以来関取りが途絶えていると紹介されていたが、朝乃翔以来の関取を目指す神奈川県平塚市出身の朝弁慶2勝目。高知県出身の朝ノ土佐、兵庫県出身の朝興貴が3連勝。
平成23年1月14日
「一番太鼓」は昔は朝の2時か3時頃に打たれたという。“朝の打ち込み”と称して天下泰平、五穀豊穣を祈って打つ。巡業でも一番太鼓の合図で若い力士の稽古が始まったそうだが、現在は騒音防止条例もあり午前8時から30分間だけ打たれることになっている。「寄せ太鼓」は、江戸・明治初期に相撲協会が会所と呼ばれた頃、相談事が起きた時に親方衆や関取衆を呼び寄せるために打たれた太鼓で、入りが一番太鼓と微妙に違うそう。別名“清めの太鼓”とも呼ばれ土俵を清めるためにも打たれ、そのまま街へ「触れ太鼓」として繰り出す。
平成23年1月15日
太鼓は落語や歌舞伎の世界にもある。寄席でも、開場のときに打つのを「一番太鼓」、開演五分前に打つのを「二番太鼓」、終わりに打つのを「はね太鼓」というそうで、お客様が帰る様を「テンテンバラバラ テンテンバラバラ」と打つのも相撲と同じである。元は同じ大衆芸能の面もあるから当然と言えば当然だが。ただ同じ太鼓でも相撲の太鼓の方が皮の張りが強く、高く乾いた音の響きになる。室内で叩くのと屋外で叩くのの違いなのであろうか。男女ノ里負越し。
平成23年1月16日
巡業や花相撲(引退相撲など)のとき、櫓太鼓打ち分け実演を行う。土俵の上に太鼓を置き、座布団に正座した呼出しさんが「寄せ太鼓」「一番太鼓」「はね太鼓」と打ち分ける。相撲甚句や初っ切りと並び巡業などでは欠かせないお好み(余興)である。太鼓打ち分けは、太鼓名人として名高い呼出し太郎が昭和26年から始めたものだそう。朝興貴、4連勝での勝越し第1号。
平成23年1月17日
呼出し太郎は明治21年本所南二葉町(現墨田区亀沢)の生まれで、生家の隣が初代朝潮太郎の家だったこともあり11歳で呼出しに入門、朝潮にあやかって「太郎」と名乗ったという。「太鼓名人」「呼出しの親分」と異名をとり名物呼出しとして名が高かった。呼出し太郎一代記には明治時代の両国や本所の様子、ちゃんこや巡業の話も生々しく語られていて非常に興味深く面白い。
平成23年1月18日
明治時代、現在の墨田区は本所区といった。呼出し太郎が入門した明治31年ころは、「昼間でも狸が出るという下屋敷跡の寂しい野っ原が各所にあって、いまの錦糸掘、割下水はその頃、俗に「オイテケ堀」と呼ばれていた」とある。本所は、江戸時代に低湿地だった土地を開削し造成された街で、大名屋敷や旗本・御家人の屋敷が並んでいた。勝海舟が生まれたのも本所亀沢町である。朝ノ土佐、朝龍峰勝越し。
平成23年1月19日
司馬遼太郎『街道をゆく36-本所深川散歩』に本所の歴史が詳しい。そもそも江戸に多かった火事対策で火除地(空地)をつくるため大名屋敷などの代替地として幕府によって造成されたという。水はけをよくするため、北十間川、大横川、南北の割下水、などの運河や堀が人の手によって掘られ街が造られた。元禄元年(1688)造成が完了して、大名屋敷や大小旗本屋敷が移住した。現在、大横川は親水公園になり、南割下水は北斎通り、北割下水は春日通りに姿を変えている。大子錦、朝天舞勝越し。今場所早くも勝越し6人目。
平成23年1月20日
本所松坂町という町名は赤穂浪士の討ち入りでよく知られている。刃傷松ノ廊下は元禄14年(1701)3月14日のことで、事件後吉良邸は江戸城近くから本所(当時の地名は本所一ツ目)へ移された。西側の裏門は回向院に通じ2500坪以上の大きな屋敷だったという。現在は、両国3丁目の一角に大きな吉良邸跡の一部が記念碑として残されている。朝興貴5勝目。あと1勝すれば三段目昇進という希望も出てきた。朝弁慶も勝越し。昨日勝越した朝天舞と共に最後の一番に幕下復帰をかける。
平成23年1月21日
割下水は、もともと田畑への用水路だったという。本所が市街化されて下水になった。下水といっても水はきれいで、屋敷の池に割下水から水が引かれていたりもしたらしい。幅二間(3.6mあまり)で両岸には木柵が施され、両岸のほとんどが旗本屋敷だったが大名屋敷がひとつだけあった。津軽越中守上屋敷で、その隣の中屋敷跡に明治になって(11年)初代高砂浦五郎が高砂部屋を構えた。1000坪の敷地には庭園や池もあったという。朝ノ土佐5勝目。
平成23年1月22日
南割下水(現北斎通り)沿いの津軽藩上屋敷跡の変遷については、雑誌NHK大相撲中継初場所号掲載の元NHKプロデューサー佐藤桂氏「両国いまむかし」に詳しい。上屋敷は南側が現在の京葉道路まであり敷地8000坪だったという。明治17年上屋敷跡の鬼門(北東)に初代高砂浦五郎が野見宿禰神社を創建し土俵も築いた(部屋は神社の東向い)。初代高砂没後、宿禰神社を協会が管理、その後初代の弟子浪ノ音に管理が引き継がれ境内に振分部屋を構え、震災と大空襲から神社を守った。 朝弁慶幕下復帰を決める5勝目。大子錦も5勝目。朝奄美今場所8人目となる勝越し。後半戦の追い上げならず朝赤龍負越し。
平成23年1月23日
津軽屋敷跡南側京葉道路沿いには歌舞伎劇場寿座があった。一時廃絶したが明治31年に歌舞伎小芝居劇場として復活、庶民の楽しみの場として賑わったものの昭和20年大空襲で焼失。芥川龍之介の小説にも登場するそう。初代高砂浦五郎没(明治33年)後、2代目を元関脇高見山宗五郎が継ぎ部屋は京葉道路を越えた緑小学校の近くに移り、2代目没(大正3年)後、元大関2代目朝潮太郎が3代目となり寿座の近くに部屋を構えた。朝天舞幕下復帰濃厚となる5勝目。笹川も5勝目、こちらも三段目復帰濃厚。午後6時半より千秋楽打上。
平成23年1月24日
2代目没後、後継者争いで部屋が分裂し力士数が半減した。結局、大正時代の名大関2代目朝潮が3代目高砂浦五郎を襲名。ちょうど同じころ元横綱太刀山の東関が検査役選出に敗れ角界を去ることになり、36人の弟子と両国駅前の部屋を盟友3代目高砂に譲ったという。再び一挙に大部屋となり、大関太刀光、横綱男女ノ川、横綱前田山らが誕生した。今日から1週間の場所休み。
平成23年1月25日
平成14年3月に定年になった元副立呼出し三平さんは、三重県一志町の生まれで昭和25年12歳で入門した。二枚鑑札(現役で親方も兼ねる)だった横綱前田山がちょうど引退したばかりで、4代目高砂の時代である。部屋は、戦前からの両国駅前の和風の建物で、立派な門構えに中庭もあり、長い廊下があった。12歳の呼出し三太郎(後の三平さん)にとっては、呼出しの仕事よりも、真冬の冷たい水で雑巾を絞って、長い廊下から天井、玄関の門などを拭き掃除するのが本当に辛かったという。
平成23年1月26日
その後昭和40年代になって、部屋は鉄筋コンクリートの4階建てに建て替えられた。当時はまだ土俵の上には住居をつくらないという考えもあり、4階が稽古場であった。ここから横綱朝潮、宮錦、島錦、若前田、大田山、及川、愛宕山、富士錦などの関取衆が育ち、ハワイから高見山も入門した。4代目没(昭和46年)後、元横綱朝潮が5代目を継ぎ両国から隅田川を渡った柳橋へと部屋は移った。
平成23年1月27日
三平さんは、高砂部屋で呼出しをしていた叔父さんに誘われて入門した。叔父さんは呼出し多賀之丞という。多賀之丞は、もともと三重県で保険の外交員のかたわら消防団長も務めながら義太夫語りや素人相撲の呼出しをやっていた。縁あって高砂一門の巡業のときには手伝い、昭和13年には高砂親方(3代目か)から呼出し免除を与えられた。その後高砂一門の呼出しが人手不足になり正式に呼出しとして採用。お客さんから歓声が上がるほどのよく通る声で、中年からの中途採用にもかかわらず、結び前3番を、これまた美声で名高い呼出し小鉄と交互に務めたという。
平成23年1月28日
呼出し多賀之丞は声量豊かな呼び上げが評判だったが、“甚句の名手”としても名高かった。唄い手としてはもちろん、作詞にも見事な才能を発揮した。今でも名作としてよく唄われる「花づくし」や「出世鑑」、終戦直後につくられた新生日本などはみんな多賀之丞作である。“されど忘るな同胞(はらから)よ あの有名な韓信が 股を潜(くぐ)りし例(ためし)あり 花の司の牡丹でも 冬は籠(こも)りて寒凌ぐ ・・・ やがて訪ずる春を待ち パッと咲かせよ桜花” と唄う「新生日本」は、戦後、巣鴨の戦犯収容所を慰問に行った際に多賀之丞自ら唄い、A級B級戦犯の方々が涙を流して喜んだという。
平成23年1月29日
呼出し多賀之丞は、昭和30年代になって後進に道を譲ると言ってやめていったが、中途入門なのに声が良いことから先輩を出し抜いて立呼出しをやっていたことに仲間のねたみやいじめがあったとか、女性問題もあったとか、名人らしく謎に包まれた引き際だったよう。相撲甚句はその後、床寿、利樹之丞と高砂部屋で名人芸が引き継がれている。利樹之丞は、もちろん多賀之丞にちなんでの名である。
平成23年1月30日
3代目高砂浦五郎は、明治12年愛媛県新居郡玉津村(現西条市)の生まれ。本名坪井長吉。怪力で名を馳せ同じ愛媛県出身の初代朝汐に憧れ入門。はじめ朝嵐長太郎の四股名で、関脇になって2代目朝汐太郎を継承。のちに朝潮となって大関に昇進。右を差したら無類の強さを発揮し「右差し五万石」とも「右差し百万石」ともいわれたという。西条市大町には記念碑もある。
平成23年1月31日
愛媛県は高砂部屋とは縁が深く、初代朝汐太郎も愛媛県の出身である。初代朝汐は本名増原太郎吉といい江戸末期宇和郡八幡浜浦(現八幡浜市)の生まれ。7歳で1斗樽(18L)を持ち上げたという怪童で、明治16年17歳で大阪相撲押尾川部屋に入門。故郷に因んで朝汐太郎と名乗り、明治22年に東京相撲初代高砂のもとに移籍。明治31年、小錦と共に大関に昇進、在位6年で名大関と謳われた。明治36年に陥落するも平幕でも取り続け明治41年引退。42歳頃まで現役だったことになる。八幡浜市には記念碑が建立されている。
平成23年2月1日
初代朝汐太郎が大関在位中の明治33年、八幡浜で大相撲巡業があり、故郷に錦を飾った。その巡業の折、観客のため一夜にして丸太で橋を架け、のちに石橋に架けかえられて朝汐橋と名付けられたという。現在も地名として残っている。大阪市内にも朝潮橋という駅名があるが、こちらはあまり関係なさそう。酒豪でならし酒一斗(18L)を飲み干したという。大正9年56歳で逝去。
平成23年2月2日
2代目朝潮太郎となったのは、前記愛媛県西条市出身の3代目高砂浦五郎。その後、昭和4年から7年まで3代目朝潮の名が番付に復活。のちの横綱男女ノ川が一時期朝潮を名乗っていた。こちらは本名から朝潮供次郎。4代目朝潮は、徳之島出身の46代横綱朝潮太郎。そして現師匠が5代目朝潮となる。(男女ノ川を入れずに横綱朝潮を3代目、現師匠を4代目としている資料も多いが)いずれにせよ朝潮を名乗った力士はすべて横綱・大関となっている。6代目朝潮が現れるのはいつの日か。
平成23年2月3日
元横綱前田山の4代目高砂浦五郎も愛媛県西宇和郡喜須来村(現八幡浜市)の出身。3代目高砂一行が八幡浜に巡業にきたときの縁で高砂部屋入門。幼少のころから暴れん坊で有名で、相撲っぷりも闘志溢れ張り手を交えた突っ張りを得意として優勝1回。戦後初の横綱となったが、休場中に来日した大リーグの野球観戦に行って問題となり引退。再び激震となった大相撲界、6日(日)開催の大相撲トーナメントと11日(金)開催の福祉大相撲が中止となる。一日も早く事態が収拾することを願うばかりである。
平成23年2月4日
第39代横綱前田山に関しては、同じ愛媛県出身の今田柔全氏が『 どかんかい 』(BAB出版局)という本を出している。-国際化を駆け抜けた男ー張り手一代、前田山英五郎 と題して前田山の生涯を綴り、前書きには「豪放無類、和魂洋才、波乱万丈の生涯を送った前田山感動の記録」とある。
平成23年2月5日
床寿さんが入門したとき(昭和34年)の師匠が元横綱前田山の4代目高砂浦五郎である。ときおり話を聞かせてもらったが、弟子も100人近くいて、師匠が風呂に入るときには関取衆が背中を流したそうで、今では想像できないような貫録、威厳があったという。厳しかったが、当時は貴重品だった高級ウイスキーを嗜み、たまに「あんちゃん、一杯飲め」とやさしい気遣いもみせてくれたそう。食事に出かけたときなど「ご注文は?」と尋ねられると「あるもん全部もってこい!!」と豪快を絵にかいたような親方だったという。あす発売予定だった大阪春場所前売りが延期となる。
平成23年2月6日
今田柔全『どかんかい』には前田山の、まさに豪放無類、波乱万丈の生涯が紹介されている。昭和4年15歳のとき喜木山(ききやま)として初土俵。その後佐田岬と改名して番付を上げていくが飲んで暴れて破門。赦されて復帰するも再び騒動を起こして自ら飛び出す。再び復帰後19歳で十両昇進を決めるが当時の医療技術では不治とされていた右腕骨髄炎を患い5度の手術。1年余りの休場中に飲んで警官との乱闘騒ぎでまた破門。再度赦され復帰、親身になって困難な手術をしてくれた慶応大学前田和三郎博士の恩に報いるよう前田山と改名、再十両をつかむ。3月場所中止が決定。事態を深刻に受け止め一日でも早い信頼回復に全員で努めなければならない。
平成23年2月7日
心機一転、前田山と改名して土俵に上がってからは快進撃で番付を上げていった。1年間の休場で番付は三段目まで落ちてしまったが復帰場所を5勝1敗、翌場所幕下に戻って10勝1敗で幕下優勝、再十両となった。十両でも昭和11年春場所8勝3敗、つづく夏場所では10勝1敗で優勝、十両2場所通過で新入幕を決めた(当時は年2場所)。入幕しても勢いは衰えず、7勝4敗、9勝4敗(双葉山人気でこの場所から13日間になった)と勝越しを続け昭和13年春場所には新小結に昇進した。
平成23年2月8日
新小結の昭和13年春場所、いきなり11勝2敗と準優勝の成績。連勝をつづける双葉山には敗れたものの、横綱玉錦を取り直しの末破り、大関陣が低迷していたおかげもあって、翌場所の大関昇進が決まる。181cm。120kgの体から激しい突っ張りと張り手を武器として9年余り大関を務め、昭和17年1月からは三代目高砂親方廃業のため現役大関のまま二枚鑑札で4代目高砂を継承。昭和19年11月場所には初優勝。昭和22年で第39代横綱に昇進した。
平成23年2月9日
高砂一門の総帥となった大関前田山。年2回の本場所と巡業などで食いつないでいくが、だんだん戦局は悪化。昭和19年、国技館は軍に接収され夏場所は後楽園球場にて晴天10日間の開催。東京への空襲も激しくなってきたため20年春場所を繰り上げて19年10月に秋場所として開催。場所は同じく後楽園球場晴天10日間。この場所前田山は千秋楽横綱羽黒山を破り9勝1敗の成績で初優勝。昭和20年に入り、3月の東京大空襲で高砂部屋も全焼。何人かの弟子を連れて故郷愛媛へ疎開。6月、焼けただれて穴のあいた国技館で非公開7日間の夏場所開催。前田山も弟子を連れて上京。
平成23年2月10日
昭和30年刊行の相馬基『相撲五十年』(時事通信社)に戦時下の相撲界の様子が詳しい。昭和17年になると戦時色も強まり、場内飲酒禁止となり土俵を軍服姿が取り囲み、壁や柱には戦時ポスターや軍の宣伝幕が張り巡らされた。力士の浴衣も「体力奉公」と染め抜いたものに統一された。力士の軍事教練も行なわれ、19年秋からは勤労隊を組織して軍需工場に出向いた。応召もつづいた。昭和20年3月9日から10日にかけての大空襲で両国は焼け野原となり、関脇豊島、小結松浦潟の両力士が犠牲となった。
平成23年2月11日
関脇豊島は大阪出身で興国高校(当時は興国商業中学)柔道部。柔道三段の腕前を買われ昭和12年出羽ノ海部屋入門。朝興貴の直接の先輩にあたる。167cm126kgの体で押し相撲に徹し3年で新十両、4年で新入幕。昭和17年1月には横綱双葉山と対戦、立合い一気の出足で金星。双葉山からは19年11月にも金星をあげている。おおいに将来を嘱望されたが疎開する前夜に大空襲に遭い、隅田川沿いに逃れたものの浅草東武電車の鉄橋下で絶命していたという。享年25歳。
平成23年2月12日
8月終戦となり力士達もひとり二人と両国へ戻ってきた。ほとんどの部屋は焼けてしまったが、出羽ノ海、春日野、立浪の三部屋だけは何とか形をとどめていたいたという。伊勢ケ浜部屋、高島部屋は湘南に、二所ノ関部屋は高円寺のお寺に、双葉山道場(現時津風部屋)は大宮の幼稚園を仮住まいとし、11月5日にはザラ紙で番付が発表された。弾痕も生々しく屋根には穴が開き廃墟の中にそそり立つ国技館で11月16日から晴天10日間興業で秋場所を開催。初日から休場していた双葉山が9日目に引退声明を発表した。
平成23年2月13日
終戦から3カ月。食うや食わずの騒然としたなかでの秋場所開催。新弟子が入門するはずもなく、前相撲、序ノ口はなかった。復員してきたばかりの坊主頭の力士もいて多くの力士が体重を減らしていたが熱戦が繰り広げられ、新大関東富士9勝1敗の活躍、新入幕千代ノ山が横綱羽黒山とともに全勝して人気を博し、7日目は満員御礼となった。大相撲は、敗戦に打ちひしがれた焼け跡で復興に向け歩み始めた日本人の希望の光だった。
平成23年2月14日
20年秋場所終了後、国技館は進駐軍に接収、アイススケートリンクに改造されメモリアル・ホールと改称された。本場所が終わり、食糧難、交通事情もあり、食料をもとめて農村漁村などで一門ごとに巡業が行なわれた。高砂部屋は再び前田山の故郷愛媛に戻った。21年は4月に京都で10日間、6月に大阪阿倍野で11日間の準場所を開催。11月ようやく進駐軍から許可が下りメモリアルホールを借りての秋場所を13日間開催。以後メモリアルホールの使用が許可されることはなかった。バレンタインデー、おかみさんから全員にチョコレートが配られる。
平成23年2月15日
GHQ(連合国軍総司令部)との折衝は元前頭筆頭出羽ノ花の武蔵川が行なった。メモリアルホールの使用を懇請したが「ノー」であった。それなら明治神宮外苑をと考えたが、担当将校が日本人嫌いということで秘書の日本人が合わせてもくれなかった。事務員や秘書に侮蔑されながらも何日も通いようやく許可された。昭和22年は夏場所を6月1日から晴天10日間、秋場所を11月3日から11日間明治神宮外苑で挙行した。高砂部屋も再建され、前田山も弟子を連れて両国に戻った。夏場所初めての試みとなった優勝決定戦に進出した前田山、優勝こそのがしたものの場所後に横綱に推挙された。全力士献血(但し血液検査での正常者のみ)。
平成23年2月16日
当時の横綱免許は熊本の吉田司家(相撲の故実を伝える家)から授与されていた。横綱推挙に先立ち、番付編成会議でも賛否両論に分かれ2時間以上もめたが、混乱期での9年5カ月という長期の大関在位の労が認められ推挙された。しかし、吉田司家から「人格が横綱としてふさわしくない」と待ったがかかる。結局免許状に、「別に粗暴の振舞ある節は、この免許を取り消す」という但し書きが加えられて戦後初となる39代横綱前田山が誕生。どこかで聞いたような話でもある。
平成23年2月17日
例年なら大阪先発の準備で慌ただしくなっている頃であるが、大阪行きが中止となり東京での単調な日々がつづいている。そんな中、稽古後の風呂場で事件は起こった。風呂には力士用の木製の大きな腰かけが置いてあるが、それに足をかけて石鹸で体を洗っていた笹川の姿が、湯船に浸かっていた朝ノ土佐の視界から突然消え、ゴーンという大きな音。見ると、脚が根元からきれいに折れぺしゃんこにつぶれたイスと、うつぶせのままピクリとも動かない笹川の裸体。3分後ようやく起き上がってきた笹川、稽古でもやらない久しぶりの激しいぶちかましで目を腫らしてしまった。幼少の頃は親がジャニーズ入りも真剣に考えたという笹川、幸いにも今は少々崩れてもそんなに影響はなくなっている。
平成23年2月18日
ちゃんこ長大子錦、地方場所先発隊長でもある。190kg(2月の健康診断では189kgだったと自己申告しているが)の巨体だが、テレビの配線や縫い物なども器用にこなし親方や資格者の部屋のセッティング等、先発隊になくてはならない存在である。また農業科卒で耕運機の扱いにも慣れていて、土俵崩し隊長でもある。相撲は引っ張り込むだけだが、日常生活ではいろんな特技を持っている。そんなちゃんこ長大子錦にとっても、一番差し入れの多い大阪場所中止は、毎日のちゃんこのメニューを考えるうえでも頭を悩ますところで、悩みすぎてまた太ってしまうかもしれない。アンコは悩むと食って寝てしまう習性がある。ような気がする。いつも寝ているだけのことかもしれない。
平成23年2月19日
平成24年度から中学体育の授業で武道が必修になる。剣道や柔道と並んで相撲も選択科目のひとつに入るから一人でも多くの中学生に相撲に親しんでもらいたいものだが、お相撲さんと実際接する機会があると相撲をより身近に感じてくれることであろう。毎年名古屋場所の折には東海相撲連盟・愛知県相撲連盟の会長を務める近藤弘行氏が、刈谷市で親方や朝赤龍、大関把瑠都らの学校訪問やファンとの交流の場を設けてくれている。長年、相撲の振興発展に尽力しつづけている近藤氏にこのほど武道功労章が贈られた。こういう方の恩に報いるためにも一日も早く大相撲も再生しなければならない。
平成23年2月20日
毎日夕方になると地下からラップが聞こえてくる。ラップのリズムにのりながら重いダンベルやバーベルが上下させているのは朝天舞。以前から小さい体を補うために筋力トレーニングをよくやっていたが、横綱がいるときは付人稼業や巡業、現在は場所中審判の付人とまとまった自分の時間はなかなかとれない。久しぶりの幕下復帰となる大阪場所中止は残念だが、入門以来はじめてじっくりとトレーニングに取り組めると嬉々として筋力アップに励んでいる。ラップで磨いた集中力は体に染みついていて、ときに本場所の土俵上でも発揮されている。
平成23年2月21日
弓取式は覚えるのに時間がかかる。横綱の部屋の力士がやるのが通例だが、男女ノ里のあと、宮城野部屋の一門の力士が巡業等で練習して覚えるまで九重部屋千代の花が務めていた。その千代の花が初場所で引退、あとを引き継ぐはずの力士が怪我で当分休場となってしまい、再び男女ノ里にお鉢が回ってきた。春場所からまた一年ぶりに弓を振る予定だったが、こちらも延期となった。本来ならば昨日から大阪先発隊出発。大阪の関係者からも「今年はさびしいなぁ」と連絡がはいってくる。年一度の大阪場所を楽しみにしていた方々には誠に申し訳ない限りである。
平成23年2月22日
もともと大阪には大阪相撲があった。歴史は江戸時代にさかのぼり、京都相撲とともに盛んだったが、江戸に谷風、雷電などの強豪力士が現れ、だんだん江戸相撲におされていった。明治になって大阪相撲協会ができ、大正8年には新世界に7000人収容の大阪国技館もできた。昭和2年に東西の相撲協会が合併して、昭和12年には大阪旭区関目に大阪大国技館も造られている。円型4階建てで収容定員は25,000人の大きな建物だったという。開館記念に双葉山と清水川の三段構えが披露されたが、7回準場所を開催しただけで軍需工場となり、その後接収された。
平成23年2月23日
相撲が国技と称されるようになったのは、明治42年6月両国に相撲常設館が建てられ国技館と命名されてからである。「国技館」の響きは当時としてもかなり人気が高かったようで、全国各地でブームとなった。同年12月に横浜に、横浜の国技館と呼ばれた「横浜常設館」(収容2,000人)。 明治45年には収容12,000人の「浅草国技館」、京都市中京区に「京都国技館」(収容3,500人)。大正2年には「熊本肥後相撲館」、大正3年名古屋市中区に「名古屋国技館」(収容8,800人)、大正4年には「富山国技館」。そして前記の大正8年「大阪国技館」同12年の「大阪大国技館」と、国技館建設ラッシュがつづいた。夢のような話だが、現在、東京ドームを皮切りに全国にドーム球場が建てられているようなものである。
平成23年2月24日
国技館の命名については風見明『相撲、国技となる』(大修館書店)に詳しい。明治42年6月2日が開館式であったが、直前の5月29日になってもまだ決まらなかった。板垣退助を委員長とする常設館委員会では「尚武館」「相撲館」「武育館」などの案がでるもまとまらず協会へ一任。結局、尾車検査役が文筆家江見水蔭作成の「初興業披露状」の中にある「・・・そもそも角力は日本の国技、歴代の朝廷之を奨励せられ、・・・」をヒントに国技館と命名された。
平成23年2月25日
「板垣死すとも自由は死せず」で有名な板垣退助は、好角家として知られていた。国技館建設には建設委員長として奔走し、高知市の実家には相撲場があり力士も20人ほど養成していたという。横綱太刀山入門のときには後援していた友綱親方に頼まれて間に入り、富山県知事や 内務大臣西郷従道までもを担ぎ出し説得して入門させた。太刀山の四股名も板垣退助の命名による。
平成23年2月26日
現在高知県出身の力士は、栃煌山、豊ノ島、土佐豊と幕内に3人もいる。先ごろ引退した土佐ノ海もそうであるし、近年ではなんといっても師匠大関朝潮がいる。少しさかのぼれば関脇荒勢もいた。もともと高校相撲も強く、朝青龍や朝赤龍の明徳義塾をはじめとして強豪校がひしめき高知市内には立派な相撲場もある。相撲が盛んな県としての今日の隆盛も、板垣退助の相撲好きに端を発したことなのかもしれない。
平成23年2月27日
高知県は、江戸時代にはさしたる力士もいなかったが、板垣邸の稽古場で修業した香美郡出身の初代海山太郎が大阪相撲で関脇まで昇進。その後東京の玉垣部屋へ移り、前頭筆頭まですすんだ。明治24年5月引退後、板垣伯爵のバックアップもあり友綱を襲名して部屋を創設。前述の横綱太刀山(富山出身)はじめ、高知県出身だけでも大関八幡山、大関国見山、関脇2代目海山、小結矢筈山らを育て、最盛期には幕内20余名、力士150名の大部屋になったという。高知市出身の2代目海山は引退後独立、二所ノ関部屋を創設して、同じく高知市出身の横綱玉錦へと引き継がれた。
平成23年2月28日
風が吹けば桶屋が儲かる例えでいえば、板垣退助伯爵の相撲好きが高じて友綱部屋が創設され、高知県出身の力士が増えた。身近に力士がいると相撲ファンが増え、ますます盛んになる。アマチュア相撲も盛んになり、大相撲へ入門する人間も増えてくる。板垣伯爵のおかげで、大関朝潮が生まれ、朝ノ土佐(土佐市出身)、朝乃丈(安芸市出身)が高砂部屋に入門して頑張っている、ともいえる。1月場所成績による新地位が各部屋に配布される。朝赤龍は前頭9枚目。幕下以下は非公表なので、次回番付発表までお待ちください。
平成23年3月1日
相撲年齢という言葉がある。相撲を始めてからの年齢で、小学生から相撲を始めていれば実年齢が20代後半でも相撲年齢20年のベテランとなるし、20歳を過ぎて入門し相撲を始めれば同じ20代後半でも相撲年齢は10年にも満たずまだまだ若い。朝ノ土佐は相撲が盛んな高知で小学生の頃から相撲を始め、わんぱく、中高と全国大会も経験して入門、若い衆の中では中心的存在である。相撲年齢も長くなりすぎるとモチベーションを保つのが難しく体調不良もつづき三段目での生活が増えてきたが、地力は誰もが認めるところで、次場所の幕下復帰が濃厚な朝弁慶も朝天舞も稽古場ではまだまだ顔じゃない。実年齢は今年30歳になるが、相撲年齢の長さからいってもここ1,2年が最後の勝負どころである。
平成23年3月2日
朝乃丈も、小6から相撲を始め相撲年齢はけっこうなものがある。春日野部屋栃煌山とは高知県安芸中学校相撲部で全国大会に出場した同級生の仲で、いまは完全に水を開けられた状態だが、本人はいたってマイペースで、たまに胸を出してもらって同窓会などもやるらしい。入門以来、稽古場でのやるきの無さも相変わらずだが、8年目となる今まで風邪で稽古を休んだのは一日しかなく(何とかは風邪を引かないだけとよく言われるが)、イメージ以上に真面目にコツコツやってはいる。その甲斐あって、今度も陥落するものの過去1勝しかできなかった三段目で3勝できるようになり、コツコツと地力はつけてきている。
平成23年3月3日
昨日の新聞に、名古屋大学出身の千賀ノ浦部屋舛名大が引退して4月から中日新聞の相撲記者に転身する記事が掲載されていた。舛名大とは引退前の平成19年7月場所初日に、国立大学同士の対戦として話題(7月9日日記)になった。首を痛めて休場がつづいていたので心配していたが新しい人生を始められることになり一安心である。力士から新聞記者への転職は珍しいが、相撲評論家、演芸評論家として名高い元出羽ノ海部屋小島貞二氏も引退後東京日日新聞で相撲記者も務められていた。
平成23年3月4日
小島貞二氏は愛知県豊橋市の生まれ。時習館高校卒業後漫画家になるため上京したが182cmの長身を見込まれて出羽ノ海部屋に入門。昭和13年夏場所初土俵で横綱吉葉山は同期生にあたり同17年春場所引退。引退後雑誌の編集記者になり、以後新聞記者、放送作家、相撲・演芸関係のライター、評論家と文才を発揮して著作も160冊を超える。また小林旭『恋の山手線』の作詞も手掛けている。
平成23年3月5日
大空襲で帰らぬ人となった関脇豊島は小島貞二氏の一年兄弟子にあたる。焼け跡の大相撲視と題した小島貞二著『本日晴天興業なり』(読売新聞社)には豊島の話も出てくる。空襲のあった20年3月9日小島氏と手(気)の合った同期生の小高という力士が部屋に在籍していて、夜、タニマチから誘いがあり豊島と二人で出掛けた。8時過ぎにお開きとなり一緒に帰ろうとしたが、豊島は妙な理屈をつけて浅草へ寄るという。若くてきれいなホシが浅草に住んでいるのを思い出した小高は、しつこく聞くのも野暮かと「じゃあ、またあした」「うん」と笑顔で別れた。あの時無理やりにでも部屋に連れて帰るんだったと後々まで悔んだという。
平成23年3月6日
当時両国橋たもとにあった出羽海部屋も焼夷弾が2階をぶち抜き焼け落ちたが力士たちは逃げ延び倉庫だけが残った。翌朝明るくなって見渡すと両国はまだ焼け残りが所々に見られたが、浅草は地獄図絵を見るようであったという。付人だった川崎という力士が豊島を捜しに浅草へ出た。道路には遺体がころがり泣き叫んでいる姿もあった。ホシとは近々挙式の予定にもなっていて半同棲生活だったそうで、生き残った近所の人に話を聞くと、豊島は防火団長をやってかなりの時間消火活動に奮闘していたらしく、周りが火の海となり川のほうへ逃げたという。
平成23年3月7日
付人の川崎は、川なら吾妻橋辺りだろうと勘が働いたという。川堤へ出ると、家財道具や死骸が流れ、船や杭にしがみついたまま動かない人もいて隅田川は三途の川と化していた。そのうち「おっ、あれは、相撲とりじゃないか」という声が聞こえた。飛んでいくと、棒っ杭をしっかりつかんだまま、川の中から首から上を出し、かぶった防空頭巾がズレて、そこからチョンマゲがのぞいた形で、息絶えていた豊島の姿があった。重い遺体を引き上げ、焼け跡にころがっていた黒こげの荷車に乗せ部屋へ戻った。2階が焼け落ちて青天井になった土俵の真ん中に遺体を寝かせ、ありあわせの茶碗に酒をついで供え、合掌した。
平成23年3月8日
頭巾は半分焦げてはいたが、体のどこにも傷はなくおだやかな表情のままであったという。火災から生じた一酸化炭素による窒息死であったろう。14日に相撲協会の2階でお通夜をし、15日桐ケ谷の火葬場で荼毘に付した。仲の良かった元三保ケ関の大関増位山は「まるで生きているような顔だった・・・」と回想していたという。得意だった柔道の投げ技を封印して押し相撲一本に徹し、大関候補とも嘱された。66年前の3月のことである。同じ興國高校柔道部出身の朝興貴、先輩の無念を晴らすべく精進しなければならない。
平成23年3月9日
関脇豊島と同じ大阪興國高校柔道部出身の朝興貴、入門してちょうど2年になる。入ってきたときは体がガチガチに固かったが、兄弟子に背中から乗られ股割りも胸までつくようになった。120kgあった体重が90kg台まで落ちていたが、115kgくらいまで戻してきた。腰高なのは相変わらずだが、少しずつ膝も曲がるようにはなってきて、時々朝乃丈にもめが出るようになった。3年で関取、4年で新入幕の先輩のスピード出世には及びもつかないが、着実に力はつけてきている。初場所は5勝を上げ、次の場所勝ち越しての三段目昇進目指して、今日も砂と汗にまみれている。
平成23年3月10日
午前10時ころ国技館に行くために蔵前橋を渡ると「東京大空襲慰霊・・・」と書かれた幟旗を掲げたお坊さんの一行と橋上ですれ違った。国技館近く墨田区横網の東京都慰霊堂で行なわれた法要の帰りのよう。66年前の3月10日零時7分から2時間あまりに亘り300機以上のB29により38万発以上の焼夷弾が投下され下町を焼きつくし10万人以上の犠牲者を出した東京大空襲。相撲界では前述の関脇豊島、小結松浦潟の他に高砂部屋元射水川の西岩親方も被害に遭われた。また徳之島出身で講道館四天王と称された徳三宝も59年の生涯を閉じた。
平成23年3月11日
部屋が集中している下町が爆撃の中心だったのにもかかわらず力士の犠牲者が少なかったのは、大半が各地に勤労奉仕に出ていたことによる。双葉山一行は九州太宰府の道場を拠点に、立浪一門は山形に、高砂一門は九州の軍需工場で、二所一門は尼崎で、それぞれ勤労奉仕をしながら慰問などにあたっていたため難を逃れた。
平成23年3月12日
東北地方太平洋沖地震で被害に遭われた方々心よりお見舞い申し上げます。東京の高砂部屋は幸い無事でしたが、宮城県石巻出身の朝天舞、両親と連絡はとれるものの家屋の被害がまだつかめず不安がつづく。朝天舞の実家へは横綱も東北巡業の折顔を出したこともあり心配して電話をかけてきた。茨城出身の男女ノ里、大子錦は実家の屋根瓦が落ち窓ガラスが割れたりの被害。福島や宮城、青森には部屋関係の方も多く安否が気遣われるが未だ連絡不能で定かではない。皆様の無事と一日も早い復旧をお祈り致します。
平成23年3月13日
本来なら春場所初日を迎えるはずの日曜日。月~土稽古で日曜は休みとなるサイクルがつづいている。休みの日のちゃんこはカレーやハヤシライスが定番となっているが、それだけではもの足りずコンビニ弁当やファストフードで買い食いするのが若い衆にとってはささやかな楽しみのひとつでもある。それが今回の地震の影響で部屋近くのコンビニ等も品切れ続出となり、棚には商品がほとんど並んでなく、たまに入荷してもすぐになくなってしまう。食べることが趣味であり特技である朝弁慶、商品を運ぶトラックが近くのコンビニに入ったとの情報を聞きコンビニへ巨体をゆすらせ走った。食べたいものを食べたい時に食べられることに感謝し、また明日からの稽古に精進しなければならない。
平成23年3月14日
被害状況が明らかになるにつれ衝撃が日に日に増していくが、実家が震源地に近い宮城県石巻の朝天舞、兄とは連絡ついて一旦家族の無事は確認できたが、その後まったく連絡とれなくなり祈って待つしかない状況。男女ノ里は、昨日の休みを利用して茨城県つくばの実家へ何とか帰りつき予想以上に被害のあった実家の復興にあたっている。同じく茨城出身の大子錦も実家の様子が心配ではあるが、こちらは交通がまだ遮断されていて帰れず、何より帰っても邪魔になるだけだからと自分で自分を納得させている。
平成23年3月15日
直接の大きな被害はないものの、東京も一日に何度か余震があり原発の問題もでてきて落ち着かない日がつづき、交通機関の混乱とスーパーやコンビニの品切れなど生活にも影響がでてきている。そんな中、おかみさんが母娘で大阪の実家のコノミヤからトランク4個に満杯の食料品を調達してきて、おかずに苦悩していたちゃんこ番にとってはありがたい限りである。朝天舞もようやく兄と再度連絡がついて実家も無事とのこと、とりあえずは一安心となった。
平成23年3月16日
内田樹の研究室のファンである。難解な話も多いが、頭の中でモヤモヤと感じていることをすっきりと文章化してくれて「なるほど、そういうことだったのか」という気持ちよさをつねに感じさせてくれる。シコを踏んでいて新しい感覚を発見した(ような気がする)ときの喜びの感覚にも似ている。本日の「疎開のすすめ」も成程である。相撲部屋は大阪の宿舎へ疎開すれば、大阪の相撲ファンにとっても喜ばしいことになる。3月13日の「未曾有の災害のときに」の話もそうである。寛容な心で専門家に任せるしかない。
平成23年3月17日
内田樹氏を初めて知ったのは、合気道家として武道の雑誌に登場した内田氏であった。『日本辺境論』が出たあと、新潮社『考える人』で 対談する機会をつくっていただいた。妻に話したら、フランス文学の内田樹氏はよく知っているという。元上司の親友で、元上司が急逝されたとき友人代表として弔辞を述べられたのをよく覚えていた。ちょうど対談の前日のブログに、亡くなった元上司の話が出ていてさらに驚いた。今月神戸女学院大学を退職され新しく自宅兼道場を建て武道家として生きる。朝天舞の両親、実家に戻り直接連絡あったとの嬉しい知らせ。
平成23年3月18日
内田樹氏のブログは教育や政治、映画論、身体や武道論まで幅広い。言葉に表すのが難しい身体運動や武道の動きをいろいろな角度から言語化してくれる。合気道の他に居合道も修練されているが、居合の話も興味深い。座った姿勢から剣を抜く居合は剣の動きが主体となるが、動き出した剣の「最適運動」を邪魔しないことが、とりあえずの人間の仕事だという。動きを邪魔せずに動かすことはものすごく難しい。「ナンバ」は邪魔をしない動きを身につけるためのもので、「テッポウ」が「ナンバ」なのも自分の体の動きを邪魔しないためなのであろう。
平成23年3月19日
「木も 風も 大地も ひとつのもの そうだった 刀が教えてくれるんだった 軽いっ むずかしいぞ でも この棒きれですら 教えてくれるはず 耳を澄ますように 体を手放せ ぶらぶら おお来た これだ 指先に ひっかかる 棒きれの確かな重み ・・・」内田樹氏が井上雄彦さんと会うで引用されている『バガボンド』24巻の棒きれで雪だるまを斬る武蔵の気づきである。剣の「最適運動」と同じことで、邪魔しない動きのエネルギーをさらに高めていくことになる。自然の生み出すエネルギーに人間の力が遥かに及ばないことは今回また思い知らされたことである。
平成23年3月20日
ブレーキをかけずに動くことは難しい。立合い相手に当たるとき、思い切りぶつかっているつもりでもどこかで体にブレーキをかけ身を守っている。自分で自分の動きを邪魔している。ところが『バガボンド』の武蔵は、幻想の剣先にすべてのエネルギーを託して伝七郎(吉岡)に向かって泳ぐように身を投げ出している。体ごと剣の最適運動をしている。意識が極まると時間が相対的に伸びるようで、外から見たらほんの数秒のことでも、その間武蔵は無数のシュミレーションをしている。
平成23年3月21日
高岡英夫氏も宮本武蔵を長年探求している。高岡氏は、武蔵が二刀流なのは剣を片手で持つことにより剣の力学量を最大限に引き出すためだったという。剣が動きたいように剣を動かし、剣の動きに体の動きと心を合わせていく。あくまでも剣が主体となる。そのとき「剣が生き物になる」。生き物になった剣は、両手で握り全身の筋力を使って振り下ろす剣よりも遥かに早く、相手の剣をも巻き込んで更に威力を増す。
朝天舞、石巻の両親とも電話が通じるようになり安堵。惨状を見るにつけ本場所もなく時間をもてあます身がもどかしいが義援金や支援物資、節電、節品等できることをできる限り応援していくしかない。
平成23年3月22日
避難所生活が長期化してくると血栓症が心配だという記事が出ていた。運動できない狭い空間での生活が続き水分補給が足りないと血液がドロドロになり塊をつくって危険な状態となる。血栓が肺をふさぐのがエコノミークラス症候群で神戸や新潟の地震の後にも多くの方が亡くなられた。起こってからでは遅いので、水分をしっかり摂って1時間に一度は散歩や脚のマッサージを行なう必要があるという。環境や身体的に歩くのが難しい方には腰割りがお薦め。場所も時間もとらずに行なえる腰割り。決して深く下ろすことはない。膝とつま先を軽く外向きにそろえて開き腰をゆっくり下ろしていく。上体やスネが前傾してしまうと股関節への刺激がすくなくなるので、わずか2,3cmでもいいので上体とスネをまっすぐ保ったまま股関節を開く気持ちよさを感じるのがコツ。もの足りないくらいで十分ですので気が向いたときに(1時間に1度5回ずつ)行なうことで、じんわりと股関関節をほぐし、血液やリンパの流れをよくしてくれます。初めは下ろしすぎないのがコツです。
平成23年3月23日
腰割りは、腰を上下させるだけの簡単な運動だが、実際行なってみると意外と難しい。現役のときは深く考えたこともなく誰もが当たり前にできる姿勢だと漠然と思っていたが、妻の腰痛緩和をきっかけにいろいろな方に実施してもらい探求していくと、いかに一般の方々が股関節を動かしていないかということに改めて驚かされた。腰を下ろそうとすると、必ず膝が中に入ってしまう。膝を中にいれないよう頑張るとお尻が後ろに逃げてしまう。腰を下ろすことと割ることの違いをしみじみ感じて、初心者が腰をわるためには下ろしすぎないことがコツだと知った。単純だが、重心や意識しにくい股関節に意識を向けることによりどんどん深い世界へと入り込んでいけます。簡単だけど深い。時間つぶしにももってこいですのでぜひお試しください。
平成23年3月24日
余震や原発、水問題と落ち着かないが、友綱部屋へ出稽古。東関部屋も来ていて3部屋合同での稽古。人数が多いと申し合い稽古といって、土俵を十数人が囲み勝った力士が次の対戦相手を選んでいく稽古になる。勝負が決まる場所を見越し、デブの間をかき分け、すり抜け、勝った力士の前に行かないといつまでたっても稽古できない。相撲の流れを見越す勘と自分を売り込む積極性が求められる。どちらかというと、いま流行りの草食系に属する朝興貴、積極性も勘も足りずなかなか買ってもらえない(稽古相手に指名されない)。三段目へ上がるための課題であろう。今日明日、錦糸町駅前、上野松坂屋、渋谷駅で三役以上力士を中心に街頭募金。
平成23年3月25日
申し合い稽古で番数をこなすには、他人を押し分けてゆく積極性はもちろんだが、勝負が決まる場所、どっちが勝つか、どっち向きで勝負が決まるかなど想像力をはたらかせることが大切になってくる。「ごっつぁんです」と声を出すか勝った力士の名前を呼んで指名してもらうが、いくら元気よく呼んでもらっても後ろにいる人間を指名することはできない。勝負が決まった瞬間に目の前にいる力士を指名することになる。ただ勝負が決まるまでは動かないことになっているから、はじめのポジションと決まりそうになったときの一歩目をいかに早く出すかが決め手となってくる。勘の冴えているときはスッと動けるが、調子の悪いときは読みが反対になったり近くで勝負が決まっても割り込まれてしまう。
平成23年3月26日
合気道では、この勘を磨く稽古を大切にしているという。先日内田樹氏にお会いしたとき、そういう話題を興味深く伺った。「気の感応」「時間をフライングする」「先の先」・・・これから起こることを事前に察知し先に動くことこそが求められる。野球のファインプレーに見せないファインプレーにも通ずることだし、何と言っても今回の大災害などから身を守るためには必要不可欠な能力であろう。
平成23年3月27日
ひとつの土俵を大人数で囲んで申し合い稽古をやっていると、効率が悪いから土俵を2つにすればいいという意見がでることもあるが、勘を磨くという観点からすれば、大人数でひとつの土俵を囲み、気を働かせ先を読むことが大切になってくる。量をたっぷりやらせるためには三番稽古(同じ相手と何十晩もつづけてやる稽古)という方法がある。申し合い稽古と三番稽古、それぞれに特色があり利点がある。
平成23年3月29日
十両格行司木村朝之助、目下の悩みは年々お相撲さん体型になってくることである。ちょっと油断すると腹と脚がめきめき育ってしまう。これはやばい!と今までも何度か走ったり筋トレしたりダイエットメニューにも取り組んできたが、なかなか成果が上がらない。もともとエビスコも強いほうで消費した以上に身についてしまう。ところが最近ベルトの穴がひとつ余ったという。見ればお腹まわりも以前よりすっきりしている。最近走る前に“腰割り”をやっているそう。腰割りをやってから走ると気持ちよく走れるとのこと。食欲は相変わらずなのに痩せて「腰割り効果」を実感している。
平成23年3月30日
番付の文字は“相撲字”という独特の書体で行司さんが書く。入門して見習いの頃からひたすら練習してだんだんと形になっていく。入門5年の木村悟志、割触れ(対戦する両力士の四股名を書いた紙)を何枚も書いて兄弟子に添削してもらう毎日だが、最近板番付の練習も始めた。もちろん練習だから板ではなく大きめの模造紙に書くが、本場所がなく時間がとれる今月は2日に1枚のペースでひたすら書き続けている。素人目にはずいぶん上達したかに見える。
平成23年3月31日
相撲字はもともと根岸流と呼ばれる文字である。江戸時代中期までは、歌舞伎や寄席と同様、御家流または青蓮院流という書体で書かれていたが、寛政の頃から番付の版元である三河屋根岸治右衛門が創始して現在のような文字になったといわれている。客席がすき間なく埋まるようにと、肉太で余白が目立たないよう書く。根岸家は番付をつくりながら年寄の一名跡となり、特に大正時代の9代目根岸治右衛門は理事として国技館経営に商才を発揮する傍ら、東京市議会議員にも当選したという。