平成27年4月4日
花冷えの東京。大阪場所で初土俵を踏んだ朝森本、朝山端、朝達家の3人は相撲教習所通いの毎日だが、土日は教習所が休みのため部屋での稽古。大阪の稽古場ではふらついていた四股も大分様になってきた。相撲教習所は番付発表前の週までつづく。4月27日(月)の番付発表で初めて番付に四股名が載り、番付発表後は部屋での稽古をつづけて5月夏場所で序ノ口の土俵に上がる。
平成27年4月5日
相撲教習所ができたのは昭和32年10月から。この年の3月2日、衆議院予算委員会で社会党辻原委員が質問に立ち、「相撲協会は、公益法人である財団法人として、寄付行為に定められた本来の事業を実施せず、プロ野球やプロレス以上にもうけ仕事だけの興業団体化している」と、相撲協会のあり方が国会で指摘され、世論も巻き込んでの大問題となった。この問題に対応する形で、運営審議会の設置、月給制の導入、2階の桟敷席をイス席に改良、などの改革が行なわれ、10月から相撲教習所が開校された。
平成27年4月7日
3月2日は大阪場所の初日が迫る頃。高永武敏著『相撲昭和史 激動の五十年』(恒文社)によると、「仰天した協会では、監督官庁の文部省と接渉しながら、協会民主化改革案の作製にとりかかった。大阪の春場所中に一応の成果を得て、武蔵川理事(元出羽ノ花)が辻原委員たちに説明。4月3日、衆議院文教委員会は公聴会を開き、協会の武蔵川理事と若瀬川泰二、永井高一郎(元佐渡ヶ嶽理事)、和久田三郎(元天竜)、御手洗辰雄(評論家)、岩原祐(保健体育審議会委員)の6人を参考人としてよんだ」とある。
平成27年4月8日
武蔵川理事は、元前頭筆頭出羽ノ花。昭和7年1月の春秋園事件で幕下から抜擢されて新入幕。15年5月場所に引退。現役時代から頭脳明晰で知られ、引退後すぐに執行部入り。親方になってから簿記の専門学校に通い経理を学び、戦前から戦後にかけての混乱期の相撲界を支えた。相撲協会の大蔵大臣といわれたという。国会での鮮やかで堂々とした態度の答弁は代議士連中を驚かせ、「相撲協会に置いておくのはもったいない、ぜひ立候補させたい」という声が上がったが、「代議士などになるより、代議士を働かせるほうがおもしろいよ」と言ったという。
平成27年4月9日
同じく参考人として呼ばれた永井高一郎氏は、阿久津川の四股名で大正から昭和にかけて活躍した高砂部屋の力士。昭和4年に引退して佐渡ヶ嶽親方となり横綱男女ノ川を育てた。理論家で相撲の科学的研究に熱心で、昭和36年『大相撲』誌によると、親方になってから名古屋大学熊谷博士のもとで2年、体育研究所の吉田博士のもとで4年、生理学および運動生理学を勉強したとある。昭和8年、現在の相撲健康体操のもとになる“相撲基本体操”を考案した。
平成27年4月10日
国会での質疑は、とくに茶屋問題に集中したという。公聴会のあとの4月11日、文教委員会理事会は文部大臣に「相撲協会は公益法人たる本来の事業である相撲専修学校を設立し、相撲の普及や指導に努めること。茶屋制度を廃止し、キップの販売については大衆が容易に入手できるようにすること。蔵前国技館は保健衛生や防災の見地から観覧席を改良すること。力士や年寄たちの給与を改善し、健康保険制度を確立すること」という申し入れをした。当時の理事長は、元横綱常ノ花の出羽海親方。夫人はお茶屋の経営者であった。5月4日、国技館で出羽海理事長の割腹自殺未遂事件がおこり、理事長を辞任。5月6日、元双葉山の時津風親方が理事長に就任した。
平成27年4月11日
時津風新理事長のもと相撲協会の民主化改革は急速に進み、早速5月から月給制が実施された。『相撲昭和史激動の五十年』によると、初の月給は、横綱15万円、大関11万円、関脇・小結7万円、平幕4万5千円、十両3万円。立行司・副立行司が7万円、三役格4万5千円、幕内格3万円、十両格1万8千円。年寄りは取締15万円、理事・監事9万円、検査役7万5千円、主任4万5千円、常勤年寄3万5千円となっている。ちなみに昭和32年の教員の初任給は8千円だったそう。
平成27年4月12日
昭和32年5月以前は歩合制による分配であった。本場所開催時は協会から興業収入が分配されるが、普段は一門毎の「組合」で巡業に出て、組合からの分配金での生活。いわば、自分たちの食いぶちは自分たちで稼げ、という形で、人気力士のいる一門とそうではない所では集客力に差があり、また時代による波もあり、不安定であり不明瞭でもあった。月給制にするにあたって、巡業を一門別から大合併にし、本場所も昭和32年に年5場所、翌33年に年6場所と増やしていった。
平成27年4月13日
もらえるべき金がもらえないと不満がたまり、やがて爆発する。大相撲が組織だった形になった江戸中期から現在に至るまで何度か大きな事件が起こったが、ほとんどが待遇改善を訴えたものであった。明治6年秋の騒動は、初代高砂浦五郎が中心となった。会所に改革を迫るも除名となり、名古屋で改正高砂組を立ち上げ独立した(明治11年復帰)。その後も明治44年1月新橋倶楽部事件、大正12年1月の三河島事件、そして昭和7年1月の春秋園事件とつづいた。
平成27年4月14日
江戸時代の力士は大名お抱えであった。平均して五人扶持(年間およそ25俵)をもらっていたという。ただし、お抱えとなり扶持米をもらえるのは一部有力力士のみで、大多数は部屋毎の小相撲と呼ばれる巡業で何とか食いつないでいた。江戸から明治に変わり、大名のお抱えが解かれ、後援者も相撲どころではない。関取衆といえども日々の生活にさえ困窮している。それにもかかわらず会所(協会)の筆頭(理事長)と筆脇(副理事長)が利益を独占し、力士の犠牲の上に大あぐらをかいている。これを許してよいものか、と初代高砂浦五郎が改革を迫った。
平成27年4月15日
改革を迫るも除名され独立した初代高砂は、明治11年に復帰し徐々に発言力を強め明治16年には取締に就任。力士への収益配分を決め「力士が相撲で食える」システムをつくっていった。他にも年寄名跡の制限や記者席の設置、選挙制度など数々の改革を行い大相撲の民主化に努めた。ところが権勢を強めるにつれ専横ぶりがひどくなり、明治29年1月「われわれは不正なる取締の配下にあるを潔しとせず」との檄告書を力士30余名の連名で出され本場所をボイコットされる事件が勃発。さすがの初代高砂も最後には折れ辞任。両国中村楼で手打ち式が行なわれたため中村楼事件といわれている。
平成27年4月17日
中村楼事件の直後、70条におよぶ「東京大角觝協会申合規約」が出来、元横綱初代梅ケ谷の雷親方を取締として更なる民主化がすすんだ。折から常陸山、2代目梅ケ谷の台頭で相撲人気も空前の好況をみせる。明治36年横綱に同時昇進して梅・常陸時代を築き、明治42年の両国国技館建設が実現。晴雨にかかわらずの大幅な観客増につながった。しかしながら、多額の借金での建設だったため、力士の給金は変わらず。明治44年1月、待遇改善を求めて新橋倶楽部事件が起きた。
平成27年4月18日
相馬基著『相撲五十年』(昭和30年時事通信社)によると、明治44年の幕内給金(本場所開催時のみの支給)は上位で45円ほど、最高が65円どまりであった。さらに、部屋住みの関取は4分を師匠に渡し、自分の取り分は6分。所帯持ちの関取は、8分を取り、2分を師匠に納めていたという。当時の公務員(役所)の初任給が55円だったようだから、かなり少ない。大部分の力士は給金など当てにしないで、後援者の世話になって体面を維持しているのが現状であった、とある
平成27年4月19日
徳之島の久志哲哉さんは、相撲をこよなく愛していた。自ら相撲を取り、子供たちを教え、審判として土俵に立ち、相撲グッズを集め、大相撲の力士の面倒もみた。場所が始まると、自宅前に力士幟を何本も立てた。優勝祝賀パーティー、断髪式、結婚式、・・・徳之島からはるばる足を運んでくれた。2年ほど前から体調を崩し入退院を繰り返していたようだが、夏場所応援にいくから、稽古場だけでもいくから、とつい先日電話で話したのに叶わなかった。久志さんの相撲を愛する気持ちは、奄美出身力士に、わんぱく力士に、アマ力士にこれからも引き継がれていくことであろう。享年67歳。心よりご冥福を祈ります。
平成27年4月21日
新橋倶楽部事件の中心になったのは浪ノ音(高砂部屋)や緑島(雷部屋のちの立浪親方)等関脇以下の力士達。常陸山等横綱・大関が間に入って協会との仲裁にあたったが、もつれにもつれ24日間に亘っての争議となり、力士団が養老金1500円(当時は年寄名跡が買える金額)という退職金制度をかち取った。その後、大正6年の失火による国技館全焼という惨事や時代的不況の影響を受け協会の台所も苦しくなっていく。再び力士の不満がたまり、大正12年1月、初日の前日に待遇改善を訴えた三河島事件勃発。
平成27年4月22日
三河島事件も新橋倶楽部事件同様、関脇以下の力士が協会に待遇改善を訴えた。前回同様横綱大錦と栃木山そして大関陣、立行司ら7人組が間に入り調停に努めたが、両方から拒絶される。最終的に当時の警視総監が調停者となりようやく10日目の午前0時に和解。深夜、総監の招きで日比谷平野家で、協会代表4人、力士会代表3人、横綱大関らの7人組とが手打ちの祝宴。和やかな雰囲気の中、中座した横綱大錦は自ら髷を切り落とした。「この度の粉擾でわれわれの努力が功を奏せず、閣下のお手にゆだねましたことは、不徳不明の致したところと、深くお詫び申し上げます。(中略)横綱の面目をつぶした以上、私は土俵の自信もなくしました。ここに髷を切って今日限り引退を決意した次第でございます」力士会代表の司天竜が号泣する中自宅に戻り、以後相撲界から身を引いた。
平成27年4月27日
5月夏場所番付発表。先場所幕下21枚目で6勝を上げた朝弁慶、幕下東7枚目。いよいよ関取の座が目前にせまってきた。もちろん自己最高位。朝興貴は一場所での幕下復帰で41枚目。朝天舞が幕下53枚目。先場所デビューの3力士も初めて番付に名前を載せた。一番出世の朝森本が13枚目、二番出世の朝山端25枚目、朝達家26枚目。明日から稽古再開。
平成27年4月28日
相撲は番付がすべて、という.。「番付一枚違えば家来も同然、一段違えば虫けら同然」という言葉もある。給与や人事、待遇すべてを決めるのが番付で、新十両、新幕下・・・すべて番付発表の日から正式にその地位に上がったことになる。付人の変更なども番付発表の日を境に行なう。十両朝赤龍には、先場所まで朝ノ島と朝興貴が付いていたが、今場所から朝興貴に代わり朝乃丈が付くことになった。朝興貴は、朝弁慶と一緒に師匠の付人になった。朝乃丈は、入門以来横綱の付人を務めていたが、横綱引退後はずっと師匠の付人で、朝赤龍の付人は初めての経験。
平成27年4月29日
平成12年9月場所番付発表の日(8月21日)から朝青龍は関取になった。同じ日に朝乃翔は、怪我で関取から幕下に陥落。番付発表の日を境に、大部屋にいた朝青龍が4階の個室に移り、4階の個室にいた朝乃翔が2階の大部屋に移動(8月20日)してきた。十両最下位と幕下筆頭は半枚しか番付に違いがないが、待遇に大きな違いが出てくるため、悲喜こもごも様々なドラマが生まれてくる。
平成27年4月30日
横綱大関に上がった人間でも、十両昇進を決めたときが一番嬉しかったと語る。給料を貰える(幕下以下は場所手当てのみ)のも大きいが、日常生活での待遇がガラリと変わってくる。付人がつくようになるし、ちゃんこのとき座布団を敷き、お膳も用意される。稽古が終わったらすぐ風呂に入り、風呂では付人が背中を流し、お客さんと一緒にちゃんこを食べられる。(幕下以下はお客さんが終わった後)本場所の土俵で締めるマワシも絹の繻子織の高価な締込みになるし大銀杏を結うようになる。場所入りも羽織袴の正装になる。(幕下以下は、浴衣か着流し)
平成27年5月1日
5月場所新弟子検査が行なわれ、10人受検。高砂部屋からも埼玉県羽生市出身大門(おおかど)優典君が受検して身長体重の体格検査に合格。内臓検査の結果を待って5月10日初日の日に正式発表となる。高砂部屋OB元攻勢力の角田氏(現埼玉相撲クラブ師範)と同じ警備会社に勤務していて昨年末の高砂部屋もちつきに参加したところスカウトされ入門に至った。178cm115kgの体格。今まで相撲経験はないものの中学で柔道、高校では空手と武道路線を歩んできた20歳。内臓検査に問題がなければ3日目から前相撲で初土俵を踏む。
平成27年5月2日
新弟子検査の基準は現在、身長167cm体重67kg以上で年齢23歳未満の男子。但し、三月場所は中学卒業見込者に限り、身長165cm体重67kg以上となっている。この検査基準は平成24年5月場所から。それまでは、第1検査が173cm75kg以上、第2検査が167cm67kg以上で運動能力検査を実施となっていた。それ以前も何度か基準値の変更があり、身長体重や年齢制限のない時代もあった。
平成27年5月3日
昨日今日と両国にぎわい祭り。ゴールデンウイーク恒例となって今年で13回目。昨日国技館土俵で二所一門連合稽古が行なわれ、今日は各種相撲関連イベント。おなじみチャンコや、相撲教習所土俵にての「力士に挑戦コーナー」では子供たちに混じって大人もマワシ姿で力士に挑戦。昨年まで木村朝之助が担当していた「相撲字で記念うちわ」、今年は木村悟志が担当。地下大広間では呼出し利樹之丞と邦夫による「太鼓実演」。はね太鼓を連弾してピッタリ息の合った見事なバチさばきを魅せていた。
平成27年5月4日
初日まであと一週間をきり、朝興貴と朝乃丈が関取のさがり張り。関取のさがりは、糊で固めてあるのだが、取り組みで折れるのでお湯で溶かしてクシをかけ糊で張り直す。毎場所前の付人の仕事のひとつ。以前はフノリを炊いて使っていたが、現在は市販の糊をうすめて使うこともあるよう。長年朝青龍のさがり張りをやってきた朝乃丈、朝赤龍のさがりを張るのは初めてだが、微妙にやり方が違うらしく、「こっちの方がきれいだ」「いやこうするのが正しい」と罵りあいながら仲良くやっている。普通2本作り、中日に取り換える。
平成27年5月5日
関取は連日時津風部屋への出稽古。部屋へ戻ってきて風呂へ入る前にシャンプー。一度シャンプーで泡立ててから風呂場へ行き流し再度洗う。シャンプーをするのも付人の仕事。腰かけた関取の後ろに立ちクリーム状の海藻シャンプーをつけて泡立てる。海藻シャンプーが油落としには一番効果的なようで多くの関取衆が愛用している。風呂場で2,3度シャンプーをくり返しびんつけ油や汚れを落とす。もちろん付人が背中を流し、風呂上がりには背中や足をきれいに拭き取る。タオルも、顔拭き用、背中拭き用、足拭き用など4,5本用意しておく。
平成27年5月6日
付人は、文字通り関取に付いて身の回りの世話いっさいを行なう。朝、関取が部屋に来るとマワシを引っ張る。マワシを引っ張るのは、ゆるめず引っ張りすぎず適度な力加減が必要で、ある程度兄弟子にならないとうまくできない。関取によっては、稽古でテーピングや包帯用のサラシを使う場合もあるので、買い忘れなどないよう事前に用意しておかなければならない。関取が稽古をするときには、稽古タオル(バスタオル)を2本持ち、一番取り終えるたびに、駆け寄り、砂を落としたり、汗を拭いたりする。目配り気配り素早い動きが常に求められる。
平成27年5月7日
関取が風呂から上がり髷を結い直すときにはサッと肩にタオルをかける。結い終わるとちゃんこのお給仕。関取になると、ご飯は丼ではなく、ほとんどが普通のお茶碗を使う。しかもお茶碗に6,7分目と軽めによそうのが作法になる。関取の後ろに立っておかわりしたり、冷茶を注いだりする。ちゃんこが終わると用意していた着替えを着せ個室へもどるまでついていく。時にはマッサージをすることもある。そういうことを全部済ませてようやく風呂に入れる。
平成27年5月8日
その他にも洗濯や掃除、買い物などなど、付人稼業は何かと忙しい。その分おいしいこともある。出かけるときも付いていくから、自分たちではとてもいけない高級店や各界の有名人等と席を共にする機会も出てくる。何より四六時中一緒にいて、立ち居振る舞い、相撲に対する姿勢、強くなる気・・・肌身を通していろんなことを学べる。その気になれば得られるものはいくらでもある。横綱栃錦は師匠(元横綱栃木山)の付人として名人横綱としての心技体を磨いたし、横綱双葉山も17,8歳の頃元関脇玉椿の白玉親方に付いて、稽古や本場所に対する心構え、力士としての歩き方等学んだという。
平成27年5月9日
双葉山の話は『相撲求道録』(昭和31年時津風定次著・黎明書房)から。口授筆録による書。歩き方の話から次のような話に繋がって興味深い。「戦時中の勤労動員のさい、実はわたしどもも、靴をはいた経験があるのです。これは力士としては大変なことでした。いままで靴をはいていなかったものが、にわかに靴をはくことによって、それは自然に親指の「ふんばり」に影響してきました。そのため土俵での「さぐり」がにぶくなってきたことは事実です。日常生活のちょっとしたことが、この一事によっても疑えないところです。」明日が初日の触れ太鼓。朝ノ島は休場(網膜はく離のため)。
平成27年5月10日
初夏の陽気の夏場所初日。早々の満員御礼。8時20分開始で初口から二番目の土俵に上がった朝山端、立合い少々迷ったそうだがパワーを発揮して序ノ口初白星。今場所から朝赤龍の付人を務めることになり十両取組前の支度部屋にもデビュー。関取衆の取り組み前の準備運動や雰囲気を肌で感じいろんなことを大いに吸収してもらいたい。朝乃丈も久しぶりの支度部屋。3勝4敗の高砂部屋初日。
平成27年5月11日
付人は、支度部屋でもこまごま々と身の回りの世話をする。着物を畳み、化粧回しを締め、土俵入りが終わると素早く化粧回しをあげ、取組に集中できるよう様々とサポートする。狭い中、他の部屋の関取衆や兄弟子も多いから何かと気を使いながらの仕事。ふつう、一番下の付人が水とタオルを持ち準備運動をする関取の横に立つ。立合いの稽古で胸を出すのはある程度兄弟子の付人で、花道に付いていくのも兄弟子。風呂入れは下の方と、それぞれに役割分担がある。昨日の朝山端につづき、朝達家、朝森本も初白星。十両土俵入り後、幕下上位五番に登場の朝弁慶、攻め込むも白星ならず。今日2日目も満員御礼の夏場所。
平成27年5月12日
控えですわる座布団を運ぶのも付人の仕事。これは新弟子の付人が行なう。2番前の力士が土俵に上がると花道を土俵下まで進み呼出しに渡し交換してもらい、前の力士の座布団を受け取って帰る。ただし、控えでマイ座布団に座れるのは幕内のみ。十両は備え付けの座布団で、幕下以下は座布団はなし(畳のみ)。幕下朝天舞いい相撲で2連勝。そういえば、朝天舞も朝花田の四股名の頃、初めて幕内朝青龍の座布団運びをやったことがあった。朝達家も2連勝。
平成27年5月13日
双葉山も新弟子の頃、座布団運びで失敗したことがあるそう。当時の立浪部屋幕内吉野山の付人として花道で待っていて、相手が横綱常ノ花なので、「うちの関取はとても勝てっこない」と半分諦めて見ていたら、あにはからんや打っ棄りで横綱を破った。「わたくしはまったくの無我夢中で、蒲団をあげることも忘れてしまって、部屋に飛び込んでゆき、吉関が勝った!吉関が勝った!と連呼したものです。あとで叱られたことを覚えています。」と、『相撲求道録』で述べている。昨日から始まった前相撲、朝大門(あさおおかど)嬉しい初白星。朝山端2勝目。
平成27年5月14日
「夏場所や ひかへぶとんの 水あさぎ」は久保田万太郎の句。水あさぎとは、水色がかった浅葱色で、緑みのある淡い青色とのこと。座布団の色は自分で決められる。朝赤龍の控え布団はエンジ色。3,4年前に名古屋の後援者の方と付人で関取の誕生祝いにプレゼントしたものだそう。その朝赤龍連敗スタートからの3連勝。早く幕内へ復帰してお蔵入りとなっているマイ座布団を再び使いたいところ。朝山端は無傷の3連勝。
平成27年5月15日
幕下上位五番は、十両土俵入りの後に行なわ、控えの共用座布団も上位五番から用意される。昨年名古屋場所で初めて上位五番に登場した朝弁慶、そのときは初口だったので控えに座ることなく土俵に上がったそうだが、今場所は3日間とも控えに座っての土俵。「ふかふかして気持いいっす」とのこと。今日は、是より十枚目の一番前に登場。得意の重戦車相撲で初白星。朝興貴、神山にも初日。
平成27年5月16日
朝山端、4連勝で勝越し。今場所の勝越し第1号。3月場所前相撲の土俵に上がってから未だ負け知らず。もっとも前相撲は蜂窩識下炎で休み、最後の一番取っただけで、その後も首を痛めたり風邪を引いたりと体調面で苦労をしているが、本場所で見事に結果を出してきた。おそらく5連勝目は話題の木瀬部屋宇良との対戦になりそうで、持ち前のパワー全開でぶつかっていってもらいたい。朝大門、今日で前相撲を取り終わり、明日出世披露。
平成27年5月18日
序ノ口の朝達家、朝森本ともに3勝目。相撲経験が全くなく体にも恵まれない朝達家、部屋の稽古では同期生の2人はもちろん、今場所初土俵の朝大門にも全く歯が立たないが、「場所相撲か?」と、皆を驚かす大奮闘の3勝目。今日も低く当たって左差して前に出ていき、土俵際上手投げで振り回されたたものの、わんぱく相撲のようにクルッと土俵内に戻り寄り切りでの勝ち。朝森本も双差しから土俵際残る相手を寄り倒し。こちらは小学生の頃の相撲経験を生かしたうまい攻めをみせての3勝目。同期生3人揃っての勝越しも見えてきた。
平成27年5月19日
朝弁慶、3勝目。2連敗スタートで心配されたが3連勝で勝越しまであと一番。だんだん相撲内容も良くなってきて、今日も頭からぶちかまして相手を押し込み、腕もよく伸びての押し出しと、得意の重戦車相撲で気をよくする3勝目。8月末には恒例の平塚合宿が今年も行なわれる。まずは勝ち越しを決めて番付を上げ、合宿直前の名古屋場所に臨みたい。朝金井、大子錦、負越し。朝山端、宇良相手に攻め込むも肩透かしでの初黒星。
平成27年5月21日
朝弁慶、勝越し。今日もぶちかまして前に出る重戦車相撲に徹し、自己最高位での嬉しい勝越し。何枚上がるかは周りの成績との兼ね合いだが、もう一番積み重ねると、より上がることは間違いない。5勝目をかけた一番は明後日14日目.。元十両旭大星との対戦。朝森本、うれしい勝越し。「ホッとしました」と安堵の笑顔。朝山端5勝目。こちらも日に日に気合いの入った表情。朝興貴、神山は3勝目で勝越しへ望みをつないだ。幕下以下は残り一番。今日まで勝越し、負越し共に3人ずつ。5人が3勝3敗で、明日からの最後の一番に勝越しをかける。
平成27年6月1日
昨日5月31日、国技館土俵にて元横綱千代の富士の九重親方の還暦土俵入りが行なわれた。2年前の北の湖理事長以来の赤い横綱での土俵入り。過去、横綱太刀山に始まり、栃木山、常の花、栃錦、若乃花、大鵬、北の富士、三重ノ海、と続き、今回で10人目。存命だったが体調不良で土俵入りを行なえなかった方や、廃業して相撲界との縁が切れて行なえなかった方も10名ほどいる。元横綱朝潮の5代目高砂親方は、赤い綱を作り土俵入りの稽古も重ねていたのだが、直前に亡くなり還暦土俵入りを果たせなかった。
平成27年6月6日
最近、稽古場でベテラン勢が熱い。新弟子に胸を出すだけでなく、神山、大子錦という両者合わせて70歳の古稀対決が手に汗握る熱戦をくりひろげ稽古場を盛り上げている。お互い、膝や腰、内臓に持病を抱えてのことだから、見ている方としても「膝がおれてしまわないか」「呼吸困難に陥りやしないか」と、スリル満点の申し合い。息が上がるのは早いが、番数を重ねるごとに動きに多少は切れが出てくるのはベテランならではのこと。これも今年になって4人増えた新弟子効果のひとつであろう。
平成27年6月9日
6月6日に鹿島神宮にて横綱白鵬の土俵入りが行なわれた。鹿島神宮の御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。武甕槌大神は武の神で古くから皇室や藤原氏の崇敬を受け、武士からの信仰厚く武術が盛んに行なわれ、そのなかから塚原卜伝も生まれたという。相撲とも関わりがあったはずだが、以外にも横綱土俵入りが行なわれるのは初めてのことだそう。
平成27年6月10日
武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、古事記には「建御雷神(たけみかづちのかみ)」の名で出てくる。ほかにも、武甕槌神・建雷命・建布都神・豊布都神という表記もあり、神の名はまことにむずかしくややこしい。古事記「出雲の国譲り」神話によると、出雲伊那佐浜(いなさのはま)で力くらべが行なわれ、建御雷神(たけみかづちのかみ)が建御名方神(たけみなかたのかみ)を「若葦(わかあし)を取るが如く掴みてひしぎ投げ」とあり、建御雷神(たけみかづちのかみ)が圧勝した。この力くらべが相撲の起源ともいわれている。
平成27年6月11日
敗れた建御名方神(たけみなかたのかみ)は逃げ去り、諏訪湖のほとりでつかまり殺されかけるが、「降参します。けっして諏訪から動きません。国を譲ります」と許しを乞い、古事記での国譲りが完了する。古事記は建御雷神(たけみかづちのかみ)を氏神とする側から書かれたようで建御名方神の印象が悪いが、建御名方神も武神・軍神として名高い。元寇の際には建御名方神を祭神とする諏訪大社から雲が登り神風を吹かせたという話があり、五穀豊穣・航海安全・勝利祈願のご利益から諏訪神社は全国に数多い。風神・水神という農耕神としての面もあり相撲との関わりも深く、毎年9月には江戸時代からつづく「諏訪大社十五夜相撲」が行なわれている。
平成27年6月12日
有名な野見宿禰と當麻蹶速の闘いは、『日本書紀』巻六「垂仁天皇」に出てくる。當麻村(奈良県)の蹶速が力自慢を誇り、強者と闘いたいと言っているのを天皇が聞き、「だれかおらぬか」と尋ねたところ、「出雲の国に野見宿禰という勇者がいます」ということで対決することになった。向かい合った二人は、足をあげて蹴り合い、たちまち宿禰が蹶速のアバラ骨を蹴り折り、さらに腰骨を踏み折って殺してしまった、と、まことにすさまじい。野見宿禰は、「相撲の祖」として野見宿禰神社に祀られている。今日から茨城県下妻市大宝八幡宮での錦戸部屋との合同合宿。お宮到着後、全員で先代宮司のお墓に参る。
平成27年6月13日
茨城県下妻市大宝八幡宮での錦戸部屋との合同合宿稽古初日。錦戸部屋カナダ出身ブロディ君こと誉錦を加え新弟子が5人もいるので稽古場の雰囲気も若々しい。9時前に稽古を終えて、9時過ぎから第5回わんぱく相撲下妻場所。1年生から6年生まで63人が参加して熱戦をくり広げる。土俵際がもつれにもつれる行司泣かせの勝負がつづき大盛況。もともと大宝八幡宮は相撲との縁が深く、明治時代には横綱常陸山が3日間の巡業を張ったことがあり、昭和30年代までは地元青年団による奉納相撲も行なわれていたという。また隣町坂東市出身の元小結若浪は、幕内優勝した昭和43年3月場所前に現在の土俵のある辺りで稽古をしたことがあるらしい。八幡さまの霊験あらたかなのであろう。
平成27年6月14日
八幡神は武運の神様で、清和源氏の氏神であり、源頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請した。 頼朝は相撲を好み、鶴岡八幡宮で度々上覧相撲を開催したようで、祭礼のときも流鏑馬・競馬とセットになって行なわれていたという。全国に4万社という八幡宮の総本社は、横綱双葉山の生誕地大分県宇佐市の宇佐神宮。宇佐神宮では昭和13年11月に双葉山が奉納土俵入りを行なったそうで、平成23年11月には双葉山生誕100年を前に横綱白鵬の奉納土俵入りが73年ぶりに行なわれた。大宝八幡宮合宿稽古2日目。すこし雨に見舞われるも今日も満員御礼の土俵。
平成27年6月15日
江戸勧進相撲の発祥は、深川八幡宮。貞享元年(1684年)、本所深川の繁栄を望まれた5代将軍綱吉が、それまで24年間禁令となっていた相撲興業を許したものと、三田村鳶魚『相撲の話』で紹介されている。深川八幡宮境内には、「横綱力士碑」や「超五十連勝力士碑」「巨人力士手形足形碑」など数多くの相撲碑が建てられている。また新横綱誕生の際には、奉納横綱土俵入りが行なわれている。合宿稽古最終日。稽古とちゃんこを終え、今年もお世話になった皆様や園児に見送られ大宝八幡宮から帰京。大宝八幡宮でも、朝青龍の横綱土俵入りが横綱昇進後まもなくの頃、奉納されたことがある。
平成27年6月16日
勝ち力士が懸賞金を受け取る際には、左、右、真ん中の順で手刀を切る。これは勝利の三神(五穀の守り三神とも)に感謝を表わす行為だとされている。なかなか覚えられないが、左が神産巣日神(かみむすひのかみ)、右が高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、真ん中が天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の三神。手刀は戦前に名寄岩が再興したが不統一だったものを昭和41年7月場所から規則として実施されることになった。
平成27年6月17日
毎場所、初日の前日に土俵祭が本土俵で行なわれる。土俵上に祭壇を設け、立行司が祭主となり、相撲の神様をお招きして五穀豊穣、国家平安、土俵の無事を祈願する。このときお招きする主祭神は、天手力男命((たじからおのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、野見宿禰(のみのすくね)の三柱だそう。戦前は、天神七代、地神五代の神々を招いていたが、終戦直後に立行司と彦山光三が相談して武神と力の神だけ三代にしたと、28代木村庄之助が語っていたという。(内館牧子『女はなぜ土俵にあがれないのか』より)
平成27年6月18日
土俵の上からも神様が相撲を見守っている。土俵の上には、伊勢神宮と同じ神明造の吊り屋根。吊り屋根の四隅から四色の房が垂らされている。房は四方を司る四神をあらわす。東の青房が青龍、南の赤房が朱雀、西の白房が白虎、北の黒房が玄武。もともと四隅の四本柱に絹の布(巻絹)が巻かれていたが、昭和27年9月場所から柱が撤廃され現在の房になった。四本柱の内側につけられていた御幣は、房の内側につけられている。
平成27年6月19日
大相撲情緒を彩るのに欠かせない櫓太鼓。窪寺絋一『日本相撲大鑑』によると、江戸時代、高い櫓は火の見櫓と将軍家鷹狩りの鳥見櫓以外は禁止されていたが、江戸中期に勧進相撲の櫓も許され、天保年間(1830~44)に高さ5丈7尺(約17m)に定められたという。櫓は神を招くための神座(かみくら)で、櫓の上に高く掲げておく2本の竹竿の先端にある麻の御幣は神に対する標示物とのこと。太鼓はもともと神との通信手段でもあるから、櫓太鼓は相撲の始まりを神様にもお知らせしているのであろう。
平成27年6月20日
稽古場も神に見守られている。稽古場には必ず神棚が祀られていて、榊は月に2回、1日と15日に新しくし、榊の水は毎朝換える。毎朝、稽古の始めと終わりに柏手をうち拝礼する。稽古後の土俵は、砂を真ん中に集め山をつくる。砂山を板で固め、表面をうすく削り、削り落とした砂に板を当て片方だけ動かし段差をつくる。山から出る朝日を表わしているという。正面向きに五角形に朝日をつくり、正面側に御幣を立てる。正面に向かう土俵の端に盛塩を3か所。盛塩から中央の御幣を立てた山に向かって塩をまく。土俵が清められ、明日の稽古まで神さまに土俵を守ってもらう。
平成27年6月21日
先発隊7人(大子錦、朝天舞、朝乃丈、朝弁慶、朝興貴、朝金井、松田マネージャー)名古屋場所宿舎の蟹江龍照院入り。名古屋場所の風物詩ともいえる鈴木さんに迎えに来てもらい、今日から一か月半に及ぶ蟹江での生活のはじまり。晩飯は毎年恒例になっている鈴木さん家族と共に合計12人での焼き肉食べ放題。60歳以上500円引きのお店で1000円引きにしてもらった。得したような腹立つような・・・
平成27年6月22日
日が差すも、まだそんなに暑くなく、冷蔵庫やちゃんこ道具を引っ張りだしての洗い物も順調にすすむ。ちゃんこ場には冷蔵庫が4台置いてあるが、差し入れが重なると足りなくなってくる状況。そこへ、蟹江で働いている方から冷蔵庫を買い替えて3ドアの大型冷蔵庫があるのでどうかとの電話。「ぜひお願いします」と答えたら、現物は小牧の自宅にあるとのこと。少し躊躇するも、すぐ頭に浮かんでくるのは鈴木さんの顔。さっそく鈴木さんに軽トラを用意してもらい往復2時間かけて運び込む。冷蔵庫の差入れもありがたいし、それを運ぶ軽トラをすぐ用意してもらえるのも、長年(28年目)蟹江にお世話になっているからこそのこと。
平成27年6月23日
中日新聞で、『押さば忍(お)せ』~戦後70年 大相撲の底力~ という連載がスタートした。1回目の今日は、「廃墟の国技館で一歩」という見出し。終戦からわずか3カ月後の昭和20年11月16日から開催された戦後初の本場所。27代木村庄之助の熊谷宗吉氏に話を伺っている。昭和10年9歳で立浪部屋に入門した熊谷氏は、終戦の年は三段目格。6月に召集され弘前連隊で終戦を迎え、山形の一門の巡業に合流。食うために米どころを巡業してまわり、大人1升子供5合の入場料で食いつないでいった。終戦直後にもかかわらず、どこの巡業も大入りだった。国民は娯楽にも飢えていると確信したという。ならば本場所を・・・。空襲で穴だらけになり廃墟と化した国技館で再開された本場所。敗戦から立ち上がろうとする国民の心にも光を与えたと、締めている。
平成27年6月24日
昨日の紙面には番付の写真が2枚掲載されていた。1枚は平成27年5月先場所の番付で、その横に昭和20年11月場所の番付が並べてある。一見して色が違う。番付は白い和紙を使うが、終戦から3カ月、上質の和紙など用意できるはずもない。小型のザラ紙に印刷した番付は黄ばんでいる。多くの力士が応召され、序ノ口力士はなく、序二段、三段目もスカスカな状態。番付に名前が載っている力士は216名だったという。それでも番付を手にした関係者、相撲ファンの喜びは筆舌に尽くしがたいものがあったであろう。
平成27年6月28日
東京残り番の力士も全員名古屋乗り込み。新弟子4人(朝山端、朝森本、朝達家、朝大門)は初めての名古屋場所で、初めての蟹江龍照院での生活が今日から始まる。荷物を置いてお寺さんに挨拶して、明日の番付発表の準備。晩飯は作り置きのカレー。番付発表の日は朝から作業に追われ、ちゃんこを作る時間がないので前日から大鍋でカレーをつくっておく。明日もカレー。明後日から稽古再開。ちゃんこも明後日からだが、コクが深まったカレーもまだ残っているかも。
平成27年6月29日
7月場所番付発表。期待の朝弁慶、先場所の4勝3敗で2枚上がって東幕下5枚目。上位に来れば来るほど上がり方が少なくなってくるから、ここからがいよいよ勝負どころ。4勝や5勝の勝越しだと2,3枚しか上がらないが、負越すとガタンと落とされてしまうから油断ならない。一気に全勝もしくは6勝して勢いをつけて上がるのが理想だが・・・朝赤龍は一枚落ちて東十両4枚目。先場所6勝1敗の朝山端は、80枚ほど番付を上げて序二段47枚目。