過去の日記

平成25年<平成24年  平成26年>

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平成25年1月1日
あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願い申し上げます。 今年一年が、みなさまにとって、相撲界にとって、高砂部屋にとって、佳き一年となりますようお祈りいたします。
お知らせです。国立劇場新春歌舞伎公演は、河竹黙阿弥作の「櫓太鼓鳴音吉原」より『夢市男達競』。初代横綱明石志賀之助を命がけで守ったという伝説の男伊達・夢の市郎兵衛の物語で、1月3日(木)~27日(日)までの公演。開演は12時で、3日から6日までの4日間は、呼出し利樹之丞による櫓太鼓実演が行なわれます。
平成25年1月2日
櫓太鼓は、本来櫓の上で叩かれるものだが、花相撲や巡業のときにはお好みとして土俵上で叩かれ、パーティーなどでも余興として舞台上で叩かれる。芸としての櫓太鼓打ち分け実演は、名人と謳われた呼出し太郎が始めたことだという。呼出し太郎は、明治31年11歳で相撲界に入門、途中かなりの寄り道もあったものの、60年あまりひたすら相撲人として生き抜いた。その破天荒な相撲人生は呼出し太郎一代記に詳しいが、その功績により昭和44年には相撲界初の生前者叙勲まで授かった。
平成25年1月3日
稽古始め。四股のあとぶつかって、師匠に年始の挨拶。午前11時より西麻布と六本木にある5代目6代目のお墓参り。午後1時より六本木長耀寺にて法要。大地を潤す雨である癸(みずのと)と植物に種子ができはじめる巳(み)の平成25年が高砂部屋にとっても、潤い実のれる年でありますようにとの祈願をいただく。今日から国立劇場出演の利樹之丞も午前11時半からの出番を終えて合流。明日はひよの山も国立劇場に顔を出すそう。
平成25年1月4日
舞台芸としての櫓太鼓打分け実演の元祖ともいえる呼出し太郎は、明治20年本所南二葉町(現墨田区亀沢町)の生まれ。面白いことに、「櫓太鼓鳴音吉原」の『夢市男達競』作者である河竹黙阿弥の終焉の地も本所南二葉町である。碑も建っているよう。黙阿弥が本所に移り住んだのは明治20年72歳のときだそうで、黙阿弥が亡くなったのは76歳だから、町内のどこかで幼い呼出し太郎とすれ違ったことがあるかもしれない。屋敷は南割下水(現北斎通り)の北側だったようで、 堀をはさんだ斜向かいには宿禰神社と初代の高砂部屋があった。初代高砂部屋は、明治11年に宿禰神社東(宿禰神社ができたのは明治17年だから高砂部屋の方が先だが)にでき、初代が亡くなる明治33年までは同じ場所にあったようだから、黙阿弥も高砂部屋の稽古場をのぞいたことがあったのかも。
平成25年1月5日
呼出し太郎一代記にもあるように本所には、南北に割下水があった。北割下水が現在の春日通りで、南割下水が北斎通りになっている。共に幅2間だったというから、片側一車線くらいか。司馬遼太郎『街道をゆく36』によると、もともと田畑の用水路だったのを下水道として改造したそうで、下水といっても屋敷の池に水を引けるほどきれいなもので、堀の両側には木柵が施されていたという。両岸は武家屋敷だったが、呼出し太郎が子供だった明治時代には、昼間でも狸がでるという武家屋敷跡の野っぱらが各所にあって、堀は「おいてけ堀」と呼ばれる怪談の舞台にもなった寂しい所だったという。
平成25年1月6日
「おいてけ堀」は、本所七不思議のひとつ。本所七不思議は江戸時代から伝わる話で、古今亭志ん生の落語になり、映画にもなったそう。「おいてけ堀」の他に、「送り提灯」「馬鹿囃子」「片葉の葦」「津軽の太鼓」「消えずの行燈」「落ち葉なしの椎」、さらに「送り拍子木」「足洗い屋敷」と、七不思議なのに九つもある。現在の高砂部屋があるのは本所3丁目。現在の本所は、墨田区の一地域(1丁目~4丁目)に過ぎないが、江戸から明治にかけては現墨田区の向島をのぞく全区域を本所と呼んだ。昭和22年、本所区と向島区が合併して墨田区となった。“名人志ん生”も、昭和のはじめ本所業平(なりひら)町に住んだ。蚊となめくじがすさまじかったという。
平成25年1月7日
横綱審議委員会総見稽古。今場所は一般公開はせずに相撲教習所土俵にて行なわれ、高砂部屋からも朝赤龍、朝天舞、朝弁慶が参加。横綱同士の稽古も行なわれたそうで、5勝5敗と13日からの初日へ向けお互い譲らない熱い闘いをみせたよう。横綱審議委員には歌舞伎の澤村田之助氏も名前を連ねている。今回の国立劇場『夢市男達競』での呼出し利樹之丞の櫓太鼓実演も、行司役で出演している澤村田之助氏のお声がけによるもので、国立劇場の方でも、いいご縁ができたと喜んでいたとのこと。共に江戸時代から続く歌舞伎と大相撲。コラボする機会が増えてくれば、面白いことがいろいろと生まれてきそう。
平成25年1月8日
歌舞伎と大相撲のコラボができれば、いろいろ夢は拡がる。歌舞伎座のこけら落としでの横綱土俵入り、相撲物のときの櫓太鼓や呼び上げ実演、相撲甚句などなど。相撲物の演目のときは、国技館で中入りのときに宣伝の口上を述べてもらう、・・・。歌舞伎と相撲は、時間帯や切符の値段も似たようなものだから、客層も近いのであろうし、歌舞伎座や国立劇場でも相撲の切符が買え、国技館でも歌舞伎の切符が買えるようになれば、お互い観客増につながるかもしれない。
平成25年1月10日
本所割下水は大正12年の震災後に埋められたそうで、現在は北斎通りという名の通りになっている。葛飾北斎の生誕地がこの近辺だったからで、江戸東京博物館から錦糸町駅までの1キロほどの直線道だが、左右の街路灯が北斎の浮世絵ギャラリーになっていて、歩道も広々と明るく小奇麗な雰囲気がある。もっとも入門した昭和58年頃は、やっちゃば通りと呼ばれたごく普通の下町の裏通りだった。江戸博から2つ目の信号を北へ一筋入ると、八角部屋と錦戸部屋が背中合わせで並び建っている。
平成25年1月11日
“やっちゃ場”とは青果市場のことで、現在の江戸博の場所に江東青果市場があったから「やっちゃ場通り」と呼ばれた。昭和12年創業の老舗ちゃんこ川崎のご主人によると、もともと両国は鶏の集積地で市場も立ち、鶏の値段が両国で決まっていたという。鬼平犯科帳にもでてくるように江戸時代から鶏鍋はハレの日のご馳走だったようで、本所両国界隈は活気溢れる「食の街」だったそう。取組編成会議。初日、2日目の取組が決まり、明日午前10時から土俵祭。
平成25年1月12日
ちゃんこ川崎のご主人の談話は、「オール讀物」で連載していた、“どす恋花子”こと佐藤祥子氏の「ちゃんこ百景」に出ていた話(6月2日)。その“どす恋花子”が同連載からまとめた『秘伝!相撲部屋ちゃんこレシピ』(文藝春秋)を出版。高砂部屋をはじめ14部屋のちゃんこをカラー写真で紹介。それぞれの部屋毎の「ちゃんこコラム」も、相撲界との関わりが深く長い“どす恋花子”ならではのディープな秘話が満載のコクのある味わいを醸しだしている。
平成25年1月13日
満員御礼の初場所初日。今場所西十両6枚目の朝赤龍、幕内復帰を目指して出稽古に励んでいたが、稽古中に足首を痛めてしまった。ここ2日ほど出場を目指して治療にあたっていたものの、回復が思わしくなく無念の不戦敗。治療に専念して再出場を目指す。約100枚番付を上げて自己最高位の朝興貴、場所前の稽古ぶりでは全敗も心配されたが、幸先よく自信をつける白星スタート。大子錦、先場所に引き続き休場。こちらはちゃんこに専念だが、やはり途中から出場の予定。
平成25年1月14日
成人の日の2日目、大雪の東京。師匠が出勤する時間になって、道にも車にもかなりの積雪。「前の雪とって」と、ボンネットの雪下ろしを頼まれた朝乃丈、いきなり車の前の道路の雪かきを始めた。「ちがう!ちがう!車の前!」と言われてようやくボンネットとフロントガラスの雪下ろし。「寒い!寒い!」と言いながら、Tシャツ、パンツ姿での雪下ろしに、道行く人も笑っている。朝赤龍、締め込み姿で稽古場へ下りる。昨日よりずいぶん歩き方もましになり、再出場へ向けた見通しも出てきた。
平成25年1月15日
稽古場では強くても、本場所にいくと力を出せない力士を「稽古場相撲」とか「稽古場横綱」などという。逆に、稽古場では弱いのに本場所にいくと稽古場以上の力を出す力士のことを「場所相撲」という。本場所では稽古場通りの力を出せない力士の方が大半だが、稀に稽古場では見せないような力を本場所になると出す力士もいる。三段目48枚目の朝興貴、その稀な力士といえるのかもしれない。場所前の稽古では全敗も心配されていたのに、「おかげさんで」の挨拶に、兄弟子たちも、「えーっ!2連勝!」と驚嘆。普段はボーっとしているほうだが、やるときゃヤル男である。
平成25年1月18日
序二段神山、先場所からちゃんこ長補佐としてチャンコ場に入っている。ちゃんこ長大子錦が手首を怪我して包丁も持てなかったためだが、AB型らしく新作ちゃんこや、創作料理、ぬか漬けにまで挑戦して、ときに失敗もあるものの、創意工夫を楽しんでいる。ちゃんこ作りが生活にもいいリズムを与えているようで、相撲も3連勝と勝越しまであと一番。朝興貴も今日も勝って3連勝。先場所から10連勝と、驚異の快進撃が止まらない。昨日から出場の朝赤龍、2連勝はならず。
平成25年1月19日
序二段64枚目の神山、土つかずの4連勝で、めでたい新年第1号の勝越し。幕下朝天舞に初日。同じく幕下の朝乃土佐、2勝目を上げるも脚を痛めてしまい後半戦の土俵が心配される。朝赤龍も2勝目。
平成25年1月20日
序二段神山、5連勝。先場所の朝興貴につづく快挙なるか。先場所の途中から休場していた大子錦、今日から出場。ベテランアンコとは思えないキビキビした動作で新年初土俵を白星で飾る。朝乃丈、三段目復帰が濃厚な勝越し決定。一昨日の相撲に勝ちながらも膝を痛めてしまった朝乃土佐、前十字靭帯断裂という診断結果で今日から休場。朝赤龍、3勝目。
平成25年1月24日
場所毎に発行される『大相撲パンフレット』は、十両以上の関取衆が写真で紹介されている。今場所は化粧回し姿の関取衆。色とりどり、多彩な絵柄が目を楽しませてくれる。贈り主は、部屋の後援会や学校が多いが、朝赤龍の化粧回しはお世話になっている医療法人からの寄贈。赤地に北島三郎書で「勇」の一文字。3連敗で苦しい土俵となった残り3日間だが、ここから朝赤龍の「勇」の見せどころである。
平成25年1月25日
高砂部屋の歴史は、明治11年にさかのぼる。明治6年、角界の風雲児と呼ばれた元前頭筆頭高見山の初代高砂浦五郎は、改革を唱え高砂改正組を立ち上げ名古屋を拠点として興業。その高砂改正組が相撲会所(相撲協会)に復帰したのが明治11年。本所緑町に部屋を構え高砂部屋となり、当時から関取(十両以上の力士)がいて、135年後の現在に至るまで途絶えたことがない。今場所、初日からの朝赤龍の休場で心配されたが、今日の4勝目で135年ぶりの関取消滅の危機は回避されそう。
平成25年2月5日
すみません。長らくお休みしてしまいました。初場所後の場所休み、健康診断と終わり、今日から稽古再開。相撲部屋の日常が戻ってきた。ただ、今回は大阪場所との間がいつもより1週間短く、2月17日には先発隊が出発。24日には全員大阪に乗り込む。25日が番付発表で、3月10日が大阪場所初日、24日が千秋楽。
平成25年2月6日
四股を踏んで「バシッ」と小気味いい音が出るには年期がいる。ひと息で下ろす勢いが必要だし、肩の力が抜けてないといい音はでない。手の平で膝を叩いて音を出すのではなく、あくまでも膝の上においた手が自然に音をだすのが望ましい。4年目朝興貴、脚は上がらない、軸足はふらつく、腰高、ペチョンとしか下ろせない、体はねじれる、と下手な四股のお手本のようなものだったが、今日は入門以来初めて見るいい四股を踏んだ。「バシッ!バシッ!」と、40分近くいい汗を体の芯からしぼりだした。一皮むけるかもしれない。
平成25年2月8日
四股は本来「醜」(しこ)の当て字で、「醜」という漢字には、つよいもの、逞しいものものという意味がある。相撲通にはわりと知られていることであるが、「四股」という文字は、いかにも相撲にふさわしい漢字でもある。そんな話をベースボール・マガジン社『相撲』の元編集長下家義久氏が興味深くまとめている。goo大相撲「柔剛適意」(じゅごういのままに)で、「腰割りのときの、股下の形が「四」の字そのものになっている」と説いている。さもありなんと、大いにうなずける説である。
平成25年2月9日
腰を膝と同じ高さまで下ろしたときに、太ももは水平に一直線を描き、スネを床と垂直に保つと、両脚は長方形の形になる。脚が、口(くにがまえ)の形になる。イチローの肩入れ動作は、中の「ハ」の字を丁寧に書き入れているようだし、不知火型のせり上がりはまさに四の字そのものを書いているように見えると、下家氏は説く。四の構えから始まり、四の構えに戻るのが四股である。
平成25年2月10日
ベースボール・マガジン社『相撲』元編集長の下家義久氏の父は、10代目井筒親方である。昭和10年代に鶴ケ嶺の名で活躍して、最高位は前頭2枚目。双差し名人関脇鶴ケ嶺、星甲、大雄、錦洋といった関取を育てた。また叔父(鶴ケ嶺の実弟)も薩摩洋という十両力士で、下家氏は相撲一家の血を引き継いでいる。現在も『相撲』誌の顧問を務める傍ら、大相撲コラムや相撲甚句の作詞と活躍の場は幅広い。幕内朝乃翔の引退相撲甚句もつくっていただいた。
平成25年2月12日
相撲博物館は国技館内にあり、年6回さまざまな企画で所蔵品を展示している。現在の展示企画は、『第四十八代横綱 大鵬を偲んで』。先月19日に亡くなられた横綱大鵬の写真や化粧回し、横綱、書、横綱推挙状、、・・・数々の展示物が昭和の大横綱の偉大さを改めて思い起こさせる。「忍」「夢」の書も圧巻である。また、横綱柏戸との数々の名勝負も放映されている。
平成25年2月15日
横綱大鵬の偉大なる足跡については申し上げるまでもないが、再度確認してみたい。昭和31年、16歳で二所ノ関部屋に入門。およそ2年半で新十両。3年と少しで新入幕。新入幕から6場所目に関脇で初優勝。その1年後には横綱昇進。21歳3カ月での昇進は当時の史上最年少。横綱昇進後も抜群の安定感をみせ、2度の6連覇を含む32回の優勝は未だ破られぬ金字塔。「巨人 大鵬 卵焼き」で象徴されるように、子供たちに絶大な人気を誇った昭和の国民的英雄であった。本日15日、国民栄誉賞の授与が正式に決定された。
平成25年2月17日
昨日、奄美出身尾上部屋里山関の結婚披露宴が行なわれた。新婦は青森出身で日大相撲部の一年後輩の美菜さん。大学卒業後から愛を育んできた二人は、昨年秋に入籍。北の湖理事長や横綱白鵬をはじめとする大相撲関係者、日大関係者、奄美・青森関係者などおよそ500人からの盛大なる祝福をうけた。元ちとせの生歌サプライズ、安美錦関の聞き惚れる歌、尾上部屋の弟弟子天鎧鵬関のワイド節で島の人々が踊りと、粛々かつ賑やかに二人の門出を祝った。6月には第一子誕生の予定だそうで、新たな家族のためにも更なる活躍を期待したい。先発隊6人、今日から大阪宿舎入り。夜、恒例のちゃんこ朝潮鴫野店にて夕食。
平成25年2月18日
横綱大鵬は、早い出世と長きにわたる安定した強さから、相撲の天才と呼ばれることが多かった。しかしながら本人は、天才と呼ばれることを嫌がった。人一倍努力したからこその結果だと常々語っていたという。戦前の横綱玉錦以来、二所の荒稽古は有名で、その中で元佐賀ノ花の二所ノ関親方の厳しい指導のもと、連日四股500回鉄砲1000回ぶつかり稽古と、徹底的に鍛え込んだからこその賜物であった。ひたすら努力できる天才であったのであろう。冷たい雨の大阪、築およそ50年の稽古場は、屋根が少しめくれてしまって雨漏りがしだした。明日大工さんに見てもらう。
平成25年2月19日
横綱大鵬をはじめとして柏鵬時代頃までは、四股鉄砲を1000回単位で踏むのを常としていた力士が多かった。現代のスポーツ科学的にいうと、筋力をアップするためには10回以下しかできない強度の運動をするのが効果的だし、筋持久力をつけるためには30回以上続けることが必要になる。ところが、500回や1000回を超える運動となると、筋力や筋持久力を超越した次元になるのではないかと最近つくづく思う。表面的な筋力や筋持久力に頼らない、感覚や意識の世界を突きつとめていくことに四股や鉄砲の本質があるのではと思う。
平成25年2月20日
四股や鉄砲のような同じ動作を1000回2000回とくり返すには根気がいる。つらいのを我慢して、同じ動作のくり返しに飽きる心を押さえて、己に克つことを目標にして、1000回、2000回の四股・鉄砲をくり返すことは、至難の業である。しかしながらそういう意識では、四股や鉄砲の本質に近づけないような気がする。500回、1000回とくり返していくのは確かにつらいのはつらいのだが、その中で感じる新たな感覚、不思議な気持ちよさ、どんどん深みに入っていく充実感、昂揚感、・・・を探求、追究していくことにこそ四股・鉄砲の本質があるのだと思う。昨年から部屋に来るようになった120kgの小学生賢太君。お母さんと一緒にお好み焼を差し入れしてくれる。食の本場鶴橋のお好み焼だけにさすがにうまい。賢太君がどんどん大きくなっていくのもうなずけるうまさ。
平成25年2月21日
高砂部屋の歴史は、明治11年にさかのぼる。明治11年以前は高砂部屋という部屋は存在しなく、初代高砂浦五郎が開祖となって高砂部屋の歴史が始まった。初代高砂浦五郎は、本名山崎伊之助といい天保9年千葉県東金市の生まれ。農家の三男で百姓をしていたが、一念発起して22歳で阿武松の門をたたき入門。はじめ東海大之助の四股名から松ヶ枝森之助に改名、慶応2年三段目に上がって高見山大五郎と名乗り、姫路藩主酒井候のお抱えとなる。明治2年、入門10年目にして入幕を果たす。明治4年のある事件をきっかけに藩主から高砂浦五郎の四股名を賜り、以後現在に亘るまで、高砂浦五郎の名前が綿々と引き継がれている。
平成25年2月22日
姫路藩酒井候のお抱え力士には、増位山(後の横綱境川)、相生(後の大関綾瀬川)、関脇手柄山、兜山(後の大関雷電)、初代高砂となる高見山などがいた。明治2年廃藩置県となり藩主酒井のお殿様も大老職を辞任、力士のお抱えも解かれた。増位山のみは、その少し前尾州藩へ鞍替えしていたが、初代高砂の高見山が中心になって残った力士たちで、「忠臣二君に仕えず」の誓約書をつくり血判して、他藩から誘いがきても断り、番付には姫路の二字を貫いた。ところがしばらくして、相生が土州山内容堂候に抱えられることになった。初代高砂こと高見山の怒りは収まらない。刀を手に相生に迫る。稽古場が完成、資格者も一人二人と大阪入りして、先発隊の仕事も大詰め。
平成25年2月24日
全員大阪乗り込み。乗り込みの日は、毎年大阪場所恒例の大阪高砂部屋後援会特別会員とのちゃんこ会。ちゃんこ朝潮徳庵店にて、高砂部屋一同と会員の方々と鍋を囲み、一年ぶりの再会に顔ほころばせ春場所の健闘を祝す。3月場所入門予定の新弟子2人と呼出し見習い、将来入門予定の小学6年生二人と家族も来て、例年に増して賑やかで活気あふれるちゃんこ会となった。明日番付発表で、明後日から稽古再開。
平成25年2月26日
昨日が春場所番付発表。朝乃丈が自己最高位の三段目55枚目。朝奄美が朝ノ島に改名。朝赤龍は十両11枚目。高砂部屋力士の新番付はこちら。今日から大阪場所での朝稽古開始。8時半土俵祭。春場所入門予定の富山県出身19歳の上野大介君もマワシを締めて土俵に下りる。中学高校と相撲経験があり、190cm176kgと朝弁慶なみにでかい。高校卒業後のブランクもあるので、しばらくは体を慣らしながら徐々に稽古にも参加していくことになる。
平成25年2月28日
ABC大阪朝日放送土曜日午前中放送の『ミシュラン』が部屋に一日取材。若い衆が、朝起きてゴミ出しや ちゃんこの用意、掃除などをしながら稽古場に下りて稽古を始める様子から、稽古後の髪結い、ちゃんこまで、力士の一日を追った番組。アナウンサーもマワシを締めて一日体験入門。3月9日(土)放送とのこと。
平成25年3月1日
再び初代高砂浦五郎伝に戻る。初代高砂浦五郎伝は、読売新聞社刊月刊『大相撲』平成12年12月号から平成14年7月号までの連載に依る。元力士である小島貞二氏の「相撲史ー維新前後」の記事で、小島氏は明治16年三友社刊の『四十八手角力故実櫓太鼓音高砂』上下2巻からの話をまとめている。初代高砂と相生の行き違いが幾重にも重なって、相生の家へ乗り込むが相生が留守。相生の立ち寄りそうなところを回るがいなく、一旦家へ。翌朝、いよいよ決意新たに朝を迎えた所へ、会所の取締や大関はじめ関取衆がほぼ全員顔をそろえて慰留にきた。
平成25年3月3日
昨日3月2日、大阪場所新弟子検査が行なわれ、高砂部屋からも2人受検。先だって紹介した富山県射水市出身の上野大介君19歳と大阪市東淀川区出身西村将宏君22歳。上野君は、190cm176kg、高岡向陵高校相撲部出身。西村君は186cm150kg、京都学園から東海学園大学と相撲部で活躍してきた。共に2日目からの前相撲で初土俵を踏む。昨夜、上六シェラトン都ホテル大阪にて恒例の大阪高砂部屋激励会。1000人以上のお客様が集い、高砂部屋の春場所での活躍を期して祝う。
平成25年3月5日
再度初代高砂浦五郎伝。初代高砂こと高見山は、居並ぶ親方衆・関取衆を前に一歩も引かずに要求をつきつけた。「相生があやまること。謝罪文を書くこと。将来好成績を上げても大関にあげないこと」。親方衆は、しぶしぶその要求をのんでようやく事態は収まった。さっそく届いたわび状は、事件の詳細を書いた書状と共に姫路のお殿様に届けられた。お殿様の酒井候からは、「慶応が明治に改まり、江戸が東京と変わり、武士道も忘れ去られようとしているときに、このような力士のいたことは、武士のかがみであり、力士のかがみである」とのお言葉とともに、改めてお抱えの沙汰があり、扶持として年75両が下賜されることになった。
平成25年3月6日
相生との一件は、明治3年1月のこと。明治4年3月に高見山が高砂浦五郎と改名。いっぽう、土州藩(土佐)山内候お抱えの相生も綾瀬川に改名した(山内容堂の命名)。高砂・綾瀬川の対戦は遺恨相撲といわれ、当時はやった講談でも取り上げられたそうだが、その後仲直りして、初代高砂も大関に上げないという証文を破いた。綾瀬川は、大阪相撲からの入門で、体柔らかく美男子で人気が高かったという。明治5年11月には大関に昇進。相撲の力量から言えば相生こと綾瀬川の方が格は上だった。大阪にもようやく春の兆し。初日まであと4日。
平成25年3月7日
明治6年の春場所が終わり、初代高砂は巡業に出た。春場所の成績は東筆頭で7勝1敗。いよいよ三役にあがろうかという勢いである。仲直りをした大関綾瀬川、さらには関脇小柳の三人を主役とした組合で、伊勢から美濃にかけて各地を巡業した。この頃の巡業は、部屋や一門に関係なく、仲の良い組みやすい仲間で一行を組み、興業して歩いたらしい。約30名ほどの一行の責任者として、初代高砂の師匠千賀ノ浦も同行していた。秋になり、11月場所が迫り帰京も間近になった頃、初代高砂が、綾瀬川、小柳に胸の内を打ち明けた。
平成25年3月8日
江戸が明治となり、大方の力士は藩の抱えを解かれ、巷も後援者も相撲どころではなく、相撲界自体も危機的状況になった。にもかかわらず、会所の実権を握る筆頭(理事長)・筆脇が利権を一人占めしていた。その状況をなんとかしないと相撲界の未来はないと、正義感に燃えて語る初代高砂の話に、小柳も綾瀬川も大きくうなずいた。最後の巡業地名古屋から、一足先に大関綾瀬川が血判状と共に陳情書を会所へ差しだした。取組編成会議。明日午前10時から土俵祭。
平成25年3月9日
アメフトのアサヒ飲料チャレンジャーズの選手が6人体験入門。3年前にも参加して現在海外でも活躍中の和久選手も久しぶりに元気な顔を見せる。3年前の体験入門以来、腰割りや四股をトレーニングに取り入れているそうで、腰割りの構えも様になっている。ますますの活躍を期待したい。触れ太鼓が明日初日の取組を呼び上げる。初日は8時50分取組開始で、十両朝赤龍は明瀬山、白鵬に安美錦、結びは日馬富士に栃煌山。
平成25年3月10日
ここ数日の春が午前中までつづいていたのに、午後からの雨で急に冬に逆戻りの大阪場所初日。荒れる春場所を予感させる空模様。ただ新聞によると、大阪場所の横綱大関の優勝確率はけっこう高いらしく、最終的には落ち着くところへ落ち着いているよう。気温の差が激しいのと、「タニマチ」の語源である土地柄が、荒れる大阪のネタ元なのであろうが。3勝3敗の高砂部屋初日。明日2日目から始まる前相撲で新弟子君二人も初土俵を踏む。
平成25年3月12日
再び初代高砂伝。当時の会所の実権は、筆頭玉垣と筆脇伊勢ノ海が握っていた。江戸末期からの権力者で、時代が変わっても旧弊のままで儲けを独占し、関取衆でも涙銭程度しか給金が渡らなく生活はタニマチ頼みだった。それを改めてもらおうと、大関綾瀬川が交渉にあたるも、会所の親方衆に丸めこまれ、あえなく不調。しばらくして、名古屋で待機していた高砂の元へ送られてきた新番付(明治6年11月場所)は、高砂、小柳の四股名が黒々と墨で塗りつぶされていた。大子錦、朝弁慶2連勝。
平成25年3月14日
三段目取り組み途中で一番出世披露。高砂部屋の新弟子朝西村も2連勝して今日一番出世。朝西村は、大阪市東淀川区の出身。中学3年生のとき地元浪速武道館で相撲をはじめ京都学園高校でも相撲部。大学は、元藤ノ川の服部祐兒氏が監督を務める東海学園大学。2年生のときに西日本体重別選手権で3位の実績がある。もう一人の新弟子朝上野は、現在1勝1敗。明日もう一番勝てば7日目に二番出世披露となる。大子錦3連勝。
平成25年3月16日
朝上野は富山県射水市の出身。中学校の相撲部の監督が親方の後輩(近大)で、中学3年生のときに国技館での全国大会に出てきて親方と食事を共にしたこともあった。中3の頃から190cm近くあり、高校は高岡向陵高校に進学。高校の相撲部の監督も近大OBで、こちらは若松親方の後輩。高校卒業後、専門学校に通っていたが周囲の勧めもあって入門を決意。昨日2勝目を上げて、9日目の土俵で二番出世披露となる。全勝だった大子錦に土。朝天舞3勝目。
平成25年3月17日
週末毎に、2人のわんぱく力士けんた君となおき君が泊まり込みで部屋の稽古に参加している。2人共6年生になり、また一回り大きくなった。けんた君は、昨年よりも10kg体重が増えて現在125kg。なおき君は身長が伸びて新弟子検査基準を超え、すでに追い抜かれてしまった。今朝の稽古には亀田三兄弟の三男亀田和毅選手も来ていて、ファンだというけんた君が二人並んで記念撮影。「小学校6年生」だと紹介すると、亀田選手も「えーっ!」とビックリ。部屋にいるときは、いつも高砂部屋の反物でつくった甚平姿で、それが実に様になっている小学6年生である。
平成25年3月18日
大阪に乗り込んだ当初、例年に増しての厳しい冷え込みがつづいたが、急に春がやってきて今日から後半戦。お相撲さんにとっての春到来は勝越しに尽きるが、勝越しをかけた給金相撲に臨んだ大子錦、朝ノ島、朝天舞、朝赤龍と、4人つづけて春来たらず。久しぶりの激しい雨にもかかわらず満員御礼の府立体育館。三段目取組途中、朝上野が二番出世披露。明日男女ノ里、朝弁慶が給金相撲。朝興貴、朝乃丈、朝乃土佐は、向こう給金相撲。
平成25年3月19日
勝越しをかけた一番を給金相撲という。昨日から給金相撲に6人挑むもことごとく敗れ、今日やっと朝赤龍が給金を直した。場所毎に支給される力士褒賞金(持ち給金)が直る(アップする)から、給金を直すという。1点の勝越しにつき50銭アップする。もらうときは4000倍だから、2000円。このまま勝ち続けて13勝2敗だと11点の勝越しで22000円の昇給となる。月給は地位によって変わるが、褒賞金は関取でいる間は加算されるばかりなので、ベテランほど高くなる。実力給でありつつ年功給でもある。ただし、幕下に落ちると、もらえなくなる。
平成25年3月20日
地方場所では、お客さんも年に一度の再会を楽しみにしておられる。7日目の晩、ここ数年つづいている食事会に招待された朝弁慶、3連勝の好調ぶりで、「あと2勝したら○○」「4連勝だったら○○」と、大いに盛り上がった。三段目に上がる前から応援している力士が幕下で3連勝、期待も高まる一方である。「あんまりプレッシャーかけたらあかん」とか言いつつも、みなさんの顔は期待に夢膨みっぱなしである。そのプレッシャーの影響もあったのかどうか、8日目から2連敗だった朝弁慶、今日やっと安堵の勝越し。こういうプレッシャーを一つ一つ乗り越えた先に関取の座が待っている。その前に、あと1勝で○○が待っている。朝ノ島も勝越し。
平成25年3月22日
13日目。幕下以下若い衆の取組が一番もなかった。現師匠になった平成2年以来、一度も記憶にない珍しいこと。13日目現在、勝越し7人。負越し2人。3勝3敗が2人。3勝3敗の2人、朝龍峰は、きのう給金相撲に負けての3勝3敗。もう一人朝興貴は、1勝3敗から負ければ負越しとなってしまう「向こう給金」相撲を2連勝と踏ん張って3勝3敗までこぎつけた。明日の取組は、相手も3勝3敗同士。勝った方が勝ち越し、負けたほうは負越しとなる一番。負越したときは、「行っちゃいました」というから、向こう側に行ってしまうという意味での、「向こう給金」なのだろうと思う。
平成25年3月30日
昨日29日午後荷物をトラックで東京へ送り、およそ一月半お世話になった久成寺を大掃除。ゴザをはがし、片付けてあったテーブルやイスを出し、先発隊が入る前の状態にすべてを戻す。朝赤龍と朝ノ島は巡業へ出発。明日が伊勢神宮。今回の相撲列車の引率は、若松親方。残りの力士らと共に新大阪駅へ。桜満開の大阪に別れをつげての帰京。
平成25年3月31日
休みの度に稽古に来たけんたくん。ちゃんこをしっかり食べて125kgだった体重が128kgになった。4月から中学生になるが、小学校の卒業式を間近に控え、一人ひとり将来の夢を発表することになったという。順番が来て立ち上がったけんたくん。「ぼくは、大きくなったら(今でも十分大きいのだが)、相撲界に入門して」先生たちも、相撲を始めたことをよく知っている。「相撲界に入門して、床山になって、大銀杏を結うのが夢です」「えーっ!!」期待して聞いていた先生たちがズッコケタ。「けんちゃん!大銀杏は結うもんやない!結うてもらうもんや!」中学生になったら、体に合った夢に変わってくれるであろう。
平成25年4月2日
4月になったというのに花冷えの日がつづく東京。月が改まり、新入社員同様、新弟子たちも1日から相撲教習所に通う。7時から実技の授業が開始なので、6時過ぎに部屋を出て、下駄でカランコロンカランコロンと国技館内にある教習所へ向かう。慣れない下駄履きは疲れるというが、これも稽古の一環である。現高田川親方の元安芸乃島は、足を鍛えるため幕下に上がっても下駄履きであった。行住坐臥すべてを相撲に結びつけてこそ、力士たりうる。
平成25年4月3日
下駄の正しい履き方、歩き方について、下駄屋さんが丁寧に解説してくださっている。現役時代を振り返ってみても、後ろ歯の外側からすり減ってきていた。そもそもの重心のかけ方を間違えていたのかと今更ながらに反省する。入門した時は下駄履きで、三段目に上がると雪駄を履くことができる。下駄は長らく履いているとすり減って、歯がほとんどなくなってしまう。そこまで履きたおすと、“ゲッタ”と呼ばれる。
平成25年4月4日
雪駄は鼻緒をひっかけてカカトを出して歩く。新品の雪駄でいきなり長時間歩くと鼻緒ずれしてしまうことがある。草履はエナメルでカカト裏に金具が打ってあるので、けっこう重さがある。ただ、最近はビニール製の雪駄風草履が流行りで、こちらは鼻緒も柔らかく裏に金具もついてないので、普通のゴム草履の感覚で履けるので楽である。力士の履物は、両国岡田屋履物店が一手に引き受けている。
平成25年4月5日
畳表の雪駄は関取のみに許される。というか、協会の公式行事や引退相撲、冠婚葬祭などでの関取衆の正装は、黒紋付に袴着用で、白足袋、畳の雪駄を履かなければならない。その他個人的なパーティー等では、準礼装として羽織、袴でよい。このときは黒足袋で、雪駄もエナメルのものになる。幕下以下の若い衆は、常に黒足袋で、白足袋を履くことは許されない。足を痛めたときなどに稽古場で履く稽古足袋も、関取衆は白足袋、若い衆は黒足袋と決まっている。
平成25年4月6日
入門した30年前頃は、「相撲取りが靴なんか履くもんじゃない」と言われた。ジーンズも然りであった。今は、若い衆もジーンズにナイキの靴を履き、普段着のおシャレを楽しむようになった。その分、着物を着るのを嫌がり、下駄や雪駄よりもゴム草履を好むようになった。立ち居振る舞い、歩き方、考え方、あらゆることが和から洋風に変わっているから、だんだん和装に違和感を感じるようになってきているのかもしれない。土曜日は相撲教習所が休みで、新弟子二人も部屋での稽古。
平成25年4月8日
現在お相撲さんの部屋着は、ほとんどがジャージである。横綱輪島が入門してから相撲界にもジャージ姿が広まったと言われているが、おそらくその頃からであろう。横綱輪島の入門は、昭和45年(1970)1月場所。その頃から着物は特別なものになり、だんだんとめんどくさいものになっていったのであろう。それと同時に、相撲の取り方も、だんだんスポーツ的になっていったのではなかろうか。
平成25年4月9日
四股やテッポウ、スリ足といった相撲の基本の動きはすべて右手右足を同時に出す“ナンバ”の動きである。ナンバの動きについては、甲野善紀氏の研究が詳しいが、「蹴らない」「捻らない」「体全体を使う」「重力を使う」などの特徴があり、江戸時代の日本人が使っていた和の身体作法である。下駄の歩き方にあるように前に重心をかけるのも、体全体をまっすぐ倒して重力を利用して歩くということなのであろう。能や日舞、武術にも共通する動きで、13日(土)能楽師の安田登さんと「和の身体作法」について考えます。
平成25年4月11日
荒汐部屋蒼国来の復帰が話題となっている。引退と復帰をくり返す競技もあるが、大相撲は引退もしくは破門となった力士の復帰を原則認めていない。それでも長い歴史の中で、復帰が認められた例が何度かあり、ドラマを生んでいる。初代高砂浦五郎もそうであるし(現役で破門になって、年寄としての復帰だが)、昭和のはじめの大関清水川の復帰は、協会への嘆願書をしたためた父親の自殺によって叶えられた。清水川の壮絶な土俵人生を参考に、作家尾崎士郎は「人生劇場青春篇」を書いたといわれる。
平成25年4月12日
清水川元吉は明治33年青森県五所川原の生まれで大正12年に入幕。細身の体ながら上手投げの切れ味抜群で、、鎌首を上げるような仕切りと、気っぷのいい取り口で人気が高かった。三役に上がりながら人気に溺れ生活が乱れ、やくざが介入する事件を起こし、本場所を無断欠勤。ついに破門となった。破門されて2年あまり、さすがに本人も反省して身を慎み、間に入ってくれる有力者もいて、協会に嘆願するも、協会は頑として受けつけない。ついには、父親が嘆願書を遺書として自殺した。早速協会で評議会が開かれたが、前例になっては困るとして復帰反対が大勢を占めていた。
平成25年4月14日
「身を殺して息子の復帰嘆願をする例が、将来二度とあるとは思えない」出羽海取締(元小結両国)の一言で、大勢を占めていた復帰反対が覆った。幕下筆頭からの復帰が認められた清水川は、生まれ変わったように稽古に打ち込み、幕内、三役と返り咲き、ついには大関までかけ上った。元は本名の米作であったが、復帰後父の名元吉を名乗った。優勝も3回飾り横綱の声もかかったが、怪我もあり昭和12年に引退。年寄追手風として相撲人生を全うした。若いころは放埓無頼で鼻持ちならない力士といわれたが、復帰後は親分肌で人情見厚い人格者と慕われたという。春巡業最終日水戸場所。茨城県出身男女ノ里、大子錦も参加。
平成25年4月15日
初代高砂浦五郎が破門されたのは明治6年11月場所。会所(協会)に改革を迫り、一蹴されて番付から名前を消されてしまった)。名古屋を拠点に改正高砂組として独立。やくざとのトラブルや客の不入りに悩まされながらも次第に勢力を拡大していき、大阪相撲や京都相撲との合同興業もうてるようになっていった。姫路のお殿様や清水の次郎長に助けられたこともあり、やがて鷲尾隆聚愛知県令(知事)という有力な後援者を得たことが大きな力となった。
平成25年4月16日
世は明治初期、激動の時代であった。明治8年は改正組の京都・大阪との合併相撲が各地で人気を博し、東京へも乗り込み興業を成功させ、会所(旧来の相撲協会)に一矢報いた。ところが明治10年の西南戦争で、相撲興業は各地で差し止めとなり再び苦境の時となる。やむなく出た奥州巡業は不入りで、金銭トラブルから分裂騒動まで起こり、そこへ「相撲は東京府下に一組」との法令。会所(協会)が早速鑑札(許可証)を取り、高砂改正組はますます窮地に追い込まれてしまう。
平成25年4月17日
力士達を東北に残したまま、初代高砂浦五郎は単身両国回向院の会所に乗り込む。煮えくりかえる腸を抑えて実権を握る玉垣、伊勢ノ海に会するも、二人は調印書を手に、けんもほろろにせせら笑う。会所を飛び出したその足で、丸の内の警視庁へ。警視総監に直談判し、その後元老院議員となった鷲尾元愛知県令と安藤則命元老院議員の元へ。調停の労を頼み、東北へ戻る。「相撲は東京府下に一組」の発令から三ヶ月、素早い行動力と修羅場をくぐり抜けてきた中で得た人脈、ロビー活動が功を奏し、明治11年5月ついに改正高砂組の復帰が認められた。
平成25年4月18日
復帰に際してもひと悶着あった。改正組の一番の実力者は響矢宗五郎。はじめ会所(協会)は、幕下上位くらいの力とみて附け出そうとしたが、初代高砂が譲らない。いわば強引に幕内に押し込んで幕尻の西前頭8枚目。この明治11年5月場所響矢から高砂部屋関取の歴史が135年つづくことになる。初代高砂と苦楽を共にしてきた響矢、見事期待に応えて6勝1敗1分2休の好成績。高砂の面目躍如。響矢は小兵ながら以後も奮闘し、明治15年1月から師匠の前名高見山を襲名、関脇まで昇進。明治22年に引退し、初代没後2代目高砂浦五郎となる。
平成25年4月19日
初代高砂浦五郎伝は、読売『大相撲』で平成12年12月号~14年7月号まで連載された小島貞二氏の文に依る。小島氏は合併を成し遂げた初代高砂について、「高砂の異常なまでの強情我慢が実を結んだ」と書いている。まさに、争うことをいとわず強情を重ねつつも、雌伏の時には我慢をつづけ、機とみるや一気呵成に攻め、やがて相撲界のトップに登りつめていった。明治の世になっても江戸時代をひきずったままであった大相撲界。数々の近代化改革を推し進めていったのは、初代高砂の功労によるところが大きい。
平成25年4月20日
あり余る熱情と剛毅果断な初代高砂浦五郎は、いかにも激動期のリーダーにふさわしかった。愛知県令鷲尾隆聚は初代高砂の男気に惚れて大きな後ろ盾となり、2代目高砂となる響矢宗五郎も初代にほれ込んで辛苦を共にした。はじめ京都相撲に入門の西ノ海嘉治郎は、鹿児島県川内市の出身。改正高砂組の興業に参加しつつ、明治15年に幕内格附け出しで正式に入門。高砂部屋初の横綱免許を受け、23年5月場所、初めて番付表に横綱と明記された。以後、横綱が大関の上の位になった。
平成25年4月22日
もともと横綱は地位ではなく称号で、大関が最高位であった。天覧相撲などの機会があったときに、行司の宗家吉田司家が横綱土俵入りする免許を与えた。通常は最高位である大関の中から選ばれたが、ときに関脇から選ばれることもあったという。明治23年以前の横綱は、横綱土俵入りをする機会を与えられた力士といえるかもしれない。その驚異的な強さが伝説となっている江戸寛政期の大関雷電為右衛門は、その機会に恵まれなかっただけである。
平成25年4月24日
明治23年横綱が地位として番付に明記されたのは、高砂部屋と大いに関わりがある。京都相撲から高砂部屋へ入門の西ノ海は、明治15年幕内格附け出しで初土俵。順調に番付を上げ明治18年には大関。あとを追うように若い小錦が番付を上げてきた。小錦は、明治16年入門で、21年に新入幕。新入幕から4場所負け知らずの成績で明治23年には関脇を飛び越えて大関に昇進。年齢は西ノ海より11歳若い。並ばれた西ノ海は面白くない。「こっちは横綱免許(23年3月)を授かっているのに、同じ大関ではおかしいではないか」兄弟子である西ノ海の顔を立てるため、取締である高砂が配慮して、「横綱」が番付に明記されるようになった。明日番付発表。
平成25年4月25日
5月場所番付発表。いつもなら初日の2週間前の月曜日なのだが、ゴールデンウイークの最中4月29日(月)祝日と重なってしまうため早まった。朝赤龍、先場所の2桁10勝で7枚番付を上げて東十両4枚目。幕下の二人、朝天舞(先場所4勝)が10枚上がって25枚目。朝弁慶(先場所5勝)は20枚上げて31枚目と自己最高位更新。今場所はいつもより勝越しの上がり幅が大きい。序二段朝ノ島も自己最高位更新の序二段27枚目。先場所前相撲の朝西村と朝上野、初めて番付に四股名が載る。
平成25年4月26日
7時から稽古開始。8時半十両格行司木村朝之助による土俵祭。ちょうど来ていた外国からのお客さん(アメリカ人?)も正座に座り直して興味深そうに見学。さすがに終わった後、立ち上がるのに難儀していたが。相撲教習所は番付発表までなので、朝西村、朝上野の二人も稽古に加わる。二人とも大きいので、ずいぶん稽古場の人数が増えたように感じる。
平成25年4月27日
横綱審議委員会は昭和25年5月から設けられた。初代委員長は酒井忠正伯爵。酒井忠正氏は、戦前農林大臣や貴族院副議長を務めた政治家であり、旧姫路藩酒井家の21代当主でもある。初代高砂浦五郎をお抱えになった酒井のお殿様は祖父にあたる。忠正氏も子供の頃から相撲が好きで自分でも取り、資料を集め、高じて「相撲の殿様」とも呼ばれていたという。現在の相撲博物館は酒井コレクションを基に昭和29年に開館され、初代館長を務められた。横審総見稽古。朝赤龍と共に、朝天舞、朝弁慶も参加。
平成25年4月28日
両国にぎわい祭りの相撲イベント「相撲字で記念うちわ」には木村朝之助も出演。5人の行司さんが並んで、お客さんの名前を記念うちわに「相撲字」で書いていく。太々とすき間なく自分の名前が形になっていくのを目の前で見るのは感動もので、まさに芸術作品の完成。太鼓実演には、利樹之丞と邦夫が登場。もう一人の呼出しさんと共に珍しい3人での連弾を見事なバチさばきで響かせ、こちらも拍手大喝采。お天気にも恵まれ、江戸情緒あふれる両国界隈でした。
平成25年4月29日
新弟子で入門すると、ほとんどは一度体重が落ちてしまう。激しい稽古と慣れない生活による。富山県出身朝上野、3月の新弟子検査のとき181kgあったが、先日体重計に乗ったら166kg。ここ2カ月近くで15kgやせてしまった。教習所の一期目が終わり、部屋での稽古が始まって4日。全身筋肉痛だそうでヒーヒーゼーゼーいいながらも、何とか我慢して稽古をつづけている。無駄な肉が絞られ、稽古についていける体力がついてくると、190cmの体が大きな武器になってくる。
平成25年4月30日
もう一人の新弟子朝西村も186cm、147kgと負けず劣らずの立派な体格。朝上野は高校卒業後1年のブランクがあるが、朝西村の方は大学卒業と同時にでの入門のため少しは体が慣れているようで、2kg減にとどまっている。もっとも、顔を合わすたびに「もう限界ッス」「もう限界ッス」と、しんどそう。まあ、挨拶代りの口癖なのであろうが。早く幕下の二人を稽古場で脅かす存在になってもらいたい。元幕内藤ノ川の服部監督の東海学園大学からは初めてのプロ入門である。
平成25年5月1日
先日紹介したように両国にぎわい祭りでは、高砂部屋の呼出し利樹之丞と邦夫が、もう一人北の湖部屋呼出し太助さんと3人で太鼓実演を披露した。太鼓実演は、ふつう一人で寄せ太鼓や一番太鼓、はね太鼓とあいだに間を入れながら打ち分けていく。はじめは普通通りにお聞かせしたのだが、圧巻だったのが後半の♪太鼓メドレー♪。寄せ太鼓にはじまり、一番太鼓、二番太鼓、はね太鼓と、それぞれ短めにつなげていった。メドレーでつなげてもらうと、素人には聞き分けづらいそれぞれの太鼓のリズムやテンポの違いが分かり、実に面白かった。さらに三人での連弾までも。利樹之丞によると、基本のリズムを押さえて最初と最後さえ合わせれば何とかなるとのことだったが、まさにプロの業で珠玉の響き。
平成25年5月2日
電話はもちろん、テレビやラジオもなかった江戸や明治の頃、相撲の開催を知らせるのは太鼓の音のみであった。遠くへ音を響かせるため、高い櫓が組まれ、太鼓は小ぶりで張りを強くして高い音が出るようにつくられた。太鼓実演では次のように解説する。「一番太鼓は、昔は真夜中の二時か三時頃に打たれ、この太鼓を“朝の打ち込み”と申しまして打ち手は、天下泰平、五穀豊穣を祈って打たれたと言われております・・・また地方巡業に参りますと、この一番太鼓を合図に、下の方の、お相撲さんの稽古が始まりましたが、現在は、騒音防止条例の為、朝の8時30分から、30分間だけ打たれております」
平成25年5月3日
番付発表後は休みなしで稽古が行なわれる。本場所が始まると稽古時間が短くなるが、初日の前々日ころまでは現在のペースがつづく。4月25日の番付発表後から今日で8日目。ふつうなら初日まであと5日と先が見えてくる頃なのだが、今場所は初日まであと8日と長い。高校、大学の稽古では1週間単位で休みがあったはずの朝西村、朝上野にとってはおそらく未知のこと。二人共かなり疲れがたまってきているよう。そこへいくと、この世界が5年目となる朝興貴クラスは、連日の稽古にもそう変わりはない。長丁場を乗り切るスタミナは、プロならではのことである。
平成25年5月4日
お相撲さんは、力はあってもスタミナはないと思われている方は多いと思う。大相撲中継のインタビューで「ハーハーゼーゼー」いっている印象が強いからだろうが、相撲を一番取ることは、100mの全力疾走に匹敵するか、それ以上のものがある。稽古では、それを何十番と繰り返すから、究極のインターバルトレーニングだともいえる。インターバルトレーニングとは、強度の高い運動と休息(もしくは軽い運動)をくり返すことで、心肺機能を極限まで高めることができるトレーニングである。何十番もの稽古を毎日くりかえしている力士のスタミナは、科学的にも根拠あることだといえる。
平成25年5月5日
実際、力士のスタミナをテストする機会が明治のはじめにあった。明治維新の余波が残る明治9年、文明開化の波を受け「裸体禁止令」が発令。やがて一部から、相撲も「裸踊り」だとして「相撲禁止論」まで飛び出してきた。そういう雰囲気を打破するため、世の中の役に立つことはできないかと生まれたのが、力士達で「消防別手組」をつくる案。しかし、消防のほうから「力士は力は強くてもスタミナがないのでは」と物言いがつきテストすることに。屈強の漁師5人対力士3人との綱引き。さらに、足自慢の人力車夫8人と力士8人による荷車を引いての持久走。警視庁立合いの元、九段坂上の馬場でテストが行なわれた。
平成25年5月6日
テストに臨んだのは、巡業に出ていない幕下、三段目の力士たち。漁師5人対力士3人の綱引きは、何なく力士団が勝った。つづいて、荷車を引いての人力車夫との競争。馬場を何十周も回る。はじめは圧倒的に車夫が早かった。ところが、10周、20周と回るうち車夫はだんだん疲れてきて、力士たちが追いついた。30周、40周、力尽きる車夫を尻目に、力士たちは普段の稽古の成果を発揮し最後まで走り切り、力士団の勝利となった。警視庁は、力士の消防別手組を認めた。
平成25年5月7日
スタミナがあるといえば、部屋ではクボユウこと朝乃丈が一番かもしれない。何年かさかのぼってみても、稽古を休んだ覚えがない。風邪もひかない。いや5,6年前に一度風邪をひいたとか言っていた気がするが、「気のせいだよ」と周りから言われて寝込むことはなかったように思う。毎日の番数もかなりのものがある。「力を入れていないから」とよく言われるが、相手があることだから、ある程度は踏ん張らなければならない。本人の口から出るのはやる気のない言葉ばかりだが、継続は力なりで三段目らしい張りのある体つきになっている。毎日のように怒られても、精神的にもタフである。(聞いちゃいないだけともいわれているが)ある意味超人かもしれない。
平成25年5月9日
番付発表後、朝7時から稽古がはじまっている。若松親方指導のもと、1時間あまり、長い時には1時間半基礎トレーニングが行なわれる。四股に始まり、ダンベルを持ってのジャンピング腰割り、ダンベルを持ってのスリ足、手押し車、休む間もなく若松式トレーニングメニューがつづく。「はぁはぁ」と息が荒くなり汗がしたたり落ちる。「うゎぁー」と苦しさに雄叫ぶものもいる。そんな中、少し苦しげな顔はしているものの朝興貴だけは淡々としている。表情がないだけという噂もあるが、スタミナがずい分ついた。今場所は三段目79枚目。半年ぶり三段目で初めての勝越しを目指す。
平成25年5月10日
相撲の基礎トレーニングは、ときにダンベルを使うとはいえ基本的には自重トレーニングである。そのため体の大きい力士ほど負荷が大きくなる。180kg近い体重の朝弁慶にとっては、すべてがハードになってきて最も苦手としている時間となる。もともと膝の故障があったり、内臓が弱かったりと、場所前になると必ずどこかしら調子悪くなっていたが、最近ようやく休まずに稽古をつづけられる体になってきた。これも苦手な基礎トレーニングの賜物であろう。入門7年目25歳。自己最高位の幕下31枚目。そろそろ勝負をかけてもらいたい。
平成25年5月11日
スタミナがあるなしは、心肺機能や筋持久力が大いに関係するが、長丁場のスタミナとなると、疲労回復能力、おもに内臓の丈夫さにも大きく影響するであろう。横綱大関になる力士は、大体が人並外れた酒豪であるし(例外もあるが)、何といっても内臓の調子の良さは肌艶に出る。午前11時、触れ太鼓が稽古場土俵を回り、初日の取組を呼び上げる。「朝赤龍にぃーは双大竜じゃんぞーぇ」。 8時40分取組開始で序ノ口の土俵に朝上野が登場。三段目朝興貴、幕下朝天舞とつづく。横綱は日馬富士が隠岐の海、白鵬が栃煌山。
平成25年5月12日
通信手段がなかった明治時代までは触れ太鼓が相撲開催を知らせる唯一の手段であった。明治42年の国技館完成までは雨が降ると中止になり、その度に触れ太鼓を回した。触れ太鼓は6組に分かれ5組は市中を回り、1組は茶屋や飲食店、横綱大関など役力士の自宅、部屋、協会役員の自宅を回ったという。風薫る五月場所だが、汗ばむような陽気。高砂部屋一同、序ノ口朝上野から十両朝赤龍まで4連勝の初日。
平成25年5月13日
明治時代の本場所は、雨が降って中止になると、翌日晴れても開催しなかった。開催せずに触れ太鼓を回して、また明日からやりますとお知らせする。ところが、その翌日また雨が降ってしまうと、またできない。雨が上がるのを待って触れ太鼓を回す。そんな調子で、10日間の相撲が1カ月に及ぶことも珍しくなかったという。まことにのんびりした時代であった。ただ、雨の日の翌日が日曜日だと触れ太鼓を回さずに即開催することもあったという。当時の櫓太鼓は、両国橋のたもとにあり、未明から打ち鳴らす音は、遠く南は品川、川崎まで、東は千葉、木更津まできこえたという。幕下31枚目と自己最高位の朝弁慶、きのうの朝天舞につづいて電車道での初日。
平成25年5月14日
“電車道”とは、立合い当たって相手を一直線に押し出す、もしくは寄り切ることをいう。スリ足によって、土俵上に電車のレールのように平行な2本の線ができるから電車道だが、とくに跡ができなくてもいっぺんに持っていくと「電車道で勝ちました」という。幕下25枚目朝天舞、電車道とはいかなかったものの200kg近い相手を押し込み、突き落としての2連勝。三段目朝興貴も2連勝。
平成25年5月15日
三段目朝乃土佐、一月場所でヒザを怪我して途中休場した。手術の可能性もあったが、ウォーキングやプールでのリハビリに努め、今場所前はぶつかり稽古で朝弁慶に胸を出せるまでに回復してきた。申し合い稽古は、まだままならないものの、ぶつかり稽古の胸は朝弁慶が思い切りぶつかってもビクともしない重さをもっている。その重さを発揮して今場所の初白星。序二段ちゃんこ長大子錦も重さを利して(見てないけどたぶん)、1勝目。
平成25年5月16日
ぶつかり稽古で胸を出すのがうまいとき、「いい胸を出す」という。体重の重い力士に多いが、重くても胸を出すのが下手な力士もいる。相手の当たりをしっかりと受け止め、最初の構え、腰の備えを崩さずに後足をすべらせて下がっていく。後足(左足)が俵にかかったら、ヒザを落とし体重を相手にかけ右足も俵にかける。上体の力が抜け、腰が決まり、ヒザを柔らかく使うことも求められる。「いい胸」を出されると、2,3回押しただけで息も絶え絶えになり体の芯から鍛えられる。もちろん、胸を出すほうもいい稽古になる。三段目6枚目男女ノ里、叩き込まれて土俵を飛び出してしまうが、相手が髷をつかんでおり反則勝ちで貴重な2勝目。
平成25年5月17日
力を抜くことは難しい。力を抜くといっても。全身の力を抜いてしまうと立つこともできないから、肩や腕などに必要以上に力を入れないということである。腰の構えをつくる、体の軸を保つための筋肉には力を入れなければならない。そういう姿勢をつくる筋肉をインナーマッスル(深層筋)という。逆に体の表面近くにある筋肉は、アウターマッスル(表層筋)と呼ばれる。もちろん両方が協調して使われることが望ましい。アウターマッスルばかりに力が入りすぎると、体にブレーキをかけてしまうことになり外に力が発揮されづらい。アウターマッスルがほとんどなくなっているような気がする大子錦、かろうじて残っているであろうインナーマッスル(といっていいのかどうか?)を使って2勝目。
平成25年5月19日
午後国技館正面に行くと、切符売り場の窓口に相撲字で「満員札止」の張り紙。入場券が全て売り切れとなると「札止」となる。今日は午前10時すぎには満員札止になったとのこと。「満員札止」は、何ともうれしい響きがある。「満員御礼」の垂れ幕は、少し残席があってもある程度の割合売れたら出すが、「満員札止」のときは正真正銘の満員御礼である。三連敗だった朝乃丈ようやく初日。こういうとき「ようやく片目が開いた」という。もう1勝すると、「両目が開いた」。序ノ口の朝西村と朝上野、3勝目。こちらはすでに目が開ききって、つぎの一番に勝越しをかける。
平成25年5月20日
朝赤龍、粘って粘って3勝目。場所前の出稽古も順調にこなし、初日いい相撲で勝ち、かなりいい感触を持ってのスタートだったようだが、4日目から5連敗とすっかり歯車が狂ってしまっていた。まことに心の持ち様はむずかしい。今日の白星でずいぶんすっきりしたようで、心と体の歯車もかなり戻ったのでは。「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな 」沢庵禅師が説いている。
平成25年5月21日
当然の事ながら、土俵の上で相撲を取っているときも頭の中ではいろいろ考えている。「いけそう」とか「うゎっやばっ」とか、「マワシを取らなきゃ」「引いたら落ちそう」「がまんしなきゃ」とか、いろんな思いが巡りくる。相手の後ろに土俵が見えると「早く出てくれ」。勝利がすぐそこに見えると、「よしっ勝った」「しめた」そう思った瞬間に逆転されてしまうことも多い。心が心を迷わせてしまう。心が動きを悪くしてしまう。序ノ口朝上野、今場所第一号の勝越し。三段目6枚目男女ノ里3勝目。
平成25年5月22日
いい相撲を取れたときは、頭で考えるよりも勝手に体が動いている。もちろん意識はくっきりしているが、考えて体を動かすというよりも、体が感じて、体が自然に反応している。そうそうないことだが。朝赤龍、3連勝で5勝目。考えるよりも感じたままに体が動くようになってきた。朝ノ島、自己最高位で3勝目。最後の一番に勝越しをかける。
平成25年5月23日
番付にはいくつも壁がある。横綱、大関への壁はもちろん、幕下から十両への壁も大きい。幕下、三段目の壁も、上がった事がない力士にとっては大きな壁となって立ちはだかる。もちろん自分の心がつくりだす壁であるが。何度かはね返されるうち、だんだん壁は高く厚くなっていく。それだけに壁を破ったときの喜びはひとしおになる。三段目6枚目の男女ノ里、今まで何度かはね返されてきたが今場所は、あと1番というところまでこぎつけた。今日の達成はならなかったものの、あと1回チャンスがある。最後の1番は14日目。朝天舞、朝弁慶、朝乃土佐、朝興貴、大子錦も踏ん張って最後の1番に勝越しをかける。
平成25年5月24日
明日の取組は幕下以下7人全員3勝3敗。3勝3敗は、相手も3勝3敗。勝てば勝越し、負ければ負越し。お互い色々な考えが頭を巡る。後悔や失敗体験は「過去」を考えること。不安や恐れは「未来」を考えること。過去の経験を未来に生かそうとするから迷いが生じる。「考える」ことは、過去と未来しかない。大切なのは過去と未来の狭間に身を置くこと。過去と未来の狭間は「今」。「今」は「感じる」ことでしか現れない。と、大気拳天野敏氏が語る。「感じる」ために禅がある。感じるために稽古する。四股やテッポウも感じるためにあるのであろう。考えずに感じられると、いい相撲が取れる。難しいことだけど。たまに出来たことではある。
平成25年5月27日
昨日午後6時半より千秋楽打上パーティー。文字通り、5月場所の千秋楽を無事を迎えられたお祝いと、力士の成績発表の場ともなる。勝越し力士には勝越し祝いのご祝儀が贈られ、勝越し力士はカラオケで歌を披露。序ノ口で5勝2敗と勝越した朝西村、選んだ歌は「♪二人を 夕やみが つつむ この窓辺に♪」ではじまる加山雄三の「君といつまでも」(古っ)。途中、「幸せだなぁ 僕は相撲をとっている時が 一番幸せなんだ」とセリフを入れて、やんやの喝采。さすが大阪人。練習のときは「ご祝儀をもらっているときが 一番幸せなんだ」と言っていたのだが・・・ 今日から1週間の場所休み。
平成25年5月30日
「歌は世につれ 世は歌につれ」と同様、ご祝儀も世につれで、時代によって、また所属する部屋によってもずいぶん違いがある。バブルの頃は、よその大部屋では若い衆でもかなり景気のいい話を聞いたが、当時の若松部屋は小部屋だったから殆どバブルの実感はなかった。祝儀については、一時所得ならびに贈与として所得税がかかるが、「祝宴会において贈呈されるもので、小額なものについては、しいて課税しなくてもよい」と、国税庁の通達昭和34直所5-4「力士等に対する課税について」(3)でも定められている。
平成25年5月31日
ご祝儀といえば大正5年5月場所、56連勝中だった横綱太刀山を破った新小結栃木山の逸話がある。4年間負け知らずだった太刀山を破ったことで、国技館は大鉄傘を揺るがす大騒ぎとなり、花道を引き揚げる栃木山の背中には100円札が2枚貼られていたという。新聞の号外も出た。その晩贔屓の宴席に何軒かお呼ばれもあり、祝儀の合計は1万2千円にもなったそうだが、場所後に3日で使い果たしたという。大工の手間賃が2円ほど、小学校教員の初任給が12円ほどの時代の話。その後栃木山は27代横綱となり、年寄春日野として横綱栃錦を育てた。
平成25年6月1日
弟子の横綱栃錦にも祝儀にまつわる逸話がある。年末部屋の大掃除をしていたら、稽古場の神棚に祝儀袋があった。中には百万円。前の場所の優勝のご祝儀をお供えしたまま忘れてしまっていたよう。さすがに本人も驚いたが、「こりゃ儲かった。みんなで飲みにいこう」と、一晩で使いきってしまったという。ただ、こんな景気のいい話は関取衆でもそうそうあるものではなく、甚句のハヤシ唄でも昔からうたわれている「♪近頃世の中不景気で わたしのまわりの関取衆 立てば借金 座れば家賃 歩く姿は 質屋へお使いお使い♪」
平成25年6月4日
現在十両以上の関取は月給制で、幕下以下は場所手当てが本場所毎に支給される。月給制となったのは昭和32年から。それまでは、現在も褒賞金として残る給金と、巡業での報酬、本場所の興業収入による配当金等で成り立っていた。しかしながら時代によっては、配当金や給金の支給がままならず、タニマチからのご祝儀に頼らないと生活できないことも多々あり、“男芸者”と呼ばれる所以でもあった。日々の生活費にも事欠く金銭面の不満が、これまで何度かのストライキを引き起こしている。
平成25年6月6日
三宅充『大相撲なんでも七傑事典』によると、嘉永4年(1851)に起きた嘉永事件が、大相撲史上初のストライキ。元横綱秀ノ山の専横(自分の部屋の力士だけを優先的に土俵に上げた)に怒った本中力士100余名が、本所回向院の念仏堂に立てこもり「秀ノ山を殺して脱走するほかなし」と、手に竹やりをもって秀ノ山部屋に殴り込みをかけそうになったという。幸い、会所(相撲協会)幹部が秀ノ山を説得して、秀ノ山が謝ったので無事流血事件とならずに済んだ。当時(幕末)の相撲界は、「序ノ口」として番付に載るまで、「前相撲」「相中」「本中」とあり、相中・本中で2年3年と過ごす力士はザラで、本中力士だけで100人を超えていた。
平成25年6月7日
初代高砂浦五郎も、21歳で入門してから本中力士の壁を超えるのに(番付に載るまで)3年かかった。その後徐々に番付を上げていき、30歳になった慶応4年(明治元年)ようやく幕下筆頭。高見山と名乗っていたこの頃、持ち前の男気と数々の修羅場を乗り越えてきた実績から、すでに一目置かれる存在になっていた。当時の会所(相撲協会)の実権を握るのは、筆頭(理事長)の玉垣と筆脇(副理事長)の伊勢ノ海。権力を笠に着て収入の大半をを独占、関取衆も贔屓に頼らざるを得ず、まして幕下以下の力士の待遇はひどいものであった。幕下筆頭の高見山は、同志250人の連判状をつくり待遇改善を訴えて王子の海老屋に立てこもった。
平成25年6月8日
今日から茨城下妻大宝八幡宮での合宿。午前中、大宝八幡宮土俵で第3回わんぱく相撲下妻場所。下妻市、八千代町の小学校1年生~6年生30人が短パンの上にマワシを締めて熱戦をくり広げる。1年生~3年生は、初めてマワシを締めて土俵に上がる子も多く、礼をして土俵に入り、蹲踞から仕切りまでの動作を勉強しながらの実戦。最近蹲踞のできない子供たちが増えているが、下妻の子供たちはみんなしっかり出来る。4年生以上の決勝は、装束に身をつつんだ錦戸部屋呼出し鶴太郎の呼び上げで土俵に上がり、三段目格行司木村悟志の軍配での優勝決定戦。
平成25年6月9日
今年も錦戸部屋との合同合宿。錦戸部屋にも3月場所新弟子が2人入り、呼出しも入門。さらに5月場所で行司も入門した。新しい顔が増えると部屋の活気が出るが、合宿の受け入れ側も楽しみがふえる。錦戸部屋行司木村錦太郎(きんたろう)は、15歳で茨城県小美玉市の出身。もともと朝青龍ファンで、小学校4年生のとき(ほんの5,6年前だが)、お母さんとこの合宿に見学に来たことがある。下妻の方々も「あーあのときの小学生かぁ!」とびっくり。下妻大宝合宿から生まれた行司「きんたろう」。おなじみ大宝のおばちゃんには、ときに「ももたろう」と呼ばれることもあり、「どっちだっぺー」と、可愛いお孫状態。お相撲さんにとってもおばちゃん達にとっても、年に一度のお祭りな合宿。
平成25年6月11日
お祭りごとは、はじまるとアッという間に終わってしまう。6月8日からの大宝八幡宮合宿も今日が最終日。合宿稽古の最後は、朝天舞、朝弁慶と錦戸部屋水戸豊の3人での三番稽古で締め、男女ノ里の弓取り式で打上げ。ちゃんこを振る舞い、お風呂で砂を落とし、後片付けをして、門前のえびす屋で最後のラーメンとカツ重でお昼。奉納相撲保存会の会長や役員の皆様、宮司や関係者、大宝のおばちゃん達らと別れを惜しみ、迎えのバスの前で記念撮影。一行を乗せたバスが白煙を吐いて動き出すとき、いつも祭りのあとの寂しさが漂ってくるという会長らに見送られ、また一年後と手を振りつつ帰京。
平成25年6月13日
慶応四年(明治元年)、幕下筆頭だった高見山こと初代高砂浦五郎が同志250人を集めたストライキは、間に入ってくれた顔役を立てて未遂に終わった。しかしその後も待遇改善は行なわれず、明治6年の改正高砂組独立へとつながる。明治11年に復帰して、明治16年初代高砂は取締(理事長)となり実権を握った。従来の「相撲会所」を「東京角觝(すもう)協会」と改め、年寄数の制限や力士への収入の配分など、数々の近代化改革を推し進めた。
平成25年6月16日
先発隊6人(大子錦、朝天舞、朝乃丈、朝ノ島、朝弁慶、松田マネージャー)名古屋入り。名古屋場所おなじみ鈴木さんが駅まで迎えに来てくれ、相変わらずのテンションの高い名古屋弁全開。鈴木さんの名古屋弁を聞くと名古屋場所に来たという実感が確かにわいてくる。宿舎のプレハブにバルサン炊いて大掃除して寝床をつくる。最高気温35度の名古屋、いい汗が出る。晩御飯も鈴木さん家族と、食べ放題の店で一年ぶりの再会を祝す。
平成25年6月17日
きのうに引きつづき猛暑の名古屋。日差しが強いので、ちゃんこ道具や冷蔵庫などの洗い物の仕事がはかどる。部屋の外で、パンツ一枚で直射日光を浴びながらの洗い物。大きな鍋類はホースからの水ですすぐが、すすぎながら自分の体にも水を浴びせながらの水遊び状態。日光を浴びる面積の広い朝弁慶、肩から背中にかけて真っ赤っかになってしまった。


・6月18日から7月25日までの日記が残っていなかった為、不掲載となります。ご了承ください。
・6月18日から7月25日までの日記が残っていなかった為、不掲載となります。ご了承ください。

平成25年7月26日
相撲を題材にした歌が他にないかと探してみたが、意外と思い浮かばない。お相撲さんの哀愁を歌った「両国(相撲取り)ブルース」は、「♪くにを出るときゃ 横綱と 大きな夢を 抱いたが 来てみりゃ いやな兄弟子の 大きなゲンコツ 俺を待つ♪」ではじまる。昭和20年代なかばに流行ったという「ネリカン(練鑑)ブルースの替え歌だと聞いていたが、昭和はじめの「可愛いスーちゃん」という兵隊節の替え歌と言った方がいいようで、ネリカンブルースとほぼ同時期に歌われだしたような気がする。15年ほど前、細川たかしが『双葉山』という曲を出しているが、あまりメジャーではない。
平成25年7月30日
童謡には、相撲の歌がいくつかある。♪おすもう くまちゃん くまのこちゃん はっけよいよい はっけよい♪ の『おすもうくまちゃん』。 ♪まさかり かついで 金太郎♪ でおなじみ『金太郎』の2番は、♪足柄山の 山奥で けだもの集めて 相撲のけいこ ハッケヨイヨイ のこった ハッケヨイヨイ のこった♪ 子どもにとっては、おすもうさんも、くまさんも、金太郎も、同じような存在なのかもしれない。昨日から夏休み恒例の相撲部屋開放。今年は千葉県市原市から中学生が参加。
平成25年7月31日
高砂部屋には『高砂ジャイアンツ』という歌がある。高砂一門応援歌と題されたこの歌は、呼出し利樹之丞によれば、三平さんの若い頃からあったようで、元横綱前田山の4代目高砂の頃にできたそう。作曲は「別れのブルース」「青い山脈」「銀座カンカン娘」などで知られる国民栄誉賞作曲家服部良一。作詞は、「湯の町エレジー」「東京だよおっ母さん」、ドリフの「ほんとにほんとにご苦労さん」などで有名な野村俊夫。野球好きで(休場中に野球を見に行ってクビになった)、芸能界にも顔が広かった前田山ならではの作品であろう。高田川部屋から若い衆が一人で出稽古に。これも朝天舞効果。
平成25年8月1日
高砂部屋OBの元大関小錦さんは、3年前に『ドスコイ・ダンシング』という歌をリリースしている。作詞・作曲は『吾亦紅(われもこう)』の杉本眞人氏。本来関脇に上がった昭和60年頃に発売の予定だったが中止になったそうで、25年ぶりに日の目をみた。後ろで踊っているドスコイダンサーズも、攻勢力、泉州山、火の竜という高砂部屋OB3人組。朝赤龍と付人の朝ノ島、夏巡業へ出発。明日2日が秋田県男鹿市、3日は岩手県盛岡市、4日が山形県尾花沢市。5日に福島で復興ふれあいイベントを行なって帰京の予定。
平成25年8月2日
小錦さんは、ミュージシャンとしての活躍の他にも、NHKEテレ(教育)で『にほんごであそぼ』という子ども番組にもレギュラー出演している。子どもたちにとっては、大きなぬいぐるみと触れ合う感覚なのかもしれない。子どもが好きなものと言えば絵本があるが、絵本にも相撲関連のものは多い。つい最近も 『りきしのほし』(イースト・プレス)という絵本が発売された。加藤休ミさんというクレパス画家の作品で、相撲部屋や街並みが昭和チックで、お相撲さんの苦楽を短い絵本の中で表わしてくれている。「もういっちょう」「もういっちょう」がくり返される対照的な2つのページは、力士にとって、心に、体に、しみてくるものがあると思う。
平成25年8月3日
力の上の力士が、下の力士をつかまえて(相手にして)おこなう稽古をアンマという。上の力士にとってはあん摩してもらっているくらいの稽古でしかないからだが、下の力士からすると、あん摩どころか、全力を振り絞ってぶつかってもビクとも動かない。つくづくに嫌になる。何回も何回も転がされ、転がされては「もういっちょう」、転がされては「もういっちょう」と、延々とつづく。「よしっ!いいだろう」、ようやく終わったと思ったら、「ぶつかれ!」と、そこからぶつかり稽古が始まる。「もういっちょう」は、はじめのうちは無理やり感、やらされている感もあるが、くり返されることによって、だんだんと転がされる方も、「もういっちょ!ごっつぁんです!」と、気持ちが高まってくることは多々ある。アンマする方も、される方も、いい稽古になる。魔法の言葉的なところがある。もちろん魔法の言葉にするのは、本人の気持ち次第だが。相撲部屋開放、草加からも30人の小中学生が参加して賑やかな稽古場。
平成25年8月4日
部屋開放最終日。月曜日から通っている千葉県市原市のチーム金星に加え、埼玉県草加の小中学生、毎年参加の埼玉相撲クラブと、総勢40名を超える賑わい。「イチ、ニィ、サン」「やぁ!」と元気よく相撲健康体操に汗を流し、指導員の朝弁慶と朝乃丈に、「もういっちょう」 「もういっちょう」 と何度もぶつかり、みんなでお風呂に入り、さいごにチャンコと冷えたスイカ。3杯も4杯もおかわりをしてニコニコ。すもうを自然に楽しんでくれている子どもたちの姿がうれしい。
平成25年8月5日
部屋開放で毎日行なった相撲健康体操は、相撲の基本動作を12の型を通して体験してもらう体操で、一通り行なうとかなりいい汗をかく。気鎮めの型という蹲踞の姿勢から始まり、塵手水(ちりちょうず)、四股の型、伸脚、仕切りの型、股割り、攻めの型、防ぎの型、四つ身の型、反り身の型、均整の型、土俵入りとつづく。すべての体操は左右対称に行なわれるから身体のバランスを整えるのにも最適である。8月の平日(5日~9日、19日~23日)は、国技館玄関正面広場にて行なわれ、一般の方も相撲教習所の新弟子と一緒に参加できる。
平成25年8月7日
蹲踞(そんきょ)とは、上体を真っ直ぐしたまま膝を折って腰を深く下ろし、カカトを上げつま先立ちで膝を大きく開く姿勢のこと。土俵上で、仕切りに入る前に取る姿勢といえば、イメージが浮かびやすいのでは。相撲の稽古では、申し合いの度に一日何十回と行ない、稽古の終わりの黙想も蹲踞の姿勢で行なう。当たり前すぎる構えだが、一般の方にとっては日常生活ではまず取ることのない姿勢である。一般の生活どころか、他のスポーツ、武道にもあまり見られなく、唯一剣道の始まりと終わりの礼のときに行なわれるくらいである。
平成25年8月8日
ヨガや中国武術のなかには、蹲踞に近い姿勢がある。どちらも、骨盤内の自由度を高め、腹式呼吸を行ないやすくし、丹田に力を集め身体を中心から一つにまとめる、というような意味を説いている。確かに直立姿勢は腰回りにいくらか力が入るし、正座は骨盤が少し前に引っ張られる感じがし、あぐらは後ろに傾きがちである。ところが、蹲踞のときは骨盤周りが一番楽になっている。気を丹田に鎮め、落ち着いた気持ちで全身を一つにするために、仕切りの前の蹲踞が行なわれるようになったのであろう。
平成25年8月10日
いろいろ調べてみると、剣道における蹲踞は相撲からきたような説が多い。相撲ではいつ頃から行なわれているのか?江戸時代の稽古場風景には、土俵周りで蹲踞をする力士の姿がみえる。「蹲」も「踞」も、「うずくまる」と訓む。茶道にも「蹲踞」がある。こちらは「つくばい」といい、茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて手水で手を洗うとき、「つくばう(しゃがむ)」ことからその名があるという。相撲の塵手水(ちりちょうず)も蹲踞で行なうから、もとは茶道からきているのかもしれない。
平成25年8月12日
本場所の取組時(幕下以下)次のような一連の所作が行なわれる。土俵中央の踏み俵(二字口)から土俵に上がり、互いに礼をする。その後、自分が出てきた花道の方を向いて柏手を打ち、左右一回ずつ四股を踏む。再び二字口の方に戻り、徳俵で蹲踞して塵手水を行なう。身を浄め、手に何も武器を隠し持っていませんという意味がある。土俵中央に進み出、お互い相対して柏手を打ち、再び左右一回ずつ四股を踏む。蹲踞して気を鎮め、仕切りに入る。仕切りは。足の位置を決め腰を割り、腰を決めてから両手を下ろす。両手を下ろして体重を前にかけ、脚から肚、腕と、全身を一つにつなげる。儀礼的な意味はもちろんだが、最高のパフォーマンスを行なえる体にするための姿勢や動作が、一つ一つの所作に込められている。
平成25年8月16日
立合いで両手を下ろすようになったのは江戸時代からのこと。元禄(1688~1703年)の頃、鏡山という力士が中腰の立合いを始め、少し下って享保年間(1716~1735年)八角という力士が両手を下ろす立合いを始め、他の力士にも広まったという。それ以前はどういう立合いだったのか?享保の頃書かれた『相撲傳書』によると、「手合い」といって両者立った姿勢で、両手を前に出す構えが6つの型に分類し図解されている。両手を頭上に上げた「上段の手合い」、両手が顔の前の「中段の手合い」、両手を胸まで下げた「下段の手合い」。さらに「奇相(無形)の手合い」「陰陽の手合い」「居眼相」。
平成25年8月17日
手合いから中腰へ、さらに両手を下ろす立合いへと変化していったのは、土俵の成立によるところが大きいのであろう。土俵ができたのは、わりと最近らしく(といっても江戸時代がはじまる頃だが)、「土俵無用」を説く慶長(1596~1615年)の頃の名行司岩井播磨と、「土俵必要」を説く元力士の古老明石道壽との論争が『相撲傳書』に記録されている。舟橋聖一著『相撲記』に記されていることだが、舟橋聖一氏は、明治37年現在の国技館すぐ脇の本所区横網町2丁目の生まれ。NHK大河ドラマの1作目となった井伊大老の生涯を描いた『花の生涯』で知られる。相撲好きでも知られ、昭和44年から亡くなる昭和51年まで、横綱審議委員会委員長を務めた。
平成25年8月18日
舟橋聖一『相撲記』(創元社)は昭和18年6月の刊。17年5月場所前に高砂部屋稽古場を訪れた話も出てくる。昭和17年というと、4代目高砂の前田山が大関で、二枚鑑札(現役ながら師匠も兼ねる)となった年。立浪部屋と仲が良かったようで、双葉山、羽黒山、名寄岩が出稽古に来ている。前田山と名寄岩が激しい申し合いをみせ、若松部屋鯱ノ里も怪我から復帰の再入幕で元気な姿。双葉山が新進朝明山に胸を貸す。上がり座敷の先場所引退したグリグリの五分刈りの男女ノ川に、名寄岩が一礼して声をかける「可愛らしくなりましたなぁ」。高砂部屋は、ついぞなく、明るい、と記されている。
平成25年8月19日
鯱ノ里は、四股名の通り名古屋の出身。昭和4年1月、高砂部屋から独立した元小結射水川の若松部屋から初土俵。最高位は前頭3枚目だが、腰が重く投げもあり、横綱玉錦と水入りの相撲をとったこともあるという。横綱前田山とは同期生にあたる。当時おそらく若松部屋には稽古場がなく、稽古は常に高砂部屋で行なっていたはず。いわば同じ釜の飯を食った仲で、終生手が合い(仲が良い)4代目高砂取締のもと、元鯱ノ里の2代目若松は、名古屋場所担当部長として理事も務めた。目元涼しく美男力士として知られ、女性ファンも多かったそう。
平成25年8月21日
現役では、「角界のベッカム(琴欧洲)やディカプリオ(把瑠都)」。少し前は、「角界の松平健(旭豊)やアランドロン(霧島)」。美男力士は、その時どきの有名人に例えられる。三宅充『大相撲なんでも七傑事典』には、美男力士の歴史が語られている。江戸元禄の大関両国梶之助は、色白で目元涼し男美人といわれ、歌舞伎『双蝶々曲輪日記』濡髪長五郎のモデルだったとも伝わる。ケンケン(掛け投げ)で有名な24代横綱鳳谷五郎は、色白の美貌と派手な取り口で人気が高かったといい、俳優滝田栄は、兄の孫にあたるという。戦前から戦後にかけて活躍した関脇輝昇は、片岡千恵蔵にうり二つと人気だった。以前若松部屋にも、「角界のキムタク」と呼ばれた力士がいたが、顔が似ていたのではなく、本名が木村拓也だった。
平成25年8月22日
「角界のキムタク」は、15歳での入門だったが、178cm158kgと堂々たる体格で、出稽古に来ていた東関部屋のマネージャーが実業団のベテラン選手と見間違うほどであった。体調が悪いというので、病院に連れて行ったときのこと。そこそこ大きな病院で、待合室には大勢の人。受付で名前が呼ばれた。「キムラタクヤさん」待合室で、うつむき加減に座っていた人の視線が一斉に集まった。視線の先には、ザンバラ髪で、ぶちかましにもってこいの大きな頭のキムタク。角界のキムタクには痛い視線であったろう。
平成25年8月24日
厳しい残暑がつづいているが、心なしか朝晩は涼しさも感じられるようにはなってきた。公園の落ち葉も増え、トンボも姿をみせ、季節は移ろいつつある。俳句で「相撲」は秋の季語。平安時代の相撲節会(すまいのせちえ)が旧暦の7月7日(新暦では8月上旬から中旬、立秋過ぎ)に行なわれていたからだそう。
「相撲取 ならぶや秋の から錦」は、芭蕉門下の服部嵐雪の句。
平成25年8月25日
芭蕉には「むかし聞け 秩父殿さへ 相撲とり」「月のみか 雨に相撲も なかりけり」などがある。 秩父殿とは、鎌倉の武将畠山重忠のことで、相撲が強かったことで有名。深川八幡で勧進相撲が始まるのは芭蕉の晩期だが、小林一茶が本所相生町(墨田区緑)に住んだ文化元年(1804年)~文化5年頃は、雷電、柏戸らが活躍した絢爛期で、相撲が身近なものであったろう。「うす闇(くら)き 相撲太鼓や 角田川」は、櫓の上で打たれる一番太鼓の情景を詠んだ句とされるが、昔は夜中の2時か3時に打たれた一番太鼓、回向院から程近い緑町の一茶の家では響くように聞こえたことであろう。緑1丁目の歩道脇に、「小林一茶旧居跡」の碑が建っている。深川芭蕉庵は記念館になっている(江東区常盤)。
平成25年8月26日
小説家・劇作家として知られる浅草生まれの久保田万太郎は、相撲好きで知られ、相撲にまつわる句も多い。「秋場所や 稽古の甲斐を かくも見せ」は、昭和29年9月場所の新入幕成山(最高位小結、小野川部屋)の活躍を詠んだものという。「秋場所や 退かぬ暑さの 人いきれ」「名月や あすはすまふの 何日目」。相撲は初秋の季語だが、初場所や夏場所とすると、新年や初夏をあらわす季語になる。「初場所や 控へ力士の 組みし腕」「夏場所や ひかへぶとんの 水あさぎ」「夏場所や もとよりわざの すくひなげ」初場所の緊張感、夏場所の爽やかさが伝わってくる。
平成25年8月27日
精神科医でもある歌人齋藤茂吉は、戦前の巨人力士(207cm、203kg)出羽ヶ嶽文治郎の歌をよく詠んでいる。あまりに大きすぎて奉公先がなかった文治郎少年を、同郷の青山脳病院齋藤院長が面倒を見ることになり、齋藤家の婿養子となった茂吉とは家族同然の間柄。関脇まで昇進した出羽ヶ嶽は誇らしく、「わが家にかつて育ちし出羽ケ嶽の勝ちたる日こそ嬉しかりけれ」しかしその後、脊髄カリエスを患い番付は三段目まで落ち、「番附もくだりくだりて弱くなりし出羽ケ嶽見に来て黙しけり」「一隊の小学児童が出羽ケ嶽に声援すればわが涙出でて止まらず」「のぼせあがりし吾なりしかど今は心つめたくなりて両国わたる」まことに寂しい。結局出羽ヶ嶽は復活することなく引退し、晩年も寂しいものだったという。
平成25年8月29日
昨日は年2回の健康診断の日。身長、体重、血圧、血液検査を行なう。今年3月場所入門の朝上野、新弟子検査では181kgだったが、きのうの測定では157kg。半年で24kgの減量。だいぶ生活にも慣れてきたから、そろそろ体重減も落ち着いてくるであろう。部屋最重量は、相変わらずの大子錦で188kg。「190いかなかったっす」とやや自慢げ。朝弁慶は174kg。朝天舞は118kg。今日から平塚合宿。来年入門予定の中学生2人も同行。歓迎会の終わりがけに、大礒から193cmの中学3年生も来る。未来の朝潮候補かも。
平成25年9月2日
9月場所番付発表。先場所幕下18枚目で6勝1敗だった朝天舞、ちょうど10枚上がって幕下8枚目。幕下15枚目以内は、全勝すると関取昇進圏内なので、いよいよ夢が現実的なものとして膨らんでくる。出身地石巻でも期待感は高まっているようで、読売新聞石巻支局から記者が平塚合宿にも取材に訪れていた。朝西村が新三段目昇進。朝赤龍は西十両5枚目。
平成25年9月3日
きのう紹介した朝天舞の記事、地方版かと思いきや全国版の震災情報記事に掲載されている。現在石巻出身力士は朝天舞ただ一人。石巻市民の期待を一身に背負って9月場所に臨む。過去にさかのぼっても、元春日富士の雷親方(昨年退職)が5歳まで石巻に住んでたということで、一時期石巻出身を名乗ったことがあるそうだが、生まれも育ちも石巻の朝天舞、史上初の正真正銘石巻出身関取を目指す。今朝の稽古場でも、いつも通りの狂ったような奇声を発しながら32歳の肉体をいじめ抜いていた。
平成25年9月4日
宮城県出身力士としては、なんといっても横綱谷風梶之助が名高い。歴代横綱一覧では第4代となっているが、初代から3代までは伝説の横綱であり史実上は初代だともいえる。他にも9代横綱秀ノ山雷五郎、18代横綱大砲(おおづつ)万右衛門、さらに伝説の第3代横綱丸山権太左衛門と、横綱を4人も生み出している相撲どころである。近年も、青葉山、青葉城、高望山、五城楼とつづいていたが、現在は十両以上の関取不在がつづいている。朝天舞には宮城県民の期待もかかっている。
平成25年9月6日
谷風梶之助は、「一年を 二十日で暮らす いい男」の時代に、63連勝と4年半負け知らず。一敗した翌日から再び3年半負け知らずと、驚異的な強さを誇った。、『大日本相撲評判記』には「力量万人にすぐれ、別して相撲の達人にて、腰低く、寄る足いたって早く、・・・」とある。その強さもさることながら、人格面でも優れ、『寛政力士伝』の「小田原相撲」や「佐野山」など、谷風の人情にまつわる講談や落語は数多い。歌舞伎の初代市川海老蔵、遊女の花扇と共に浮世絵にも描かれ、江戸の三大スターとして人気も高かったという。横綱審議委員会総見稽古。朝赤龍、朝天舞、朝弁慶が参加。9月場所と1月場所は一般非公開となったため、相撲教習所での稽古。
平成25年9月8日
幕下34枚目と、朝天舞に次ぐ番付の朝弁慶は、先日合宿を行った神奈川県平塚の出身。江戸寛政の頃、平塚出身で荒馬(後に江戸ケ崎)という力士がいた。関脇まで昇進したが、生涯で10敗しかしていない当時の最強力士雷電に土をつけたことで相撲史に名を残している。神奈川県全体でも、過去に横綱一人、大関3人と、どちらかというと少ない県の部類に入る。唯一の横綱は、横浜市港北区日吉出身の武蔵山。昨晩、9月場所前恒例の本所高砂会。ご近所の方々とテーブルを囲んでの懇親会。高砂部屋グッズが当たるジャンケン大会やカラオケで楽しくひとときを過ごす。
平成25年9月9日
武蔵山は筋肉質の体型とゲイリー・クーパーにたとえられた容貌で爆発的人気を誇ったが、昭和10年26歳での横綱昇進後は怪我もあり、“悲劇の横綱”と称された。明治以降唯一の神奈川出身大関である若羽黒は、ドライボーイとか異端児とか呼ばれ、アロハシャツで場所入りして問題になったこともあったという。力士数は少なくないのだが、人口の割合でいうとかなり低い順位になってしまう。神奈川県というと、横浜や湘南から連想される海やヨットのイメージで、何となく相撲とは縁遠い感じがしないでもない。平成12年7月場所の朝乃翔(小田原出身)以来、関取(十両以上)も途絶えてしまっている。朝弁慶に、朝乃翔以来の期待がかかる。
平成25年9月10日
朝天舞、朝弁慶に次ぐ三段目7枚目の男女ノ里(みなのさと)は、茨城県つくば市の出身。以前にも書いたが、つくば出身の横綱男女ノ川(みなのがわ)にあやかっての四股名。男女ノ川は、高砂部屋に入門して一時朝潮を名乗ったが、春秋園事件(平成13年4月13日、14日参照)で師匠3代目高砂の怒りを買い、朝潮の名を取り上げられ男女ノ川へ戻り、部屋も佐渡ヶ嶽部屋へと転籍となった(当時は佐渡ヶ嶽部屋も高砂一門)。191cm146kgの体格と仁王様のような風貌で、昭和5年初場所新小結で武蔵山との千秋楽の対戦は、18年ぶりの満員札止めとなる人気だったという。しかし昭和11年の横綱昇進後は、武蔵山同様一度の優勝もないまま昭和17年引退した。
平成25年9月11日
茨城県は、男女ノ川の他にも、第7代横綱稲妻雷五郎、“角聖”と呼ばれた第19代横綱常陸山谷右衛門と、3人の横綱を輩出している。昭和以降も、大内山、武双山、雅山、稀勢の里と4人の大関、関脇にも水戸泉(優勝1回)、多賀竜(優勝1回)、海乃山、小結にも優勝経験のある若浪と、充実した陣容。売り出し中の若手高安もいる。もちろん高砂部屋名ちゃんこ長大子錦は、袋田の滝で有名な久慈郡大子町の出身。平成14年合併してすぐの頃の高砂部屋には、茨城県出身力士が8人もいた。
平成25年9月12日
朝乃土佐は、四股名の通り高知県土佐市の出身。もちろん師匠である大関朝潮の出身県(室戸市)であり、朝乃丈は安芸市の出身。過去、横綱には第32代玉錦、大関は明治時代の友綱部屋の八幡山、国見山、そして高砂部屋朝潮の3人がいる。幕末の土佐藩主山内容堂候は相撲好きで知られるが、大相撲で活躍する高知出身力士は明治以降のことで、自由民権運動の板垣退助の力に依るところが大きい。
平成25年9月13日
先場所三段目で初めて勝越した朝興貴は、兵庫県高砂市の出身。もともと姫路藩主酒井候が相撲好きで、お抱え力士であった高見山に高砂浦五郎という名を賜ったことで高砂部屋の歴史が始まるから、高砂部屋とは大いに縁(ゆかり)のある土地。今場所東関脇の境川部屋妙義龍は、小学校の先輩。春日野部屋幕内栃乃若は、尼崎市の出身。神戸出身第23代横綱大木戸は大阪相撲からの横綱免許。大関は、江戸時代の有馬山、明治時代の大鳴門、昭和の増位山親子(二代目は生まれ育ちは東京だが)と、汐ノ海の5人。
平成25年9月14日
触れ太鼓の音が響きわたり、いよいよ明日初日。初日の土俵、朝ノ島が初陣を切り、朝赤龍は千代鳳との対戦。結びは白鵬に高安。
平成25年9月16日
台風襲来の秋場所2日目。電車が止まるのを見越して、前夜から国技館近くのホテルに泊まって場所入りという部屋もあったよう。こういう時、国技館まで徒歩圏内にある部屋はありがたい。先場所が好成績すぎたせいもあり、初日2日目と苦戦の高砂部屋。注目の幕下、朝弁慶は投げで振られながらも体をうまく預け浴びせ倒して初日。幕下上位五番の2番目に登場の朝天舞、叩き込まれて黒星スタート。
平成25年9月17日
「寄り倒し」と「浴びせ倒し」は、見た目は同じように見えるが、体の使い方はずいぶん違う。同じように倒れ込んでいくが、「寄り倒し」は相手を引きつけて寄って倒すのに対し、「浴びせ倒し」は、きのうの朝弁慶のように、相手にもたれかかるように、自分の体重を相手に預けて倒れ込んでいく。「寄り倒し」が力を入れて相手を倒すのに対し、「浴びせ倒し」は、力を抜いて相手にもたれ込んでいく。力を抜かれると、重さが増し、密着度も高まり、うっちゃりなどの逆転技がかけられなくなる。朝弁慶、今日は幕下上位常連の潜り込むとうるさい力士を一気に押し倒して2連勝。
平成25年9月18日
序二段34枚目の朝上野、今場所の初日(初白星)。朝上野は、富山県射水市の出身。昭和4年に高砂部屋から独立して若松部屋を興した小結射水川は富山県高岡市の出身。明治の2代目梅ケ谷、大正の太刀山と、歴史に残る強い横綱を出した富山県も、最近は関取はおろか幕下以下の若い衆の数も激減している。朝上野には富山県民の期待がかかる。今場所5勝で三段目昇進の可能性が出てくる。
平成25年9月19日
三段目に昇進した朝西村、今日勝って2勝1敗と白星先行。愛知県東海学園大学卒業だが、出身は大阪市東淀川区。今場所から朝赤龍の付人として支度部屋デビューも果たしている。大阪は、本場所開催地とあって東京や愛知、福岡と共に出身力士数が多く、現役でも関脇豪栄道、幕内勢が活躍している。過去には、大正時代の26代横綱大錦卯一郎、大関には初代高砂と遺恨のあった綾瀬川、昭和に入って高砂部屋前の山がいる。双葉山に2度勝ち将来を期待されたが東京大空襲で亡くなった関脇豊嶋は大阪興国高校柔道部卒で、朝興貴の学校の先輩。
平成25年9月21日
前半戦勝率の悪い日がつづいたが、中盤7日目を迎え、ようやく6勝2敗と大きく勝越し、全体の勝率を五分近くまで戻した。朝赤龍関が5勝2敗と好調で、幕下朝弁慶と伏兵序二段大子錦が3勝1敗と、勝越しまであとひとつ。期待が大きかった朝天舞は、4連敗の負越し。残念だが、場所に入っても変わらず稽古にトレーニングに励んでいるので、残りの3日間で歯車を戻して来場所につなげてくれるであろう。朝乃土佐に初日。
平成25年9月22日
三段目7枚目男女ノ里(みなのさと)、今日の相手は東関部屋の高世(こうせい)。192cm 160kgと大きな相手で、これまでの対戦成績は2敗。今年の5月場所では3勝2敗同士で当たって敗れ、幕下昇進を逃してしまった相手でもある。仕切る前に土俵を足でならすが、ずいぶん仕切り線を超えてならしているのを見て、朝の稽古場で足を払う仕草をしていたことを思い出した。「あっ!蹴たぐりいくんだぁ」イメージ通りに右脚一蹴で、相手を土俵に這わせ、これまでの溜飲を下げる2勝目。朝西村3勝目。今日も4勝1敗と好調で、今場所初の勝率5割超え(27勝25敗)。
平成25年9月23日
大子錦、失礼ながら、まさかの今場所第一号の勝越し。先場所負越したとはいえ、4勝1敗での勝越しは立派なもの。一見やる気なさげな風貌だが、本場所の土俵に上がると意外と動作はキビキビしていて、重さを活かした粘りもあり、勝負に対する執念は少なからずある。性格的にどっこいなところもあるので、わりと負けず嫌いなのかもしれない。つづいて、朝西村も勝越し。攻め込まれるも、得意の上手投げで4勝目。こちらは勝越しで満足せず、もっともっと貪欲に白星を重ねていかなければならない。
平成25年9月24日
取組のある日は朝稽古のときから緊張感に体がつつみこまれる。給金相撲(勝越しのかかった相撲)の日は、なおのこと。前半戦を3勝1敗で終え、今日の一番に勝越しをかける朝弁慶、稽古で汗を流し、新弟子が土俵を掃き清めるのを指導しながらも緊張した面持ちは崩れない。そこへ、対戦相手が休場するため、不戦勝との一報。からだ全体から緊張感が溶きほぐれ、満面の笑み。不戦勝が初めてだそうだが、しかもそれが給金相撲とあって、天にも昇らんばかり。周りから冷やかされてもニコニコ顔はおさまらない。この幸運を残り2番に生かしたいもの。今場所3人目の勝越しとなるも、朝乃土佐は2人目の負越し。
平成25年9月25日
朝、お客さんにちゃんこをついでいると、朝弁慶が、「一ノ矢さん、きょうは頭(かしら)から電話なかったっすか?」と笑いながら問いかけてきた。「はぁ?」一瞬なんのことかわからなかったが、昨日の不戦勝をジョークにしてのこと。5勝目をかけた一番は、心の隅に二匹目のどじょうを飼ってしまったかのような、今場所最悪の相撲で完敗。“勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし”と、心してもらいたい。朝天舞に嬉しい初日。朝赤龍7勝目。朝ノ島、神山負越し。
平成25年9月26日
西十両5枚目朝赤龍、残り3日の12日目での勝越し。これからの星次第では幕内復帰の希望も膨らんでくる。朝乃丈も勝越し。相変わらず、稽古場ではやる気ないモード全開だが、時折見せる正攻法の相撲には、目を見張る強さが十分にある。怪我や病気もしないし、普通にやってくれれば、もっともっと上で取れるのにと、何とも歯がゆい。男女ノ里、朝興貴、ともに粘って3勝3敗まで持ち直す。朝上野、初の負越し。
平成25年9月27日
三段目7枚目の男女ノ里、3勝3敗で臨んだ最後の一番、熱戦となりチャンスも何度かあったものの最後は力尽きて幕下昇進ならずの負越し。今場所を最後に引退することになっており、今日が文字通り力士生活最後の一番となった。夢であった幕下昇進は叶えられなかったものの、取り終えて部屋に戻ってきた顔には、力を出し切った充実感、満足感があふれていた。長年お疲れさまでした。14年半の現役に区切りをつけ、千秋楽打上パーティーにて断髪式を行なう。
平成25年10月7日
多忙がつづき更新を一週間余りお休みいたしました。千秋楽打上パーティーにおきまして男女ノ里断髪式が行なわれ、遠路からも多数ご出席いただきました。ありがとうございました。改めて御礼申し上げます。昨日が、高見盛引退振分襲名披露。今日は、明治神宮奉納相撲。明日8日から高知合宿へ出発。昨年同様、高知市営相撲場にて9日から14日まで稽古を行ない15日に帰京の予定。戻ってきて19日には先発隊が福岡へ出発。何かと慌ただしい日々がつづく。
平成25年10月8日
午後2時発の日航機で高知龍馬空港へ出発。基本的にデブなおすもうさんにとって、座席の混み具合は、かなりの重要事項。幸い今日は空席が目立ち、幸先よい旅立ち。隣同士では座れないので、バラバラに席をとってあるが、座席から通路に肉がはみだしてしまっている。朝弁慶、朝上野まではギリギリシートベルトを締められるが、192kgと最近また更にアンコ化した大子錦は、シートベルトが余裕で届かなく、延長ベルトをもってきてもらう。台風の影響で雨の高知空港。今年も差し入れのちゃんこ食材を積んだ明徳義塾のバスで迎えに来て貰い、高知市営相撲場入り。市の職員の方々とも一年ぶりの再会で、温かく迎えていただく。早速テレビ高知の取材も入り、明日から6日間の稽古。
平成25年10月9日
高知合宿稽古初日。稽古終了後、歓迎セレモニー及び激励品贈呈式が行なわれ、獲れたての立派なカツオと日本酒が市長代理の教育長より師匠に贈呈される。新聞、テレビの取材も多数。稽古後のちゃんこは、師匠のお父さんが室戸から差し入れしてくれたカワハギ。20cmほどもある大きなカワハギで、たっぷりの肝をポン酢に溶かし、チリ鍋で食す。師匠のお父さんは、かつて捕鯨船の砲手として北洋から南氷洋まで世界の海を股にかけて活躍していて、現在もホエール・ウオッチングのガイドとして鯨と関っている。東京の部屋にも年中新鮮な魚を送っていただき、誠にありがたい。今日朝ノ島の24歳の誕生日で、夕食後関取がケーキとシャンパンを買ってきて、ささやかなお誕生会。これも合宿ならではのこと。
平成25年10月10日
ちゃんこの買い出しは、宿舎の市営相撲場から自転車で5,6分のスーパーへ行く。思ったより値段は高めで、東京のスーパーの安売り時の方がずいぶん安いくらい。今日のちゃんこはキムチ鍋で、いつも入れるナルト(白地にピンクの渦模様がはいった練り物)を買いに行ったのだが、高知では置いてないらしく、中が白地で表面がピンクの「すまき」や普通の「かまぼこ」で代用。漁業の町だけに練り物は充実していて、さつま揚げ風のゴボ天やイカ天、ジャコ天は絶品もの。昨日からNHK高知やテレビ高知で高砂部屋合宿の紹介をしていた関係で、今朝の稽古場には見学客が多数訪れる。
平成25年10月11日
今日は明徳義塾中学校・高等学校の創立40周年記念式典。高知で合宿中の朝赤龍や朝乃土佐はもちろんだが、大関琴奨菊も出席。明徳義塾出身力士としては、横綱朝青龍の他、関脇栃煌山、幕内徳勝龍、東龍、十両出羽鳳、千代桜と、横綱、大関、関脇がずらりと顔を並べる。ひとえに指導の浜村監督の力に依るところが大きい。朝赤龍は、明日からの秋巡業参加のため、式典出席後帰京。秋巡業は、明日から埼玉県熊谷、横浜、茨城県土浦と近郊をまわり一旦帰京。再び19日から浜松、金沢、京都とまわって四国へ渡り丸亀で。さらに出雲、益田と島根県を2か所まわって広島へ。出雲巡業の前日23日には出雲大社奉納土俵入りも行なわれる。27日(日)最終日が再び四国松山で、松山から直接福岡に入る。翌28日が番付発表。
平成25年10月12日
宿舎の市営相撲場は総合運動場の中にあるが、高知市内を横切る鏡川に面していて、川の対面には山内神社がある。初代土佐藩主山内一豊から始まる歴代藩主を祀った神社で、敷地内には山内家宝物資料館もある。資料館には、歴代藩主の史料が記された15巻に及ぶ立派な装丁の本があり、その第14編『幕末維新』第16代豊範公紀には力士との関りも記されている。明治4年12月10日の項に、「力士両国梶之助ニ二人扶持ヲ給フ」。明治8年3月23日、「力士河村山左衛門梅谷藤太郎ニ扶持ヲ給フ」。明治9年4月20日、「力士綾瀬川三左衛門梅ケ谷藤太郎等ノ扶持ヲ止メ之ニ金子ヲ与フ」等と記されている。合宿4日目、土曜日とあって朝乃丈の地元の安芸市から中学2年生が稽古に参加。昨年も来た子だが、ここ一年で15kg増えたらしく130kg近くまで大きくなっている。
平成25年10月13日
日曜日で高知県下の中学生6人が稽古に参加。一人は寝坊したらしく、30分ほど遅れて合宿所に到着。稽古場横の更衣室に入っていったので、マワシを引っ張ろうと思い後を追うと、すかさずトイレへ駆け込んだ。なかなか出てこないのでチャンコ場へ戻り、しばらくして様子を見に行くといないので、もうマワシを締めて稽古場に行ったのだと思っていた。ところが稽古終了後、先生にこっぴどく叱られている。結局トイレにこもったまま稽古が終わるまで出てこなかったそうな。さすがに反省していたのか、差し出すチャンコのおかわりもうつむきがち。相撲どころ高知県も、ここ数年相撲をやる小中学生が激減して、生徒集めには難渋しているよう。たまにサボることがあっても、これからも相撲を続けていってほしいものである。明日、合宿稽古最終日。
平成25年10月14日
「藩主公紀」の明治8年3月扶持を給わった「力士河村山左衛門」は誰だろうと調べてみると、どうやら大関綾瀬川三左衛門のよう。綾瀬川の本名が河(川?)村で、本名で記されている。ただ、綾瀬川が土佐藩お抱えになったのは明治4年のことで、相生の四股名を綾瀬川と改名(12月15日)したのは山内容堂候だった。山内容堂候は、土佐藩15代藩主で幕末の四賢候の一人に数えられ、自らを「鯨海酔候」と称した。維新後隠居して、台東区橋場の別邸「綾瀬草堂」で妾を10数人囲い、酒と女と詩に明け暮れる生活を送ったそうで、綾瀬川の命名もそのあたりからきているのであろう。「綾瀬草堂」があったのは、6代目高砂部屋(現千賀ノ浦部屋)のすぐ裏(隅田川寄り)だったようで、それも縁(えにし)を感じられなくもない。しかも初代高砂は千賀ノ浦部屋所属であった。小中学生が12,3人来て、賑やかな合宿最終日。明日朝帰京。
平成25年10月15日
朝合宿所を掃除して、来たときと同じ明徳義塾のバスで空港へ。職員の方々にお見送りしていただき昨年より2日長い合宿を終える。到着の日と同じく雨模様で、今回は台風接近の影響もあり飛行機が出発遅れ。さらに機内は満席状態で、相変わらずの大子錦、空席はないかと最後まで席に座らずに立ったまま待つが空きは出なく、観念して延長ベルトで指定の席に収まる。東京も変わらずの雨模様。明日からは大掃除やら荷造りやらで福岡行きの準備をはじめなければならない。
平成25年10月18日
再び土佐藩『藩主公紀』について。分厚い頁をめくると、明治9年4月20日、「力士綾瀬川三左衛門梅ケ谷藤太郎等ノ扶持ヲ止メ之ニ金子ヲ与フ」の項、金額も記されている。「一金 百五拾圓 伊勢ケ濱勘太夫  一金 三百圓 綾瀬川山左衛門  一金 弐百五拾圓 梅ケ谷藤太郎 」現代のお金に換算するのは難しいが、当時の県知事や大警視(警視総監)の月俸が350円だったようなので、100円がおよそ100万円くらいのものではなかろうか。伊勢ケ濱(元両国)が150万円、綾瀬川が300万円、梅ケ谷は250万円の餞別を頂いてお抱えを解かれたことになる。
平成25年10月19日
先発隊5人(大子錦、朝乃丈、朝興貴、朝上野、松田マネージャー)福岡へ出発。例によって隣席の空席確保のため一番最後に機内に乗り込んできた大子錦、今日の福岡便は満席で、空いている席は朝上野の隣席しかない。二人して、うんうん唸りながら座席へ体を押し込む。シートベルトがいらない程はまり込んだ合計350kgのツーアンコの姿は、周りの乗客にかなり受けた模様。お昼過ぎ、お世話になる宿舎の成道寺へ入り、およそ一月半におよぶ福岡での生活がはじまる。晩飯は、宿舎裏の藁巣坊。。一年ぶりの至福のとき。
平成25年10月20日
大牟田の倉庫にしまってある家財道具一式をトラックで運搬作業。大牟田まで車で約一時間の道程だが、九州場所の助っ人ゴーヤーマンが登場、合計660kgの5人を現場まで運搬してくれる。現在の勤務地佐賀での仕事を終えたその足で部屋に来てくれたのが、昨晩12時前。力士と一緒に雑魚寝して、朝8時過ぎには作業開始。大牟田まで2往復して荷物を片付け終わると夕方。明日からまた通常業務のため、部屋でひとっ風呂浴びて午後6時過ぎに帰宅。せっかくの日曜日なのに、誠にありがたく奇特な方である。ゴーヤーマンの九州場所は今日が初日。
平成25年10月22日
あべやすみさんは、RKBラジオ水~金曜13時からの「エンタメバラエティ THE☆ヒット情報」や土曜日13時「あべちゃんトシ坊!こりない二人」などでおなじみの人気パーソナリティ。師匠とは昔からの顔なじみで付き合いも長い。若松部屋時代初期の頃は、パーティーでの司会もよくやってもらっていたが、ラジオ番組で売れっ子となってからは、ままならなくなっていた。そのあべやすみさんが、今年の九州場所激励会の司会をやってくれることになった。久しぶりの名調子が今から楽しみである。
平成25年10月23日
朝から一日雨の福岡。時折小降りになったり止んだり、その隙をぬって洗いものやら片づけやら。午前中の小降りのなかで、チャンコ場のプレハブも完成。先発隊の仕事も、あとは土俵築と、各部屋のセッティングくらいになった。今日もゴーヤーマンが部屋に来てくれ、買い物に車を出してくれる。晩飯は、奄美出身元武蔵川部屋十両のちゃんこ重ノ海で。川面の先にはキャナルシティが見える、最高のロケーションのおしゃれなお店になって、とてもちゃんこ屋さんには思えない雰囲気。
平成25年10月24日
永田町の国立国会図書館で企画展示『名勝負!!』が開催されています。野球、サッカー、プロレス、柔道などの各種スポーツやオリンピック、さらには囲碁、将棋まで。20世紀を彩る“名勝負”90選の新聞・雑誌等の資料を展示。「相撲」は、「安藝ノ海-双葉山「栃錦ー若乃花」「貴花田ー千代の富士」など15番。10月22日~11月22日まで(日曜、祝日、11/20日は除く)。11月2日(土)と11月12日(火)午後2時からは相撲資料のフロアレクチャーも行なわれます。必見です。台風接近で、今日も一日雨の福岡。明日は朝から土俵築。
平成25年10月27日
相撲列車(新幹線)にて全員福岡乗り込み。便利になりすぎた今となっては、東京ー博多間新幹線移動は、心身への負担も大きいようで、疲れた顔での博多入り。先発期間中は静かだった宿舎成道寺もいっきに賑やかになる。宿舎唐人町成道寺は、阿弥陀如来をご本尊とする浄土宗のお寺で、高砂部屋が九州場所宿舎としてお世話になったのは昭和36年から。今年で52年目を迎える。明日が番付発表。明日もゴーヤーマンが運転手として番付を取りに行くべく、今晩から泊まり込み。
平成25年10月28日
九州場所番付発表。十両朝赤龍は1枚半上がって東4枚目。幕下8枚目で2勝5敗だった朝天舞、12枚落ちて20枚目。4勝3敗と勝越した朝弁慶は、7枚上げて27枚目と自己最高位。三段目は、朝西村と朝乃丈が東西の57枚目で、朝西村が半枚上。番付を手に取ってみると、序二段の欄がすっきりと読みやすい。それもそのはず、三段目が100枚なのに対し序二段は93枚目まで。字は三段目よりひと回り小さく書くので、隣との間隔が開いてすっきり。明日から稽古開始。
平成25年10月29日
今年の九州場所ポスターは、「九州冬の陣」と銘うって、横綱土俵入りの太刀がメインになった太刀持ちの姿。太刀持ち力士の顔は、太刀を持つ手と太刀に隠れてわからないような構図になっているが、朝赤龍の太刀持ちの姿に紛れもない。太刀は、朝青龍横綱昇進のとき、日本刀専門店銀座長州屋から贈呈された刀。朝青龍のために特別に拵えて頂いた刀で、袱紗で持った手の上の赤地に青の部分はモンゴル国旗の蒔絵があしらわれている。太刀を持つ朝赤龍の右腕が、古式に則った素晴らしい肘の張りなので採用されたらしい。
平成25年10月30日
太刀を持つ腕は肩と水平になるように保ち肘を張るのが太刀の持ち方。なぜ肘を張るのであろう。行司さんが土俵祭りで祝詞をあげるときにも肘を張る。入門した頃師匠の房錦さんに、「飯を食う時は肘を張って背すじを伸ばして食べろ」と教えられた。確かに脇を締めると、背中は丸まる。肘を張ることにより肩甲骨が腕とつながり、背筋も伸びるのであろう。腕(かいな)を返すことにも通ずる。思うに、肩甲骨を使えるようにするためなのではなかろうか。天使の羽とも呼ばれる肩甲骨、古代の占いはシカやイノシシの肩甲骨を焼いて占ったという。神につながる骨なのかもしれない。
平成25年10月31日
肘を張ると、自然に脇は開く。脇が開くのは、「脇が甘い」といわれるように、いいイメージがないがどうなのであろう。これは、時と場合によりけりで、脇を開けた方がいい場合と、脇を締めなければいけない場合とがある。差したら腕(かいな)を返すのは基本のセオリーである。腕(かいな)を返すと、脇は開く。脇を開けないと腕(かいな)は返せない。逆に、押っつけるときは、脇を締める。脇を締めなければ押っつけられない。両方、腕と肩甲骨をつなげて使えてはじめて技になる。「腕(かいな)を返す」ことと「押っつける」こと、脇の開閉に関しては逆だが、肩甲骨を使うという意味では同じことになる。
平成25年11月1日
差してきた相手の腕(肘の辺り)を外から絞り上げるようにすることを「おっつけ」という。「押しつける」から来ているそうだが、しっかり決まると相手の重心が浮き上がってしまうほどの威力がある。若乃花や栃東が得意としていた。頭をつけ背中を丸めて肘を前で使うと、腰や脚も一緒に使えて大きな力となる。もちろん脇は締まる。肘を前に出さずにおっつけようとすると、腕だけの力になり効果はなく、相手の差し手を深く差しこまれてしまう。肘を前に出して背中を丸めると腕と肩甲骨がつながり、背中から腰、脚までつながっていく。毎朝、30kg近いダンベルを肘を前に出して持ってのスリ足が、若松親方の厳しい指導のもと行なわれている。肘を前に出して重いダンベルを持つと、自然アゴは引け背中は丸まり腰が割れる。
平成25年11月3日
高田川部屋大神風(だいかみかぜ)は兵庫県神戸市の出身。174cm100kgちょっとの小兵ながら、今場所は幕下42枚目の番付。同じ小兵の朝天舞の活躍に刺激され7月場所後から出稽古に来るようになった。師匠は元関脇安芸乃島。角界でも一二を争う厳しい稽古で知られ、出稽古も普通は許してくれないらしいが、懇願の末認めてもらっての高砂部屋出稽古。三段目に落ちていたとはいえ、9月場所で6勝1敗の好成績を上げたおかげか、九州場所でも番付発表後毎日出稽古に来ている。10年目を迎えるベテランだが、「虎の穴」的若松式トレーニングでヒーヒー汗を流し、稽古で砂にまみれている。他部屋ながら今場所も活躍を期待したい。
平成25年11月4日
「♪土俵のヤ~ 砂つけて~ 男をみがき♪」は、甚句の前唄だが、砂にまみれ、汗にまみれて強くなっていく。汗まみれで土俵に転がされると、土俵の土と砂が入りまじって体になすりつき、タオルではらっただけでは取れない。稽古後ちゃんこの手伝いがある新弟子は、すぐには風呂に入れないので、九州場所の寒いときでもマワシを締めたまま四つん這いになって、ホースで流してもらう。動物園のゾウやカバの水浴びを彷彿させるような光景は、初めて目にする人にとっては新鮮な面白みがあるよう。汗まみれで砂にまみれ泥にまみれて、肌も磨かれていく。
平成25年11月5日
平成17年46歳の若さで逝去された杉浦日向子氏は、漫画家でありつつ江戸風俗研究家としての著作も数多い。テレビでもNHK「コメディお江戸でござる」に出演し「おもしろ江戸話」を楽しく解説して人気を博した。江戸話のなかには、相撲の話も折折出てくるが、江戸時代力士は、鳶の頭、与力と共に、「江戸の三男」と呼ばれ女性にもたいそうもてたそう。大きくて逞しいのも理由のひとつではあるが、力士の肌がきめ細やかできれいなのが、江戸時代は観戦できなかった女性の想像力をかきたて、人気に拍車をかけたという。
平成25年11月8日
小春日和の福岡成道寺。稽古で汗に濡れたマワシは参道の両脇に干される。そこへやってきたお散歩中の犬。飼い主に引っ張られ、大きな昆布を広げたように干してあるマワシの間を歩いていたが、ふとあるマワシの前で立ち止まり、クンクン。そのまま気を失ったように、バタッとマワシの上に倒れてしまった。飼い主が引っ張り上げると、起きてまた、クンクン。そしてまた、バタッ。ふたたび起き上がって、クンクン。そしてまた、バタッ。クンクンとバタッを3回繰り返し、恍惚の表情(?)で散歩に戻っていった。犬にとって禁断の匂いだったのであろうか。昨晩、あべやすみさん司会のもと、ニューオータニ博多にてカラオケや相撲甚句、抽選会等で賑やかに高砂部屋全力士激励パーティー。
平成25年11月9日
今年3月場所入門の朝西村と朝上野。一昨日のパーティーを前に初めてちょん髷を結った。初めてちょん髷を結うと、兄弟子に「お蔭さんでちょん髷結うことができました」と挨拶して回り、コンパチ(デコピン)を入れられご祝儀をいただく。コンパチを入れるのも久しぶりで(朝興貴以来)嬉しい半面、経済的に厳しい九州場所中かつ二人同時なのは、兄弟子たちにとって痛い出費。その分コンパチが強くなったり、頭突きに変わったりと、新弟子にとっても痛みを伴ったお祝い。触れ太鼓が初日の取組を呼び上げ、明日から一年納めの九州場所。
平成25年11月10日
ちょん髷を結うと、けっこう顔つきが変わる。三段目50枚目台まで番付を上げてきたお笑いの街大阪出身の朝西村。ザンバラの時には顔についてあまり言われることがなかったが、ちょん髷を結った瞬間から、「顔が長い」だの「似合わない」だの「ブサイク」だの、顔だけで笑いを取れるようになった。逆に朝上野の方は、思ったより似合うとおおむね好評で、早速お母さんに写メを送ったそう。今日初日の朝西村、ちょん髷のショックが大きかったのか、ブサイクな相撲で黒星。朝から雨の九州場所初日。成績も2勝4敗と湿っぽいスタート。
平成25年11月11日
国際センター正面通路には、九州・山口現役力士パネル展が開催されている。出身現役力士129人の顔写真パネル(関取は化粧回し姿)が、県別に番付順に飾られていて、最も多いのが鹿児島県。その鹿児島県出身力士の中に朝ノ島の笑顔の写真もある。鹿児島県出身力士30数名のうち15名は奄美出身力士。逆に出身力士が少ないのは、沖縄、佐賀の両県。冬到来の2日目。今日勝ったのは朝天舞ひとりと、高砂部屋成績も冷え込みが厳しい2日目。
平成25年11月12日
物言いがつくと、土俵を下りて花道のところで審判団の協議を待つ。軍配が自分に上がっていると軍配通りで終わってくれと願うし、相手に上がっていると取り直しになってくれと祈る。軍配がどっちに上がったかわからないときもある。期待と不安が入り交った緊張のときである。ときに、審判の声が耳に入ってくることもある。電車道で相手を押し出した朝天舞だが、土俵際で叩かれて軍配は相手に。ちょっと協議が長引いたが、行司軍配差し違えでの2勝目。こういう際どい相撲をものにしていくと、どんどん調子も上がってくる。4勝4敗と初めて五分の成績。
平成25年11月13日
朝弁慶、上手を引いて攻め込むも土俵際で逆転の下手投げを食って2連敗。ここ一年程、ようやく稽古を休むほどの怪我病気をしなくなってきたが、まだ膝や腰に痛みを抱えたままの土俵がつづく。そんな中でも、今場所は幕下27枚目と自己最高位まで番付を上げてきているから、可能性をまだまだ秘めているといえる。どんどん対戦相手の力量もあがってくるから、これまで以上に体のケアや稽古に臨むための丁寧な準備運動が必要になってくる。それを自分の意志でやらなければならない。しかし、若い時や体の大きな力士はそうなりがちなのだが、なかなかその気になってくれない。引退するとよくわかるのだが・・・今のうちにその気にならなければ本当にもったいない。
平成25年11月14日
本名が大介の朝上野、190cmの長身でもあり「大ちゃん」と呼ばれている。何でも食べそうな大きな体のクセして、トウガラシやワサビはもちろん、カレーまで辛いものが大の苦手。おまけに歯磨き粉まで大人用はダメだという徹底ぶり。5月場所頃までは、月に2,3度は「あのぉ・・・あとで相談したいことがあるんですがぁ・・・」と、「ドキッ」とすることの連続であったが、ようやく部屋の生活にも慣れ、個性的なキャラを発揮するようになってきた。減り続けていた体重(30kg減)も減り止まりして、1,2kg増えてきたよう。今日で2勝目。6勝して一気に三段目昇進をきめたいところ。<5iv>
平成25年11月15日
あまり知られていないが、終戦後奄美も沖縄と同じく米軍統治下におかれた。日本復帰が叶ったのは昭和28年12月25日。今年、ちょうど復帰60周年を迎える。復帰の年の昭和28年、5代目高砂親方の朝潮は関脇に昇進。復帰運動のシンボル的存在として島民の期待を集めていた。復帰後、それまで神戸になっていた出身地を鹿児島県徳之島と変え、大関横綱へと登っていく。奄美の人が相撲へかける想いは、その頃からずっとつづいている。現在奄美出身力士は15人。何度も書いているが人口比率でいうと世界一の数である。先月渋谷で行なわれた奄美復帰60周年記念式典では舞台上で奄美力出身力士紹介が行われ、復帰60周年を祝う甚句も披露された。奄美徳之島出身の朝ノ島2勝目。入門9年目、そろそろ三段目昇進を果たしたい。
平成25年11月16日
後の横綱朝潮こと19歳の米川青年が入門したのは、徳之島が米軍統治下だった昭和23年2月のこと。密航して淡路島に渡り、神戸の親戚の家へ身を寄せて大相撲入門の機をうかがった。密航を手助けした同い年で親戚の元校長先生が密航の様子を記している。南国とはいえ2月の真っ暗な寒い海に、衣服を頭に結びつけ褌一つで飛び込み、沖に待つ船に向かった。その年の10月初土俵。負越し知らずで2年で十両に上がった。大子錦、朝弁慶、4連敗での負越し。
平成25年11月17日
昭和23年は10月に大阪で秋場所が開催された。戦後初の大阪場所として、大阪市福島公園内に建てられた仮設国技館で10月15日~25日までの11日間興業。高砂部屋に入門したのは9月頃なのであろうか。戦後間もない混沌期、食料事情も生活環境も悪かったようで、ご飯はどんぶり一杯もりきり、風呂はドラム缶だったという。当時の高砂部屋は、横綱前田山が現役のまま4代目高砂となる二枚鑑札。神戸で面倒をみていた親戚は、学生相撲で親交のあった笠置山の出羽ノ海部屋へと考えていたそうだが、前田山の強引なスカウトで高砂部屋入門となった。朝興貴、朝西村、星を五分に戻すも、朝乃土佐3人目の負越し。
平成25年11月18日
今日から後半戦だが、寒風吹きすさぶ福岡。場所前や場所が始まってからも、部屋に稽古見学に来たお客さんから「今年はみなさん気合いがはいってますね~」という声をよく聞いた。かなりいい稽古を積んで場所に臨んでいるのだが、なかなか白星に結びつかない。今日また神山の負越しが決まり、9日目を終わって勝越しゼロ、負越し4人。それでも、「稽古はうそをつかない」というように、くさらず、あきらめず、稽古をくり返していけば、後半戦もしくは来場所へとつながってくることであろう。朝弁慶、朝乃土佐にようやく初日。
平成25年11月20日
全勝するのは難しいことだが、全敗するのもかなり難しいこと。長年土俵に上がっている力士でも、そうそう経験できるものではない。それをすでに4回も経験しているのが大子錦。今日も弱点のアゴを突っ張られて6連敗。4年ぶり5回目となる全敗記録更新なるか、内内では密かに注目を集めている。11日目にして朝上野が今場所初の勝越し。明日、朝天舞、朝西村が勝越しをかける。
平成25年11月21日
相撲場には和服が似合う。九州場所よく話題にのぼるのが、西の花道横の桝席(画面右側)に座る和服の女性。一度日刊スポーツでも紹介されたように、中洲のスナックのママで、子供のころからの相撲ファンだそうで、自分で桝席を買っての15日間の観戦。毎年の風物詩になっていてお客さんに記念撮影をせがまれることも多々あるようで、相撲場の風情をたかめてくれている。両国国技館九月場所で大好評だった和装day、新年初場所も2日目と8日目に開催されるようです。初場所は和装で国技館へお出かけ下さい。朝天舞、朝西村勝越しならず。いまだ勝越しは朝上野のみ。
平成25年11月22日
幕下以下の取組は、基本的に同じ星同士で対戦する。全敗は全敗同士。6連敗だった大子錦、三段目の全敗力士との対戦で、久しぶりの三段目の土俵。あっさり負けて5回目の全敗を記録。なかなかない記録だと思ったが、上には上がいるもので、最高は8場所の全敗記録。つづいて2位が7場所、3位が6場所で、全敗5場所は4位タイでしかない。明日14日目朝ノ島、朝天舞が勝越しをかけた一番。
平成25年11月24日
薄日差す穏やかな千秋楽。大きなトロ箱で今年3本目のアラが届く。20kg超はあり、捌く前に大子錦に抱えてもらって記念撮影。ぬめりがあるので、シャツを汚さぬよう体から離して持つのはけっこう力がいる。写真を撮り終わり、トロ箱にしまおうとする時バランスを崩して膝から転げてしまった大子錦。すかさず「アラの勝ち~」と勝名乗りが上がる。これで8連敗目となったが、おいしいアラ鍋が食べられるのも名ちゃんこ長大子錦のおかげである。朝赤龍、相手を寄りたてるも、外掛けにいった足が勇み足となり9敗目。午後6時半より博多駅東八仙閣にて千秋楽打上げパーティー。
平成25年11月29日
千秋楽翌日の月曜日から場所休み(稽古が休み)。火曜日は地元唐人町商店街でちゃんこ祭り。毎年恒例となっていて年々参加者が増え、今年はちゃんこ800食超。毎日後片付けや荷造りをしながら幼稚園や老人ホームの慰問などもあり、地方場所の場所後は何かと忙しい。明日、家財道具一式を大牟田の倉庫に引っ越しして、明後日日曜日に帰京。巡業(朝赤龍と付人朝ノ島)は、12月1日日曜日が小倉。2日月曜から飯塚、鳥栖、大分、熊本とまわって、5日に熊本から帰京。
平成25年11月30日
歩くのが苦手なお相撲さんにとって自転車は必需品。東京ではもちろん、地方場所でもそれぞれの場所毎に自転車を保有している。名古屋や大阪は、宿舎のプレハブや稽古場に自転車を入れておけるのだが、九州場所ではお寺に残しておけないため、自転車もトラックに積んでの大牟田まで引っ越し。十数台の自転車を山積みにしたトラックが高速を走る様は、リサイクル業者のよう。下ろすとき、ハンドルやペダル、スポークが絡まり合って難儀するが、そこは190cmの朝上野が荷台の上に登って引っ張り上げて無事終了。引っ越しが終わると、九州場所の仕事もほぼ完了となる。
平成25年12月1日
あいにくの小雨の朝。20組ほどの貸布団をひきとってもらい、残った荷物を稽古場横の風呂場にしまい、稽古場を駐車場の状態にもどし、境内やトイレを掃除して帰京の準備完了。藁巣坊で昼食の後、お寺さんにご挨拶をして、今年も大活躍のゴーヤーマンに送ってもらい空港へ。国際マラソンの準備とも重なって何となくざわついた感じの福岡市内。東京に帰れる嬉しさの半面、一月半過ごした福岡の街を離れるのは、幾ばくかの寂しさもある。今日から師走。九州場所が終わると今年も残りわずか。
平成25年12月5日
三月入門して負越しなしで三段目中位まで番付を上げてきた朝西村。九州場所12日目の勝越しをかけた一番で膝を痛め休場。初めての負越しの場所となった。もともと学生時代に痛めていた箇所で、復帰までは少し時間がかかるかもしれない。大変残念なことだが、怪我はいろいろなことを学ぶチャンスだともいえる。しっかり考え、しっかり治して、大成へのステップとしてほしい。横綱曙も、怪我がいろいろなことを教えてくれたと、よく言っていた。
平成25年12月7日
「相撲にケガはつきもの」と、昔からよく言われるが、しないにこしたことはない。どういう場合にケガにつながるのだろうか。相撲でのケガは(他のスポーツでも同様だが)、ヒザ、肩、足首、手首、などの関節のケガが第一にあげられる。あと肉離れや、打撲などによる筋肉や骨の損傷。脊椎や首、腰部の異常や痛みなど。すべて、ケガをする箇所に無理な力が加わることによる。関節や筋肉が耐えられる力には限度がある。
平成25年12月10日
骨は縦(長軸)方向には大きな力にも耐えられる。関節も同じで、まっすぐ力が加わるぶんには、膝も足首も痛めることはない。少しでも角度がついて、斜め方向から力が加わると、関節の一部分に大きな力が加わり、捻挫や、靭帯が伸ばす、断裂と、ケガが大きくなっていく。どんな力に対しても、骨の並びをまっすぐそろえて受ける、力を出すことが、ケガをしないためのコツ(骨)になる。午後からインフルエンザ予防接種。
平成25年12月11日
激しくぶつかり合い、激しく動く中で骨の並びをそろえるには、どうすればいいのであろう。頭で考えて動かしていたのでは間に合わない。無意識の下で動かせてはじめて対応できる。最適な骨の構えを、最適な骨のポジジョンを、体が覚えていてこそ骨の並びをそろえられる。最適な骨の構えを体が覚えるために「腰割り」や「四股」があるのだと思う。全身に意識を張り巡らし、全身を使って踏まなければならない。
平成25年12月12日
陸上200mでロンドンオリンピック出場の飯塚将太選手が立教大学相撲部員2人と共に稽古に参加。四股やスリ足、ぶつかり稽古を体験。飯塚選手は、現在中央大学4年生で100mは10秒22、200mは20秒21の記録を持つ。陸上部のコーチが、四股やスリ足に興味をもってくれて今日の体験入門につながった。生まれて初めて踏むというわりには、体幹がしっかりして体のバランスが抜群によく、様になっている。記録更新へのきっかけになってくれれば嬉しい限りである。
平成25年12月18日
九重部屋から7,8人出稽古に来る。いつもは朝赤龍ひとりだけの白マワシだが、千代皇、千代丸の白マワシも加わり、幕下の千代翔馬、朝天舞、朝弁慶を加えた申し合いで熱気溢れる稽古場となった。昨日の高砂部屋激励会&クリスマスパーティー、ものまねや歌、踊り、風船パフォーマンスと盛りだくさんのゲストや大子錦サンタによる子供たちへのプレゼント、抽選会で盛り上り、新年が高砂部屋にとって皆様にとって良き年となりますよう祝した。
平成25年12月20日
横綱双葉山が亡くなられたのは昭和43年12月16日。理事長在任中56歳という若さであった。命日にあたる12月16日、渋谷宇田川町「かわなか」で、お孫さんである穐吉美羽さんによる『双葉山物語』の朗読会がおこなわれた。川中美幸さんの生歌で、双葉山が活躍した昭和初期~戦中戦後にかけてのヒット曲をはさみながら双葉山の相撲人生を、写真や映像と共にお孫さんの語りでたどっていく。肉親が語る双葉山は、得も言われぬ趣がある。
平成25年12月22日
年末恒例のもちつき大会。稽古場にブルーシートを敷いて、240kgのもち米を3つの臼で、ドスンドスン、ペタンペタンとつきあげる。お餅を食べた後には2階の大部屋に上がってちゃんこ。みなさん、お餅のようなお腹になって満足げ。
平成25年12月23日
読売新聞朝刊で連載の「時代の証言者」は、12月4日から桂文珍師匠。13回目の今日は、「初弟子はオモロイ男」と題して一番弟子の桂楽珍の話。入門後しばらくしてのこと、彼女と同棲を始めたアパートに田舎から突然両親が訪ねてきて、「このお嬢さんはどなたさん?」と聞かれ、動揺のあまり「妹や!」と答えてしまったエピソードなどが語られているが、楽珍は徳之島高校の2年後輩。平成20年5月場所入門して元ホスト力士で話題になった朝山下の父親でもある。明日、初場所番付発表。
平成25年12月25日
昨日が新年初場所番付発表。初場所の番付は、お年賀の意味もあり(年内には出すが)、名前のハンコの上に謹賀新年や賀正というハンコも押される。ちなみに番付に自分の名前のハンコを押せるのは資格者(力士は十両以上、裏方も十両格以上)のみのこと。作業が倍になるので、いつもの場所より時間がかかるのだが、体験入門中の中学3年生のお手伝いもあっていつもより早く終える。高砂部屋での今場所一番の話題は、何といっても大子錦の序ノ口落ち。入門以来16年ぶりの序ノ口だそう。
平成25年12月27日
冬休みを利用して名古屋から中学3年生が2人体験入門に来ている。一人は若松親方が地元一宮からスカウトしてきた子で、柔道と相撲の経験も少しある。もう一人は、名古屋場所で部屋によく来ている方の関係の子で、野球部で頑張ってきた。二人共夏休みにも来て部屋の雰囲気を気にいってくれ、入門を決意してくれている。入門を決意するのは本人や家族の意思だが、それもご縁あってのこと。せっかく生まれた縁を大事に頑張っていってもらいたい。
平成25年12月28日
元ホスト力士こと朝山下が入門したのは楽珍との縁。大阪場所の折には同郷のよしみでよく食事をしていたが、その楽珍から電話がかかってきた。「先輩!年は20歳で身長は182cmあるんですが、58kgしかない若者がお相撲さんになりたい、言うてますけど・・・どないでっしゃろ?」「まあ、本人にやる気さえあれば体重は食えば太るから」ということで、会うことになった。会ってびっくり!長い髪をツンツンにとんがらし、ギンギラの耳飾り、派手な服装に靴は長くとんがった先がまるまっている。息子だという。「本当にやる気があるのか?」「はい!」「厳しいぞ」「頑張ります」「じゃあ、その髪を切って坊主にしてきたら親方に紹介してやるよ」翌日、坊主になって普通の服装で部屋にやってきた。
平成25年12月29日
稽古納め。通常通り7時から10時半頃まで稽古して、稽古終了後裏方も全員稽古場に集合。朝赤龍の三本締めで平成25年度を締める。その後、おかみさんからお年玉をいただき、ちゃんこを食べ掃除をして解散となる。朝乃丈、朝ノ島の二人は部屋に残ってお正月を迎える。新年2日に集合して3日から稽古始め。1月12日(日)が初場所初日。