平成26年4月3日
相撲教習所が出来たのは昭和32年10月から。蔵前国技館の頃である。もともとは、昭和30年6月国技館内に“相撲道場”がつくられ、双葉山の時津風親方が指導普及部長として道場の責任者に就任したことに始まるのだそう。昭和32年に時津風理事長が誕生して、相撲道場は“相撲研修所”を経て“相撲教習所”となった。初代所長は、元栃木山の先代春日野親方が就任したという(もりたなるお『相撲百科』瓶俊文庫より)。
平成26年4月5日
入門したのは昭和58年11月場所で、場所後の12月から相撲教習所に通った。教習所は、蔵前国技館を入って右側に、別棟で建っていた。1階が稽古場と風呂場で、2階が教室と教官室。「のたり松太郎」には、蔵前国技館の相撲教習所が当時のまま描かれていて、30年も前の情景が鮮やかによみがえってくる。そういえば明日4月6日午前6時半よりアニメ『暴れん坊力士!!松太郎』がTV朝日系列で放映されるそう。錦戸部屋、東関部屋、浅香山部屋からも出稽古に来て賑やかな稽古場。
平成26年4月6日
入門当時の若松部屋は両国2丁目にあったから、隅田川沿いを上り蔵前橋を渡っての教習所通いであった。教習所に着くと2階で着替え、マワシを締めて1階の稽古場に下りる。点呼のあと国技館の周りを走らされる。稽古場に戻って、腰割りや四股の実技。四股を踏んでいると、指導教官の親方が怒鳴るように何か言ってきた。早口で何と言っているのかさっぱりわからない。「えっ?」二度ほど聞き直すと、「いい四股ふむなぁって言っているんだよ!」と、竹刀が思い切り飛んできた。
平成26年4月8日
当時(つい最近までだが)は、竹刀片手にの指導が当たり前だった。国技館周りのランニングのときにも、自転車にまたがって竹刀を振り回しながら追いたててくる。ときに二日酔いの赤ら顔のまま奇声を発しながら最後尾の力士を追いたてる様は、かなりの狂乱ぶりで迫力があった。その親方に妙に気に入られたのかどうか、親方の車の掃除やクリーニング等、部屋が違うのに付人のような教習所生活だった。今となれば懐かしい思い出だが、当時はけっこうトホホな毎日であった。
平成26年4月9日
相撲教習所には、場所後の休み明けの月曜日から番付発表まで通う。それを3期つづけて卒業となる。昭和58年11月場所後に1期生として入学した時には、その年の7月場所初土俵の3期生と、9月場所初土俵の2期生が在校生でいて一緒に授業を受けた。3期生には新出羽ノ海親方となった小城ノ花がいて、こっちが3期生になった昭和59年3月場所の1期生には、元琴錦の秀ノ山親方や大至らがいた。教習所で一緒だった力士同士は、1期、2期違っても同期生的な親しみがある。
平成26年4月10日
教習所の現役指導員には、生徒のいる部屋の幕下、三段目の兄弟子があたる。高砂部屋からは、最近ずっと神山が指導員として出向いている。胸を出すのがうまいので、親方衆からも重宝がられているそう。あまり朝が強くない神山だが、毎朝自転車での教習所通い。指導員は、自転車通勤が許されている。神山の前は、朝乃土佐が指導員を務めていた。モンゴル出身の新弟子が増えた時期があり、幕下だった朝赤龍が指導員を務めたこともある。
平成26年4月11日
教習所では、四股やテッポウ、スリ足、股割りなどの基本と共に、受け身の稽古も行なわれる。相撲、柔道の経験者にとっては楽にこなせることだが、経験のないものにとっては、裸で固い土俵の上で転がることは恐怖感を伴う。怖がると、腰が引けたり横向きに肩から突っ込んでしまいがちで、よけいに痛めてしまう。まーるく転がれるようになると、どんなに固い所でも平気になる。教習所を半年前に卒業した朝上野、まだまだ転ぶのが苦手で稽古終了後に受け身の特訓。
平成26年4月12日
相撲の受け身は、ぶつかり稽古のときにくり返し行なう。胸を出してもらう相手の右胸にぶつかって、右肩から柔道の前回り受け身のごとく転がる。柔道は畳を左腕で叩いて衝撃を和らげるが、相撲は拳を握ったまま転び起き上がる。柔道出身者は、はじめのうち土俵を手の平で叩いてしまうクセがなかなか抜けない。また手の平を広げると手の平に砂がつき、胸を出す力士の胸にも砂がついてしまうので、「手を握れ」とくり返し指導する。起き上がる受け身は、合気道の受け身に近いといえるのかもしれない。
平成26年4月13日
転がるときには、必ず相手の右胸にぶつかり、右足と右腕を前に出し、右肩から転がっていく。前に出す右腕は腕(かいな)を返す。そうすると、右拳の小指側から前腕外側、肘、上腕外側、右肩、肩甲骨、背中、左腰と順についていき、まるく転がることができる。きれいに転がれると、砂は右肩から左腰にかけて斜めにつく。まるく転がれると気持ちよいが、少しでも力みがあると、角がどこかぶつかってしまい痛くもあるし気持ちよさもない。ベテランになると、ぶつかり稽古でも転ばなくなるが、そうすると怪我をしやすくなってくる。
平成26年4月15日
まるいボールは、いくら転がっても壊れないが、角があると転がるたびに衝撃を受け、そのうち壊れてしまう。大根やニンジンの面取りと同じことである。角をなくすように体をまるめて転ぶ。本来バラバラな骨と筋肉のつなぎ合わせである人間の体をボールのようにまるくするのが受け身であり、バラバラな骨や筋肉をひとつにまとめるのが四股や腰割りなのであろう。今週も浅香山親方が弟子二人と共に出稽古に。
平成26年4月17日
稽古場にトレーニング用の砂袋がある。青色のビニールレーザー張りの丈夫な袋で、両手で持てるよう持ち手もついて48kgある。砂の48kgなのでズシリと重く、両手で抱えてスリ足したり肩に担いでスクワットやったりと、力自慢のお相撲さんにとってもハードな稽古になっている。その砂袋を出稽古に弟子を連れてきている浅香山親方が片手でひょいと持ち上げた。怪力魁皇いまだ健在で、普段一番砂袋を使い込んで砂袋の重さを身にしみてわかっている朝天舞、「人間技じゃない」と目を丸くしていた。
平成26年4月18日
古今、力士の怪力話は数知れない。150kgの力士が入った風呂桶を桶ごと運んだ両国。成田山で150kgの大鈴を片手で鳴らした伊勢ノ浜。500kgの弾丸を持ち運んだ太刀山。碁盤の上に乗せた100kgの外国人を右手だけで目の高さまで上げた海山。60kgの米俵を、傘を差したまま片手でひょいと持ち上げた栃木山。そういえば先日15歳の朝金井は、30kgの米袋を2袋軽々と担いで運んでいた。怪力力士になれるかもしれない。
平成26年4月19日
潜航艇の異名をとった関脇岩風角太郎は174cm、117kgと、どちらかというと小兵の部類に入る体格ながら怪力で有名だった。もともと実家が江戸川区の鉄筋屋で、家業を手伝っていた。万力で曲げる鉄筋を腕力でグイグイ曲げていたと若松部屋の床義さんによく聞かされた。巡業中、70貫(263kg)のレールを担ぎあげて歩いたこともあったそう。稽古嫌いでも有名だったが、巡業先ではマキ割りばかり黙々とやっていたという。岩風にとってはマキ割りが最高のトレーニングだったのかもしれない。
平成26年4月24日
5月夏場所番付発表。連休と重なるため、いつもより4日ほど早めの発表(通常は初日の2週間前の月曜日)。先場所唯一の勝越しだった朝ノ島、自己最高位に1枚届かない序二段6枚目。入門10年目、初めての三段目昇進に挑む。今場所は、負越し力士の落ち方が割合ゆるやかで、朝赤龍は半枚落ちて東4枚目。朝弁慶も7枚しか落ちていなく幕下27枚目にとどまった。先場所前相撲の二人も初めて番付に名前を載せる。朝健真改め朝金井は序ノ口17枚目。朝河西は27枚目。
平成26年4月26日
第12回両国にぎわい祭りが、今日明日の2日開催されています。おなじみの「ちゃんこミュージアム」はもちろん、相撲教習所土俵での「力士に挑戦コーナー」、行司さんによる「相撲字で記念うちわ」、親方が土俵や支度部屋を案内する「バックヤードツアー」と、恒例の人気イベントが行なわれています。明日27日午後1時~3時は、国技館内地下大広間で「国錦相撲甚句」と呼出し邦夫による「太鼓実演」が行なわれます。また、回向院念仏堂で、音楽ワークショップ「Let' 相撲ミュージック! 相撲甚句をつくって歌おう!」も行なわれています。12時15分からと1時半からの2回。
平成26年4月28日
明日4月29日(火)は5月場所前恒例の横綱審議委員会総見稽古が国技館本土俵にて一般公開されます。午前7時から幕下の稽古がはじまり、8時頃から十両の稽古。9時頃から10時半頃まで幕内稽古となっている。
平成26年4月30日
番付発表後、浅香山部屋が出稽古に来ている。元大関魁皇の師匠の指導のもと、4人の弟子たちが四股や申し合いに毎日汗を流している。部屋頭は入門から丸2年の魁渡。17歳だが、今場所すでに幕下と出世も速い。今年の3月場所には15歳の新弟子が2人入門して、朝金井、朝河西と同期生。同い年で、力量もさほど大差ないので、お互いいい刺激になったいるようで、4人でいい申し合い稽古をやっている。
平成26年5月1日
稽古は毎日、四股や腰割り、スリ足などの基本動作を一時間ほどくり返し、番付の下の方から順に土俵での申し合い稽古が始まる。まずはじめが、文字通り序ノ口4人での申し合い。朝金井が17枚目、浅香山部屋山崎が21枚目、浅香山部屋中辻が22枚目、朝河西が27枚目の番付で、だいたい番付通りの強さになっているが、それぞれ得手不得手の型が出てきて、はじめの頃よりもいくらか差が縮まった感じもする。お互い残り合っての熱戦も随時出て、周りの兄弟子たちからも思わず声がかかり、時に歓声も上がる。新弟子同士の申し合いは、毎日活気あふれている。
平成26年5月2日
高砂部屋、浅香山部屋4人の新弟子は、そんなに大差はないものの四者四様ともいえる体格の違いはある。一番がっしりした体格は朝金井で、4人の中では一番力も強いことだろう。一番細身、いわゆるソップ型は浅香山部屋山崎だが、こちらも朝金井と同じく柔道経験者だから足腰がしっかりしていて中に入ってマワシを取ると朝金井も分が悪い。中肉中背といえるのが野球部出身朝河西で、パワーや足腰では劣るものの周りから言われたことをすぐ体現できる器用さがある。もう一人の浅香山部屋中辻は、今までほとんど運動経験がなくアンコ型というより単なるおデブちゃん風だが、ここ2週間ほどで一番進境著しく、積極的な攻めと粘りも見せるようになってきた。今日は朝河西が風邪で休んだため、3人での申し合い。
平成26年5月3日
元大関魁皇の浅香山親方と兄弟弟子だった戦闘竜氏が稽古場へ。引退後、格闘家として活躍していたが昨年夏に引退試合を行い、現在は奥さんのお父さんの会社で夫婦で頑張っているという。相撲の稽古場へ顔を出すのも久しぶりだそうで、ぶちかまし合った昔を懐かしく語りあった。仕事の方も順調なようで、良き支援者として同じ釜の飯を食った親方をサポートしていくことであろう。部屋の草創期は、新緑わきたつような薫風がある。
平成26年5月4日
高砂部屋新弟子の朝金井、立合い双手(もろて)突きで相手に当たる。両手を同時に伸ばして相手に当てる立合いである。両手で突くから双手突きという。新弟子同士だと、持ち前のパワーを生かして相手を一気に押し出せることが多いが、残られると自分の腰が伸びて相手に中に入られ、苦し紛れの投げ技にいってしまう。また腕を伸ばすときに脇が開いてしまい、親指を突き指して痛めてしまうことも多々ある。同郷の若松親方から、脇を締めて腕を下から出すよう指導を受ける毎日。昔から『相撲のうまい力士は小指を傷める』といわれている。
平成26年5月5日
アゴを引いて脇を締めて肘を下から出せば、手の平は上を向く。上向きの手の平で、前褌(ミツ)や横褌を取りに行けば自然と相手と接触するのは小指側で、小指を傷める機会が多くなる。逆に脇が開いて上から手が出れば、手の平は下を向いて親指が相手にぶつかってしまう。また上から出た腕は、相手を止めるだけで、突き放せない。前に落ちやすくなってしまう。『はたかれたら手の平をみろ』という格言もある。5月5日端午の節句。尚武に通じるという菖蒲湯や柏餅をおかみさんが用意して初日まであと一週間。
平成26年5月6日
『立合いに七分の利あり』とか『立合いで八割決まる』とかは、TV中継などでもよく言われる。立合いの重要性を説く言葉だが、それだけ立合いは難しいということでもある。特に朝興貴のように突っ張りを得意とする力士にとっては、立合いで突き放せるかどうかが勝負になってくる。突き放せて、相手との距離ができれば楽に突っ張ることができる。突っ張る腕が肩甲骨からグンと伸びて、左右交互に回転させられると、威力ある突っ張りとなる。『突っ張りは引き手が大事』だと、突っ張りを得意とした褐色の弾丸房錦さんがよく言っていた。
平成26年5月7日
新弟子君にとって、頭からぶつかっていくことは怖さがある。痛みをともなう。怖がると、つい下を向いてしまう。横を向いてしまう。骨のうすい頭頂部にぶつかられコブができる。首を痛める。頭蓋骨のなかで、額の髪の生え際が一番厚みがある。立合いは、『ヒタイで当たれ』『髪の毛の生え際で当たれ』といわれるのは、解剖学的にも正しい理屈がある。怖がってまっすぐ当たれないと、首から腕にかけてビリッと電気が走る。痛くてうずくまっていると、「(電気の)スイッチ切れ!」と声が飛ぶ。そういうことをくり返しながら当たり方を覚え、頭や首が鍛えられていく。
平成26年5月8日
「バカヤロウ」「コノヤロウ」は相撲界では挨拶代りだとは床寿さんがよく口にしていた言葉だが、男社会なだけに言葉使いは荒い。とくに稽古場では気も立っているから、余計に荒くなる。新弟子のうちは転がされるたびに、ヒザやヒジを擦りむくことが多く、出血も日常である。そんなときによく使われる言葉は、「塩すりこんどけ!」また、「痛い!」とか言おうものなら、『生きてる証拠だ!』確かに、生きているからこそ血も出るし痛みも感じる。
平成26年5月9日
浅香山部屋からの出稽古は一昨日までで、昨日からは新弟子二人での三番稽古。相撲経験があって体力的にも勝る朝金井が、圧倒的に分がいい。それでも、はじめのうちは一方的にやられっぱなしだった朝河西、だんだんと当たれるようになってきて時に攻め込めるようにもなり、最後の一番は左を差して腰を寄せて寄り切った。『差したら腕(かいな)を返して体を寄せろ』『差した方に出ろ』という格言通りのいい相撲でめを出した。取組編成会議。野見宿禰神社例祭で新横綱鶴竜が土俵入り。明日午前10時より土俵祭。初日まであと2日。
平成26年5月10日
「差したら腕(かいな)を返す」「体を寄せる」「差した方に出る」ためには、腰を割らなければならない。腰が割れていないと、腰が後に逃げてしまいへっぴり腰になってしまう。体を寄せることができない。出られない。腰が割れると、自然に腕(かいな)は返る。腕が返ると、腰は割れる。腰を割るために四股を踏む。股割りをする。四股を踏むときに前かがみになると腰が割れない。昔は『四股は羽目板の前で踏め』と、よくいわれた。触れ太鼓が初日の割りを呼び上げる。朝赤龍には玉飛鳥。鶴竜には碧山、嘉風には日馬富士、白鵬には千代鳳。♪ご油断では、つまりますぞぇー♪
平成26年5月11日
五月晴れの夏場所初日。新横綱の話題や遠藤人気で客足が早く、午前8時すぎには満員札止めの大盛況。2時頃国技館に行くと、エントランスホールは熱気むんむん。お茶屋さんとの会話にも弾みがある。4年ぶりの雲龍型土俵入りを披露した横綱鶴竜。雲龍型横綱を伝える唯一の力士神山の花道での姿も4年ぶりにテレビ画面に登場。久しぶりに忙しい15日間となる。場所前、浅香山部屋と一緒にいい稽古をやってきた高砂部屋一同だが、7戦全敗の初日。『三年先の稽古』と肝に銘じて稽古をつづけるのみである。
平成26年5月12日
3月場所入門の朝河西、まだときにホームシックにかかったりするため財産差し押さえ管理下にある(といってもお小遣い程度の財産だが)。本人も納得しつつもモチベーションを下げてしまうこともあるようで、1勝につき少しずつ小遣いを増やしていくことにしたら俄然やる気が高まってきた。今日さっそく初日(1勝)。中学を卒業したばかりでプロ意識を持つにはまだ幼いが、お金を稼ぐために頑張るのもプロの証し。昔から、『土俵には金が埋まっている』といわれている。その話を鵜呑みにして、夜中に土俵を掘り返した新弟子君も実際いたらしいが。
平成26年5月13日
三段目65枚目の朝乃丈2連勝。決して稽古熱心とはいえないが、妙に真面目なところもあり、入門10年余り稽古を休んだことがほとんどない。風邪もひかないし、怪我をすることも滅多にないが、先々場所珍しく肉離れを起こした。それでも休むことなく日々を過ごし三段目中堅の地力を身につけてきた。似合わない言葉だが、継続は力なりを身をもって示しているといえよう。『土俵の怪我は、土俵で治せ』とは、土俵の鬼と呼ばれた先代横綱若乃花の言葉。
平成26年5月14日
土俵の鬼の初代横綱若乃花語録には名言至言が数ある。「人間辛抱だ!」「気力じゃ駄目だ。死力を尽くせ」などなど。『ちゃんこの味がしみる』も、そうだったのかどうか。何れにせよ永い年月と厳しい勝負の中からにじみ出てきた言葉には重みがある。ちゃんこの味がしみているというより、ちゃんこの味を体からしみだしている大子錦、初白星。これからちゃんこの味がしみてくる朝金井も1勝。朝赤龍、朝乃土佐、神山にも初日。7戦全敗で始まった高砂部屋夏場所、4日目にしてようやく五分の星。
平成26年5月15日
網膜剥離の手術で3月場所を全休して三段目からの再起となった朝天舞、相手の引きに乗じての2勝目。『引かれたら出ろ』『引かれたらごっつぁん』よくいわれる言葉だが、稽古十分だからこそできること。稽古不足の力士は、引かれたら簡単に手をついてしまう。また手をつかなくても、腰を引いて残るのに精一杯で相手に攻められてしまう。今場所前は稽古十分とはいえない朝天舞だが、日々のトレーニングと、今までの稽古の貯金がたっぷりある。『稽古はうそをつかない』は、相撲に限らずあらゆることにいえる言葉であろう。
平成26年5月16日
前に引かれたり叩かれて、残ろうとすると腰を引いてしまう。へっぴり腰で頑張ってしまう。すぐに攻めに転ずることはできない。腰を引くことによって辛うじてバランスを保っている。引かれて足を前に出すことができると、バランスを保つことが即前に出る力になる。相手の引く力に乗じることができる。引かれて足が前が出るためには膝にゆとりがないと出られない。ぶつかり稽古で頭を押さえられて引っ張られるときも、嫌がらずに足を出すことが大切になる。『ひざにゆとりを持たせ、下腹と足の親指に力を入れろ』下半身のあるべき構えを説く言葉である。
平成26年5月17日
横綱栃木山の8代目春日野親方は、毎晩ビール5,6本と酒2升を晩酌にたしなんだという。その間付人がお給仕をする。酒の肴は相撲の話。『常にスリ足で歩け。下駄の前歯がすり減り、親指のくぼみができるようでなくてはいけない』『出足は細かく速くスリ足で』『おっつけるのも差し手を返すのも腰が大切。尻が後ろへつき出たり足が流れてはいけない』この毎晩の相撲講座から名人横綱栃錦が生まれた。晩年になっても親方の履物は親指の所がくぼんでいたという。勝越せば初の三段目昇進なる朝ノ島、相手の当たりを口で受け大出血するも、粘りに粘っての2勝目。朝乃丈、勝越しまであとひとつとなる3勝目。
平成26年5月18日
栃木山の教えは寝方にも及ぶ。『暑くても窓を開けて寝てはいけない。裸で寝てはいけない。体が冷えるとバネがなくなる』『ヒジとヒザを曲げ背中を丸めて寝ろ。小さくなって寝ると翌日にバネが利く』栃錦は横綱になっても教えを守り、引退してはじめて暑いときには裸になって(パンツ一枚)寝たという。『稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく』は、横綱双葉山の言葉。双葉山には、『われ未だ木鶏たりえず』の有名な言葉もある。そういえば今朝のスポーツ紙に、広島大瀬良投手が九州共立大学仲里監督から贈られた『木鶏』の色紙を掲げている写真が載っていた。朝天舞、朝上野3勝目。
平成26年5月19日
元大関魁傑の放駒前理事長が亡くなられた。大相撲界の危機的時期に理事長就任。火中の栗を拾うような状況のなかで、真摯な姿勢で難局を乗り切った功績は大相撲史に深く刻まれることであろう。大関在位中の『休場は試合放棄と同じ』との言葉からも人徳が偲ばれる。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。朝天舞、朝上野勝越し。それぞれ幕下復帰、三段目昇進までは、あと1勝必要。今日の高砂部屋、8勝2敗と大きく勝越し今場所初めての5割超え。
平成26年5月20日
幕下27枚目の朝弁慶、3勝目。頭からぶちかまして左ハズにかかり電車道での押し出し。右腕は脇が開いてしまってバンザイしかけたが、止まらずに持ち前の馬力を生かしての完勝。「押し」は単純にみえるが、単純なだけに難しく奥が深い。一瞬のためらいや気負いが形を崩し押す力を弱めてしまうし、何といっても忍耐力が必要である。『押さば忍(お)せ 引かば押せ 押して勝つのが相撲の極意』は、人生訓ともいえるのでは。三段目65枚目朝乃丈、脚のケガにもめげずに勝越し。
平成26年5月21日
ハズ押しは、相手を押す手の平が矢筈の形になるからハズ押しという。親指を立て、他の4本の指をそろえて開く。矢筈形の手を相手の脇の下や胸に当てて押す。手の平をハズの形にして相手にあてるには、脇を締めなければならない。脇を締めなければ手首の構造上親指を立てたハズの手が相手にあたらない。脇を締めると、腰や脚も使って体全体で押すことができる。『押すに手なし』は、十分な体勢での押しが、もっとも効果的で安全なことをいっているのであろう。朝天舞、朝上野5勝目。それぞれ幕下復帰、三段目昇進を濃厚なものにする。朝金井初めての序ノ口の土俵で、嬉しい勝越し。朝河西3勝目。勝越しにも匹敵する価値ある3勝。
平成26年5月22日
相手に双(もろ)差しになられたときに、相手の腕を外から締めあげるように極(き)めるのを閂(カンヌキ)という。『カンヌキに極めたら相手の顔を見ろ』という格言がある。頭をつけたり腰を引いたりせずに、相手に正対したほうがより効果的に極められるということ。筋肉質で足腰のしぶとい相手に立合い差された朝弁慶、右腕でがっちりとカンヌキに極め(片腕だから片カンヌキ)、押しつぶすような思い切りのいい小手投げで勝越し。格言通りに相手と正対して相手に腰(腹)をつけ、相手を半ば浮き上がらせた分、きれいに決まった。朝乃丈、ヤマいきながら(ケガしながら)も快進撃止まらず5勝目。
平成26年5月23日
「相手に腰(腹)をぶつける、体をよせる」ことは、すべての技に通ずること。押すとき寄るときはもちろん、投げを打つにも体を寄せる(前に出る)ことが決め手になる。防ぐときもそうである。戦前に活躍した幡瀬川は、168cm78kgの体格で関脇を張り「相撲の神様}と呼ばれた。その幡瀬川が語る。『相手が投げに来たら差した腕(かいな)を返して体を寄せろ』『それでも防げないときは相手のヒザをはたけ』小さい体ながら横綱大関とも互角に戦い、投げられて負けたことはただの一度もなっかたという。相撲の神様たる所以である。朝赤龍負越し。
平成26年5月26日
17年ぶりの満員御礼10日間という盛況だった5月場所、高砂部屋一同も頑張りました。朝赤龍関は残念な結果に終わったものの、つづく朝弁慶が5勝を上げ来場所はいよいよ幕下上位へと番付を上げていきます。網膜はく離から再起の朝天舞も幕下復帰の見込みです。三段目では、朝乃丈が6勝の大勝ちで、幕下目の前というところまで上がってきます。朝興貴も同じくです。朝上野が初の三段目昇進濃厚です。さらに、今場所一番の頑張りは、新弟子2人の勝越しです。朝金井5勝。そして、前相撲4戦全敗だった朝河西が、予想に反して勝越しました。相撲経験が全くないのに、嬉しい誤算、あっぱれな勝越しでした。愛知県出身の2人。名古屋場所へ胸を張って帰れます。今日から1週間は場所休みで稽古なし。6月2日(月)より稽古再開。
平成26年5月31日
今年は、大関初代朝汐生誕150年、横綱前田山生誕100年にあたるそうで、出身地である愛媛県八幡浜市で特別企画展が予定されている。八幡浜市の資料によると、初代朝汐太郎は明治14年大阪相撲押尾川部屋に17歳で入門。明治23年に東京相撲高砂部屋所属となり、明治31年大関に昇進。明治41年に引退して年寄佐野山を襲名。大正9年56歳で逝去とある。横綱前田山は、昭和3年14歳で高砂部屋入門。昭和13年大関昇進、昭和22年夏場所後に第39代横綱となる。昭和17年より二枚鑑札(現役のまま師匠を兼ねる)で4代目高砂浦五郎となり昭和46年57歳にて逝去。
平成26年6月2日
初代朝汐太郎については以前(23年1月31日)に紹介しているようだが、相馬基『相撲五十年』(時事通信社)にも出てくる。「伊予に過ぎたるもの禾山和尚に朝汐」と、民謡にまでうたわれた人気力士で、五尺九寸、二十七貫の体の、どこからそんな力が出るのかと思われる怪力には、梅ノ谷も荒岩も苦しめられた、とある。禾山和尚とは山岡鉄舟とも交流のあった臨済宗の師家。明治の名人円朝も師事したという。梅ノ谷は、梅常陸時代をつくる横綱梅ケ谷の前名。荒岩亀之助は、小兵ながら「摩利支天の再来」とたたえられた名大関。今日から稽古再開。日常がもどる。
平成26年6月3日
初代朝汐太郎は酒豪で知られ、三宅充『大相撲なんでも七傑事典』にも登場する。明治32年日本橋の料亭でのこととあるから、大関に昇進して間もない頃。ビール37本(27リットル弱)と酒6升(10,8リットル)を平らげて、料亭の人によってこの話が広まり、当時の新聞に報道され、東京中の評判となったとある。一斗酒(10升)の伝説もある。武骨な顔は、「オコゼ」とか「シャコの天プラ」とアダ名されたというが、無頓着で子供好きの人柄は人気があったそう(『相撲五十年』より)。太鼓の名人呼出し太郎は、家が隣だった朝汐の口利きで呼出しになり、朝汐にあやかって「太郎」と名乗ったという。
平成26年6月4日
初代朝汐の得意技は、上手投げ。ところが資料では、得意は右四つ左上手投げと出ているものと、左四つ右上手投げのもの、両方ある。相馬基『相撲五十年』には、「相撲はうまく、得意の右四つになると、ニヤリと会心の笑みをうかべた」とあり、八幡浜市の資料でも「得意技は、右四つ寄り、上手投げ」となっている。ウィキペディアは、「左四つ、右上手を引いての投げが鮮やか」としている。昭和5年1月発行の栗島狭衣・鰭崎英朋共著『角觝畫談』には、左四つ右上手投げを決める鰭崎英朋氏の画が掲載されている。
平成26年6月5日
鰭崎英朋氏は、明治大正期に活躍した挿絵画家で、『東京朝日新聞』の相撲記事の挿絵を23年間描きつづけた。写真が普及していない当時、打ち出し後に回向院鼠小僧のお墓のそばでランプを灯して新聞記者が取組みを再現し鰭崎英朋氏が写生して記事にしたという。栗島狭衣氏は、その時の新聞記者。しかも初代高砂浦五郎とゆかりの大関綾瀬川(3月5日~8日)を父に持ち、娘は女優栗島すみ子。現場で見た二人が書き記した「左四つ、右上手投げ」が、正しいのであろう。『角觝畫談』では、上手投げの名手として初代朝汐が紹介されているが、詳細な取り口が解説されている三番ともに、右からの上手投げである。
平成26年6月6日
なぜ右四つという資料が出てきたのであろう。おそらく2代目朝汐太郎と混同してのことかと思われる。2代目朝汐は、同じく愛媛県は西条市の出身。初代朝汐に見出されて明治34年に入門。朝嵐、朝汐を経て朝潮の名で、大正4年に大関昇進。右四つを得意として「右差し五万石」とも「右差し十万石」ともいわれた。引退後は3代目高砂浦五郎となり、横綱前田山らを育てた。出身県も活躍年代も重なりがある初代と2代目だけに混同されたのであろう。相撲に関りのない人にとっては右でも左でもと思われるかもしれないが、王やイチローが右打席に立ち、長嶋が左打席に立つようなもの。初代朝汐は左四つ右上手、2代目朝汐は右四つである。
平成26年6月7日
『角觝畫談』より。上手投げの名手は明治の力士中で朝汐太郎を一番に推さねばなるまい。明治23年5月、當年27歳の人気力士として大関大鳴門灘右衛門を一挙に倒した。新入幕で前頭10枚目に据(す)わり2日目に大鳴門と顔が合った。立合い左を深く差し止めたが、老功大鳴門に寄り立てられ、たちまち土俵に詰まる。廻り込まうとすると、さらに激しくアヲリ立てて寄って来た。逃身にスウッと差手をぬくが早いか當てていた右の上手を敏捷に伸ばして褌を引き、敵の追い込む足を利用して、エイと上手投げをやけに打った。この時から朝汐は、右の上手の味を占めて、自家最上の武器に磨き上げた。
平成26年6月9日
引き続き『角觝畫談』より。明治30年5月、関脇となって大関鳳凰との対戦。「鳳凰は体格の完備した、いはば豊満な肉付の力士であったが、朝汐は骨張った頑丈な性(たち)の人で、その対象が既に興味をそそっている。鳳凰の得意にするのは泉川の撓出し(極出し)であったが、果たして此立合に於いても、朝汐は忽ち左を 撓め上げられて仕舞った。その凄じい力といふものは、猛牛の角を撓めて向かって来るにも優っている。朝汐は耐えながら守勢一点張りで、土俵を逃げ廻ったが追付(おっつ)かない。そのうちに鳳凰は敵の差手をはねてグイと二本差してアヲリ付けて寄ろうとした。と、朝汐が右の上手褌が引けたのを幸いと、グウーンひとつ、腰を入れて打った「上手投げ」-これがまた馬鹿馬鹿しく極まった」
平成26年6月10日
さらに、明治33年1月大関となって小手投げの名手海山(かいざん)との対戦。「両力士立上って激しく突張り合った。海山元気にまかせて叩く、それが残って左四つになると又小手投げを喰はせる。しかし朝汐の右足が用意を欠いていなかったので、海山の小手投げは利かなかった。そうしてそれを残した朝汐が、たちまち敵の虚に乗じて、右の上手をグイと引いた。右の上手が入ったら最後、鬼に金棒の朝汐である。ツツと寄って敵が土俵を廻ろうとするトタン、差手を抜いて、エイッとばかりに腰を入れ、上手から打った其技は、全く神工の妙を得たといはうか、流石の海山も残し得ずして、土俵際に打倒された」「朝汐の腰は、粘りが強く、全く土俵の中へ鳥もちを付けたやうであった」
平成26年6月11日
明治33年1月谷の音戦は、負け相撲となったが朝汐の足腰のしぶとさを示す一番。「朝汐が左差しに寄って来るのを、谷の音は18番の河津がけで、一気に仕止めようと企てたが、ネバリの強い朝汐は、あたかも蛸のようにからみついた谷の音の足癖と、巻きついた首筋の手とを、懸命にコラエながらーそれでも行司溜の一角まで持って行かれた。処が堅仞(けんじん)な朝汐はこの形でこらえながら、また土俵のまんなかまで盛返した。これから十数秒の間、双方のもちこたえる呼吸で、物凄いほどのもつれ合いが始まった。朝汐が渾身の力を絞るようにして、やがて「ウーン」とひとつ力味出すと、谷の足が外れたから、ここぞとばかり吊り上げた。谷は狼狽したものの、足の爪先で土俵を支え、敵の吊りをふせいだから、今度は朝が棄身(うっちゃ)らうとした。処が谷がウーンとこらえて、体をよせて、「浴びせかけた」。朝はとうとう惜しい処で腰が砕け、真額(まっこう)一文字に打倒された。こんな粘りのつよい取口は全く珍しいと、當時好角家の話題には花をさかせた」
平成26年6月12日
相馬基『相撲五十年』に当時の稽古場の様子が描かれている。「本所緑町の高砂部屋では、百余名の力士たちが、稽古土俵を取りまいて、順番に朝汐にぶつかっていった。朝汐は下級力士に『たのんます』といわれるままに、数番の稽古をつけた。見守っていた年寄二十山(元小錦)は『親切だなア』とほめた。朝汐が汗まみれ砂まみれになっているところへ、源氏山、逆鉾、常陸山、稲川などがはいってきて『さア一丁来い!』と土俵を奪い合った・・・」横綱小錦が引退して二十山となったのは明治34年だから明治35,6年頃の様子か。源氏山、逆鉾は高砂部屋から独立した井筒部屋所属、常陸山は出羽ノ海部屋だが、師匠出羽ノ海の内弟子として高砂部屋で稽古していた。稽古場をもっている部屋は、高砂、雷、友綱、尾車、伊勢ノ海の五部屋だけで、稽古場のない部屋の力士たちは、この五部屋へ通った。
平成26年6月13日
昨晩、毎年恒例の近畿大学校友会東京支部ちゃんこ会。ゲストとして近畿大学OBの落語家鈴々舎八ゑ馬が一席。演目は『花筏』。"提灯屋相撲”ともいわれる相撲ネタで、大関花筏が病気のため、容姿が似ている提灯屋七兵衛を替え玉にして巡業へ。江戸落語では舞台が銚子だそうだが、上方では播州高砂。相撲など生まれてこのかた取ったことのない提灯屋七兵衛。土俵入りだけという話だったのに千秋楽は、しろうと相撲で土つかず千鳥ヶ淵と対戦することに、・・・。明日から3日間茨城県下妻市大宝八幡宮で錦戸部屋との合同合宿。今日から下妻入り。
平成26年6月14日
快晴の下妻合宿初日。早朝から大鍋で鶏ガラを炊いて300人前のソップ炊きの用意。錦戸部屋ちゃんこ長水戸晃と共に、呼出し鶴太郎、行司金太郎も材料切りに参加。そこへ大宝のおばちゃん(6月9日)登場。「おはよう~」と来るなり、「パンツ干しに、うちさけぇんなくちゃなんねぇ」とはじまり、昔パンツ泥棒がはいったけど「娘のパンツだけとられたんだぁ~・・・」と、朝から一人漫才炸裂で、鶴太郎も金太郎も笑いっぱなし。大宝おばちゃんトークも一年一度のお楽しみ。明日は豚味噌、明後日は鳥の塩炊き。
平成26年6月15日
下妻合宿2日目。9時で稽古を終え、第4回わんぱく相撲下妻場所。近隣の小学校1年生から6年生まで39人が個人戦と団体戦で熱戦をくり広げる。さばく行司は、装束に身をつつんだ木村悟志と木村金太郎。決勝戦はたっつけ袴姿の呼出し鶴太郎の呼び上げで土俵へ上がり、序ノ口優勝決定戦さながらの盛り上がり。初めて土俵に上がる1年生、土俵中央で「蹲踞して」「すわって」という声に、お互い正座し合うお行儀の良さも。4年生から6年生の優勝者は、県大会に出場して8月に行なわれる国技館での全国大会出場を目指す。
平成26年6月16日
下妻合宿最終日。朝弁慶が錦戸部屋風斧山との三番稽古。最近幕下相手でも一気にもっていく馬力がついてきた朝弁慶。思い切り当たっていくが、風斧山に受け止められ、なかなか前に出られない。転がされ砂まみれの朝弁慶に対し、風斧山は涼しい顔。終盤、何番かは朝弁慶の出足が優る相撲もあったが風斧山に力負けの朝弁慶、いい稽古になったであろう。終了後、保育園の園児たちが関取に胸を借り合宿稽古終了。午後2時過ぎ、その園児たちや奉納相撲保存会の皆様に見送られ帰京。
平成26年6月19日
落語の大関花筏は架空の力士のようだが、昭和に入って実際“花筏”を名乗った力士がいた。山形県鶴岡市出身で昭和35年1月立浪部屋から初土俵。落語が好きで寄席へ通い、小さん門下の柳家小団治とも親交があり、昭和41年3月場所新十両のときに“花筏”と改名した(それまでは本名の三浦だが、幕下の時2場所『燕雀』(えんじゃく)と名乗ったこともある)。引退後、郷里鶴岡で相撲料理店を営み(現在は閉店)、相撲資料館や少年相撲教室を開いたり、 相撲研究家として著書も多数ある(『相撲甚句物語 』『こぼればな史』等)。
平成26年6月21日
鈴々舎八ゑ馬さんから聞いたところによると、『大安売り』という相撲ネタもあるという。町内から出たお相撲さんが帰ってきた。「成績はどうでしたか?」と聞くと、「勝ったり、負けたり」「それならまずまずの成績で」と、初日からの相撲っぷりを語ってもらうと、全部負け。「勝ったり、負けたりって言ったじゃないの」「はい。相手が勝ったり、自分が負けたり」「こんど四股名が変わって“大安売り”になりました」 そのココロは、・・・。ほかに、『鍬潟』『稽古場風景』なども相撲が題材になっている。
平成26年6月22日
先発隊6人(朝天舞、朝乃丈、朝弁慶、朝興貴、朝上野、松田マネージャー)名古屋入り。名古屋場所と言えば“鈴木さん”の昌(まさる)さんに迎えに来てもらって蟹江龍照院入り。掃除して畳敷いてバルサン炊いて昼食と、例年通りの流れで晩飯は鈴木さん家族と焼き肉喰い放題。一年前にはまだお腹の中にいた孫も10カ月になったが、お腹の中にいた頃からお相撲さんの声を聞いていたからなのか、すぐなじんでいる。しかもお相撲さんなみにえびすこも強い。単におかあさん似なのだけかもしれないが・・・お相撲さんが名古屋に来ると、鈴木さん一家にとっての夏がはじまる。
平成26年6月23日
朝からお日様が出て、冷蔵庫やら鍋やら食器やら外に出しての洗い物。地元の方からお米やジュースの差入れもあり、一年ぶりの再会を喜び合う。昨年朝興貴ファンになったという近所の小学校1年生の女の子もお母さんと一緒に訪ねてきて、普段会話が苦手な朝興貴がハニカミつつ嬉しそう。ひと月半におよぶ蟹江での生活がはじまった。
平成26年6月24日
名古屋場所は日本相撲協会と中日新聞社共催なので、中日新聞紙上での相撲特集も盛ん。今年の特集は、“相撲女子(スモジョ)”今日から連載がはじまり、第1話は、ご当所熱田区出身の玉飛鳥夫人。熱田区の中学校の1年後輩(夫人が)だそうで、出会いから結婚、相撲への思いなどが語られている。ちなみに玉飛鳥関は、名古屋場所へ乗り込む前の五月場所は17年間勝越しているそうで、これもすごい記録。明日からどんな物語が展開されるのか。2年前に力士志願してきたものの年齢オーバーでダメだった若者も、すっかり力士とお友達になり、1年ぶりに登場。
平成26年6月25日
宿舎の龍照院(りゅうしょういん)は海部郡蟹江町にあり、名古屋市の西隣に位置する。蟹江にはJRと近鉄の駅があるが、宿舎に近いのはJRで、名古屋駅から関西線普通で3駅目、12,3分の距離である。宿舎龍照院は、JR蟹江駅から徒歩15分。真言宗智山派のお寺で、正式には蟹江山常楽寺龍照院という。ご本尊の木造十一面観音菩薩像は国の重要文化財で(戦前は国宝)、得も言われぬ微笑みをたたえ、拝観するたびに心洗われる。名古屋場所の成績がいいのはご加護あるのであろう。昭和63年元房錦の先代若松部屋時代からお世話になり、今年で27年目を迎えている。
平成26年6月30日
7月名古屋場所番付発表。幕下15枚目以内は、全勝すると関取昇進の可能性があるから幕下上位とよび、特別な地位である。(16枚目以下は全勝しても上がれない)その幕下上位15枚目についに朝弁慶が番付を上げてきた。全勝とはいかなくても、何とか勝越して今年中にはと期待がかかる。三段目朝乃丈が自己最高位を大きく更新して三段目東11枚目。4勝すれば幕下昇進も可能な位置。朝上野、初の三段目昇進。