過去の日記

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平成27年1月3日
あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願い申し上げます。稽古始め。年始恒例のお墓参りへいくため、四股300回とぶつかり稽古のみで上がる。風呂に入り、ちょん髷を結い直して西麻布の永平寺別院長谷寺に眠る元横綱朝潮の5代目と六本木長耀寺に眠る元富士錦の6代目のお墓に詣でる。長耀寺にて法要。ご住職から乙未の意味や心構えを拝聴。新春の誓い新たに明日から初場所へ向け本格的な稽古再開。
平成27年1月4日
初日まであと1週間。大相撲人気回復で、初場所前売りは上々。もともと初場所は観客数が多く、お正月ということもあり華やいだ雰囲気がある。着物姿のお客さんが多いし、成人の日の振り袖姿も艶やかさを彩る。正面玄関には大きな門松が飾られ、お茶屋さんの通路も賑やかに飾ってある。館内全体が沸き立っている。土日祝日の切符は完売で、平日も残り少ない。久しぶりの15日間満員御礼の可能性も大きい。触れ太鼓での呼出しさんの声が浮かんでくる。♪ご油断では、詰まりますぞーえ♪
平成27年1月5日
大相撲は色彩豊かである。正面玄関前を取り囲む力士幟がカラフルにはためき、館内に入ると、吊屋根の下に紫の水引幕が張られ、四隅から黒、青、赤、白の房が垂らされている。きらびやかな行司装束が輝き、力士のマワシや化粧回し、純白の横綱は目にも鮮やかである。土俵近くのお客さんにとっては、仕切りをくりかえすにつれ朱に染まる力士の肌の色も見応えがあろう。浅香山部屋が出稽古。
平成27年1月6日
新聞のコラムに出ていた話だが、昔の日本には色を表わす言葉は4つしかなかったそう。白、黒、青、赤の4色で、この4色だけは語尾に「い」をつけて「白い」「黒い」「青い」「赤い」と形容詞として使える。確かに他の色は、「黄色い」「茶色い」「緑の」という表現になってしまう。吊屋根から垂らされた房の色も昔からの4色。それぞれ、四季と四神を表わしている。白は秋で西の守護神白虎、黒は冬で北の守護神玄武、青は春で東の守護神青龍、赤は夏で南の守護神朱雀。鏡山部屋鏡桜と錣山部屋青狼が出稽古に。
平成27年1月7日
房の色は陰陽五行説とも結びついている。陰陽五行説は自然界を陰と陽に分け、木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)の五要素から成り立っているとする説。木は春で青、火は夏で赤、金は秋で白、水は冬で黒にあたる。真ん中の土が足りない?土は土用で黄にあたり、四房に囲まれた土俵が土で黄を表わすという。土を盛った土俵の方形は陰で大地を表わし、土俵の円は陽で天を表わす。土俵祭の口上でも、「天地(あめつち)開け始まりてより陰陽に分かり・・・」と言上する。
平成27年1月8日
行司の軍配の房と装束の菊綴(胸元や袖につけられる組紐の飾り)の色は、階級によって決められている。幕下格までは青または黒、十両格に上がると青白。幕内格は紅白で三役格が朱。立行司は伊之助が紫白で庄之助が総紫。聖徳太子の冠位十二階でもそうだが紫は高貴な色とされ、当時は皇族関係しか使用が許されなかったそう。現在でも、化粧回しの馬簾(下部の房飾り)に紫色を使うのが許されるのは、横綱大関のみである。
平成27年1月9日
柔道や空手では、初心者が白帯で有段者が黒帯が一般的だが、相撲は逆。稽古のとき、幕下以下は黒マワシで関取になって初めて白マワシが締められる。新十両のとき白マワシを締めると、ひと回り大きく見え肌艶も輝いてみえる。協会の公認相撲規則「力士(競技者)規定」第5条には、「幕下以下の力士は、木綿の廻しと木綿のさがりを使用し、色は黒または紫系統に染め、白い廻しは許されない」とある。現在は、はじめから黒色に染められたマワシが協会で売られている(力士用)。
平成27年1月10日
幕下以下は、本場所も黒の稽古マワシで土俵に上がる。さがりも木綿のビロビロの縄のれんのようなもの。色は紺か黒が多いが、オレンジや黄色などの色ものも売っているので、中には派手な色のさがりをつけている若い衆もいる。関取に昇進すると、本場所では絹の繻子織の締込(しめこみ)を締める。これも前述「力士規定」第4条に、「十枚目以上の力士は、紺・紫色系統の繻子の締込を使用し、同色の絹のさがり(下がり)を使用すること」と記されているが、色鮮やかな締込がお客さんの目を楽しませているのであろう。触れ太鼓。朝赤龍には臥牙丸、遠藤に逸ノ城、白鵬には栃煌山。
平成27年1月11日
平成27年初場所初日。空気の冷たさはあるものの穏やかな冬晴れの青空が広がり、午前8時半には早くも満員札止メ。館内の熱気もすごいが、南門前の歩道にも物凄い人だかりで、力士が入場するたびに大きな歓声が沸き起こり、国技館の外まで熱気が溢れている。四股名通りの赤い締込で東十両2枚目まで番付を戻し幕内復帰を目指す朝赤龍、初日ならず。高砂部屋力士、1勝5敗のスタート。
平成27年1月12日
締込は幅72センチで、博多織や西陣織の絹の繻子織り(サテン)。締めるときには六つ折りにして5、6周巻くから、長さは人それぞれで8m~10mほどになる。繻子織なので水洗いはできなく汚れは濡れタオルで拭くなどして陰干しする。朝赤龍は、現在締めている赤の締込の他に青と紺などを持っている。赤色が一番新しく締める機会が多いようだが、連敗したりするとゲン直しで他の色の締込に変えることがある。成人の日の2日目。今日も満員札止メ。
平成27年1月13日
今日も満員御礼の国技館初場所3日目。今日のBS相撲中継の解説は元朝乃若の若松親方。幕下の土俵に上がった朝弁慶のところで、“湘南の重戦車”と十両昇進への期待を込めて紹介。ネーミング通りの相撲が取れず2連敗となったが、残り5番に重戦車ぶりを発揮してもらいたい。幕内復帰を目指す朝赤龍に初日。朝乃若のレモンイエローの締込は記憶に残っている方も多いことであろう。
平成27年1月14日
派手な締込といえば現千田川親方の闘牙のオレンジ色も目に鮮やかであった。もっともオレンジの締込は高砂部屋の大先輩高見山が元祖で、当時東関親方だった高見山さんにお伺いを立ててオレンジ色にした。現役で目立つのは十両の高田川部屋輝の金色の締込。遠縁にあたる横綱輪島の黄金のマワシにあやかっての色だそう。満員御礼がつづく初場所だが、4日目を終わって6勝18敗と大苦戦の高砂部屋一同。朝金井一人健闘の2連勝。
平成27年1月16日
カラーまわしは、昭和32年11月場所の玉乃海に始まるよう。玉乃海に始まる黄金のマワシの系譜については北脇貴士さんのホームペ―ジに詳しい。また、マワシの色について掘り下げて分析してある大相撲解体新書の話は興味深い。朝興貴、得意の突っ張りが冴え初白星。朝天舞も会心の相撲で2勝目。今場所初めて4勝3敗と勝越し。
平成27年1月17日
鍛え抜かれた力士の肌の色も土俵を彩る華であろう。仕切りをくり返すたびにだんだんと朱に染まっていく白い肌。夏巡業で日焼けした黒光りする肌。元気な力士ほど肌艶も輝いてくる。桜色の肌と前捌きのうまい相撲で“桜色の音楽”と形容されたのは第38代横綱照國。“褐色の弾丸”は関脇房錦。NHK解説者元北の洋の緒方昇さんは“白い稲妻”。現阿武松親方の益荒雄は“白いウルフ”。大関若嶋津は“南海の黒ヒョウ”。終戦後に活躍した大関汐ノ海は、“赤鬼”と呼ばれたという。序二段朝金井、勝越しまであとひとつとなる3勝目。朝乃丈、片目あく。
平成27年1月18日
昭和18年1月春場所14日目は横綱双葉山と横綱照國、全勝同士の対決となった。水入りの大相撲となり、引き分けかと思われたときに、双葉山が寄り、残した照國が寄り返し、下手投げを打つも双葉山はさらにがぶり、照國がうっちゃろうするのを差し手を抜いて照國の右肩口を押すと―「照國の朱に染まった体は大輪の牡丹の散るように土俵下へ落ちた」戦前の名勝負の一つといわれ、捌く伊之助が「こんなに力の入った相撲はみたことがない。胸が痛くなりました」と語ったという(小坂秀二『わが回想の双葉山定次』より)。満員札止めの中日8日目、4年ぶりの天覧相撲。3連敗だった朝弁慶に初白星。
平成27年1月19日
四股名に色のつく力士は、現役では横綱白鵬、十両で朝赤龍と青狼。同じ青でも、蒼国来は出身地内モンゴルの草原に因んだであろう蒼。碧山の碧もある。こうしてみると、みんな外国出身力士なのは偶然なのかどうか。そういえば引退した黒海もグルジア出身。もっとも日本人力士でも、黒瀬川、青ノ里、千代白鵬などの四股名もあった。大子錦3勝目、1年ぶりの勝越しまであと1勝。朝弁慶、ようやく重戦車ぶりを発揮して2勝目。朝乃丈、神山負越し。
平成27年1月20日
幕下以下にも白を四股名に入れている力士は多い。白鷹山、白虎、白龍、白海竜、大天白、白美山、白瀬山、白井(本名だろうが)と8人。青は、旧田子ノ浦部屋力士の碧己真、碧天、碧海浜と、出身地からか千代青梅、本名であろう青砥。赤と黒は、朱雀、武玄大と少ない。珍しい色では銀星山、桃智桜など。朝金井、今場所勝越し第1号。朝赤龍、朝ノ島負越し。10日目が終わり、勝越し1人、負越し7人。
平成27年1月21日
普段の着物のときに履くのはキャラコ足袋だが、稽古で足の裏が擦れたときにも足袋をはく場合がある。キャラコ足袋よりも厚手の素材(木綿は木綿だが)で出来ていて稽古足袋という。稽古足袋も白が許されるのは関取衆のみで、幕下以下の若い衆は黒足袋を履く。また若い衆は両足に足袋を履くのは許されす片足のみの着用。胸を出すとき後足になる左足のみよく使うから、右足だけ残る。右足をひっくり返しマジックで黒く塗って左足用に使う力士もいる。朝弁慶、3連敗から踏ん張って3勝3敗。最後の一番に2人目の勝越しをかける。朝天舞、大子錦も可能性をのこしている。
平成27年1月22日
関取衆も普段の羽織袴のときには黒足袋を履く。冠婚葬祭や公式行事のときの正装である黒紋付袴のときは白足袋。雪駄も畳表の雪駄になる。若い衆は、冠婚葬祭などのときにも着流しが正装(三段目以上は羽織を着ることができる)。必ず黒足袋着用になる。ちゃんこ長大子錦、今場所二人目となる貴重な勝越し。朝天舞、勝越しに望みをつなげる3勝目。残り3日間。幕下以下は残り一番。
平成27年1月23日
三段目71枚目と自己最高位に上がった朝轟、初日から6連敗。そんなに家賃が高いとも思えないが、力を発揮できず大きな体を生かせないでいる。今日は、富山から応援に駆け付けた母親の前で今場所最後の一番。今場所初めて攻める相撲を見せ、軍配をもらうも、自分も飛び出してしまい物言いついて取り直し。結局敗れて全敗となったが、今日のような相撲が取れれば来場所につながることであろう。横綱白鵬、稀勢の里との結びの一番で取り直しとなるも史上最多となる33回目の優勝決定。
平成27年1月27日
国技館では18年ぶりの15日間満員御礼となり、結びの一番史上最多の61本の懸賞がかかり、横綱白鵬の11度目の全勝となる33回目の優勝で締めた千秋楽。高砂部屋は、14日目に幕下朝弁慶が3連敗から4連勝の勝越しを決め、朝天舞も勝越して、勝越し力士4人。最悪の勝率ながらも少し来場所へつながりが持てる千秋楽となった。2月2日から稽古再開、2月は健康診断や献血、花相撲と各種行事も多々あり、3月場所まで間もない。2月15日に先発隊出発。22日には全員大阪乗り込み。
平成27年2月4日
四国限定だそうですが、2月6日(金)夜8時より横綱前田山の生涯をたどる番組が放送されます。NHK松山放送局制作の番組で、好評なら全国放映もあり得るとのことです。
平成27年2月6日
JAFアカデミー福島の中学3年生3名が今日から2泊3日の体験入門。世界で戦える選手、人材育成を目指して始まった中高一貫教育のサッカーアカデミー。東日本大震災の影響で、拠点を福島から御殿場に移しての寮生活だという。さっそく掃除やちゃんこ番、買い出しなどを一緒に手伝っている。明日はマワシを締めて稽古に参加。マワシを締めるのも、もちろん初めての体験。
平成27年2月7日
JAFアカデミーの中学生3人マワシを締めて稽古に参加。さすがに運動神経がよく、四股も生まれて初めてにしては飲み込みが早い。200回の四股も休みなく踏みつづけられる。普段からしっかりトレーニングしているのがよくわかる。ただ股関節が固い。股割りはもちろんだが、四股の基本である腰割りの構えで腰が逃げてしまい、膝が中に入ってしまう。腰が割れない。でも赤ん坊の頃ははみんな腰が割れていた。元来日本人は大人になっても腰を割るのが得意な民族であった。外での遊び、和式トイレ、胡坐や正座での食事、・・・子供のころからの和の生活様式が股関節の柔軟性を保っていたのであろう。
平成27年2月8日
朝稽古は休みのため、掃除のあと地下のトレーニングルームで基本のおさらい。腰割り、四股、伸脚、股割りと基本動作をくり返す。さすがにサッカーのエリート選手だけあって、一日で腰割りがかなりよくなっている。15歳という若さのおかげでもあろう。1週間もつづければ、かなりいい腰割りができそうである。股割りは今日も厳しいが、お尻の下に座布団を敷き、ぼんのくぼ(首の後ろ)のマッサージや耳を上に引っ張る秘技を伝授。股関節が少しづつゆるんでくる感覚が味わえれば毎日の習慣にできるはず。これを機に日々のトレーニングの中に取り入れていってほしい。
平成27年2月10日
なぜ股関節をやわらかく保たなければいけないのであろう。相撲では、腰を割るためである。相撲は重心を崩し合う競技だから、腰を低く保った方が有利になる。股関節が固いと、腰を下ろそうとするとお尻が後に逃げてへっぴり腰になってしまう。安定が悪くなり、相手への力も伝わりにくくなってしまう。腰の入った動きができなくなってしまう。もちろんやわらかいだけではダメで、上半身と下半身をつなぎ、常に重心がベストのポジションにコントロールされるためのやわらかさが求められる。15日日曜日から先発隊大阪へ出発の為、今日から大掃除開始。
平成27年2月11日
人間の重心は丹田(下腹部)にあるから、股関節は重心に一番近い関節だといえる。一番近い関節がガチガチに固まっていると、重心のコントロールがうまくいかない。逆にただ柔らかいだけでも、激しいぶつかり合いでは大怪我につながってしまうこともある。重心を最適な位置にコントロールするために、腰割りや四股や股割りがあるのだと思う。NHK福祉大相撲。太鼓打ち分けや相撲甚句、初っ切り、親方や関取り対女性歌手によるお楽しみ歌比べ、綱締め実演等、盛りだくさんのプログラム。
平成27年2月15日
先発隊7人(大子錦、朝乃土佐、朝天舞、朝乃丈、朝興貴、朝金井、松田マネージャー)大阪入り。新大阪駅改札には1年ぶりの嶋川さん(師匠の大学の後輩)の顔。毎年、車を手配して迎えに来てくれる。正午過ぎ、宿舎久成寺入り。大阪場所宿舎としてお世話になり55年目になる。さっそく琉球大学OB会からビールの差し入れがあり、夜はちゃんこ朝潮鴫野店にて晩飯。今日から1ヵ月半におよぶ大阪での生活が始まる。
平成27年2月17日
毎年新大阪に迎えに来てくれる嶋川さんは近大OBで師匠の2年後輩。学生時代からの付き合いで、大阪場所中で仕事が休みのときは連日体育館に応援に行ったという。他にも学生時代からの仲間が十数人いて、まずは地下の食堂に集まり景気づけだそう。他の取り組みにはまったく興味がなく、朝潮の出番が近づくと2階席の四方に分かれて陣取る。近くの観客にも声をかけ、「アサシオ~」と、大声援。取り組みが終わると、そそくさと帰ったという。
平成27年2月18日
後輩の一人は、近大の2年生から4年生までの3年間、大阪場所での運転手を務めたという。気の置けない仲間に支えられて昭和53年デビューの3月場所を幕下全勝優勝で飾り、昭和55年3月場所では初の金星と殊勲賞、昭和58年3月場所は12勝3敗の成績で大関昇進を決めた。そして昭和60年3月場所は、念願の初優勝に輝き優勝パレードに沸いた。引退したのも年号が平成に変わった3月場所。毎年中日8日目には、みんなを集めての食事会が恒例だった。中日の食事会はいまだにつづいている。
平成27年2月22日
東京残り番も全員大阪乗り込み。午後6時よりちゃんこ朝潮徳庵店にて毎年恒例の大阪高砂部屋後援会特別会員チャンコ会。会員とその家族の方々と鍋を囲み一年ぶりの再会を祝す。3月場所で新弟子検査を受ける3人も合流。兵庫県三木市出身14歳陸上部と大阪阿倍野区出身の大学4年生22歳ウエイトリフティング部、兵庫県加西市出身の22歳ボディビルダーと、多彩な顔触れ。2月28日が新弟子検査。明日番付発表。
平成27年2月23日
3月場所番付発表。わりと番付運のいい朝赤龍、先場所5点の負越しであったが2枚目から3枚の降下ですみ十両5枚目。幕下は朝弁慶が4枚上がって21枚目。朝天舞、同じく4勝ながら10枚上がって41枚目。朝興貴は三段目陥落だが東の筆頭。三段目で一番強いおすもうさんと、やゆされることもある。朝金井が自己最高位の序二段24枚目。
平成27年2月24日
稽古始め。午前6時半稽古開始して8時半から土俵祭。土俵祭や宿舎の様子ならびにご住職にNHK大阪放送局が取材。50年以上にわたり谷町で宿舎を構える高砂部屋と、奈良県大和高田市に宿舎を構えて10年余りの錣山部屋を紹介する番組で、3月4日(水)午後6時台の関西地方向けニュース番組『ニューズテラス関西』で放送とのこと。春場所大相撲中継中入りの時間(9日目辺り?)でも放送予定だそうです。
平成27年2月27日
高砂部屋が久成寺を宿舎にしたのは、昭和34,5年のことのよう。宿舎にしてすぐの昭和36年はお寺の事情が何かあったのか2軒隣りの江国寺を宿舎にしている。その間を差し引いてもおよそ55年ほどお世話になっていることになる。稽古場も50年くらいにはなるようで、羽目板には汗と泥が沁み込んで渋みのある光沢を醸し出している。『ぼっこ』と呼んでいる着物を吊るす角材(4cm角長さ2mほど)も、どうみても30~40年はたつ年期ものを未だに使っている。昔ながらの木製ハンガーには、小錦や砂浜といった懐かしい名前も書いてある。宿舎久成寺の隅々に高砂部屋半世紀の歴史がしみ込んでいる。
平成27年3月2日
先週土曜日2月28日に高砂部屋激励会。その日の午前中に3月場所新弟子検査が行なわれ高砂部屋から3人が受検。3人共無事合格して夜の激励会で早速紹介される。兵庫県三木市出身達家(たつけ)貴芳君14歳(平成12年3月31日生まれ)。大阪市阿倍野区出身森本啓太君22歳(近畿大学4回生ウエイトリフィング部)。兵庫県加西市出身山端(やまばな)克忠君22歳(デッドリフト300kgを引くボディビルダー)と楽しみな3人。
平成27年3月3日
兵庫県三木市出身の達家(たつけ)君は、いまどき珍しい志願兵。去年の8月末に夏休みを利用してお父さんと二人で両国に来た。とくにあてはなく、いくつかの部屋を見学しようと思っていたそうで高砂部屋に電話をかけてきた。泊まっているホテルでお会いして話を聞くと、お父さんは大関朝潮のファンとのことで部屋で師匠と面会してもらい話がとんとん拍子に進んだ。面会の時もお父さんの隣で黙って座っていた達家君、相撲経験はまったくなくおとなしく心配していたが、腰割りや四股、すり足、ちゃんこ番の洗い物など、黙々とこなしていくタフさがある。
平成27年3月6日
森本啓太君は大阪高砂部屋宿舎から程近い阿倍野区の出身。大阪産業大学付属高校のときにウエイトリフティングをはじめ、近畿大学でもウエイトリフティング部。コノミヤ芋縄社長の関係の大阪高砂部屋スカウト部長とでもいうべき方がおられて、その方の紹介での入門。小学生の頃、市内の道場で相撲をやっていて、わんぱく相撲の大阪府代表として国技館の土俵に上ったこともある。小学校以来相撲から遠ざかってはいたが、子供の頃の経験は体が覚えていて、立合いしっかりといい当たりができている。
平成27年3月7日
山端(やまばな)克忠君は兵庫県加西市の生まれ。中高と剣道部に所属し、大学1年生まで剣道をつづけていたが、ボディビルの世界に飛び込み、3年で全日本新人大会5位という成績を残す実力をつけた。大阪市内のジムでインストラクターとして働きながらトレーニングに励んでいるところをコノミヤ芋縄社長に見い出され、口説かれ、大相撲界への転身を決意。相撲はまったくの未経験だが、3年でデッドリフト300kgの類いまれなる怪力と、とことん自分を追い込むトレーニング好きな精神は将来を大いに期待させる。触れ太鼓が初日の触れ。前相撲は2日目から。
平成27年3月8日
「浪速の春は春場所から」というように、昨日の雨が上がり、春場所らしい穏やかな初日。一番手に登場は、今場所勝越して三段目昇進目指す朝金井。仕事柄大阪へ出てくることも多いという父親も応援に来ていたそうだが英姿を飾れず。その後も3連敗と先場所に引き続きの曇天スタート。明日から仕切り直し。新弟子たちは、マワシを真新しい風呂敷に包み、着物を用意して、明日2日目からの前相撲の用意。前相撲は非公開だが、親族に限り観戦できる。
平成27年3月9日
今日から前相撲。小学生のとき相撲経験のある朝森本は、押し込んで投げの打ち合いに勝っての初白星。相撲初体験の朝達家は、押し込まれて少し粘るも押し出しでの負け(本人談)。山端は、足の傷から化膿して熱を出し無念の休場。回復次第出場予定。前相撲は一日おきに取り、2勝すると出世となるから、朝森本は4日目の次の相撲に勝つと5日目に一番出世披露となる。二番出世は9日目に披露される。
平成27年3月10日
部屋の近くの古本屋で、ベースボール・マガジン社『相撲』昭和38年3月春場所展望號を見つけた。昭和38年大阪場所での各部屋の宿舎一覧が載っている。ほとんどの部屋が谷町筋界隈にある。北から順にいくと、谷町8丁目の角の本政寺に横綱大鵬の二所ノ関部屋。谷町筋の向かい久本寺に宮城野部屋。南向かいの願生寺に錦島部屋。さらに南へ下って現在と同じ久成寺に高砂部屋、その隣の本経寺に若松部屋。谷町9丁目の交差点を越えて生国魂神社の隣の齢延寺に三保ケ関部屋。その隣銀山寺に花籠部屋。その隣大宝寺に立浪部屋。その横、大善寺に高島部屋、圓通寺に伊勢ケ浜部屋、隆専寺に出羽海部屋、菩提寺に春日野部屋、一乗寺に小野川部屋と密集している。当時はお風呂も銭湯だったろうから、谷町界隈はお相撲さんで溢れかえっていたことであろう。
平成27年3月11日
横綱朝潮が引退したのが昭和37年1月場所。38年3月場所の高砂部屋は、前頭筆頭の富士錦(6代目高砂親方)が部屋頭。他幕内に前田川、若前田といて、十両に朝ノ海、東錦、大緑、響矢、高錦と関取8人の部屋。それでも永らく横綱がつづいた部屋だからか、『相撲』誌では、ここ数場所不振つづきの高砂部屋という記事が出ている。「相撲部屋聞き書き帖」では、若松部屋房錦の1歳半になる娘への子ぼんのうぶりが紹介されている。前相撲朝森本、2勝目を上げて明日5日目に一番出世披露。
平成27年3月12日
5代目高砂親方の横綱朝潮は徳之島の出身。昭和31年から33年まで大阪場所で3連覇を果たし、翌34年も大関で13勝2敗の成績で横綱昇進を決めた。最後の優勝となる5回目の優勝も昭和36年の大阪場所で、「大阪太郎」と呼ばれたことは古い相撲ファンにとっては懐かしい響きであろう。横綱朝潮と同じ徳之島出身の朝ノ島、3連勝。2年前に四股名を朝ノ島次郎に改名してから大阪場所2年連続で勝越して今年も勝越しまであとひとつ。今場所5勝くらい上げると、「大阪次郎」と呼んでいいのかもしれない。前相撲の朝森本、朝赤龍関の化粧回しを借りて新序一番出世披露。
平成27年3月13日
『相撲』昭和38年3月号には、初場所の星取り表が載っている。昭和38年初場所の高砂部屋幕下は13人。うち奄美出身力士が2人いる。宇検村出身の大島洋と徳之島出身の左文字。左文字は、以前中村部屋にいた闘進力の父親にあたる。三段目にも13人。三段目力士の中には、白田山、前ノ山という名前がある。白田山は入門4年目19歳。前ノ山は入門丸一年18歳になったばかり。二人共75kg、80kgといわゆるソップ型。序二段には8人。序二段77枚目に若松部屋伊藤の名前がある。のちの大鷲さんである。入門半年の17歳。初場所は惜しくも3勝4敗と負け越してしまった。序二段にも徳之島伊仙村出身力士が一人。本名藤正作、紫電の四股名。現在の高砂部屋は総勢13名。幕下以下力士を引っ張る朝弁慶、2勝1敗と白星先行。
平成27年3月14日
日本相撲協会公式サイトでは、その日の全取組の録画も見ることが出来る。三段目朝乃丈 、部屋へ戻ってくるなり、「一ノ矢さん、自分の相撲見れますか!」と勢い込んできた。そんなことを言うのは初めてなので早速サイトを開いてみるも、まだ序二段の取組までしか録画がない。夕方もう一度来て再生。大きな相手に、いい当たりから、しつこくおっつけ、最後は豪快な上手投げと勢い込んできたのも頷けるいい内容。前向きに相撲を取っている時は本当にいい相撲を取る。「いつもこんな相撲をとればすぐ幕下上がれるよ」と言うと、「6番かちたいっすね!」「いや、まずは勝越したいっすね!」とごきげん。この勢いで残り3番も取ってもらいたい。
平成27年3月15日
足の怪我で前相撲を休場中だった朝山端、今日初めて土俵に上がる。「思ったより緊張しなかった」とのことで、パワーを生かした相撲で初土俵初白星。もう一人朝達家の方は、4連敗となったものの、「今日は当たれました」と少しは慣れてきた模様。明日二人共お昼過ぎ三段目取組途中、本土俵の上で二番出世披露される。
平成27年3月16日
こちらも古本屋でみつけた読売新聞社『大相撲』誌昭和40年4月号から。春場所総決算號で「若いもんには負けられない」というタイトルで、花籠部屋大豪、時津風部屋若杉山、伊勢ケ浜部屋開隆山と、活躍したベテラン3力士とNHK北出アナとの座談会。時津風部屋若杉山が、最近の好調ぶりを振られて、「実は理事長(元双葉山)が昨年、部屋で皆を集めて約一時間半ばかり相撲の理論というものを説いてくれたことがあった。それを聞いて、これはいいことを聞かしてくれたな、とほんとうにそう思ったですね。(中略)稽古のしかたについても、昔からいいろいろよく研究されてきている。それを守っていれば間違いない。相撲は長い伝統があり、ムダなことは全部はぶいてこんにちの相撲が伝わってきているので、ムダなことは少しも伝わっていないのだ。からだを整えるには、シコと鉄砲をやればよい。ほかのことはやらなくても、シコと鉄砲だ。相撲は奥深いものだということをかみくだいて説いてくれました」、とある。まさに、シンプルなだけに奥深い。朝山端、朝達家、朝赤龍関の化粧回しを締めて二番出世披露。
平成27年3月17日
勝越しがかかる一番を給金相撲という。本場所の一番はいつでも緊張感があるが、給金相撲のときには、より一層緊張感が高まる。きのう、三段目朝乃丈が今場所初の給金相撲に挑んだが敗れ、今日は序二段で神山、朝ノ島、幕下の朝弁慶と、3人が給金相撲。神山が今場所第一号の勝越しを決め、朝ノ島は給金直せず。幕下朝弁慶、相手に何度か残られるも、湘南の重戦車ぶりを発揮して寄り切りでの給金。いつもに増して緊張感が高い分喜びも大きい。部屋へ戻り、「お蔭さんで給金直しました」と挨拶する大きな体からは、安堵と喜びがいっぱいに溢れ出ている。
平成27年3月18日
“給金を直す”の給金は、月給ではなく褒賞金のこと。勝越し1点につき50銭の昇給だから(現在の支給額は4000倍)、かなり昔にできた制度だろうが、能力給と年功給をミックスさせたような実によくできた給与システムだと思う。場所毎(年6回)の支給で、入門すると全力士につくのだが、支給されるのは関取(十両以上)のみ。元幕内力士でも、幕下に落ちてしまうと褒賞金の支給はなくなる。幕下以下は支給はないのだが、帳面上は給金が上がっているので、「お蔭さんで給金直しました」と挨拶する。今日も大子錦、朝乃丈、朝興貴の3人が給金を直す。
平成27年3月22日
14年ぶりの15日間満員御礼となった大阪場所も千秋楽。今日の一番に勝越しをかける朝赤龍、土俵際粘りの相撲で勝越し。今場所絶好調の朝弁慶、今日は快心の押し相撲で6勝目。来場所はおそらく幕下10枚目以内の予想で、番付発表が楽しみ。朝乃丈も5勝目。先場所が悪かったとはいえ、期待の力士が期待以上の成績を上げ、千秋楽祝賀会も祝勝ムード満載。明日からは稽古が休みになり、宿舎の片付けをしながらも気分的には安らげる1週間。28日(土)に帰京と巡業出発。
平成27年3月30日
28日土曜日に帰京。十両朝赤龍と付人朝興貴は春巡業へ出発。昨日が伊勢神宮奉納大相撲で、今日は南あわじ市。明日姫路に行って、4月2日は高野山で開創1200年記念大法会開白の横綱奉納土俵入り。3日は東京に戻って靖国神社奉納大相撲。4日以降は週末を利用して藤沢、静岡、三郷、市川、常陸大宮、高崎、水戸とつづき19日(日)帰京。昨年好評だった幕張メッセでの大相撲超会議場所が今年も4月25(土)26日(日)と開催されるよう。
平成27年4月4日
花冷えの東京。大阪場所で初土俵を踏んだ朝森本、朝山端、朝達家の3人は相撲教習所通いの毎日だが、土日は教習所が休みのため部屋での稽古。大阪の稽古場ではふらついていた四股も大分様になってきた。相撲教習所は番付発表前の週までつづく。4月27日(月)の番付発表で初めて番付に四股名が載り、番付発表後は部屋での稽古をつづけて5月夏場所で序ノ口の土俵に上がる。
平成27年4月5日
相撲教習所ができたのは昭和32年10月から。この年の3月2日、衆議院予算委員会で社会党辻原委員が質問に立ち、「相撲協会は、公益法人である財団法人として、寄付行為に定められた本来の事業を実施せず、プロ野球やプロレス以上にもうけ仕事だけの興業団体化している」と、相撲協会のあり方が国会で指摘され、世論も巻き込んでの大問題となった。この問題に対応する形で、運営審議会の設置、月給制の導入、2階の桟敷席をイス席に改良、などの改革が行なわれ、10月から相撲教習所が開校された。
平成27年4月7日
3月2日は大阪場所の初日が迫る頃。高永武敏著『相撲昭和史 激動の五十年』(恒文社)によると、「仰天した協会では、監督官庁の文部省と接渉しながら、協会民主化改革案の作製にとりかかった。大阪の春場所中に一応の成果を得て、武蔵川理事(元出羽ノ花)が辻原委員たちに説明。4月3日、衆議院文教委員会は公聴会を開き、協会の武蔵川理事と若瀬川泰二、永井高一郎(元佐渡ヶ嶽理事)、和久田三郎(元天竜)、御手洗辰雄(評論家)、岩原祐(保健体育審議会委員)の6人を参考人としてよんだ」とある。
平成27年4月8日
武蔵川理事は、元前頭筆頭出羽ノ花。昭和7年1月の春秋園事件で幕下から抜擢されて新入幕。15年5月場所に引退。現役時代から頭脳明晰で知られ、引退後すぐに執行部入り。親方になってから簿記の専門学校に通い経理を学び、戦前から戦後にかけての混乱期の相撲界を支えた。相撲協会の大蔵大臣といわれたという。国会での鮮やかで堂々とした態度の答弁は代議士連中を驚かせ、「相撲協会に置いておくのはもったいない、ぜひ立候補させたい」という声が上がったが、「代議士などになるより、代議士を働かせるほうがおもしろいよ」と言ったという。
平成27年4月9日
同じく参考人として呼ばれた永井高一郎氏は、阿久津川の四股名で大正から昭和にかけて活躍した高砂部屋の力士。昭和4年に引退して佐渡ヶ嶽親方となり横綱男女ノ川を育てた。理論家で相撲の科学的研究に熱心で、昭和36年『大相撲』誌によると、親方になってから名古屋大学熊谷博士のもとで2年、体育研究所の吉田博士のもとで4年、生理学および運動生理学を勉強したとある。昭和8年、現在の相撲健康体操のもとになる“相撲基本体操”を考案した。
平成27年4月10日
国会での質疑は、とくに茶屋問題に集中したという。公聴会のあとの4月11日、文教委員会理事会は文部大臣に「相撲協会は公益法人たる本来の事業である相撲専修学校を設立し、相撲の普及や指導に努めること。茶屋制度を廃止し、キップの販売については大衆が容易に入手できるようにすること。蔵前国技館は保健衛生や防災の見地から観覧席を改良すること。力士や年寄たちの給与を改善し、健康保険制度を確立すること」という申し入れをした。当時の理事長は、元横綱常ノ花の出羽海親方。夫人はお茶屋の経営者であった。5月4日、国技館で出羽海理事長の割腹自殺未遂事件がおこり、理事長を辞任。5月6日、元双葉山の時津風親方が理事長に就任した。
平成27年4月11日
時津風新理事長のもと相撲協会の民主化改革は急速に進み、早速5月から月給制が実施された。『相撲昭和史激動の五十年』によると、初の月給は、横綱15万円、大関11万円、関脇・小結7万円、平幕4万5千円、十両3万円。立行司・副立行司が7万円、三役格4万5千円、幕内格3万円、十両格1万8千円。年寄りは取締15万円、理事・監事9万円、検査役7万5千円、主任4万5千円、常勤年寄3万5千円となっている。ちなみに昭和32年の教員の初任給は8千円だったそう。
平成27年4月12日
昭和32年5月以前は歩合制による分配であった。本場所開催時は協会から興業収入が分配されるが、普段は一門毎の「組合」で巡業に出て、組合からの分配金での生活。いわば、自分たちの食いぶちは自分たちで稼げ、という形で、人気力士のいる一門とそうではない所では集客力に差があり、また時代による波もあり、不安定であり不明瞭でもあった。月給制にするにあたって、巡業を一門別から大合併にし、本場所も昭和32年に年5場所、翌33年に年6場所と増やしていった。
平成27年4月13日
もらえるべき金がもらえないと不満がたまり、やがて爆発する。大相撲が組織だった形になった江戸中期から現在に至るまで何度か大きな事件が起こったが、ほとんどが待遇改善を訴えたものであった。明治6年秋の騒動は、初代高砂浦五郎が中心となった。会所に改革を迫るも除名となり、名古屋で改正高砂組を立ち上げ独立した(明治11年復帰)。その後も明治44年1月新橋倶楽部事件、大正12年1月の三河島事件、そして昭和7年1月の春秋園事件とつづいた。
平成27年4月14日
江戸時代の力士は大名お抱えであった。平均して五人扶持(年間およそ25俵)をもらっていたという。ただし、お抱えとなり扶持米をもらえるのは一部有力力士のみで、大多数は部屋毎の小相撲と呼ばれる巡業で何とか食いつないでいた。江戸から明治に変わり、大名のお抱えが解かれ、後援者も相撲どころではない。関取衆といえども日々の生活にさえ困窮している。それにもかかわらず会所(協会)の筆頭(理事長)と筆脇(副理事長)が利益を独占し、力士の犠牲の上に大あぐらをかいている。これを許してよいものか、と初代高砂浦五郎が改革を迫った。
平成27年4月15日
改革を迫るも除名され独立した初代高砂は、明治11年に復帰し徐々に発言力を強め明治16年には取締に就任。力士への収益配分を決め「力士が相撲で食える」システムをつくっていった。他にも年寄名跡の制限や記者席の設置、選挙制度など数々の改革を行い大相撲の民主化に努めた。ところが権勢を強めるにつれ専横ぶりがひどくなり、明治29年1月「われわれは不正なる取締の配下にあるを潔しとせず」との檄告書を力士30余名の連名で出され本場所をボイコットされる事件が勃発。さすがの初代高砂も最後には折れ辞任。両国中村楼で手打ち式が行なわれたため中村楼事件といわれている。
平成27年4月17日
中村楼事件の直後、70条におよぶ「東京大角觝協会申合規約」が出来、元横綱初代梅ケ谷の雷親方を取締として更なる民主化がすすんだ。折から常陸山、2代目梅ケ谷の台頭で相撲人気も空前の好況をみせる。明治36年横綱に同時昇進して梅・常陸時代を築き、明治42年の両国国技館建設が実現。晴雨にかかわらずの大幅な観客増につながった。しかしながら、多額の借金での建設だったため、力士の給金は変わらず。明治44年1月、待遇改善を求めて新橋倶楽部事件が起きた。
平成27年4月18日
相馬基著『相撲五十年』(昭和30年時事通信社)によると、明治44年の幕内給金(本場所開催時のみの支給)は上位で45円ほど、最高が65円どまりであった。さらに、部屋住みの関取は4分を師匠に渡し、自分の取り分は6分。所帯持ちの関取は、8分を取り、2分を師匠に納めていたという。当時の公務員(役所)の初任給が55円だったようだから、かなり少ない。大部分の力士は給金など当てにしないで、後援者の世話になって体面を維持しているのが現状であった、とある
平成27年4月19日
徳之島の久志哲哉さんは、相撲をこよなく愛していた。自ら相撲を取り、子供たちを教え、審判として土俵に立ち、相撲グッズを集め、大相撲の力士の面倒もみた。場所が始まると、自宅前に力士幟を何本も立てた。優勝祝賀パーティー、断髪式、結婚式、・・・徳之島からはるばる足を運んでくれた。2年ほど前から体調を崩し入退院を繰り返していたようだが、夏場所応援にいくから、稽古場だけでもいくから、とつい先日電話で話したのに叶わなかった。久志さんの相撲を愛する気持ちは、奄美出身力士に、わんぱく力士に、アマ力士にこれからも引き継がれていくことであろう。享年67歳。心よりご冥福を祈ります。
平成27年4月21日
新橋倶楽部事件の中心になったのは浪ノ音(高砂部屋)や緑島(雷部屋のちの立浪親方)等関脇以下の力士達。常陸山等横綱・大関が間に入って協会との仲裁にあたったが、もつれにもつれ24日間に亘っての争議となり、力士団が養老金1500円(当時は年寄名跡が買える金額)という退職金制度をかち取った。その後、大正6年の失火による国技館全焼という惨事や時代的不況の影響を受け協会の台所も苦しくなっていく。再び力士の不満がたまり、大正12年1月、初日の前日に待遇改善を訴えた三河島事件勃発。
平成27年4月22日
三河島事件も新橋倶楽部事件同様、関脇以下の力士が協会に待遇改善を訴えた。前回同様横綱大錦と栃木山そして大関陣、立行司ら7人組が間に入り調停に努めたが、両方から拒絶される。最終的に当時の警視総監が調停者となりようやく10日目の午前0時に和解。深夜、総監の招きで日比谷平野家で、協会代表4人、力士会代表3人、横綱大関らの7人組とが手打ちの祝宴。和やかな雰囲気の中、中座した横綱大錦は自ら髷を切り落とした。「この度の粉擾でわれわれの努力が功を奏せず、閣下のお手にゆだねましたことは、不徳不明の致したところと、深くお詫び申し上げます。(中略)横綱の面目をつぶした以上、私は土俵の自信もなくしました。ここに髷を切って今日限り引退を決意した次第でございます」力士会代表の司天竜が号泣する中自宅に戻り、以後相撲界から身を引いた。
平成27年4月27日
5月夏場所番付発表。先場所幕下21枚目で6勝を上げた朝弁慶、幕下東7枚目。いよいよ関取の座が目前にせまってきた。もちろん自己最高位。朝興貴は一場所での幕下復帰で41枚目。朝天舞が幕下53枚目。先場所デビューの3力士も初めて番付に名前を載せた。一番出世の朝森本が13枚目、二番出世の朝山端25枚目、朝達家26枚目。明日から稽古再開。
平成27年4月28日
相撲は番付がすべて、という.。「番付一枚違えば家来も同然、一段違えば虫けら同然」という言葉もある。給与や人事、待遇すべてを決めるのが番付で、新十両、新幕下・・・すべて番付発表の日から正式にその地位に上がったことになる。付人の変更なども番付発表の日を境に行なう。十両朝赤龍には、先場所まで朝ノ島と朝興貴が付いていたが、今場所から朝興貴に代わり朝乃丈が付くことになった。朝興貴は、朝弁慶と一緒に師匠の付人になった。朝乃丈は、入門以来横綱の付人を務めていたが、横綱引退後はずっと師匠の付人で、朝赤龍の付人は初めての経験。
平成27年4月29日
平成12年9月場所番付発表の日(8月21日)から朝青龍は関取になった。同じ日に朝乃翔は、怪我で関取から幕下に陥落。番付発表の日を境に、大部屋にいた朝青龍が4階の個室に移り、4階の個室にいた朝乃翔が2階の大部屋に移動(8月20日)してきた。十両最下位と幕下筆頭は半枚しか番付に違いがないが、待遇に大きな違いが出てくるため、悲喜こもごも様々なドラマが生まれてくる。
平成27年4月30日
横綱大関に上がった人間でも、十両昇進を決めたときが一番嬉しかったと語る。給料を貰える(幕下以下は場所手当てのみ)のも大きいが、日常生活での待遇がガラリと変わってくる。付人がつくようになるし、ちゃんこのとき座布団を敷き、お膳も用意される。稽古が終わったらすぐ風呂に入り、風呂では付人が背中を流し、お客さんと一緒にちゃんこを食べられる。(幕下以下はお客さんが終わった後)本場所の土俵で締めるマワシも絹の繻子織の高価な締込みになるし大銀杏を結うようになる。場所入りも羽織袴の正装になる。(幕下以下は、浴衣か着流し)
平成27年5月1日
5月場所新弟子検査が行なわれ、10人受検。高砂部屋からも埼玉県羽生市出身大門(おおかど)優典君が受検して身長体重の体格検査に合格。内臓検査の結果を待って5月10日初日の日に正式発表となる。高砂部屋OB元攻勢力の角田氏(現埼玉相撲クラブ師範)と同じ警備会社に勤務していて昨年末の高砂部屋もちつきに参加したところスカウトされ入門に至った。178cm115kgの体格。今まで相撲経験はないものの中学で柔道、高校では空手と武道路線を歩んできた20歳。内臓検査に問題がなければ3日目から前相撲で初土俵を踏む。
平成27年5月2日
新弟子検査の基準は現在、身長167cm体重67kg以上で年齢23歳未満の男子。但し、三月場所は中学卒業見込者に限り、身長165cm体重67kg以上となっている。この検査基準は平成24年5月場所から。それまでは、第1検査が173cm75kg以上、第2検査が167cm67kg以上で運動能力検査を実施となっていた。それ以前も何度か基準値の変更があり、身長体重や年齢制限のない時代もあった。
平成27年5月3日
昨日今日と両国にぎわい祭り。ゴールデンウイーク恒例となって今年で13回目。昨日国技館土俵で二所一門連合稽古が行なわれ、今日は各種相撲関連イベント。おなじみチャンコや、相撲教習所土俵にての「力士に挑戦コーナー」では子供たちに混じって大人もマワシ姿で力士に挑戦。昨年まで木村朝之助が担当していた「相撲字で記念うちわ」、今年は木村悟志が担当。地下大広間では呼出し利樹之丞と邦夫による「太鼓実演」。はね太鼓を連弾してピッタリ息の合った見事なバチさばきを魅せていた。
平成27年5月4日
初日まであと一週間をきり、朝興貴と朝乃丈が関取のさがり張り。関取のさがりは、糊で固めてあるのだが、取り組みで折れるのでお湯で溶かしてクシをかけ糊で張り直す。毎場所前の付人の仕事のひとつ。以前はフノリを炊いて使っていたが、現在は市販の糊をうすめて使うこともあるよう。長年朝青龍のさがり張りをやってきた朝乃丈、朝赤龍のさがりを張るのは初めてだが、微妙にやり方が違うらしく、「こっちの方がきれいだ」「いやこうするのが正しい」と罵りあいながら仲良くやっている。普通2本作り、中日に取り換える。
平成27年5月5日
関取は連日時津風部屋への出稽古。部屋へ戻ってきて風呂へ入る前にシャンプー。一度シャンプーで泡立ててから風呂場へ行き流し再度洗う。シャンプーをするのも付人の仕事。腰かけた関取の後ろに立ちクリーム状の海藻シャンプーをつけて泡立てる。海藻シャンプーが油落としには一番効果的なようで多くの関取衆が愛用している。風呂場で2,3度シャンプーをくり返しびんつけ油や汚れを落とす。もちろん付人が背中を流し、風呂上がりには背中や足をきれいに拭き取る。タオルも、顔拭き用、背中拭き用、足拭き用など4,5本用意しておく。
平成27年5月6日
付人は、文字通り関取に付いて身の回りの世話いっさいを行なう。朝、関取が部屋に来るとマワシを引っ張る。マワシを引っ張るのは、ゆるめず引っ張りすぎず適度な力加減が必要で、ある程度兄弟子にならないとうまくできない。関取によっては、稽古でテーピングや包帯用のサラシを使う場合もあるので、買い忘れなどないよう事前に用意しておかなければならない。関取が稽古をするときには、稽古タオル(バスタオル)を2本持ち、一番取り終えるたびに、駆け寄り、砂を落としたり、汗を拭いたりする。目配り気配り素早い動きが常に求められる。
平成27年5月7日
関取が風呂から上がり髷を結い直すときにはサッと肩にタオルをかける。結い終わるとちゃんこのお給仕。関取になると、ご飯は丼ではなく、ほとんどが普通のお茶碗を使う。しかもお茶碗に6,7分目と軽めによそうのが作法になる。関取の後ろに立っておかわりしたり、冷茶を注いだりする。ちゃんこが終わると用意していた着替えを着せ個室へもどるまでついていく。時にはマッサージをすることもある。そういうことを全部済ませてようやく風呂に入れる。
平成27年5月8日
その他にも洗濯や掃除、買い物などなど、付人稼業は何かと忙しい。その分おいしいこともある。出かけるときも付いていくから、自分たちではとてもいけない高級店や各界の有名人等と席を共にする機会も出てくる。何より四六時中一緒にいて、立ち居振る舞い、相撲に対する姿勢、強くなる気・・・肌身を通していろんなことを学べる。その気になれば得られるものはいくらでもある。横綱栃錦は師匠(元横綱栃木山)の付人として名人横綱としての心技体を磨いたし、横綱双葉山も17,8歳の頃元関脇玉椿の白玉親方に付いて、稽古や本場所に対する心構え、力士としての歩き方等学んだという。
平成27年5月9日
双葉山の話は『相撲求道録』(昭和31年時津風定次著・黎明書房)から。口授筆録による書。歩き方の話から次のような話に繋がって興味深い。「戦時中の勤労動員のさい、実はわたしどもも、靴をはいた経験があるのです。これは力士としては大変なことでした。いままで靴をはいていなかったものが、にわかに靴をはくことによって、それは自然に親指の「ふんばり」に影響してきました。そのため土俵での「さぐり」がにぶくなってきたことは事実です。日常生活のちょっとしたことが、この一事によっても疑えないところです。」明日が初日の触れ太鼓。朝ノ島は休場(網膜はく離のため)。
平成27年5月10日
初夏の陽気の夏場所初日。早々の満員御礼。8時20分開始で初口から二番目の土俵に上がった朝山端、立合い少々迷ったそうだがパワーを発揮して序ノ口初白星。今場所から朝赤龍の付人を務めることになり十両取組前の支度部屋にもデビュー。関取衆の取り組み前の準備運動や雰囲気を肌で感じいろんなことを大いに吸収してもらいたい。朝乃丈も久しぶりの支度部屋。3勝4敗の高砂部屋初日。
平成27年5月11日
付人は、支度部屋でもこまごま々と身の回りの世話をする。着物を畳み、化粧回しを締め、土俵入りが終わると素早く化粧回しをあげ、取組に集中できるよう様々とサポートする。狭い中、他の部屋の関取衆や兄弟子も多いから何かと気を使いながらの仕事。ふつう、一番下の付人が水とタオルを持ち準備運動をする関取の横に立つ。立合いの稽古で胸を出すのはある程度兄弟子の付人で、花道に付いていくのも兄弟子。風呂入れは下の方と、それぞれに役割分担がある。昨日の朝山端につづき、朝達家、朝森本も初白星。十両土俵入り後、幕下上位五番に登場の朝弁慶、攻め込むも白星ならず。今日2日目も満員御礼の夏場所。
平成27年5月12日
控えですわる座布団を運ぶのも付人の仕事。これは新弟子の付人が行なう。2番前の力士が土俵に上がると花道を土俵下まで進み呼出しに渡し交換してもらい、前の力士の座布団を受け取って帰る。ただし、控えでマイ座布団に座れるのは幕内のみ。十両は備え付けの座布団で、幕下以下は座布団はなし(畳のみ)。幕下朝天舞いい相撲で2連勝。そういえば、朝天舞も朝花田の四股名の頃、初めて幕内朝青龍の座布団運びをやったことがあった。朝達家も2連勝。
平成27年5月13日
双葉山も新弟子の頃、座布団運びで失敗したことがあるそう。当時の立浪部屋幕内吉野山の付人として花道で待っていて、相手が横綱常ノ花なので、「うちの関取はとても勝てっこない」と半分諦めて見ていたら、あにはからんや打っ棄りで横綱を破った。「わたくしはまったくの無我夢中で、蒲団をあげることも忘れてしまって、部屋に飛び込んでゆき、吉関が勝った!吉関が勝った!と連呼したものです。あとで叱られたことを覚えています。」と、『相撲求道録』で述べている。昨日から始まった前相撲、朝大門(あさおおかど)嬉しい初白星。朝山端2勝目。
平成27年5月14日
「夏場所や ひかへぶとんの 水あさぎ」は久保田万太郎の句。水あさぎとは、水色がかった浅葱色で、緑みのある淡い青色とのこと。座布団の色は自分で決められる。朝赤龍の控え布団はエンジ色。3,4年前に名古屋の後援者の方と付人で関取の誕生祝いにプレゼントしたものだそう。その朝赤龍連敗スタートからの3連勝。早く幕内へ復帰してお蔵入りとなっているマイ座布団を再び使いたいところ。朝山端は無傷の3連勝。
平成27年5月15日
幕下上位五番は、十両土俵入りの後に行なわ、控えの共用座布団も上位五番から用意される。昨年名古屋場所で初めて上位五番に登場した朝弁慶、そのときは初口だったので控えに座ることなく土俵に上がったそうだが、今場所は3日間とも控えに座っての土俵。「ふかふかして気持いいっす」とのこと。今日は、是より十枚目の一番前に登場。得意の重戦車相撲で初白星。朝興貴、神山にも初日。
平成27年5月16日
朝山端、4連勝で勝越し。今場所の勝越し第1号。3月場所前相撲の土俵に上がってから未だ負け知らず。もっとも前相撲は蜂窩識下炎で休み、最後の一番取っただけで、その後も首を痛めたり風邪を引いたりと体調面で苦労をしているが、本場所で見事に結果を出してきた。おそらく5連勝目は話題の木瀬部屋宇良との対戦になりそうで、持ち前のパワー全開でぶつかっていってもらいたい。朝大門、今日で前相撲を取り終わり、明日出世披露。
平成27年5月18日
序ノ口の朝達家、朝森本ともに3勝目。相撲経験が全くなく体にも恵まれない朝達家、部屋の稽古では同期生の2人はもちろん、今場所初土俵の朝大門にも全く歯が立たないが、「場所相撲か?」と、皆を驚かす大奮闘の3勝目。今日も低く当たって左差して前に出ていき、土俵際上手投げで振り回されたたものの、わんぱく相撲のようにクルッと土俵内に戻り寄り切りでの勝ち。朝森本も双差しから土俵際残る相手を寄り倒し。こちらは小学生の頃の相撲経験を生かしたうまい攻めをみせての3勝目。同期生3人揃っての勝越しも見えてきた。
平成27年5月19日
朝弁慶、3勝目。2連敗スタートで心配されたが3連勝で勝越しまであと一番。だんだん相撲内容も良くなってきて、今日も頭からぶちかまして相手を押し込み、腕もよく伸びての押し出しと、得意の重戦車相撲で気をよくする3勝目。8月末には恒例の平塚合宿が今年も行なわれる。まずは勝ち越しを決めて番付を上げ、合宿直前の名古屋場所に臨みたい。朝金井、大子錦、負越し。朝山端、宇良相手に攻め込むも肩透かしでの初黒星。
平成27年5月21日
朝弁慶、勝越し。今日もぶちかまして前に出る重戦車相撲に徹し、自己最高位での嬉しい勝越し。何枚上がるかは周りの成績との兼ね合いだが、もう一番積み重ねると、より上がることは間違いない。5勝目をかけた一番は明後日14日目.。元十両旭大星との対戦。朝森本、うれしい勝越し。「ホッとしました」と安堵の笑顔。朝山端5勝目。こちらも日に日に気合いの入った表情。朝興貴、神山は3勝目で勝越しへ望みをつないだ。幕下以下は残り一番。今日まで勝越し、負越し共に3人ずつ。5人が3勝3敗で、明日からの最後の一番に勝越しをかける。
平成27年6月1日
昨日5月31日、国技館土俵にて元横綱千代の富士の九重親方の還暦土俵入りが行なわれた。2年前の北の湖理事長以来の赤い横綱での土俵入り。過去、横綱太刀山に始まり、栃木山、常の花、栃錦、若乃花、大鵬、北の富士、三重ノ海、と続き、今回で10人目。存命だったが体調不良で土俵入りを行なえなかった方や、廃業して相撲界との縁が切れて行なえなかった方も10名ほどいる。元横綱朝潮の5代目高砂親方は、赤い綱を作り土俵入りの稽古も重ねていたのだが、直前に亡くなり還暦土俵入りを果たせなかった。
平成27年6月6日
最近、稽古場でベテラン勢が熱い。新弟子に胸を出すだけでなく、神山、大子錦という両者合わせて70歳の古稀対決が手に汗握る熱戦をくりひろげ稽古場を盛り上げている。お互い、膝や腰、内臓に持病を抱えてのことだから、見ている方としても「膝がおれてしまわないか」「呼吸困難に陥りやしないか」と、スリル満点の申し合い。息が上がるのは早いが、番数を重ねるごとに動きに多少は切れが出てくるのはベテランならではのこと。これも今年になって4人増えた新弟子効果のひとつであろう。
平成27年6月9日
6月6日に鹿島神宮にて横綱白鵬の土俵入りが行なわれた。鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。武甕槌大神は武の神で古くから皇室や藤原氏の崇敬を受け、武士からの信仰厚く武術が盛んに行なわれ、そのなかから塚原卜伝も生まれたという。相撲とも関わりがあったはずだが、以外にも横綱土俵入りが行なわれるのは初めてのことだそう。
平成27年6月10日
武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、古事記には「建御雷神(たけみかづちのかみ)」の名で出てくる。ほかにも、武甕槌神・建雷命・建布都神・豊布都神という表記もあり、神の名はまことにむずかしくややこしい。古事記「出雲の国譲り」神話によると、出雲伊那佐浜(いなさのはま)で力くらべが行なわれ、建御雷神(たけみかづちのかみ)が建御名方神(たけみなかたのかみ)を「若葦(わかあし)を取るが如く掴みてひしぎ投げ」とあり、建御雷神(たけみかづちのかみ)が圧勝した。この力くらべが相撲の起源ともいわれている。
平成27年6月11日
敗れた建御名方神(たけみなかたのかみ)は逃げ去り、諏訪湖のほとりでつかまり殺されかけるが、「降参します。けっして諏訪から動きません。国を譲ります」と許しを乞い、古事記での国譲りが完了する。古事記は建御雷神(たけみかづちのかみ)を氏神とする側から書かれたようで建御名方神の印象が悪いが、建御名方神も武神・軍神として名高い。元寇の際には建御名方神を祭神とする諏訪大社から雲が登り神風を吹かせたという話があり、五穀豊穣・航海安全・勝利祈願のご利益から諏訪神社は全国に数多い。風神・水神という農耕神としての面もあり相撲との関わりも深く、毎年9月には江戸時代からつづく「諏訪大社十五夜相撲」が行なわれている。
平成27年6月12日
有名な野見宿禰と當麻蹶速の闘いは、『日本書紀』巻六「垂仁天皇」に出てくる。當麻村(奈良県)の蹶速が力自慢を誇り、強者と闘いたいと言っているのを天皇が聞き、「だれかおらぬか」と尋ねたところ、「出雲の国に野見宿禰という勇者がいます」ということで対決することになった。向かい合った二人は、足をあげて蹴り合い、たちまち宿禰が蹶速のアバラ骨を蹴り折り、さらに腰骨を踏み折って殺してしまった、と、まことにすさまじい。野見宿禰は、「相撲の祖」として野見宿禰神社に祀られている。今日から茨城県下妻市大宝八幡宮での錦戸部屋との合同合宿。お宮到着後、全員で先代宮司のお墓に参る。
平成27年6月13日
茨城県下妻市大宝八幡宮での錦戸部屋との合同合宿稽古初日。錦戸部屋カナダ出身ブロディ君こと誉錦を加え新弟子が5人もいるので稽古場の雰囲気も若々しい。9時前に稽古を終えて、9時過ぎから第5回わんぱく相撲下妻場所。1年生から6年生まで63人が参加して熱戦をくり広げる。土俵際がもつれにもつれる行司泣かせの勝負がつづき大盛況。もともと大宝八幡宮は相撲との縁が深く、明治時代には横綱常陸山が3日間の巡業を張ったことがあり、昭和30年代までは地元青年団による奉納相撲も行なわれていたという。また隣町坂東市出身の元小結若浪は、幕内優勝した昭和43年3月場所前に現在の土俵のある辺りで稽古をしたことがあるらしい。八幡さまの霊験あらたかなのであろう。
平成27年6月14日
八幡神は武運の神様で、清和源氏の氏神であり、源頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請した。 頼朝は相撲を好み、鶴岡八幡宮で度々上覧相撲を開催したようで、祭礼のときも流鏑馬・競馬とセットになって行なわれていたという。全国に4万社という八幡宮の総本社は、横綱双葉山の生誕地大分県宇佐市の宇佐神宮。宇佐神宮では昭和13年11月に双葉山が奉納土俵入りを行なったそうで、平成23年11月には双葉山生誕100年を前に横綱白鵬の奉納土俵入りが73年ぶりに行なわれた。大宝八幡宮合宿稽古2日目。すこし雨に見舞われるも今日も満員御礼の土俵。
平成27年6月15日
江戸勧進相撲の発祥は、深川八幡宮。貞享元年(1684年)、本所深川の繁栄を望まれた5代将軍綱吉が、それまで24年間禁令となっていた相撲興業を許したものと、三田村鳶魚『相撲の話』で紹介されている。深川八幡宮境内には、「横綱力士碑」や「超五十連勝力士碑」「巨人力士手形足形碑」など数多くの相撲碑が建てられている。また新横綱誕生の際には、奉納横綱土俵入りが行なわれている。合宿稽古最終日。稽古とちゃんこを終え、今年もお世話になった皆様や園児に見送られ大宝八幡宮から帰京。大宝八幡宮でも、朝青龍の横綱土俵入りが横綱昇進後まもなくの頃、奉納されたことがある。
平成27年6月16日
勝ち力士が懸賞金を受け取る際には、左、右、真ん中の順で手刀を切る。これは勝利の三神(五穀の守り三神とも)に感謝を表わす行為だとされている。なかなか覚えられないが、左が神産巣日神(かみむすひのかみ)、右が高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、真ん中が天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の三神。手刀は戦前に名寄岩が再興したが不統一だったものを昭和41年7月場所から規則として実施されることになった。
平成27年6月17日
毎場所、初日の前日に土俵祭が本土俵で行なわれる。土俵上に祭壇を設け、立行司が祭主となり、相撲の神様をお招きして五穀豊穣、国家平安、土俵の無事を祈願する。このときお招きする主祭神は、天手力男命((たじからおのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、野見宿禰(のみのすくね)の三柱だそう。戦前は、天神七代、地神五代の神々を招いていたが、終戦直後に立行司と彦山光三が相談して武神と力の神だけ三代にしたと、28代木村庄之助が語っていたという。(内館牧子『女はなぜ土俵にあがれないのか』より)
平成27年6月18日
土俵の上からも神様が相撲を見守っている。土俵の上には、伊勢神宮と同じ神明造の吊り屋根。吊り屋根の四隅から四色の房が垂らされている。房は四方を司る四神をあらわす。東の青房が青龍、南の赤房が朱雀、西の白房が白虎、北の黒房が玄武。もともと四隅の四本柱に絹の布(巻絹)が巻かれていたが、昭和27年9月場所から柱が撤廃され現在の房になった。四本柱の内側につけられていた御幣は、房の内側につけられている。
平成27年6月19日
大相撲情緒を彩るのに欠かせない櫓太鼓。窪寺絋一『日本相撲大鑑』によると、江戸時代、高い櫓は火の見櫓と将軍家鷹狩りの鳥見櫓以外は禁止されていたが、江戸中期に勧進相撲の櫓も許され、天保年間(1830~44)に高さ5丈7尺(約17m)に定められたという。櫓は神を招くための神座(かみくら)で、櫓の上に高く掲げておく2本の竹竿の先端にある麻の御幣は神に対する標示物とのこと。太鼓はもともと神との通信手段でもあるから、櫓太鼓は相撲の始まりを神様にもお知らせしているのであろう。
平成27年6月20日
稽古場も神に見守られている。稽古場には必ず神棚が祀られていて、榊は月に2回、1日と15日に新しくし、榊の水は毎朝換える。毎朝、稽古の始めと終わりに柏手をうち拝礼する。稽古後の土俵は、砂を真ん中に集め山をつくる。砂山を板で固め、表面をうすく削り、削り落とした砂に板を当て片方だけ動かし段差をつくる。山から出る朝日を表わしているという。正面向きに五角形に朝日をつくり、正面側に御幣を立てる。正面に向かう土俵の端に盛塩を3か所。盛塩から中央の御幣を立てた山に向かって塩をまく。土俵が清められ、明日の稽古まで神さまに土俵を守ってもらう。
平成27年6月21日
先発隊7人(大子錦、朝天舞、朝乃丈、朝弁慶、朝興貴、朝金井、松田マネージャー)名古屋場所宿舎の蟹江龍照院入り。名古屋場所の風物詩ともいえる鈴木さんに迎えに来てもらい、今日から一か月半に及ぶ蟹江での生活のはじまり。晩飯は毎年恒例になっている鈴木さん家族と共に合計12人での焼き肉食べ放題。60歳以上500円引きのお店で1000円引きにしてもらった。得したような腹立つような・・・
平成27年6月22日
日が差すも、まだそんなに暑くなく、冷蔵庫やちゃんこ道具を引っ張りだしての洗い物も順調にすすむ。ちゃんこ場には冷蔵庫が4台置いてあるが、差し入れが重なると足りなくなってくる状況。そこへ、蟹江で働いている方から冷蔵庫を買い替えて3ドアの大型冷蔵庫があるのでどうかとの電話。「ぜひお願いします」と答えたら、現物は小牧の自宅にあるとのこと。少し躊躇するも、すぐ頭に浮かんでくるのは鈴木さんの顔。さっそく鈴木さんに軽トラを用意してもらい往復2時間かけて運び込む。冷蔵庫の差入れもありがたいし、それを運ぶ軽トラをすぐ用意してもらえるのも、長年(28年目)蟹江にお世話になっているからこそのこと。
平成27年6月23日
中日新聞で、『押さば忍(お)せ』~戦後70年 大相撲の底力~ という連載がスタートした。1回目の今日は、「廃墟の国技館で一歩」という見出し。終戦からわずか3カ月後の昭和20年11月16日から開催された戦後初の本場所。27代木村庄之助の熊谷宗吉氏に話を伺っている。昭和10年9歳で立浪部屋に入門した熊谷氏は、終戦の年は三段目格。6月に召集され弘前連隊で終戦を迎え、山形の一門の巡業に合流。食うために米どころを巡業してまわり、大人1升子供5合の入場料で食いつないでいった。終戦直後にもかかわらず、どこの巡業も大入りだった。国民は娯楽にも飢えていると確信したという。ならば本場所を・・・。空襲で穴だらけになり廃墟と化した国技館で再開された本場所。敗戦から立ち上がろうとする国民の心にも光を与えたと、締めている。
平成27年6月24日
昨日の紙面には番付の写真が2枚掲載されていた。1枚は平成27年5月先場所の番付で、その横に昭和20年11月場所の番付が並べてある。一見して色が違う。番付は白い和紙を使うが、終戦から3カ月、上質の和紙など用意できるはずもない。小型のザラ紙に印刷した番付は黄ばんでいる。多くの力士が応召され、序ノ口力士はなく、序二段、三段目もスカスカな状態。番付に名前が載っている力士は216名だったという。それでも番付を手にした関係者、相撲ファンの喜びは筆舌に尽くしがたいものがあったであろう。
平成27年6月28日
東京残り番の力士も全員名古屋乗り込み。新弟子4人(朝山端、朝森本、朝達家、朝大門)は初めての名古屋場所で、初めての蟹江龍照院での生活が今日から始まる。荷物を置いてお寺さんに挨拶して、明日の番付発表の準備。晩飯は作り置きのカレー。番付発表の日は朝から作業に追われ、ちゃんこを作る時間がないので前日から大鍋でカレーをつくっておく。明日もカレー。明後日から稽古再開。ちゃんこも明後日からだが、コクが深まったカレーもまだ残っているかも。
平成27年6月29日
7月場所番付発表。期待の朝弁慶、先場所の4勝3敗で2枚上がって東幕下5枚目。上位に来れば来るほど上がり方が少なくなってくるから、ここからがいよいよ勝負どころ。4勝や5勝の勝越しだと2,3枚しか上がらないが、負越すとガタンと落とされてしまうから油断ならない。一気に全勝もしくは6勝して勢いをつけて上がるのが理想だが・・・朝赤龍は一枚落ちて東十両4枚目。先場所6勝1敗の朝山端は、80枚ほど番付を上げて序二段47枚目。
平成27年7月2日
東京高砂部屋後援会の楠川絢一先生が亡くなられた。楠川先生は、物理学者で元東京都立大学総長。子どもの頃に玉錦に頭をなでられたのがキッカケで大の相撲ファンになったそうで、現役時代からずいぶん応援して頂いた。お元気な頃は、部屋の千秋楽パーティーに欠かさず参加していただき、常に温かいまなざしで相撲をみていてくれた。享年92歳。心よりご冥福をお祈りいたします。新聞には元琉王さんの訃報も。沖縄出身初の幕内力士として活躍して、引退後は上野でちゃんこ琉王を経営。沖縄奄美つながりで、何度かお店に伺い、ずいぶんお世話になった。楠川先生とお店にお邪魔したことも何度かあった。享年70歳。心よりお悔やみ申し上げます。
平成27年7月4日
刈谷市での高砂部屋激励会。師匠が学生時代からお世話になっている㈱弘伸運輸近藤会長の肝煎りで毎年お開催され20数年目。まことに有難い。パーティーの前に刈谷署に出向き、師匠が一日警察署長に任命され、刈谷駅前で「振り込め詐欺撲滅」キャンペーン。キャンペーンに合わせて呼出し利樹之丞作詩の相撲甚句『振り込め詐欺撲滅』が利樹之丞の美声で披露され、拍手喝采。明日は稽古終了後午前11時より、蟹江龍照院境内にてチャリティーのちゃんこ会と餅つき会。蟹江近辺お住まいの方お越しください。初日まであと一週間。
平成27年7月5日
今日も毎年の恒例行事。宿舎蟹江龍照院境内でのちゃんこと餅つき会。天気予報では雨模様だったものの降られずに、400人前のボランティア募金のちゃんこ完売。たくさんの蟹江町民に参加してもらい、お相撲さんと記念撮影での交流会。昭和63年から蟹江龍照院を宿舎にして、2~3年後から続いている交流会だから、およそ四半世紀にもなる。
平成27年7月6日
新弟子にとって名古屋場所は初めての場所。梅雨時に暑さという気候的な条件はもちろんだが、宿舎の環境もなかなか厳しい。宿舎はお寺の敷地内とはいえ、築20数年になるプレハブ建築。トイレは洋式だが汲み取り式。宿舎のすぐ裏にお墓があり、周りは田んぼと川に囲まれ、蚊やハエや亀、蛇トカゲまでそこらじゅうで賑わっている。入門したての名古屋場所では、だいたいの新弟子が擦り傷や虫さされなどから化膿して、とびひやヘルペスを患ってしまう。名古屋を乗り切ると、順応性が高まり免疫力もアップする。
平成27年7月7日
“ケンちゃん”こと朝金井は2度目の名古屋場所.。もっとも出身地が一宮市だから地元に帰っているようなものだが。それでも、蟹江はもとより名古屋市内にもそんなに出たことはなかったそうで、入門1年目の昨年は地下鉄で迷子になりかけたこともあった。しかし、今年は「もうだいじょうぶです!」と兄弟子らしさをみせている。体は逞しさを増してきたが内臓はまだ子供で、お腹をよくこわしていたものの最近ようやくお腹も落ち着いてきたよう。稽古でも力が出るようになってきたので、ここ2場所続けての負越しで迎えるご当所名古屋場所、6勝が目標。
平成27年7月8日
“シマジロウ”こと朝ノ島は、11回目の名古屋場所。5月場所前に網膜剥離の手術をして5月場所を全休したので、久しぶりの序ノ口での取組。名古屋に入ってから稽古を再開して、同じ序ノ口の朝達家や朝大門とは力の違いをみせている。今年の初場所では三段目だっただけに、優勝を狙う意気込みで本場所に臨んでもらいたい。名古屋に住む叔母さん家族も熱い声援をおくっている。
平成27年7月9日
ウェスティンナゴヤキャッスルにて高砂部屋激励会。横江淳一蟹江町長の来賓挨拶につづき河村たかし名古屋市長からもご祝辞をいただく。ご祝儀贈呈では、師匠と40年来のつきあいのある海苔のおがわの尾河社長から、今年還暦を迎える師匠に元気よくエールが送られ拍手喝采。ゲストの歌や師匠とおかみさんによるデュエットなどで和やかに宴はすすみ、利樹之丞による甚句風雲 高砂部屋にて中締め。若松部屋時代から数えると25回目となるナゴヤキャッスルでの激励会も盛会、3日後に初日を迎える。
平成27年7月10日
力士には、それぞれ験(ゲン)のいい場所わるい場所がある。今年で9回目の名古屋場所を迎える朝弁慶、昨年までの8年のうち負越したのは一度だけと験がいい。場所前少し足を痛めたが(毎度のことだが)、ここ数日初日に向け調子も上がってきたよう。験のいい名古屋場所を持ち前の重戦車相撲全開でぶち抜きたい。明後日、日曜日の初日、幕下上位五番の3番目で元幕内東龍との対戦。取組編成会議が行なわれ、初日と2日目の取組が決定。朝赤龍には松鳳山、照ノ富士に碧山、鶴竜に逸ノ城、白鵬には宝富士。
平成27年7月11日
午後2時15分すぎ、蟹江龍照院の稽古場に触れ太鼓の高らかな音が鳴り響き初日の割り(取組)が呼び上げられる。幕内の割りを呼び上げるが、その前に「アサセキリュウ~にはショウホウザンじゃんぞ~え」との呼び上げ。力士一同拍手で応える。朝赤龍は今年で16回目の名古屋場所。今まで9回勝越し6回負越しと9勝6敗の成績だから験がいい名古屋場所。朝稽古終了後、お寺のご本尊 十一面観音菩薩をご住職に御開帳いただき、今場所の無事と必勝を祈願。明日が初日。
平成27年7月12日
名古屋場所が開催される愛知県体育館は今年で開館50周年。昭和33年に名古屋が本場所となり、昭和39年まで金山体育館にて開催。昭和40年から新築なった愛知県体育館開催となり半世紀の歴史を重ねてきた。暑い名古屋は初日とともに夏本番。50周年を祝うような満員札止めの愛知県体育館での名古屋場所初日も熱い。注目の朝弁慶、元幕内力士相手に攻めの相撲で関取昇進へ向け白星発進。
平成27年7月15日
朝弁慶2連勝。今日も巨体を生かした重戦車相撲での白星。自信あふれる取り口が目立つようになってきたが、普段の生活での言動にも自信が垣間みえるようになってきた。次の取組は明日。先場所5勝目をかけた一番で敗れた旭大星。先場所の借りを返して勢いをつけたい。朝天舞、朝山端、大子錦も2連勝。昨日2連勝とした朝金井も含め、5人が土つかずと好調な滑り出し。今日も満員御礼の愛知県体育館。今場所も15日間満員御礼が確定的。祝開館50周年記念となるであろう。
平成27年7月16日
朝弁慶、先場所敗れた相手にリベンジを果たしての3連勝。先場所は、つかまえにいって前に出たところを土俵際で逆転の投げを食っての負けであった。今朝稽古場で師匠から、「今日は突っ張っていけ」とアドバイスを受け、突っ張り、相手に動かれ逃げられながらもよく見て突っ張りきってのリベンジ。難敵を破っての3連勝で、地元平塚後援会からも関取昇進の際の化粧回しの相談の連絡が入り、まわりの昇進ムードも盛り上がってきている。朝金井、朝山端も3連勝。
平成27年7月17日
十両に上がると、あらゆることが一変する。幕下までは黒の稽古マワシのまま本場所の土俵にも上がるが、十両は繻子(しゅす)の締込(しめこみ)を締める。稽古マワシは白色になる。化粧回しを締めて土俵入りをする。場所入りも羽織袴の着用が義務づけられる。髪は大銀杏に結い、支度部屋では自分の四股名の入った明け荷を置いて自分の場所ができる。もろもろの準備が必要なため、新十両は場所後の水曜日の番付編成会議のあとすぐに発表される。今朝の稽古場には、『相撲』誌からの朝弁慶への取材。長いインタビューの後、「また場所後の水曜日にお邪魔します」との嬉しい言。
平成27年7月19日
中日新聞で『It's a すもうワード』と題して相撲用語を解説しているが、きのう「しゃみち」が紹介されていた。立合いから相手を一直線で土俵の外に出したとき、土俵上のスリ足の跡が電車のレールのように2本線になっていることから「電車道」と言うが、電車道を略したのが、「しゃみち」。勝越しがかかる一番を「しゃみち」で勝った朝弁慶、いよいよ関取昇進の夢が目の前に下りてきた。“重戦車相撲”が売りの朝弁慶、「しゃみち」は「しゃみち」でも、「電車道」ならぬ「重戦車道」の「しゃみち」での4連勝。明日、元十両大翔丸との対戦。昨日の朝山端につづき朝金井も4連勝での勝越し。
平成27年7月20日
横綱大関に上がった力士でさえ、新十両のときが一番嬉しかったと口にする。それだけ待遇の違いが大きく、それだけに壁が厚く、一番一番の重みが大きくなり、達成したときの喜びは大きい。一番毎に周りの期待も大きくなり、勝越しで更に期待は膨らむ。そんなプレッシャーのなかマイペースで過ごしている朝弁慶だが、夜中に何度か目が覚めることもあるらしい(その分昼寝でいいイビキをかいているが)。今日は立合い焦らされての初黒星で小休止。泣いても笑っても残りあと2番。
平成27年7月21日
大子錦、今場所4人目の勝ち越し。平成7年11月場所入門だから平成8年から20回目の名古屋場所。ちゃんこ長として地方場所は何かと忙しいので元々勝ち越しが少ないが、平成22年以来5年ぶりの名古屋場所での勝ち越し。朝赤龍7勝目。十両優勝争いに加わり、幕内復帰の希望も膨らんできた。朝森本、朝達家も勝ち越しまであと一つの3勝目。
平成27年7月22日
「勝ち負けは時の運」「勝負は水物」「勝負は紙一重」・・・ 昔から言われている通り、まことに勝負事はむずかしい。優勝も有り得るような勢いのあるいい相撲で4連勝の勝越しを決めた朝弁慶、2連敗と失速。それでも勝ち越していることに変わりはないし、生活のリズム感もそれほど変わりはない。あと1勝すれば、また運も廻って来るであろう。時の運であるし紙一重なのだから。生みの苦しみがあるからこそ喜びも大きい。朝天舞、朝乃土佐、勝ち越し。
平成27年8月1日
宿舎龍照院のある須成地区での須成祭。400年を超える歴史があり、国の重要文化財に指定されている。龍照院境内に出店が出て部屋のまわりもお祭モード一色。残っているお相撲さんも、りんご飴やお好み焼を懐かしく食べてご機嫌。一か月半に及んだ蟹江での生活も今日で終わり。明日お昼の新幹線で帰京。
平成27年8月5日
猛暑の名古屋から東京に戻ってきたが、東京も変わらぬ猛暑。というか、蟹江龍照院の周りは河川と田畑に囲まれていたから、同じ猛暑でも風の通りはまだマシだったような気もする。稽古もしばらくは、四股やトレーニングなど体づくりに専念。トレーニングのみのため稽古見学は、しばらくご遠慮願っています。ご了承ください。朝赤龍と朝ノ島は巡業中(裏方も)。昨日まで岐阜で、今日は福井県鯖江市。鯖江から七尾、糸魚川と北陸へまわり、その後東北各地。20日の青森野辺地のあと22,23日と札幌。東京に戻り、29日に丸の内でKITTE場所。31日が番付発表。
平成27年8月8日
8月末恒例の湘南高砂部屋後援会主催の高砂部屋平塚合宿は8月27日(木)~30日(日)まで。27日は歓迎会で、平塚市総合運動公園内土俵での稽古は、28日(金)~30日(日)までの3日間。朝弁慶関取昇進間近で、平塚市民からの問い合わせも多い。今年は土俵を取り囲むお客さんの数も例年以上に増えるのでは・・・。その朝弁慶、先場所の3連敗が悔しかったのであろう、苦手な四股に積極的に取り組んでいる。
平成27年8月11日
今日の巡業は福島県南相馬市。朝赤龍の付人として出ている朝ノ島に電話すると、ちょうどバスで次の巡業地へ移動中だった。次の巡業地郡山市まで約2時間半ほどの道のりだそう。大型バス9台に分乗しての移動。以前は8台編成だったと思うが、今巡業から1台増えて補助席もそんなに使わなくていい状況だという。今巡業はほとんどバス移動だそうだが、一番長いのは4時間半かかったとのこと。明日は一日休養日で、13日から郡山、栃木県足利市、山形県天童市、仙台市、岩手県一関市、秋田県三種町、青森県八戸市、青森県野辺地町と休みなしで続く。
平成27年8月12日
座席間が狭いバスでの長時間移動は、一般の方にとってもつらいものがあると思うが、体の大きな力士にとっては、なおのことつらい。関取衆は片側2座席に一人で座るが、幕下以下は2人掛け。新弟子はもっぱら補助イスに座ることになる。補助イスで3~4時間はけっこうきつい。また、体の小さな力士は、アンコの隣に座らされるからこれもきついものがある。腰痛持ちの力士にとっては負担が大きい。20年程前、180kg超クラスの巨漢力士が横になれるようサロンバスがあり、たぶん8号車だったとおもうが、仲間内では“デブバス”と呼んでいた。
平成27年8月13日
2~30年前の巡業は、相撲列車での移動が多かった。現在も地方場所への移動のときの新幹線(3両ほどに力士が乗り込む)を相撲列車と呼ぶが、正真正銘の相撲列車で、全車両貸切の臨時列車だった。一般客はいないから、乗り込むとすぐ浴衣を脱いでステテコシャツ姿になる。座席も向かい合った4人掛けの席を一人か二人で専有できるから足を伸ばしてくつろげた。ただ臨時列車なので、ダイヤのすき間をぬうような運行で、少し走っては止まりまた走っては止まりと目的地までかなり時間がかかった。逆にのんびりできたともいえるが。
平成27年8月15日
当時は何事も“勝負”だった。早いもん勝ちである。相撲列車がホームにつくやいなや、我先に座席確保に走る。中には窓から荷物と共に滑り込む力士もいた。旅館やホテルに着いてからも勝負。大部屋に走って、まず自分の布団を確保しなければならない。人数分用意してあると思うのだが、デレッと(のんびり)してると布団がなくなってしまう。翌朝のチャンコ場や洗い場も勝負。使いやすい場所を確保しないと兄弟子に怒られてしまう。それでも、それなりにみんな何とか納まっていた。新弟子は、一巡業終えて戻ってくると逞しくなっていたように思う。
平成27年8月16日
日本の名随筆『相撲』(作品社刊・吉村昭編)に綾川五郎次「巡業物語(一)」が収められており、明治大正期の巡業風景が垣間見える。綾川五郎次は、青森県黒石市出身で明治38年1月に高砂部屋から初土俵。その1月場所が終わると部屋の掲示板には次興業は横浜とはり出された、とある。兄弟子と共に電車で新橋まで行き、新橋から横浜乗り込み。本場所5日目に親方から貰った小使い15銭と横浜へ立つ時に同じく15銭が力士になってはじめての給金だが、忽ち羽がはえて飛んでしまった、と嘆いている。のちに関脇まで昇進。収録された『一味清風』(学生相撲道場設立事務所刊)は、現役真っ盛り大正3年新入幕の年に著した書だという。
平成27年8月17日
横浜での晴天7日間興業が雨にたたられ逗留が19日間に及び、次は横須賀での巡業。宿は横須賀きっての大旅館。本来なら褌かつぎ(自称)風情が泊まれる所ではないが、経営する大親分が初代高砂と義兄弟らしく、高砂部屋の若い衆というだけで特別待遇。ただ、着たきりスズメの一枚きりの仕着せを芸者や女中にくすくす笑われるのには閉口したとある。入門間もない頃だが、大親分に将来性を見込まれたのか、次の巡業地へ立つときには大まい30円をもらい、その後も実の子のように随分可愛がってもらったという。横須賀の後12、3箇所を興業して、5月本場所に臨むべく帰京した。
平成27年8月18日
初めて番付に名前が載った5月場所を全勝で飾った綾川。場所後常陸山一行が、大阪相撲の若島一行と合併興業をするべく関西行きが決まったのだが、髷がまだ結えてないので残されることになったと口惜しがっている。出羽ノ海部屋横綱常陸山は、入門以来高砂部屋預かりの形で、稽古も巡業もほとんど高砂部屋でおこなっていた(当時稽古場があったのは高砂、雷、友綱、尾車、伊勢ノ海の5部屋のみ)。常陸山一行の興業は、高砂一門としての巡業のようなものだったのであろう。 残された力士達は、浅草や深川での夜相撲興業で食いつないでいたという。
平成27年8月19日
「夜相撲」とは初めて耳にするが、どういうものだったのだろう。綾川は、北海と利根川(十両力士?)とを両大関にした団体に加わって市中の各所で夜相撲ばかりとっていたと記している。浴衣は着たっきりだから白地か茶色地かわからぬようになってしまったが如何ともすることはできないと、相変わらずのよう。毎日午後の5時頃からのり込む。電車もしくは懐具合では親譲りの毛ずねで乗り込むこともあると、あまり金にはならないらしい。私の肉には著しい萎縮が見えたとつづくから、見世物的な興業であったのであろう。大阪へ行った一行が早く帰ってきて、根限りの稽古をしたいと願っている。
平成27年8月20日
9月中頃に関東地方の巡業があり、茨城県下妻町で興業したとある。常陸山一行としての巡業であったろうから、大宝八幡宮に伝わる明治時代横綱常陸山が3日間の巡業を行なったという巡業ではなかろうか。綾川入門の年だから、明治38年9月中頃。年月がわかれば大宝八幡宮にも何か記録が残っているのかと調べられるかもしれない。栃木屋という宿で、隣家の子供たちと仲良くなり、その晩招じられてご馳走になった。子どもたちのお父さんは楽山という画伯で、爾来春風秋雨天九星霜の間先生は常に私の為めによく面倒を見て下さった、と記している。
平成27年8月23日
綾川は、175cm101kgと当時としても小兵の部類に入る体格ながらも入門5年後の明治43年に新十両、大正3年に新入幕を果たし、負越しなしで関脇まで昇進した。十両時代から学生相撲の指導普及に力を入れ、明治大学相撲部の師範を務め、取組のときの学生応援団が名物だったという。ハンサムで雄弁、文筆にも優れ、3代目高砂の有力候補であったが継承争いに敗れ、千賀ノ浦部屋を創設して出羽海部屋傘下へ移籍。引退後も自彊術やリンゴサイダー、プロレス興行と様々なことに挑戦したが49歳の若さで逝去。
平成27年8月27日
今日から8月末恒例の湘南高砂部屋後援会主催の平塚合宿。明日から合流の教習所生徒4人を除く全力士と来年入門予定の名古屋の高校3年生、何年後か入門予定の越谷の中学1年生と、親方、裏方連総勢16名が平塚市総合運動公園内研修所に宿泊して3泊4日の合宿。今晩運動公園内のレストランで平塚市長はじめ後援会の皆様方にお出まし頂き歓迎会。やはり、朝弁慶の話題が中心で期待が大きい。明日から日曜日まで3日間の朝稽古。
平成27年8月31日
9月場所番付発表。朝赤龍、平成24年11月場所以来約2年半ぶりの幕内復帰。注目の朝弁慶は、思っていたより上がって西幕下筆頭。番付表でもすぐ隣は太字の十両で、何度か十両の関取との対戦も出てくるはずである。十両との対戦のときには、幕下も大銀杏を結うことになるから、それも楽しみ。序二段では、朝金井が5枚目、朝山端が14枚目と自己最高位を更新。ともに4勝すれば三段目昇進が可能な位置。
平成27年9月1日
平成元年に出版された『青森県郷土力士物語』(今靖行著・北の街社)に、「夜相撲」の大関北海の話がでていた。青森県平賀町の出身で明治16年高砂部屋に入門、165cm88kgの小兵ながら右四つからの腰投げを武器に29年には前頭筆頭まですすんだ。その後、36年5月40歳で十両に陥落、39年5月幕下に陥落とあるから、綾川が入門した明治38年は何とか十両にとどまっていたよう。43年1月47歳で廃業とある。廃業後、正直さを買われて協会の桟敷係に雇われるも、明治45年偽造入場券を作り売ったためクビになってしまった。昭和9年71歳まで長命した。稽古始め。8時半より土俵祭。
平成27年9月2日
幕内上位で活躍した北海が幕下に落ちても相撲をとりつづけたことは、当時も関心をもたれていたようで、明治39年5月東京朝日新聞では、「・・・北海大太郎は、幕下格に落ちていく身分、早く年寄株をと思えども財無き身のいかんともすべからずとは、全く同人が剛直一方の人物とて、客に取り入ることの下手なるためなり」と同情し、かつての功績を讃え、立合いのきれいなことを讃え、「早く救済の途をつけてやるべし」と、結んでいる。明治末期の相撲界も、力士の給金だけでは年寄株を買えなく、タニマチに頼らざるをえなかった状況が浮かんでくる。
平成27年9月3日
明治42年1月の東京朝日新聞には、「・・・一番9円の相撲常陸山、梅ケ谷さえ総金を日割にすると1日金7円内外なるに、一番9円の相撲はだれかと聞けば、昔は高砂部屋四天王の一人たりし北海老骨にて、十日間に3番しか取らぬくらいなるに、給金は27円の高給なれば、一日9円に当たる。それゆえ私は死ぬまで取るといい居るよし」と紹介されている。当時は月給はなく、現在の褒賞金とよばれる持ち給金だけの支給で、幕下に落ちても給金の支給があったよう。一場所10日興行で幕下以下は5日間の出場だが、現在のように休みは負けにならなく、出世をあきらめた力士は2勝1敗や3連勝すると休んでしまったという。持ち給金27円の北海が3番しか取らないから、一番あたり9円。10日間取って90円の常陸山と同じだといっている。
平成27年9月4日
明治40年頃の公務員初任給が14円ほどだったようで、北海の給金は現在でいうと40万円くらいになるのか。すでに妻子がいたようだから年2場所80万円ではやっていけない。別の新聞には、「細君に五色揚げにしめの一文店を出させ、・・・」とある。巡業に出ないときは、「夜相撲」で糊口をしのいでいたのであろう。国技館開館直前とあるから明治42年の5月か6月頃、「やまと新聞」に『北海の懐旧』という記事が掲載されたという。記者は、「純然たる津軽弁なので、わからないことおびただしい」と記しつつ北海談話を掲載している。22歳で入門して、32~3歳の頃が一番強かったこと。給料は半分しかもらわない(半分は師匠に払うのだろう)が仕方なしにやっている・・・短いインタビュー中で「相撲っちゅう稼業は情けねぇもんだ」と3度もくり返している。「16になった息子は大丸呉服店に小僧にやっておきやす」とつづき、「いやまったくどう考えてもつまらねえもんです」と、最後まで無気力に語っている。
平成27年9月6日
当時の高砂部屋近く本所緑町に妻子と構える借家で、まっ黒なクマの子のような犬を抱きながらのインタビューだったというから、他の幕下三段目力士よりは恵まれた生活といえるだろう。それでも、一時は三役目前まで行った身としては現在の境遇に対する鬱屈があったろう。北海にとって、相撲がプロスポーツというよりも、生きる糧としての稼業そのものだったことが伝わってくる。
平成27年9月8日
今年3月場所入門の新弟子3人(朝山端、朝森本、朝達家)は入門半年経ち相撲教習所も無事卒業して部屋での稽古も本格的になってきた。半年経つと、相撲っぷりにもそれぞれ個性が出てくる。押したほうが力が出るタイプ、マワシを取ったほうがいいタイプ、動きの中に勝機を見出すタイプ・・・。相撲の中での動きのクセも出てくる。腰が引けてしまう、脇が開いてしまう、目をつぶってしまう、足がそろってしまう、腰が浮いてしまう、頭を下げすぎてしまう、アゴがあがってしまう・・・。同じような クセが四股のときにもあらわれる。
平成27年9月9日
四股は、腰を割った構えから脚を上げ下げするだけの単純な運動だが、単純なだけに個性が出る。股関節研究の第一人者白木仁筑波大学教授も、はじめ四股を研究しようとしたが、あまりに個人差が激しいので腰割りの研究からはじめることにした、と語っていた。四股を踏む時にも、腰が引けてしまう、前傾してしまう、肩に力が入ってしまう、腰が浮いてしまう、足幅がせまくなってしまう、脇が開いてしまう、重心が後ろに逃げてしまう・・・。それぞれに、個性というか、相撲と同じクセがでてしまう。
平成27年9月10日
四股の目的や効用はいろいろあるが、体のクセをとることこそが四股なのだと思う。肩や腰、首などの力み、腰の浮き、アゴ、さまざまなクセをとり、骨と筋肉が重力に逆らわずスッとした姿勢をとれるようになるために踏むのだと思う。クセが少なくなればなるほど全身が働き大きな力や鋭い技になる。怪我をしなくなる。相撲に個性が生まれる。
平成27年9月11日
体のクセをとるためには表面の筋肉をゆるめなければならない。肩や腕、腹筋、背筋、太ももや足首、などなど。表面の筋肉をゆるめて四股を踏むと、軸や丹田がしっかりしてくる、体の重みがでてくる。取組編成会議。明後日の初日、朝弁慶は東龍との対戦、幕内朝赤龍は英乃海。照ノ富士に碧山、鶴竜に栃ノ心、結びが白鵬に隠岐の海。“秋場所や稽古の甲斐をかくも見せ”(久保田万太郎)。
平成27年9月14日
相撲規則『力士規定』第3条に「十枚目以上の力士は、出場に際して大銀杏に結髪しなければならない」とある。幕下力士も十枚目(十両)と対戦する時には大銀杏を結う。昨日の初日白星発進の西幕下筆頭朝弁慶、今日2日目は十両の土俵で錦木との対戦。生まれて初めて大銀杏を結った記念すべき日となったが、土俵際で逆転され大銀杏での初白星ならず。今場所は、あと2~3番大銀杏を結う機会も出てくるであろう。
平成27年9月15日
懸賞がかかるのは幕内取組のみ。同じ関取でも十枚目の取組には懸賞はかからない。今場所17場所ぶりの幕内復帰となった朝赤龍、今日の取組にも“あられ・お煎餅のもち吉”と”がんばりバス!!東京バス”の2本の懸賞。『もち吉』は、もち吉煎餅が有名な福岡県直方市の会社。『東京バス』は、師匠が現役時代からお世話になっている大阪バスグループの会社で、朝赤龍の取組に15日間懸賞をかけてくれている。
平成27年9月16日
懸賞金の提供元は1本6万円だったが、消費税率増加に伴い昨年5月場所から6万2千円になった。最低15本からの受付となる。詳細は日本相撲協会HP懸賞についてにあるように、協会が手数料として5300円とり、勝ち力士に残り56700円が渡される。その内の26700円は税金対策用に本人名義で協会が預かり、土俵上で渡される袋の中身は3万円。今日の朝赤龍の取組、東京バス、もち吉の他にブルーベリーアイからも3本付いて合計5本。合わせて15万円の懸賞金獲得。
平成27年9月17日
ちゃんこ長大子錦の得意技は“死んだふり”。もちろんそんな技が決まり手にあるはずもないが、知る人ぞ知る必殺技(?)である。今日の相手は入門一年半の浅香山部屋ソップ型力士。立ち上がって動かれ二本差され寄られる。ここで、もうあきらめたかのような素振りをみせる。すると、双差しになり必死に寄っていた相手は思わず、「勝った」と喜んでしまう。俵に足がかかったところで、抱え込んだ相手を大きな腹に乗せ右に振ると、相手は思わず足を出してしまった。そのあと自分もこけてしまったが・・・。決まり手は“うっちゃり”なれど、まさに“死んだふり”での2勝目。
平成27年9月18日
三段目は100枚あり東西200人の力士が名を連ね、同じ三段目でも幕下に近い上位と序二段に近い下位では力の差がある。最高位が三段目11枚目の朝乃丈、今場所は74枚目と番付を下位に落としての場所。最近の成績を見ても三段目30~40枚目位の地力はついているようで、この位置では3連勝と勝越しまであと一番。今場所は、相撲が長引いても、引かず、あきらめず、粘り強く相撲を取っている。いいかげんだけど真面目さもある朝乃丈、真面目さが相撲に出れば幕下も近い。
平成27年9月20日
元財務大臣塩川正十郎氏が亡くなられた。”塩爺”の愛称で親しまれた塩川先生には師匠は現役時代からお世話になり、若松部屋を継承した時には大阪後援会会長として部屋を支えていただいた。部屋の看板も塩川先生の書によるもので、稽古場を見守る神棚の横にも塩川先生書の「心技体」が掲額されている。お元気な頃は部屋のパーティーにも必ず顔を出して頂き軽妙で心温まるごスピーチをされたことも懐かしい思い出。心よりご冥福をお祈りいたします。朝乃丈、4連勝勝ちっぱなしでの今場所勝ち越し第一号。
平成27年9月21日
朝弁慶、勝ち越し!!引かれたり腰が入りそうになったりしたが、最近無心で取れているという通り体の反応が良く、残して相手を押し出した。取組後、大勢の記者に囲まれたそうで、こちらの方が頭がまっ白になったという。取組が終わると同時に大阪の知人からお祝いの電話。朝弁慶を入門当時から知る人にとっては感無量な一番となった。まだ十両昇進が決定したわけではないが、大きく近づいたのは間違いない。残りの2番も無心で、この勢いのまま大きく飛躍したい。朝山端も勝ち越し。こちらも入門半年での新三段目が期待される。
平成27年9月22日
どこの世界でもいえることだろうが、無心になるのは本当にむずかしい。「なにも考えずに」と口で言うのは易しいが、「勝ちたい」と思うし、相撲を取りながらも「引いたら落ちそう」とか「出てくれ」とか「勝った」とか、邪心、雑念が起きてくる。そういうときは、心と体が離れてしまい、すぐ転ぶ。相手に力が伝わらない。無心で相撲が取れると、心と体が一致し、体が勝手に反応し、判断し、最適に動いてくれる。朝乃丈、5戦勝ちっぱなし。朝興貴勝ち越しで幕下復帰確定的。
平成27年9月23日
朝弁慶5勝目!!今日も迷いなく重戦車相撲で一気に出ての5勝目。新十両昇進が確定的となった。お相撲さんらしく、気は優しくて力持ちを地でいく朝弁慶、全国にファンは多く、早速マワシや幟、羽織袴などなど贈りたいとの申し出も相次ぎ、喜びが広がっていく。正式には、場所後の水曜日9月30日の番付編成会議で決定となり発表される。記者会見の準備も久しぶりのこと。序二段朝森本が5人目の勝ち越し決定。
平成27年10月1日
昨日9月30日水曜日、番付編成会議が行なわれ朝弁慶の新十両昇進が決定。今朝5時半のNHKニュースでも紹介されていたが、神奈川県としては平成5年3月場所の朝乃翔以来22年ぶりの新十両。高砂部屋としては、平成18年5月場所の皇牙以来9年ぶり。昨日午前10時より行なわれた師匠と朝弁慶が並んでの喜び溢れる記者会見の模様も結構な時間放映された。新十両が一人しかいなかったこともあり、大勢の報道陣が詰めかけ、これも久しく見なかった懐かしい光景。若い力士達も晴れの会見を報道陣の後方から見守り、胸に期するもののあったろう。
平成27年10月3日
朝弁慶が入門したのは平成19年3月場所。横綱朝青龍が一人横綱として優勝20回を数え、まだまだ勢いのあった頃。ただこの場所千秋楽で皇牙が引退を表明。関取は横綱朝青龍と朝赤龍の二人だけになってしまった。高砂部屋所属の33代目木村庄之助最後の場所でもあった。新弟子の朝酒井は188cm155kgで新弟子検査合格。前相撲は2勝2敗で2番出世。一人だけの入門で、すぐ上の兄弟子も2年上と、かなり心細い新弟子生活だったはず。
平成27年10月7日
入門間もない頃の朝弁慶は、おとなしすぎて危ぶまれていたもよう。そんな第一印象を覆して部屋での生活に慣れていくが、初めて番付に名前が載った5月場所では初日に白星を飾るも勝ち負けをくり返しつつ3勝3敗となり、最後の一番で負越してしまう。部屋に戻ってきて、涙した。8年前、まだ朝酒井の四股名で18歳の春のこと。今日から高知合宿へ出発。稽古は明日から12日まで高知市営運動場相撲場にて。
平成27年10月8日
高知合宿初日。平日にもかかわらず見学者が多く、テレビや新聞等マスコミ各社も取材多数。 稽古終了後10時半から高知市役所による歓迎セレモニー。高知市からカツオと地元のお酒が贈呈され親方から謝辞。夕方5時からは小中学生対象の相撲健康体操教室。朝興貴、朝金井、朝達家が先生になり、小学校低学年の子供たちに指導。男の子は裸足で土俵に入り、女の子やお母さんたちは上がり座敷の床の上で四股踏んだり、「ヤァー」と元気よく仕切りの型。
平成27年10月9日
昨日にひきつづき夕方5時から相撲健康体操教室。きのう参加した子供は、さっそく動きを覚えたようで、先取りして四つ身の型で「ヤァー」。去年参加した2歳前の子が1年たって今年も参加。去年は、体操中も土俵の中を走り回ってまとわりついていたが、今年は一緒に体操できるようになった。上がり座敷では、女子中学生2人も参加。制服姿で腰割りや四股を頑張る。ハンドボール部の中学3年生らしく、朝達家と同じ平成12年生まれ。学年は一つ違いだが、同年生まれで記念撮影。相撲健康体操も高知で徐々に広まりつつある。
平成27年10月11日
昨日10日は、午後から香美市土佐山田町の八王子宮で地元の小中高生約70人と稽古会。立派な山門をくぐると広場になっていて広場中央に四本柱の屋根つき土俵が建っている。昭和30年頃巡業も行なわれたそうで、秋祭りには奉納相撲も行なわれているという。参加の子供たちにはマワシを締めるのが初めての子供もいて相撲健康体操で基本の形を学んだあとに、朝興貴、朝乃丈、朝金井に向かってぶつかり稽古。稽古終了後、ソップ炊きちゃんこが振る舞われ、八王子宮にもこんなに人が集まったのは久しぶりというほどの賑わいだった。
平成27年10月12日
高知合宿最終日。今日も地元の中学生が稽古に参加。中学生とはいっても相撲歴は長く体格もいいので、相撲歴半年の朝達家などでは、ふっとばされてしまう。この悔しさを糧に1年後には勝てるようプロとして頑張っていかなければならない。お世話になった合宿所を大掃除して、荷物を福岡や東京に送り、明日朝の飛行機で帰京。17日土曜日に九州場所先発隊が出発し、早一年納めの九州場所を迎える。10月26日(月)が九州場所番付発表。
平成27年10月17日
先発隊7人(大子錦、朝乃丈、朝興貴、朝金井、朝山端、朝達家、松田マネージャー)福岡唐人町成道寺入り。お寺さんの本堂にゴザを敷きカーテンを張って、とりあえずは寝られるようにセッティング。おなじみゴーヤマンも登場して一緒にゴザ張り。福岡初上陸の朝山端、「空気が清々しいっすね~」と、気に入った様子。作業を終え、晩飯は一年ぶりの藁巣坊。絶品餃子に普段は食が細い朝達家もがっついている。明日トラック2台で大牟田から家財道具一式の引っ越し作業。先発隊にとっては、今日から1か月半に及ぶ九州場所の始まり。
平成27年10月29日
大変遅くなりました。朝弁慶の四股名が東十両9枚目に黒々と輝く。朝赤龍、前頭16枚目に残る。朝山端、三段目52枚目と大きく弾みをつけての新三段目昇進。
平成27年11月1日
先発隊で福岡入りしたときは、晴れ間がつづきTシャツでも汗ばむほどの陽気であったのに、あれから2週間、すっかり寒空となり今日から11月。おまけに雨。初日までちょうど1週間だが、新弟子に胃腸炎が多発し、いささか寂しい稽古場風景。朝弁慶、着物に締込み、明け荷と化粧まわしと届き、本場所へ向けての準備はおおよそ整った。初日に向け体調を整え、白星を重ねることが諸々贈ってくれた方々への恩返しになる。
平成27年11月2日
関取になって1週間の朝弁慶。はじめの2,3日は個室(真ん中をカーテンで仕切った朝赤龍との2人部屋だが)が落ち着かないらしく、ちょくちょく大部屋(本堂)に顔をみせていたが、個室暮らしにも慣れてきたようで、大部屋にもあまり来なくなった。化粧回し等の他にも身の回りのもので揃えるのが多く、付人(朝興貴、朝金井)を食事に連れて行ったりと、出費も多くなる。それなのに給料が出るのはまだまだ先のことのようで、経済的状況はまだ幕下時分とさほど変わらない模様。
平成27年11月3日
朝弁慶、出来あがってきた締込を締めて稽古場に下りる。締込は、厚地の絹の繻子織で幅は80cm近く。それを6つ折り(3つ折りにして2つ折り)にして締める。厚地なので、折ったばかりはまだ折り目が定まらず、締めて体に馴染むのに時間がかかる。初日に向け少しでも体に慣らしていかなければならない。新調の締込で四股やスリ足をすると、キュッキュキュッキュと絹擦れ(衣擦れ?)の音がする。湘南の海をイメージした濃紺の締込。
平成27年11月4日
九州場所で初の三段目昇進なる朝山端、持ち前のパワーを武器に突っ張りの稽古に励む毎日。うまくはまれば兄弟子をもふっ飛ばすパワーを発揮するが、負けるときも豪快さが出る。今日の稽古、押し出された勢い余って稽古場の窓に激突。“バーン!!”“ザーッ”という音と共に窓ガラスが砕け、背中からタラタラと出血。幸い傷は浅く、すぐ病院で細かい破片を摘出してもらい大事に至らずに済んだが、プロレスラー大仁田厚を彷彿させるような、相撲の稽古場では珍しい光景だった。
平成27年11月6日
取組編成会議。明後日8日の初日新十両朝弁慶は、友綱部屋旭日松との対戦。土俵上に呼び上げるのは呼出し利樹之丞。裁く行司は木村朝之助。そして、NHK十両取組解説は若松親方と、高砂部屋勢揃い。朝赤龍は、幕内最初の取組で貴の岩戦。大砂嵐ー稀勢の里、照ノ富士ー逸ノ城、日馬富士ー妙義龍、栃ノ心ー白鵬、鶴竜ー嘉風。
平成27年11月8日
「ひが~し あさべんけい~」十両呼出しとしてのキャリアも長い利樹之丞だが、ものすごく緊張したという。ちょうど国際センターに行っていて2階席から相撲を見たが、軍配を上げる木村朝之助の動きもいつもより素早く力強く見えた。「 あ さ べ ん け い 」という勝ち名乗りも、いつもより声を張り上げてしまい、幕内の場内アナウンスでときおり声が裏返ってしまったほどだという。雨予報だったが日が差し夏を思い出させるほどの陽気の九州場所初日。注目の新十両朝弁慶、部屋関係者の陽気を一気に揚げる関取として初白星。
平成27年11月10日
朝弁慶、今日も前に攻めていくも突き落としを食っての初黒星。NHK総合大相撲中継での新十両紹介は、木曜日5日目の中入りの時間とのこと。乞うご期待!!
平成27年11月11日
先場所序二段で6勝して三段目52枚目まで番付を上げた朝山端、今日の相手は相撲教習所の指導員。入門以来半年間指導を受け、弱点も見抜かれているかと思うが、持ち前のパワーを発揮して三段目での初白星。九州に入って他の新弟子連が体調を崩し次々と稽古を休んだのに、一人休みなしで乗り切ってきた。内臓も大分逞しくなってきたよう。 新十両朝弁慶、桝席に“湘南の重戦車 朝弁慶”の横断幕が掲げられた前で相手を突き飛ばして3勝目。
平成27年11月12日
朝弁慶、今日の対戦相手は徳真鵬。193cm・224kgと、大きな朝弁慶よりもさらにひと回り大きな相手。その大きな相手に、立合い真向から当たってすぐ右上手を引き電車道での4勝目。強い!!“湘南の重戦車”のキャッチフレーズそのまままの会心の相撲。溢れる笑顔でNHK中入りでの新十両紹介インタビューを受けた。十両という地位が自信をつくり、自信が心身に満ちあふれ、自信が全身をつなぎ、全身がうまくかみ合って相撲を取っている。
平成27年11月19日
序二段朝ノ島、朝金井が勝ち越し。これで4人目の勝ち越し。朝金井は、残りの一番に新三段目昇進をかける。7月場所、9月場所の好調を引き継ぐように前半戦は白星先行だったものの中盤戦で崩れ、すでに負け越し6人。朝弁慶を含め合い星が4人。初めての向こう給金相撲(負けたら負越し)で、ものすごく緊張したという朝山端、踏みとどまって3勝3敗。最後の一番に4場所連続の勝ち越しをかける。千秋楽打上で祝杯なるか。関取は残り3番、幕下以下は残り1番。
平成27年11月30日
何かと多用で、永らくお休みしてしまいました。昨29日(日)残り番力士も帰京。巡業組(朝赤龍、朝ノ島、神山)は昨日が鹿児島市での巡業初日。今日は移動日で、明日から大分の佐伯、別府、長崎から鹿児島に戻り4日が出水市、さらに宮崎市、熊本県南阿蘇村とまわり、再び鹿児島南さつま市、霧島市を経て熊本八代市、福岡直方市と北上。一日道中で、12日と13日は那覇市とめまぐるしい。那覇から帰京。新十両朝弁慶は、足の治療の為巡業お休み。
平成27年12月2日
立合いの変化や引き技、横綱相撲について、昔から何度も物議を醸している。先日、浅草で50年近くつづく飲み屋で相撲好きの女将さんと九州場所の話題になり、「三重ノ海も猫だましやったわねぇ」と言われ、「そう言われれば」と記憶が甦った。「横綱のときだったですかねぇ」と聞くと、「そのはず」という。調べてみると、昭和53年初場所、全盛を誇った横綱北の湖に当時の大関三重ノ海が“猫だまし”の奇襲に出たのだが、「パチンと音がした」というだけで横綱は猫だましには気づかず一気に押し出した、とある。昭和37年、横綱大鵬に対して前頭4枚目出羽錦が行なった記録も残っているそう。もちろん、相撲は大鵬の勝ち。
平成27年12月7日
横綱双葉山の立合いはどうだったのであろう。双葉山は、昭和7年相撲史に残る現役力士によるストライキ春秋園事件(幕内40人中29人、十両22人が脱退)で、十両から前頭4枚目に抜擢されての新入幕。体も力も足りないのに奇襲も立合い変化もやらずバカ正直な立合いを繰り返すばかり。評論家からは批判が多々あったそうだが、当時の第一人者横綱玉錦は、「双葉山は立合いに工夫がないとか、まずいとか言われているが、あれでいい。いまに力がついてくればわかる」と語ったという。(小坂秀二『わが回想の双葉山』より)
平成27年12月8日
双葉山は、新入幕の昭和7年2月から引退する昭和20年11月まで345番の取組がある。決まり手と取組内容が記録として残っているが、勝ち星276勝のなかで一番多いのは、「寄り切り」で68番。二番目が「上手投げ」の43番。三番目は「寄り倒し」の36番。もちろん、立合い変化は一番もない。そして、驚くべきことに、276勝の中に「叩き込み」が2番、「引き落とし」が1番あるのみである。それも、自ら叩きや引きにいった技ではく、相撲の流れのなかで、たまたま決まり手が「叩き込み」「引き落とし」になっただけである。
平成27年12月9日
対戦相手も、双葉山が「変化しない、ごまかさない」ことに全幅の信頼をおいていた。以下、小坂秀二『わが回想の双葉山』にある話。昭和18年夏場所、小坂氏は長期休暇をもらって戦地から帰国し15日間国技館に通った。14日目関脇豊嶋との対戦で、豊嶋の微塵の迷いもない全身をぶつける立ち合いを目の当たりにして、この場所の双葉山に、相撲の神髄をみたと語っている。
平成27年12月10日
小坂氏は、14日目の豊嶋の立合いをみて、9日目の羽黒山との対戦が目に浮かんだという。羽黒山も昭和史に残る強豪横綱で、双葉山同様受ける立合い。その羽黒山に対し豊嶋は同じようにぶつかっていくのだが、全身を預けるような立合いではなかったという。羽黒山が双葉山に劣るという話ではなく、羽黒山という強い横綱だからこそ比較の対象に成り得るのであって、相手を信頼しきって全身全霊でぶつかっていける双葉山の存在は特別なのだと語る。
平成27年12月14日
関脇笠置山は早大出のインテリ力士で、出羽海部屋で打倒双葉山の作戦参謀としても知られていた。本人も打倒双葉山に闘志を燃やし、「双葉山に勝てたら、その場で引退してもいい」と公言していたほどであった。何度目かの対戦の時、あまりに勝てないので、立合い変化の作戦をたてた。その夜、故郷奈良から同級生が訪ねてきた。その同級生が訪ねてきた翌日の相撲は負けたことがなかったので、「いよいよこれは!」と、立合い変化の作戦に自信を深めたという。
平成27年12月15日
立合い変化の作戦をハラにきめ、「今日こそは!」と、絶対の自信を持って土俵に上がった笠置山。何度か仕切り直しをくり返すうちに、双葉山の仕切り姿、仕切る目に、だんだんと引き込まれていったという。変化しようとか、その後の動きとか、だんだん頭の中から消えていき、いつの間にか、仕切りそのものに没入していった。しかも、それがなんともいい気持ちで、気持がどんどん澄んでいき、浄化されていく。仕切りをしていることがすべてという無我の境に入っていった。(小坂秀二『わが回想の双葉山』より)
平成27年12月19日
お互いの気が合い、立ちあがった。笠置山は、いつものように真っ正面からぶつかっていった。そして、いつものように敗れた。しかし、すがすがしさ、満足感、気持のいい相撲が取れたという喜びでいっぱいになったという。あとになって、友人にいい相撲を見てもらったうれしさもわいてきた。あれほど構想を練り気持を固めた立合い変化の作戦が、仕切っているうちに雲散霧消してしまった。しかも、そのことに無上の喜びを感じる。小坂氏は、「感応した笠置山も偉いが、そうさせた双葉山はどうだ」と書いている。
平成27年12月24日
新年初場所新番付発表。
平成27年12月31日
平成27年度の高砂部屋、1月場所こそ31勝54敗と負け越したものの、3月場所から9月場所までは4場所連続で5割超えの成績で、それぞれ番付を上げていった。中でも朝弁慶の躍進は皆様ご存知の通りで、1月場所幕下25枚目で3連敗からの4連勝で勝ち越し、以後6勝、4勝、4勝、6勝と勝ち越しをつづけ、11月場所で新十両昇進となった。刺激されるように朝赤龍も幕内復帰を果たし、新弟子4人入門という新しい力も加わった。29日に稽古納め、新年は2日に集合して3日から稽古始め。
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