過去の日記

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平成24年1月1日
昨年の大震災や本場所の中止という事態は、高砂部屋にとっても、石巻出身朝天舞の実家の被災、何人かの力士の心身の不調という影響もありました。多くの力士にとっても「相撲とは何か?」を自他ともに問われる一年でもあったと思います。そのなかで、朝天舞は5月の幕下復帰以後幕下に定着し、心身の不調を訴えていた力士も回復に向かいつつあります。危機感を忘れずに、新しい年が、高砂部屋にとっても、相撲界にとっても、日本にとっても、皆様にとっても、明るい一年となりますようお祈り申し上げます。3日稽古始め。8日日曜日に初場所初日を迎えます。本年もよろしくお願い申し上げます。
平成24年1月2日
平成24年度の大相撲界はどう展開していくのであろう。本場所の観客減がつづくなか、琴奨菊、稀勢の里と相次いで日本人大関が誕生したのは明るい兆しである。新年初場所から消える日本人の優勝額が一場所でも早く復活し、日本人横綱が誕生することは相撲ファンならずとも待ち望んでいることであり人気回復への一番の特効薬ともなることであろう。公益法人化へ向けたいろいろな変革も始まることであろう。土俵内外ともに大きな転機を迎える年になるのかもしれない。すべては土俵のために大相撲のためにある変革であってほしい。
平成24年1月3日
稽古始め。ただ今日は四股とぶつかりのみで切り上げ、5代目、6代目高砂親方のお墓参りへ。午前11時全員バスで出発。元横綱朝潮の5代目のお墓は西麻布2丁目永平寺別院長谷寺に、6代目のお墓は六本木長耀寺にある。午後1時から長耀寺で先代供養の法要。ちなみに元横綱前田山の4代目は横浜市鶴見区総持寺に、横綱双葉山は東日暮里善性寺に、横綱常陸山、横綱栃木山、横綱常ノ花は谷中霊園に眠る。明日から本格的な稽古再開。
平成24年1月4日
いよいよ初場所も間近に迫ってきたが、本場所は力士たちの熱戦もさることながら、土俵を取り巻く色とりどりの色彩も大きな魅力のひとつを成しているであろう。吊屋根から下げられる青・赤・白・黒、四色の房、房の上にぐるりと張り巡らされた紫色の水引幕。さらに土俵上でも、いろどりも多彩かつきらびやかな行司装束。装束自体の色は自由だが、軍配の房や装束につける菊綴(組紐を総にした丸い飾り)や飾り紐の色は階級によって決められている。木村庄之助が総紫、式守伊之助が紫白、 三役格行司は朱、幕内格行司は紅白、十両格行司は青白、幕下以下は青または黒となっている。そんな色彩に注目して土俵を見るのも大相撲をより深く楽しむことになるであろう。
平成24年1月5日
紫はもともと高貴な色とされ、聖徳太子が定めたとされる冠位十二階でも最高位の大徳を表わす冠の色は紫になる(漢やローマ帝国など世界的にも紫は帝王の色だったよう)。大徳に次ぐ小徳の冠位は薄紫なので伊之助の紫白はこれにあたるのか。ちなみに化粧回しの下部の馬簾(バレン)に紫色を使えるのは横綱大関だけに許されることである。そして、国技館正面玄関前に立ち並ぶ力士幟の華やかな彩りも相撲情緒を盛り上げる景色であろう。国技館の緑青の屋根は歴史と伝統を感じさせる趣がある。
平成24年1月7日
国技館に正面玄関から入場すると、1階フロアは桝席の最上段(15列目)の高さになる。最上段からだんだん下がっていき最下部に土俵と溜り席がある。いわば地下1階(かなり深めだが)にあたる。最下部のフロアが花道につながり、東西の花道にはさまれた空間に行司部屋、審判室、記者クラブなどが並んでいる。花道の突きあたりには、東西それぞれの支度部屋があり、東西の支度部屋の中間にNHKのインタビュールームがある。もちろんこの区域は、一般のお客様には立ち入り禁止区域となっている。明日初日、新大関稀勢の里は豪栄道との対戦。横綱白鵬は若荒雄、朝赤龍は旭秀鵬。
平成24年1月8日
支度部屋は奥行きの長い部屋で、両側が上がり座敷になっていて関取衆の明け荷が置かれる。自分の明け荷の前でマワシを締めたり準備運動したりする。一番奥が横綱の定位置で横綱の明け荷が三つ並ぶ。現在横綱は東の白鵬だけだから、西の支度部屋の一番奥は空いたままである。今年こそは西の支度部屋の奥も明け荷が置かれるようになる年となるのか、平成24年初場所初日の幕開け。朝赤龍、朝弁慶は白星を飾るものの2勝4敗の高砂部屋初日。
平成24年1月9日
明け荷は、一番奥の横綱の明荷に近いほうから大関、関脇と大体番付順に置かれる。横綱はもちろん大関まではゴザを大きく広げて(3畳ほどか)場所を広くとれるが、関脇以下は明け荷の幅分、ゴザ一畳分の幅が準備運動できるスペースになる。関脇以下の明け荷の場所はある程度自由なので、混雑するまん中付近は避けられ、入り口側の比較的広くスペースのとれる場所が好まれる。早めに場所入りして関取の明け荷の場所を確保するのも付人の仕事である。若い衆は、自分の部屋の関取衆の明け荷の場所で着替える。2日目も3連敗スタートと案じられたが、朝乃丈以降持ち直して3勝3敗の高砂部屋2日目。
平成24年1月10日
入門したての若松部屋の頃、部屋に関取はいなかったから支度部屋に明け荷はなかった。奥の横綱大関の場所の角の空いたスペースや、本家高砂部屋の関取衆の明け荷の場所で着替えることになるが、どちらにせよ何となく肩身の狭い思いもあった(特に新弟子の頃は)。朝赤龍、大きな魁聖を下手投げで下して3連勝。朝乃丈も、2日間共に投げが冴えての2連勝。
平成24年1月11日
支度部屋は上がり座敷がコの字型に奥に長くなっているが、入り口側には風呂場と洗面所とトイレがある。トイレは小便器が3つ並び洋式便座が2つ。その便座がものすごくでかい。小学生ならスッポリはまってしまうのではというくらい。空間も広く落ち着くのか出番前の緊張感も手伝っているのか、けっこういつでも混んでいる。幕下48枚目と若い衆で一番番付が上の朝弁慶、珍しく器用に巻き替えて双差しとなる相撲で元関取仲の国を破っての2連勝。
平成24年1月13日
昭和63年に新築した旧若松部屋のトイレは、国技館支度部屋のトイレと同じ大きさの便座であった。冬場寒くなってお尻が冷たいので便座カバーをつけることになったが、大きい便座に合うカバーがない。TOTOに相談してようやく特大のカバーを用意できたが、それでもかなり引き伸ばさないとつけられなかった。4日目に5勝2敗と勝越して五分の成績まで戻した高砂部屋全成績だが、昨日今日とまた負けが込んで大きく負越し。
平成24年1月14日
国技館に入りエントランスホールをまっすぐすすむと、つきあたりには優勝力士への賜杯ならびに各賞が飾られている。天皇賜杯や優勝旗、総理大臣杯などの歴史ある重厚な賞杯が輝きを放っているなか左手の方にはシイタケが満杯につまったトロフィーがあり多くの人の注目を集めている。大分県知事賞で、名産のどんこが(90L以上の大きな袋に満杯)優勝力士に贈られる。朝弁慶、朝乃丈、勝越しまであと一番となる3勝目。
平成24年1月15日
宮崎牛と書かれた牛のブロンズ像が台座にのったトロフィーもある。宮崎県知事賞で、牛肉1頭、サーロイン、リブロース、ネックなど霜降り肉が部位ごとに大きな箱で4,5箱届けられる。外国からの賞杯も多い。日仏友好杯、チェコ国友好杯、モンゴル国総理大臣賞、中日友好景泰藍杯、アラブ首長国連邦友好杯、メキシコ合衆国友好楯、・・・それぞれ副賞もつきチェコビールやメキシココロナビールも玄関に山積みとなる。朝赤龍6勝目。ちゃんこ長大子錦、アンコ対決を制し今場所初白星。
平成24年1月16日
正面エントランスホールから廊下づたいに左右に進むと東西にそれぞれ売店が並んでいる。バスタオルや湯のみ、灰皿といった相撲土産の定番が並ぶなか、何といっても一番人気は「やきとり」であろう。国技館の地下で、タレを6回染み込ませて焼き上げるという国技館名物「やきとり」。冷めてもうまい!と評判の逸品である。四連敗だった笹川、ようやく片目が開く。
平成24年1月17日
三段目西100枚目の朝乃丈、今日の相手は友綱部屋の力士。友綱部屋とは部屋も近いので、ときに一緒に稽古を行なうこともあり、よく知っている相手である。稽古場ではまったく分が悪いという。きのうから「勝てないっす」「強いっす」「ダメっす」と、いつものことながら口を突いて出るのは弱気な発言ばかり。ところが土俵では思い切りの良さをみせ勝って今場所勝越し第1号。部屋に帰ってきて「6番勝ったら何枚目まで上がりますかね?」とコロリと強気の発言。すぐに調子に乗るのも「クボユウ」ならではのこと。朝興貴、男女ノ里、朝赤龍、勝越しまであと1番となる白星。
平成24年1月18日
力士が国技館に入るときは、両国駅に近い南門から入場する。車で地下駐車場に乗り入れが許されているのは横綱大関のみであるから、関脇以下の力士はすべて南門から国技館に入る。通のファンはその辺の事情をよくわかっていて、南門付近には内外とも多くのコアなファンが贔屓の力士の入り待ち、出待ちに列を成している。力士を一番近距離で見られる場所でもあり、そういう楽しみ方をしている相撲ファンも多い。そういえば今場所は横綱白鵬もファンサービスのため南門から歩いて場所入りし話題になった。朝興貴、2人目の勝越し。三段目復帰には、あと一番勝って確実なものとしたいところ。
平成24年1月19日
歌舞伎の片岡亀蔵さんは大の大相撲ファンである。先日も中村七之助さんらと共に国技館に観戦に訪れ熱い声援を送っていた。ファンとしての目も厳しく、内容のいい相撲には惜しみない喝采をおくり注文相撲(立合変化)には心底嘆く。5月の平成中村座の演目は相撲が題材の「め組の喧嘩」だそうで、亀蔵さんの提案で5月場所で平成中村座「め組の喧嘩」で懸賞をという話も持ち上がっている。七之助さんも、鶴竜が白鵬を破った日、南門で出待ちして「鶴竜関おめでとうございます」とツーショットの写真も撮ってもらったほどの熱の入れ様。ちなみに一番の贔屓は隠岐の海だそう。朝赤龍7場所ぶりの勝越し。
平成24年1月20日
「め組の喧嘩」は、江戸時代実際に起きた力士と鳶職の喧嘩を題材にした世話物(町人の事件などを扱った話)で明治23年新富座初演。実際の事件は、九竜山、藤の戸、四つ車という3力士と火消し人足(鳶)め組が大乱闘となり、鳶側が火の見櫓の早鐘を打ち鳴らして仲間を呼び集め、双方36名の逮捕者を出す騒ぎだったという。朝ノ土佐、昨年7月場所から4場所連続での勝越し。朝赤龍、投げを食ったかと思われたが、投げられながらの渡し込みが効いて9勝目。
平成24年1月23日
初場所は昨日千秋楽を迎えた。場所前は、琴奨菊に次ぐ新大関稀勢の里の誕生が話題となり、中盤戦以降は把瑠都の快進撃で5日間の満員御礼も出た。高砂部屋では、何といっても後がなくなった幕内朝赤龍の7場所ぶりの勝越し。幕下二人の負越しは残念だったが、三段目で朝乃丈が千秋楽に勝って5勝とし来場所の自己最高位更新を確実なものとした。朝龍峰は蜂窩織炎のため休場不戦敗となる。今日から1週間の場所休み。
平成24年1月24日
歌舞伎「め組の喧嘩」に「四つ車大八」という四股名の力士が登場するが、現在幕下にも「四ツ車大八」という力士が実在する。伊勢ノ海部屋の所属で何度か十両を務めたこともある。江戸時代の実際の事件の時は師匠は柏戸の「四ツ車大八」である。柏戸も伊勢ノ海部屋から分家した親方で後には伊勢ノ海を名乗っている。め組の喧嘩で有名な四ツ車は2代目か3代目かで、現在の四ツ車は8代目になるそう。伊勢ノ海部屋は、他にも「猫又」「六文銭」「荒馬強」と江戸時代からつづく四股名を名乗っている力士が多い。前師匠の「藤ノ川」や現甲山親方の「大碇」という四股名も昔からつづく伝統ある四股名である。
平成24年1月25日
四股名を名乗るようになったのは江戸時代からのことだそうだが、長い歴史の中には珍名奇名も多い。おそらく明治の頃であろうが「電気燈光之介」(でんきとうこうのすけ)「自動車早太郎」(じどうしゃはやたろう)「自転車早吉」(じてんしゃはやきち)などと時代を反映したもの。現役でも、共に大嶽部屋の「右肩上」(みぎかたあがり)「森麗」(もりうらら、競馬のハルウララにあやかった四股名)や千賀ノ浦部屋の「鰤の里」(ぶりのさと)などは珍名の部類に入るか。高砂部屋朝乃丈も名前まで入れると「朝乃丈段平」(あさのじょうだんぺい)となり大子錦も「大子錦大伍郎」と、ちょいとだけユニークではある。
平成24年1月27日
四股名にも時代による流行りや部屋によるパターンがある。江戸期には雷、稲妻、雷電、谷風、荒馬などいかにも勇ましい四股名が多いが、だんだんと常陸山、栃木山、出羽ヶ嶽、能代潟、津軽海、九州山など故郷の地名や山河を背負った名前も増えてくる。もちろん両方とも現代にもつづくもっともポピュラーな命名である。師匠から四股名を引き継ぐ例や、師匠の四股名から一文字もらっての命名も多い。朝潮太郎は世襲名(5代目)であるし、朝青龍、朝赤龍は師匠の朝の字をもらっての命名。他にも佐渡ヶ嶽部屋は先先代琴錦からの琴、春日野部屋は元横綱栃木山から栃錦、栃ノ海、栃乃和歌とつづいている。
平成24年1月28日
子供の名前から○子が少なくなったのと同様、四股名からも○○山という昔ながらの命名は減ってきた。そして、山や海以上に最近めっきり見られなくなったのが○○川である。昭和初期の番付を眺めると清水川、幡瀬川、浅瀬川、若瀬川、男女ノ川・・・名を成した力士も数多い。川は白星が流れるのを連想させるとかダムで堰き止められてしまうとかで嫌われるようになってきたという話がよく言われるが、どうであろう。実際、現在の幕内・十両の関取衆の四股名には川がつく力士は一人もいない。幕下にまで目を拡げて、ようやく「安芸ノ川」という川を見つけられるのみである。
平成24年1月29日
長身体躯の横綱男女ノ川は別格として、川のつく力士には技能派、技の切れる力士が多い。幡瀬川の相撲を引き継いだ旧伊勢ヶ浜部屋系に多いのであろう。幡瀬川は昭和初期に173cm86kg(実際は80kgなかったらしい)の小兵ながら「相撲の神様」と呼ばれ関脇を5場所も務め横綱大関を何度も破った。年寄楯山となってからも横綱照國を育て協会の理事としても終戦直後の相撲復興にも尽力した。その流れが、若瀬川、黒瀬川、徳瀬川とつづいていたが、旧伊勢ヶ浜部屋が部屋を閉じ、わずかにつながれていた桐山部屋の閉鎖で川の流れもとまってしまった。
平成24年1月30日
「相撲の神様」幡瀬川は、実際のところ168cm78kgしかなかったという。その体で横綱大関を何度も倒した。昭和44年に大相撲誌で小坂秀二氏のインタビューに答えている。「投げを食って負けたことは一度もない」「投げなんてものは、小さい者が大きい者に打つもので、小さい者は投げをくっちゃいけません」という。「相手が投げを打ってきたら、差したかいなを返せばいいんです。ただ返すんじゃなく、返したほうへ体を寄せるんです」頭で考えてから動くのでなく「くるなと感じた時はもう体が動いていなくてはいけない」と語る。「技は2度続けて打つものだ」「小さい力士は、立ち腰でなければ動けない」とも話している。理事選挙が行なわれ10人の理事が選出される。新理事による互選で北の湖理事長が再選。
平成24年1月31日
実際に幡瀬川の取組の映像も残っているが、伸びあがるように突っ張ったりもしている。全身を使った伸びやかな突っ張りである。突っ張って中に入り投げを打ってくる相手に、スッと体を寄せていくのが印象的である。肘や手首が異常に柔らかく、差した手の親指を相手の背中につけるだけで腕(かいな)を返したという(ふつうは肘を上げ腕全体を内側に捻る)。さらに足の裏は赤ん坊のように柔らかかったともいう。どこかに偏ることなく踏ん張ることなく全身で相撲を取っていたからこそであろう。幡瀬川以前には大ノ里が「相撲の神様」と呼ばれたが、幡瀬川以降、相撲の技のうまさで「相撲の神様」と呼ばれた力士はいない(双葉山は人格や偉業も含めて相撲の神様と呼ばれることがあるが)
平成24年2月1日
司馬遼太郎『街道をゆく』(朝日文芸文庫1995年)36巻は「本所深川散歩」で隅田川を船でゆく。隅田川や隅田川に架かる橋を案内するのは深川生まれで土木工学の先生である宮村忠教授である。隅田川をくだりながら「ちかごろのおすもうさんに、川の名のしこ名をもつ人がいませんね。かろうじて若瀬川という人がいますが、あれは現実の川の名じゃありませんね」とこぼす。川が好きで、隅田川を母のようにおもっている宮村先生だからの言葉であるし、相撲やしこ名に対する先生の思い入れを感じられるような気もする。
平成24年2月2日
男女ノ川は34代横綱である。「みなのがわ」と訓む。茨城県つくばの出身で、大正13年1月場所高砂部屋から初土俵を踏んだ。しこ名は百人一首「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」からの名で、入幕してからは朝潮を名乗り将来を大いに嘱望された。昭和7年1月の春秋園事件で協会を脱退し師匠3代目高砂(元2代目朝潮)の怒りを買って男女ノ川に戻り部屋も佐渡ヶ嶽部屋へ移籍となった。昭和8年1月に復帰し平幕優勝を飾り、翌9年1月にも関脇で優勝して大関へ昇進した。その後横綱にも上がったものの膝の怪我もあり大関昇進後の優勝はなく双葉山の引き立て役に終わった。男女ノ里のしこ名はもちろん同郷の男女ノ川に因んでの名である。
平成24年2月3日
以前紹介したように朝青龍は高知明徳義塾の校長先生の命名だが、一年後に入門した朝赤龍は師匠の命名である。もちろん青に対しての赤で青と赤で共に昇ってもらいたいという命名。,朝弁慶は木村朝之介の命名。弁慶のように強い力士になってもらいたいとの気持ちを込めて名付けたが、平塚で中華料理店を開いている実家の店の斜め向かいに弁慶というラーメン屋があるそうで、実家は「なんで他人の店の名前をつけるの」と怒っているらしい。ただ改名後順調に番付を上げていて語呂もいいので朝弁慶で通している。強くなれば逆に話題になるかもしれない。朝天舞は地元石巻の神主さんの命名だそう。
平成24年2月4日
朝天舞は宮城県石巻出身で本名花田晴多。朝花田の四股名で初土俵。8年目から朝道龍(あさどうりゅう)と改名。ずっと横綱朝青龍の付人を務めていて朝青龍が命名。改名を機に初めて幕下に上がった。しかしその後また三段目に下がり低迷がつづいたので朝青龍が「おれと同じ龍は顔じゃないな」と朝縄に改名。これも朝青龍の命名。朝縄と名付けてみたら、大阪の芋縄会長(おかみさんのお父さん)にも通じるとか、石巻の実家の近くに朝縄神社があるとかいう話にもなったがたまたま偶然のことのよう。その頃から、朝天舞という四股名を父母が地元の神主さんにお願いしてあたためていたそうだが横綱の命名でもあり、そのままになっていた。その後横綱が引退したこともあり、朝天舞と改名。改名後幕下復帰を果たして定着もしていたが来場所はまた三段目からの出直しとなる。
平成24年2月5日
朝ノ土佐は、朝赤龍と明徳義塾相撲部での同級生になり二人同時に入門した。出身地の高知県土佐市から取って師匠が命名。ここ一年近く体調を崩していることもあり、来場所からはノの字を乃に改名の予定。幕下復帰を目指す。男女ノ里は前記のように故郷つくばの先輩横綱男女ノ川に因んでの四股名。男女ノ川もそうだったようだが、知らない人には男女の訓みが難しい。「だんじょのさと」「おめのさと」発音をためらう人・・・なかなか「みなのさと」と訓んでもらえない。ただ弓取式で名が売れて、かなりお馴染みにはなった。
平成24年2月6日
筑波山は男体山と女体山の2つの山頂からなり、それぞれの峰から流れ出てくる川がやがていっしょになるから男女川(みなのがわ)だという。いにしえの世、つくばね(筑波山)は男女が集い歌垣を交わす場でもあったようで、男女の里という四股名から万葉の艶やかさが香ってこなくもない。英語の「Ladys&Gentlmen」に対比させると「みな」というよみもわかりやすい。笹川は本名で、以前は神山(しんざん)と名乗っていた。本名に戻して4年近くになるが、来場所から再び神山に戻す。
平成24年2月7日
笹川が来場所から再び名乗る神山(しんざん)は、新字体の「神」ではなく「神」になる。同じ字なのだが偏が「示」か「ネ」かで画数が違ってくる。「示」はもともと祭壇を表わし「申」は雷を表わすそう。「神」の字は四股名には重すぎるという話もあって辞書などで調べたりもして「シン」の字でいろいろ悩んだようだが、結局元の「神山」に落ち着いた。改名も、出世を願うのはもちろんだが、怪我や病気が続いた場合のゲン直し、心機一転という意味合いも大いにある。久しぶりに錦戸部屋との合同稽古。
平成24年2月8日
朝乃丈は高知県安芸市の出身。中学での相撲経験がありながらも入門7年目にしてようやく三段目昇進と伸び悩んでいたこともあって改名することになった。若松親方がいろいろ案を出してくれ、高知ゆかりの竜馬とかジョン万次郎の名も挙がったが、明日のジョーのごとく燃えてほしいとの願いを込めたのかどうか、朝乃丈になった。はじめはあまり気に入らない様子もあったものの改名以来三段目定着を果たし、四度ならなかった三段目での勝越しも決め、徐々にではあるが番付を上げてきて来場所は自己最高位更新。朝乃丈の四股名にもだいぶ板についてきた。年2回行なわれる健康診断。
平成24年2月9日
朝興貴は大阪興國高校柔道部の出身。母校の興國から一文字、本名久保田祐貴から一文字とっての朝興貴。母校関係者で考えていただいての命名。スポーツが盛んな学校で、プロボクシングの井岡一翔、プロ野球阪神湯船投手などプロスポーツ選手を多数輩出しているが、大相撲界には戦前の元関脇豊島のみである。双葉山から2度の金星を勝ち取りながら戦災で還らぬ人となった偉大な先輩につづくよう,母校の期待も大きい。ご当所3月大阪場所で三段目復帰をかける。
平成24年2月10日
朝龍峰は、はじめ朝日向の四股名でデビューした。熊本県八代市の出身だが、高校が宮崎日大高校だったので朝日向。宮崎県出身とよく間違えられた。地元からの要望もあり、1年半で出身地八代にある山の名前から朝龍峰(あさりゅうほう)。朝赤龍関の知人が、懇意にしている熊本の議員さんに頼んで命名してくれた。朝龍峰と名乗ったら、もともと師匠と親交のあった高島易断の高島龍峰総裁に目をかけてもらうことにもなった。これから出世していけばいいタニマチになってもらえるかもしれない。
平成24年2月11日
高砂部屋最重量のちゃんこ長大子錦がはじめ「太子錦」だったことは前記の通り。命名は先代6代目高砂親方(元小結富士錦)。序ノ口で初めて番付に名前が載ったときに、「太子錦」と点入りの「太」だったので「親方、大子町の大は点入らないんですけど」と言いにいったそうだが、先代からは「まぁいいだろう」と一蹴されたという。画数を考慮してのことなのか単に間違えただけなのか、今となっては藪の中であるが、呼び間違えの事件もあって「大子錦」に直してもらった。
平成24年2月13日
朝奄美は鹿児島県徳之島の出身。出身地にゆかりの四股名をと師匠が考えたが、朝徳之島、朝之島、・・・あまりしっくりこない。「徳之島も奄美といってもおかしくないのか?」と尋ねられ、「ええ、徳之島も奄美群島のなかの徳之島ですから奄美という言い方もします」ということで「朝奄美」と命名された。今日から2泊3日の北海道旅行へ出発。
平成24年2月16日
元久島海の田子ノ浦親方が13日夕突然亡くなられた。高校生でアマ横綱になり大学でも数々のタイトルを総ナメにして大相撲界入り。幕内には上がったものの怪我に悩まされての引退。独立して師匠となってからも自身の闘病や弟子の不慮の死など、花も嵐も踏み越えて、ようやく幕内碧山を育て、いよいよこれからという矢先だっただけに無念極まる想いであろう。ときどき「おやじ会」と称して、元付人のおすもうさんや手の合う記者、関係者など5,6人で飲む機会もあった。いつも弟子の事を想い、我欲を捨て相撲界のことを考え、食や酒に対する薀蓄も深く、謙虚でありつつもしっかりした持論をもち、あくまでも紳士的な姿が思い起こされる。ただただご冥福をお祈りするばかりである。
平成24年2月19日
先発隊7人(大子錦、男女ノ里、朝乃丈、朝弁慶、朝興貴、呼出し健人、松田マネージャー)大阪入り。2年ぶりの大阪場所だが、例年のように師匠の後輩の嶋川さんに新大阪まで迎えに来ていただき谷町九町目の宿舎久成寺入り。2年分のほこりをかぶった家財道具を引っ張り出し、とりあえず今日寝られるように設営。作業後、まだガスは使えないため銭湯へ。おすもうさんがうろうろするだけで春場所のいい宣伝になる。晩御飯も例年通りちゃんこ朝潮鴫野店にて。今日から約一月半の大阪での生活。
平成24年2月20日
1年経つとけっこう忘れる。自転車やゴミ箱、洗濯物干しまで個人で大阪用として置いてあるのだが、1年経つとどれが自分のものだったかけっこう忘れてしまう。1年でも忘れるのに今年は2年ぶりである。荷物の配置、設営、例年以上に忘れ具合も大きい。それでもなんとか順調にすすんでいるが、風呂の湯沸かしが年代物だけにいよいよ点火できなくなってしまった。こんなところにも2年間のブランクの影響が出てしまう。稽古場の暖房器具も心配ではある。
平成24年2月21日
大阪場所の宿舎が現在の久成寺(くじょうじ)になって今年で52年目になる。稽古場も風呂場も、ほぼ始めのころに作ってそのまま現在に至っている。この稽古場で横綱朝潮が稽古し、大関前の山、高見山、富士櫻とつづき、大関朝潮・小錦、水戸泉、横綱朝青龍、朝赤龍と、汗と涙を流してきた。長年お世話になり伝統あるお寺さんへの恩返しのためにも、もう一度横綱大関を誕生させることが高砂部屋としての使命でもある。結局風呂のボイラーは修理できず、年代物だけにメーカーもなくなっていて全部取り換えないといけなくなった。伝統は金のかかることでもある。
平成24年2月22日
風呂場は稽古場に入る手前にある。52年前宿舎として久成寺をお借りするようになったとき稽古場もつくられたようなので、風呂場もほぼ同時期なのであろう。壁はコンクリの打ちっぱなしで、現在はところどころ禿げてしまっているが浴槽はタイル張りになっている。その浴槽が深い。立っても十分胸までつかるくらいかなり深い(基準は自分だが)。稽古後、大きな板を湯船につっこんでお湯をかきまぜるのだが、その時によく落とされる。だいたい新弟子の頃、誰もが一度は通ってきた道のようなのだが、大子錦はいい兄弟子になっても何度も落とされたという。
平成24年2月23日
深い浴槽に水を溜めボイラーで沸かす。風呂場自体はそんなに広くないので、沸くと湯気がモウモウ立ちのぼり奥の方はまったく見えなくなる。そんな中へマワシ姿のまま落とされた大子錦。「ウワー」と叫び声を上げ湯船から顔を出すと横には親方の顔。気持ちよく湯船に浸かっていたところへマワシ姿の大子錦がドロだらけのまま飛び込んできたから機嫌が悪い。「何してるんだ!!」真っ青になりながらみんなの方へ目をやるとすでにクモの子を散らしたように誰一人いない。「すいません」とビショビショのマワシのまま上がった。そんな伝統もあるボイラーが壊れてしまい交換しなければならない。ギリギリ28日の稽古はじめには間に合いそう。
平成24年2月25日
久成寺(くじょうじ)のご住職は今年82歳になられる。高砂部屋が初めて宿舎としてお世話になった元横綱前田山の4代目高砂親方ときからのお付き合いである。ご住職によると、初めて高砂部屋が久成寺に来たのは昭和35年の秋だとのこと。大阪場所自体は昭和28年から3月場所として開催されているので、準場所でも行なわれたのかもしれない。はじめ稽古場はお寺の外にプレハブ小屋を建てていたそうだが、千日前通りか谷町筋の道路拡張計画に伴い撤去せざるをえなくなり、現在の本堂横の空地に建てられることになったという。
平成24年2月28日
今日から稽古始め。朝7時開始で8時半より土俵祭。祭主を務めるのは十両格行司木村朝之助なのだが、朝之助インフルエンザり患で、急遽木村悟志が祭主を務めることになった。一昨日あたりから必死に練習した甲斐あり、緊張に声を上ずらせながらもやり終える。今までもぼんやり見ていたわけではないが「これから土俵祭の見方が変わります」と初めての大役を無事務め、胸を撫で下ろしていた。昨27日春場所番付発表。
平成24年2月29日
稽古場を建てるのには狭かったが、久成寺のある場所はミナミの繁華街にもほど近い中心地で、他に近所に空地などない。隣との境界線ギリギリまで広げて何とか稽古場が建った。入門10年23歳の若き呼出し三平さんも工夫して少し土俵を狭目につくったりもしたそう。土俵と壁の羽目板(合板だが)は近く、勢いよく押し出されるとすぐにぶつかってしまう。この壁には何百人もの力士がぶつけられたことであろう。そんな想いを馳せらせてみると、壁の黒ずみや汚れも貴重なものにおもえてくる。
平成24年3月2日
宿舎のある久成寺(くじょうじ)は地下鉄谷町九丁目駅からほど近い。谷町九丁目駅は、谷町筋と千日前通が交わる谷町九丁目交差点の地下にある。谷町筋は天王寺から天満橋まで南北に走る道筋で、南の天王寺に近いほうから谷町9丁目、8丁目、7丁目となる。タニマチという言葉はかなり一般的になっていると思うが、谷町7丁目で開業していたお医者さんが相撲好きで、おすもうさんをタダで診療してくれたことからきているという。朝赤龍は時津風部屋へ出稽古。朝弁慶、朝天舞、朝乃丈は近大相撲部での稽古。
平成24年3月4日
昨日3月3日、3月場所新弟子検査が行なわれ高砂部屋からも2人受検。埼玉県川口市出身の芝塚剣君と大分県大分市出身の下川雄大君。2人共今春中学を卒業する15歳で体格検査には合格し11日の内臓検査の結果を待って正式入門となる。芝塚剣君は朝剣(あさつるぎ)、下川雄大君は朝雄大(あさゆうだい)の四股名で3月場所前相撲の土俵に上がる。昨晩は場所前恒例の高砂部屋激励会。上六都ホテルにて1000人を超える大勢のお客様で賑わい春場所での高砂部屋の活躍を期す。
平成24年3月5日
5代目高砂浦五郎である46代横綱朝潮は昭和23年10月の入門で、神戸出身として初土俵を踏んだ。当時郷里徳之島が米軍統治下だったからで、朝潮こと米川少年(18歳だったから青年?)は徳之島から親戚のいる神戸まで漁船で密航して入門した。昭和28年12月に奄美が日本復帰になり出身地を鹿児島県徳之島と改めた。当時から関西に出る奄美出身者は多く、なかでも神戸・尼崎には特にあつまっていた。横綱朝潮にとっても大阪場所は準ご当所ともいえるほど親戚知人も多く後援会も盛大であった。その尼崎で昨日第5回奄美出身力士激励会が行なわれ、13人の奄美出身力士の春場所での活躍を祝した。
平成24年3月6日
何度か紹介しているが、奄美は人口比率に対する力士の輩出度が世界一の地域である。現在出身県別にみると力士数が多いのは、東京、大阪、名古屋、福岡と本場所開催地が最も多く、青森、鹿児島がそれにつづく。ただ、本場所開催地は大都市圏で人口も多いから比率からいうと20万人に一人くらいの割合である。ところが奄美群島(奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島、喜界島)全体で10数万人の中から現在13人もの力士を輩出している。モンゴルも現在30数人と多いが、人口300万からの30数人だから、各県やモンゴルという国単位と比較しても圧倒的に多いという意味での世界一の地域になる。
平成24年3月7日
奄美徳之島出身の46代横綱朝潮は「大阪太郎」と呼ばれた。大阪場所に強く、優勝5回のうち4回が大阪場所で、横綱昇進を決めたのも昭和34年の大阪場所であった。神戸・尼崎を中心として関西には奄美出身者が多く熱心な声援を受けてこその賜物であろう。現師匠も大阪場所とは縁が深く、入門したのはもちろん3月大阪場所だし、大関昇進を決めたのは昭和58年大阪場所。そして初優勝が昭和60年大阪場所、引退が平成元年大阪場所と、節目節目が学生生活を過ごした第2の故郷ともいえる大阪であった。
平成24年3月8日
大阪場所は、昭和23年10月に戦後初めて大阪での本場所として開催された。ちょうど横綱朝潮こと米川青年が高砂部屋に入門したときである。その後何回か秋場所として大阪でおこなわれたが、昭和28年から年4場所制となり、大阪は3月場所として現在に至っている。栃錦VS若乃花の千秋楽全勝対決が行なわれたのは昭和35年大阪場所だし、貴ノ花(父)初優勝での座布団の狂喜乱舞は昭和50年、そして大関朝潮初優勝が昭和60年大阪場所と、数々のドラマを生んでいる。
平成24年3月10日
もともと大阪には、江戸時代から大正末まで大阪相撲があり、京都にも京都相撲があった。奈良・平安時代の節会(せちえ)相撲は京の都で行なわれていたから全国から強豪力士が京に集まり、やがて職業相撲集団を形成していった。そういう経緯もあり、はじめは京都や大阪の方が相撲のレベルが高かった。江戸中期寛政のころ、谷風や雷電が出て江戸相撲が京都、大阪の相撲を凌駕するようになった。歴史ある大阪場所は明日から初日。朝赤龍には天鎧鵬、横綱白鵬には栃煌山。
平成24年3月11日
「大阪の春は春場所から」という通りに午前中は小春日和ともいえそうな大阪の空だったが、午後から天気が崩れ、冷え込みも再来。“荒れる春場所”も予感させる大阪場所初日。待ちわびていた大阪の大相撲ファンにとっては嬉しさ満開の府立体育館で、さっそくの満員御礼。神山、朝天舞、朝赤龍と初日を飾るも3勝5敗スタートの春場所高砂部屋。
平成24年3月13日
早朝から青空が広がるも今日も冷え込みの厳しい大阪。昨日2日目から前相撲が開始。就職場所といわれる3月場所としては過去最低の34名の新弟子検査合格者であるが、高砂部屋から受験の2人も無事合格。文字通り生まれて初めて土俵に上がる朝雄大、中学校で剣道部ながらも川口市の相撲大会には出場経験のある朝剣、ともに黒星での初土俵。
平成24年3月15日
おかみさんのお父さんである芋縄会長は、一代でスーパーマーケットコノミヤを築き上げた。もともと学生時代に相撲やボクシングの経験もあり、現師匠が若松部屋を継承以来熱心に部屋と力士を応援しつづけてきた。大阪はもちろん東京、名古屋、福岡にも毎場所エネルギッシュに応援にかけつけていたが、最近体調が思わしくなくそれも叶わなくなっていた。ところが2年ぶりの大阪場所、入院先から車椅子で府立体育館に連日通っている。相撲への熱き想いが元気の素になっている。会長の想いに応えるためにもいい成績を上げなければならない。5日目にしてようやく3勝1敗と勝越し。
平成24年3月16日
今場所初土俵の朝剣、きのうが母校埼玉県川口市立東中学校の卒業式だった。前相撲を一日休んで卒業式に出席してきたが、式のあと友達らと懇親会のようなものがあり号泣してきたという。本人いわく「一時間泣きっぱなしだったっス」とのことだが、涙と共に未練も流してきたようで、新大阪駅にはすっきりした顔で戻ってきた。今日の前相撲で初白星をあげ、9日目の土俵で関取の化粧回しを借りての二番出世披露となる。
平成24年3月18日
前相撲最終日。朝剣今日も勝って2勝目を上げ明日9日目に二番出世披露。朝雄大3連敗ながら、今場所は二番出世までしかないのであす9日目に同じく二番出世披露。朝天舞あと一番で勝越しとなる3勝目。
平成24年3月20日
大阪場所が行なわれている大阪府立体育館は中心街である難波(なんば)にある。なんば駅から徒歩5分、「キタ」とならぶ大阪の二大繁華街「ミナミ」に属するので周辺も賑やかである。入口は通行量の多い道路に面し、市内にあるとはいえ繁華街からは離れている名古屋の愛知県立体育館や福岡国際センターの正面玄関とは違った賑わいもある。今日で今場所5回目の満員御礼。朝弁慶、朝奄美負越し。
平成24年3月22日
神山今場所第1号の勝越し。なんと、3月大阪場所では13年ぶりの勝越しだそう。ゲンのいい場所、悪い場所は人によって確かにあるが、ここまで極端な例も珍しい。男女ノ里も続き、勝越し第2号。こちらは平成19年から3月場所5回連続での勝越し。幕下以下は残り1番で、3勝3敗が3人。大子錦は平成14年以降勝越したのは2年だけと合口が悪い。朝天舞は勝越し4回、負越し7回。朝乃土佐は勝越し9回、負越し2回と圧倒的にゲンがいい大阪。朝天舞、朝乃土佐が明日13日目に、大子錦は14日目に勝越しをかける。
平成24年3月23日
35年を迎える『大阪高梅会』。昭和53年9月近畿大学OBの郵便局長さんらが関取になった長岡後援会をつくり、大学の校章である梅とかけて「郵梅会」として発会。以来現役時代はもちろん、引退して若松部屋を継承してからは「若梅会」、高砂部屋になってからも「高梅会」として毎年開催され、今年で35年目となる。発会当時からすると不帰の客となったかたも何人かおられ参加者は少なくなっていくものの、発起人で会長の梶田忠博さんは今年も元気にカラオケを熱唱。芋縄会長も参加して、年一度の家族会のような和やかな場。朝天舞3人目の勝越し。
平成24年3月25日
天気晴朗なれど風強しの大阪場所千秋楽。最後の一番は、勝越した力士はもちろん負越した力士にとっても来場所へつなげる意味でも大事な一番になる。今場所自己最高位の朝乃丈、家賃が高く9日目に早々と負越したものの今日も勝って3勝4敗で終える。自己最高位での3勝目は大きな自信につながる。男女ノ里5勝目。2連敗のあとの5連勝で、来場所は三段目上位に番付を戻す。朝弁慶2勝目。今日は相手をしっかりつかまえてどんどん前に出る今場所一番の相撲。朝赤龍も幕内残留に望みを託す5勝目。あまり芳しくない春場所高砂部屋であったが、最後に少しは来場所に向けてのぞみがつながった。午後6時半より上六都ホテルにて千秋楽打上パーティー。
平成24年3月26日
千秋楽が明けて今日から1週間の場所休み。お相撲さんにとって待ちわびていた一週間である。朝乃丈と朝興貴の二人、奈良県橿原市の老人ホームを慰問。マワシ姿で四股や股割り、技を披露して拍手喝采。さらに職員との相撲対決に入所者は大喜び。そのあとちゃんこを振る舞うが、今年初めに入院して以来ずっと食欲がなくて担当の職員さんたちも心配していたおばあちゃんが、「ちゃんこおいしい」とおかわりまで。このおばあちゃんのおかわりには職員さんたちも驚き、涙ぐむ姿も。お年寄りにとっての相撲は、単なるスポーツ以上のものがある。
平成24年3月27日
塩本直輝くんは大阪の子で、この春から6年生になる。小学校低学年のころからわんぱく相撲を始め、いろんな部屋にもいったらしいが、高砂部屋の雰囲気を気にいって、以来春場所の度に土日と春休みはマワシ持参でお泊りにきている。寝るときはお相撲さんの布団にもぐりこみ、一緒にトランプをやったり、時には泣かされたり、それでも毎年マワシを持ってお泊りに来ている。いま夜の10時だが、お相撲さんと一緒にお風呂に入り楽しげな会話が続いている。
平成24年3月30日
今年からもう一人小学生が稽古に参加している。部屋の近く、鶴橋の曹けんたくんで、塩本くんと同じく今春6年生になる。いままで卓球や水泳教室に通っていて相撲の経験はまったくなかったという。マワシを締めるのも初めての体験だが、マワシ姿がえらい板についている。それもそのはず115kgもある。お鍋は大好物だそうで稽古後のちゃんこは満面の笑みで箸を動かしている。お母さんの話では、いつも晩御飯を食べながら明日の朝御飯のメニューを想像してニコニコしているらしい。相撲を始めて、卓球や水泳よりも相撲がおもしろいと思ったらしく、明日から東大阪の相撲道場にも通うことになった。あと4年後が楽しみな二人である。
平成24年4月3日
東関部屋と友綱部屋が出稽古に来る。若松部屋時代にはよく三部屋合同稽古を行なっていて、それぞれの稽古場で順番に行なっていたが、合併して高砂部屋になってからは縁遠くなっていたので久しぶりの高砂部屋での稽古。引退相撲の準備で忙しそうな元魁皇の浅香山親方も顔を見せる。 三部屋合同といっても、それぞれ部屋の力士数が減り、巡業にも何人か出ていて、三部屋合わせてようやく土俵を囲めるほどの力士数。10年ほど前の芋を洗うような賑やかな稽古場を知る浅香山親方にとっては、いささか寂しい想いも感じる稽古場であろう。
平成24年4月4日
友綱部屋も東関部屋も近々合併を控えている。友綱部屋は今月末に大島部屋と、東関部屋は年末から来年にかけて中村部屋と合併する。それぞれ力士数や裏方の数が倍増することになる。合併で人数が増え活気が出るのは喜ばしいことなのだが、困るのは地方場所の宿舎である。とくに友綱部屋の場合は関取が三人増え、行司、呼出し、床山も資格者(十両格以上)が多いので、部屋の確保に頭を悩ませることであろう。部屋による習慣や作法の細かい違いもあり、現場が落ち着くまでにはかなり時間がかかる。
平成24年4月5日
昭和58年に入門した時は部屋の数は37であった。それから年々増え続け平成16年には最多55部屋になった。その後、部屋持ちの師匠となる条件が厳しくなったこともあって独立が減り、消滅する部屋の数分だけ部屋数は減っていき現在は48部屋。今月大島部屋が消滅するが、木瀬部屋が復活するので数に変わりない。しかし今後も減少傾向はつづくであろう。
平成24年4月6日
相撲部屋の数の推移は、昭和24、5年が23部屋と一番少なくて、以後年々増えていく。戦前は今と変わらず多くて昭和17年は48部屋もある。この頃は、4,5人の家族的な小部屋も多かったはずで稽古場を持たずに、稽古は一門の本家でという部屋もあったよう。終戦直後の混乱期、そういう小部屋は食料の確保にも苦労したはずで、戦後2,3年での部屋数激減につながるのであろう。
平成24年4月10日
相撲部屋ができたのはいつ頃からのことなのだろう?江戸末期には稽古場をもった相撲部屋が存在した。以前にも紹介したように思うが、剣術の千葉周作が記している。司馬遼太郎『街道をゆく36』に出てくる。『千葉周作遺稿』によると、千葉周作は相撲が好きで稽古場もよくのぞいたという。相撲とりたちは、稽古前に食事をとるが、中程度の椀に薄い粥二杯より以上は食べないということを知った。「人目を忍びて多く食せしものは、相撲稽古にかかりて、息合ひ早く弱り、中々人並の稽古できかぬるものなり」それを剣術の稽古にも活かした。
平成24年4月11日
歌舞伎の演目で有名な『め組の喧嘩』は文化2年(1805)に実際にあった町火消しと力士の喧嘩をもとにつくられた話で、幕末の千葉周作のときより少し前になる。この乱闘事件には部屋から力士10数人も参加したようで、1800年初頭には相撲部屋で一緒に生活していたことがわかる。いろいろ調べてみると三田村鳶魚『相撲の話』に出ていた。相撲部屋ができたのは、8代将軍吉宗の享保(1716~1735)の頃のことだそうである。
平成24年4月13日
今年も両国にぎわい祭りが4月28日(土)29日(日)の二日間行なわれます。今年で第10回となる両国にぎわい祭り、28日(土)午前10時半からは国技館土俵にて高砂一門力士による公開稽古が行なわれます。そのあと関取と子供たちの稽古、親方衆(九重、八角、高砂、錦戸、佐ノ山)によるトークショー、利樹之丞の太鼓打分け実演、小錦さんトークショーなど盛り沢山の企画になっています。29日(日)は恒例の横綱審議委員会一般公開稽古も行なわれます。人気のちゃんこミュージアム(ちゃんこ屋各店の競演)もあります。
平成24年4月14日
新弟子で入門すると半年間は相撲教習所に通う。相撲教習所は国技館の中にあり、毎朝6時過ぎに部屋を出て、着物に帯を締め、慣れない下駄でカランコロンおよそ30分の道程を通う。午前7時からマワシを締めて実技の授業があり、終わると机に座っての講義。掃除して食事を摂り帰ってくる。授業は月曜から金曜まで。土曜日は教習所が休みなので部屋での稽古。教習所が始まって2週間、朝剣、朝雄大、共に休みなく通っている。
平成24年4月17日
元呼出し永男(のりお)さんが亡くなられた。享年82歳。永男さんは相撲甚句作りの名人で、これまでに作詞した甚句は1000近くにもなるという。戦後すぐに二所ノ関部屋へ入門しておよそ半世紀の呼出し稼業。太鼓の名手でもあり、NHK大相撲中継で流れる太鼓の音は永男さんの太鼓であった。また現在の相撲教習所の校歌とでもいうべき相撲錬成歌も永男さんの作詞である。平成7年3月場所で定年の後も全国相撲甚句会をつくり甚句の普及に東奔西走していた。心よりご冥福をお祈りいたします。
平成24年4月18日
昔ある宴席で永男さんと同席させてもらったことがあり、そのとき相撲錬成歌の話を聞かせていただいた。元横綱栃錦の春日野理事長から直々に作成を依頼されたという。作詞して理事長のところに持っていくと、ざっと目を通しだけで机の中にしまわれるらしい。「うん、まだあるだろう?もっと考えてこいよ」そんなことが何度か続き、これしかないという自信作をもっていったが、「うん」とうなづいただけで、机の中にしまわれてしまう。最終的にこの詩に曲をつけてもらいテープに吹き込んで持っていったら、ようやく「おお、なかなかいいじゃないか」とゴーサインが出たという。この苦心の相撲錬成歌は今も毎日相撲教習所で授業の終わりに歌われている。晴れ晴れと心に響く名作である。
平成24年4月19日
呼出し永男さんには平成6年マガジンハウスから出版した『相撲甚句・有情』という著作がある。人情味溢れる朴訥な永男さんの語り口そのままの文章で、入門してから48年間の呼出し人生の泣き笑い裏話や甚句の話が、相撲甚句の歌詞を挟みながらつづられている。しんみりホロリとした人情と ユーモアが織り重なる相撲甚句の世界そのものと永男さんの人生が重なっている。
平成24年4月21日
4月28日(土)両国にぎわい祭りの高砂一門連合稽古、他の催しの詳細も決まりました。『高砂一門 感謝の集い』と銘うって、午前10時半から12時まで稽古の後「関取と子供の稽古」つづいて九重・八角・高砂・錦戸・佐ノ山親方による「親片トークショー」(以上は土俵で)。その後エントランスホールにて元北勝力の谷川親方の「大銀杏髪結い実演」中村親方・元高見山・KONISIKIによる「対談」呼出し利樹之丞による「櫓太鼓実演」。KONISIKIさんの歌とトークショー。その他屋外テントなどにてサイン入りポスターの配布や握手、写真会、髪結い(ちょん髷)の公開なども行なっています。
平成24年4月23日
5月場所新番付発表。朝赤龍は東前頭14枚目。朝弁慶の負越しで幕下が一人もいなくなってしまったが、3月場所初土俵を踏んだ踏んだ二人の四股名が初めて番付に載っている。朝剣は西序ノ口15枚目、朝雄大は西序ノ口の一番下21枚目。相談役武蔵川親方と放駒親方の名前のすぐ横にある。
平成24年4月24日
5月場所に向けての稽古始め。7時に稽古開始で8時半より土俵祭。今場所は従来通り木村朝之助祭主で安心して見られる。相撲教習所の授業は番付発表前までなので、今日から朝剣、朝雄大の新弟子二人も部屋での稽古に加わる。三月場所の稽古場ではまだ半分お客さん扱いであったが、そろそろ本格的な稽古が始まってゆく。三月は、休み休みしか踏めなかった四股もようやくつづけて踏めるようにはなってきた。二人増えただけだが、稽古場がずいぶん賑わいで見える。
平成24年4月26日
宮城県石巻の石巻市立牡鹿中学校の3年生20名が稽古見学。生徒に修学旅行のとき東京で行きたいところとアンケートをとったら、相撲部屋の朝稽古という声が多かったらしく地元石巻出身の朝天舞の母親を通じて話があり、今朝の見学となった。泥まみれ汗まみれで何度もぶつかっていく力士の姿を見て感じるものは大きかったようで、真剣なまなざしで稽古に見入っていた。稽古後ちゃんこを食べ、地元の先輩朝天舞と記念撮影。先輩の頑張りを胸に、これからそれぞれの道で地元の復興の力になってもらいたい。
平成24年4月27日
朝雄大は180cm、100kgと15歳にしては立派な体格だが、小・中学校と運動経験はまったくない。昨年夏、初めて夏合宿に参加したときには稽古中まっすぐ立っていられなくて、しばしば壁にもたれかかっていた。半分お客さん扱いだった3月場所を終え、相撲教習所に通い、部屋での稽古でも何度か悲鳴を上げたり涙をみせたりしながらも2ヶ月間休まずつづけてきた。ようやく稽古中も壁にもたれずに立っていられるようになり、挨拶もできるようになってきた。まだまだ力士への道程は長いが。それも大相撲ならではのことである。
平成24年4月28日
両国にぎわい祭り。国技館会場は、「高砂一門感謝の集い」で高砂一門の連合稽古。高砂、九重、八角、中村、錦戸、東関部屋の力士が100人近く本土俵の周りを囲み、序ノ口・序二段、三段目・幕下、関取衆と申し合い稽古を行なっていく。10時から稽古開始して10時半前にお客さんを入場させると、用意された正面と西側の桝席はあっという間にほぼ満席となった。12時からは子供たちとの稽古で沸き、親方5人(九重、八角、高砂、錦戸、佐ノ山)によるトークショーも元NHKアナウンサー石橋さんの司会のもと、稽古の話や今だから言える話などお客さんを大いに楽しませた。明日は横綱審議委員会総見稽古。
平成24年4月29日
申し合い稽古は、勝った力士に次の相手の指名権がある。そこで、勝負が決まると勝った力士に周りで見ていた力士達がいっせいに群がる。「ごっつぁんです!」「ごっちゃんし!」「ごっつぁん!」自分を買ってもらおうと(指名してもらうこと)必死で自分の存在を売り込む。初めて稽古を見る人にとっては大声で叫びながら力士たちが群がっていく光景が面白いらしく、「あれ何しているんだろう?」と妙に受けながら不思議がっている人が多い。勝負の決まりどころを見極め、素早く移動して、他人を押しのけ積極的にいくことが、心身の鍛錬にもつながる。これを「揉みにいく」という。
平成24年4月30日
一昨日の連合稽古や巡業の稽古などでは、2,30人が一同に土俵を囲むから、やる気がないと一番も稽古できなくなってしまう。やる気があって積極的に声を出して揉みに行っても、勝負が決まった場所の近くにいないと買ってもらえない。目の前で勝負が決まっても、声の出し方、足の出し方がワンテンポ遅れると横から割り込まれてしまう。土俵内の力士の相撲っぷりや強弱などを予想し、感を研ぎ澄ませ、一歩目を早くして、勝ち力士の顔の前に自分の顔を持っていくことが必要になる。買ってもらって勝ち続けさえすれば何十番でも稽古ができる。
平成24年5月1日
強くなっていくことは難しい。もちろん稽古しなければ強くならないが、稽古量と強さが比例するわけではない。強くなっていくときも、階段を一段一段登るように強くなるときもあるが、ある日突然強くなるときもある。これを「化ける」という。しかしながら大半は、稽古をやってもやっても変わらず、一進一退をくり返し、そのうち年齢と共に衰えていく。心技体というように、強さは、意識や気持ち、技術、肉体的強さが絡み合って成り立っている。肉体的な強さは徐々にしか変わらないが、大勢の観客の前での一番が、心を大きく変えることがある。
平成24年5月2日
朝龍峰と朝興貴は三年前に入門したが、その後新弟子が入らず、三年間一番下で下働きを余儀なくされてきた。今年ようやく2人の新弟子が入門して多々の雑用からも少しは解放され、時には指導的な立場にも立つようになった。今まで稽古場であまり めが出なかった朝龍峰だが、胸を出せる新弟子がはいってきたことで自信もついてきたようで、今まで分の悪かった朝興貴とも五分以上の相撲を取るようになってきた。これも、心の持ちようが強さをつくっていく一例である。
平成24年5月3日
逆に朝興貴のほうは最近精彩を欠いている。もともと草食系で、新弟子への指導的なことも苦手なタイプで、「ちゃんと教えてやらんか」と怒られることも多くなった。怪我のせいもあるのだが、今まで圧倒していた朝龍峰や朝奄美にも分が悪くなり、その分ぶつかり稽古でドロドロになっている。肉体的にはいいものをもっているだけに今は我慢の時期である。飯の時にはみせる積極性が稽古の時にも表面に出てくればいいのだが。強くなっていき方も、人によっていろいろな波がある。
平成24年5月4日
突っ張りを覚えるのは難しい。現役時代何度か覚えようと試みたが、つい押してしまい、ものにはならなかった。突き押し相撲というが、「突き」と「押し」は相手との間合いが全然違う。「突っ張る」には、立合いで相手を突き放して間合いを開けなければならない。肘が伸びて相手との距離がある程度できないと突っ張れない。逆に押し相撲は、相手とくっつかないと押せない。どちらかというと、四つ相撲の間合いに近いくらいである。最近まったく突っ張れなかった朝興貴、ようやく立合いの突き放しが出て、久しぶりに何番か突っ張りで相手を土俵の外に出すことができた。初日まであと2日。
平成24年5月5日
午前10時より土俵祭。最近は三役以上の力士も羽織袴で土俵下に控え、木村庄之助祭主の土俵祭を見守る。一般公開もされているので、桝席には一般の大相撲ファンの姿も。土俵祭終了後触れ太鼓が土俵の周りをまわり街へと繰り出す。また国技館玄関横では初場所優勝の大関把瑠都と春場所優勝の横綱白鵬に優勝額の贈呈式が行なわれる。優勝額は高さ3mあまり横2mあまりの大きさで白黒写真を実物の1,5倍ほどに引き伸ばして上から油絵具で彩色する。昭和26年の照國以来60年余り、佐藤寿々江さんが一人で描きつづけている。
平成24年5月6日
新緑に風薫る五月場所初日。午前8時20分より序ノ口の取組が始まる。昨日の土俵祭で清められた土俵上で初めて相撲を取るのは序ノ口21枚目の朝雄大。五月場所は朝雄大に始まり白鵬で終わる。その朝雄大、場所前の稽古で頭がわき(ぶつかりで内出血して腫れ)血が目に下りてきて片目がふさがってしまった(新弟子にはよくあることだが)。今日の相撲でも片目(初白星)があかなかったが、初日6勝2敗と好調なスタートの五月場所高砂部屋。
平成24年5月8日
脇が開いてしまってしまって相手にすぐ差されてしまうことを脇が甘いという。脇が甘くて相手に双差しに(両腕とも差されてしまう)なられると、重心が上がり残せない(踏ん張れない)。逆に相手の方は中に入って腰を落とせるから楽に攻めることができる。入門4年目の朝龍峰、馬力はそこそこついてきたものの脇が甘く腰が引けてしまう欠点があり番付を上げられずにいるが、だんだん足が前にでるようになってきた。足が前に出れば腰も前に入り、たとえ差されてもおっつけて前に攻められるようになる。今日も前に出る相撲で2連勝。朝天舞、朝乃土佐も2連勝。
平成24年5月10日
今日勝って3勝目の幕内朝赤龍、初日から連日懸賞がかかっている。東大阪を拠点とする大阪バス㈱という会社で、全国にグループ会社を展開する社長が師匠と昔から懇意にしているご縁で、今場所15日間朝赤龍の取組に懸賞をかけて下さることになった。今日で3本目の懸賞獲得。応援してくれる社長のためにも最低10本は懸賞金を獲得したいところである。
平成24年5月11日
今場所初めて番付に名前が載った朝剣、中学時代は剣道部で活躍していた。ただ体が大きかったので、時折川口市(埼玉県)の相撲大会にも出場したことがある。入門すると通う相撲教習所は、入門者を強い順からABCと分けて稽古させているが、朝剣は中級者とでもいうべきB班で稽古しているという。運動神経もそこそこあり、頭からもしっかり当たれて稽古場ではそれなりの力をみせているが、本場所ではまだ緊張感が強いらしく、一番弱いC班の同期生にも負けてしまっていた。今日ようやく序ノ口での記念すべき初白星。この1勝で少しは緊張感もほぐれ力を発揮してくれることであろう。これから何年間、いくつの白星を積み重ねていけるか。
平成24年5月12日
朝興貴、朝龍峰の二人は入門3年を過ぎ4年目に突入している。少しずつ力をつけてきたとはいえ、稽古場で毎日見ている限りには兄弟子たちにはまだまだ歯が立たず、成長度がわかりにくい。3年ぶりに新弟子が入ってきて胸を出す立場になってみると、新弟子に思い切り当たられてもしっかり受け止め、突き放しと力の違いを見せられるようになった。下ができると傍目に見ても力がついたのがわかるし、本人の自信にもなるのであろう。共に3連勝と勝越しに王手をかけていたが、朝龍峰今場所初黒星で第1号の勝越しならず。
平成24年5月13日
五月晴れの中日8日目。新緑を吹き抜ける薫風が心地よい。お相撲さんにとっては五月、七月、九月が浴衣の季節だが、七月・九月は浴衣には暑過ぎ、着て歩くだけで汗だくになってしまう。五月場所こそが浴衣にふさわしい場所だといえる。稽古場でもさわやかないい汗をかくことができ、稽古にも一番いい季節である。入門8年目、初日から2連敗と弟弟子の後塵を拝していた朝奄美、2勝2敗と星を五分に戻す。朝奄美は季節に関係なく真冬でも四股を10回踏んだだけで汗をかくが。朝興貴、給金相撲(勝越しのかかった相撲)を落とし勝越しならず。
平成24年5月14日
宮城県石巻出身の朝天舞。今場所は三段目3枚目と勝ち越せば幕下復帰が確実な番付。今年の正月には久しぶりに帰省したが、家族も少しずつ日常を取り戻しつつあるものの復興への道程はまだまだ遥か遠いという。稽古に励み番付をどんどん上げていくことが、家族への、石巻への大きな支援になる。今日は快心の相撲で3勝目。場所後には、力士数名で石巻の猫島などへの慰問も予定されているので、あと一番、幕下復帰を決めて故郷に錦を飾りたいところである。
平成24年5月15日
朝から雨の五月場所10日目。いつもは爽やかに旗めいている力士幟も雨をすいこみ水垂れて重たそう。幟を上げられるのは十両以上の関取のみだが、呼出しや行司も十両格以上になると幟を上げることが出来る。入門20年目を迎える呼出し邦夫、今場所両国駅から国技館へと向かう目立つ場所に 幟が上がっている。高校の同級生4人が連名で20周年記念にと上げてくれた幟だそう。 序二段30枚目の朝興貴、今場所第1号の勝越し。三段目復帰にはあと1勝しなければならない。
平成24年5月16日
裏方である行司、呼出し、床山にも、力士とおなじように階級がある。床山は見習いから始まり五等、四等、・・・一等、特等と昇格していくが、行司は、力士と同じように序ノ口格から始まり、序二段格、三段目格、幕下格と昇格していき十両格になると資格者となる。力士でいえば関取待遇である。呼出しも、同様に序ノ口から始まり十両呼出しになると資格者になる。資格者になると一日2番ずつ土俵に上がるが、今場所は、呼出し邦夫の呼び上げで力士が土俵に上がり、木村朝之助が相撲を捌く、高砂部屋コンビの姿が十両始まってすぐの取組で見られる。
平成24年5月17日
「十両格行司」「十両呼出し」と一般的に使われるが、「十両」は通称で、正式には「十枚目格行司」「十枚目呼出し」である。もちろん力士も「十枚目」が正式な地位名になる。幕末から明治にかけて幕下10枚目までを関取待遇として十両の給金を出したことによるという。序二段朝龍峰、朝奄美勝越し。三段目でも朝天舞、朝弁慶が勝越し。三段目3枚目の朝天舞は幕下復帰が確実。朝弁慶はあと一番勝てば幕下復帰の可能性も出てくる。
平成24年5月19日
スカイツリーオープンまであと3日と迫り地元墨田区は祝賀モードで沸き立っている。墨田区本所3丁目の高砂部屋からも4階屋上に出ればその偉容が目に飛び込んでくるし、国技館からもよく見える。今日明日は、地元町会による神輿や出店、コンサートなど盛りだくさんの前祝いイベントで22日の開業を待つ。墨田区が、お江戸の、日本の、注目を集めている。朝龍峰5勝目。朝興貴5勝目ならず三段目復帰はアゴ。大子錦、朝乃土佐も勝越し。
平成24年5月20日
墨田区は、本所区と向島区が合併して墨田区となった。昭和22年のことである。本所一帯は、もともと低湿地で人家も少なかったらしいが、江戸時代の振袖火事とよばれた明暦の大火(1657)の教訓で、新たに屋敷地をつくるために開削され土を盛り上げ街が造成された。死者10万人を超える明暦の大火の死者を埋葬するため回向院ができ、火事の4年後には両国橋が架かり、橋の両側に火除地として広小路ができて芝居小屋、見世物小屋で賑わい、回向院境内での大相撲興業につながった。両国は江戸文化の中心地であった。朝弁慶5勝目。幕下復帰の可能性が高まった。すでに幕下復帰を決めている朝天舞も5勝目。
平成24年5月21日
旭天鵬の劇的な優勝で幕を閉じた五月場所千秋楽。花道で待つ付人や関係者の涙でも感じられるように、今場所前に消滅した大島部屋のリーダーとして人望厚く、温厚な人柄は横綱朝青龍も兄のように慕っていた。関り合っている周りの人々が心から祝福する優勝であった。朝天舞、朝弁慶、朝乃丈、朝興貴の4力士、宮城県石巻の網地(あじ)島を訪問。ホームの慰問や、生活センターで地元の人たちと技の紹介、相撲甚句、チャンコなどで交流。
平成24年5月22日
午前7時半網地島を出港して隣の田代島へ。田代島は猫島として有名な島で、人よりも猫のほうが多く住んでいるそう。もっとも全島民80名ほどだそうで、港からほどちかい開発センターでちゃんこをつくりマワシ姿の4力士が、四股や股割り、技を披露。島民の半数近くになる30名あまりの方が集まり、お相撲さんに挑戦したり質問や写真撮影などで楽しく過ごす。終了後モーターボートで石巻の鮎川港に渡り、老人ホームを二か所慰問。「江戸の大関より、おらがくにの三段目」という通り、石巻出身の朝天舞には大きな拍手が送られ、5勝2敗で幕下復帰の活躍に元気な笑顔が咲きほこっていた。
平成24年5月27日
大関魁皇引退浅香山襲名披露大相撲。平成の大相撲界を背負った名大関の引退相撲である。若松部屋の頃は、友綱部屋、宮城野部屋と合同で稽古をしていたので、17,8歳の頃から稽古場でよく見ていたが、幕下のころからスケールの大きさは際立つものがあった。優勝を5回しながらも横綱に上がれなかったが、その後の満身創痍の中でのひたむきな土俵態度や1047勝という通算最多勝利数などは、名大関でいたからこそであろう。先日国技館で挨拶を交わしたが、飾らない人柄と謙虚な態度は親方となった今も変わらない。若い頃の豪放な酒乱ぶりも魅力ではあったが。
平成24年5月28日
そういえばモンゴルでも魁皇人気は絶大であった。2006年に高砂部屋モンゴル合宿をおこなったときに行ったお店でも朝青龍とならんで魁皇のブロンズ像(一番下右写真)が飾られていて、「なぜ魁皇?」と尋ねたら「男らしくてかっこいい!」とほめちぎっていた。モンゴル巡業でも土俵に上がると大歓声に包まれ、握手攻め写真攻めとすごかったよう。今回の引退相撲も話題になっているのかも。今日から名古屋場所に向けての稽古再開。
平成24年5月30日
元々隅田川東岸本所辺り(現墨田区一帯)は下総の国であった。寛文元年(1661年)橋が架けられ江戸市中となった。武蔵(江戸)の国と下総の国をつなぐから両国橋と呼ばれるようになったそうで、両国橋ができて町になった。深川はもう少し早く、江戸初期三代将軍家光の頃に開かれたらしい。富岡八幡宮が建てられたことによるという。富岡八幡宮で初めて勧進相撲が行なわれたのが貞享元年(1684年)。その頃から隅田川東岸での大相撲の歴史が始まった。
平成24年5月31日
三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)は明治3年の生まれで、江戸文化研究で知られ「江戸学の祖」とも呼ばれる。中公文庫から出版の鳶魚江戸文庫4は「相撲の話」で、深川八幡の相撲についても詳しい。江戸時代度々「相撲禁止令」が出たが、24年ぶりに許可された深川八幡での勧進相撲は、5代将軍綱吉の意向が大きかったという。綱吉は、亡父3代将軍家光が造営した富岡八幡宮や深川の繁栄を望み、永代橋を架け勧進相撲を許した。以後100年近く、年2場所春秋の相撲興業が深川富岡八幡宮境内で行なわれた。
平成24年6月1日
もっとも本場所が深川八幡と定まっていたわけではなく、芝神明、御蔵前八幡、両国回向院、茅場町薬師などでも行なわれていた。天保4年(1833年)冬場所から定場所が回向院境内にほぼ落ち着いたという。何度もの大火のため火除地として両国橋のたもとに広小路ができ、芝居や歌舞伎、寄席、見世物小屋など江戸の娯楽がすべて両国に集まった。自然に相撲も両国回向院境内に定着した。当時の両国の賑わいぶりは、すさまじいものがあったそう。
平成24年6月2日
以前蔵前に住んでいた。山の手からみたら蔵前も両国も同じ下町なのだと思うが、近いだけに微妙なムラ意識がある。蔵前の地の人は、隅田川東岸を「川向こう」と呼ぶ。声高に言うわけではないが、言葉の端々に何となく滲みでるものがある。確かに蔵前に住んでいたときは、現在の両国緑町よりも都会を感じることもしばしばあった。蔵前も両国も、相撲に関わりが深い。江戸勧進相撲は「御蔵前神社」でも「両国回向院」でも行なわれたし、国技館は明治42年両国に開館され、戦後蔵前に移り、そしていま再び両国に戻っている。
平成24年6月3日
毎年6月に近畿大学校友会東京支部である一木会のちゃんこ会が高砂部屋で行なわれるのが定例になっている。今年も6月1日に行なわれ、20数名の近畿大学卒業生の方々がお見えになられた。近畿大学は、いわずと知れた師匠の母校。学生数3万人超、卒業生45万人超を誇るマンモス大学で、大関朝潮の現役時代からたくさんのOBの方に支えていただいている。卒業生には大相撲はもちろんプロ野球選手も多いし、水泳の寺川綾選手、俳優の赤井英和やシャ乱Q、故人となったがプロレスの吉村道明と、有名人も多数輩出している。
平成24年6月4日
近畿大学相撲部の歴史は古い。大正14年創立(旧大阪専門学校時代)だから今年で87年を迎え、これまで大相撲にも数多くの力士を送り込んでいる。大関朝潮、横綱旭富士を筆頭に、幕内力士として武蔵川部屋大輝煌(だいきこう)、高砂部屋朝乃若・朝乃翔、伊勢ケ濱部屋宝富士。十両に阿武松部屋古市、八角部屋大岩戸、伊勢ケ濱部屋誉富士(ほまれふじ)、木瀬部屋徳勝龍(とくしょうりゅう)とつづく。幕下以下も含めると、高砂部屋朝陽丸(あさひまる)、北の湖部屋杉田・吐合、木瀬部屋濱口と合計14名が入門している。
平成24年6月5日
学生横綱と呼ばれる全国学生相撲選手権大会の優勝者を近大相撲部は6人(7回)輩出している。昭和24年の吉村道明(のちプロレスラー)、昭和51年・52年の長岡末広(現高砂親方)、昭和56年山崎幸一、平成元年林正人(元大輝煌)、平成15年上林義之(現大岩戸)、平成16年吐合明文(現吐合)。またアマチュア日本一を決める全日本相撲選手権大会では、昭和51年・52年と2連覇の長岡末広、平成3年の伊東勝人(現近大相撲部監督)、平成13年三好正人(元朝陽丸)の三人が、アマチュア日本一天皇杯の栄冠を抱いている。
平成24年6月6日
回転エビ固めの吉村道明といえば、往年のプロレスファンには懐かしい響きであろう。吉村道明氏は、大正15年岐阜市の生まれで14歳で入隊して海軍相撲で鍛えたという。復員後近畿大学に入学し、1年生で学生横綱となった。卒業後全日本プロレスに入門、力道山らと共にプロレスの黎明期を支えた。いつも朗らかで、師匠のことを「大」と呼び、師匠も「先輩」と慕い、若松部屋の頃はよく部屋に顔をだしてくれていた。来られると座が華やかになり、高齢となられてもスターであった。平成15年76歳で故人となられた。今でも近大相撲部道場で、初代総長と横綱姿の吉村氏の大きな油絵が、学生たちの稽古を見守っている。
平成24年6月7日
近畿大学相撲部の歴史を語るうえで、中興の祖というべき祷監督の名は外せない。祷厚己氏は、奄美加計呂麻島の生まれで地元の大島高校から近畿大学に入学。卒業後近畿大学職員となり助監督を経て監督となった。現師匠の恩師であり、祷監督最後の弟子が朝乃若、朝乃翔である。2年連続学生・アマ両横綱長岡の現師匠が高砂部屋入門となったのも、同じ奄美徳之島出身の元横綱朝潮高砂親方と祷監督の縁に由るところが大きい。近寄りがたい威厳があったが、人情味溢れ世話好きな監督でもあった。
平成24年6月8日
祷監督には個人的にもずいぶんお世話になった。琉球大学相撲部を立ち上げて、大阪での試合に参加した時のこと。「君は徳之島だそうだな」「俺も奄美だから、今度から試合で大阪に出てくるときは近大に泊まれ」と声をかけていただいた。それから琉球大学相撲部は、11月の全国選手権と6月の西日本選手権には近大クラブセンターに宿泊、朝稽古に参加させてもらい、ちゃんこをご馳走になり、相撲部のバスで一緒に試合会場に乗り込むという厚遇に甘えさせていただいた。今日から茨城下妻市大宝八幡宮での合宿。今年で10周年となる。今年も錦戸部屋との合同合宿。
平成24年6月9日
あいにくの雨の中、第2回わんぱく相撲下妻場所。小学校4年生から6年生までの30人のわんぱく力士が集まり、各学年ごとの個人戦と、学校対抗の団体戦を競う。相撲は初体験の子もいるが、柔道に親しんでいる子は多く、豪快な投げ技や、足の取り合い掛け合いと熱戦がつづく。くるくると目まぐるしく動き土俵際もつれる大相撲に普段より難しい行司捌きに木村悟志差し違えまで。表彰式のあと、応援に来ていた子供たち(女の子も)も裸足で土俵にあがり、お相撲さんに挑戦。肌寒いほどの気候だったが、ワイワイキャーキャーと熱気あふれる土俵となった。明日から三日間は合同稽古。
平成24年6月10日
茨城県下妻市大宝八幡宮高砂部屋・錦戸部屋合同合宿稽古初日。昨年震災の影響で中止になったので、2年ぶりの大宝の方々との再会。毎年ちゃんこ作りを手伝ってくれる大宝レディーズ。今年は半減して2人になったが、“清ちゃん節”(6月9日)は健在で笑いの絶えない賑やかなちゃんこ作りがつづく。東京へ出張に来た九州場所でおなじみのゴーヤーマンが顔を見せ、地元日立で就職している元塙乃里も登場と、飛び入りゲストや懐かしい顔との再会も合宿ならではのこと。
平成24年6月12日
お世話になっている大宝八幡宮は701年(大宝元年)創建の古社で、平将門や源頼朝にも縁の歴史があり、祭りや年中行事など地域とのつながりも深い。合宿最終日。稽古とちゃんこ、掃除の後、見送りの奉納相撲保存会役員の方々やおばちゃんたち、園児に見送られ午後2時前バスにて八幡さまを後にする。
平成24年6月13日
大宝八幡宮は年中行事としてのお祭りが多い。高砂部屋合宿も、お祭りごとの一つに入るであろう。お祭りごとは、楽しみが大きい半面、実施するには、人集めや準備、まとめ役と難儀な面も多い。大宝のあらゆるお祭ごとは、大宝八幡宮奉納相撲保存会の入江会長が神輿の中心となって地域をまとめている。その入江会長、今年も連日の歓迎会主催でお疲れモードだったが、最後の日も早朝から稽古を見守り、チャンコに缶ビールで別れを惜しみ、動き出すバスに手を振る。祭りの後の寂しさに包まれるときでもある。
平成24年6月14日
朝刊に「日本最古の木簡」の記事が出ていたが、「大宝律令」以前の木簡であるという。大宝八幡宮の大宝は、「大宝律令」の大宝であるから、その歴史は古い。境内一帯がもともと沼地に囲まれた台地であったらしく、下妻氏の大宝城が築かれ、南北朝の争乱で激戦が繰り広げられたという。 本殿と社務所の間を通って奥へ進むとアジサイ苑になっているが、もともとは大宝城址の土塁保全のために植えたものだそうで、現在は300種4000株のアジサイが咲きほこる散歩道になっている。合宿時にはまだ2,3分の咲き具合であったから、6月24日のあじさい祭りの頃は、ちょうど見頃であろう。
平成24年6月15日
高砂部屋一階稽古場の上り座敷の横には、置物が何点か飾られている。なかにビーズ飾りの兜や必勝高砂部屋の賑やかな祝樽などもある。江戸川区平井の大ちゃんクラブ(師匠が現役時代からの応援団)村田さんの奥さんの作品で、番付表をうまく活用して見事な出来栄えである。その村田さんの奥さんが「番付表で折った折り鶴のスカイツリー」を作り、6月8日付の“東都よみうり”誌で紹介されている。江戸川の喫茶室経営女性が制作で、平井で24年間「喫茶室サリー」を営む村田良子さんとある。「相撲界の盛り上がりや日本の復興を願って」とのコメントも。夫婦共々高砂部屋とは30年来のお付き合いになる。
平成24年6月16日
本所高砂会の塩川会長が亡くなられた。本所高砂会は、地元町会の高砂部屋ファンクラブ的な集まりで、部屋のある本所3丁目や2丁目を中心に会員を募り、年1回の懇親会や稽古見学ちゃんこ会などで交流を深めている。その立ち上げの中心となっていたのが塩川会長で、高砂l部屋が本所に来た平成3年以来、90歳となられたこの5月場所まで20年あまり、高砂部屋を応援しつづけていただいた。心よりご冥福をお祈りいたします。
平成24年6月17日
先発隊6人(大子錦、朝天舞、朝乃丈、朝弁慶、朝興貴、松田マネージャー)蟹江龍照院入り。部屋から荷物を出し、畳を敷き、バルサン焚いて、一年間のホコリと汚れを洗い流す。ガス水道は大丈夫なのだが、手違いで電気がまだ通ってなく、夜になると真っ暗な宿舎。先発隊ではたまにあることだが、電気のない生活があまり経験のない朝乃丈や朝興貴は、こぼしまくり。幸い今宵は名古屋も涼しいので、まだ8時半だが寝るしかない。
平成24年6月18日
電気のない生活を一晩過ごすと朝の光がありがたい。5時には目が覚めてしまった。おすもうさんはいつもと変わらず寝ているけど・・・。幸い朝からお天気にも恵まれて掃除や荷物の片付けも順調にすすむ。夕方には待望の電気開通。ブーブーやかましかった朝乃丈も、にっこりおとなしくなった。文明のありがたさを身にしみたことであろう。
平成24年6月19日
台風接近で朝からの雨がつづき先発隊の仕事も小休止。一年ぶりに蟹江龍照院宿舎に入ると、昨夏の台風で宿舎の2つのプレハブをつないでいる屋根がところどころ剥がされている。台風直撃だとさらに危険になるため、急きょ残った屋根も剥がしてもらい台風に備える。宿舎も築20年近くなるので毎年あちらこちらほころびも出てくる。各部屋の土俵築のため、呼出し利樹之丞と邦夫も蟹江入り。
平成24年6月20日
台風一過。雨があがり、冷蔵庫やちゃんこ道具などの洗いもの作業。
平成24年6月22日
先発中の早朝、宿舎に入門志願者が訪ねてきた。蟹江の隣町の若者で、小さい頃から相撲が好きで高砂部屋の稽古もよく見学していたという。立派な体格とはいえないが、何とか新弟子検査の基準(167cm、67kg)は満たしている。ちょうど朝のトレーニンング中だった朝天舞が応対したが、「悩んだ挙句、仕事も彼女も捨てて入門を決意した」という。その心意気や大いに良しとしたいが、肝心な点をひとつ見落としていた。この3月で23歳になったという。新弟子検査を受検出来るのは23歳未満で、23歳の誕生日が来た時点で受検資格を失ってしまう。未だ未練を残しているらしく、今朝もお茶を差入れして、先発隊の掃除など手伝って帰った。
平成24年6月23日
もちろん自分をも含めて言っているのだが、志願兵には変わりもんが多い。もともと相撲が好きで、力士に憧れ、志願して入門してくる人間は、意外と少ない。好きで入門する人間は長続きするかといえば、そうでもない場合が多い。体が小さい人間が多いというのもあるが、変わりもんで団体生活になじめない場合もある。相撲が好きだけで入ってくると、理想と現実のギャップにさいなまれ、あっけなくやめてしまう場合も多々ある。
平成24年6月24日
逆に、相撲取りになんかなりたくなかったのに、体が大きかったとか、たまたま相撲大会に出たら優勝しちゃったとかで周りからすすめられ、断り切れずに入門してくる力士のほうが長持ちして頑張ったりする例も、ままある。そういう場合は、入門時に盛大に壮行会など開いてもらっているから、親や恩師の顔をつぶせない気持ちが、彼を引き止めてくれる。志願兵の場合そういうしがらみはないから、嫌なことがあると自分の判断だけでスッと逃げ出してしまうことがある。残り番の力士も名古屋入り。明日が番付発表。
平成24年6月25日
名古屋場所番付発表。朝赤龍、平成15年1月場所以来の十両。高砂部屋から幕内力士が消えるのは、平成13年3月場所以来。この場所は、幕内闘牙が交通事故による謹慎処分で十両陥落。明治11年以来122年つづいていた高砂部屋の幕内力士が途絶えた。ただ、十両以上の関取は明治11年以来134年連続と記録を更新中。朝天舞、朝弁慶の二人幕下復帰。早く二人に上がってもらわないと・・・。
平成24年6月26日
幕内も十両も同じ関取だが、階級社会だけに違いはある。まず給料が違う。幕内130万9千円に対し十両は103万6千円。夏冬のボーナスも給料一月分だから、年間だと400万円余りの差が出てくる。懸賞金をもらえるのも幕内のみで、十両では懸賞がかからない。また場所入りの時、自分の四股名を染め抜いた“染め抜き”の着物を着られるのも幕内力士のみに許されること。控えの座布団も、自分の四股名を入れたマイ座布団を使えるのは幕内のみで、十両は用意された同じ座布団に座る。 稽古始め。名古屋場所らしからぬ涼しい稽古始め。
平成24年6月27日
幕下41枚目と自己最高位(36枚目)近くまで番付を戻した朝天舞、名古屋入りしてからも自主トレ、稽古と本場所に向け余念がない。その朝天舞、どちらかというと倹約家(カタイとも言うが)で有名だが、夕方珍しく「ジュースおごるよ!」と部屋の前にある自販機の前に立った。近くにいた若い衆、「ごっちゃんでーす」と、ここぞとばかりに喜び勇んで自販機の前に並んだ。さらにチャンコ場の奥にいた力士達も群がり出てきて自販機には長蛇の列。中には再び列に並び直すちゃっかり者も。はじめ誇らしげにしていた朝天舞の顔にだんだん陰りが見えたような気がしたのは、夕暮れのせいだけでもなさそうな“事件”であった。
平成24年6月28日
「押さば押せ 引かば押せ」は相撲の極意である。新弟子はひたすら押しを稽古させられる。「押し」は単純そうにみえるが、基本なだけに難しく深い。押してもビクとも動かない相手を押しつづけるのは苦しい。「押しは忍しに通ずる」ともいう。今年3月入門の朝剣、いまはひたすら動かない兄弟子にぶつかり、押す力を磨く毎日。ひたすら押すだけの稽古が、忍す心を、押す技術を、体の押す力を鍛える。
平成24年6月29日
諸説あるようだが、「押さば押せ・・・」は、「押すに手なし 押さば忍(お)せ 引かば押せ おして勝つは相撲の極意」という。「押し」と「忍し」、身体的精神的両面から相撲の極意をあらわしている言葉である。空手でも「押忍」(オス)というから武道的極意でもあろう。「押す」には全身を使うことが大切になる。全身を使うためには腰を割らなければならない。「腰を割る」ことで「忍(お)す」ための「肚(ハラ)」もできる。新弟子朝剣、押すときに右膝が中に入ってしまい、つま先立ちになってしまう(多くの力士に見られることだが)。押せなく、忍せない。
平成24年6月30日
つま先立ちは、なぜダメなのだろう。つま先立ちで押すとき、つま先は前に向く。前に向けなければ前に押せない。つま先を前に向けると自然に膝も前を向く。膝が開かず中に入った構えになる。膝が中に入った構えは、横に捻られると、ひとたまりもない。簡単に転んでしまう。また骨格の構造的にも、つま先には細い骨と薄い筋肉や靭帯しかなく、大きなパワーをだすような構造にはなっていない。

編集中

平成24年7月1日
毎年恒例の蟹江龍照院境内でのちゃんこ会。「海部を明るくする会」のご協力で、大鍋2つに300人分のちゃんこをつくり地元の方々に振る舞う催し。今まで雨にたたられたことがなかったが、珍しい雨天の中での強行。時折激しくテントを叩く雨が降り続き、一鍋くらい余ってしまうかもと心配していたが、始まってみると何のその。雨の中、傘を片手に多くの町民にお越しいただき、1時間ほどで2つの大鍋が空っぽに。大勢の方が毎年のこのちゃんこ会を楽しみにしている。昭和63年から蟹江龍照院にお世話になり、今年で25年目になる。
平成24年7月2日
名古屋入りして稽古始めの翌日から朝赤龍は友綱部屋へ出稽古の毎日。部屋の稽古は最後、朝天舞、朝弁慶の幕下同士の三番稽古(同じ相手と何番もくりかえし行なう稽古)で締める。お互い日によって分が良かったり悪かったりと、いい稽古をつづけている。三番稽古でクタクタになったあと、ぶつかり稽古で胸を出すのは朝乃土佐。最近番付では二人よりも下にいるが、兄弟子の貫録をみせ出す胸は重たい。2,3回押したらビクとも動かなくなって、そこから転がされ引っ張られ、さらにぶつかり、体の芯からの力と汗を絞り出す毎日。終わると見学のお客さんから、いつも盛大な拍手が起きる。名古屋場所初日まであと6日。
平成24年7月3日
ぶつかり稽古は、稽古の仕上げに行なう。胸を出すほうは、右足前に左足は後ろに構え、両手を大きく広げ右胸を出す。ぶつかるほうは、仕切りの構えから相手の右胸に向かって頭から思い切りぶつかる。2度3度と、ぶつかっては転び、ぶつかっては転ぶ。息も絶え絶えになり押せなくなると、頭をおさえつけられて引っ張られる。苦しいのを我慢してついていき、再び転がされてまたぶつかる。極限まで追い込む中で表面的な筋肉がつかえなくなり、体の芯から力を出せるようになってくる。無駄な力、邪魔な意識が抜け、動物的合理的な力を出せるようになってくる。大雨の名古屋、時折雨が稽古場の端に打ち込んでくるなかでの稽古。
平成24年7月4日
ぶつかり稽古で胸を出すことは慣れないと難しい。足を前後に大きく広げるが、半分突っ立ったような姿勢で、頭からぶつかってくる相手を受けることになるから、はじめのうちは実力が同程度の相手にぶつかられると、ほとんど残せない。3年や5年の力士ではまず無理である。ところが、だんだん慣れてくると、というか残り方を覚えてくると、自分より実力が上の力士にも、しっかりした胸を出すことができる。三段目くらいでも関取衆相手に2,3回押したら押せないような重たい胸を出すことも可能になる。
平成24年7月5日
場所前恒例の高砂部屋激励会。いろいろ取り巻く事情は厳しい中、変わらずたくさんの方々が駆け付けて下さり、名古屋場所での高砂部屋の活躍を期す。ゲストに「サチコ」「放されて」「お祭さわぎ」のヒット曲で有名なニック・ニューサーが登場、宴に華を添える。明日は取組編成会議、明後日が土俵祭で、名古屋に触れ太鼓の音がなり響き、いよいよ名古屋場所初日を迎える。
平成24年7月7日
“無事これ名馬”というが、怪我や病気をしないことは、強くなるために大切な条件の一つになる。怪我や病気をしないことが一番だが、毎日の稽古を続けていると多少の怪我や体の不調はつきものでもある。“病は気から”ともいうように、怪我や病気を「もうだめだ」と思うか、自分を見つめ直す転機とするかでその後が違ってくる。名古屋入りしてからいい稽古をつづけてきた朝弁慶、3日ほど前から風邪で高熱を出し蜂窩識炎まで併発。初日を明日に控えてかなり回復してきたので、これがいい意味での休養になってくれればいいのだが。
平成24年7月8日
初日。名古屋場所らしい日差しが降りそそぐが、風はあり、まだしのぎやすい。午後2時頃愛知県立体育館へ行くと、玄関前に例年と違う光景が。今年から関取衆の場所入りが正面玄関からになったため、タクシー降り場から玄関まで人垣で花道ができている。花道は、玄関からさらに支度部屋への通路までつづく。力士が通るたびに大きな歓声と拍手。玄関内で業務のお茶屋さんは大変そうだが、ファンにはたまらなく嬉しいサービスであろう。3連敗スタートだったが、朝興貴以降持ち直して3勝3敗と五分の高砂部屋初日。
平成24年7月9日
平成17年に引退した“オバタ”こと朝闘士、何度かマスコミでも紹介されているように愛知県で介護士として働いている。仕事が休みの日にはよく部屋にも顔を出し、おすもうさんを車で病院に連れて行ったりと、いろいろ協力してくれる。いまだ140kgくらいあり、頭もちょん髷カットで、あまり力士時代と変わらない。今日も部屋に来て、大子錦に乗っかり足技をかけと、肉肉しいカラミが長いのも昔と同じ。朝乃土佐、場所前の稽古でギックリ腰になり休場不戦敗。後半出場を目指し治療中。
平成24年7月10日
「イタイイタイを決める」という言葉がある。大した怪我でもないのに、「イタイ!イタイ!」と大袈裟に痛がり稽古を休んでしまう場合などに使う。痛みに対する耐性は人それぞれで、本人にとっては本当に痛いのだろうが、タイプ的に周りから「イタイイタイを決めている」ように見られがちな人はいる。“オバタ”こと朝闘士も、そういうタイプで、実際首などかなりの重症だったようなのだが、オバタのイタイイタイの決めぶりは、引退して8年ちかくなる今でもよく話題になり、半ば伝説化している。得てしてありがちなことだろうが、オバタと同じ平塚出身の朝弁慶、怪我をするたびに「平塚の先輩のまねしやがって」と言われてしまう。
平成24年7月11日
最近体調不良がつづく朝弁慶、今場所前も蜂窩識炎を発症してしまった。初日前日部屋に来た“オバタ”、同じ平塚出身の朝弁慶がやはり気になるようで「大丈夫か?」と声をかけていた。「だいじょうぶっす!」「だいぶマシになりました」と答えた朝弁慶に、“オバタ”が返した。「気のせいだったんじゃない」「それきっと“平塚病”だよ!」オバタの口から出た言葉だけに、妙に説得力があった。その朝弁慶、1勝1敗となるも、朝天舞、朝興貴、朝乃丈、2連勝。
平成24年7月12日
「○○を決める」という言い方を相撲界ではよく使う。「イタイイタイを決める」の他にも、「エビスコ決める」とか「ひたちがた(常陸潟)決める」「どっこいきめる」「ホシが決まる」「首投げ決める」 ・・・などなど。「決める」には、良きにつけ悪しきにつけ、中途半端ではない達成感がひびいてくる。もちろん、お相撲さんにとって一番の達成感は、技を決めることであり、勝越しを決めることである。三段目復帰を目指す朝乃丈、下手投げが決まって3勝目。勝越して三段目復帰を決めるまであと1勝。
平成24年7月14日
名古屋場所での高砂部屋宿舎のある蟹江町は、名古屋市の西隣に位置し、さらに西走すると、じきに長島温泉で三重県に入る。蟹江は川が多く、「宮本武蔵」で有名な小説家吉川英治が「東海の潮来」と称えたという。宿舎のある須成「龍照院」の横にも蟹江川が流れ、この蟹江川を上る須成祭が今年3月重要無形民俗文化財に指定された。今年も8月第一土日に宵祭・朝祭が行なわれる。幕下の朝弁慶、朝天舞、共に3勝目。
平成24年7月15日
須成祭は、提灯をつけた巻藁船(まきわらぶね)が、蟹江川にかかる飾橋から天王橋まで、お囃子を奏でながらゆっくり上っていく。,飾橋と天王橋の間にかかる御葭橋(みよしばし)は巻き上げ橋で、お祭のときのみ橋げたが巻き上がり、提灯が高く飾られた船が間を通っていく。そのとき可愛げな花火も彩りを添える。派手ではないが歴史と民俗を感じさせる趣がある。織田信長の頃から400年以上もつづくお祭だという。重文指定を祝い、今年は河村たかし市長と大村秀章知事も見学にみえられるそう。
平成24年7月16日
宿舎龍照院入口に立つ掲示板によると、須成は、もともと洲成もしくは砂成だったそうで、地名からも低湿地にできた村落のイメージが浮かんでくる。須成村の中央を蟹江川が流れ、お祭の船の終点となる天王橋のたもとに龍照院と須成神社がある。須成村は、江戸時代すでに240戸あり門前町として栄え人口も千人を超えていたという。明治38年合併で蟹江町の一地区になった。龍照院ご本尊十一面観音と須成神社本殿ならびに棟札も国の重要文化財に指定されている。今日から後半戦、朝乃丈、朝興貴勝越しならず。
平成24年7月17日
自己最高位が幕下36枚目の朝天舞、今場所幕下41枚目と最高位近くまで番付を戻しているが、今日10日目で4勝1敗と早くも勝越しを決めた。今場所期するものは大きかったようで、相手の引きに乗じ押し出して勝越しを決めた瞬間、久しぶりの土俵上での狂喜乱舞。神事でもある大相撲。神様の前でのガッツポーズは許されないことだが、何かにとり憑かれたような朝天舞の狂乱ぶりは、神様も笑って許してくれるような気もする。ちゃんこ長大子錦、今場所第1号の負越し。
平成24年7月18日
アンコ型力士は、首やアゴが埋まっていて、どこまでが首かアゴかよくわからない。いつも埋もれているだけにアゴを攻められると弱いのもアンコの特徴である。代表的なアンコ型の大子錦、今日の取組で激しくアゴを突っ張られた。パチパチバチバチバチパチパチと、30発は入ったであろうか。まるで初切りのような、吉本新喜劇にもでてきそうな掛け合いだったが、耐えて引っ張り込み、腹にのせて勝った。ふだん絶対に笑顔を見せたことのない土俵下の審判の親方も、思わず口を押さえて笑いをこらえていた。またひとつ新たな大子錦伝説が誕生した。朝弁慶、快心の押し相撲での勝越し。
平成24年7月19日
幕下41枚目の朝天舞、今日も中に入って前に出る快心の相撲で5勝目。自己最高位更新はもちろんのこと、あと一番勝てば、一気に幕下上位へという夢も膨らんできた。場所中の稽古開始は7時半だが、早起きして稽古開始前のトレーニングも毎日欠かさない。トレーニング本や体づくり、栄養に関する本での研究も熱心につづけている。入門13年目、コツコツと積み重ねてきたものが実を結びつつある。朝赤龍、幕内復帰へあと1勝となる7勝目。残り3日間。
平成24年7月20日
朝赤龍勝越し。十両東筆頭なので来場所の幕内復帰はまず間違いないことであろう。地元蟹江の人たちも、ここ数日やきもきしていたようで、相撲終了後 駅まで自転車で走っていると、「おめでとう!千秋楽パーティーいいお祝いになるね!」と声をかけられた。毎日車で送り迎えしている“鈴木さん”も安堵しながらも、いよいよ終わりに近づいてきた寂しさも含んだ疲れきった表情。残すところあと2日。あす、朝乃丈、朝興貴、神山の3人が勝越しをかけての最後の一番。
平成24年7月21日
入門してすぐは下駄履きで、雪駄を履けることは力士にとって第一段階の憧れになる。高砂部屋では、三段目に上がって二場所目から雪駄が履けるようになるが、昨年11月場所で初めて三段目に昇進した朝興貴、半年ぶりに三段目復帰を確実なものとして、ようやく晴れて雪駄が履けるようになった。三段目復帰はもちろん嬉しいが、雪駄を履けるようになることが嬉しさ倍増の勝越し。朝天舞、6勝目。いよいよ来場所は幕下上位近くまで番付を上げることになる。朝乃丈、神山は負越し。
平成24年7月22日
昨日千秋楽祝賀会。会場の尾張温泉東海センターに300人あまりのお客様が集まり名古屋場所の打上げ。朝赤龍の9勝目に、集まったお客様も口ぐちに祝福の声。また、日頃から稽古熱心な姿を見ている朝天舞の6勝1敗の成績に、地元の方々から大きな拍手喝采。勝越し力士は4人と少なかったものの、祝福モードに満ちた祝賀会となった。今日から1週間の稽古休み。宿舎の後片付けをして29日(日)に帰京。
平成24年7月27日
千秋楽が終わって町が焼けるような猛暑つづき。お相撲さんは概して暑さには弱い。「デブは暑がり」というのはよく言われることだが、生物学的にも数学的にも確かなことである。人間(恒温動物)は、筋肉や内臓で体温を高め、体温が上がり過ぎると発汗などによって体から熱を放出して体温を下げる。体温を高める発熱量は、ほぼ体重に比例して、体温を下げる放熱量は体の表面積に比例するという。体重が2倍になっても、体の表面積は2倍にはならない(倍よりも少ない)から、体重が一般人の2倍あるお相撲さんは、発熱量が2倍になっても放熱量は2倍にならなく、一般人よりも、より暑さを感じてしまうのであろう。
平成24年7月28日
体の熱を逃がさないため寒い所に住む動物ほど体が大きくなる傾向にあるという。逆に暑い所に住む動物は熱を放出しやすいように同じ種では小さくなる。これを「ベルクマンの法則」というそうだが、力士種にもあてはまりそう。北海道や青森出身に大柄な力士が多いのに比べ、亜熱帯である奄美出身には小柄な力士が多い。その奄美から阿武松部屋“慶改め慶天海”が新十両昇進を決め、尾上部屋“里山”が再十両を決めた。両力士とも奄美種特有な、小兵を活かし相手の中に潜って取る相撲。コンテナ便で荷物を送り宿舎の大掃除。あす午前中にお世話になった蟹江龍照院を後にする。
平成24年7月29日
宿舎を後片付けして、お寺さんやご近所の方に見送られ1ヵ月半お世話になった蟹江を後にする。乗り込んだときには水をなみなみと張った水田に植えられていた苗が日に日に育ち、緑一色の田園風景に変わった。涼しかった風が消え、強烈な日差しと名古屋特有の蒸し暑さに包まれた。いつもながら、終わってみればあっという間の一月半。名古屋駅までは、先発中に入門志願に来た青年が送ってくれる。年齢制限のため入門叶わなかったが、毎日のように部屋に顔を出し運転手を務めてくれたり後片付けも手伝ってくれた。お相撲さんともすっかり仲良しになり、名残を惜しむ改札口でのお別れ。
平成24年7月30日
夏休み恒例の『相撲部屋開放』。今年は草加市小・中学校相撲連盟の子供たちが来て相撲体操やぶつかり稽古に汗を流す。草加市は市を上げて熱心に相撲に取り組んでいる。マワシを締めた師匠のもと、朝弁慶、朝乃丈の二人も現役指導員として子供たちの指導にあたる。小学校3年生までは師匠自ら胸を出すが、みんな普段からマワシを締めてよく稽古しているようで、いい当たりをみせている。猛暑の中の稽古、予定時間よりすこし早めに、「そろそろ終わりにするか」と言う声に、「はい!」と返事をしたのは朝乃丈だけであった。
平成24年7月31日
相撲健康体操は、もともとは昭和初期に元阿久津川の佐渡ヶ嶽親方が考案した体操である。阿久津川は栃木県宇都宮市の出身で高砂部屋所属。170cm98kgと小兵ながら腕力足腰強く、横綱栃木山から金星を奪ったこともあったという。横綱男女ノ川の師匠であり。理論派として協会理事も務めた。昭和29年に協会を廃業したが、昭和32年相撲協会の公益法人としてのあり方が国会で問題になったとき、参考人として招致された。協会を離れたあとも相撲普及活動に務め「相撲道教本」「すもう教本」「相撲道基本研修指針」「相撲」の著書もある。
平成24年8月1日
佐渡ヶ嶽は、もともと高砂系列の部屋であったが、元阿久津川のあとを二所ノ関部屋の琴錦(先代)が襲名して二所一門となり、その後横綱琴櫻、琴ノ若と引き継がれて現在に至っている。元横綱琴櫻の12代佐渡ヶ嶽親方の弟子である元琴旭基(ことあさき)さんが、『元力士・琴旭基』を出版された。琴旭基さんは、引退後平成10年から大阪ミナミで13年間相撲茶屋「琴旭基」を開いていたが昨年店を閉じて東京に戻ってきている。
平成24年8月2日
最近、共通の知人を介して琴旭基さんとお会いした。お会いしたのは人形町にある相撲茶屋『盛風力』。盛風力の大将は、押尾川部屋で十両を2場所務め、琴旭基さんとは昭和57年3月入門の同期生にあたる。評判の塩ちゃんこは、今日くらいの暑さでも食欲増進のさっぱりとした味で、柚子胡椒や締めのチャンポン麺がまたよく合う。いつ行っても満席のお薦めのお店。57年3月場所は、他にも安芸ノ島、玉海力、大若松、栃天晃と関取に昇進している当たり年である。
平成24年8月3日
新弟子で入門して関取(十両以上)に昇進できるのは、統計学的にだいたい13人に1人、約8%だという。経験的な感覚からいうと、もっと率が下がるような気がするがどうであろう。関取に昇進した力士の多い昭和57年で、ちょうど10人。あの頃は年間130人以上は入門していただろうから平均するともう少し下がるはずである。年によって当たり外れは大きく、これまでで最高の当たり年は何といっても昭和63年であろう。横綱3人、大関1人を含む14人が関取に昇進している。
平成24年8月4日
昭和63年3月場所は若貴入門の場所。貴乃花、若乃花、曙と横綱に昇進して、大関には魁皇がいる。他にも小結和歌乃山、のちプロレスラーの幕内力櫻などなど、多彩な顔ぶれである。同期生から横綱が出ることが稀なことなのに、3人も誕生して更に大関までという豪華版。一期上の63年1月場所には先だって故人となられた元田子ノ浦親方のアマ横綱久島海がいるし、一期下の5月場所がアルゼンチン出身の星安出寿、7月場所にはアメリカ出身戦闘竜と、国際色も豊かである。さらに関取にこそ上がっていないもの若松部屋房風、高砂部屋昴(すばる)と個性派力士が揃った63年組でもある。
平成24年8月6日
今日から青森五所川原合宿。夏巡業に出た朝赤龍、朝奄美と相撲教習所通いの朝剣を除く力士と松田マネージャー。朝天舞は、明日7日に故郷石巻で被災地慰問巡業があるため昨日から石巻へ。巡業には出ていないのだが、ご当所ということで参加依頼があり、7日石巻だけの参加。当日は催物としてカラオケ大会が企画されているそうで、「何を歌おうか・・・」と頭を悩ましている。また9日に五所川原巡業が行なわれるため、土俵築に呼出し邦夫も2日から五所川原に入っており、晩飯のとき合流。12日までの五所川原合宿。
平成24年8月7日
合宿所の江良産業は、五所川原市内から太宰治のふるさと金木へと向かう毘沙門という字(あざ)にある。周りを田畑に囲まれ、近くの県道を走る車の音だけが時折響く閑静な所である。一番近いコンビニまでは徒歩1時間くらいはかかるので外出もままならない。稽古とちゃんこが終わると寝るしかなく、一日がやたら長い。しかも今日は涼しい風が吹き抜け絶好の昼寝日和でもある。江良社長の知人で名古屋からねぶた見物にきたご夫婦が午後部屋を訪ねてきて、「ここでもねブタだ!」と喜んでいる。夜、力士達も五所川原名物、本物の「立ねぶた」見物。
平成24年8月8日
明日行なわれる五所川原巡業の勧進元は江良産業である。先発親方は、元闘牙の千田川親方と、最近断髪式を済ませたばかりの元北勝力の谷川親方。今まで何度も勧進元をやっているとはいえ、「土俵の周りに敷く畳が足りない」「今夜乗り込んできたときのタクシーチケットがまだ手配できていない」「設営がまだ終わらない」・・・次から次へと慌ただしく対応に追われ、江良社長も気が休まる暇がない。
平成24年8月9日
五所川原巡業。平成16年8月以来8年ぶりの巡業。会場が開くのが午前7時前のため、合宿組も6時半にタクシーを予約して会場へ向かい朝稽古に参加。稽古後、裏口で、江良さん特製タレのちゃんこ鍋を相撲関係者に配る。弁当続きだった口にはちゃんこの味は懐かしく、「うまい」「うまい」と阿覧関は4杯もおかわり。横綱土俵入りを前に勧進元との記念撮影。土俵入りの後、勧進元ご挨拶で土俵に立つのは、江良社長の次男司(つかさ)。近大相撲部OBで、地元青森で教員をやっていて力士にも顔なじみが多い。相撲への愛情に満ちた立派なご挨拶に大きな拍手喝采。取組を終えた順にバスに乗り込み、次々と明荷をトラックに積み込み、3時過ぎには秋田へ向けて出発。電光石火の移動で、3時半には誰一人いない。ちゃんこの片付けを手伝っていた人も「さっきまでお相撲やっていたのがウソのよう!」と目を丸くしている。
平成24年8月10日
青森合宿で嬉しいのは、ホタテやイカなど新鮮な魚介類をふんだんに食べられることである。刺身で食べ、鍋に入れて食べ、炒めて食べ、晩は炭とバーベキューセットを持参していただき、稽古場横で炭火焼まで。青森入りしてから食べっぱなしの朝弁慶、青森の食材が体に合うらしく、みるみるアンコ度を増している。明日の朝まで稽古して、明後日お昼前に帰京の予定だが、涼しい青森の気候に慣れた体には東京の暑さがよけいにこたえそう。
平成24年8月11日
青森入りしてから初めての蒸し暑い一日。それでも名古屋・東京の暑さを思い出すと幾分楽になる。合宿している江良産業は、毘沙門の町(村?)はずれにあり、江良産業から毘沙門の集落を抜け田んぼやリンゴ畑の間を30分も歩くと毘沙門駅に達する。毘沙門駅は、ストーブ列車(冬)や風鈴列車(夏)で有名な津軽鉄道の駅。辺りに民家は全くなく、林に囲まれた中にポツンと無人駅が現れる。江良さんの息子に聞いてみたら、昔一度だけ行ったことがあるという.。地元の人にとっても秘境駅なよう。駅へ通ずる毘沙門の集落は、道の両側の生垣がきれいに刈りそろえられ、庭には色とりどりの花が咲き、大きな民家が立ち並ぶ。福や財をもたらすという毘沙門天にふさわしいたたずまい。
平成24年8月12日
お世話になった江良産業を後に、バスで新青森駅へ。新幹線の発車時刻まで1時間ほど余裕があるので食堂へ入ると、番付や大入袋が貼ってある。相撲好きな店主のようで、さば定食を頼んだら大盛りご飯の丼と、握り寿司やイカゲソ唐揚げまでサービスしてくれた。メニューの裏面には津軽弁講座や青森が誇る日本一の記事もあり、大相撲も紹介されている。“現存する最古の番付(1757年)から現在までの幕内力士の数は82人で青森が日本一”だという。“さらに、明治16年「一ノ矢」入幕以来123年間幕内力士が途絶えたことがない!”とある。
平成24年8月13日
明治16年入幕の一ノ矢は、青森県南津軽郡田舎館村の出身。明治13年初代高砂浦五郎の高砂部屋入門。一ノ矢藤太郎の四股名で明治22年には大関に昇進している。当時、一ノ矢を慕って青森から数多くの入門者がいたそうで、津軽部屋とも呼ばれたという。先月の名古屋場所でも前頭筆頭の安美錦を頭に、宝富士、寶智山、若の里と4人の幕内力士がいる。明治からつづく相撲王国青森の伝統が、1世紀を超えた今も綿々と引き継がれている。
平成24年8月14日
青森県出身力士だけでも相撲史が語れそうなそうそうたる顔触れである。横綱が6人、大関が7人、三役は数え切れないほど輩出している。それでも昨今の相撲人気低迷の影響も受けているのであろう、中高の相撲部のある学校が年々減っているという話はよく聞くし、村々の土俵もだんだん使われなくなっているという。相撲界でも、関取の数こそ多いものの総力士数は19名と減少傾向にある。それでも青森が、相撲王国として大相撲やアマチュア相撲を牽引していることは間違いない。
平成24年8月15日
平成元年から10年までの10年間に入門した新弟子の数は1526人。そのうち関取に昇進したのがちょうど100人。15人に1人の割合で、約6,7%、だいたい現場での感覚と合致する。ただし、関取に昇進した100人の中には学生相撲出身者が37人おり、学生相撲経験者を除くと昇進の割合はもっと下がってしまう。平成11年から15年までを見ても552人の入門者に対し関取昇進者が37人。やはり6,7%の割合になる。
平成24年8月16日
オリンピックの興奮が未だ冷めやらない。4年に一度の祭典であるからこそ感動は大きい。世界のトップレベルの様々な、身体運動としてのスポーツをじっくり見られることは至福である。どうしても相撲と比較して見てしまうが、相撲と比較することで新たな発見もあり面白い。今回感じたのは、競技による間合いの違いである。個人的な解釈ではあるが、間合いは単なる距離感とは違う、息使いや動物的皮膚感覚までをも含む感覚だと思っている。そういう意味でいうと、相撲の間合いに一番近い競技は、4年前か8年前にも書いた気もするが、柔道でもレスリングでもなく、卓球だと思う。今日から19日までお盆休み。
平成24年8月18日
卓球のサーブからレシーブ、ラリーとつづく一連の動きは、息つく間もないほどスピーディーで、相撲での立合いからの突っ張り合い、差し手争いを彷彿させる。しかも卓球は、幅152,5cm奥行き137cm(片面)という卓球台の枠が勝負を決める。土俵という枠に通ずるものがある。わりと狭い範囲の中での横への動きが重要になるから、やや前傾姿勢になり、つま先を外向きに開いた高めの腰割りの構えで素早く動いている。スマッシュを決める上半身の動き、腕(かいな)の返し、足の踏み込みなどは、切れ味するどい上手投げを思い起こさせる。
平成24年8月21日
各地で夏合宿まっ盛りだが、久しぶりに徳之島に帰ったら鹿児島樟南高校相撲部が小中学生と合同で合宿稽古を行なっていた。樟南相撲部の高校生と共に鹿児島市立玉江小学校の小学生7,8人も合宿に参加している。他のスポーツでは、徳之島の子が県大会で優勝するのは至難の業だが、わんぱく相撲では、徳之島から毎年全国大会で優勝、準優勝者を出していて、鹿児島市内の子供たちにとって最高の稽古相手である。しかも、まばゆいばかりの自然に囲まれ、珊瑚礁とまっ白な砂浜での海水浴もついた合宿である。
平成24年8月22日
今日から平塚合宿。湘南高砂部屋後援会からの迎えのバスにて午後3時前に合宿所となる平塚総合運動公園研修所入り。到着後すぐ、若松親方号令のもと一周1800m弱ある運動公園内をウォーキング。一周目終えて朝弁慶が行方不明となり、5周終わった頃にひょっこりまた姿を現す。本人は3周は周りましたというが、目撃者はいない。こういう時に気配を消すのがうまいのはアンコ力士の特技ではある。今年で19年目の平塚合宿。あすから26日まで3日間の朝稽古。
平成24年8月26日
今日まで平塚総合公園内土俵にての稽古。土日で、昨日今日と土俵の周りは大勢の見学客。申し合い稽古の後のぶつかり稽古では、朝天舞、朝弁慶の幕下二人がたっぷりと時間をかけてのぶつかり。何度も押して転がり、ドロドロになって更に押す。息も絶え絶えとなり土俵上で伸びると、熱中症予防だと、塩を食わされ水をぶっかけられ、再びぶつかる。最後押し切ったときには客席から大きな拍手と声援。稽古終了後ちゃんこ、後片付けと済ませ午後1時半、お世話になった後援会の方々に見送られバスにて平塚を後にする。明日が9月場所番付発表。
平成24年8月27日
9月場所番付発表。朝赤龍、先場所の勝越しで一場所での幕内復帰で東13枚目。幕下41枚目で6勝1敗だった朝天舞、自己最高位を大きく更新して幕下18枚目。故郷石巻でも随分名前が売れてきているようで、復興にがんばる石巻の期待の星となりつつある。朝興貴、昨年の11月場所以来の三段目復帰で、こちらも自己最高位更新。今日から正々堂々と雪駄を履いて歩ける。
平成24年8月31日
番付発表後、幕下の朝天舞、朝弁慶の二人と朝乃丈は東洋大学へ出稽古。稽古場は白山キャンパスにあり、地下鉄を利用しての出稽古となる。東洋大学相撲部は 幕内の木村山、十両の磋牙司、丹蔵、幕下にも華王錦、政風、武誠山と現役力士が6人もいて、すでに引退した玉乃島、玉光国、高見藤も含めると9人もの大相撲力士を輩出している。
平成24年9月1日
何度も書いているが、奄美は力士輩出率日本一である。奄美十数万人の中から現役力士が12名(5年前には21名いた)もいる。その12名の中から、9月場所で新十両に阿武松部屋慶天海(瀬戸内町)、再十両に尾上部屋里山(奄美市笠利)が昇進。さらに幕下16枚目以内に九重部屋千代皇(与論)、境川部屋勝誠(宇検村)、放駒部屋若乃島(奄美市笠利)と3人もいて、続々と関取りが誕生しそうな勢いである。明日夜、上野精養軒にて里山関慶天海関十両昇進祝いが奄美関係者を集めて行なわれる。
平成24年9月3日
昔は日本中がそうであったのだろうが、奄美では祭りに必ず相撲が組み込まれている。豊年祭の奉納相撲や夏祭りの相撲大会。小中学生に限らず、3,4歳の未就学児もマワシを締めて相撲を取る。慶天海も里山も3歳の頃からマワシを締めて相撲を取っていたという。先日徳之島へ帰った時も小中高校生が稽古をやっている土俵の横で、3,4歳児がマワシをつけて遊んでいた。そういう環境のなかから12名という現役力士が生まれてきている。
平成24年9月4日
なぜ奄美ではこれほどまでに相撲が盛んなのであろう。島では、相撲は、お祭りそのものであるし、娯楽でもある。徳之島では、娯楽のことを「ナクサミ」といい、闘牛大会のことを主にいうが、相撲も「ナクサミ」のひとつである。おそらく、「なぐさめる」という言葉が語源であり、農閑期にそれまでの仕事の慰労の気持を込めての闘牛大会や相撲大会が行なわれたのであろう(勝手な想像だが)。土俵さえあればできる(地面に円を描くだけでも)相撲は、一番おこないやすい「ナクサミ」であったのであろう。最も昔は日本中がそうだったのだろうが、奄美が変わらずに残しているのであろう。
平成24年9月5日
奄美出身の大相撲力士は、46代横綱朝潮の高砂部屋米川青年の入門が第1号なのかどうか。その後は、横綱朝潮に憧れ、5代目高砂親方との縁で、奄美から多くの新弟子が高砂部屋へ入門した。ただ、旭道山(徳之島出身)大島部屋入門のころから、奄美出身者もいろんな部屋へ散らばり、奄美出身力士の本家とでもいうべき高砂部屋も、現在は朝奄美のみである。それでも各地の奄美会に参加すると、年配の方にとって“奄美の相撲は高砂部屋”という思いはいまだ根強く残っているようである。
平成24年9月6日
奄美は徳之島出身の朝奄美、現在入門8年目となる。入門1年目で首を怪我して2年間休場、3年目にして初めて勝越した。その後も、一歩進んでは二歩下がる感じでたまに勝越し、序二段には定着したものの、序二段中位のカベをなかなか越えられない。それでも朝赤龍の付人として関取からの信頼は厚く、最近の巡業にはいつも付いて出ている。最近また怪我も続いて、場所前はちゃんこ番の方が多かったが、今場所は今までになくいい稽古をつづけられている。9月場所は、今までとひと味違った朝奄美をお見せできるかもしれない。
平成24年9月7日
その朝奄美、168cmと寸足らず(一ノ矢さんには言われたくないというだろうが)で、頭で当たってからの押し相撲なのだが、最近頭を怪我したこともあって肩から当たって差して出る相撲を稽古している。やってみると、意外と器用で差し身がいい。中に入っての出足もよくなった。何より、どちらかと受け身だった相撲が積極的になった。取組編成会議が行なわれ、初日・2日目の割り(取組)が決まる。初日の高砂部屋、朝奄美から始まり、朝乃丈、朝乃土佐、男女ノ里、朝弁慶とつづき、幕下18枚目の朝天舞は海龍との対戦。幕内に戻った朝赤龍は宝富士との対戦。
平成24年9月8日
頭からぶつかっていくのは、相撲の基本である。頭からぶつかるときは、額の髪の毛の生え際で当たる。髪の毛の生え際の部分が頭蓋骨が一番厚く丈夫だからである。アゴを引いて脇を締めた姿勢で当たると、角度的にも全身の運動量が効率よく相手に伝わり、大きな衝撃力を与えることができる。正しい姿勢で、髪の毛の生え際で当たれると、不思議と痛さは感じない。もちろん、本来の生え際でないといけないが。今年で17年目となる本所高砂会。6月に亡くなられた塩川前会長(6月16日日記)に黙祷を捧げ懇親会。新会長を塩川会長の息子さんが引継いでくれることになり、前会長も安心して見守ってくれることであろう。触れ太鼓。明日より秋場所初日。
平成24年9月9日
秋場所とは名ばかりの残暑厳しき9月場所初日。満員御礼の国技館。2時頃お茶屋さんに寄ると、お客さんが次々とやってきて息つくひまもない。初日の館内は、何となく落ち着かない高揚感と華やいだ雰囲気がある。朝奄美、場所前の稽古通りの相撲で初日。朝乃丈、男女ノ里、朝乃土佐、朝弁慶とつづいて、朝天舞に黒星がつくものの、最後は朝赤龍が締めて6勝1敗と、近年稀に見る好調な滑り出し。
平成24年9月11日
体重150kgクラスの幕内力士の立合いの衝撃力は、1トン(1000kg)以上もある。格闘技の衝撃力測定については中部大学工学部吉福康郎教授の研究が知られているが、正確にはkgw(キログム重)で表わす。ボクサーのパンチや格闘家のキックの衝撃力が300~700kgwなのに対し、まさにケタ違いの衝撃力になる。毎日の稽古でぶつかり合いくり返し鍛えているからこそ、およそ1トンの衝撃にも耐えられる。男女ノ里2連勝。
平成24年9月12日
1キログラム重(kgw)というのは、1kgの物を置いたときに加わる力のことだから、1000kgwは、1トンの重さのものを置いたときに加わる力になる。頭同士、あるいは頭と胸、お互いに当たり合う瞬間から衝撃力は始まり、衝撃力の値をグラフに描くと、大きな山を描いて動きが止まった時に衝撃力が終わる。そのときの瞬間的な最大値が1000kgwになる。当たる力士の体重が重いほど、当たるスピードが速いほど衝撃力は大きくなる。朝乃丈、朝乃土佐2連勝。
平成24年9月13日
体重が重いほど、当たるスピードが速いほど当たったときの衝撃力は大きくなる。物理学では、重さ(質量m)とスピード(速度v)をかけたm×vのことを運動量といい「P」で表わす。P=mvで、立合いの当たりの強さは、運動量(P)の大きさを競い合っていることになる。立合いに、「もっと強く当たれ!」と指導するのも、「もっと食べて大きくなれ!」と無理やり食べさせるのも、運動量(P)を大きくするためである。前半戦5日目を終わって朝赤龍4勝1敗の好調な滑り出し。
平成24年9月14日
“三つ子の魂百まで”というように、小さいときに身につけたものは大人になっても忘れない。小学生のときから相撲を始めた朝乃丈、稽古場でのやる気のなさは相変わらずだが、小さい頃に仕込まれただけあって基本の姿勢は、やる気ない顔をしながらでも自然に腰が割れたいい構えになる。今年の3月場所で自己最高位まで番付を上げたものの、そこから3場所連続の負越しで序二段34枚目まで番付を下げて、今場所は3連勝。まずは勝越して、白星を積み重ね番付を大きく戻したい。幕下18枚目の朝天舞、快心の相撲で初日。
平成24年9月15日
190cmある朝弁慶、今日の相手は、同じくらい長身の力士。立合い変化されて体が泳いだが、伸びた手がうまく相手の脚の間に入り、「足取り」で相手をひっくり返しての白星。部屋に帰ってきて「たまたまうまく手がはいったなぁ」とみんなに言われたが、本人は「相手がよく見えました」と、技を強調。“勝ちに偶然あり、負けに偶然なし”というが、偶然にしても体がよく反応しているからこそであろう。勝越しまであと1勝となる3勝目。
平成24年9月17日
いくつになっても、何年たっても勝越しは嬉しいものである。力士としては高齢期に突入している入門17年目の大子錦、今日勝って4勝1敗と9日目にして早々の勝越し。例によって相撲は3分余りの長い相撲だったようだが、嬉しかったのであろう支度部屋へ戻ってからのシャミ(おしゃべり)も長かったそう。朝乃土佐も勝越し。取組後、3勝目をあげた神山と3人で鳥ラーメンがうまい両国みやもとで祝ランチ。全勝だった朝乃丈が一敗。
平成24年9月19日
平塚出身の朝弁慶、高校生のとき柔道をやっていて平塚にある東海大学の山下泰裕氏のパーティーに参加したことが入門のきっかけになった。世界の山下氏に「柔道ガンバレよ」と声をかけてもらい感激したそうだが、その直後に湘南高砂部屋後援会会長に、その大きな体を見出されスカウトされた。最初「相撲は絶対イヤです」と断り続けたが、師匠も何度か足を運び入門となった。柔道は全然強くなかったくせに、「あのとき柔道に進んでいれば・・・」とほざくこともあるが、力士になってよかったと思えるであろう幕下での勝越し決定。
平成24年9月20日
幕下の朝天舞、そのひたむきさと個性的なキャラで、他の部屋の親方衆にも人気がある。自己最高位18枚目まで番付を上げた今場所、さすがに家賃が高かったようで10日目で1勝4敗と負け越してしまったが、今日はしつこく中に入っての白星。気合いの入った勝ち名乗りに、土俵下の審判の親方衆の顔も思わずほころんでいた。男女ノ里5人目の勝越し。朝乃土佐5勝目。
平成24年9月22日
“三年先の稽古”というが、稽古場で良くなったと思っても本場所の相撲に簡単には結び付かない。場所前立合いを変えて一皮むけたかと思われた朝奄美、初日こそ稽古場通りの立合いで白星だったものの、その後3連敗。頭から当たる立合いに戻して、ようやく今日の一番で4勝3敗と勝越し。当たる角度、足の運び、意識の持ち方・・・、一日一日違う微妙な感覚をしっかり身につけるために、毎日の稽古がある。朝乃丈、大子錦変わらぬ相撲で5勝目。朝龍峰も勝越し。
平成24年9月23日
雨の千秋楽。今日のNHKBS放送の解説は元北勝力の谷川親方。朝天舞の取組になって、「近くの公園(親水公園)を散歩していると、走っている姿をよく見かけます」と朝天舞を紹介。大きな相手を前みつを取って正攻法で寄りきると、「努力している力士は、いい相撲を取ります」と称えた。朝天舞、自己最高位を大きく更新した地位で価値ある3勝目。朝弁慶、来場所は自己最高位を更新するであろう5勝目。三段目男女ノ里も5勝目。
平成24年9月24日
昨日の千秋楽祝賀会。ゲスト歌手として、「ほたる川」を歌う五条哲也さんにお越しいただいた。「ほたる川」は師匠が現役時代に歌った歌で、カラオケには今でも「ほたる川 朝潮太郎」としてでている。師匠がレコードを出したのは1984年だそうだから、約30年ぶりのカバーとなる。五条哲也「ほたる川」は今年の7月4日に発売されて、爆発的にとはいかないものの徐々にヒートチャート上昇中とのこと。昨晩のパーティーでは、一番を五条哲也さんが歌い、二番を師匠、三番は二人でデュエットと五条哲也・朝潮太郎「ほたる川」夢の競演もおこなわれた。
平成24年9月25日
力士の歌手としては、なんといっても元大関増位山の三保ケ関親方が有名である。「そんな夕子に惚れました」「男の背中」などヒット曲も多数ある。とくに昭和52年発売の「そんな女のひとりごと」は 130万枚のミリオンセラーになったという。元大関琴風の尾車親方も「まわり道」「東京たずね人」「東京めぐり愛」(石川さゆりとのデュエット)などのヒット曲がある。またNHK大相撲解説でおなじみの北の富士さんも「ネオン無情」というレコードをだして、こちらも50万枚のヒット曲だったそう。
平成24年9月27日
北の富士さんは、陣幕親方となって相撲協会理事を務めていたころ、よく部屋にトレーニングに来ていた。当時もちろん八角部屋にいたのだが、八角部屋にはトレーニングルームがなかったため若松部屋に通っていた。体調管理のためとはいえ、かなりハードなトレーニングを課していて驚いたことを思い出す。一挙一動が粋で、「おっ、うまそうなの作っているじゃない」と、ちゃんこをつまむ姿も、じつに様になっていた。
平成24年9月30日
自己最高位幕下18枚目で、3勝4敗と惜しくも負越した朝天舞、場所後の休み中もトレーニングに余念がない。地下のトレーニングルームで、シコや腰割り、腕立て伏せと、汗びっしょりになっている。いつもは、ラップ調の音楽をバックミュージックに行なっていることが多いのだが、今日聞こえてくるのは、珍しくラテン音楽。相撲っぷりも、ラップ調からラテン調に変わってくるかもしれない(よく意味はわからないけど)。明日国技館にて明治神宮奉納全日本力士選士権大会。

編集中

平成24年10月1日
昨日陸奥部屋元幕内琉鵬の結婚披露宴と断髪式が浅草ビューホテルにて行なわれた。琉鵬関とは沖縄つながりで、琉球大学相撲部の稽古や、土俵築にも参加してもらい、学生たちもずいぶんお世話になった。琉大相撲部の学生たちと一緒に石垣島に行って、中学生の相撲教室を開いたのも懐かしい思い出である。膝や腰の怪我と闘いながら、何度か関取復帰も果たしたが、ここ一年は歩くのも困難なほど症状が悪化して引退を決意。6年前に出会ったという同郷の妻酉香(ゆうか)さんとは、喜びと苦しみとに大きく揺さぶられた6年間だったであろう。ゆくゆくは故郷沖縄へ戻り二人でスポーツ関連の仕事に携わる予定とのこと。幸多からんことを願う。
平成24年10月2日
秋場所中に巡業部から、相撲甚句を・初切をできる人がいなくなってきているので、各部屋から推薦してもらうよう通知が来ていた。相撲甚句は、教習所で教えてはいるものの人前で歌えるようになるには場数を踏まなければ難しい。昔に比べ部屋での宴会やお座敷の機会はどんどん減ってきているから、覚えるのに難しい時代になってきているのではあろう。また巡業も減ったので、初切を見る機会も少なくなっている。何よりいいとこ売りのおすもうさんが減ってきているのかも。
平成24年10月3日
1週間後の10月10日(水)から15日(月)まで、高知市総合運動場の相撲場で高砂部屋合宿を行うことになった。師匠の地元高知での合宿は、平成9年8月の合宿以来15年ぶりのこと。市営の相撲場は10年ばかり前改築になったそうで、1階に2面の土俵がある稽古場とチャンコ場、風呂場などの設備も整った立派な合宿所になっている。2階は本格的な吊屋根や桝席仕立ての観客席がある本土俵とでもいうべき試合場。壁には高知県出身の学生横綱の写真パネルが飾られていて、荒瀬、土佐ノ海と共に、師匠長岡末広の学生横綱の雄姿もある。11日(木)から14日(日)までの午前中4日間、地元の子供たちを交えた稽古が行なわれる。高知にお住まいの方ぜひ見学にいらしてください。
平成24年10月6日
大阪と埼玉から小学生が稽古に参加。埼玉の小学生は、体が小さいものの実にいい四股を踏む。脚がまっすぐな長方形の構えになり、きれいに腰が割れる。きれいな腰割りの構えのまま軸足のスネを支点に脚が上がり、一息で元の構えにもどることができる。表面の筋肉をリラックスさせ、全身の深層筋を同時に働かせて脚を上げ、重力を最大限に使い一息で元の姿勢に戻るのが四股である。
平成24年10月7日
なぜ四股を踏むのであろう?足腰を鍛えるため。もちろんである。でもそれは、四股の表面的な効能のひとつでしかないと思う。四股は、「体をいっぺんに使う」ためのものだと最近つくづく思う。「全身を同時に使う」とか、武術的に言うと「一拍子で使う」、となるのか。全身を使って力を出し、全身を使って相手の力を受けることにより、小さな動きで大きな力を出すことができる。全身をいっぺんにつかうために適した構えが、「腰割り」の構えになる。当然、強い足腰になる。
平成24年10月8日
土俵中央に引かれた2本の白線(仕切り線)の間隔は70cmしかない。。『スポーツの謎77を科学する』(山田ゆかり著)や『格闘技「奥義」の科学』(吉福康郎著)によると、両手をついて相手とぶつかり合うまでの時間は、0,4~0,6秒くらいだという。まさに瞬時に体を動かし、瞬時に力を発揮することが必要になってくる。狭い土俵の中で、すぐ目の前にいる相手と闘うには、予備動作をつくらない動き、全身をいっぺんに使う動きが、求められる。そのために四股があると思う。テッポウも然りである。
平成24年10月9日
折に触れて双葉山の映像を見ている。横綱土俵入りの四股も、見れば見るほど奥深さを感じる。まったく力みなく、淀みなく、自然に足が上がり、ひと息で足を踏み下ろす。柔らかいのに力強い。軽やかな動きなのに、ズンとした重さが感じられる。足を踏み下ろした瞬間、腰が深く下りた腰割りの構えにはまり込む。微動だにしない。そこから腰がまったくぶれずに、なめらかにせり上がっていく。菩薩のような表情である。
平成24年10月10日
今日から高知合宿へ出発。午後2時25分羽田発の飛行機で高知へと向かうが、待合室にはかなりの数のお客さんで、座席指定はできずに機械におまかせ状態。窓際の席に座ったら、隣に来たのが朝弁慶。「うわっ!狭っ!」と身を縮めていると、その隣にはさらに朝赤龍関。半身で窮屈そうな朝弁慶の姿に横を通る乗客が笑っている。全員乗り込んだら空席もでてきたので、朝弁慶が移動して事なきを得る。あいにくの雨天ながら、空港には肉や飲物をたくさん積んだ明徳のバスが迎えに来てくれ宿舎まで。宿舎では、室戸から獲れたての魚を車に満載の師匠のお父さんがお出迎え。明日から4日間市営相撲場にて合宿稽古。
平成24年10月11日
高知合宿初日。高知での合宿は15年ぶりとあって、新聞やテレビ各社が取材に訪れる。稽古終了後、高知市からの歓迎セレモニーも行われ、公務で不在の市長に代わり、教育長から師匠に立派なカツオが2尾が贈呈される。師匠の同級生や知人、高知で高校生活を送った朝赤龍の知り合い等、多くの方が差し入れを携えて宿舎に。高知弁が飛び交い、昼も夜も賑やかなチャンコとなる。ぜひ毎年の恒例行事にしようと、師匠はじめ集まった方々も大いに盛り上がっている。
平成24年10月12日
高知県出身力士は、土佐市出身の朝乃土佐と安芸市出身朝乃丈の2人がいる。2人共小学校の頃から相撲を始め、相撲歴はかなり長い。地元ということもあって、午後から朝乃土佐の知人の老人ホームへ力士数人で慰問。お年寄りや職員も、初めて間近に見るお相撲さんに興奮状態だった模様。昨日、テレビ新聞等で大きく紹介されたようで、かなりの数の見学客がつめかけた稽古場。稽古終了後には、お客さんからの大きな拍手も沸き起こった。
平成24年10月13日
高知といえば坂本龍馬だが、龍馬の生誕地は合宿所から近い場所にあり、近在には縁の場所も多い。近くの郵便局の局名は「龍馬郵便局」で、入り口横には大きな龍馬像が立っている。そういえば以前、高知出身力士に、“玉龍馬”という四股名の力士もいた。朝乃丈も改名のとき“朝龍馬”はどうだ、という話も出たが、最終的に朝乃丈に落ち着いた。土曜日とあって中学生が稽古に参加。また、朝乃土佐の小学生時代の相撲の恩師や、朝乃丈の中学の時の指導者等、相撲関係者も次々と顔を見せ、相撲熱の高さを感じさせる。明日が稽古最終日。
平成24年10月14日
合宿所の市営総合運動場のすぐ脇には鏡川が流れていて、橋を渡るとすぐ市街地に入る。高知市は、高知城を中心に出来た城下町で、少し歩くたびに歴史が現れてくる。特に幕末の志士の名は、町中いたる所で目にすることができ、坂本龍馬はもちろん、近藤長次郎、武市半平太、中岡慎太郎、吉村寅太郎、板垣退助、後藤象二郎、福岡孝悌・・・と、司馬遼太郎『龍馬がゆく』の愛読者にはゾクゾクする楽しさがある。合宿最終日の稽古。昨日の中学生に加え、小学生も十数名稽古に参加して、活気あふれる稽古での打上げ。ぜひ来年からも恒例としたい。
平成24年10月15日
合宿所を掃除して、明徳義塾のバスにて空港へ。来る時よりも空いているようで、カウンターで荷物を預けようとした朝弁慶、座席の割り振りのため体重を聞かれる。予期せぬ質問に、一瞬の間の後、「えーっと、170kgです」と答える。ちょうど横にいたので、「うそつけ!173kgだろう!」と正確に答えてあげると、「3kgくらい変わりないじゃないですか」と、はにかんでいる.。(ほんとうは、高知合宿で食い過ぎて175kgくらいになっているかもしれない)。お昼過ぎ、晴天の羽田へ到着。10月20日からは先発隊が九州へ出発する。
平成24年10月16日
高知合宿は5泊6日でしかなかったが、有意義であった。地元の小中学生との稽古や、稽古後の関係者とのちゃんこなど、交流も広まった。地元のスーパーやホームセンターで買い出しをして、近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら、聞こえてくる高知弁の中に身を置いていると、観光旅行では味わえない高知特有の感覚や人情なども幾分かは感じられてくる。幕末の偉人を何人も輩出し、相撲強国としても名高い高知県の源は、やはり人なのであろう。
平成24年10月17日
以前(平成23年2月27日)にも書いたが、相撲強国としての高知は、板垣退助の相撲好きに端を発する。板垣は自邸に相撲場をつくり、そこから香美郡出身初代海山(かいざん)太郎が出て、横綱太刀山や大関国見山を擁する友綱部屋を興した。友綱部屋は、明治後期から大正にかけて幕内20人余りを抱える一大勢力を誇った。その弟子の高知市出身、関脇2代目海山太郎は、引退後、二所ノ関部屋を創設。その二所ノ関部屋から、高知市出身、第32代横綱玉錦三右衛門が誕生した。
平成24年10月20日
玉錦三右衛門は、明治36年高知市の生まれ。13歳で志願するも体格検査基準に足りず、1年余りしてようやく新弟子検査合格。子供のころから勝気で相撲と喧嘩と大好きだったといい、入門後は無類の稽古熱心さで番付を上げていった。猛稽古で生傷が絶えなく「ボロ錦」、また喧嘩っ早いことから「ケンカ玉」とも呼ばれたという。品格に問題ありと見られたのか協会の事情によるのか、大関で3場所連続優勝しながら横綱昇進を見送られたが、昭和7年春秋園事件(平成13年4月13・14日参照)の後も屋台骨となって相撲界を支え、横綱昇進を果たした。今日から先発隊5人(大子錦、男女ノ里、朝弁慶、朝興貴、松田マネージャー)福岡入り。
平成24年10月21日
横綱としての玉錦は、豪放無頼なれど親分肌で面倒見がよく、稽古をする力士は大いに可愛がったという。春秋園事件後幕内に引き上げられた双葉山の立浪部屋にはよく出稽古に出向き、稽古をつけた。双葉山は、玉錦の胸を借りてメキメキ力をつけ大横綱への道をすすんでいくことになる。初顔から6連敗とまったく歯が立たなかった玉錦を初めて双葉山が破ったのは、関脇に上がった昭和11年5月場所。その場所、11戦全勝で初優勝を飾る。敗れた玉錦もかけつけ、満面の笑みで双葉山を祝った。大牟田から家事道具一式を運び込む。ゴーヤーマンも昨晩から泊まり込み、運転や荷物運びに大活躍。
平成24年10月24日
「♪土佐のいごっそう 黒潮育ち 意地を通した男伊達 酒と女にゃ 目がないけれど 折り目筋目はきっちりつける 男の一生 俺はいく♪」の村田英雄『男の一生』は、師匠もよく歌う。まさに土佐の“いっごそう”を地でいった玉錦の人生は、34年でしかない。現役の横綱ながら二枚鑑札(現役が師匠も兼ねる)として二所ノ関を襲名した直後の巡業中に、盲腸をこじらせて腹膜炎を起こした。「ワシがそんな病気になるわけがない」と痛みをこらえ弟子に腹を揉ませ、水分摂取を禁じられたのに氷嚢を破って氷をかじったという。その“いごっそう”ぶりが仇となって帰らぬ人となってしまった。チャンコ場のプレハブ小屋が完成。晴天で、鍋や食器の洗い物も順調にすすむ。
平成24年10月25日
土俵築は先発隊の重要な仕事のひとつである。一年間使っていない土俵を掘り起こすのは、かなりの労力が必要だが、最近は大子錦が小型耕運機を調達してきて農業科出身の腕前をみせている。無事作業が終わって返すときになって、運んでくれる車の手配がどうしても都合つかなくなった。ネットで調べて便利屋さんにお願いしたところ、快く引き受けてくれ部屋へ。耕運機は20kgほどの小型で軽トラックの荷台に楽に積めたが、狭い助手席に大子錦が乗り込んできたのでビックリ。運転席まであふれてきそうな、荷物の6倍以上の重さの同乗者を乗せ、軽トラックはゆるゆると発進していった。
平成24年10月26日
今年の九州場所ポスターは双葉山である。双葉山は、明治45年(1912年)大分県宇佐市の生まれ。ちょうど今年が生誕100年にあたる。伝説の69連勝は昭和11年から14年にかけてのこと。全盛期は戦前なので、戦後世代の一般の方にとっては名前はしっているけど・・・くらいしかないのかもしれない。いまでは想像もつかないが、全盛期の双葉山人気は凄まじいものがあり、日本国中が双葉山一色に染まるほどの国民的英雄であった。土俵築き。稽古場が出来上がり、各部屋のセッティングもほぼ完了して、明日あさってみんなの福岡入りを待つのみとなった。
平成24年10月27日
ポスターは、双葉山横綱土俵入りの写真である。横綱に上がってすぐの頃であろう、若々しい双葉山の姿がある。部屋の稽古場と思わしき場所で、右手を伸ばし左手を脇腹に添えた雲龍型のせり上がりの姿勢だが、見事な腰の割れと、ゆったりと開いた胸、菩薩のような表情、一見、まるで博多人形のようでさえある。呼出し利樹之丞、邦夫、頭、世話人福本さんと福岡入り。明日の相撲列車で全員宿舎成道寺にそろう。
平成24年10月28日
柔軟性のある股関節は、あらゆるスポーツ、舞踊、健康にとって大切なことである。固くなっているからこそ股関節の柔軟性がよく言われるのだろうが、赤ん坊の頃は、みんな柔らかい股関節を持っている。町中でおぶさったり、抱っこされている赤ん坊の股関節は、100%気持ちよく開いて、きれいに割れている。大人になって固くなってしまっただけのことである。ポスターに写る双葉山の股関節は、まるで赤ん坊のようにさえ見える。まったく力みなく、気持ちよく開いている。全員福岡乗り込み。明日番付発表。
平成24年10月29日
九州場所番付発表。番付表は午前6時に国際センターで配布される。いつもなら、番付を取りに行くのは力士二人を車に乗せた木下マネージャーなのだが、今年はたっての希望もあって昨日から泊まり込みのゴーヤーマン。仕事が始まる時間まで、番付発送作業を手伝ってから出勤。まことにありがたい。先場所5勝の朝弁慶が自己最高位を更新して幕下35枚目。朝天舞も、最後の一番の白星が効いたようで、7枚しか落ちてなく幕下25枚目。
平成24年10月30日
双葉山ポスターが人気らしく、先発事務所も在庫切れだそう。写真の双葉山は、清々しく、凛々しく、つきたてのお餅のように柔らかく、それでいて逞しい。手の平も、無造作に開き、片手は、ただ腹にのっかている。お腹はまっすぐなのに、胸から上が流れるように右にかたむいている。肩や腕も、まったく力みがないのにしっかりとした筋肉の重さがつたわってくる。視線は正面を見据えている。目はあくまでも透き通っているが、よく見ると厳しさも感じられる。若いからなのであろう、後の写真に比べると、視点はわりと近い。近いながらも同時に遠くを見ている目でもある。稽古始め。九州高砂部屋後援会の理事の方々が、土俵祭から最後まで稽古総見。
平成24年10月31日
双葉山の視線はつねに遠い。69連勝をつづけている若いころよりも、全盛期、円熟期ともいえる昭和15年から18年頃の写真のほうが、より遠くなっていく感じがする。誤解を恐れずに言わせてもらうと、距離的な遠さというよりも次元の違う遠さというような気さえする。右目は、ほとんど失明状態であった。現役時代、本人は決して右目のことは語らなかったが、対戦相手はうすうす気が付いていたようで、「双葉山の右を狙え」というのが対双葉山作戦の常だった。九州場所らしい朝の冷え込み厳しい稽古場。
平成24年11月1日
“スリ足”は、四股、テッポウと並ぶ相撲の基本になる。「運び足」ともいい、読んで字のごとく、土俵から足を浮かさず足を運ぶ動きである。体をぶらさないようにまっすぐに移動することが大切になってくるが、相撲のスリ足は、足を大きく開いた構えで行なうので、どうしても左右にぶれやすい。朝稽古の時にも必ずスリ足を行なうが、「もっとアゴを引け!」「アゴの下に何かはさんでやってみろ!」という若松親方の指導で、かなりぶれなくなった。アゴを引くことで、軸がしっかりできるのであろう。肘のサポーターや巾着袋、土俵の白線を塗る刷毛、それぞれのものをアゴにはさんだスリ足が功を奏している。
平成24年11月2日
昨日が九州場所新弟子検査で、受検者が一人。今年一年間の新弟子入門者数は、合計で56人。年6場所となった昭和33年以来、最低の入門者数だという。ただ、300年を超える大相撲の歴史の中では、栄枯盛衰、浮き沈みは何度もあり、数々の試練の時期を乗り越えて300年超の歴史がつづいている。やるべきことをしっかりやっていけば、必ず復活のときが来ることを300年の歴史は語っている。
平成24年11月3日
昭和33年に名古屋場所が本場所となって、年6場所になったのだが、九州場所が本場所になったのも一年前の昭和32年から。本場所に昇格する前の、昭和30年、31年は準場所として九州場所が行なわれた。準場所は、当時一門ごとに行なっていた巡業をそろって行なうようなもので、成績は、番付には反映しないが、持ち給金には反映したという。天神の現ソラリアビルの場所にあった福岡スポーツセンターのこけら落としとして昭和30年に準場所を誘致し、本場所に昇格させたのは、福岡の実業家木曽重義氏の功績によるものだという。
平成24年11月4日
毎年九州場所前になると来年度の大相撲カレンダーが発行される。25年度大相撲カレンダーの表紙は、横綱白鵬土俵入りの写真。右脚を高々と上げた横綱白鵬の姿を左から写している。普段なかなか目にする機会のない不知火型横綱の結び目が、止めの元結いまでよく見える。めくると、1月2月は新横綱日馬富士。両手を大きく広げた土俵入りの写真。本来製作は、9月場所中には終えるらしいが、急きょつくり直して間に合わせたよう。大きな日馬富士の写真の下に12人の関取衆の染抜き姿。
平成24年11月7日
部屋の近くにある当仁(とうにん)小学校4年生90名が稽古見学。一度には稽古場に入れないので、2組に分かれての見学。稽古場の外で待っている組は、じっと待っていても寒いので、腰割りや四股、伸脚、蹲踞と体を動かしてもらい、地面にマルを書いて、「ハッケヨーイ ノコッタ!」。相撲を取りだすと、盛り上がるわ盛り上がるわ、寒さもぶっ飛ばす熱の入りよう。稽古を終えたお相撲さんに挑戦して、更に、「ワーワー キャーキャー」。床山さんの髪結いを見たり、お相撲さんと記念撮影など、大相撲体験学習の一日。昨日、場所前恒例の高砂部屋全力士激励パーティーがホテルニューオータニ博多にて行なわれ、200名あまりのお客様が参加。九州場所での高砂部屋の活躍を祝す。
平成24年11月8日
大相撲が開催される国際センターの隣は、サンパレスがあり各種コンサートが行なわれ、ときに若者が長蛇の列を成している。午前中国際センターに行くと、珍しく玄関前にけっこうな列ができていた。隣のサンパレスの列と違い、みなさん年齢層が高く、座り込んで、中にはパック酒を飲みながらの方もおられる。横を通ると、「一ノ矢さんじゃなかとですか?」と声をかけられた。話を聞くと、現役時代に宴席でお会いした方だった。今日午後3時から行なわれる九州場所前夜祭を観るため、午前5時半に甘木を出て6時50分に国際センターに着いたという。幸いお天気には恵まれたものの寒風吹きすさぶ中での入場券待ちである。今年も入場券の売れ行き不振が伝わるが、大相撲を心待ちにしているファンがたくさんいることを肝に命じなければならない。
平成24年11月9日
鹿児島から4名のご年輩の方が稽古見学に。。ゴーヤーマンが、昨日の前夜祭に知人をご招待して来福したという。初めて間近に見る稽古に、「稽古は厳しかですね。孫にも見せたか(見せたい)」と感心しきり。ゴーヤーマンも相撲ファン拡大に貢献している。国際センターには力士幟が立ち並び、番付編成会議が行なわれ、初日2日目の割り(取組)が決まる。明日土俵祭と触れ太鼓。明後日午前8時半より九州場所初日。
平成24年11月10日
「♪トン トトン ストトトトン トン ♪」 国際センターでの土俵祭りを終えた後、太鼓の高く乾いた音が響きわたり、「♪相撲は 明日が 初日じゃんぞーえー♪」 と、呼出しさんが初日の取組を呼び上げる。「♪朝赤龍にーは 勢じゃんぞーえ♪」 大相撲ファンの心を躍らせる触れ太鼓。呼出しさんが、何組かに分かれて街へ繰り出すが、利樹之丞の組の車の運転手は、自ら志願したゴーヤーマン。今日の日のために一か月前から休みをとったゴーヤーマン。至福の一日を過ごしたことであろう。
平成24年11月11日
一年納めの九州場所。雨の初日。満員御礼とまではいかないが、入りはまあまあ。今年は双葉山生誕100年ということで、国際センター正面側通路に双葉山の写真がずらりと並んでいる。初日の高砂部屋、先陣を切って土俵に上がったのはちゃんこ長大子錦。いつも引っ張り込んでの長い相撲で、土俵下の審判からいやな顔をされているのだが、今日は珍しく左を差しての速い相撲。高知合宿以来、魚をさばきっぱなしで、さし身が上手くなったのかもしれない。幕下25枚目の朝天舞も白星発進。
平成24年11月13日
雷雨ときどき晴れの福岡。朝赤龍、今日から休場。場所前から痛めていた足首を昨日の取組で悪化させてしまった。ちゃんこ長大子錦、得意の引っ張り込みで2連勝を狙ったが、逆に振られて転び、相手の下敷きに。欲をかいたのが裏目に出たのか、運悪く商売道具の右手に乗っかられ右手首を2か所骨折。右手にはギプスが巻かれ、包丁が握れなくなってしまった。大子錦も明日から休場。厄日となった3日目だが、朝乃土佐、朝興貴は2連勝。高砂部屋にとっても雷雨ときどき晴れの一日。
平成24年11月15日
右手首を骨折してしまった大子錦。包丁を持てないどころか、トイレにいってお尻も拭けない。そこでお寺さんに直談判して、お寺さんの洗浄機能付きトイレを使わせてもらうことにした。大子錦の哀願の顔に、「大変ねぇ」と同情しながらも、こらえきれずにの笑い声。みんなからも「もともとちゃんと拭けてないのに」とつっ込まれる。高砂部屋伝統のおいしいちゃんこを守る大子錦、つねにお笑いを提供してくれる存在としても、なくてはならない。朝興貴3連勝。
平成24年11月17日
初めて大相撲を観戦した方の話を聞くのは面白い。こちらが当たり前に見過ごしていることに驚いたり、興味を抱いたりする。ある方は、関取の座布団がマイ座布団だったことが面白かったといい、ある方は、呼出しさんがテキパキと細やかに土俵周りの仕事をこなすことに感心し、ある方は、お相撲さんの肌の綺麗さに見とれたという。ぶつかり合いの迫力や土俵の美しさはもちろんのこと、生でこそ感じられる面白さ感動がある。今場所初の満員御礼の国際センター。ぜひ会場へ足を運んでいただき、生の大相撲の迫力、楽しさに直接触れていただきたい。朝乃土佐、朝奄美3勝目。
平成24年11月18日
今年2本目のアラの差入れ。いつもは大子錦が捌くのだが、ギプスを巻いた手では包丁を握れなく、急きょ朝奄美の出番となった。もちろん初めての経験だが、宿舎のすぐ裏にある料理屋『藁巣坊』(わらすぼ)さんの助太刀の甲斐もあって、何とか無事捌ききる。相撲と一緒で、この一度の成功体験が大きな自信となるであろう。朝興貴、4連勝での勝越し第1号。先場所の全休で番付を下げているとはいえ、これも今後へ向けての大きな自信につながる。
平成24年11月19日
藁巣坊(わらすぼ)は、高砂部屋宿舎成道寺(じょうどうじ)のすぐ裏にあり、高砂部屋関係者も毎日のように出入りしている。先日は、師匠の同期生会が店で行なわれ、元水戸泉の錦戸親方や元横綱大乃国の芝田山親方も来店。スイーツ親方、グルメ親方としても名高い芝田山親方も、藁巣坊餃子のうまさを絶賛していたとのこと。もつ鍋やニラ玉なども、力士には人気メニュー。一度ご賞味あれ。部屋との交流は長く、壁一面に小錦、朝青龍の若かりし頃の写真も所狭しと飾られている。
平成24年11月20日
ロンドン五輪テコンドーで5位に入賞した濱田真由選手は、藁巣坊さんの親戚にあたる。ひょんなご縁から濱田選手のコーチがシコトレに興味をもって下さり、2度ほどお会いする機会を得た。股関節周りの力を最大限に引き出す四股は、“足のボクシング”とも呼ばれるテコンドーと相通ずるものも多く、さっそく日々のトレーニングに取り入れているという。まだ19歳の濱田選手、4年後が大いに楽しみである。朝興貴5連勝。朝乃土佐今場所2人目の勝越し。
平成24年11月21日
休場者が一日に4人も出たことがニュースになった。力士に怪我はつきものだから、たまたま同じ日に重なっただけなのだろうが、全体でも7人となり史上最多の8人に迫る勢いとなった。理事長からも、「力士はもっと四股をしっかり踏んで、下半身を鍛えないといけません」との談話。怪我の要因はいろいろあるだろうが、以前に比べて四股を踏まなくなったのは確かだし、休場者が多くなったのも確かである。朝奄美今場所3人目の勝越し。来場所の自己最高位更新が濃厚。朝乃土佐5勝目。あと一番で、幕下復帰が見えてくる。
平成24年11月22日
九州場所宿舎としてお世話になっている成道寺の本堂は東に面していて、本堂前の階段は日当たりがよく、日向ぼっこしながらの談笑の場になっている。場所前のある日のこと、本堂前を掃除していた朝興貴に、談笑中の邦夫と朝之助が話しかけた。「先場所の全休で番付だいぶ落ちたから、今場所は優勝のチャンスだねぇ」冷やかし半分の言葉に、朝興貴は「はい がんばります」とはにかんでいたのだが、今日勝って6連勝と、瓢箪から駒まであと一番と迫ってきた。序二段の6連勝は3人いて、一人が1敗の力士との対戦のため、明日の全勝対決朝興貴VS栃岐岳戦の勝者が序二段優勝となる可能性もある。
平成24年11月23日
朝興貴、序二段優勝決定!
徳俵近くまで下がり、双手(もろて)突きからの突っ張りを得意とする朝興貴。今日の緊張する一番でも前に攻めての7勝目。もう一人の全勝力士が三段目の全勝力士に敗れたため、序二段優勝が決定。中入り後NHK相撲中継の優勝力士インタビューに出演したあと部屋へ。大きな拍手で迎えられ、お寺さんの3歳になる孫娘から首飾りのプレゼント。高砂部屋としては平成22年1月場所の朝青龍の幕内優勝以来。九州場所では、平成18年の朝青龍以来の優勝。朝龍峰、熊本から応援に来た母の前での嬉しい勝越し。
平成24年11月24日
幕下25枚目の朝天舞、3勝3敗同士の一番に勝っての勝越し。勝越しが決まった瞬間、土俵の上で大きく反りかえり雄叫びをあげんばかりの形相。NHKBSのカメラマンもわかっていたようで、その姿までスロー再生していたそう。一生懸命な花ちゃんのパフォーマンスは、やってはいけないこととはいえ、審判の親方衆も半分あきらめてくれているよう。来場所また最高位の幕下18枚目近くまで番付を戻せる。今年の幕下以下高砂部屋年間最多勝も、ぶっちきりでの決定。来年に大きく期待したい。
平成24年11月25日
小春日和のおだやかな千秋楽。千秋楽というのは、ものごとの終わりという意味で、もともとは雅楽からきたという説や、能の謡の「高砂」からきたという説などあるようだが、歌舞伎の世界で使われ始め、大相撲でも使うようになったよう。そもそも「千秋」は、「一日千秋の思い」と使われるように、長い年月、千年、千歳という意味があり、さらに万歳をつけて「千秋万歳」と、めでたさを表す言葉になる。番付表の一番最後は、「千穐万歳大々叶」で締められているし、千秋楽の割り紙(取組表)の最後も表彰式次第のあと、「千穐万歳」と書いてある。「穐」は「秋」の異体字で、「火」を忌み嫌って 、縁起のいい「亀」の字を使ったそう。博多駅近くの八仙閣にて打上パーティー。
平成24年11月27日
千秋楽結びの一番のあとに行なわれる表彰式は、君が代斉唱で始まる。つづいて賜盃拝戴式、優勝旗授与式とつづく。内閣総理大臣賞授与式のあと、一旦中断して土俵下での優勝力士インタビューが行なわれる。つづいて各国からの友好杯。モンゴル国総理大臣賞、日仏友好杯、ハンガリー国友好杯、チェコ国友好杯、アラブ首長国連邦友好杯、メキシコ合衆国友好杯とつづき、NHK金杯授与式となる。NHK金杯がアナウンスされる頃、支度部屋では記念撮影の準備をはじめる。天皇賜杯が運び込まれ、後援会並びに関係者が整列して、優勝力士が支度部屋に帰ってくるのを待つ。
平成24年12月1日
家財道具一式を大牟田の親方の知人の倉庫へ運搬。チャンコ場となるプレハブ一式、冷蔵庫、鍋食器類、自転車、衣装ケース・・・、等を4トン車2台に積み込み、力士6人はゴーヤーマン運転のワゴン車で現場へ。昨晩遅くに仕事から直行して部屋に泊まったゴーヤーマン。早朝から荷物運びに運転と大活躍で、お昼過ぎに利樹之丞が待つ藁巣坊へ。すぼった後(藁巣坊で食事することをいつしか“すぼる”というようになった)、利樹之丞を乗せて大分県宇佐市へ。12月4日に行なわれる宇佐巡業の土俵築に同行。月曜日からまた通常業務に戻るから、ここひと月余り、大相撲三昧、高砂部屋三昧だったゴーヤーマンの九州場所は、明日が千秋楽となる。
平成24年12月2日
高砂部屋の看板やゴザ、カーテン、傘など、残った荷物を稽古場横の風呂場に入れ、貸蒲団を返し、再度掃除して、1ヵ月半お世話になった宿舎成道寺(じょうどうじ)にお別れ。玄関の前で、お寺さんの若夫婦と3歳のはるちゃんと記念撮影。はるちゃんは、シマジロウの脚にしがみついて「はいチーズ」。少し早目のお昼を藁巣坊で締めて空港へ。餃子の食い納めの後、今年も大変お世話になった藁巣坊の家族とお店の前で「はいポーズ」。名残惜しい唐人町を、博多を後にして帰京。
平成24年12月9日
ベースボール・マガジン社月刊『相撲』は、昭和27年の創刊。昭和21年に池田恒雄氏が月刊『ベースボールマガジン』の創刊と共に社を創業。はじめは「ベースボールマガジン」の特集誌、別冊誌として『相撲号』が昭和24年に出て、昭和27年より月刊誌となった。他にも読売新聞社発行の月刊誌『大相撲』やNHKサービスセンター発行の雑誌『大相撲中継』、ベースボール・マガジン社『VanVan相撲界』などの相撲雑誌があったが、他はすべて廃刊となり、現在は唯一の相撲雑誌となっている。作家の工藤美代子氏は、池田恒雄氏の娘になる。
平成24年12月10日
『悪名の棺 笹川良一伝』や『絢爛たる悪運 岸信介伝』などの話題作で知られるノンフィクション作家工藤美代子氏の母方の実家が両国にある工藤写真館である。工藤写真館には「相撲写真資料館」が併設されていて戦前戦後の貴重な相撲写真が数多く飾られている。開館は火曜日のみ(場所中は毎日開館)10時~17時まで。工藤美代子氏にも『双葉山はママの坊や』(文藝春秋)『海を渡った力士たち - ハワイ相撲の百年』(ベースボール・マガジン社)という著書がある。
平成24年12月11日
『TSUNA』というフリーペーパーをいただいた。20ページの冊子で、“0(ゼロ)から始める 相撲オタクになるマガジン『綱』”とある。2012.winter号が2号目で、特集は「大相撲観戦ガイド」、他「高橋久美子のどすこいコラム」「角界ダンディズム」「力士の大食いに挑戦!」など、素人目線での記事が楽しく興味深い。相撲雑誌が減る中、まことに嬉しくありがたい試み。
平成24年12月12日
『TSUNA』の「どすこいコラム」高橋久美子氏は、プロフィールによると作詞家・作家とある。「土俵際」と題された2ページのコラムは、12日目と千秋楽の観戦記で、コミカルでありつつも臨場感にあふれ、力士の内面や歴史も薫り、つい引きこまれてしまう。呼出しさんの所作が好きだという。「取組が一つ終わるごとに呼出し二人が現れてほうきを右へサッ左へサッ、同じ動きで土俵を掃くところだ。これって、ディズニーランドの清掃員と似ている。隅々までエンターテイメントだ。」・・・うける。ここまで細かく観ていただけるのは、相撲に関るものとして、本当に嬉しくなってしまう。
平成24年12月13日
”ディズニーランドの清掃員みたい”という声は、九州場所を初めてみた方からも聞いた。その方は、たびたび呼出しさんが土俵に上がって、時間いっぱいぎりぎりまでほうきを入れるのが気になったそう。これみよがしに何度もほうきをいれる姿に、おすもうさんの邪魔になるのではとさえ思ったという。「あれは、土俵の周りの蛇の目の砂をならして、際どい勝負で足跡がわかるようにしているんですよ」というと、「そやったんですか」と納得していた。そういう視点も生観戦ならではのことであろう。1月13日初日の初場所、前売り状況は好調なよう。
平成24年12月14日
310年前の今日、元禄15年(1702)12月14日は、赤穂浪士討入の日。もっとも当時は旧暦だから、現在の暦でいうと1月末になるそうだが。討入の舞台となった本所吉良邸は、現在の両国3丁目。 いまは、屋敷地の一部が本所松坂町公園として残るのみだが、もともとは2500坪以上あり、西側の裏門は回向院に面していたという。大島部屋があった辺りは敷地内だったのかもしれない。時津風部屋、出羽ノ海部屋、井筒部屋も近い。
平成24年12月16日
回向院は、明暦3年(1657)の大火で亡くなった10万7千人余の葬るためにたてられた。境内で大相撲が初めて行なわれたのは明和5年(1768)、定場所となったのは天保4年(1833)からだという。はじめ火除地として両国橋のたもとに広小路ができ(現中央区側)、芝居小屋などが出来て賑わった。やがて収まりきれずに向両国(現墨田区側)に河岸を替え、江戸文化全盛の文化(1804)・文政(1818)の頃の向両国の殷賑は凄じいものがあったという。そういう環境、時代の中で、回向院での年2回の大相撲が慣例となった。
平成24年12月20日
昨19日、年末恒例の高砂部屋激励会がホテルニューオータニにて開催され後援会を中心に、たくさんのお客様にお越しいただきクリスマス&忘年会。おかみさんもメンバーである和太鼓で幕を開け、呼出し利樹之丞による相撲甚句『風雲 高砂部屋』、歌や踊りのゲストのディナーショーを楽しみ、最後は師匠と五条哲也さんによる「ほたる川」の競演。子どもたちお楽しみの大子錦サンタからのクリスマスプレゼント、最後は抽選会で和やかなうちに閉会となった。
平成24年12月24日
平成25年初場所番付発表。先場所休場の朝赤龍は、十両6枚目からの再起。11月場所幕下25枚目で4勝の朝天舞、今場所は20枚目。この辺りまでくると、勝越してもそんなに上がらなくなってくる。朝乃土佐は、およそ2年半ぶりの幕下復帰。序二段優勝の朝興貴、番付を99枚上げて三段目48枚目。朝龍峰、朝奄美ともに自己最高位。
平成24年12月27日
あたりまえのことだが、番付発表の日を境に新しい番付の地位になる。先場所序二段47枚目だった朝興貴、12月24日から三段目48枚目になった。番付発表前、序二段の朝龍峰や朝奄美、朝乃丈に負けることの方が多く、まったく精彩を欠いていた。周りから「来場所全敗してしまうぞ!」とハッパをかけられても、相変わらずの稽古であった。ところが番付発表後、25日以降の稽古では、上記3人を回す(勝ち抜く)ことができるようになった。“地位が人をつくる”というように、三段目らしい力強さもでてきた。相撲が、『心・技・体』といわれる所以でもあろう。
平成24年12月28日
今場所の番付で、発表前から話題(内々で)になっていたことがある。先場所序二段17枚目で1勝の大子錦と序二段38枚目で3勝の神山、どちらが部屋の中で最下位になるかということである。結果は、大子錦序二段62枚目、神山序二段64枚目で、番付最下位は神山に決定。朝興貴とは100枚以上の差がついてしまった。三段目らしさも出てきた朝興貴だが、まだまだ稽古場では神山に番付通りには勝てない。これを、“兄弟子勝ち”という。これも、相撲で、『心』の占める割合が大きいことを示す例といえる。
平成24年12月31日
大晦日。平成24年度の高砂部屋、幕下以下の年間最多勝は朝天舞の25勝17敗。3月場所三段目に陥落したものの、そこから4勝、5勝、6勝とつづけて、幕下18枚目まで番付を上げてきた。新年初場所は幕下20枚目。勝負の年となれるか。他に年間成績で勝越したのが、朝弁慶、朝乃土佐、朝興貴の3人。それぞれ1年前より番付を上げて初場所に臨む。3月場所で2人入門したものの、半年足らずで引退して結局は元の人数に。ただ、来春の入門予定者は相撲経験者なので、いい刺激となってくれるものと期待したい。29日、今年の稽古納め。新年は、3日から稽古始め。今年も一年ありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。
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