平成28年1月6日
更新が滞ってしまいました。本年もよろしくお願い申し上げます。1月場所新弟子検査が行なわれ、高砂部屋から玉木一嗣磨(かずま)君が受検。三重県出身で近畿大学相撲部4年生で3月に卒業見込み。身長体重は申し分なく血液検査の結果を待って正式な入門となる。前相撲は3日目から。もう一人近畿大学相撲部の石橋広暉君(富山県出身)は、3月場所三段目附出しでデビューの予定。
平成28年1月7日
新弟子が一人加わり力士数15名となった。平成14年2月の合併時(高砂部屋と若松部屋)31人いたのが年々減っていき、23年から26年までずっと11名という時代がつづいていたので、ようやく回復してきたといえる。3月場所にも3~4名入門予定で、相撲部屋として理想の20名まであとすこし。10人以下では少なすぎるし、30人を超えると目が行き届かなくなる。
平成28年1月8日
高砂部屋ができたのは明治11年(1878年)6月。明治6年に会所(協会)を脱退して改正高砂組として独立興行していた元高見山の初代高砂浦五郎が和解なって復帰したときから始まる。復帰時は幕内1人、十両5人、幕下9人、三段目3人、序二段4人、序ノ口3人の計25人だったもよう。それから138年間、栄枯盛衰をくり返し、多い時には100人近くいた時もあるそうだが、だいたい20~30名という期間が多い。138年間、関取(十両以上)が途絶えたことは一場所もない。
平成28年1月9日
世話人の總登さんは昭和46年1月場所の入門。入門したのは大山部屋だが、その当時一門は同部屋のようなもので、稽古は高砂部屋の稽古場でおこなっていたそう。ちょうど4代目から5代目に代変わりする頃で、弟子の数も減っていたようで20数名だったそう。總登さんの入門から半年後、元横綱前田山の4代目が亡くなり元横綱朝潮の5代目高砂となった。明日が初日。取組開始は午前8時25分で十両土俵入りが午後2時5分。十両朝弁慶は呼出し邦夫の呼び上げで東龍との対戦。その三番後、木村朝之助の裁きで朝赤龍が天鎧鵬との対戦。
平成28年1月10日
昭和15年1月の雑誌(野球界増刊春場所相撲號)に部屋別力士一覧が載っている。三代目の頃で、27歳の前田山が大関。十両に富田濱という力士がいて関取2人で総勢30名。横綱双葉山の立浪部屋は41名。出羽ノ海部屋がすごい。横綱武蔵山を筆頭に幕内力士だけで18名。十両に7名。序ノ口までの総勢89名。二所ノ関部屋も70名。逆に力士一人のみという部屋も中川、片男波と2部屋ある。快晴の新春初場所初日。初場所初日は、いつにも増して華やいだ雰囲気があるが、力士にとっては緊張感も高い。2勝4敗の高砂部屋初日。
平成28年1月12日
今日から前相撲。近畿大学在学中の玉木一嗣磨(かずま)君は三重県伊勢市の出身。お父さんも近畿大学相撲部出身で、小学生の時から相撲を始め、高校は大阪へ出て近畿大学付属高校で。突き押し相撲を得意として、今年度の西日本体重別選手権(無差別級)で優勝して、12月の全日本選手権ではベスト16の実績。今日の初土俵でも得意の突き押しを炸裂させ圧勝。三段目、幕下、十両へと出世の階段を駆け上ってほしい。
平成28年1月13日
現在前相撲は一番取れば(勝っても負けても)、翌場所序ノ口に出世して番付に四股名が載る。序ノ口での順番を決める勝負にすぎない。現行制度になったのは昭和40年代後半からのようで、それまでは前相撲のあとに本中という段階があって、そこで勝ち抜かなければ序ノ口に上がれなかった。それゆえ、番付に四股名が載るまで1年2年かかることはザラで、番付に名前が載らないままに廃業する力士もかなりいたそう。朝山端、朝乃土佐、2連勝。朝弁慶、うれしい初日。
平成28年1月15日
“角界の風雲児”と呼ばれた初代高砂浦五郎は、千葉県東金の出身で江戸末期安政6年(1859)に21歳での入門。小島貞二氏の記事によると、当時は、「前相撲」から始まり「相中」「本中」とすすんで、ようやく「新序」となったという。東海の四股名だった初代高砂浦五郎は、初土俵から三年、本中の壁を超えられなかった。番付に名前が載らない本中力士は100人を超えていたという。朝天舞、危ない場面を2度残し我慢の3勝目。幕下復帰まであと2勝。
平成28年1月16日
十両の取組、今日は朝赤龍が先に東方から土俵に上がり4勝目。つづいて同じく東方から朝弁慶が土俵へ。勝った力士は次の力士に水をつけるので、勝った朝赤龍が朝弁慶に水つけ。初めての経験で、お互い胸に期するものがあったろうが、ふたり揃っての白星はならず。金指基『相撲大辞典』によると、仕切りに入る前に口をすすぎ身を清めるための水で、「力水」「清めの水」「化粧水」などと別称されるが、正式には「水」というとある。単に「水」が正式なのが相撲界らしくていい。
平成28年1月25日
15日間の満員御礼がつづき琴奨菊の10年ぶりの快挙に沸いた初場所。高砂部屋は、前半戦調子が上がらず苦戦の土俵がつづきました。その中で、朝赤龍は白星先行で9勝6敗の好成績。朝乃土佐の5連勝も光りました。中日まで2勝6敗と心配された朝弁慶、追い詰められてようやくエンジンがかかり7勝7敗までこぎつけました。負越したものの関取の座は確保です。足の怪我を完治させて15日間重戦車相撲をみたいものです。朝興貴が幕下復帰。近大相撲部朝玉木は三月場所で序ノ口デビュー。もう一人の近大相撲部石橋君は、三月場所三段目附出しデビューの予定です。
平成28年2月1日
1月28日付けの読売新聞で“巣鴨プリズン慰問場所”が紹介されていた。巣鴨プリズンとは、大戦後に戦犯容疑者が収容された拘置所で、昭和27年1月9日戦犯慰問大相撲が開催された。横綱審議委員会初代委員長酒井忠正氏の「相撲随筆」の記述と実際に訪れた元立呼出し米吉さんの証言を織り交ぜ当時の模様を振り返っている。戦犯10名から送られた感謝状や当日の割り(取組表)と共に、高砂部屋呼出し多賀之丞作の甚句『新生日本』の歌詞が掲載され、中央には大きく元幕内島錦、元小結国登、多賀之丞の高砂部屋3人衆の姿がある。
平成28年2月4日
前記紙面からつづく。酒井忠正氏の随筆「今迄笑顔に満ちた場内が水を打ったように、異様な厳粛さに圧せられた空気になってしまった。(中略)歌が終わると爆発したような拍手が鳴り止まない。荒木さん(元陸軍大将)の目には涙が光っている」米吉談話「それは相撲甚句だね。・・・戦争を経験した人が聞いたら誰だって泣くよ」「多賀之丞は三重の素人相撲から本職に入った人で、元は浪曲師。鬼瓦みたいな恐い顔してたけど声が素晴らしい。甚句を聞いた女は皆ほれてたよ。朗々とした声が巣鴨に響いたわけだ。声もいいし、節もいい、それでもって情緒がある。甚句ってのは60年、70年生きてきた、心のひだで歌うんだ。・・・」
平成28年2月8日
『夕刊フジ』で元大関朝潮高砂浦五郎「自伝」連載中。今日で6回目で、「見つけた武器」と題して、入門して一年、前頭筆頭に上がって9連敗、次の場所も、そのまた次の場所もと3場所連続の負越しで壁にぶつかったとき、出稽古に来た高望山(現高島親方)との稽古でひらめいた「ぶちかまし」の話。以後、部屋での稽古で立合いのぶちかましを磨いて壁を乗り越えていった。中央には、ぶちかましの激しさを物語る額から流血する写真。聞き手は、相撲記者歴が長い大見信昭氏。
平成28年2月13日
青森で女子相撲をがんばっている中学1年生ひなちゃんの将来の夢は相撲部屋のおかみさんになること。青森朝日放送の番組『夢はここから・・・』の収録で、高砂部屋に来て今日一日おかみさんのもとでおかみさん修業。はじめは緊張して固まっていたが、だんだんお相撲さんとも馴染んできて写真撮影では満面の笑み。さいごはイケメンな(ひなちゃん曰く)朝弁慶や朝山端に見送られ、名残惜しそうに青森へ
平成28年2月14日
『JAF Mate』は、JAF(一般社団法人日本自動車連盟)の機関誌で年10回発行。発行部数は何と12,002,900部。最新3月号の表紙を飾るのは、高砂部屋力士一同を後ろに従え軍配片手に勝負を捌く厳しいまなざしで正面を見据える十両格行司木村朝之助の雄姿。65ページには「表紙の人」と題して、記事と共に笑顔の朝之助や相撲字、稽古風景も紹介されている。今晩6時より都内ホテルにて朝赤龍結婚披露宴。
平成28年2月21日
大阪先発隊乗り込み。毎年のことながら師匠の大学の後輩の嶋川さんに迎えに来てもらって谷町9丁目宿舎久成寺(くじょうじ)入り。7~8人の先発隊なので車3台できてもらう。20数年嶋川さんは不動なれど一緒に来てくれる人は変動があり、今年は同級生に、仕事仲間、甥っ子という面々。昔朝之助が元大乃国の芝田山親方と見間違えたこともある嶋川さん。甥っ子も嶋川さんの血を引き継いで子供の頃大きくて師匠からしきりにスカウトされていたのを思い出した。大人になった今また迎えに来てもらうことにも歴史が感じられる。
平成28年2月22日
1年ぶりの大阪。谷町9丁目界隈も街並みに変わりはないが、毎年少しずつ変化はある。すぐ近くの弁当屋さんがなくなってしまった。チャンコ場の用意ができるまで先発中は毎日のようにお世話になっていただけに、痛い。宿舎のお寺さんから坂を下ったところにあった銭湯も2~3年前に閉めてしまった。これも痛かった。今年跡地を通ったら新築のマンションになっていた。ピカピカでお洒落なマンションだけにより寂しさを感じてしまう。交差点近くの焼肉屋も閉店している。誰も行ったことがない店だと思っていたが、朝達家が「ここまずかったっす」と言い、他の皆は無言で通り過ぎた。
平成28年2月24日
宿舎久成寺から徒歩2分の谷町九丁目駅地下街には昔ながらの居酒屋が何軒かあり今年も健在。中でも『盛じゅん』という焼鳥屋さんは、高砂部屋御用達といえるほど毎晩のように誰かしら行っているお店。地鳥の「せせり」「はらみ」「もも」の炭火焼にカツ、合間のごま油が効いたキュウリ漬け、「ももタタキ」「ナマレバ」に鍋。締めには「ユッケ丼」「地鳥の卵かけご飯」などなど。時に裏メニューまで出してくれる。今日の揚げ出汁餅も絶品だった。
平成28年2月28日
全員大阪へ乗り込み。毎年恒例ちゃんこ朝潮徳庵店での大阪高砂部屋後援会とのちゃんこ会。 近大相撲部から1月場所入門の朝玉木と3月場所三段目附出しデビューの石橋君、大阪泉大津市立東陽中学3年生の塩本君の3人も出席。今日から力士としての生活が始まる。もう一人入門予定の名古屋の高校3年生横道君は、3月1日の卒業式を終えて2日から合流。3月13日(日)初日の大阪春場所、明日が番付発表。
平成28年2月29日
3月春場所番付発表。1月場所東十両8枚目で9勝6敗だった朝赤龍東2枚目まで躍進。再入幕を狙える番付。朝弁慶は1枚落として12枚目。今場所こそ、関取として初の勝ちしを狙いたい。朝興貴が幕下復帰で、朝大門、朝森本が自己最高位。朝達家も自己最高位。
平成28年3月1日
春場所、久成寺にての稽古始め。近畿大学相撲部の2人朝玉木と石橋、大阪泉大津の中学生塩本の3人も黒マワシを締めて初稽古。まずは準備運動にぶつかり稽古程度。ちゃんこ番の手伝いや洗い物、稽古タオルの洗濯、掃除なども兄弟子に教わりながら相撲部屋24時間の生活がはじまっていく。名古屋の高校3年生横道は、今日が卒業式で明日から合流。新弟子が入ってくると部屋に活気が出てくる。
平成28年3月2日
大阪場所前毎年恒例の学生相撲出身力士激励会。高砂部屋から、近畿大学出身の師匠、若松親方、朝玉木、石橋と、琉球大学出身松田マネージャーが出席。現在学生相撲出身力士は幕内14名、十両7名を数え関取の3分の一近くを占める。幕下以下の力士も合わせると50名を超える大勢力。明後日3月5日土曜日が新弟子検査で正式入門となる石橋、今日初めて着物に袖を通し雪駄履きで歩き、満更でもない様子。2人共400名近いお客さまの前でカラオケもデビュー。
平成28年3月4日
3月場所が初土俵となる石橋は、富山市出身で高校は富山商業高校。富山県出身力士としては、明治に梅常陸時代を築いた第20代横綱2代目梅ケ谷藤太郎、最強横綱の声もある第22代横綱太刀山峰右衛門、小兵の名人関脇玉椿等、相撲史にその名を残す力士がいるが、現在番付に名前を載せているのは2力士のみ。そういう状況もあってか、地元の期待も高く、早速地元テレビ局が2社取材に。明日新弟子検査を受検して三段目附け出しとしてデビューする。
平成28年3月8日
3月5日(土)に新弟子検査が行なわれ、高砂部屋から受検の3人も無事合格。何度か紹介してる近大相撲部石橋広暉の他、名古屋市出身の高校3年生横道守、大阪泉大津東陽中学3年生の塩本直輝の3人。塩本直輝君は、小学生の頃から大阪場所の度に部屋に泊まりがけで来ていて宿舎久成寺での生活も慣れたもの。春場所3日目の3月15日(水)に卒業式を迎える。
平成28年3月10日
寒の戻りとなった大阪。数日前の暖かさがうそのようにお寺を冷気がつつみ込み、底冷えのする本堂。朝、寝間着から本堂の中にかけてある服に袖を通すと、冷たさが全身に沁みてくる。寒暖の差が激しいこの時期は体調を崩しやすく、“荒れる春場所”の一要因でもある。近大へ出稽古に行っていた数名も初日に向け明日からは部屋での調整稽古。明日金曜取組編成で明後日土曜日土俵祭。13日(日)初日の春場所は15日間満員御礼確実の前人気上々。ー浪速の春は大阪場所からー
平成28年3月13日
“荒れる春場所”の名の通り、横綱が相次ぎ敗れる波乱の初日。高砂部屋関取衆も黒星スタート。朝金井、朝山端は病気療養中のため休場。代わりに朝達家が朝弁慶の付人になり、支度部屋初デビュー。場所前に初めてちょん髷も結い、少しずつだがお相撲さんらしい雰囲気も感じられるようになってきた。三段目附出しデビューの石橋、明日同じく東農大出身の三段目附出し小柳(おやなぎ)との対戦。事実上の三段目優勝決定戦といえるのかもしれない。いや、三段目60枚目朝乃丈も秘かに優勝宣言していたから、わからないが・・・。
平成28年3月14日
今日から前相撲。すでに15日間売り切れ状態の大阪場所だが、肉親に限り前相撲は見学が出来る。地元大阪泉大津出身の朝塩本、両親が応援に来るが、対戦相手が近大相撲部出身力士で白星ならず。明日15日が中学校の卒業式のため、部屋に戻って洗いものやら掃除やら終わらせて実家に戻る。3月場所の前相撲は一日おきなので、明後日に初白星を目指す。もう一人朝横道は初土俵初白星。三段目附出し同士の決戦は小柳に軍配が上がり、石橋黒星スタート。勝つに越したことはないが、これから先の長い勝負人生の中では、単なる一敗にすぎない。負けた悔しさを糧に進んでいくだけのこと。朝弁慶も初白星。
平成28年3月16日
前相撲は、新弟子検査に合格した力士がA班とB班の2班に分かれて一日おきに相撲を取り、2勝すると出世披露となる。高砂部屋に2人はA班で、2日目からスタート。今日4日目が2回目の土俵。2日目黒星だった朝塩本、今日2連勝して一番出世決定。明日5日目に一番出世披露。2日目白星スタートだった朝横道は2勝目ならず。
平成28年3月18日
”暑さ寒さも彼岸まで”とはよく言ったもので、しとしとと雨に降られたものの冷え込みはすっかり和らいできた。谷町9丁目という大阪市のどまん中にある宿舎だが、大通りから一本入り、周りはお寺や公園に囲まれているため、ウグイスのさえずりも聞こえてくる。かと思うと、今朝は野良猫の盛り声が長々とつづいていた。春である。今日から中盤戦、前相撲朝横道2勝目を上げ、9日目に二番出世披露。
平成28年3月19日
大阪の道路は、南北が「筋」、東西が「通」という名称になっていて分かりやすい。高砂部屋宿舎である久成寺から程近い谷町九丁目交差点を西へ下っていくのが「千日前通」で、下ってすぐ日本橋(にっぽんばし)、難波となり、難波の交差点を左に曲がると大阪場所が開催されている府立体育館(今年からエディオンアリーナ大阪という名前に変わった)がすぐそこ。そのエディオンアリーナで朝玉木が今場所第一号の勝越し。石橋も万全の相撲で3勝目。朝ノ島も3勝目。大子錦に初日。
平成28年3月21日
南北に走る谷町筋を南へ下ると天王寺駅にぶつかる。天王寺駅の向こうに今旬の阿倍野ハルカスがそびえ立つ。阿倍野ハルカスは阿部野区になり、その阿倍野区松崎町出身なのが朝森本。1年前入門したとき130kgだったのに今年は150kgまで増量。地元だけに、体育会系の叔父さんも度々差し入れを持って部屋に訪ねてきてくれる。体重の増加ほど番付は上がっておらず、叔父さんもヤキモキしているようだが、勝越しに望みをつなぐ2勝目。
平成28年3月22日
宿舎のある谷町9丁目辺りは上町台地とよばれ、大阪発祥の地でもある。大阪湾を臨み南北に盛上った台地で、大阪城付近から住吉大社辺りまでつづいているという。その上町台地の西端を通るのが谷町筋で、上町台から坂を下った筋が松屋町(まっちゃまち)筋。谷町9丁目から天王寺まで、谷町筋と松屋町筋をつなぐ天王寺七坂があり、歴史散歩コースになっている。石橋、朝ノ島勝越し。朝玉木5連勝。
平成28年3月23日
天王寺七坂は、千日前通から生國魂(いくたま)神社に向かう真言坂に始まり、源聖寺坂、口縄坂とつづく。源聖寺坂を登り切った左右の寺には昭和30年代後半相撲部屋が密集していた。銀山寺に花籠部屋、齢延寺に三保ケ関、隆専寺に出羽海、菩提寺に春日野、圓通寺に伊勢ケ浜部屋と谷町筋に出るまで相撲部屋が軒を並べ、付近に小野川、高島、立浪部屋などもあった。さらに、愛染坂、清水坂、天神坂と石畳の坂がつづく。七坂目は、四天王寺西門に至る逢坂。坂の途中にある大きなお寺一心寺には初代高砂と所縁が深い大関綾瀬川のお墓がある。高校(近大付属高)大学(近大)と大阪の朝玉木六連勝。
平成28年3月24日
大関綾瀬川は大阪市中央区の出身(愛知県稲沢市という説もある)。大阪相撲の湊部屋に入門したのち江戸に出て第9代横綱秀ノ山の弟子となり明治元年入幕。姫路藩お抱えで相生と名乗ったが、維新後土佐藩お抱えになり綾瀬川と改名。そのことが初代高砂との刃傷沙汰騒動となる。初代高砂にとっては敵役だったが、相撲の実力は高く、「相撲じゃ陣幕、男じゃ綾瀬、ほどのよいのが朝日嶽」と謡われたほどイケメン力士でもあったようで、孫は大正・昭和の大女優栗島すみ子。石橋、朝ノ島共に5勝目。残り3日間。勝越し4人、負越し3人、合い星7人。
平成28年3月25日
序ノ口19枚目の朝玉木、序二段の全勝力士と対戦して勝ち7戦全勝での序ノ口優勝決定。三段目100枚目格附出し石橋は、まさかの2敗目。「負けて覚える相撲かな」というように、今場所の2敗をこれからの稽古や日々の生活に活かしていけばよい。明日が近畿大学卒業式。着物で出席とのこと。大子錦、まさかの3連敗4連勝での勝越し。場所前ギックリ腰をやり途中高らかに休場宣言までしていたのに、まさかの勝越し。朝乃丈も勝越して勝越し6人、負越し5人、あと一番で勝越しが、十両朝弁慶、朝興貴、朝森本の3力士。
平成28年3月27日
朝弁慶、十両3場所目にして初めての勝ち越し!難産の末の勝越しだけに部屋にもどってきたときは全身から喜びが溢れ出ていた。これで気を良くしてどんどん勝越しを重ねていけそうな気がするが・・・乞うご期待。梅田ヒルトンホテルにて千秋楽祝賀パーティー。大勢のお客様にお越し頂き、朝弁慶の勝越しと朝玉木序ノ口優勝で祝賀ムード満載。勝越し力士カラオケで新弟子の朝横道もカラオケ初土俵。カラオケで歌うこと自体初めての経験だそうだが、いきなり500名の大観衆を前にしての初カラオケ。これも力士ならではのこと。
平成28年3月31日
世話人の總登さんが3月30日午前10時15分敗血症のため亡くなられました。あまりにも突然のことで言葉を失ってしまいます。最後は安らかなお顔でご永眠されました。心よりご冥福をお祈りいたします。