平成25年4月2日
4月になったというのに花冷えの日がつづく東京。月が改まり、新入社員同様、新弟子たちも1日から相撲教習所に通う。7時から実技の授業が開始なので、6時過ぎに部屋を出て、下駄でカランコロンカランコロンと国技館内にある教習所へ向かう。慣れない下駄履きは疲れるというが、これも稽古の一環である。現高田川親方の元安芸乃島は、足を鍛えるため幕下に上がっても下駄履きであった。行住坐臥すべてを相撲に結びつけてこそ、力士たりうる。
平成25年4月3日
下駄の正しい履き方、歩き方について、下駄屋さんが丁寧に解説してくださっている。現役時代を振り返ってみても、後ろ歯の外側からすり減ってきていた。そもそもの重心のかけ方を間違えていたのかと今更ながらに反省する。入門した時は下駄履きで、三段目に上がると雪駄を履くことができる。下駄は長らく履いているとすり減って、歯がほとんどなくなってしまう。そこまで履きたおすと、“ゲッタ”と呼ばれる。
平成25年4月4日
雪駄は鼻緒をひっかけてカカトを出して歩く。新品の雪駄でいきなり長時間歩くと鼻緒ずれしてしまうことがある。草履はエナメルでカカト裏に金具が打ってあるので、けっこう重さがある。ただ、最近はビニール製の雪駄風草履が流行りで、こちらは鼻緒も柔らかく裏に金具もついてないので、普通のゴム草履の感覚で履けるので楽である。力士の履物は、両国岡田屋履物店が一手に引き受けている。
平成25年4月5日
畳表の雪駄は関取のみに許される。というか、協会の公式行事や引退相撲、冠婚葬祭などでの関取衆の正装は、黒紋付に袴着用で、白足袋、畳の雪駄を履かなければならない。その他個人的なパーティー等では、準礼装として羽織、袴でよい。このときは黒足袋で、雪駄もエナメルのものになる。幕下以下の若い衆は、常に黒足袋で、白足袋を履くことは許されない。足を痛めたときなどに稽古場で履く稽古足袋も、関取衆は白足袋、若い衆は黒足袋と決まっている。
平成25年4月6日
入門した30年前頃は、「相撲取りが靴なんか履くもんじゃない」と言われた。ジーンズも然りであった。今は、若い衆もジーンズにナイキの靴を履き、普段着のおシャレを楽しむようになった。その分、着物を着るのを嫌がり、下駄や雪駄よりもゴム草履を好むようになった。立ち居振る舞い、歩き方、考え方、あらゆることが和から洋風に変わっているから、だんだん和装に違和感を感じるようになってきているのかもしれない。土曜日は相撲教習所が休みで、新弟子二人も部屋での稽古。
平成25年4月8日
現在お相撲さんの部屋着は、ほとんどがジャージである。横綱輪島が入門してから相撲界にもジャージ姿が広まったと言われているが、おそらくその頃からであろう。横綱輪島の入門は、昭和45年(1970)1月場所。その頃から着物は特別なものになり、だんだんとめんどくさいものになっていったのであろう。それと同時に、相撲の取り方も、だんだんスポーツ的になっていったのではなかろうか。
平成25年4月9日
四股やテッポウ、スリ足といった相撲の基本の動きはすべて右手右足を同時に出す“ナンバ”の動きである。ナンバの動きについては、甲野善紀氏の研究が詳しいが、「蹴らない」「捻らない」「体全体を使う」「重力を使う」などの特徴があり、江戸時代の日本人が使っていた和の身体作法である。下駄の歩き方にあるように前に重心をかけるのも、体全体をまっすぐ倒して重力を利用して歩くということなのであろう。能や日舞、武術にも共通する動きで、13日(土)能楽師の安田登さんと「和の身体作法」について考えます。
平成25年4月11日
荒汐部屋蒼国来の復帰が話題となっている。引退と復帰をくり返す競技もあるが、大相撲は引退もしくは破門となった力士の復帰を原則認めていない。それでも長い歴史の中で、復帰が認められた例が何度かあり、ドラマを生んでいる。初代高砂浦五郎もそうであるし(現役で破門になって、年寄としての復帰だが)、昭和のはじめの大関清水川の復帰は、協会への嘆願書をしたためた父親の自殺によって叶えられた。清水川の壮絶な土俵人生を参考に、作家尾崎士郎は「人生劇場青春篇」を書いたといわれる。
平成25年4月12日
清水川元吉は明治33年青森県五所川原の生まれで大正12年に入幕。細身の体ながら上手投げの切れ味抜群で、、鎌首を上げるような仕切りと、気っぷのいい取り口で人気が高かった。三役に上がりながら人気に溺れ生活が乱れ、やくざが介入する事件を起こし、本場所を無断欠勤。ついに破門となった。破門されて2年あまり、さすがに本人も反省して身を慎み、間に入ってくれる有力者もいて、協会に嘆願するも、協会は頑として受けつけない。ついには、父親が嘆願書を遺書として自殺した。早速協会で評議会が開かれたが、前例になっては困るとして復帰反対が大勢を占めていた。
平成25年4月14日
「身を殺して息子の復帰嘆願をする例が、将来二度とあるとは思えない」出羽海取締(元小結両国)の一言で、大勢を占めていた復帰反対が覆った。幕下筆頭からの復帰が認められた清水川は、生まれ変わったように稽古に打ち込み、幕内、三役と返り咲き、ついには大関までかけ上った。元は本名の米作であったが、復帰後父の名元吉を名乗った。優勝も3回飾り横綱の声もかかったが、怪我もあり昭和12年に引退。年寄追手風として相撲人生を全うした。若いころは放埓無頼で鼻持ちならない力士といわれたが、復帰後は親分肌で人情見厚い人格者と慕われたという。春巡業最終日水戸場所。茨城県出身男女ノ里、大子錦も参加。
平成25年4月15日
初代高砂浦五郎が破門されたのは明治6年11月場所。会所(協会)に改革を迫り、一蹴されて番付から名前を消されてしまった)。名古屋を拠点に改正高砂組として独立。やくざとのトラブルや客の不入りに悩まされながらも次第に勢力を拡大していき、大阪相撲や京都相撲との合同興業もうてるようになっていった。姫路のお殿様や清水の次郎長に助けられたこともあり、やがて鷲尾隆聚愛知県令(知事)という有力な後援者を得たことが大きな力となった。
平成25年4月16日
世は明治初期、激動の時代であった。明治8年は改正組の京都・大阪との合併相撲が各地で人気を博し、東京へも乗り込み興業を成功させ、会所(旧来の相撲協会)に一矢報いた。ところが明治10年の西南戦争で、相撲興業は各地で差し止めとなり再び苦境の時となる。やむなく出た奥州巡業は不入りで、金銭トラブルから分裂騒動まで起こり、そこへ「相撲は東京府下に一組」との法令。会所(協会)が早速鑑札(許可証)を取り、高砂改正組はますます窮地に追い込まれてしまう。
平成25年4月17日
力士達を東北に残したまま、初代高砂浦五郎は単身両国回向院の会所に乗り込む。煮えくりかえる腸を抑えて実権を握る玉垣、伊勢ノ海に会するも、二人は調印書を手に、けんもほろろにせせら笑う。会所を飛び出したその足で、丸の内の警視庁へ。警視総監に直談判し、その後元老院議員となった鷲尾元愛知県令と安藤則命元老院議員の元へ。調停の労を頼み、東北へ戻る。「相撲は東京府下に一組」の発令から三ヶ月、素早い行動力と修羅場をくぐり抜けてきた中で得た人脈、ロビー活動が功を奏し、明治11年5月ついに改正高砂組の復帰が認められた。
平成25年4月18日
復帰に際してもひと悶着あった。改正組の一番の実力者は響矢宗五郎。はじめ会所(協会)は、幕下上位くらいの力とみて附け出そうとしたが、初代高砂が譲らない。いわば強引に幕内に押し込んで幕尻の西前頭8枚目。この明治11年5月場所響矢から高砂部屋関取の歴史が135年つづくことになる。初代高砂と苦楽を共にしてきた響矢、見事期待に応えて6勝1敗1分2休の好成績。高砂の面目躍如。響矢は小兵ながら以後も奮闘し、明治15年1月から師匠の前名高見山を襲名、関脇まで昇進。明治22年に引退し、初代没後2代目高砂浦五郎となる。
平成25年4月19日
初代高砂浦五郎伝は、読売『大相撲』で平成12年12月号~14年7月号まで連載された小島貞二氏の文に依る。小島氏は合併を成し遂げた初代高砂について、「高砂の異常なまでの強情我慢が実を結んだ」と書いている。まさに、争うことをいとわず強情を重ねつつも、雌伏の時には我慢をつづけ、機とみるや一気呵成に攻め、やがて相撲界のトップに登りつめていった。明治の世になっても江戸時代をひきずったままであった大相撲界。数々の近代化改革を推し進めていったのは、初代高砂の功労によるところが大きい。
平成25年4月20日
あり余る熱情と剛毅果断な初代高砂浦五郎は、いかにも激動期のリーダーにふさわしかった。愛知県令鷲尾隆聚は初代高砂の男気に惚れて大きな後ろ盾となり、2代目高砂となる響矢宗五郎も初代にほれ込んで辛苦を共にした。はじめ京都相撲に入門の西ノ海嘉治郎は、鹿児島県川内市の出身。改正高砂組の興業に参加しつつ、明治15年に幕内格附け出しで正式に入門。高砂部屋初の横綱免許を受け、23年5月場所、初めて番付表に横綱と明記された。以後、横綱が大関の上の位になった。
平成25年4月22日
もともと横綱は地位ではなく称号で、大関が最高位であった。天覧相撲などの機会があったときに、行司の宗家吉田司家が横綱土俵入りする免許を与えた。通常は最高位である大関の中から選ばれたが、ときに関脇から選ばれることもあったという。明治23年以前の横綱は、横綱土俵入りをする機会を与えられた力士といえるかもしれない。その驚異的な強さが伝説となっている江戸寛政期の大関雷電為右衛門は、その機会に恵まれなかっただけである。
平成25年4月24日
明治23年横綱が地位として番付に明記されたのは、高砂部屋と大いに関わりがある。京都相撲から高砂部屋へ入門の西ノ海は、明治15年幕内格附け出しで初土俵。順調に番付を上げ明治18年には大関。あとを追うように若い小錦が番付を上げてきた。小錦は、明治16年入門で、21年に新入幕。新入幕から4場所負け知らずの成績で明治23年には関脇を飛び越えて大関に昇進。年齢は西ノ海より11歳若い。並ばれた西ノ海は面白くない。「こっちは横綱免許(23年3月)を授かっているのに、同じ大関ではおかしいではないか」兄弟子である西ノ海の顔を立てるため、取締である高砂が配慮して、「横綱」が番付に明記されるようになった。明日番付発表。
平成25年4月25日
5月場所番付発表。いつもなら初日の2週間前の月曜日なのだが、ゴールデンウイークの最中4月29日(月)祝日と重なってしまうため早まった。朝赤龍、先場所の2桁10勝で7枚番付を上げて東十両4枚目。幕下の二人、朝天舞(先場所4勝)が10枚上がって25枚目。朝弁慶(先場所5勝)は20枚上げて31枚目と自己最高位更新。今場所はいつもより勝越しの上がり幅が大きい。序二段朝ノ島も自己最高位更新の序二段27枚目。先場所前相撲の朝西村と朝上野、初めて番付に四股名が載る。
平成25年4月26日
7時から稽古開始。8時半十両格行司木村朝之助による土俵祭。ちょうど来ていた外国からのお客さん(アメリカ人?)も正座に座り直して興味深そうに見学。さすがに終わった後、立ち上がるのに難儀していたが。相撲教習所は番付発表までなので、朝西村、朝上野の二人も稽古に加わる。二人とも大きいので、ずいぶん稽古場の人数が増えたように感じる。
平成25年4月27日
横綱審議委員会は昭和25年5月から設けられた。初代委員長は酒井忠正伯爵。酒井忠正氏は、戦前農林大臣や貴族院副議長を務めた政治家であり、旧姫路藩酒井家の21代当主でもある。初代高砂浦五郎をお抱えになった酒井のお殿様は祖父にあたる。忠正氏も子供の頃から相撲が好きで自分でも取り、資料を集め、高じて「相撲の殿様」とも呼ばれていたという。現在の相撲博物館は酒井コレクションを基に昭和29年に開館され、初代館長を務められた。横審総見稽古。朝赤龍と共に、朝天舞、朝弁慶も参加。
平成25年4月28日
両国にぎわい祭りの相撲イベント「相撲字で記念うちわ」には木村朝之助も出演。5人の行司さんが並んで、お客さんの名前を記念うちわに「相撲字」で書いていく。太々とすき間なく自分の名前が形になっていくのを目の前で見るのは感動もので、まさに芸術作品の完成。太鼓実演には、利樹之丞と邦夫が登場。もう一人の呼出しさんと共に珍しい3人での連弾を見事なバチさばきで響かせ、こちらも拍手大喝采。お天気にも恵まれ、江戸情緒あふれる両国界隈でした。
平成25年4月29日
新弟子で入門すると、ほとんどは一度体重が落ちてしまう。激しい稽古と慣れない生活による。富山県出身朝上野、3月の新弟子検査のとき181kgあったが、先日体重計に乗ったら166kg。ここ2カ月近くで15kgやせてしまった。教習所の一期目が終わり、部屋での稽古が始まって4日。全身筋肉痛だそうでヒーヒーゼーゼーいいながらも、何とか我慢して稽古をつづけている。無駄な肉が絞られ、稽古についていける体力がついてくると、190cmの体が大きな武器になってくる。
平成25年4月30日
もう一人の新弟子朝西村も186cm、147kgと負けず劣らずの立派な体格。朝上野は高校卒業後1年のブランクがあるが、朝西村の方は大学卒業と同時にでの入門のため少しは体が慣れているようで、2kg減にとどまっている。もっとも、顔を合わすたびに「もう限界ッス」「もう限界ッス」と、しんどそう。まあ、挨拶代りの口癖なのであろうが。早く幕下の二人を稽古場で脅かす存在になってもらいたい。元幕内藤ノ川の服部監督の東海学園大学からは初めてのプロ入門である。
平成25年5月1日
先日紹介したように両国にぎわい祭りでは、高砂部屋の呼出し利樹之丞と邦夫が、もう一人北の湖部屋呼出し太助さんと3人で太鼓実演を披露した。太鼓実演は、ふつう一人で寄せ太鼓や一番太鼓、はね太鼓とあいだに間を入れながら打ち分けていく。はじめは普通通りにお聞かせしたのだが、圧巻だったのが後半の♪太鼓メドレー♪。寄せ太鼓にはじまり、一番太鼓、二番太鼓、はね太鼓と、それぞれ短めにつなげていった。メドレーでつなげてもらうと、素人には聞き分けづらいそれぞれの太鼓のリズムやテンポの違いが分かり、実に面白かった。さらに三人での連弾までも。利樹之丞によると、基本のリズムを押さえて最初と最後さえ合わせれば何とかなるとのことだったが、まさにプロの業で珠玉の響き。
平成25年5月2日
電話はもちろん、テレビやラジオもなかった江戸や明治の頃、相撲の開催を知らせるのは太鼓の音のみであった。遠くへ音を響かせるため、高い櫓が組まれ、太鼓は小ぶりで張りを強くして高い音が出るようにつくられた。太鼓実演では次のように解説する。「一番太鼓は、昔は真夜中の二時か三時頃に打たれ、この太鼓を“朝の打ち込み”と申しまして打ち手は、天下泰平、五穀豊穣を祈って打たれたと言われております・・・また地方巡業に参りますと、この一番太鼓を合図に、下の方の、お相撲さんの稽古が始まりましたが、現在は、騒音防止条例の為、朝の8時30分から、30分間だけ打たれております」
平成25年5月3日
番付発表後は休みなしで稽古が行なわれる。本場所が始まると稽古時間が短くなるが、初日の前々日ころまでは現在のペースがつづく。4月25日の番付発表後から今日で8日目。ふつうなら初日まであと5日と先が見えてくる頃なのだが、今場所は初日まであと8日と長い。高校、大学の稽古では1週間単位で休みがあったはずの朝西村、朝上野にとってはおそらく未知のこと。二人共かなり疲れがたまってきているよう。そこへいくと、この世界が5年目となる朝興貴クラスは、連日の稽古にもそう変わりはない。長丁場を乗り切るスタミナは、プロならではのことである。
平成25年5月4日
お相撲さんは、力はあってもスタミナはないと思われている方は多いと思う。大相撲中継のインタビューで「ハーハーゼーゼー」いっている印象が強いからだろうが、相撲を一番取ることは、100mの全力疾走に匹敵するか、それ以上のものがある。稽古では、それを何十番と繰り返すから、究極のインターバルトレーニングだともいえる。インターバルトレーニングとは、強度の高い運動と休息(もしくは軽い運動)をくり返すことで、心肺機能を極限まで高めることができるトレーニングである。何十番もの稽古を毎日くりかえしている力士のスタミナは、科学的にも根拠あることだといえる。
平成25年5月5日
実際、力士のスタミナをテストする機会が明治のはじめにあった。明治維新の余波が残る明治9年、文明開化の波を受け「裸体禁止令」が発令。やがて一部から、相撲も「裸踊り」だとして「相撲禁止論」まで飛び出してきた。そういう雰囲気を打破するため、世の中の役に立つことはできないかと生まれたのが、力士達で「消防別手組」をつくる案。しかし、消防のほうから「力士は力は強くてもスタミナがないのでは」と物言いがつきテストすることに。屈強の漁師5人対力士3人との綱引き。さらに、足自慢の人力車夫8人と力士8人による荷車を引いての持久走。警視庁立合いの元、九段坂上の馬場でテストが行なわれた。
平成25年5月6日
テストに臨んだのは、巡業に出ていない幕下、三段目の力士たち。漁師5人対力士3人の綱引きは、何なく力士団が勝った。つづいて、荷車を引いての人力車夫との競争。馬場を何十周も回る。はじめは圧倒的に車夫が早かった。ところが、10周、20周と回るうち車夫はだんだん疲れてきて、力士たちが追いついた。30周、40周、力尽きる車夫を尻目に、力士たちは普段の稽古の成果を発揮し最後まで走り切り、力士団の勝利となった。警視庁は、力士の消防別手組を認めた。
平成25年5月7日
スタミナがあるといえば、部屋ではクボユウこと朝乃丈が一番かもしれない。何年かさかのぼってみても、稽古を休んだ覚えがない。風邪もひかない。いや5,6年前に一度風邪をひいたとか言っていた気がするが、「気のせいだよ」と周りから言われて寝込むことはなかったように思う。毎日の番数もかなりのものがある。「力を入れていないから」とよく言われるが、相手があることだから、ある程度は踏ん張らなければならない。本人の口から出るのはやる気のない言葉ばかりだが、継続は力なりで三段目らしい張りのある体つきになっている。毎日のように怒られても、精神的にもタフである。(聞いちゃいないだけともいわれているが)ある意味超人かもしれない。
平成25年5月9日
番付発表後、朝7時から稽古がはじまっている。若松親方指導のもと、1時間あまり、長い時には1時間半基礎トレーニングが行なわれる。四股に始まり、ダンベルを持ってのジャンピング腰割り、ダンベルを持ってのスリ足、手押し車、休む間もなく若松式トレーニングメニューがつづく。「はぁはぁ」と息が荒くなり汗がしたたり落ちる。「うゎぁー」と苦しさに雄叫ぶものもいる。そんな中、少し苦しげな顔はしているものの朝興貴だけは淡々としている。表情がないだけという噂もあるが、スタミナがずい分ついた。今場所は三段目79枚目。半年ぶり三段目で初めての勝越しを目指す。
平成25年5月10日
相撲の基礎トレーニングは、ときにダンベルを使うとはいえ基本的には自重トレーニングである。そのため体の大きい力士ほど負荷が大きくなる。180kg近い体重の朝弁慶にとっては、すべてがハードになってきて最も苦手としている時間となる。もともと膝の故障があったり、内臓が弱かったりと、場所前になると必ずどこかしら調子悪くなっていたが、最近ようやく休まずに稽古をつづけられる体になってきた。これも苦手な基礎トレーニングの賜物であろう。入門7年目25歳。自己最高位の幕下31枚目。そろそろ勝負をかけてもらいたい。
平成25年5月11日
スタミナがあるなしは、心肺機能や筋持久力が大いに関係するが、長丁場のスタミナとなると、疲労回復能力、おもに内臓の丈夫さにも大きく影響するであろう。横綱大関になる力士は、大体が人並外れた酒豪であるし(例外もあるが)、何といっても内臓の調子の良さは肌艶に出る。午前11時、触れ太鼓が稽古場土俵を回り、初日の取組を呼び上げる。「朝赤龍にぃーは双大竜じゃんぞーぇ」。 8時40分取組開始で序ノ口の土俵に朝上野が登場。三段目朝興貴、幕下朝天舞とつづく。横綱は日馬富士が隠岐の海、白鵬が栃煌山。
平成25年5月12日
通信手段がなかった明治時代までは触れ太鼓が相撲開催を知らせる唯一の手段であった。明治42年の国技館完成までは雨が降ると中止になり、その度に触れ太鼓を回した。触れ太鼓は6組に分かれ5組は市中を回り、1組は茶屋や飲食店、横綱大関など役力士の自宅、部屋、協会役員の自宅を回ったという。風薫る五月場所だが、汗ばむような陽気。高砂部屋一同、序ノ口朝上野から十両朝赤龍まで4連勝の初日。
平成25年5月13日
明治時代の本場所は、雨が降って中止になると、翌日晴れても開催しなかった。開催せずに触れ太鼓を回して、また明日からやりますとお知らせする。ところが、その翌日また雨が降ってしまうと、またできない。雨が上がるのを待って触れ太鼓を回す。そんな調子で、10日間の相撲が1カ月に及ぶことも珍しくなかったという。まことにのんびりした時代であった。ただ、雨の日の翌日が日曜日だと触れ太鼓を回さずに即開催することもあったという。当時の櫓太鼓は、両国橋のたもとにあり、未明から打ち鳴らす音は、遠く南は品川、川崎まで、東は千葉、木更津まできこえたという。幕下31枚目と自己最高位の朝弁慶、きのうの朝天舞につづいて電車道での初日。
平成25年5月14日
“電車道”とは、立合い当たって相手を一直線に押し出す、もしくは寄り切ることをいう。スリ足によって、土俵上に電車のレールのように平行な2本の線ができるから電車道だが、とくに跡ができなくてもいっぺんに持っていくと「電車道で勝ちました」という。幕下25枚目朝天舞、電車道とはいかなかったものの200kg近い相手を押し込み、突き落としての2連勝。三段目朝興貴も2連勝。
平成25年5月15日
三段目朝乃土佐、一月場所でヒザを怪我して途中休場した。手術の可能性もあったが、ウォーキングやプールでのリハビリに努め、今場所前はぶつかり稽古で朝弁慶に胸を出せるまでに回復してきた。申し合い稽古は、まだままならないものの、ぶつかり稽古の胸は朝弁慶が思い切りぶつかってもビクともしない重さをもっている。その重さを発揮して今場所の初白星。序二段ちゃんこ長大子錦も重さを利して(見てないけどたぶん)、1勝目。
平成25年5月16日
ぶつかり稽古で胸を出すのがうまいとき、「いい胸を出す」という。体重の重い力士に多いが、重くても胸を出すのが下手な力士もいる。相手の当たりをしっかりと受け止め、最初の構え、腰の備えを崩さずに後足をすべらせて下がっていく。後足(左足)が俵にかかったら、ヒザを落とし体重を相手にかけ右足も俵にかける。上体の力が抜け、腰が決まり、ヒザを柔らかく使うことも求められる。「いい胸」を出されると、2,3回押しただけで息も絶え絶えになり体の芯から鍛えられる。もちろん、胸を出すほうもいい稽古になる。三段目6枚目男女ノ里、叩き込まれて土俵を飛び出してしまうが、相手が髷をつかんでおり反則勝ちで貴重な2勝目。
平成25年5月17日
力を抜くことは難しい。力を抜くといっても。全身の力を抜いてしまうと立つこともできないから、肩や腕などに必要以上に力を入れないということである。腰の構えをつくる、体の軸を保つための筋肉には力を入れなければならない。そういう姿勢をつくる筋肉をインナーマッスル(深層筋)という。逆に体の表面近くにある筋肉は、アウターマッスル(表層筋)と呼ばれる。もちろん両方が協調して使われることが望ましい。アウターマッスルばかりに力が入りすぎると、体にブレーキをかけてしまうことになり外に力が発揮されづらい。アウターマッスルがほとんどなくなっているような気がする大子錦、かろうじて残っているであろうインナーマッスル(といっていいのかどうか?)を使って2勝目。
平成25年5月19日
午後国技館正面に行くと、切符売り場の窓口に相撲字で「満員札止」の張り紙。入場券が全て売り切れとなると「札止」となる。今日は午前10時すぎには満員札止になったとのこと。「満員札止」は、何ともうれしい響きがある。「満員御礼」の垂れ幕は、少し残席があってもある程度の割合売れたら出すが、「満員札止」のときは正真正銘の満員御礼である。三連敗だった朝乃丈ようやく初日。こういうとき「ようやく片目が開いた」という。もう1勝すると、「両目が開いた」。序ノ口の朝西村と朝上野、3勝目。こちらはすでに目が開ききって、つぎの一番に勝越しをかける。
平成25年5月20日
朝赤龍、粘って粘って3勝目。場所前の出稽古も順調にこなし、初日いい相撲で勝ち、かなりいい感触を持ってのスタートだったようだが、4日目から5連敗とすっかり歯車が狂ってしまっていた。まことに心の持ち様はむずかしい。今日の白星でずいぶんすっきりしたようで、心と体の歯車もかなり戻ったのでは。「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな 」沢庵禅師が説いている。
平成25年5月21日
当然の事ながら、土俵の上で相撲を取っているときも頭の中ではいろいろ考えている。「いけそう」とか「うゎっやばっ」とか、「マワシを取らなきゃ」「引いたら落ちそう」「がまんしなきゃ」とか、いろんな思いが巡りくる。相手の後ろに土俵が見えると「早く出てくれ」。勝利がすぐそこに見えると、「よしっ勝った」「しめた」そう思った瞬間に逆転されてしまうことも多い。心が心を迷わせてしまう。心が動きを悪くしてしまう。序ノ口朝上野、今場所第一号の勝越し。三段目6枚目男女ノ里3勝目。
平成25年5月22日
いい相撲を取れたときは、頭で考えるよりも勝手に体が動いている。もちろん意識はくっきりしているが、考えて体を動かすというよりも、体が感じて、体が自然に反応している。そうそうないことだが。朝赤龍、3連勝で5勝目。考えるよりも感じたままに体が動くようになってきた。朝ノ島、自己最高位で3勝目。最後の一番に勝越しをかける。
平成25年5月23日
番付にはいくつも壁がある。横綱、大関への壁はもちろん、幕下から十両への壁も大きい。幕下、三段目の壁も、上がった事がない力士にとっては大きな壁となって立ちはだかる。もちろん自分の心がつくりだす壁であるが。何度かはね返されるうち、だんだん壁は高く厚くなっていく。それだけに壁を破ったときの喜びはひとしおになる。三段目6枚目の男女ノ里、今まで何度かはね返されてきたが今場所は、あと1番というところまでこぎつけた。今日の達成はならなかったものの、あと1回チャンスがある。最後の1番は14日目。朝天舞、朝弁慶、朝乃土佐、朝興貴、大子錦も踏ん張って最後の1番に勝越しをかける。
平成25年5月24日
明日の取組は幕下以下7人全員3勝3敗。3勝3敗は、相手も3勝3敗。勝てば勝越し、負ければ負越し。お互い色々な考えが頭を巡る。後悔や失敗体験は「過去」を考えること。不安や恐れは「未来」を考えること。過去の経験を未来に生かそうとするから迷いが生じる。「考える」ことは、過去と未来しかない。大切なのは過去と未来の狭間に身を置くこと。過去と未来の狭間は「今」。「今」は「感じる」ことでしか現れない。と、大気拳天野敏氏が語る。「感じる」ために禅がある。感じるために稽古する。四股やテッポウも感じるためにあるのであろう。考えずに感じられると、いい相撲が取れる。難しいことだけど。たまに出来たことではある。
平成25年5月27日
昨日午後6時半より千秋楽打上パーティー。文字通り、5月場所の千秋楽を無事を迎えられたお祝いと、力士の成績発表の場ともなる。勝越し力士には勝越し祝いのご祝儀が贈られ、勝越し力士はカラオケで歌を披露。序ノ口で5勝2敗と勝越した朝西村、選んだ歌は「♪二人を 夕やみが つつむ この窓辺に♪」ではじまる加山雄三の「君といつまでも」(古っ)。途中、「幸せだなぁ 僕は相撲をとっている時が 一番幸せなんだ」とセリフを入れて、やんやの喝采。さすが大阪人。練習のときは「ご祝儀をもらっているときが 一番幸せなんだ」と言っていたのだが・・・ 今日から1週間の場所休み。
平成25年5月30日
「歌は世につれ 世は歌につれ」と同様、ご祝儀も世につれで、時代によって、また所属する部屋によってもずいぶん違いがある。バブルの頃は、よその大部屋では若い衆でもかなり景気のいい話を聞いたが、当時の若松部屋は小部屋だったから殆どバブルの実感はなかった。祝儀については、一時所得ならびに贈与として所得税がかかるが、「祝宴会において贈呈されるもので、小額なものについては、しいて課税しなくてもよい」と、国税庁の通達昭和34直所5-4「力士等に対する課税について」(3)でも定められている。
平成25年5月31日
ご祝儀といえば大正5年5月場所、56連勝中だった横綱太刀山を破った新小結栃木山の逸話がある。4年間負け知らずだった太刀山を破ったことで、国技館は大鉄傘を揺るがす大騒ぎとなり、花道を引き揚げる栃木山の背中には100円札が2枚貼られていたという。新聞の号外も出た。その晩贔屓の宴席に何軒かお呼ばれもあり、祝儀の合計は1万2千円にもなったそうだが、場所後に3日で使い果たしたという。大工の手間賃が2円ほど、小学校教員の初任給が12円ほどの時代の話。その後栃木山は27代横綱となり、年寄春日野として横綱栃錦を育てた。
平成25年6月1日
弟子の横綱栃錦にも祝儀にまつわる逸話がある。年末部屋の大掃除をしていたら、稽古場の神棚に祝儀袋があった。中には百万円。前の場所の優勝のご祝儀をお供えしたまま忘れてしまっていたよう。さすがに本人も驚いたが、「こりゃ儲かった。みんなで飲みにいこう」と、一晩で使いきってしまったという。ただ、こんな景気のいい話は関取衆でもそうそうあるものではなく、甚句のハヤシ唄でも昔からうたわれている「♪近頃世の中不景気で わたしのまわりの関取衆 立てば借金 座れば家賃 歩く姿は 質屋へお使いお使い♪」
平成25年6月4日
現在十両以上の関取は月給制で、幕下以下は場所手当てが本場所毎に支給される。月給制となったのは昭和32年から。それまでは、現在も褒賞金として残る給金と、巡業での報酬、本場所の興業収入による配当金等で成り立っていた。しかしながら時代によっては、配当金や給金の支給がままならず、タニマチからのご祝儀に頼らないと生活できないことも多々あり、“男芸者”と呼ばれる所以でもあった。日々の生活費にも事欠く金銭面の不満が、これまで何度かのストライキを引き起こしている。
平成25年6月6日
三宅充『大相撲なんでも七傑事典』によると、嘉永4年(1851)に起きた嘉永事件が、大相撲史上初のストライキ。元横綱秀ノ山の専横(自分の部屋の力士だけを優先的に土俵に上げた)に怒った本中力士100余名が、本所回向院の念仏堂に立てこもり「秀ノ山を殺して脱走するほかなし」と、手に竹やりをもって秀ノ山部屋に殴り込みをかけそうになったという。幸い、会所(相撲協会)幹部が秀ノ山を説得して、秀ノ山が謝ったので無事流血事件とならずに済んだ。当時(幕末)の相撲界は、「序ノ口」として番付に載るまで、「前相撲」「相中」「本中」とあり、相中・本中で2年3年と過ごす力士はザラで、本中力士だけで100人を超えていた。
平成25年6月7日
初代高砂浦五郎も、21歳で入門してから本中力士の壁を超えるのに(番付に載るまで)3年かかった。その後徐々に番付を上げていき、30歳になった慶応4年(明治元年)ようやく幕下筆頭。高見山と名乗っていたこの頃、持ち前の男気と数々の修羅場を乗り越えてきた実績から、すでに一目置かれる存在になっていた。当時の会所(相撲協会)の実権を握るのは、筆頭(理事長)の玉垣と筆脇(副理事長)の伊勢ノ海。権力を笠に着て収入の大半をを独占、関取衆も贔屓に頼らざるを得ず、まして幕下以下の力士の待遇はひどいものであった。幕下筆頭の高見山は、同志250人の連判状をつくり待遇改善を訴えて王子の海老屋に立てこもった。
平成25年6月8日
今日から茨城下妻大宝八幡宮での合宿。午前中、大宝八幡宮土俵で第3回わんぱく相撲下妻場所。下妻市、八千代町の小学校1年生~6年生30人が短パンの上にマワシを締めて熱戦をくり広げる。1年生~3年生は、初めてマワシを締めて土俵に上がる子も多く、礼をして土俵に入り、蹲踞から仕切りまでの動作を勉強しながらの実戦。最近蹲踞のできない子供たちが増えているが、下妻の子供たちはみんなしっかり出来る。4年生以上の決勝は、装束に身をつつんだ錦戸部屋呼出し鶴太郎の呼び上げで土俵に上がり、三段目格行司木村悟志の軍配での優勝決定戦。
平成25年6月9日
今年も錦戸部屋との合同合宿。錦戸部屋にも3月場所新弟子が2人入り、呼出しも入門。さらに5月場所で行司も入門した。新しい顔が増えると部屋の活気が出るが、合宿の受け入れ側も楽しみがふえる。錦戸部屋行司木村錦太郎(きんたろう)は、15歳で茨城県小美玉市の出身。もともと朝青龍ファンで、小学校4年生のとき(ほんの5,6年前だが)、お母さんとこの合宿に見学に来たことがある。下妻の方々も「あーあのときの小学生かぁ!」とびっくり。下妻大宝合宿から生まれた行司「きんたろう」。おなじみ大宝のおばちゃんには、ときに「ももたろう」と呼ばれることもあり、「どっちだっぺー」と、可愛いお孫状態。お相撲さんにとってもおばちゃん達にとっても、年に一度のお祭りな合宿。
平成25年6月11日
お祭りごとは、はじまるとアッという間に終わってしまう。6月8日からの大宝八幡宮合宿も今日が最終日。合宿稽古の最後は、朝天舞、朝弁慶と錦戸部屋水戸豊の3人での三番稽古で締め、男女ノ里の弓取り式で打上げ。ちゃんこを振る舞い、お風呂で砂を落とし、後片付けをして、門前のえびす屋で最後のラーメンとカツ重でお昼。奉納相撲保存会の会長や役員の皆様、宮司や関係者、大宝のおばちゃん達らと別れを惜しみ、迎えのバスの前で記念撮影。一行を乗せたバスが白煙を吐いて動き出すとき、いつも祭りのあとの寂しさが漂ってくるという会長らに見送られ、また一年後と手を振りつつ帰京。
平成25年6月13日
慶応四年(明治元年)、幕下筆頭だった高見山こと初代高砂浦五郎が同志250人を集めたストライキは、間に入ってくれた顔役を立てて未遂に終わった。しかしその後も待遇改善は行なわれず、明治6年の改正高砂組独立へとつながる。明治11年に復帰して、明治16年初代高砂は取締(理事長)となり実権を握った。従来の「相撲会所」を「東京角觝(すもう)協会」と改め、年寄数の制限や力士への収入の配分など、数々の近代化改革を推し進めた。
平成25年6月16日
先発隊6人(大子錦、朝天舞、朝乃丈、朝ノ島、朝弁慶、松田マネージャー)名古屋入り。名古屋場所おなじみ鈴木さんが駅まで迎えに来てくれ、相変わらずのテンションの高い名古屋弁全開。鈴木さんの名古屋弁を聞くと名古屋場所に来たという実感が確かにわいてくる。宿舎のプレハブにバルサン炊いて大掃除して寝床をつくる。最高気温35度の名古屋、いい汗が出る。晩御飯も鈴木さん家族と、食べ放題の店で一年ぶりの再会を祝す。
平成25年6月17日
きのうに引きつづき猛暑の名古屋。日差しが強いので、ちゃんこ道具や冷蔵庫などの洗い物の仕事がはかどる。部屋の外で、パンツ一枚で直射日光を浴びながらの洗い物。大きな鍋類はホースからの水ですすぐが、すすぎながら自分の体にも水を浴びせながらの水遊び状態。日光を浴びる面積の広い朝弁慶、肩から背中にかけて真っ赤っかになってしまった。
・6月18日から7月25日までの日記が残っていなかった為、不掲載となります。ご了承ください。