過去の日記

平成26年<平成25年  平成27年>

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平成26年1月2日
あけましておめでとうございます
昨年初場所は、十両6枚目だった朝赤龍が足首のケガで初日から休場、135年ぶりの関取消滅の危機かという状況で始まりましたが、一進一退をくり返しながらも関取の座を守り、つづく朝天舞、朝弁慶が関取を狙える位置近くまで番付を上げてきています。今年こそは、新関取誕生の年としたいものです。
新しい年が、高砂部屋にとって、大相撲にとって、皆様にとって、佳き年となりますようお祈りいたしております。本年もよろしくお願い申し上げます。
平成26年1月3日
平成26年稽古始め。年頭につき、力士はもちろん、行司、呼出し、床山、・・・裏方も全員顔を出して、「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」と、挨拶を交わす。今日は四股とぶつかりのみで、稽古終了後、全員バスにて5代目が眠る西麻布永平寺別院長谷寺と6代目の六本木長耀寺へお墓参り。長耀寺で法要を営み帰路につく。明日から本格的な稽古再開。
平成26年1月4日
入門の際には、スカウト、周囲の勧め、自ら志願して、・・・様々な場合があるが、大正時代の強豪横綱太刀山の入門は、国家権力を動員してまでという、古今例がない大騒動となった。太刀山は富山の生まれ。その体格と剛力が評判となり、近くに巡業に来た初代海山の友綱親方が噂を聞きつけ、立行司木村庄之助をスカウトに行かせたが、本人は全くその気なし。あきらめきれない友綱は、同郷で部屋の後援会長とでもいうべき板垣退助(10月17日)に相談。板垣は早速、時の内務大臣西郷従道を訪ね、富山県知事に説得の訓令。驚いた知事は、警部長、郡長を召集して「相撲入門勧誘指令」。実家には、村長や郡長、警察署長らが連日説得に訪れたという。日清戦争が終わり、日露開戦へと向かいつつあった明治31年夏のこと。
平成26年1月5日
連日の説得にも首を縦に振らない。とうとう知事が出てきて頼み込んだ。「どうか私の顔を立てて、板垣さんに直接会って、ことわってくれ」後に太刀山となる老本弥次郎青年も、しぶしぶ了承して東京へ。本所横網町の友綱部屋に泊まり、翌日迎えに来た黒塗りの馬車で築地へ向かい、板垣伯爵と西郷内相と面会。天下の名士二人に説得され、断り切れず入門の運びとなった。喜んだ板垣は、名峰立山にちなんで「太刀山峰右衛門」と名付けた。明治32年2月太刀山22歳のこと。相馬基著『相撲五十年』(時事通信社)による。
平成26年1月6日
東関部屋が出稽古に来る。若松部屋時代は、合同合宿を行ったり一門同士お互い行来がよくあったが、高砂部屋になってからは久しぶりのこと。元潮丸の現師匠や元高見盛の振分親方も指導に来て上がり座敷も賑やかな稽古場。明日1月7日(火)朝7時半頃~NHK『おはよう日本』の「けんコン!」というコーナーで、「シコトレ」が紹介されます。年末の高砂部屋稽古風景や土俵祭の様子も放送される予定です。
平成26年1月7日
相馬基『相撲五十年』には横綱常陸山の入門の経緯も出ている。祖父は水戸藩剣道指南役を務める名門の家柄。水戸中学3年のときに叔父を頼って上京。叔父は、村上もとか『龍ーRON-』にも登場する明治の剣聖内藤高治。ちなみに常陸山も、のちに角聖と呼ばれるようになる。この叔父の勧めで力士志願するも父親が大反対。父親を説得したのは従兄弟の渡辺治。渡辺治は、衆議院議員であり大阪毎日新聞と東京朝野新聞の社長兼主筆でもあった。取り巻く顔触れが何ともすごい。叔父や従兄弟の紹介で同郷の出羽ノ海運右衛門の弟子となった。明治24年春、数え年18歳であった。
平成26年1月8日
第27代横綱栃木山は、19歳のとき出羽ノ海部屋に力士志願の手紙を出しての入門だった。横綱常陸山一行は巡業中だったものの、病気の為部屋で静養中だった小結小常陸が面会して入門。ちょうど部屋に同郷(栃木)の宇都宮(最高位前頭2枚目、9代目九重)がいたので、一緒に巡業地へ行くことになった。二人で汽車に乗り込み品川を通るとき、栃木山の横田守也青年が「ここどこだね」と尋ね、宇都宮が「品川だ」と答えると、横田青年は「品川って川かね。あんれまぁ、東京って川まででっけえんだなぁ・・・」と感嘆したという。宇都宮は話のうまい人で、後々までこの話を面白おかしく語っていたという。今日も東関部屋との合同稽古。
平成26年1月9日
現在緑1丁目住まいだが、清澄通りの向かい側にバーがある。時折行くが、店主は生まれも育ちも両国で、祖父が元力士だったという。宇都宮という力士だったそうで、栃木山の兄弟子の宇都宮その人に他ならない。宇都宮は引退後、九重親方となって協会の理事も務めている。話好きで話が面白く、相撲記者たちにとっては、大正時代の相撲の語り部だったという。出羽ノ海部屋所属であったが、栃木山の春日野と終生手が合ったようで、よく春日野部屋へ顔を出していたという。祖父譲りの語り上手な店主がつくるこだわりのスモーク品のおつまみや食事の数々は、絶品もの。
平成26年1月10日
高砂部屋開祖初代高砂浦五郎の入門については、ベースボールマガジン社『相撲』誌で連載していた小島貞二「高砂浦五郎伝」に詳しい。初代高砂浦五郎は、本名山崎伊之助で千葉県東金市の農家の生まれ。妻と子一人の一介の水呑み百姓で、生活は貧しく悶々とした日々を過ごしながらも、近隣で行なわれる宮相撲に出ることだけが唯一のストレス解消だった。そんな中、江戸相撲の巡業が近くで行なわれ幕下力士と対戦して勝ち、力士への夢を膨らませた。母や姉の大反対を押し切り、半ば妻子を捨てて阿武松部屋の門を叩いた。幕末の安政6年、満21歳のときであった。取組編成会議。初日は8時45分開始で序ノ口の土俵に大子錦が上がり、十両朝赤龍は大道との対戦。稀勢の里には豊ノ島、白鵬には栃煌山。
平成26年1月11日
櫓太鼓の高く乾いた響きは、冬の寒空によく似合う。乾燥した空気が音をより響かせてくれるのであろう、夏場の音よりも強く響くように思える。触れ太鼓が初日の割り(取組)を呼び上げ、明日が初日。三段目朝西村は、膝の怪我の為休場。
平成26年1月12日
富山県出身の朝上野、小学校6年生で183cmの130kgあった。ランドセルは背負えないから、手に持って歩いて学校に行ったという。、小学校4年生から相撲をはじめ、中学の相撲部の監督が、近大で師匠の後輩だった縁での入門。高校でも相撲部で、高校卒業後、専門学校へ通ったり、他の部屋からのスカウトもあったりと少し遠回りしたが、最終的には初めの縁を大事にしてくれた。減り続けていた体重も増えつつあり、目標の三段目昇進へ白星スタート。朝弁慶が勇み足で黒星となるも、6勝1敗と好調の初場所初日。
平成26年1月13日
兵庫県高砂市出身の朝興貴、中学高校と柔道部に所属。高校卒業後は警察官志望で、兵庫県警を受検。しかしながら採用とはならず、どうしようかと悩んでいたところへ柔道部の顧問から話がきて、高砂部屋入門となった。顧問の知人が、おかみさんの弟であるコノミヤ社長と付合いがあった縁による。本人いわく「他に行くところがなかったもんで・・・」ということだが、5年辛抱して序二段優勝も経験。三段目復帰、さらに「今年の目標は幕下」と前向きな気持ちも出てきた。今日も3勝1敗と好調な成人の日2日目。成人式を迎えた朝上野、おかみさんから下駄のプレゼント。(三段目だったら雪駄をもらえたのだが)
平成26年1月14日
今年こそは関取昇進の夢を果たしたい朝弁慶。毎年夏に行なっている平塚合宿が縁での入門。地元の高校で柔道をやっていて、大きな体を見込まれて後援会関係者が親方に紹介してくれた。はじめのうち本人はかなり嫌がっていたようだが、親方が何度か足を運び、親方の「強くなれば、お父さんお母さんを楽にできるぞ」という言葉に、入門を決心したという。3日目を終わって17勝3敗。勝率8割5分と絶好調な初場所のスタート。
平成26年1月15日
昨年9月場所で幕下8枚目まで番付を上げた朝天舞は宮城県石巻の出身。高校で柔道と空手をやっていて、宮城県在住の親方の知人の紹介での入門。この方の紹介で宮城県から3人ほど入門してきたが、全うしているのは朝天舞のみ。各地のスカウト部長とでもいうべきこういう方の存在は誠にありがたい。入門15年目、地元の期待を背に関取挑戦がつづくが、今日は立合い失敗で1勝1敗の成績。4日目まで、毎日一人ずつ負けている。いや、一人以外はみんな勝っていることがちょっと話題になっている。
平成26年1月16日
現役時代、母校の徳之島亀津中学校に行った際、校長先生が柔道部に大きな子がいるからと紹介してくれたのが朝ノ島だった。「お相撲さんにならないか?」と誘ってみると、まんざらでもない雰囲気。「一度東京見物に来いよ」と、休みを利用して体験入門。卒業後入門に至った。怪我で2年間のブランクがあり再就職先を考えていたのだが、復帰。やがて入門10年目を迎えるが、そろそろ三段目昇進へスパートをかけてもらいたい。今日勝って3連勝。
平成26年1月18日
朝乃土佐は、相撲どころ高知県の出身。小学生の頃から全国大会で活躍し高校は地元の明徳義塾高校。一年生の夏にモンゴルから留学生が2人やってきた。後の朝青龍と朝赤龍で、朝青龍のドルジ少年が一つ年上、朝赤龍のダシ少年は朝乃土佐と同い年。翌年12月朝青龍が若松部屋入門。明徳義塾相撲部監督が師匠と近大で同級生だった縁による。一年後、朝青龍の後を追うように、朝赤龍と朝乃土佐の二人が入門した。入門から15年目の初場所、4連勝での勝越し決定。朝ノ島も4連勝での勝越し。
平成26年1月19日
三段目朝乃丈も高知県の出身。こちらも小学生から相撲を始め、安芸中学校では栃煌山と共に全国大会出場の経験もある。地元海洋高校でも相撲をつづけていたが事情があって学校をやめてしばらくした頃、師匠へつないでくれた方があり、入門することとなった。本人いわく「あんまり覚えてないっす」ということだが、11年目を迎え、あと1番で勝越しの3勝目。自己最高位更新の可能性も高い。朝興貴も4連勝での勝越し。今日も3勝1敗と好調で、中日を終え勝率7割3分と、全員勝越しの期待もかかる。
平成26年1月21日
朝赤龍は、朝青龍のちょうど一年後の入門。当時外国籍の力士は、部屋に2人まで全体で40人という枠があった。。協会事務所に朝赤龍の新弟子検査書類を提出したら、事務員が受け付けられないと言う。40人枠を撤廃する代わりに各部屋一人しか入門できない規約に変更になったとのこと。ビックリして部屋に戻ったが、規約が変更される前に理事会で認められていたことがわかって一安心。再度提出して受理され無事入門できた。以後現在まで、各部屋一人のみという規約がつづいている。昨日の朝ノ島につづき朝興貴、朝乃土佐も5戦全勝。朝上野、朝乃丈勝越し。
平成26年1月22日
神山は川崎市の出身で、実家が青果店を営んでいた。中学で相撲をやっていて中村部屋からもスカウトを受けたそうだが、実家のお客さんとのご縁で高砂部屋入門。結果論でしかないが、高砂部屋のカラーにぴったりのお相撲さんだといえるのかもしれない。入門17年、ベテランの味を生かしてちゃんこ長大子錦の不調時には、代理でちゃんこ長を務めている。勝越せば三段目復帰となるが、今日負けて3勝3敗。最後の一番に三段目復帰をかける。朝弁慶勝越し。朝ノ島、朝乃土佐6連勝ならず。朝天舞負越し。
平成26年1月23日
朝興貴6連勝。今日は三段目の全勝力士との対戦だったが、立合いから突き放して突っ張って電車道での6勝目。一昨年九州場所(序二段優勝)の再現なるかという快進撃。前回は47枚目だったが、今回は4枚目。あと一番勝てば、三段目上位へ一気に躍進となる。期待の一番は明日13日目、元幕下力士との対戦。大子錦、今場所7人目の勝越し。
平成26年1月24日
朝興貴、三段目の全勝力士に勝って7戦全勝。千秋楽に行なわれる優勝決定戦で2回目の序二段優勝を目指す。決定戦の相手も実績は上だが、最高位は三段目4枚目。今日勝った相手は幕下中堅まで上がった力士だったから、可能性は高い。十両7枚目の朝赤龍、嬉しい勝越し。残り2日間も白星を重ね幕内復帰へ向けての足がかりとしたい。膝の怪我で初日から休場していた朝西村、最後の一番に登場するも黒星で初場所を終える。
平成26年1月27日
昨日が初場所千秋楽。十両取組後に各段の優勝決定戦が行なわれ、序二段優勝決定戦に朝興貴登場。前回より緊張感が高かったようなのと、相手がいい相撲を取ったこともあり完敗。2回目の優勝ならず。ただ、7戦全勝の成績は大きな自信になったであろう。あまり力を出せなっかった稽古場でも、腕が良く伸び前で突っ張れるようになり、朝天舞にもめが出るようになってきた。朝弁慶5勝目で、来場所の自己最高位更新が確実。朝赤龍9勝目。
平成26年2月3日
今朝の読売の社説でも取り上げられているが、相撲協会が公益財団法人の認定を受けた。新制度となり、今までの財団法人からの移行で、これまで通りに税の優遇措置を受けられることになった。財団法人としての歴史は、大正14年12月28日にさかのぼる。小さな大横綱栃木山が引退し、大正12年9月の関東大震災で全焼した国技館が再建され、大阪相撲と合併して大日本相撲協会として出発したときのことである。節分会。師匠は鎌倉長谷寺と茨城大法八幡宮、朝赤龍は静岡での豆まき。
平成26年2月10日
公益財団法人となると税制面で優遇措置を受けられる。本場所や巡業が公益目的事業と見なされ非課税となる。しかしながら、相撲協会を構成する相撲部屋や親方、関取は、それぞれ個人事業主としての所得税、住民税は支払う。また給料はなく、場所毎の場所手当てのみの若い衆も源泉徴収(年末調整である程度戻ってはくるが)と住民税の支払いはあり、住民税の支払いには結構みんな苦労している。
平成26年2月13日
場所毎に協会から支給される場所手当は、現在幕下15万円、三段目10万円、序二段8万円、序ノ口7万円の金額。地方場所は全額支給だが、東京場所では上記金額から1万5千円~3万円源泉された金額になる。さらに、その中から鬢付け油代、番付代、若者会費、強制貯金1万円等が差っ引かれた分が手元に残る。昔と違って最近は、携帯電話代の支払いなどもあり、ある程度兄弟子になっても厳しい状況のよう。
平成26年2月16日
先発隊5人(大子錦、朝弁慶、朝興貴、朝上野、松田マネージャー)大阪久成寺入り。そこへ地元大阪で膝の治療中の朝西村も合流して6人での先発。とりあえず今日は部屋にゴザを敷いて寝られる部屋作り。晩飯は、毎年恒例のちゃんこ朝潮鴫野店。地下鉄に乗ると、大阪のおっちゃんが、「お相撲さん大きいなぁ、生で初めてみたわぁ!ごっついなぁ!」と嬉しそうに話しかけてくる。それを座って見ている大阪のおばちゃんもニコニコ顔。こういう雰囲気も大阪場所ならではのこと。
平成26年2月18日
慶応大学教授の中島隆信氏は、大相撲ファンとして知られ相撲協会のガバナンス委員会の副座長も務めた。専門の経済学の立場から大相撲を語った『大相撲の経済学』(東洋経済新報社)は、一見特異な世界に思われる大相撲のシステムが、実に伝統的な日本的経営システムで成り立っているということを示唆して非常に興味深い。グローバル化、年金問題、潜在失業、・・・現在の日本社会の問題を先取りしたような大相撲の問題点や、これからの在り方も浮かび上がってくる。呼出し利樹之丞と邦夫も大阪入り。明日から一門各部屋の土俵築。
平成26年2月19日
中島教授によると、個人競技だと思われがちな大相撲界において、力士は完全な会社人間だという。序章で、大相撲の力士たちは実に年功的な賃金体系に守られ、定年65歳の終身雇用は日本的経営組織で、年寄株不足は日本の年金制度の将来を暗示しているようと、述べている。現在の相撲協会に近い組織になって250年余りも続いているのには、経済学的に見てもそれなりに合理的な理由があるのだという。
平成26年2月21日
土俵築。土俵を掘り起こして土をならし、水を撒いて力士がタコで突き固め、呼出しさんがクワの刃で円に切り掘って俵を埋め込み、もう一度タコで突き、タタキで仕上げる。明後日全員大阪入りして24日が番付発表。25日から新しい土俵で稽古がはじまる。
平成26年2月23日
全員大阪入り。三月場所で新弟子検査を受検する名古屋の中学3年生2人も来阪。全員そろって、毎年恒例のコノミヤちゃんこ朝潮徳庵店でのちゃんこ会。大阪後援会の方々とも一年ぶりの再会だけに話の花が咲く。おかみさんのお父さんのコノミヤ芋縄会長も元気な顔を見せ、力士にとっても何よりの激励になる。大阪も厳しい寒さが続く毎日だが、明日が番付発表で浪速の春は大阪場所からの季節到来。
平成26年2月24日
3月場所番付発表。朝赤龍が西十両3枚目。先場所5勝の朝弁慶は自己最高位更新の幕下20枚目。序二段4枚目で7戦全勝の朝興貴は、思ったほど上がらず三段目15枚目。朝乃丈も自己最高位の三段目36枚目。
平成26年2月26日
毎年大阪場所前恒例の学生相撲出身力士を励ます会。以前は、東日本と西日本とが別々に開催していたが、現在は合同での励ます会。高砂部屋からも近畿大学出身の師匠と若松親方、琉球大学出身の松田マネージャー、東海学園大学出身の朝西村と4名が出席。学生相撲出身力士は現在、幕内に12名、十両に10名、幕下以下までを含めた総数は60名余り。関取の3分の一近くを占め、全力士のほぼ一割にものぼる。当初注目の遠藤も出席予定だったため、報道陣も多数詰めかけたが、結局欠席で肩透かし。
平成26年2月27日
春場所新弟子検査は3月1日(土)に行なわれるが、高砂部屋からは二人受検することになっている。共に愛知県の一宮市と北名古屋市の中学3年生で、卒業式を3月6日に控えているからまだ在学中ではあるが、23日の日曜日から大阪宿舎入りして見習い稼業の毎日が早速始まっている。 中3だから若いのは当たり前だが、生年月日を聞くと改めてビックリ!の平成10年生まれ。会話を交わす中で、「一ノ矢さんて、最近まで現役だったんですか?」と聞かれたので、「おう、6年ほど前までな」と答えると、「いまいくつなんですか?」の問いに「53歳」と言うと、「うちのおばあちゃんと変わらないんですね」と、きて、ガックリ!お母さんが33歳で、おばあちゃんが58歳とのこと・・・さもありなん。
平成26年3月2日
昨日新弟子検査が行なわれ、高砂部屋から受検の金井健真君と河西優斗君の二人めでたく合格。二人共愛知県出身で、金井健真君は一宮北部中学3年生で柔道部だが、相撲の試合にも何度も出ている相撲経験者。河西優斗君も同じ愛知県で北名古屋市訓原(くんぱら)中学3年生。こちらは野球部で頑張ってきた。新弟子検査には着物を着ていくが、「着物を着ると、みんなの視線を感じますね!!」と、半分嬉しげで、半分恥ずかしげ。注目される存在であることを肝に銘じて、これからの相撲人生を全うしてもらいたい。昨日が場所前恒例の激励会。1200人近くのお客様に盛大に励ましていただく。
平成26年3月3日
今日から朝弁慶、朝興貴、朝乃丈の3人は近大へ出稽古に。本来毎年一緒に近大に通っていた朝天舞は、部屋残り。その朝天舞、大阪に入る前に網膜剥離になってしまい手術して昨日ようやく退院。残念ながら今場所休場となるが、今日から早速四股やスリ足に汗を流している。ご当所の朝西村も、膝の回復が思わしくなく手術することになり、今場所は休場となる。ぜひ、自分の相撲や身体や動きを見つめ直すいい機会ととらえて、復帰に向けて歩いていってもらいたい。
平成26年3月5日
元朝乃翔の小塚氏がお客さんを連れて部屋へ。小塚氏は、現在大阪の総合物流企業の営業マンとして第一線で活躍しながら会社の相撲部の監督も務めている。現役時代は、ちゃんこよりも喫茶店のランチ派であったが、よかたになった今、「うまい」「うまい」とおかわりまで。引退して、いろいろな経験を積み重ね、ちゃんこ(人生)の味がしみてきたからこその現在の活躍なのであろう。本人は「しがないサラリーマンですから」と謙遜するが、関取経験者としては稀な活躍例なのではなかろうか。
平成26年3月6日
元朝乃翔の小塚氏の紹介で、関西学院大学の宇良(うら)選手が出稽古に来る。宇良選手は171cm85kgと小兵ながら、足取りや反り技を得意として、選抜和歌山大会と西日本選手権で準優勝、世界コンバットゲームス軽量級優勝、全日本選手権ベスト16と、アマ相撲界にキラ星のごとく現われた新星である。小さくても全身を合理的に使った動きは、俊敏かつしなやかで柔らかく、幕下20枚目の朝弁慶とも五分以上の稽古内容。4月から4年生になるが、ぜひ高砂部屋で大相撲界の救世主となってもらいたい逸材である。
平成26年3月9日
風の冷たさは残るものの晴天の春場所初日。2時頃、会場の大阪ボディメーカーコロシアム大阪府立体育館に出向くと、正面玄関前は黒山の人だかり。玄関前の歩道も狭いため、関取衆の入り待ちの相撲ファンの人いきれで熱気むんむん。これも大阪場所ならではのこと。注目の遠藤の取組に満員御礼の館内の興奮も最高潮に達し上々の幕開け。高砂部屋では、ちゃんこ長大子錦が地味に白星を上げるも、朝乃丈、朝赤龍と負けて、1勝2敗のスタート。
平成26年3月10日
宿舎久成寺へ北國新聞社がタニマチの取材に。相撲通には周知のタニマチの語源である谷町筋界隈は、寺町とも呼ばれ、かつては相撲部屋の大阪場所宿舎が軒を連ねていた。昭和36年の雑誌『相撲』によると、谷町筋谷8信号の角の本政寺に大関(当時)大鵬の二所ノ関部屋。谷九の交差点を越えた生国魂神社の先の隆専寺に出羽海部屋、隣の菩提寺に春日野部屋。通り一つ隔てた銀山寺には花籠部屋、その隣の大宝寺に立浪部屋と、お相撲さんであふれかえっていた。ただ現在は、久成寺高砂部屋を残すのみとなってしまっている。雪もちらつくほど冷え込んだ2日目。今日は6勝1敗の好成績。
平成26年3月11日
昭和36年4月号の雑誌『相撲』は、春場所総決算号で、大阪場所宿舎の様子が記されている。この頃は、一門ごとに稽古やちゃんこが行なわれていたようで、隆専寺、菩提寺というお寺に本家出羽海の他、春日野、小野川、三保ケ関の力士ら200人余りが寝起きする、とある。200人余りのちゃんこは、米が三俵、しょう油は一樽が三日に一本、味噌が五日に一本で、この日のちゃんこはスキヤキとの記事。前相撲の朝健真と朝河西、今日が初土俵。
平成26年3月13日
昭和36年『相撲』からの記事を紹介。総勢200人余りの出羽一門のちゃんこ番は8班制。毎朝4時起床で、朝5時半には親方衆も稽古場に顔を出す、とある。谷町筋沿いの本政寺に宿舎を構える二所ノ関部屋は、大関大鵬人気で女性客が絶えなくチャンコ場までのぞきにくるとのこと。一門100人のチャンコは、米一俵、魚はおかみさんが陣頭指揮で買い出しに。前相撲朝健真が初白星。
平成26年3月14日
勝越せば三段目昇進となる序二段11枚目の朝上野、2連勝のスタートだったが、今日は土俵際腰が浮いたところを吊られうっちゃられての負け。巨体力士にありがちなことだが、四股やスリ足で、ついつい腰高になってしまう。「負けて覚える相撲かな」というように、本人も、腰を割ることの大切さが少しは身にしみてわかったよう。明日からの稽古に期待したい。朝弁慶、自己最高位幕下20枚目で2勝1敗と順調な前半戦。
平成26年3月15日
前相撲は原則非公開で、体育館開場の前午前8時20分から行なわれる。ただし、力士の親族は見学できる。朝健真と朝河西の二人は愛知県の出身。名古屋大阪間もずいぶん近くなったので、先日は朝河西の母親が、今日は朝健真の家族が観戦に名古屋から早朝来阪。残念ながら二人共、勝ち名乗りを親に届けることはできなかったが、親子にとって想いで深い一日となったことであろう。前相撲の二人は、9日目に二番出世披露をうけることになっている。
平成26年3月16日
十両格行司の木村朝之助。昨日の取組中、力士との接触を避けようとして無理な体勢で踏ん張ったところ、ふくらはぎから「ブチッ」という音。つづく一番を何とか捌ききったものの(一日2番の捌き)、自慢のふくらはぎが更に太さを増し今日から無念の休場。行司さんにとっても土俵の上は、ある意味危険と隣り合わせの戦いの場である。三段目15枚目の朝興貴。今日の相手は、おやつにミカンを1箱食べるという体重270kg超の大露羅(おおろら)。真っ向勝負の突き合い押し合いで、1分余りの熱戦を制した。地力がついたことを証明する価値ある2勝目。
平成26年3月17日
新序二番出世披露。三段目取組途中午後一時頃に、朝健真、朝河西の二人も朝赤龍関の化粧回しを借りて土俵上で晴れ姿を披露。二番出世の30人が土俵上に蹲踞し、「愛知県出身 高砂部屋 朝健真」「愛知県出身 高砂部屋 朝河西」と、ひとりひとり紹介され、立ち上がって礼をする。全員の紹介が終わったところで行司さんが、「ここに控えおります力士儀にござります、ただ今までは番付外にとらせおきましたるところ、当場所日々成績優秀につき、本日より番付面に差し加えおきまするあいだ、以後、相変わらず御引き立てのほど、ひとえに願い上げ奉ります。」と口上を述べ、行司さんの「起立」「礼」「右」「礼」・・・、と四方に礼をして土俵を下りる。
平成26年3月19日
春場所も後半戦に入りようやく春到来。高砂部屋一同は、大子錦と朝乃丈の二人が負越し。勝越し未だなしと、春まだ来たらず。網膜はく離で休場中の朝天舞、手術後の経過は順調なようで、来場所での捲土重来を期して基礎トレーニングに余念がない。場所後に膝の手術を行う予定の朝西村、こちらは半年、一年後を見据えた復帰への道のりとなる。
平成26年3月24日
10日間の満員御礼が出た春場所、鶴竜の初優勝と横綱昇進で千秋楽となった。土俵入りは、時津風一門の祖横綱双葉山にならい雲龍型となるもよう。さっそく雲龍型だった朝青龍の付人を務めた神山に連絡が入り、春巡業の数日間は綱締めの助っ人に参じることになった。大兄弟子は、こういうときに役に立つ。
平成26年3月25日
春巡業は3月30日(日)の伊勢神宮奉納大相撲から始まる。31日(月)は門真市、4月1日(火)に京都で行ない、一旦帰京。4日(金)が靖国神社。以後、藤沢、富士、前橋と週末毎に関東近郊をまわる。巡業に参加するのは十両朝赤龍と付人一人のみ。いつも朝ノ島が出ていたのだが、今回の春巡業は朝興貴が出ることになった。巡業に出ること自体初めてのことなので、ホッとする場所休みに入ったとはいえ、ドキドキハラハラ、緊張と不安の場所休みを過ごしている。
平成26年3月26日
巡業は慣れてしまえば何ともなくけっこう楽しくもあるが、初巡業のときは勝手がわからず緊張の連続である。巡業会場ではもちろん、移動の列車やバス、宿でも、他の部屋の兄弟子や関取衆、親方衆と一緒で、まずそのことに緊張する。バスの座る位置、宿での風呂や食事の順番、洗濯(コインランドリー)、会場までのバス、明荷の積み下ろし、・・・しきたりや流れを覚えるまでは緊張の毎日で、失敗を重ねながら日々成長してゆく。
平成26年3月27日
明日が新横綱鶴竜の明治神宮土俵入りの為、今日井筒部屋にて綱打ち。雲龍型の綱締めを唯一体験している現役力士である神山、場所休みの月曜日の麻もみから連日の井筒部屋通いで、今日がいよいよ綱打ち本番。糠で揉んで柔らかくした麻を10mほどの長さのキャラコ(上質綿)のまん中にたっぷりと入れ、両端へ麻を巻いたバン線を伸ばし、キャラコで包み、三本よりあわせていく。初めての綱打ちは、紅白のねじり鉢巻きを締め、太鼓の音頭で「ひーふのみ、イチ二ノサン」と、一門の力士、親方衆総出で威勢よく行なう。綱打ちがお祝いであり、お祭りである。
平成26年3月28日
第71代横綱鶴竜は、井筒部屋としては91年ぶりの横綱だという。91年前の横綱は、3代目西ノ海嘉治郎。西ノ海嘉治郎は、初代から3代までみんな横綱で、初代西ノ海は、高砂部屋から独立して井筒部屋を興した。3代とも鹿児島県出身で、途中部屋が途絶えたこともあったが、元関脇鶴ケ嶺の先代(13代目井筒)までは鹿児島県出身力士が多かった。強引に歴史をたどれば、高砂部屋神山が雲龍型綱締めの手伝いに出向くのも、初代西ノ海(7代目井筒)からのご縁といえるのかもしれない。荷物を東京へ送り、明日お昼過ぎに帰京。
平成26年3月29日
初代西ノ海の7代目井筒と8代目井筒(2代目西ノ海)までは高砂一門の色が濃かったのであろうが、9代目(元幕内星甲)は双葉山との縁が深かったようで、戦時中の昭和19年42歳の若さで亡くなると、弟子は双葉山道場に預けられた。その弟子の中から種子島出身元幕内鶴ケ嶺が昭和22年に井筒部屋を再興、10代目井筒となった。10代目井筒親方の息子さんがベースボール・マガジン社『相撲』元編集長の下家義久氏。その後、一時部屋が消滅したり、現解説者の北の富士さんが12代目井筒を名乗ったりもしたが元関脇鶴ケ嶺が13代目井筒を襲名して現在の14代目に引き継がれている。ゴザをはがし掃除機をかけて1ヵ月半お世話になった久成寺を後にして帰京。朝赤龍と朝興貴、利樹之丞、木村悟志は巡業地伊勢へ出発。
平成26年3月31日
今日から稽古再開。新弟子二人は相撲教習所が始まり、早朝5時50分に部屋を出てカランコロンと慣れない下駄で国技館通い。4月24日(木)の番付発表の前日まで教習所通いが続く(土日は休み)。番付発表後は部屋での稽古(番付前も土曜日は部屋での稽古だが)。5月場所前恒例の横綱審議員稽古総見の一般公開は、4月29日(火)午前7時から。
平成26年4月3日
相撲教習所が出来たのは昭和32年10月から。蔵前国技館の頃である。もともとは、昭和30年6月国技館内に“相撲道場”がつくられ、双葉山の時津風親方が指導普及部長として道場の責任者に就任したことに始まるのだそう。昭和32年に時津風理事長が誕生して、相撲道場は“相撲研修所”を経て“相撲教習所”となった。初代所長は、元栃木山の先代春日野親方が就任したという(もりたなるお『相撲百科』瓶俊文庫より)。
平成26年4月5日
入門したのは昭和58年11月場所で、場所後の12月から相撲教習所に通った。教習所は、蔵前国技館を入って右側に、別棟で建っていた。1階が稽古場と風呂場で、2階が教室と教官室。「のたり松太郎」には、蔵前国技館の相撲教習所が当時のまま描かれていて、30年も前の情景が鮮やかによみがえってくる。そういえば明日4月6日午前6時半よりアニメ『暴れん坊力士!!松太郎』がTV朝日系列で放映されるそう。錦戸部屋、東関部屋、浅香山部屋からも出稽古に来て賑やかな稽古場。
平成26年4月6日
入門当時の若松部屋は両国2丁目にあったから、隅田川沿いを上り蔵前橋を渡っての教習所通いであった。教習所に着くと2階で着替え、マワシを締めて1階の稽古場に下りる。点呼のあと国技館の周りを走らされる。稽古場に戻って、腰割りや四股の実技。四股を踏んでいると、指導教官の親方が怒鳴るように何か言ってきた。早口で何と言っているのかさっぱりわからない。「えっ?」二度ほど聞き直すと、「いい四股ふむなぁって言っているんだよ!」と、竹刀が思い切り飛んできた。
平成26年4月8日
当時(つい最近までだが)は、竹刀片手にの指導が当たり前だった。国技館周りのランニングのときにも、自転車にまたがって竹刀を振り回しながら追いたててくる。ときに二日酔いの赤ら顔のまま奇声を発しながら最後尾の力士を追いたてる様は、かなりの狂乱ぶりで迫力があった。その親方に妙に気に入られたのかどうか、親方の車の掃除やクリーニング等、部屋が違うのに付人のような教習所生活だった。今となれば懐かしい思い出だが、当時はけっこうトホホな毎日であった。
平成26年4月9日
相撲教習所には、場所後の休み明けの月曜日から番付発表まで通う。それを3期つづけて卒業となる。昭和58年11月場所後に1期生として入学した時には、その年の7月場所初土俵の3期生と、9月場所初土俵の2期生が在校生でいて一緒に授業を受けた。3期生には新出羽ノ海親方となった小城ノ花がいて、こっちが3期生になった昭和59年3月場所の1期生には、元琴錦の秀ノ山親方や大至らがいた。教習所で一緒だった力士同士は、1期、2期違っても同期生的な親しみがある。
平成26年4月10日
教習所の現役指導員には、生徒のいる部屋の幕下、三段目の兄弟子があたる。高砂部屋からは、最近ずっと神山が指導員として出向いている。胸を出すのがうまいので、親方衆からも重宝がられているそう。あまり朝が強くない神山だが、毎朝自転車での教習所通い。指導員は、自転車通勤が許されている。神山の前は、朝乃土佐が指導員を務めていた。モンゴル出身の新弟子が増えた時期があり、幕下だった朝赤龍が指導員を務めたこともある。
平成26年4月11日
教習所では、四股やテッポウ、スリ足、股割りなどの基本と共に、受け身の稽古も行なわれる。相撲、柔道の経験者にとっては楽にこなせることだが、経験のないものにとっては、裸で固い土俵の上で転がることは恐怖感を伴う。怖がると、腰が引けたり横向きに肩から突っ込んでしまいがちで、よけいに痛めてしまう。まーるく転がれるようになると、どんなに固い所でも平気になる。教習所を半年前に卒業した朝上野、まだまだ転ぶのが苦手で稽古終了後に受け身の特訓。
平成26年4月12日
相撲の受け身は、ぶつかり稽古のときにくり返し行なう。胸を出してもらう相手の右胸にぶつかって、右肩から柔道の前回り受け身のごとく転がる。柔道は畳を左腕で叩いて衝撃を和らげるが、相撲は拳を握ったまま転び起き上がる。柔道出身者は、はじめのうち土俵を手の平で叩いてしまうクセがなかなか抜けない。また手の平を広げると手の平に砂がつき、胸を出す力士の胸にも砂がついてしまうので、「手を握れ」とくり返し指導する。起き上がる受け身は、合気道の受け身に近いといえるのかもしれない。
平成26年4月13日
転がるときには、必ず相手の右胸にぶつかり、右足と右腕を前に出し、右肩から転がっていく。前に出す右腕は腕(かいな)を返す。そうすると、右拳の小指側から前腕外側、肘、上腕外側、右肩、肩甲骨、背中、左腰と順についていき、まるく転がることができる。きれいに転がれると、砂は右肩から左腰にかけて斜めにつく。まるく転がれると気持ちよいが、少しでも力みがあると、角がどこかぶつかってしまい痛くもあるし気持ちよさもない。ベテランになると、ぶつかり稽古でも転ばなくなるが、そうすると怪我をしやすくなってくる。
平成26年4月15日
まるいボールは、いくら転がっても壊れないが、角があると転がるたびに衝撃を受け、そのうち壊れてしまう。大根やニンジンの面取りと同じことである。角をなくすように体をまるめて転ぶ。本来バラバラな骨と筋肉のつなぎ合わせである人間の体をボールのようにまるくするのが受け身であり、バラバラな骨や筋肉をひとつにまとめるのが四股や腰割りなのであろう。今週も浅香山親方が弟子二人と共に出稽古に。
平成26年4月17日
稽古場にトレーニング用の砂袋がある。青色のビニールレーザー張りの丈夫な袋で、両手で持てるよう持ち手もついて48kgある。砂の48kgなのでズシリと重く、両手で抱えてスリ足したり肩に担いでスクワットやったりと、力自慢のお相撲さんにとってもハードな稽古になっている。その砂袋を出稽古に弟子を連れてきている浅香山親方が片手でひょいと持ち上げた。怪力魁皇いまだ健在で、普段一番砂袋を使い込んで砂袋の重さを身にしみてわかっている朝天舞、「人間技じゃない」と目を丸くしていた。
平成26年4月18日
古今、力士の怪力話は数知れない。150kgの力士が入った風呂桶を桶ごと運んだ両国。成田山で150kgの大鈴を片手で鳴らした伊勢ノ浜。500kgの弾丸を持ち運んだ太刀山。碁盤の上に乗せた100kgの外国人を右手だけで目の高さまで上げた海山。60kgの米俵を、傘を差したまま片手でひょいと持ち上げた栃木山。そういえば先日15歳の朝金井は、30kgの米袋を2袋軽々と担いで運んでいた。怪力力士になれるかもしれない。
平成26年4月19日
潜航艇の異名をとった関脇岩風角太郎は174cm、117kgと、どちらかというと小兵の部類に入る体格ながら怪力で有名だった。もともと実家が江戸川区の鉄筋屋で、家業を手伝っていた。万力で曲げる鉄筋を腕力でグイグイ曲げていたと若松部屋の床義さんによく聞かされた。巡業中、70貫(263kg)のレールを担ぎあげて歩いたこともあったそう。稽古嫌いでも有名だったが、巡業先ではマキ割りばかり黙々とやっていたという。岩風にとってはマキ割りが最高のトレーニングだったのかもしれない。
平成26年4月24日
5月夏場所番付発表。連休と重なるため、いつもより4日ほど早めの発表(通常は初日の2週間前の月曜日)。先場所唯一の勝越しだった朝ノ島、自己最高位に1枚届かない序二段6枚目。入門10年目、初めての三段目昇進に挑む。今場所は、負越し力士の落ち方が割合ゆるやかで、朝赤龍は半枚落ちて東4枚目。朝弁慶も7枚しか落ちていなく幕下27枚目にとどまった。先場所前相撲の二人も初めて番付に名前を載せる。朝健真改め朝金井は序ノ口17枚目。朝河西は27枚目。
平成26年4月26日
第12回両国にぎわい祭りが、今日明日の2日開催されています。おなじみの「ちゃんこミュージアム」はもちろん、相撲教習所土俵での「力士に挑戦コーナー」、行司さんによる「相撲字で記念うちわ」、親方が土俵や支度部屋を案内する「バックヤードツアー」と、恒例の人気イベントが行なわれています。明日27日午後1時~3時は、国技館内地下大広間で「国錦相撲甚句」と呼出し邦夫による「太鼓実演」が行なわれます。また、回向院念仏堂で、音楽ワークショップ「Let' 相撲ミュージック! 相撲甚句をつくって歌おう!」も行なわれています。12時15分からと1時半からの2回。
平成26年4月28日
明日4月29日(火)は5月場所前恒例の横綱審議委員会総見稽古が国技館本土俵にて一般公開されます。午前7時から幕下の稽古がはじまり、8時頃から十両の稽古。9時頃から10時半頃まで幕内稽古となっている。
平成26年4月30日
番付発表後、浅香山部屋が出稽古に来ている。元大関魁皇の師匠の指導のもと、4人の弟子たちが四股や申し合いに毎日汗を流している。部屋頭は入門から丸2年の魁渡。17歳だが、今場所すでに幕下と出世も速い。今年の3月場所には15歳の新弟子が2人入門して、朝金井、朝河西と同期生。同い年で、力量もさほど大差ないので、お互いいい刺激になったいるようで、4人でいい申し合い稽古をやっている。
平成26年5月1日
稽古は毎日、四股や腰割り、スリ足などの基本動作を一時間ほどくり返し、番付の下の方から順に土俵での申し合い稽古が始まる。まずはじめが、文字通り序ノ口4人での申し合い。朝金井が17枚目、浅香山部屋山崎が21枚目、浅香山部屋中辻が22枚目、朝河西が27枚目の番付で、だいたい番付通りの強さになっているが、それぞれ得手不得手の型が出てきて、はじめの頃よりもいくらか差が縮まった感じもする。お互い残り合っての熱戦も随時出て、周りの兄弟子たちからも思わず声がかかり、時に歓声も上がる。新弟子同士の申し合いは、毎日活気あふれている。
平成26年5月2日
高砂部屋、浅香山部屋4人の新弟子は、そんなに大差はないものの四者四様ともいえる体格の違いはある。一番がっしりした体格は朝金井で、4人の中では一番力も強いことだろう。一番細身、いわゆるソップ型は浅香山部屋山崎だが、こちらも朝金井と同じく柔道経験者だから足腰がしっかりしていて中に入ってマワシを取ると朝金井も分が悪い。中肉中背といえるのが野球部出身朝河西で、パワーや足腰では劣るものの周りから言われたことをすぐ体現できる器用さがある。もう一人の浅香山部屋中辻は、今までほとんど運動経験がなくアンコ型というより単なるおデブちゃん風だが、ここ2週間ほどで一番進境著しく、積極的な攻めと粘りも見せるようになってきた。今日は朝河西が風邪で休んだため、3人での申し合い。
平成26年5月3日
元大関魁皇の浅香山親方と兄弟弟子だった戦闘竜氏が稽古場へ。引退後、格闘家として活躍していたが昨年夏に引退試合を行い、現在は奥さんのお父さんの会社で夫婦で頑張っているという。相撲の稽古場へ顔を出すのも久しぶりだそうで、ぶちかまし合った昔を懐かしく語りあった。仕事の方も順調なようで、良き支援者として同じ釜の飯を食った親方をサポートしていくことであろう。部屋の草創期は、新緑わきたつような薫風がある。
平成26年5月4日
高砂部屋新弟子の朝金井、立合い双手(もろて)突きで相手に当たる。両手を同時に伸ばして相手に当てる立合いである。両手で突くから双手突きという。新弟子同士だと、持ち前のパワーを生かして相手を一気に押し出せることが多いが、残られると自分の腰が伸びて相手に中に入られ、苦し紛れの投げ技にいってしまう。また腕を伸ばすときに脇が開いてしまい、親指を突き指して痛めてしまうことも多々ある。同郷の若松親方から、脇を締めて腕を下から出すよう指導を受ける毎日。昔から『相撲のうまい力士は小指を傷める』といわれている。
平成26年5月5日
アゴを引いて脇を締めて肘を下から出せば、手の平は上を向く。上向きの手の平で、前褌(ミツ)や横褌を取りに行けば自然と相手と接触するのは小指側で、小指を傷める機会が多くなる。逆に脇が開いて上から手が出れば、手の平は下を向いて親指が相手にぶつかってしまう。また上から出た腕は、相手を止めるだけで、突き放せない。前に落ちやすくなってしまう。『はたかれたら手の平をみろ』という格言もある。5月5日端午の節句。尚武に通じるという菖蒲湯や柏餅をおかみさんが用意して初日まであと一週間。
平成26年5月6日
『立合いに七分の利あり』とか『立合いで八割決まる』とかは、TV中継などでもよく言われる。立合いの重要性を説く言葉だが、それだけ立合いは難しいということでもある。特に朝興貴のように突っ張りを得意とする力士にとっては、立合いで突き放せるかどうかが勝負になってくる。突き放せて、相手との距離ができれば楽に突っ張ることができる。突っ張る腕が肩甲骨からグンと伸びて、左右交互に回転させられると、威力ある突っ張りとなる。『突っ張りは引き手が大事』だと、突っ張りを得意とした褐色の弾丸房錦さんがよく言っていた。
平成26年5月7日
新弟子君にとって、頭からぶつかっていくことは怖さがある。痛みをともなう。怖がると、つい下を向いてしまう。横を向いてしまう。骨のうすい頭頂部にぶつかられコブができる。首を痛める。頭蓋骨のなかで、額の髪の生え際が一番厚みがある。立合いは、『ヒタイで当たれ』『髪の毛の生え際で当たれ』といわれるのは、解剖学的にも正しい理屈がある。怖がってまっすぐ当たれないと、首から腕にかけてビリッと電気が走る。痛くてうずくまっていると、「(電気の)スイッチ切れ!」と声が飛ぶ。そういうことをくり返しながら当たり方を覚え、頭や首が鍛えられていく。
平成26年5月8日
「バカヤロウ」「コノヤロウ」は相撲界では挨拶代りだとは床寿さんがよく口にしていた言葉だが、男社会なだけに言葉使いは荒い。とくに稽古場では気も立っているから、余計に荒くなる。新弟子のうちは転がされるたびに、ヒザやヒジを擦りむくことが多く、出血も日常である。そんなときによく使われる言葉は、「塩すりこんどけ!」また、「痛い!」とか言おうものなら、『生きてる証拠だ!』確かに、生きているからこそ血も出るし痛みも感じる。
平成26年5月9日
浅香山部屋からの出稽古は一昨日までで、昨日からは新弟子二人での三番稽古。相撲経験があって体力的にも勝る朝金井が、圧倒的に分がいい。それでも、はじめのうちは一方的にやられっぱなしだった朝河西、だんだんと当たれるようになってきて時に攻め込めるようにもなり、最後の一番は左を差して腰を寄せて寄り切った。『差したら腕(かいな)を返して体を寄せろ』『差した方に出ろ』という格言通りのいい相撲でめを出した。取組編成会議。野見宿禰神社例祭で新横綱鶴竜が土俵入り。明日午前10時より土俵祭。初日まであと2日。
平成26年5月10日
「差したら腕(かいな)を返す」「体を寄せる」「差した方に出る」ためには、腰を割らなければならない。腰が割れていないと、腰が後に逃げてしまいへっぴり腰になってしまう。体を寄せることができない。出られない。腰が割れると、自然に腕(かいな)は返る。腕が返ると、腰は割れる。腰を割るために四股を踏む。股割りをする。四股を踏むときに前かがみになると腰が割れない。昔は『四股は羽目板の前で踏め』と、よくいわれた。触れ太鼓が初日の割りを呼び上げる。朝赤龍には玉飛鳥。鶴竜には碧山、嘉風には日馬富士、白鵬には千代鳳。♪ご油断では、つまりますぞぇー♪
平成26年5月11日
五月晴れの夏場所初日。新横綱の話題や遠藤人気で客足が早く、午前8時すぎには満員札止めの大盛況。2時頃国技館に行くと、エントランスホールは熱気むんむん。お茶屋さんとの会話にも弾みがある。4年ぶりの雲龍型土俵入りを披露した横綱鶴竜。雲龍型横綱を伝える唯一の力士神山の花道での姿も4年ぶりにテレビ画面に登場。久しぶりに忙しい15日間となる。場所前、浅香山部屋と一緒にいい稽古をやってきた高砂部屋一同だが、7戦全敗の初日。『三年先の稽古』と肝に銘じて稽古をつづけるのみである。
平成26年5月12日
3月場所入門の朝河西、まだときにホームシックにかかったりするため財産差し押さえ管理下にある(といってもお小遣い程度の財産だが)。本人も納得しつつもモチベーションを下げてしまうこともあるようで、1勝につき少しずつ小遣いを増やしていくことにしたら俄然やる気が高まってきた。今日さっそく初日(1勝)。中学を卒業したばかりでプロ意識を持つにはまだ幼いが、お金を稼ぐために頑張るのもプロの証し。昔から、『土俵には金が埋まっている』といわれている。その話を鵜呑みにして、夜中に土俵を掘り返した新弟子君も実際いたらしいが。
平成26年5月13日
三段目65枚目の朝乃丈2連勝。決して稽古熱心とはいえないが、妙に真面目なところもあり、入門10年余り稽古を休んだことがほとんどない。風邪もひかないし、怪我をすることも滅多にないが、先々場所珍しく肉離れを起こした。それでも休むことなく日々を過ごし三段目中堅の地力を身につけてきた。似合わない言葉だが、継続は力なりを身をもって示しているといえよう。『土俵の怪我は、土俵で治せ』とは、土俵の鬼と呼ばれた先代横綱若乃花の言葉。
平成26年5月14日
土俵の鬼の初代横綱若乃花語録には名言至言が数ある。「人間辛抱だ!」「気力じゃ駄目だ。死力を尽くせ」などなど。『ちゃんこの味がしみる』も、そうだったのかどうか。何れにせよ永い年月と厳しい勝負の中からにじみ出てきた言葉には重みがある。ちゃんこの味がしみているというより、ちゃんこの味を体からしみだしている大子錦、初白星。これからちゃんこの味がしみてくる朝金井も1勝。朝赤龍、朝乃土佐、神山にも初日。7戦全敗で始まった高砂部屋夏場所、4日目にしてようやく五分の星。
平成26年5月15日
網膜剥離の手術で3月場所を全休して三段目からの再起となった朝天舞、相手の引きに乗じての2勝目。『引かれたら出ろ』『引かれたらごっつぁん』よくいわれる言葉だが、稽古十分だからこそできること。稽古不足の力士は、引かれたら簡単に手をついてしまう。また手をつかなくても、腰を引いて残るのに精一杯で相手に攻められてしまう。今場所前は稽古十分とはいえない朝天舞だが、日々のトレーニングと、今までの稽古の貯金がたっぷりある。『稽古はうそをつかない』は、相撲に限らずあらゆることにいえる言葉であろう。
平成26年5月16日
前に引かれたり叩かれて、残ろうとすると腰を引いてしまう。へっぴり腰で頑張ってしまう。すぐに攻めに転ずることはできない。腰を引くことによって辛うじてバランスを保っている。引かれて足を前に出すことができると、バランスを保つことが即前に出る力になる。相手の引く力に乗じることができる。引かれて足が前が出るためには膝にゆとりがないと出られない。ぶつかり稽古で頭を押さえられて引っ張られるときも、嫌がらずに足を出すことが大切になる。『ひざにゆとりを持たせ、下腹と足の親指に力を入れろ』下半身のあるべき構えを説く言葉である。
平成26年5月17日
横綱栃木山の8代目春日野親方は、毎晩ビール5,6本と酒2升を晩酌にたしなんだという。その間付人がお給仕をする。酒の肴は相撲の話。『常にスリ足で歩け。下駄の前歯がすり減り、親指のくぼみができるようでなくてはいけない』『出足は細かく速くスリ足で』『おっつけるのも差し手を返すのも腰が大切。尻が後ろへつき出たり足が流れてはいけない』この毎晩の相撲講座から名人横綱栃錦が生まれた。晩年になっても親方の履物は親指の所がくぼんでいたという。勝越せば初の三段目昇進なる朝ノ島、相手の当たりを口で受け大出血するも、粘りに粘っての2勝目。朝乃丈、勝越しまであとひとつとなる3勝目。
平成26年5月18日
栃木山の教えは寝方にも及ぶ。『暑くても窓を開けて寝てはいけない。裸で寝てはいけない。体が冷えるとバネがなくなる』『ヒジとヒザを曲げ背中を丸めて寝ろ。小さくなって寝ると翌日にバネが利く』栃錦は横綱になっても教えを守り、引退してはじめて暑いときには裸になって(パンツ一枚)寝たという。『稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく』は、横綱双葉山の言葉。双葉山には、『われ未だ木鶏たりえず』の有名な言葉もある。そういえば今朝のスポーツ紙に、広島大瀬良投手が九州共立大学仲里監督から贈られた『木鶏』の色紙を掲げている写真が載っていた。朝天舞、朝上野3勝目。
平成26年5月19日
元大関魁傑の放駒前理事長が亡くなられた。大相撲界の危機的時期に理事長就任。火中の栗を拾うような状況のなかで、真摯な姿勢で難局を乗り切った功績は大相撲史に深く刻まれることであろう。大関在位中の『休場は試合放棄と同じ』との言葉からも人徳が偲ばれる。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。朝天舞、朝上野勝越し。それぞれ幕下復帰、三段目昇進までは、あと1勝必要。今日の高砂部屋、8勝2敗と大きく勝越し今場所初めての5割超え。
平成26年5月20日
幕下27枚目の朝弁慶、3勝目。頭からぶちかまして左ハズにかかり電車道での押し出し。右腕は脇が開いてしまってバンザイしかけたが、止まらずに持ち前の馬力を生かしての完勝。「押し」は単純にみえるが、単純なだけに難しく奥が深い。一瞬のためらいや気負いが形を崩し押す力を弱めてしまうし、何といっても忍耐力が必要である。『押さば忍(お)せ 引かば押せ 押して勝つのが相撲の極意』は、人生訓ともいえるのでは。三段目65枚目朝乃丈、脚のケガにもめげずに勝越し。
平成26年5月21日
ハズ押しは、相手を押す手の平が矢筈の形になるからハズ押しという。親指を立て、他の4本の指をそろえて開く。矢筈形の手を相手の脇の下や胸に当てて押す。手の平をハズの形にして相手にあてるには、脇を締めなければならない。脇を締めなければ手首の構造上親指を立てたハズの手が相手にあたらない。脇を締めると、腰や脚も使って体全体で押すことができる。『押すに手なし』は、十分な体勢での押しが、もっとも効果的で安全なことをいっているのであろう。朝天舞、朝上野5勝目。それぞれ幕下復帰、三段目昇進を濃厚なものにする。朝金井初めての序ノ口の土俵で、嬉しい勝越し。朝河西3勝目。勝越しにも匹敵する価値ある3勝。
平成26年5月22日
相手に双(もろ)差しになられたときに、相手の腕を外から締めあげるように極(き)めるのを閂(カンヌキ)という。『カンヌキに極めたら相手の顔を見ろ』という格言がある。頭をつけたり腰を引いたりせずに、相手に正対したほうがより効果的に極められるということ。筋肉質で足腰のしぶとい相手に立合い差された朝弁慶、右腕でがっちりとカンヌキに極め(片腕だから片カンヌキ)、押しつぶすような思い切りのいい小手投げで勝越し。格言通りに相手と正対して相手に腰(腹)をつけ、相手を半ば浮き上がらせた分、きれいに決まった。朝乃丈、ヤマいきながら(ケガしながら)も快進撃止まらず5勝目。
平成26年5月23日
「相手に腰(腹)をぶつける、体をよせる」ことは、すべての技に通ずること。押すとき寄るときはもちろん、投げを打つにも体を寄せる(前に出る)ことが決め手になる。防ぐときもそうである。戦前に活躍した幡瀬川は、168cm78kgの体格で関脇を張り「相撲の神様}と呼ばれた。その幡瀬川が語る。『相手が投げに来たら差した腕(かいな)を返して体を寄せろ』『それでも防げないときは相手のヒザをはたけ』小さい体ながら横綱大関とも互角に戦い、投げられて負けたことはただの一度もなっかたという。相撲の神様たる所以である。朝赤龍負越し。
平成26年5月26日
17年ぶりの満員御礼10日間という盛況だった5月場所、高砂部屋一同も頑張りました。朝赤龍関は残念な結果に終わったものの、つづく朝弁慶が5勝を上げ来場所はいよいよ幕下上位へと番付を上げていきます。網膜はく離から再起の朝天舞も幕下復帰の見込みです。三段目では、朝乃丈が6勝の大勝ちで、幕下目の前というところまで上がってきます。朝興貴も同じくです。朝上野が初の三段目昇進濃厚です。さらに、今場所一番の頑張りは、新弟子2人の勝越しです。朝金井5勝。そして、前相撲4戦全敗だった朝河西が、予想に反して勝越しました。相撲経験が全くないのに、嬉しい誤算、あっぱれな勝越しでした。愛知県出身の2人。名古屋場所へ胸を張って帰れます。今日から1週間は場所休みで稽古なし。6月2日(月)より稽古再開。
平成26年5月31日
今年は、大関初代朝汐生誕150年、横綱前田山生誕100年にあたるそうで、出身地である愛媛県八幡浜市で特別企画展が予定されている。八幡浜市の資料によると、初代朝汐太郎は明治14年大阪相撲押尾川部屋に17歳で入門。明治23年に東京相撲高砂部屋所属となり、明治31年大関に昇進。明治41年に引退して年寄佐野山を襲名。大正9年56歳で逝去とある。横綱前田山は、昭和3年14歳で高砂部屋入門。昭和13年大関昇進、昭和22年夏場所後に第39代横綱となる。昭和17年より二枚鑑札(現役のまま師匠を兼ねる)で4代目高砂浦五郎となり昭和46年57歳にて逝去。
平成26年6月2日
初代朝汐太郎については以前(23年1月31日)に紹介しているようだが、相馬基『相撲五十年』(時事通信社)にも出てくる。「伊予に過ぎたるもの禾山和尚に朝汐」と、民謡にまでうたわれた人気力士で、五尺九寸、二十七貫の体の、どこからそんな力が出るのかと思われる怪力には、梅ノ谷も荒岩も苦しめられた、とある。禾山和尚とは山岡鉄舟とも交流のあった臨済宗の師家。明治の名人円朝も師事したという。梅ノ谷は、梅常陸時代をつくる横綱梅ケ谷の前名。荒岩亀之助は、小兵ながら「摩利支天の再来」とたたえられた名大関。今日から稽古再開。日常がもどる。
平成26年6月3日
初代朝汐太郎は酒豪で知られ、三宅充『大相撲なんでも七傑事典』にも登場する。明治32年日本橋の料亭でのこととあるから、大関に昇進して間もない頃。ビール37本(27リットル弱)と酒6升(10,8リットル)を平らげて、料亭の人によってこの話が広まり、当時の新聞に報道され、東京中の評判となったとある。一斗酒(10升)の伝説もある。武骨な顔は、「オコゼ」とか「シャコの天プラ」とアダ名されたというが、無頓着で子供好きの人柄は人気があったそう(『相撲五十年』より)。太鼓の名人呼出し太郎は、家が隣だった朝汐の口利きで呼出しになり、朝汐にあやかって「太郎」と名乗ったという。
平成26年6月4日
初代朝汐の得意技は、上手投げ。ところが資料では、得意は右四つ左上手投げと出ているものと、左四つ右上手投げのもの、両方ある。相馬基『相撲五十年』には、「相撲はうまく、得意の右四つになると、ニヤリと会心の笑みをうかべた」とあり、八幡浜市の資料でも「得意技は、右四つ寄り、上手投げ」となっている。ウィキペディアは、「左四つ、右上手を引いての投げが鮮やか」としている。昭和5年1月発行の栗島狭衣・鰭崎英朋共著『角觝畫談』には、左四つ右上手投げを決める鰭崎英朋氏の画が掲載されている。
平成26年6月5日
鰭崎英朋氏は、明治大正期に活躍した挿絵画家で、『東京朝日新聞』の相撲記事の挿絵を23年間描きつづけた。写真が普及していない当時、打ち出し後に回向院鼠小僧のお墓のそばでランプを灯して新聞記者が取組みを再現し鰭崎英朋氏が写生して記事にしたという。栗島狭衣氏は、その時の新聞記者。しかも初代高砂浦五郎とゆかりの大関綾瀬川(3月5日~8日)を父に持ち、娘は女優栗島すみ子。現場で見た二人が書き記した「左四つ、右上手投げ」が、正しいのであろう。『角觝畫談』では、上手投げの名手として初代朝汐が紹介されているが、詳細な取り口が解説されている三番ともに、右からの上手投げである。
平成26年6月6日
なぜ右四つという資料が出てきたのであろう。おそらく2代目朝汐太郎と混同してのことかと思われる。2代目朝汐は、同じく愛媛県は西条市の出身。初代朝汐に見出されて明治34年に入門。朝嵐、朝汐を経て朝潮の名で、大正4年に大関昇進。右四つを得意として「右差し五万石」とも「右差し十万石」ともいわれた。引退後は3代目高砂浦五郎となり、横綱前田山らを育てた。出身県も活躍年代も重なりがある初代と2代目だけに混同されたのであろう。相撲に関りのない人にとっては右でも左でもと思われるかもしれないが、王やイチローが右打席に立ち、長嶋が左打席に立つようなもの。初代朝汐は左四つ右上手、2代目朝汐は右四つである。
平成26年6月7日
『角觝畫談』より。上手投げの名手は明治の力士中で朝汐太郎を一番に推さねばなるまい。明治23年5月、當年27歳の人気力士として大関大鳴門灘右衛門を一挙に倒した。新入幕で前頭10枚目に据(す)わり2日目に大鳴門と顔が合った。立合い左を深く差し止めたが、老功大鳴門に寄り立てられ、たちまち土俵に詰まる。廻り込まうとすると、さらに激しくアヲリ立てて寄って来た。逃身にスウッと差手をぬくが早いか當てていた右の上手を敏捷に伸ばして褌を引き、敵の追い込む足を利用して、エイと上手投げをやけに打った。この時から朝汐は、右の上手の味を占めて、自家最上の武器に磨き上げた。
平成26年6月9日
引き続き『角觝畫談』より。明治30年5月、関脇となって大関鳳凰との対戦。「鳳凰は体格の完備した、いはば豊満な肉付の力士であったが、朝汐は骨張った頑丈な性(たち)の人で、その対象が既に興味をそそっている。鳳凰の得意にするのは泉川の撓出し(極出し)であったが、果たして此立合に於いても、朝汐は忽ち左を 撓め上げられて仕舞った。その凄じい力といふものは、猛牛の角を撓めて向かって来るにも優っている。朝汐は耐えながら守勢一点張りで、土俵を逃げ廻ったが追付(おっつ)かない。そのうちに鳳凰は敵の差手をはねてグイと二本差してアヲリ付けて寄ろうとした。と、朝汐が右の上手褌が引けたのを幸いと、グウーンひとつ、腰を入れて打った「上手投げ」-これがまた馬鹿馬鹿しく極まった」
平成26年6月10日
さらに、明治33年1月大関となって小手投げの名手海山(かいざん)との対戦。「両力士立上って激しく突張り合った。海山元気にまかせて叩く、それが残って左四つになると又小手投げを喰はせる。しかし朝汐の右足が用意を欠いていなかったので、海山の小手投げは利かなかった。そうしてそれを残した朝汐が、たちまち敵の虚に乗じて、右の上手をグイと引いた。右の上手が入ったら最後、鬼に金棒の朝汐である。ツツと寄って敵が土俵を廻ろうとするトタン、差手を抜いて、エイッとばかりに腰を入れ、上手から打った其技は、全く神工の妙を得たといはうか、流石の海山も残し得ずして、土俵際に打倒された」「朝汐の腰は、粘りが強く、全く土俵の中へ鳥もちを付けたやうであった」
平成26年6月11日
明治33年1月谷の音戦は、負け相撲となったが朝汐の足腰のしぶとさを示す一番。「朝汐が左差しに寄って来るのを、谷の音は18番の河津がけで、一気に仕止めようと企てたが、ネバリの強い朝汐は、あたかも蛸のようにからみついた谷の音の足癖と、巻きついた首筋の手とを、懸命にコラエながらーそれでも行司溜の一角まで持って行かれた。処が堅仞(けんじん)な朝汐はこの形でこらえながら、また土俵のまんなかまで盛返した。これから十数秒の間、双方のもちこたえる呼吸で、物凄いほどのもつれ合いが始まった。朝汐が渾身の力を絞るようにして、やがて「ウーン」とひとつ力味出すと、谷の足が外れたから、ここぞとばかり吊り上げた。谷は狼狽したものの、足の爪先で土俵を支え、敵の吊りをふせいだから、今度は朝が棄身(うっちゃ)らうとした。処が谷がウーンとこらえて、体をよせて、「浴びせかけた」。朝はとうとう惜しい処で腰が砕け、真額(まっこう)一文字に打倒された。こんな粘りのつよい取口は全く珍しいと、當時好角家の話題には花をさかせた」
平成26年6月12日
相馬基『相撲五十年』に当時の稽古場の様子が描かれている。「本所緑町の高砂部屋では、百余名の力士たちが、稽古土俵を取りまいて、順番に朝汐にぶつかっていった。朝汐は下級力士に『たのんます』といわれるままに、数番の稽古をつけた。見守っていた年寄二十山(元小錦)は『親切だなア』とほめた。朝汐が汗まみれ砂まみれになっているところへ、源氏山、逆鉾、常陸山、稲川などがはいってきて『さア一丁来い!』と土俵を奪い合った・・・」横綱小錦が引退して二十山となったのは明治34年だから明治35,6年頃の様子か。源氏山、逆鉾は高砂部屋から独立した井筒部屋所属、常陸山は出羽ノ海部屋だが、師匠出羽ノ海の内弟子として高砂部屋で稽古していた。稽古場をもっている部屋は、高砂、雷、友綱、尾車、伊勢ノ海の五部屋だけで、稽古場のない部屋の力士たちは、この五部屋へ通った。
平成26年6月13日
昨晩、毎年恒例の近畿大学校友会東京支部ちゃんこ会。ゲストとして近畿大学OBの落語家鈴々舎八ゑ馬が一席。演目は『花筏』。"提灯屋相撲”ともいわれる相撲ネタで、大関花筏が病気のため、容姿が似ている提灯屋七兵衛を替え玉にして巡業へ。江戸落語では舞台が銚子だそうだが、上方では播州高砂。相撲など生まれてこのかた取ったことのない提灯屋七兵衛。土俵入りだけという話だったのに千秋楽は、しろうと相撲で土つかず千鳥ヶ淵と対戦することに、・・・。明日から3日間茨城県下妻市大宝八幡宮で錦戸部屋との合同合宿。今日から下妻入り。
平成26年6月14日
快晴の下妻合宿初日。早朝から大鍋で鶏ガラを炊いて300人前のソップ炊きの用意。錦戸部屋ちゃんこ長水戸晃と共に、呼出し鶴太郎、行司金太郎も材料切りに参加。そこへ大宝のおばちゃん(6月9日)登場。「おはよう~」と来るなり、「パンツ干しに、うちさけぇんなくちゃなんねぇ」とはじまり、昔パンツ泥棒がはいったけど「娘のパンツだけとられたんだぁ~・・・」と、朝から一人漫才炸裂で、鶴太郎も金太郎も笑いっぱなし。大宝おばちゃんトークも一年一度のお楽しみ。明日は豚味噌、明後日は鳥の塩炊き。
平成26年6月15日
下妻合宿2日目。9時で稽古を終え、第4回わんぱく相撲下妻場所。近隣の小学校1年生から6年生まで39人が個人戦と団体戦で熱戦をくり広げる。さばく行司は、装束に身をつつんだ木村悟志と木村金太郎。決勝戦はたっつけ袴姿の呼出し鶴太郎の呼び上げで土俵へ上がり、序ノ口優勝決定戦さながらの盛り上がり。初めて土俵に上がる1年生、土俵中央で「蹲踞して」「すわって」という声に、お互い正座し合うお行儀の良さも。4年生から6年生の優勝者は、県大会に出場して8月に行なわれる国技館での全国大会出場を目指す。
平成26年6月16日
下妻合宿最終日。朝弁慶が錦戸部屋風斧山との三番稽古。最近幕下相手でも一気にもっていく馬力がついてきた朝弁慶。思い切り当たっていくが、風斧山に受け止められ、なかなか前に出られない。転がされ砂まみれの朝弁慶に対し、風斧山は涼しい顔。終盤、何番かは朝弁慶の出足が優る相撲もあったが風斧山に力負けの朝弁慶、いい稽古になったであろう。終了後、保育園の園児たちが関取に胸を借り合宿稽古終了。午後2時過ぎ、その園児たちや奉納相撲保存会の皆様に見送られ帰京。
平成26年6月19日
落語の大関花筏は架空の力士のようだが、昭和に入って実際“花筏”を名乗った力士がいた。山形県鶴岡市出身で昭和35年1月立浪部屋から初土俵。落語が好きで寄席へ通い、小さん門下の柳家小団治とも親交があり、昭和41年3月場所新十両のときに“花筏”と改名した(それまでは本名の三浦だが、幕下の時2場所『燕雀』(えんじゃく)と名乗ったこともある)。引退後、郷里鶴岡で相撲料理店を営み(現在は閉店)、相撲資料館や少年相撲教室を開いたり、 相撲研究家として著書も多数ある(『相撲甚句物語 』『こぼればな史』等)。
平成26年6月21日
鈴々舎八ゑ馬さんから聞いたところによると、『大安売り』という相撲ネタもあるという。町内から出たお相撲さんが帰ってきた。「成績はどうでしたか?」と聞くと、「勝ったり、負けたり」「それならまずまずの成績で」と、初日からの相撲っぷりを語ってもらうと、全部負け。「勝ったり、負けたりって言ったじゃないの」「はい。相手が勝ったり、自分が負けたり」「こんど四股名が変わって“大安売り”になりました」 そのココロは、・・・。ほかに、『鍬潟』『稽古場風景』なども相撲が題材になっている。
平成26年6月22日
先発隊6人(朝天舞、朝乃丈、朝弁慶、朝興貴、朝上野、松田マネージャー)名古屋入り。名古屋場所と言えば“鈴木さん”の昌(まさる)さんに迎えに来てもらって蟹江龍照院入り。掃除して畳敷いてバルサン炊いて昼食と、例年通りの流れで晩飯は鈴木さん家族と焼き肉喰い放題。一年前にはまだお腹の中にいた孫も10カ月になったが、お腹の中にいた頃からお相撲さんの声を聞いていたからなのか、すぐなじんでいる。しかもお相撲さんなみにえびすこも強い。単におかあさん似なのだけかもしれないが・・・お相撲さんが名古屋に来ると、鈴木さん一家にとっての夏がはじまる。
平成26年6月23日
朝からお日様が出て、冷蔵庫やら鍋やら食器やら外に出しての洗い物。地元の方からお米やジュースの差入れもあり、一年ぶりの再会を喜び合う。昨年朝興貴ファンになったという近所の小学校1年生の女の子もお母さんと一緒に訪ねてきて、普段会話が苦手な朝興貴がハニカミつつ嬉しそう。ひと月半におよぶ蟹江での生活がはじまった。
平成26年6月24日
名古屋場所は日本相撲協会と中日新聞社共催なので、中日新聞紙上での相撲特集も盛ん。今年の特集は、“相撲女子(スモジョ)”今日から連載がはじまり、第1話は、ご当所熱田区出身の玉飛鳥夫人。熱田区の中学校の1年後輩(夫人が)だそうで、出会いから結婚、相撲への思いなどが語られている。ちなみに玉飛鳥関は、名古屋場所へ乗り込む前の五月場所は17年間勝越しているそうで、これもすごい記録。明日からどんな物語が展開されるのか。2年前に力士志願してきたものの年齢オーバーでダメだった若者も、すっかり力士とお友達になり、1年ぶりに登場。
平成26年6月25日
宿舎の龍照院(りゅうしょういん)は海部郡蟹江町にあり、名古屋市の西隣に位置する。蟹江にはJRと近鉄の駅があるが、宿舎に近いのはJRで、名古屋駅から関西線普通で3駅目、12,3分の距離である。宿舎龍照院は、JR蟹江駅から徒歩15分。真言宗智山派のお寺で、正式には蟹江山常楽寺龍照院という。ご本尊の木造十一面観音菩薩像は国の重要文化財で(戦前は国宝)、得も言われぬ微笑みをたたえ、拝観するたびに心洗われる。名古屋場所の成績がいいのはご加護あるのであろう。昭和63年元房錦の先代若松部屋時代からお世話になり、今年で27年目を迎えている。
平成26年6月30日
7月名古屋場所番付発表。幕下15枚目以内は、全勝すると関取昇進の可能性があるから幕下上位とよび、特別な地位である。(16枚目以下は全勝しても上がれない)その幕下上位15枚目についに朝弁慶が番付を上げてきた。全勝とはいかなくても、何とか勝越して今年中にはと期待がかかる。三段目朝乃丈が自己最高位を大きく更新して三段目東11枚目。4勝すれば幕下昇進も可能な位置。朝上野、初の三段目昇進。
平成26年7月1日
龍照院は、奈良時代の天平5年(733)行基菩薩の草創とされ、寿永元年(1182)木曽義仲により再興されたと伝わる。境内には、巴御前が木曽義仲の菩提を弔うため供養したとされる大日如来像もある。最盛期には七堂伽藍及び18坊が建立され、境内の広さは7万2千坪にも及んだという。 信長没の2年後、信雄・家康連合軍と秀吉が争った小牧長久手の戦いからつづく蟹江合戦の兵火で焼かれ、現在の龍照院一坊を残すのみとなった。秀吉手植えと伝わる樹齢400年余りの大銀杏が境内にあり、お寺のすぐ脇には、信長が清洲から駆けていたという信長街道もある。
平成26年7月2日
境内に隣接してというか、境内内ともいえる所に神社がある。冨吉建速神社と八劒社だが、室町時代の建築で、本殿と棟札が国の重要文化財に指定されている。両社合わせて須成神社と呼ぶが、その祭礼が須成祭りで、400年を超える歴史があり平成24年3月には国の重要無形文化財に指定された。また、現在稽古場のある場所は、大正時代の第24代総理大臣加藤高明氏が生まれた(育った?)所だそうで、有形無形の重要文化財に囲まれ,験のいい土地に宿舎が建っている。高砂部屋に出稽古に来ると験のいい前神風(高田川部屋)、今日から稽古に参加。
平成26年7月3日
龍照院のすぐ脇を蟹江川が流れている。大小の河川や用水路が全町域の4分の1を占めるほどの水郷の町で、作家吉川英治が「東海の潮来」と絶賛したという。昔はもっと海が近く、幾度かの川の氾濫をくり返しつつ町が形成された。龍照院のある地は蟹江町須成(すなり)という地区で、もとは砂成、洲成から、いつしか須成になったと、町の掲示板に出ている。蟹江の中でも歴史と文化を誇るのが須成で、その中心に龍照院がある。幕末には新撰組隊士も須成村から出ている。
平成26年7月5日
須成出身の新撰組隊士は佐野七五三之助(しめのすけ)という。何となくおめでたい名前だが、壮絶な死に様からは檄情が伝わってくる。七五三之助の妹の子(甥)が第24代内閣総理大臣加藤高明であるという。加藤高明は東大法学部を首席で卒業して三菱入社。妻は三菱の創始者岩崎弥太郎の長女。岩崎弥太郎と親交の深かった大隈重信の秘書官として外交官デビューし政界での階段をのぼっていく。また、明治大正と活躍し、金融界の風雲児と呼ばれた神田らい蔵も須成の出身(角界の風雲児は初代高砂浦五郎)。そういえば、以前新宿2丁目のお店にも須成出身者がいた。幼稚園は龍照院に通ったという話にびっくりした。長い髪のチョイあん(ポッチャリ)系で、しばらくして蟹江駅で見かけたこともあった。
平成26年7月6日
昭和63年はじめて龍照院に来たときには、まだ幼稚園の園舎が残っていた。元園舎の建物も宿舎として使っていたが、お寺さんが改築することになり、新たに北側空地にプレハブを建てた。元朝乃若の若松親方が入門した年のはずだから平成4年なのであろう。数年はクーラーがなく、猛暑日の昼寝は地獄だった。扇風機を回すと熱風がくるのでよけいに熱い。水浴びして体を冷まし寝た。慣れると寝つけるものだが、目が覚めると汗びっしょり。また水浴びしなければならなかった。龍照院境内でチャンコと餅つき会。毎年の恒例行事となりボランティアのお手伝いの方々とも一年ぶりの再会。合い言葉は、“チャンコで会いましょ!”
平成26年7月7日
ちゃんこの語源には諸説ある。長崎で大きな中華鍋のことをチャンクォということから来ているという説。料理番の古参力士を親しみを込めて父公(ちゃんこう)と呼んだからという説。他にも様々あるが、一番わかりやすいのが、「ちゃん」は「お父ちゃん」のちゃんで「親方」、「こ」は「子供」のこで「弟子」、親方と弟子が一緒に食べるから「ちゃんこ」という説。相撲界一般には食事のことを指し、「今日のちゃんこはカレー」とか「今日のちゃんこは、うどんにトンカツ」などと使う。あくまでも部屋での食事のことを「ちゃんこ」といい、外食するときには、「今日のお昼は・・・」「今日の晩飯は・・・」という。先日一宮で、お母さんが子供をすわらせるときに、「ちゃんこ!」と言っていたのには驚いた。地域差はあるようだが、けっこう使う人はいるよう。
平成26年7月8日
今日の中日新聞夕刊一面トップは、『明治の大関絵馬あったー稲沢出身?“イケメン”綾瀬川ー』の見出し。稲沢市は、蟹江の北側一宮市の手前の町。稲沢市出身と伝わる明治初期の大関綾瀬川が、生誕地稲沢の塩江神社に奉納した絵馬(30年前にすでに行方不明になっていた)が見つかったという記事。当時は、昇進記念に肖像画や番付を奉納することが多かったようで、昇進直後、村役場隣に土俵を構え3日間興行して空前絶後のにぎわいだったことが稲沢市史に記されているそう。ひと月ほど前にも紹介したように、大関綾瀬川は初代高砂とも縁ある力士で、「相撲じゃ陣幕、男じゃ綾瀬、ほどのよいのは朝日嶽」と俗謡にも歌われたイケメンだったそう。
平成26年7月9日
13日(日)初日の名古屋場所。前売り状況は好調で、部屋の切符も早々と売り切れ久方ぶりの嬉しい悲鳴。相撲協会のチケットも売れ行きが昨年の3割5分増しとのことで満員御礼の日も多くなりそう。
平成26年7月10日
台風接近で風雨強く幟旗がギシギシと音をたて揺れている。幟は7m近い竹で立ててあり、強風で倒れると危険なので雨のなか撤収作業。杭にくくりつけたバン線を切って竹を倒し幟を抜きとっていく。 幟の作業には稲沢市の浅井造園浅井さんが自らきてくれる。台風迫るなかでの激励会だったにもかかわらず多くのお客様に集まっていただき名古屋場所での活躍を祝す。明日が取組編成会議で、明後日午前10時より土俵祭。13日の初日を迎える。
平成26年7月11日
取組編成会議。中日新聞夕刊では、見開き2面を使って、「ご当地力士はっけよい」と地元中部出身力士特集。一番大きな写真は、石川県穴水町出身の遠藤。さらに愛知県春日井市出身明瀬山、三重県松阪市出身徳真鵬、名古屋市熱田区出身玉飛鳥、静岡県三島市出身栃飛龍、三重県伊賀市出身千代の国の6力士。そしてもう一人、“若松親方(元幕内朝乃若)が直言”「地元で個性を磨け」と、懐かしいカエル仕切りの写真。さらにグラフ面では半面つかってカラー写真5枚での遠藤特集。日増しに期待は高まり、初日横綱白鵬は安美錦、注目の遠藤は照ノ富士との対戦。明日午前10時から愛知県体育館土俵での土俵祭。午後4時半からCBCテレビで前夜祭放送。台風一過で早朝から強い日差し。幟を立て直す。高砂部屋への触れ太鼓は午後2時頃の予定。
平成26年7月12日
遠藤といえばお姫様抱っこが大人気で、5月場所からはお姫様抱っこパネルまで登場している。やはり女性にとって憧れが大きいようで、先日老人ホームを慰問した時にも入居者や職員のお姫様抱っこが一番盛り上がった。とくに190cmある朝弁慶のお姫様抱っこは高さがすごいらしく、みなさん興奮状態になる。しかも軽々と上げ、すーっと下ろすから女性にとってはこの上ない至福感を味わえるそう。その朝弁慶、明日十両土俵入りの3番前に初日の取組。お姫様抱っこパワー(?)で幕下上位のカベを一気に突き破りたい。
平成26年7月13日
先日、朝弁慶にお姫様抱っこをしてもらったという若奥さまと話す機会があった。やはり、ひょいと上げてもらい、まるでエスカレーターにでも乗っているかのようにスーッと下ろしてもらったと、その感動を語っていた。その後旦那さんにもお姫様抱っこをしてもらうことがあったそう。「弁慶さんと違って、手の位置は低いし、すごく重たそうに持つし・・・」と、半ば自嘲気味に嘆きつつ笑っていた。まあ、お姫様抱っこができるだけ立派なのだろうが、弁慶の後だけに旦那様には気の毒な比較であったろう。満員御礼の初日。幕下15枚目の朝弁慶、相手をひょいと土俵の外へ、とはいかず黒星スタート。
平成26年7月14日
今場所は3人が休場。ちゃんこ長大子錦は、5月場所最後の一番でアキレス腱を痛め、ようやくギプスから装具に移行したところ。いつもは先発隊長だが、さすがに今場所は後発組として名古屋入り。 稽古はお休みして本業(?)のちゃんこに専念。ちゃんこ作りは立ち仕事でアキレス腱に負担がと心配される向きもあろうが、イスに座って器用な包丁さばき。もっともアキレス腱を痛める前からイスに座ってのちゃんこ作りであったが・・・朝西村は大阪で手術後のリハビリ中。朝河西は自宅帰宅中。怪我や病気で診断書を提出する場合以外の休場は、協会の扱い(書類上)は、帰国中となる。
平成26年7月16日
宿舎のある蟹江から愛知県体育館までは、JR蟹江から名古屋駅へ出て、地下鉄東山線に乗り、栄駅で名城線に乗り換え2つ目市役所前駅で降りる。お城の門のような市役所駅7番出口から徒歩5分ほどで名古屋場所が開催されている体育館に着く。栄駅での地下鉄乗り換えがややこしく時折迷いそうになる。愛知県出身とはいえ、名古屋市内の地下鉄に一人で乗るのは初体験の朝金井、案の定初日は帰りに栄で迷子になってしまったようだが、2回目の今日は「すーっと乗れました」と無事時間通りに帰ってきた。相撲と同じで、失敗しながらいろいろなことを覚えていく。朝興貴2連勝。朝弁慶初日。
平成26年7月17日
例年になく過ごしやすい日々がつづいていたが、ここ数日名古屋場所らしい猛暑日到来。平屋のプレハブには強烈な日差しが直接当たりクーラーの効きも悪いため、屋根に遮光ネットを浅井さんが張ってくれることになり、朝上野がお手伝い。屋根の上で作業する浅井さんに下から材料を渡すのだが、190cmと人並以上に目線が高いくせに、高所恐怖症ではしごを登れないという。役立たずかと思われたが、さすがに2m近い長身。はしごに登らなくても手を伸ばせば、屋根の上に楽に材料を運べ、事なきを得た。その朝上野、三段目での初白星。番付は、どんどん高所に登っていかなければならない。
平成26年7月18日
鹿児島県徳之島出身の朝ノ島。名古屋におばさんが住んでいて毎年訪ねてきてくれる。最近島に帰ったらしく、島から島バナナや冬瓜、赤瓜などをもってきてくれた。お母さんの妹なのだが、お母さん以上に朝ノ島に瓜二つで、初めて会った朝金井も「島さんにそっくりですね!」と驚いていた。よその部屋の相撲取りもすぐわかったそう。今場所1勝2敗と黒星先行だが、毎日の勝敗に一喜一憂しているおばさん家族のためにも残り4番踏ん張ってもらいたい。
平成26年7月19日
取組開始の8時半過ぎには満員札止となった名古屋場所7日目だが、高砂部屋は昨日にひきつづき3連敗と調子が上がらない。一昨日武蔵丸親方の甥っ子相手にいい相撲で勝った朝乃丈、今日はは悪い癖の引きが出て3敗目。ここ数日の雷雨を伴う不順な空模様が言わせたのか、帰ってきて「のこり3連勝して勝越すぞ!」と、珍しく前向きな発言。そういう心構えで毎日取ってくれれば幕下昇進もすぐに可能なのだろうが・・・
平成26年7月20日
今日も満員札止の中日8日目。相撲も中日を過ぎると、あっという間に千秋楽が近づいてくる。昨日まで苦戦続きだった高砂部屋も、中日にしてようやく5勝3敗と勝越し。今朝の中日新聞に大入袋の話が載っていたが、もともとは苦戦(9銭)を乗り越えるよう10銭がはいっていたそう。満員御礼が出ると関係者(関取、裏方資格者、報道関係など)に大入袋が配られる。現在の中身は10円。明日から後半戦、苦戦を乗り越える巻き返しを大いに期待したい。3連敗だった、神山と朝金井にめが出るものの、朝天舞が4連敗での負越し。
平成26年7月21日
いつも幟を立てに来てくれる稲沢の浅井さんは、昭和6年生まれだというから今年で83歳になる。今でも現役バリバリで、一緒に杭打ちを行ない、屋根の上に登っての作業も楽にこなしている。ある意味スーパーマンである。高砂部屋との付き合いは、かれこれ50年にも及ぶという。半世紀にわたって厳しい相撲界と接している浅井さんは頑張り屋が好きで、最近は特に朝天舞に力を入れて応援している。今朝も部屋の朝稽古に顔を出しチャンコの後、愛知県体育館へ。今場所不調な朝天舞だが、今日は前に出たところ土俵際すくわれ反転するも、居反りで館内を沸かせての初白星。取組後、館内の食堂で食事をご一緒したそうだが、普段から大きい浅井さんの声は、嬉しさと興奮のあまり食堂内に響きわたっていた、ことと思われる。苦戦を乗り越え、今日は5戦全勝。
平成26年7月22日
幕下以下は7日間の勝負なので、2日に一回の取組。2日毎に取組が決まる。取組のことを「割り」といい、取組表のことを「割り紙」という。新しい割りは2日毎に出るから、偶数日(2日目、4日目、6日目、・・・)に次の対戦相手が初めてわかる。新たな取組が決まる日を「割り返し」ともいい、割り紙を手にして対戦相手の名前を見ると緊張感も一気に高まる。割り紙は、夕方に刷られて場所に遅くまで残っている付人か行司が持ってくる。もっとも最近はネットで確認する力士も多いが・・・。今場所第一号の勝越しを決めた朝興貴は、明日11日目新幕下昇進をかけて元幕下上位の翔傑との割り。
平成26年7月23日
三段目19枚目の朝興貴、今日勝てば幕下昇進が濃厚となる一番。相手は最高位幕下4枚目の大きな力士。最盛期より衰えてきているとはいえ実力者であることには間違いない。捌く行司は木村悟志。立合いから得意の双手(もろて)突きの腕が良く伸び、突っ張って、突き切って、ほぼ電車道での完勝。木村悟志から「アサコウキ~」と勝名乗りを受け、幕下昇進を決定的なものにした。あまり表情を変えないタイプだが、さすがに嬉しそうで、晩飯の時にもいつもより冗舌な朝興貴がいた。早く朝弁慶に追いつき、朝天舞も加わり、出世争いを激化させてもらいたい。
平成26年7月24日
神山、今場所も横綱鶴竜の助っ人付人。井筒部屋の若い衆が少ないこともあり、しばらくは助っ人稼業がつづきそうである。純白のキャラコ(高級木綿)の横綱は、少しの汚れも許されない。手袋をつけ細心の注意を払って扱うが、それでも人が関ること、汚れや指の怪我で血がつく等、不慮の事態も起こるそう。そういう場合は、シッカロールか最終手段として修正ペンを使うこともあるという。そういう事態に対応できるのも神山がいてこそ、のこと。その分疲労困憊も激しく3連敗だったが、自分の修正も効いたようで、3連勝と持ち直し最後の一番に勝越しをかける。
平成26年7月25日
昨日12日目が最後の割り返しで、幕下以下は13日目,14日目,千秋楽の3日間のうちいずれか一日が最後の相撲になる。3勝3敗の力士は千秋楽になることはなく、今日13日目か明日14日目に必ず割りが組まれる。お相撲さん的には、できれば13日目で終われるとラッキーである。とくに4勝2敗もしくは5勝1敗と勝越して13日目に割りがあると、このうえなく嬉しい。最悪なのは、負越しが決まってからの千秋楽の割り。負越したうえに終わるまでは気が休まらないし、何かと忙しい千秋楽の日に体育館まで行かなければならない。高砂部屋一同の今場所は、ラッキーな今日13日目の割りが一人もなく、3勝3敗の3人が明日14日目。勝越し二人と、負越し組は全員千秋楽の割り。
平成26年7月26日
雪駄が履けるのは三段目からだが、高砂部屋では「上がったことに満足せぬよう」との師匠の方針で、2場所目(三段目に残ると確定した時)から履くことが許される。今場所、初三段目だった朝上野、下駄履きでの体育館通いだったが今日勝越せば晴れて念願の雪駄履き。神山に買ってもらった雪駄を持参して場所入り。見事勝越して、帰りは雪駄履きで帰って来た(下駄を抱えて)。幕下15枚目朝弁慶、惜しくも負越し。朝赤龍は、我慢の相撲で7勝7敗、千秋楽に勝越しをかける。
平成26年8月4日
昨日3日、名古屋から全員帰京。今日4日から稽古始め。暑い名古屋から帰ってきても猛暑つづきの東京だが、今週一週間は毎夏恒例の部屋開放。師匠と共に朝弁慶と朝乃丈が指導員となり、昨年に引き続き千葉県市原市のチーム金星の子供たちを指導。昨日はわんぱく相撲全国大会。明日からは国技館で相撲の全国高校総合体育大会(インターハイ)も行なわれる。週末は、全国都道府県中学生相撲選手権。大相撲はお休みでも、アマチュア相撲真っ盛りの盛夏8月。
平成26年8月6日
インターハイのお手伝いに来ている近畿大学相撲部の学生13人が部屋で四股やぶつかり稽古に汗を流す。近畿大学相撲部の監督は、伊東勝人氏。青森県五所川原商業出身で、小兵ながら平成3年にはアマチュア横綱の栄冠にも輝いている。昔の巡業の話になり、小さい頃から相撲が好きで青森に大相撲巡業が来たときはサインをもらいによく行ったという。相撲少年憧れの横綱大関のサインが欲しいのだが、付人がガードしていてなかなか近づけない。それでも「サインお願いしまーす!」と大きな声でお願いすると、制止する付人の向こうから横綱北の湖が、「いいよ、おいで」と声をかけてもらったと懐かしげに話す。明日からは青森合宿、富山合宿と遠征続きで、大学相撲部監督も大相撲と変わらぬ旅芸人生活。
平成26年8月10日
8月7日に、朝赤龍と付人朝興貴が夏巡業に出発。7日、福島県いわき市で復興祈願イベントを行い、8日は茨城県石岡・小美玉場所。9日新潟で、今日は山形県長井市。明日は宮城県加美町で明後日が秋田市。お盆に北海道へ渡り、15日は千歳。つづいて16日札幌、17日釧路とまわって帰京する。ただし、北海道へ渡るのは幕内のみで十両は秋田から帰京となる。毎夏恒例の高砂部屋平塚合宿は、8月21日に乗り込み、稽古は22日(金)から24日(日)まで。9月場所番付発表は、9月1日(月)。
平成26年8月12日
一昨年からはじまり恒例化しつつある高知合宿。今年は、10月7日から14日まで行なわれることに。7日夕方に高知市営相撲場に入り、稽古は8日から13日まで。今年は合宿期間中に愛媛県八幡浜市市民ギャラリーで、初代朝汐生誕150年・横綱前田山生誕100年を記念して、『郷土が生んだ力士たち 大関朝汐、横綱前田山展』が開催される(10月4日~11月9日)。会期中の10月12日日曜日に4代目朝潮(横綱(男女ノ川を含めると5代目)である現師匠の講演と、高砂部屋力士による相撲教室も行なわれます。
平成26年8月13日
初代朝汐太郎が生まれたのは150年前の江戸末期1864年(元治元年)。池田屋騒動の年で、吉田稔麿、久坂玄瑞、佐久間象山が亡くなった年。『野菊の墓』の伊藤左千夫、津田塾大創設の津田梅子等が同年生まれ。横綱前田山生誕の100年前は、1914年(大正3年)。角聖横綱常陸山が引退した年で、第一次世界大戦が勃発した年。安芸ノ海、羽黒山、名寄岩も同年生まれで、水泳の前畑秀子、金丸信、宇野重吉、丸山眞男、笠置シヅ子等も。現八幡浜市である愛媛県西宇和郡喜須来(きすき)村喜木(きき)で12人兄弟の五男として生まれた。子どもの頃からの腕白ぶりは近隣に鳴り響いていたという。
平成26年8月14日
昭和3年11月、後の横綱前田山こと萩森金松少年15歳のとき、故郷八幡浜に高砂一門の巡業がきた。金松少年の腕白ぶりを聞いた初代朝汐ゆかりの人が、元射水川の初代若松親方に紹介。若松親方が3代目高砂親方(元大関2代目朝汐)の元へ連れていった。昭和4年1月、故郷の村からとった喜木山の四股名で初土俵。入門してからも暴れん坊ぶりは健在で、入門一年半佐田岬と改名した17歳の頃大酒を浴びて破門されかかり、そのまた1年半後まだ18歳の頃、酔って火事場に乱入し消防士からホースをもぎとり大暴れ、ついに破門となってしまった。
平成26年8月15日
横綱前田山英五郎の波乱の人生について、1995年に刊行された『どかんかい』(今田柔全著BAB出版局)から紹介している。破門され故郷八幡浜へ一旦へ帰るも、再び部屋へ戻って出直し。それでも酒癖は改まらず度々問題を起こし、3代目高砂の師匠を悩ませる。そんな荒くれ生活ながらも激しい気性で稽古には励み、昭和8年5月夏場所幕下3枚目で7勝4敗の好成績で19歳での十両昇進を決める。新十両の場所前、博打場の帰り浅草でヤクザ20人に囲まれ返り討ちにするも、右上腕に刀傷を受け、その傷がもとで骨髄炎に。新十両の場所を休場、慶応病院で手術を受けることになる。
平成26年8月16日
手術を行ったのは前田和三郎博士。前田博士は慶応大学医学部教授で整形外科主任。京大卒で文部省在外研究員として外国を回り、熊大整形外科医長を経て慶応へ。39歳ながら日本の整形外科医の中で三本の指に入るといわれた名医。当時の医学では腕を切り落とすしか方法がなかったのだが、前田山(当時は佐田岬)が泣きながら叫ぶ「もう一度相撲が取れるようになりたい!」という悲痛な訴えに、前田博士も「やれるだけやってみましょう」と、約一年、5度に亘ることになる手術を決意。
平成26年8月17日
抗生物質がない時代。手術は腕を切り開き骨髄の膿を拭い取り、木槌とノミで腐った骨をコンコンと削っていく方法だった。昭和9年1月新十両の場所を全休、幕下に落ちた5月場所も全休。焦りと不安から盛り場で大酒を飲んで暴れ、止めにきた警官まで張り飛ばしてしまい、またまた破門。今度こそは無理かとガックリ肩を落としていたところ、孫文や蒋介石とも親交のあった好角家頭山満が師匠にとりなしてくれ復帰が叶う。禁酒を誓い、以後3回の手術、10年1月場所から再起することになった。それまで佐田岬だった四股名を、前田博士にお願いして前田山と改め、下の名前は、頭山の命名で英五郎。前田山英五郎が誕生した。
平成26年8月18日
一度あきらめかけた相撲を再び取れる喜び。以前にも増しての闘志あふれる相撲で、復帰の昭和10年1月場所5勝1敗の成績。つづく5月夏場所では10勝1敗で幕下優勝、十両復帰を果たした。11年1月再十両の場所でも8勝3敗、5月は10勝1敗で十両優勝、12年1月場所の新入幕を決めた。新入幕の場所7勝4敗、つづく5月も9勝4敗の好成績で小結に昇進。新小結の13年1月場所横綱玉錦を破り11勝2敗の成績で、関脇を飛び越え大関昇進。場所後、半ば厄介者扱いだった故郷八幡山へ凱旋巡業。熱烈な歓迎を受け、さらに松山、今治でも巡業。一躍伊予のヒーローとなった。
平成26年8月19日
組織だった後援会がない時代、新十両の化粧回しは自分で作らなければならなかった。ふつうは故郷で盛り上がってとなるのだが、悪童の限りを尽くした地元からはそういう話は起きてこない。困り果て、小学校の担任の先生に手紙を書いた。先生は教え子からの手紙に涙して、知人に頭を下げまわり化粧回しをつくってくれた。先生の奔走のおかげで出来た化粧回しも骨髄炎の手術で披露することができなかったが、先生からは励ましの手紙が絶えなかった。前田山英五郎と改名してようやく返事を書いた。
『拝啓、お手紙有難く拝見いたしました。実に永々とご無沙汰致しまして申し訳ございません。(中略)昨年5月巡査と争い親方より破門され同僚には信用を失い、全く一人ぼっちになり私としては全く残念至極。このことが国士、頭山満先生の耳に入り手紙がきました。私はすぐ先生のお宅へ行き、心の奥底まで充分話しました。先生は喜んで私を引受けて下さいました。その時から私も考えました。(中略)郷土の人が悪口を言っていることは、前から知っています。先生にお手紙を出さなかったのは悲観されてはと思いご無沙汰しました。父母の方へ手紙を出しましたが何の便りもありません。親からも見放され残念です。人はもううらみません。自分を責めています。来る本場所十一日からです。神かけて勝ち越します。勝ち越して郷土の面目を立てます。信用して下さい。(後略)』
平成26年8月20日
恩師は往田(旧性安藤)進先生という。昭和15年1月発行の相撲雑誌(当時は雑誌『野球界』増刊相撲号)に往田先生から前田山への手紙が掲載されている。大関に昇進して3場所目昭和14年5月場所後に書かれた手紙。今場所も打倒双葉山が成らなかった無念と横綱を目指すための心構えを綴り、叱咤激励している。『(前略 関取は甚だ多趣味です。野球、ダンス、写真、撞球(ビリヤード)、囲碁、麻雀、・・・小生は関取の此の多趣味がいけないと思います。いつかも話したように、関取の場合は趣味が多いから肉が附かぬというのが小生の持論です。(中略)関取は元来生活力旺盛な体質である関係からか、小学生の頃から、じっとして居られぬ性分でしたが、関取の多趣味もここから来るものと思っています。(中略)即ち平常の生活に於てより一層節制に心がけて体力、心身の消耗を避け、心身共に円満な発達を遂げてくる時が、関取が力士として完成に近づく時であり、やがては日の下開山となって相撲史上に大なる足跡を印する時だと思います。』
平成26年8月21日
往田先生の手紙は次のように締められている。『前田山関、小生はいやしくも天下の大関に向かって誠に悪辣極まる言葉を吐いてきましたが、他意あってのことに非らず、十数年来一貫してきた関取に対する愛情から真実を吐露したまでのこと、願わくは大関という格式を引込め、昔の佐田岬の心を以て小生の意のある處(ところ)を酌取られんことを祈ります。』今日から湘南高砂部屋後援会主催の平塚合宿。夜、歓迎会。落合克宏平塚市長や河野太郎衆議院議員もお越し頂き21年目となる平塚合宿を祝う。明日から3日間、平塚市総合運動公園内土俵にて稽古。
平成26年8月23日
平塚合宿稽古2日目。稽古の後、わんぱく相撲。呼出し邦夫と行司木村朝之助も参加して大会を大いに盛り上げる。終了後、平塚市民へのちゃんこの振舞い。大鍋2つに豚味噌ちゃんこ400食。豚肉20kgに箱単位の野菜。会員のご婦人連のお手伝いでまたたく間に材料切りも進み、あいにくの雨の中みなさん軒下に入ってのちゃんこ。夕方、駅前広場でふれあい交流会。スイカ配って、目隠し風船割りやヨーヨーで子どもたちと楽しく遊ぶ。夜は、研修所の中庭でバーベキュー。最後は、朝弁慶による老若男女お姫様抱っこ撮影会。実際やってもらうと目線の高いことにビックリ!
平成26年8月24日
昨日の平塚駅前のまちかど広場での「力士と夕涼み会」。お母さんと幼児の親子連れで賑わったが、カップルで来ていた女性から「今日は大子錦さんは?」と尋ねられた。聞けば、1年前の平塚合宿の折、汗だくになりながら大鍋でちゃんこを作っている大子錦の姿を見てファンになったとのこと。藤沢在住だそうだが、国技館や節分の鎌倉長谷寺の豆まきまで追っかけしているといい、豆まきで撮った写真まで持参、見せてくれた。紛れもない大子錦の下ぶくれの写真に、取り囲む力士達から「ウオーすごい」という歓声。大子錦ファンを名乗ったばかりの思わぬ大歓待に戸惑いつつも合宿所まで来て大子錦と記念撮影。こういう出会いも合宿ならではのこと。午後1時半過ぎ、お世話になった湘南高砂部屋後援会会員の皆様に見送られ帰京。
平成26年8月31日
金曜土曜で土俵築。金曜の朝、四股を踏んで土俵を掘り起こし水を撒き、もう一度ひっくり返して更に水を撒く。翌日土曜日に、まっすぐに均した土をタコで突き固め、削り、また突き、タタキで叩いて仕上げていく。高砂部屋の東京の土俵は、俵を入れない伝統の皿土俵。円の内側を4,5cm掘り下げて土俵の外と段差をつける。角はビール瓶で叩き、転がし、崩れぬようなだらかに固める。いつの頃からであろう。横綱前田山が入門した昭和初期には皿土俵だったようだが。今日は稽古休みで、明日9月場所番付発表。明後日から稽古再開、千秋楽まで休みなし。
平成26年9月1日
9月場所新番付発表。何といっても嬉しいのは新幕下の朝興貴と新三段目の朝ノ島。幕下41枚目と三段目99枚目に昇進。番付が一段上がると字が一回り大きくなり、インクの匂いも真新しい新番付に自分の名前を見つける喜びはひとしおである。もっとも午前中は番付の発送作業に忙しくて喜びに浸る間はないが。先場所幕下15枚目で3勝4敗だった朝弁慶は20枚目。7月場所新三段目で勝越して自己最高位更新の朝上野、今場所から改名して朝轟。
平成26年9月2日
改名は、三段目に上がったときにという場合は割りと多い。また、怪我がつづいいたり伸び悩んだりしているときに、心機一転と改名することもある。師匠が変えるときもあれば、自分で考えたり、郷里や知人からの提案だったりのときもある。最終的には師匠の許可をもらって場所後の番付編成までに提出する。朝轟は、周りからの勧めもあって先場所師匠に願い出ての改名。「朝上野大介」改め「朝轟繁」。「繁」は7月に亡くなったお祖父さんの名前。力士になったことを一番喜んでくれたお祖父さんのためにも朝轟の四股名を轟かせなければならない。
平成26年9月7日
四股名には、部屋の歴史や郷里の山河を背負うものがあれば、恩師や肉親の名に因むもの、ダジャレ、言葉遊び的な珍名、さまざまな命名がある。朝轟で思いだしたが、昭和30年代後半から40年代にかけて轟亘(とどろきわたる)という力士が登場した。さらに遡れば、明治大正時代には、不了簡綾丸(ふりょうけんあやまる)、文明開化(ぶんめいかいか)、自働車早太郎(じどうしゃはやたろう)、自転車早吉(じてんしゃはやきち)、突撃進(とつげきすすむ)、貫キ透(つらぬきとおる)、などという四股名も実在した。
平成26年9月8日
現在の番付にもユニークな四股名がいくつか見られる。テレビでも話題になっている「育盛」(そだちざかり)。同じ式秀部屋で「宇瑠虎」(うるとら)。ちなみに宇瑠虎の下の名前は「太郎」。さらに式秀部屋には「桃智桜」(ももちざくら)もいる。少し前に話題になったのは「右肩上」(みぎかたあがり)。流行りのキラキラネームともいえるのか、「天空海」は(あくあ)と読ませる。共にロシア出身の「阿夢露」(あむうる)や「大露羅」(おおろら)なども、相撲を知らない人にとっては驚きの四股名になるのであろう。
平成26年9月10日
高砂部屋力士の頭についている「朝」は、師匠の朝潮の「朝」。「朝潮」は高砂部屋伝統の由緒ある四股名だが、何度か紹介しているように、今年が生誕150年の愛媛県八幡浜出身の初代朝汐太郎から始まる。故郷八幡浜に因んだ四股名だったようで、明治23年大阪相撲の押尾川部屋から東京相撲の高砂部屋に移籍したとき、「そんな素人くさい名前は改名したらどうだ」といわれたが、「自分が出世すれば立派な四股名になる」と言ったという。事実、その後朝汐ならびに朝潮を名乗った力士は全員横綱大関になっている。
平成26年9月11日
2代目朝汐も愛媛県の出身。本名坪井長吉。明治12年愛媛県新居郡玉津村(現西条市)の生まれ。力自慢を見込まれて初代朝汐に紹介され、明治34年22歳での入門。朝嵐の四股名で小結に上がり、関脇で2代目朝汐太郎を名乗る。その後朝潮太郎に改名して大正4年大関昇進。176cm113kgという筋肉質の体で、右を差すと無類の強さを発揮し、「右差し五万石」とも「十万石」ともいわれたという。引退後三代目高砂浦五郎を襲名して、横綱前田山、男女ノ川らを育てた。長命で昭和36年82歳での没。
平成26年9月12日
3人目に朝潮を名乗ったのは横綱男女ノ川。昭和4年5月場所から昭和7年1月場所まで朝潮として番付に名を載せる。高砂部屋幕内阿久津川の内弟子としての入門で、男女ノ川の名で番付を上げていくが、昭和4年3月前頭4枚目で9勝2敗と好成績の翌場所朝潮に改名。すでに阿久津川の佐渡ヶ嶽部屋所属だが高砂部屋預かりという形で、3代目高砂親方の独断での命名に、高砂、佐渡ヶ嶽の間で一悶着あったという。春秋園事件で脱退して、3代目高砂の怒りを買い朝潮の名を剥奪され、元の男女ノ川に戻った。その後、佐渡ヶ嶽部屋男女ノ川として、大関、横綱と上っていく。もちろん高砂一門の佐渡ヶ嶽部屋で、稽古は高砂部屋で行なっていたはずである。男女ノ川のみ名前が「太郎」ではなく、本名のままで「朝潮供次郎」。
平成26年9月13日
4人目は、わが故郷(徳之島)の英雄第46代横綱朝潮。入門の経緯については以前(11月16日)に紹介したが、入門時から元横綱前田山の4代目師匠が「将来は横綱になる」と公言していたという。その分、厳しい稽古を課せられたろうが、それに耐え負越し知らずで7場所目(当時は年3場所)には入幕。入門4年目の昭和25年5月場所、本名の米川文敏から朝潮太郎に改名した。昭和31年1月場所から朝汐に改名、翌場所初優勝を果たすが大関昇進は32年5月場所。34年5月場所から横綱。この年創刊の少年マガジンの表紙を飾った。35年7月場所から再び朝潮に戻して37年1月場所で引退。優勝5回のうち4回が大阪場所で、大阪太郎とも呼ばれた。明日から初日。大子錦、朝西村は休場。
平成26年9月14日
5人目の朝潮は現師匠。近畿大学で2年連続学生横綱、アマ横綱の両タイトルを獲り、鳴り物入りでの入門。本名の長岡の四股名で初土俵を踏み、幕下、十両をそれぞれ2場所で通過して5場所目には新入幕。入門1年後の昭和54年3月場所に朝汐太郎を襲名。昭和57年11月場所からは朝潮に改名。58年3月場所後に大関昇進。平成元年3月場所引退して平成2年3月場所から若松部屋を継承。平成14年2月から7代目高砂浦五郎を襲名している。秋晴れの九月場所初日。本所界隈の牛島神社祭礼とも重なり祭り囃子の中を場所入り。汗ばむほどの陽気で、初日早々満員札止め。
平成26年9月15日
幕下20枚目の朝弁慶、会心の相撲での初日。初土俵は、本名に朝をつけて朝酒井。3年目の初三段目の場所から朝弁慶と改名。命名者は十両格行司木村朝之助。はじめのうち実家の怒りをかった名前だったようだが、改名後の好成績もあり、朝弁慶の四股名でどんどん番付を上げてきて、お母さんも最近は納得しているよう。ただ、その弁慶というラーメン屋さんにはたまに、「息子さん頑張ってますねぇ」というお客さんがあるらしい。さすがに弁慶本人は、まだ行ったことはないそうだが。
平成26年9月16日
木村朝之助は、高砂部屋に伝わる由緒ある行司名。初代は明治から大正にかけての方で、後の18代木村庄之助。2代目は終戦後に十両格となり朝之助を名乗るも、途中、木村誠道に改名している。その後再び木村朝之助に戻しているが、木村誠道も高砂部屋伝統の行司名。3代目が、平成19年3月場所を最後に引退した33代木村庄之助。十両格昇進時から28年間木村朝之助を名乗り、平成18年3月場所式守伊之助を襲名、翌5月場所から33代木村庄之助を襲名した。4代目が現在の木村朝之助。やはり、十両格に昇進した平成20年1月場所から襲名している。朝興貴と朝ノ島、共に初幕下、初三段目の場所で初白星。
平成26年9月17日
三段目格行司木村悟志は、木村姓に本名の悟志(本名は前田悟志)。行司さんの改名は、十両格昇進時が多いが、それ以前でもありで、現在の幕下以下にも木村勘九郎(かんくろう)とか式守錦太郎(きんたろう)の名もある。改名の話題になり、木村カエラにしたらとかも言われていたが、さすがにそういう訳にもいかず、悟志のまま。十両格昇進時に木村誠道という伝統ある名を復活させるのもいいかも。ただ十両格昇進は、まだ十数年先のことになりそうだが。朝金井、朝乃丈、朝弁慶、2連勝。4日目、久しぶりの前半戦平日での満員御礼。今日も4勝2敗と好成績で、高砂部屋も4日間勝越しつづき。
平成26年9月18日
呼出しさんは、四股名や行司名のように世襲する名はなく、ほとんどが本名を名乗っている。共に十両呼出しの邦夫と利樹之丞。邦夫は、本名の邦朗の漢字を変えて邦夫。利樹之丞は、はじめ本名の利樹を名乗っていたが、平成17年1月場所から利樹之丞に改名。高砂部屋の先輩呼出し多賀之丞(1月12日~14日)に因んでの改名。2勝4敗と今場所初めての負越し。
平成26年9月19日
幕下41枚目朝興貴、新幕下の場所で2勝1敗と白星先行。しかも、先場所6勝1敗の成績で40枚近く番付を上げての白星先行だから立派なもの。今日も、学生相撲出身の実力者相手に、突っ張って押し込んでの叩きこみ。先手先手と攻める相撲が光っている。大阪の興國高校出身で、母校の校名と本名の祐貴から一文字ずつとっての朝興貴。四股名に母校の期待も背負っている。朝弁慶、豪快に押し倒して3連勝。
平成26年9月20日
新大関豪栄道の四股名は、本名豪太郎の「豪」と出身高校の埼玉栄高校の「栄」の字を入れている。十両に大栄翔という力士もいる。さすがに名門強豪校だけあって、現役だけでも10人超、引退力士を含めると出身力士は20人近くにもなる。朝赤龍、朝乃土佐が卒業した高知明徳義塾高校も、現役関取5人(琴奨菊、栃煌山、東龍、徳勝龍、朝赤龍)と多い。横綱朝青龍の下の名は、母校の校名そのままに明徳(あきのり)。他に鳥取城北高校、熊本文徳高校なども力士を多数輩出している。
平成26年9月21日
今日勝って3勝目を上げた朝乃土佐は、高知県土佐市の出身。故郷の地名を背負っての四股名。故郷の山河を四股名に取り入れるのは昔からの正統的な命名。古くは角聖と呼ばれた常陸山。大正期の小さな大横綱栃木山。双葉山の69連勝を止めた安藝ノ海。同時代に笠置山、鹿島洋、相模川、射水川、などなど。少し前は、横綱三重ノ海、黒姫山、青葉城、青葉山、幡竜山、陸奥嵐。現役関取では、隠岐の海、土佐豊、北播磨の三人。昔より減っているのは時代の流れなのか。朝弁慶、勝越しならず。
平成26年9月22日
今場所休場中の大子錦は茨城県久慈郡大子町の出身で大子錦。先代師匠(元富士錦)のときの命名なので、「朝」はついていない。以前紹介したように、はじめは「太子錦」と「太」の字だったのを「大子錦」に改名。地元の大子第一高校(現在は大子清流高校)の出身で、錦戸部屋には高校の後輩である大子富士(出身は水府村)がいる。似たようなアンコ型だが、似ていると言われるのをお互い嫌がっている。痛めたアキレス腱もだいぶ回復し、毎日ちゃんこの腕を奮いながら復帰の時期を見計らっている。朝弁慶、朝乃土佐、勝越し。
平成26年9月23日
今場所初めて三段目の土俵で相撲を取っている朝ノ島、1勝3敗と後がなくなったが、今日は頭で当たって一気の押し相撲、電車道での2勝目。鹿児島県徳之島の生まれで、はじめは朝奄美の四股名であったが、昨年3月場所から朝ノ島に改名。ふだん「シマジロウ」と呼ばれていて、下の名も合わせて改名して「朝ノ島次郎」。あと2勝すれば、晴れて雪駄を履けるようになる。朝天舞、270kgの大露羅を真向から押し出して3勝目。
平成26年9月24日
朝金井、今場所3人目の勝越し。本名に「朝」をつけて「朝金井健真」。四股名に下の名前がつくのは、序ノ口に上がり番付に名前が載るようになってから。前相撲のときには、姓名でいえば姓のみで土俵に上がる。前相撲のときは、父親とも相談のうえ「朝健真」と名乗った。ところが出世して下の名前をどうするかという話になり、朝健真健真ではおかしいし、他の名前も考えたのだが、結局「朝金井健真」に落ち着いた。番付を上げていくと、また改名の話も出てくるであろう。朝乃土佐、5勝目。
平成26年9月25日
高知県は安芸市出身の朝乃丈、初土俵から6年半は朝久保の四股名で相撲を取っていた。7年目となる平成22年7月場所から朝乃丈と改名。ふつう改名した場所は勝ち越すのだが、1勝6敗と大負けだったのはクボユウらしい。朝乃丈の四股名がなじんでくるにしたがって、ジワジワと番付を上げてきた。今日勝って3勝3敗。朝ノ島も土俵際粘って3勝3敗と踏みとどまる。朝轟、今場所高砂部屋初の負け越し(こちらも改名場所だったのだが・・・)。朝赤龍、不戦勝で6勝目。
平成26年9月26日
改名の場所は本当に勝越しが多いのか調べてみた。朝弁慶は、2度目の三段目昇進の場所、朝酒井から朝弁慶に改名して6勝1敗。朝天舞は、入門時の朝花田から朝道龍に改名した場所、5勝2敗。2年後、朝縄に改名して4勝3敗。そのまた2年後現在の朝天舞に改名した場所も5勝2敗。朝ノ島は、朝奄美から改名の場所、4勝3敗。神山も、合併したとき神山だった四股名を笹川の本名に戻した場所、5勝2敗。そして再び神山に改名の場所も4勝3敗。やはり、朝乃丈、朝轟の2人以外は全員勝越していた。大子錦、5月場所以来の本土俵。白星で飾る。
平成26年10月7日
今日から高知合宿へ出発。合宿所は、市内大原町の高知市総合運動場相撲場。1階の稽古土俵において8日(水)~13日(月)まで。
平成26年10月8日
高知合宿稽古初日。午前8時から開始して10時半過ぎまで。稽古終了後、毎年恒例になってきた高知市からの歓迎セレモニー。市役所と高知県観光コンベンション協会からカツオと清酒が贈呈され、新聞各社やテレビ局の取材も多数。夕方5時から相撲健康体操教室。朝弁慶と朝興貴が先生になって、子どもたちに相撲健康体操の指導。ただ、集まった子供たちが幼すぎ、体操の途中からお相撲さんにぶつかりだして大はしゃぎ。体操を中断して、お相撲さんと遊ぼうコーナー状態。相撲健康体操の方は、子どもを連れてきて上がり座敷で見学していたお母様方に一緒にやってもらい、みなさん結構いい汗かいた模様。
平成26年10月9日
高知合宿2日目。平日にもかかわらず多くの見学者がつめかけ、上がり座敷は満席状態。夕方の相撲健康体操教室にも昨日の3倍増の子どもたちが集まり、蹲踞や四股、伸脚といった体操と、朝弁慶と朝興貴へのぶつかり稽古。みんな元気よく、お相撲さんもタジタジなほど。終わった後、お風呂場で足を洗い、上がり座敷までの5mくらいの距離を、お相撲さんに“高い高い”で運んでもらい、またまた大喜び。「楽しかった!楽しかった!」と、目を輝かしている。
平成26年10月10日
高知の子どもたちは今日も元気いっぱい。相撲健康体操が始まる5時15分前には来て、土俵を走り回っている。それでも、5時になると整列して蹲踞の気鎮めの型から体操がはじまる。3日間皆勤賞の子が3人半(1人は1才児くらい)いて、蹲踞や四股の恰好もずいぶん様になってきた。面白いもので、初日は参加者4人だけだったので体操の途中からふざけだしてお相撲さんと遊ぼうコーナーになってしまったが、昨日今日は15人余りの子どもたちなので、意識も違ってくるのか、2回通して最後までやりきる。最後はお相撲さんにみんなでぶつかり稽古。記念撮影をして3日間の相撲健康体操終了。
平成26年10月11日
土曜日とあって明徳義塾の高校生や県内の中学生も稽古に参加して賑やかな稽古場。明徳の1年生に、昨年の全国中学選手権3位の子がいて、朝金井とは同級生になる。本格的に相撲をはじめて半年の朝金井、まだ全中3位の子にほとんどかなわなかったようだが、一番はいい相撲でめを出したそう。来年高知に来た時には逆にならなければならない。アマチュアに負けた悔しさをこれからの稽古に生かしていければ、合宿に来た成果は大きい。
平成26年10月12日
以前から何度か紹介しているように、今年は初代朝汐生誕150年、横綱前田山生誕100年で、2人の故郷愛媛県八幡浜市で展示会が開催されている。その記念行事の一環として前田山の母校喜須来小学校で生誕百年記念相撲大会ならびに高砂部屋による相撲教室が行なわれた。全校生徒130人くらいで、まずは相撲健康体操を行ない、朝弁慶、朝乃丈へのぶつかり稽古。さすがに横綱前田山の後輩の子どもたちだけあって元気はつらつ大盛り上がり。相撲大会団体戦の決勝戦も最後までもつれ、お相撲さんも身を乗り出すほど。夕方市民ホールで師匠による講演が行なわれ、終了後台風接近中の四国路を高知へもどる。八幡浜市民図書館での展示会は11月9日(日)まで。貴重な資料や写真が満載で、利樹之丞作・唄の記念甚句も流れています。
平成26年10月14日
台風19号の影響で飛行機が危ぶまれたが、台風一過の青空が広がり定刻通り午前11時45分に高知龍馬空港を出発。荷物を預けて2階の搭乗階に上がったところに係員が飛んできて力士の体重を知りたいとのこと。それぞれの体重を教えたが、アンコ型力士は適当に座席がばらけていたようで、とくに座席の変更はなかったもよう。お土産を買い込んで、ご飯お代り自由のカツオのタタキ定食で丼3杯をお代りして無事搭乗。週末18日土曜日から先発隊が福岡へ出発。
平成26年10月18日
先発隊6人(大子錦、朝弁慶、朝興貴、朝轟、朝金井、松田マネージャー)福岡唐人町成道寺入り。今日の福岡は雲ひとつない秋空が広がり、快適に作業がすすむ。本堂にゴザを敷き、カーテンを張り、ふき掃除。洗濯機をセッティングしてシャワーを浴びて、晩飯は一年ぶりの藁巣坊。初すぼの朝金井、藁巣坊ギョーザやニラ玉、豚骨ラーメンに、「うめぇー!!」と大感激。今日から一月半の九州福岡博多三昧。
平成26年10月19日
今日も秋晴れの福岡。午前8時半に唐人町の宿舎成道寺を出発して、九州場所中の家財道具一式を預けてある大牟田の倉庫まで。ちゃんこ道具や冷凍庫冷蔵庫7台、自転車12台、衣装ケースなどなど、4トンと2トンのントラックに山のように積み上げ方道1時間余りの道程。10月から福岡勤務になったゴーヤーマンも早速登場して、運転や荷物の上げ下ろし作業に加わる。1ヵ月半にわたるゴーヤーマンの九州場所も今日から始まる。
平成26年10月26日
巡業から朝赤龍関、朝ノ島、頭(かしら)、木村朝之介、邦夫、神山と博多入り。東京からは、朝乃土佐、朝天舞、朝乃丈が相撲列車にて博多駅へ。昨日巡業の先発から福岡入りした利樹之丞、木村悟志と全員が宿舎の唐人町成道寺に入り、いっきに賑やかになる。それぞれ1週間か2週間ぶりだが、こうやって全員お寺にそろうと妙に懐かしさがある。明日番付発表。明後日土俵祭で稽古再開。ひと月余りのの九州場所が始まる。
平成26年10月28日
昨27日が11月場所番付発表。十両朝赤龍は、先場所の東7枚目から半枚落ちて西7枚目。幕下20枚目で勝越しだった朝弁慶、3枚上がって17枚目。41枚目で勝越しの朝興貴は、7枚上がって34枚目。今場所は、全般的に落ち方も上がり方も少なめの昇降。勝越し負越しによる昇降は、ある程度の目安はあるが、場所によってかなり違いがある。これも番付の面白さではある。自己最高位更新は、朝興貴と朝金井。木村朝之介による土俵祭で稽古始め。
平成26年10月29日
番付の昇降は、地位によっておよその目安がある。同じ勝ち星でも下の方が上がり方は大きくなる。序ノ口だと、勝ち越すと即序二段に上がるし、序二段の60枚目くらいで6勝だと三段目が見えてくる。きのう書いたように場所毎の違いはあるが、序二段の35,6枚目は5勝での三段目昇進圏内で、4勝で上がれるのは22,3枚目になるであろう。今場所の朝轟(6枚目)、朝ノ島(18枚目)は4勝での三段目昇進圏内。三段目から幕下に4勝で上がれるのは、東の11枚目辺りが基準になっている模様。幕下から十両へ上がれるのは、東の筆頭のみが安全圏内。西の幕下筆頭は、4勝しても東に半枚上がっただけという例が過去に何回かあった。
平成26年11月1日
番付の昇降についてメールをいただきました。平成20年11月場所、西幕下筆頭の隠岐の海は5勝2敗の成績を上げながら翌場所東幕下筆頭とのこと。西筆頭で5勝を上げながら昇進できなかったのは昭和41年代官山以来42年ぶりという番付運の悪さだったが、隠岐の海は翌場所東筆頭で7戦全勝優勝の優勝を決めて十両昇進を果たした。平成18年5月場所幕下15枚目格附出しでデビューの日大相撲部出身下田(現在若圭翔)は7戦全勝の優勝を果たしながら十両からの陥落者が少なく西筆頭止まり。その後の怪我の影響もあり、現在も三段目幕下で苦労している。
平成26年11月2日
番付は「順番付け」から来ていて、相撲が元祖。現在の縦一枚形式になったのは江戸中期からだそうで、江戸期は相撲番付にならい、全国の山や川、名所、酒、食べ物、学者、武芸者、仇討物語などなど様々な番付が刷られ流行し、いわば百科事典的な役目も果たしていたという。そういえば昔聞いた話だが、ある席で知り合った女性に、「番付送りますから住所教えて下さい」と言ったら、「あ、わたしお漬物は食べませんので」と断られた力士がいたそう。ところが、その甲斐あってなのかどうか、その後その女性と夫婦になったのだそう。(実話)
平成26年11月3日
十両、幕内は、原則的に勝越し1点につき1枚上がる。8勝7敗だと1枚、9勝6敗だと9-6=3で3枚の上がり方。あくまでも原則であって、周りの力士の成績との兼ね合いで4,5枚上がるときもあれば、半枚(西から東)しか上がらないときもある。先場所の朝赤龍は7勝8敗と1点の負越しであったが、東7枚目から西7枚目へと半枚の落ち方ですんだ。以前からわりと番付運はいいほう。幕下、三段目と番付が下にいくにつれ勝ち負けによる昇降の幅が大きくなってくる。秋場所、三段目で5勝の朝乃土佐は33枚上がったが、序二段で5勝の朝金井は46枚の上がり。序ノ口21枚目だった大子錦は1勝しかしてないのに(6休)、6枚番付が上がって今場所15枚目。この場合はこれ以上落ちようがないから上がっただけで、とくに番付運がいいとは言わない。
平成26年11月5日
ホテルニューオータニ博多にて激励会。九州後援会を中心にたくさんのお客様に集まっていただき、九州場所での高砂部屋力士一同の活躍を期しての祝賀会。司会は、地元福岡で人気の高いRKBラジオパーソナリティ―あべやすみさん。師匠が現役の時からの中洲での飲み仲間で、しゃべりの面白さからパーソナリティーに転職した有名人。今日もオヤジギャグ満載の軽妙なトークで盛り上げ、終始なごやかな宴。明日は午後3時から国際センターにて九州場所前夜祭。初日まであとわずか。
平成26年11月6日
番付は黒枠で囲まれ、真ん中一番上に「蒙御免」の大きな文字。「ごめんこうむる」と読み、江戸時代幕府の寺社奉行から興業の許可をもらいましたという証しの名残り。蒙御免の下に、開催年月日と開催場所が記される。「平成二十六年」「十一月九日より十五日間」と2行書かれ、「於福岡市博多区築港本町」「福岡国際センター」と2行つづく。さいごの5行目に「大相撲挙行仕候」。日程の「より」の文字は、「よ」と「り」の合字で、「与」を右斜めに倒し、下の横棒を消して縦棒を長くした文字。色紙の為書きなどでも贈り主の名前の下によく使われる。毎年恒例、地元当仁(とうにん)小学校4年生100名が稽古見学。
平成26年11月7日
番付の中央部分開催年月日と場所の下には、横書きで右から左に「行司」の文字。その下に「木村庄之助」「式守伊之助」と立行司2人の名前が大きく書かれ、以下、三役格、幕内格、十両格、幕下格三段目格、序二段格序ノ口格、と6段にわたって45名全員の名前が記されている。同じ裏方でも、呼出し、床山は、ある階級以上しか番付に名前が載らないが、行司だけは入門してすぐから番付に名前が出る。現在三段目格の木村悟志、来年初場所から幕下格昇進になるそうで、同じ5段目だが字が少し太くなる。
平成26年11月8日
行司は江戸明治期の番付にも載っている。ウィキペディアによると、呼出しは昭和24年5月場所に16人の名前が出たそうだが、昭和35年1月場所から若者頭、世話人と共に番付から名前が消え、平成6年7月場所から復活した。床山が番付に載ったのが一番遅く平成20年1月場所から。当時、特等床山だった春日野部屋床邦、高砂部屋床寿の尽力によるもの。当初、特等床山2名のみの記載であったが、平成24年1月場所からは一等床山13名(現在は15名)も名前が載るようになった。触れ太鼓が初日の触れ。「♪相撲は明日が初日じゃんぞーえ♪」朝赤龍には富士東、注目の逸ノ城は横綱日馬富士。
平成26年11月9日
朝7時過ぎに国際センターに行くと、当日券売り場に20人余りの列。前売り券の売れ行きが近年になく好調だっただけに、秋場所に引き続きの盛況を予感させる。開館前の国際センターは、出勤したばかりの関係者のみだが、「おはようございます」と交わす挨拶にも例年より明るさが感じられるような気がする。手持ちの切符が完売している安心感からなのかもしれないが・・・。しとしと雨に濡れた九州場所初日。熱気あふれる国際センターは早々の満員御礼。
平成26年11月11日
九州場所は、九州場所ならではのことが幾つかある。桝席は、前からAマス、Bマス,Cマスと順番になっていくのは他と同じだが、Cマスの後12列目13列目の桝席は「らくらくマス」として、4人マスを2人で使用。値段も2人分の¥19,000のお得席。この席は九州場所限定。その後ろ14列目はペアシートで、4人マスの中にイスとテーブルがセットされていて人気が高い。どちらも土日は完売だが、平日はまだ若干残っているようですので、お求めはお早めに。結びで横綱日馬富士が敗れる波乱。いつもなら、座布団が館内に舞うところだが、九州場所の桝席の座布団は2つずつ繋がっていて、さらにその2つセットを繋げてあり、投げられないようになっている。2008年からの導入で、座布団が舞わないのも九州場所ならではのこと。
平成26年11月14日
お茶屋さんがないのも九州場所ならではのこと。土産物などは、大相撲売店喜久家が扱っているが、東京や大阪、名古屋のお茶屋さんとは違い、売店のサービスの一環のような感じ。そういえば以前、九州場所売店で、甲子園の土ならぬ「土俵の砂」が販売されていたが、いまでもあるのだろうか。朝乃丈、3連勝。朝弁慶、朝興貴、朝金井は3連敗と、土俵際後がなくなった。
平成26年11月15日
満員札止めの7日目。幕下34枚目朝興貴と序二段43枚目朝金井、二人共自己最高位の番付で初白星。朝天舞、朝乃土佐が3勝目。
平成26年11月16日
今年3回目のアラの差入れ。九州場所でアラが美味しいというと、身をとった後の「魚のアラ」とカン違いされることがあるが、体長60cm~1mほどもある脂ののった白身の高級魚。ウィキペディアによると、スズキ目ハタ科の海水魚で関西ではクエ、四国ではアオナ、西日本でモロコと呼ばれ、九州での呼び方がアラとなる。他にハタ亜科アラ属のアラという魚もいるそうで、まことにややこしい。アラのちゃんこも九州場所ならではのこと。朝弁慶、4連敗での負越し。今晩師匠に付いてのお食事会で、沈痛な面持ちで出かけていった。
平成26年11月17日
お店のちゃんこでは、鍋の具を食べ尽くした後にうどん等麺類を入れ、最後は雑炊が定番となっているが、部屋のちゃんこでは、麺や雑炊は滅多にやらない。お相撲さんは、どんぶり飯のオカズとして、もしくはみそ汁代わりにちゃんこを食べるから。ただ、九州場所のときには、チャンポン麺が随時鍋の横に用意してあり、みんな結構好んで食べる。ちゃんこにはチャンポン麺がよく合う。東京や大阪、名古屋ではスーパーに行ってもチャンポン麺は滅多に置いてないが、福岡ではどこにでもある。ちゃんこにチャンポン麺を入れるのも九州場所ならではのこと。朝乃土佐、今場所第一号の勝越し。自己最高位の朝金井、負越し。
平成26年11月18日
本場だけあって辛子明太子の差入れは多く、ちゃんこの度に食卓に出される。また、お寺のご近所のおばちゃんが毎年つくってくれる『ごまさば』も、九州場所でしか食べられない味。朝乃丈、今場所3人目の勝越し。自己最高位にあがった朝興貴、今年3月場所以来の負越し。今場所は、ベテランから順番に勝越している。
平成26年11月19日
一年納めの九州場所。一年締めくくりの本場所だけに、忘年会を兼ねた親睦会も多々ある。横綱会、大関会、一門会、年寄総会、・・・だいたい東京場所毎に会費を集め、九州場所の時に料亭で納会,中洲で二次会という流れで、現役の横綱、大関といえどもこれらの会では、さすがに気を使うよう。奄美出身力士の親睦会『島人(しまんちゅ)会』も毎年九州場所中にちゃんこ重ノ海で行なわれている。ご当所ともいえる朝ノ島、しぶとく3勝3敗に星を戻す。朝弁慶、朝興貴、負越しが決まったもののいい相撲で2勝目。師匠がよく口にするのが、「勝越し、負越しが決まってからの相撲が大事」という言葉。
平成26年11月21日
先場所10年目にして初めて三段目に上がった朝ノ島、3勝3敗から最後の相撲に負けて今場所は序二段18枚目。勝ち越せば三段目復帰が濃厚な位置だが、今場所も1勝3敗と土俵際に追いつめられてから2連勝して今日が最後の一番。緊張があったろうが、左前褌を取って出し投げで見事な勝越し。稽古場でも見せたことがない技に、パソコンのネット中継を見守っていた輪からも、「これで雪駄が履ける」と拍手と歓声。幕下朝天舞も土俵際まで攻め込まれながらも逆転しての勝越し。
平成26年11月23日
今年初場所以来の勝越しとなった朝赤龍、勝越しに花を添える9勝目。勝ち越しても最後の一番に負けると嬉しさ半減だが、最後も白星で締めると嬉しさ倍増。負越しが決まっている朝弁慶、朝興貴、朝金井も最後の一番に勝って3勝目。最低限の負越しに抑えた。そんな頑張りがお客様にも伝わったのか、千秋楽打上パーティーの雰囲気も成績が悪かった昨年に比べると随分明るい。明日から稽古は休みで、後片付けをしながら1週間後の帰京の準備。
平成26年11月29日
福岡最終日。例年通り家財道具一式を大牟田の倉庫へ運び込む。昨晩からの雨が心配されたが、朝は雨が上がりお昼前には晴れ間まで出てきて予定通りに無事完了。家財道具一式を運び、本堂のゴザや仕切りのカーテンを外すと、もとのガランとした本堂に戻り、福岡最後の寂しさが一層漂ってくる。福岡勤務になり例年より多く部屋に来たゴーヤーマンも、明日は仕事だそうで、今日でみんなともお別れ。いつも一か月くらいは抜け殻状態だそうだが、今年はいつもに増して濃密だっただけに、何度もくり返しお別れの挨拶。また一年後。明日お昼過ぎ、新幹線(相撲列車)と飛行機(残務整理組)にて帰京。
平成26年12月6日
師走は相撲界も何かと慌ただしい。巡業組は、熊本、鹿児島、佐賀、直方とまわって今日岡山県真庭市から帰京する。カレンダーの発送や、老人ホームや幼稚園でのもちつき、忘年会やパーティー、・・・あっという間に年の瀬が迫ってくる。1月場所番付発表は、12月24日(木)。29日まで稽古を行なって新年を迎える。
平成26年12月7日
冬到来で冷え込みが厳しい。お相撲さんも、さすがに「寒い」「寒い」と口に出す。しかし、Tシャツにパンツ姿だから、あまり説得力はない。もちろん部屋の中での恰好で、外に出るときはさすがに長袖のトレーニングウエアなぞ着る。ふだん裸でいうことが多いだけに、長袖、長ズボンを履きたがらないのは、お相撲さん共通の特性、一種の職業病といえるのかもしれない。アマチュア相撲日本一を決める全日本相撲選手権が国技館にて開催。
平成26年12月9日
先週から来ている浅香山部屋4人に加え、八角部屋の力士も出稽古に来て、力士で溢れんばかりの稽古場。人数が多いと、四股を踏んでいても申し合いでも、活気がある。大人数での申し合いが初めての朝金井、はじめは一歩目が遅くなかなか指名してもらえなかったが徐々に慣れてきて買ってもらい十数番稽古できた。申し合いでめを出す(勝つ)ことは、単なる勝負以上に、積極性、相撲勘、全体をみる力、・・・、目に見えない大切な力を養うことになる。
平成26年12月10日
豪華客船飛鳥Ⅱ大相撲クルーズ御一行様が稽古見学。今日も浅香山部屋、八角部屋に加え錦戸部屋、高田川部屋からも出稽古に集まり活気あふれる稽古場。稽古終了後、八角部屋隠岐の海関、高砂部屋朝赤龍関、高田川部屋輝関との記念撮影やサイン会。両国のちゃんこ屋さんで昼食後、横浜港から乗船し2泊3日のクルーズ。横綱白鵬関や大関稀勢の里関、元魁皇の浅香山親方も乗船して、各種イベントも盛りだくさん企画されている。呼出し利樹之丞も乗船。甚句や太鼓を披露の予定。
平成26年12月11日
ある雑誌で中島さなえ氏が、『無くてヒト癖』~職業病ラビリンス~というコラムを連載していて、先月「力士・元力士」編があった。親交のある敷島親方から聞いた話を載せてあり、「あるある、うんうん」と思わずにんまりとしてしまう面白さであった。10カ条ほど紹介してあったとおもうが、ひとつは「お腹がいっぱいでも目の前に食べ物があると食べてしまう」確かに職業病かもしれない。引退して食べる量が減ったのだが、目の前にあるとつい食べてしまう。義務感のようなものがあり、目の前のものを残すと負けた気にさえなってしまう。ついつい手を出してしまい、「もう現役じゃないんだから」と妻にたしなめられてしまう。
平成26年12月12日
「力士・元力士の職業病」は、面白いことが多々あり笑ってしまうが、一番インパクトが強いのは、「パンツ一枚あればどこへでもいける」ということか。パンツ一枚・・・は、中島さなえ氏も意味を計りかねていて、今度敷島親方に詳しく聞いてみようと締めていたが、力士・元力士にとっては大いに頷ける感覚であろう。実際、さすがにパンツ一枚で外へ出かけることはないが、部屋の中ではほとんどパンツ一丁である。ちゃんこを食べるときはもちろん、宅急便を受け取る、お客さんへの応対などもパンツ一丁。それが自然で、相手もさほど気にしてない(はず)。部屋の裏の自販機やゴミ出し(もちろん夏場)もパンツ一丁。おそらく、よかた(一般人)の寝間着感覚なのかも。
平成26年12月13日
他に、久しぶりに会うと得意四ツで組みたがるというのもあった。これは稽古場でもたまに見られる光景。出稽古で久しぶりに顔を合わすと、「オウッ」という感じでガシッと組み合う。意識するわけではないが、組み合うことで伝わってくるものがあるような気がする。外国人の抱擁に近い感覚なのかも。ケンカ四つ(右四つ得意と左四打つ得意)の場合はどうなるか?おそらく、兄弟子の得意の組み手になるであろう。
平成26年12月16日
昨日、年末恒例の高砂部屋激励会&クリスマスパーティー&忘年会。冷え込みの厳しいなか、たくさんのお客様にお越しいただき平成26年を振り返りつつ来る新年での躍進を期しての祝宴。歌のゲストに加え、ものまねノブ&フッキーのフッキー飛び入り出演でお客様を大いに沸かせ、身内受けは絶大な大子錦サンタの子供たちへのプレゼント、手形色紙や反物、おかみさん手作りのアレンジフラワー、ディズニーランド入場券などが当たるお楽しみ抽選会などで盛り上り、師走の忙しさをしばし忘れる楽しいひと時を和気あいあいと過ごす。
平成26年12月24日
平成27年1月初場所新番付発表。先場所9勝の朝赤龍、5枚半上がって東十両2枚目。2年間遠ざかっている幕内復帰へ期待が大いに持てる。自己最高位更新は三段目71枚目の朝轟と三段目98枚目の朝ノ島。三段目2場所目となる朝ノ島、今日から堂々と雪駄が履ける。膝の手術を行い、地元大阪でリハビリ中だった朝西村、昨日久しぶりに帰ってきた。明日からマワシを締めて土俵に下りるが、今後の回復具合をみながら復帰のタイミングを計る予定。
平成26年12月25日
力士と同じように行司にも階級がある。入門してすぐは見習いで、序ノ口格、序二段格、三段目格と昇進していく。先場所まで三段目格行司だった木村悟志、今場所から幕下格行司に昇進。行司装束などに変わりはないそうだが、三段目格までは、十両格以上の行司さんの装束を着せるのを手伝っていたのが(支度手伝いというそう)、幕下格になると着せてもらう方になるという。番付中央に載っている行司名も気持大きくなっている。
平成26年12月31日
28日(日)に年末恒例の餅つき会。29日の朝稽古が今年最後の稽古で、師匠の締めの言葉のあと朝赤龍による三本締めにて稽古納め。今年の年間最多勝は27勝15敗の朝興貴。1月場所序二段4枚目だったが、7戦全勝で三段目上位へ上がり、その場所こそ負越したものの7月場所で6勝を上げ幕下昇進。初幕下の場所でも勝ち越して、幕下34枚目まで昇進。2位は、23勝の朝弁慶、朝乃土佐、朝轟の3人だと思っていたら、朝ノ島も23勝。休場力士が何人かいたものの、休場力士も含め全員が年間成績は勝越しという好成績であった。新年は2日に集合して3日から稽古始め。
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